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風よ遥かに叫べ - (2007/04/22 (日) 22:34:14) のソース

*風熱都市

題名:風熱都市
作者:香納諒一
発行:徳間書店 1994.07.31 初版
価格:\1,800 

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題名:風よ遥かに叫べ (「風熱都市」改題)
作者:香納諒一
発行:徳間文庫 2000.10 初版
価格:\800

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 『時よ夜の海に瞑れ』を引っ提げて新人作家・香納諒一がぼくらの前に登場した1992年、現在のインターネットほどには普及していなかったパソコン通信界(ネット)で、それでも熱い読者の集まる冒険小説とハードボイルド・フォーラムは、この新人作家の出現にひときわざわめき立ったものだ。

 粗削りだが、書きたいことをしっかりと見定めている印象が最初からあった。ハードボイルドを志す若手作家の登場は何よりも今後の和製ミステリー界に期待される貴重な萌芽であるように思えた。

 今でこそ大沢在昌・高村薫・花村萬月・船戸与一と、ぼくらの応援してきた人気作家たちが次々と書店の店頭を飾ってはいるものの、当時はノワールめいたジャンルはまだまだ流行らなかった。

 そんな背景のなかで香納諒一という作家は、世の量産作家たちに組することなく、寡作と言うべきペースで丁寧に書き下ろした長編作品を携えては、ぼくらのもとに回帰してきた。長編書き下ろしの二作目『石(チップ)の狩人』(文庫化に際し『さらば狩人』に改題)、三作目『春になれば君は』、そして四作目に当たる本書『風熱都市』と、彼が永い回遊を終えて我々の前に還ってくるたびに、作品の持つ面白さやスピード感がスケールアップしていた。それとともに香納諒一の名はぼくらの間で頻繁に囁かれるようになり、特定の読者層を確実に形成し始めていた。

 後に爆発的に香納諒一の名を高めることになった傑作『梟の拳』『幻の女』に至る直前、むしろ粗削りと言われた初期作品群にだって、実は後の傑作群への助走路とも言うべき読みごたえはしっかりと存在していた。そうした初期作品の掉尾を飾るのがこの『風熱都市』であり、成熟した傑作群の方向へとしなってゆくジャンプ台なのである。今にして思えば、それは力をたっぷりと貯えた強靭な発条であった。

 『風熱都市』は香納諒一のエッセンスが詰まった高密度の作品である。この作品が持つ特異な魅力の数々は、香納諒一のその後の歩みへと通じる路程標のようにも見える。

 何よりも、魅力ある多くのキャラクターたち。『ヨコハマ・ベイ・ブルース』の<あとがき>で作者自ら語っているように、香納諒一は自ら創造したキャラクターへの思い入れが極めて強い。もちろん読者にとってもそれは同じ思いである。香納作品はむしろキャラクター造形がすべてなのだと言ってしまって過言ではないと思う。

 本書では、主人公は野生を内に秘めた少年院上がりの若者だが、彼には灰色の日常から這い上がりたいという餓えがある。人物の餓えが行動の方向性を決定し、それらの恣意的なベクトルのぶつかり合いが、この作品に多くの対立したドラマを産み出してゆく。混み入ったストーリーを創り出す以前に行動目的の明確な人物がしっかりと設定されているからこそ、作品にドラマ性が成り立ち、しかも躊躇いのないスピード感が生まれているのだという気がする。

 だからこそ脇役の一人一人にまで作者の気が入っている。物語の中心を走るのは三人の男女だが、父への屈折した愛情ゆえに《調整》資金の強奪を企む温子にせよ、同胞の贖いに燃えるハッサンにせよ、行動を一にする彼らの餓え様はそれぞれにまるで違う。それは他のキャラクターのすべてにも言えることだ。

 たとえば、定年を間近にした老刑事・堂脇文彦は、キャリアゆえに年下の上司である森山や、事件の捜査権を競う本庁の山藤を相手取っての警察組織内での葛藤に加え、思うようにならない娘の素行を気にかけている罪悪感いっぱいの父親であり、それらの懊悩の数々が、抱えている未解決の事件への執念ともども、老刑事の肩に分厚い時間の重みとなってのしかかってゆく。

 ヤクザの情婦早苗に惚れ抜いた人間臭い中年駄目男の垂れこみ屋《徳さん》こと徳山順次は、冴えない外見とは不釣り合いながら、早苗との二人だけの幸福を夢見る一心で死地を潜り抜けてゆく。

 また、何より強烈に存在を際だたせているのが、一切の仮借を覚えることなく暴力に踏み切ることのできる《死神》であろう。修羅のような幼少世界から排出され、ヤクザ組織に壮絶な復讐鬼としての暗い情念を利用されてゆくうちに、人間の心を失っていったこの男の物語は、それだけでも十分に一篇の長編に値する。彼の行動は物語中でも重要なキーとなるし、ある時点でのその行動パターンの不条理な変化こそが彼を単なる殺人ロボットに終わらせず、最後の部分で人間の領域にとどまることによって、作品にある種の厚みが与えられている気がする。

 他にも本書は癖の強いキャラクターのオンパレードである。パキスタン人社会を裏で纏めているモズリム、ヤクザに食い物にされエイズで死んでゆくタイ娘のアチャリーや、彼女を助けようとして強奪事件に巻き込まれるパティ、裏社会における抗争の黒幕である康達寿などの存在は、現在の和製ノワール作品の台頭を予告するかのように当時の社会状況的リアリティと、都市に潜む闇深い部分への奥行きを窺わせるものがある。

 リアリティという意味では、この作家は地理的背景をも丹念に物語中に組み込んでゆく。舞台設定とは、そのまま時代描写に繋がるハードボイルドの命とも言える。刻々と移り変わる場所の設定をもリアリズムとして楽しめることは、こうした物語の重要な要素であろう。

 『時よ夜の海に瞑れ』では兵庫周辺から淡路島への旅程を、『さらば狩人』では秋田のマタギの里にクライマックスを用意した香納諒一。本書ではアクションのほとんどを何とも地味な埼玉県を舞台に進行させている。埼玉育ちのぼくには、作中で舞台とされた各場所にいちいち土地鑑があるのだが、リアリティを損うことなく舞台設定の一つ一つにまで心配りを施した作品への周到な用意の良さが最後まで感じられ、感嘆のため息を洩らすばかりだった。

 日本を舞台にしながら国際的な組織犯罪を描いてゆく本書は、またスケールの点でも群を抜いている。北大西洋上の謎の海難事故。美術商殺しに纏わる冤罪裁判。殺された潜入警察官。多くの暴力が社会の弱者を食らいつくしている影多き時代を背景に、火薬や銃弾量の多寡によってではなく、人間たちの行動目的の衝突によって糾われてゆくアクションの集積。複数の謎が絡まり合った錯綜の回路。娯楽小説のワインディング・ロードをひたすら疾走する香納諒一世界のエッセンスの数々を、とくとご賞味あれ。

(2000.8.29 徳間文庫『風よ遥かに叫べ』巻末解説)