テッサ

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テッサ - (2013/03/08 (金) 16:24:42) の最新版との変更点

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&setpagename(テッサ Thessa) #image(thessa.gif) **ベルテン説話集 *** 第一章 「私たちは、スケルスの森で木の葉の下に踊りました。神様は森の真ん中に居ながら、人々が渡り歩く木々の枝や、羽を伸ばすための大地や、私たちを育んでくれる風や雨でもありました。神様の目を逃れた病や死が私たちを捉えることはありませんでした。」 「それは誰も死なないということではありません。私たちの寿命はとても長いものの、永遠というわけではないのです。いつかは魂が次の場所へと旅立つために、その身を横たえることになるでしょう。しかし悪意や事故で死ぬ者は決していませんでした。枝から枝へと跳び移る子供はスケルスから身軽さの祝福を受け、それどころか枝を掴み損ねたりしないよう枝自身が動いてくれることに気付いたでしょう。スケルスの大いなる愛情を示すように、森は私たちをいたわってくれたのです。」 エルフの子供たちは語り部の近くへと集まりました。人々は未だ森との間に結ばれた絆の震えを感じ取ることができましたが、彼らの知る森は、竜の時代のそれと比べればまるで墓標のようでした。エルフたちは依然として森に対する深い畏敬の念を抱いていましたが、森の魂は既に消え去っていました。 「さあ子供たち、今夜はどんなお話を聞きたいのかな?」 大きな返事が一斉に返され、語り部はその中のひとつに驚いて子供たちを押しとどめました。 「黒の鏡だって? それがどんなお話か知ってるのかな、ケウェリン坊や。」 その男の子は恥ずかしそうに笑いました。「お父さんが言ってたんだ。マラキムの人は、ガラスの海から神さまの声を聞くんだって。その海を覗き込めば、誰でも祝福を受けて徳が高くなるんだよ。でも地獄にあるやつは反対のことが起きるんだって。」 「そうとも、坊やのお父さんが言ったような鏡が、昔にはあったんだ。でも今はもう壊れてしまったんだよ。最初の時代を思い出してごらん。私たちがスケルスの腕に抱かれ、心優しいアイフォンたちがダナリンの海に暮らし、残りの世界では戦争が起こっていた頃だ。私たちの土地は、岩が転がり落ちる広大な山々や、戦禍に引き裂かれた平原や、そして海と接していたんだ。その中では海だけが心配の要らない旅路だった。他の地域を探検しようという者はごく僅かで、誰も帰ってくることはなかった。」 「その頃ケルヌンノスは私たちと共にいて、そのうえエルフ族から三人の妻を迎えていたんだ。妻たちはそれぞれに子をなし、男の子供には生まれつき父親と同じ角と蹄があった。子供たちはリョースアールヴの中でも力のある戦士となって、いつも力比べの試合をしていたのさ。中でも一番はガワーといった。」 「息子たちはとても強かったけど、それはあくまで森に住む者たちや、ときおり訪れるアイフォン族の旅人と比べての話だった。そして自分たちは無敵なんだと信じていたんだ。彼らは森に面した平原で戦いを繰り広げる、神々の巨大な獣を眺めながら、自分もその戦いに加わりたいと胸を焦がす日々を送っていたんだ。その日、ガワーは山の向こう側に何が広がっているのかを確かめようと、スケルスの掟を破って森を後にしたんだ。」 突き進むサテュロスに木々が枝を伸ばし、根っこや下草が蹄に絡みつきましたが、地面から草木を引きちぎってでも彼は突き進みました。背後の兄弟たちが戻って来いと叫び、警告を発する木々のざわめきは森の中心部にまで広がりました。それでもガワーは進みました。 森の縁から岩だらけの斜面へ転がり出ると、まるで全く別の世界を訪れたかのような感覚でした。彼はもはやスケルスの御力が及ぶ範囲にいるわけではなく、その違いはすぐにわかりました。森はこれまで彼に愛情を注いで育んでくれた、生まれたときから共にある存在でした。しかし今足元に転がるごつごつした石からは何も感じ取れませんでした。横手には森が口をあけて、まるで胎児を抱く子宮のように彼の戻りを手招きしていました。しかしガワーは邁進しました。 森の中の風は木々の織り成す天蓋に音色を奏でますが、この地の風は山に向かって吠え猛るのでした。戦場で目にした、戦いを繰り広げる巨大な獣の鼻息でさえ、これほど強くはないだろうと思えました。高みへ登るにつれて風はますます強さを増し、その向きを変えました。 ここではあらゆるものが危険のようでした。森にいた頃は兄弟たちの中でも一番の力持ちで、折り曲げたり、砕いたり、押しのけたりできない物などありませんでした。しかしここでは急峻な山腹に沿って滑り落ちれば、蹄は石に削られ、肌は引き裂かれるのでした。ときおり山が震えて岩が雨のように降り注ぎました。あるとき、そうした岩崩れが起きて肩を深く切り裂かれました。血を流すのは初めてではなく、兄弟たちとの力比べでは互いに怪我をするのも珍しいことではありませんでした。しかし森の庇護のもとではそれくらいの怪我がせいぜいで、一方この地ではその程度の傷は怪我の内にも入らないのでした。 道半ばで立ち止まると、ずっと昔に登ったこともある、森で一番高い樹を見てみようと背後に目を向けました。眼下にはエメラルドに輝くスケルスの大地を、その先には深い青色を湛えた海を見渡すことができました。西の方角には山脈が続き、東の方角には、これまで何度も戦いを目にしてきた、戦禍に刻まれる平原が広がっていました。まさに今、巨大な岩でできた楔にも似た空飛ぶ砦が、平原の上空に浮かんでいました。岩には守りを固める外装や紋章が刻み込まれ、周りには翼の生えた怪物たちがまるで暗雲のように群がっていました。砦が山脈に近づくと、巨人たちが地面から身を起こし、空飛ぶ砦に向かって岩を投げつけ始めました。激突、襲い掛かる飛行生物の大群、ほとんど砦の高さにまで持ち上げられて地面へと落とされる巨人。 しかし砦は叩き付けられる岩にびくともせず、地面から巨人を持ち上げるほどの力を持った飛行生物もほんの僅かでした。戦いはガワーが山を登ってから何時間も続きましたが、どちらの陣営もほとんど戦果を上げることはできませんでした。夜になると、砦を打ち据える岩の音も、いずれの陣営が発する戦いの叫びも、次第に聞こえなくなっていきました。月が低く海の上にかかり、しかし星々は灰色のもやで良く見えませんでした。 ガワーが山の頂上まで辿り着くと、もやの正体がわかりました。山の向こう側は燃えていました。赤熱する大河がまるで血のように流れ出し、山肌に崩落した穴や山頂からは苦悶の煙が噴き出ていました。 「それが戦争の代償なのだ。」 一人の天使が山頂の陰に座っていました。老齢で屈強な体躯をしており、頭にはオパールで飾られた黄金の冠が載っていました。 「なにがあったのです?」ガワーは突然の相手に警戒しながらも、好奇心から尋ねました。 「キルモフの領土が襲われたのだよ。ここはかつて大きな目をしたカルクルペクと厄介者の地リスたちで溢れる美しい谷だった。今や灰と砕けた岩が残るのみだ。」 ガワーは天使の傍らに置かれている長い槍に気付きました。穂先には旗を結び付けるための環が備わっていましたが、そこに旗はありませんでした。 「あなたは誰なんですか?」とガワーが問いました。 「かつては希望を担う勇者であった。だがそれも過ぎて久しい。今やこの大いなる戦争が生んだ、もう一方の犠牲者に過ぎぬ。」 それからようやく天使は振り返り、ガワーに意識を向けました。その眼差しにガワーは居心地の悪さを感じました。天使に見透かされているような気がして、ガワーは自分から名乗りを上げました。 「俺はガワーといいます。スケルスの領分からやってきました。」 「おお、ガワーよ。戦いに加わり、戦いを終わらせるためにやってきたというのか?」 ガワーはその質問について良く考えました。彼が本当に欲したのは、ただ山の反対側に何があるのかを知り、おそらくは平原で戦うのを目にした獣を相手に力試しをしたいというだけでした。しかしこの破壊は、これほどの戦争は彼に衝撃を与えました。 「俺は戦うつもりでいました。しかし今は、神々の争いに距離を置いたスケルスの正しさを理解できます。この地にある苦しみは余りにも大きすぎる。」 天使は微笑みました。ガワーは自分の答えに満足したのだと思いましたが、本当のところは、そのサテュロスの無垢なる幼さを笑っただけでした。 「この戦いを終わらせることはできるとも。だがそれは話し合いを通してではない。ただ更なる苦しみを通してだけなのだ。世界そのものが震え、天使のことごとくが戦えばこそ、平和のほかに道はなくなるだろう。」 天使はそう語ると、立ち上がって黄金の翼を広げました。ガワーは森の中枢でスケルスの御姿を何度も目にしたことがありましたが、この天使の纏う荘厳な気配は自然の神にも匹敵するものでした。 「そんなことにはならない、」とガワーが答えました。「スケルスは決してこの戦争に加わったりしないだろう。」 「ああ、そうだろうとも。」 ***第二章 雄々しき角のケルヌンノスは、木々の囁きに目を覚ましました。木々たちは、彼の息子であるガワーのことを話していました。ガワーは森の庇護のもとから立ち去ったのです。彼はすぐさま立ち上がると、森の中を駆け出しました。すれ違うリョースアールヴたちは目を瞠り、木々たちの言葉を聞くこともできぬまま、スケルスの最も偉大な大天使が激昂するさまを震え上がって見つめました。 「あ奴はいずこへ向かったのか? 我が息子はどうしたのだ?」 返答が合唱するように取り囲みました。「山の中へ…」「他のご子息たちは森の縁でお待ちです…」「ガワーは行ってしまいました…」 とても落ち付いてなどいられませんでしたが、ケルヌンノスは走りながらすぐ隣にスケルスの存在を感じ、平静を取り戻しました。 「なぜお止めになられなかったのか?」 スケルスは自分の大天使へと直に語りかけ、その声は大天使の中に響き渡りました。「ここは牢獄ではないのだ、我が子よ。ガワーは自らの意志で森を後にした。後を追ってはならぬ。」 ケルヌンノスはその言葉の正しさを知っていましたが、返事を拒みました。数分の後、他の息子たちがいる森の縁へと辿り着くと、息子たちはガワーに向かって戻ってくるよう叫んでいました。ガワーはちょうど山を登り始めたばかりで、森の終わりからは数百ヤードも離れていませんでした。ケルヌンノスは立ち止まり、森の深部まで戻るよう他の息子たちへ命じましたが、そう告げるまでもなく、彼らはその剣幕に恐れをなして森の中へと逃げ帰りました。 ケルヌンノスは森の縁から叫びました。響き渡る声が山に木霊し、森にいるあらゆる者の耳にも届きましたが、ガワーはまるで聞こえていないかのように登り続けました。苛立ったケルヌンノスは一本の樹をもぎ取り、それを地面に叩き付けました。その一撃に山腹が震え、落石が森の中にまで転がり、山を登っていたガワーは転倒しました。それでも彼は振り向くことさえしませんでした。 ますますいきり立ったケルヌンノスは、森まで転がってきた落石の一つ拾い上げると、それを息子に向かって投げつけました。石はガワーの肩に当たり、痛みのあまり崩れ落ちました。しかしゆっくりと立ち上がると、ただ山を見上げていっそう足を早めるのでした。 ケルヌンノスは振り返り、森の中枢を伺いました。木の根と枝で編み上げられた大いなる部屋――スケルスは自らの居所から動いてはいませんでした。しかしその魂はすぐここに、森の縁に在りました。「お許しあれ。」ケルヌンノスはただそう呟くと、山腹の上へと跳び出しました。 岩だらけの斜面に着地すると、ケルヌンノスは初めてスケルスの守護が遠ざかるのを感じました。身体が震え、まるで魂が引き抜かれるかのような感覚でした。ただ目の前の坂を這い登る長男を思う一心が、彼に前へ進むことを許しました。ケルヌンノスは身を起こすと、もう一度ガワーの名前を叫びました。[NEWLINE]   前方に影が舞い降りました。ケルヌンノスはその姿を見て絶望の神に気付き、アガレスが息子との間に降り立ったことで青ざめました。 「大天使の中でも、貴様のことは前々から気に入っておったのだ。果たして世に言われるような力量を備えておるのであろうな?」 アガレスは漆黒と黄金の炎を身にまとい、美しくも恐ろしい姿で屹立しました。大槍が頭上に掲げられ、六枚の翼が一杯に広がって、息子を追うケルヌンノスの視線を遮っていました。 ケルヌンノスは言葉を口に出すために力を振り絞りました。「我は息子を取り戻すのみ。貴様と争う故もなし。」 「息子が欲しくば、」とアガレスが笑いました。「来るがいい、奪ってみせよ。」 ケルヌンノスは身をかがめると、衝撃に備えて肩を漲らせ、前方へ向けて突進しました。これまで誰一人としてこの突撃に耐えられた者はおらず、しかし神に戦いを挑むのも初めてのことでした。 激突の直前、一枚の羽根がアガレスの翼から抜け落ちました。それはケルヌンノスの背中へと舞い降り、突進する大天使を地面へ引き倒しました。不可逆を司る神を前にして、彼は背中に一枚の羽根を貼り付かせたまま俯せに倒れました。足掻けば足掻くほど両腕は地面へ埋まり、下敷きとなった岩は砕けて立ち上がることができませんでした。 アガレスはケルヌンノスの傍らで膝をつきました。「次はお前にとっても、もっとましな結果になるかもしれんぞ。」そう言ってアガレスは上空へと飛び立ち、過ぎ去る影がケルヌンノスの上を横切りました。 ケルヌンノスはその日の残りを羽根の重さの下で奮闘することになりました。太陽がついに稜線の下へと沈み、ケルヌンノスが山の織りなす影に飲み込まれると、山腹に沿って肌寒い風が吹いてきました。かろうじて髪が乱れる程度のそよ風が羽根を捉え、羽根は大儀そうに輪を描いてから滑り落ち、森の縁まで飛ばされてから動きを止めました。 すでにケルヌンノスはその場にいませんでした。山を駆け上がる蹄の一歩一歩が、まるで落雷のように山を震わせました。立ち上がって山を見渡すと、山頂にガワーの輪郭を見て取ることができました。ケルヌンノスは息子の辿る運命に恐怖を抱いていましたが、刹那の希望を見い出しました。もしかすると間に合うのかもしれないという希望。アガレスとの遭遇はガワーとは関わりないことだったのだという希望。果たしてアガレスが山頂にいるガワーの隣に姿を現し、希望は潰えました。 ケルヌンノスは絶叫しました。その恐怖に満ちた叫びは山に木霊し、下方の森にまで届きました。リョースアールヴたちは悲痛に咽び、ケルヌンノスの他の息子たちは父親の叫びに倣いました。 アガレスは手を伸ばして、ガワーの首を掴みました。サテュロスは神の力で喉を握り締められ、どうしようもなく手足をばたつかせました。筋肉が張り詰めて真っ赤になり、四肢が痙攣しました。アガレスはもう一方の手を振って転移門を開きました。その先には、灰と汚泥の黒い海とで満たされた暗闇の世界が広がっていました。大地が灰燼へと帰した、ひとつの世界の残骸でした。そしてアガレスはガワーを連れて転移門の向こう側へと消えました。 頂上に着くと同時に転移門が閉じ始めました。ケルヌンノスは少しの迷いもなく飛び込みました。 森を後にしたとき、ケルヌンノスはスケルスとの繋がりを失いました。それなのに、失ってみて初めて彼は、さまざまな神との繋がりがあったことに気付いたのでした。激情のバアル、愛に溢れるシロナ、用心深いユーニル。すべてが彼の魂に係わりを持ち、息子を助け出さんと森の外へと駆り立てたのでした。しかしこの世界からは神々の声がまったく欠けていました。ここに残るのは、ただ一柱の神――絶望の神、アガレスだけでした。 この世界は見渡す限りのすべてが灰でした。空はまったくの空虚で、虚ろな空を写し取ったかのような海へと暗い河が流れ込むのを見たにもかかわらず、今はそれを見つけることができませんでした。しかしケルヌンノスは無力な存在などではありませんでした。いやしくも彼は自然の大天使なのであり、灰色の大地へ手を伸ばすと、生き物の反応を探りました。強さと、成長や変化の源となる温かさを伴った何者か。世界のすべてが死に絶えてしまったなど考えられないことでした。 そして彼は、この打ち捨てられた世界にあって唯一の生命を探り当てました。息子は奈落へと引きずり込まれつつありました。ガワーはかろうじて生きてはいましたが、ぞっとする程の苦しみの中にいました。ガワーの側も初めてケルヌンノスの気配を感じ取り、声の限りに父親の名前を呼びました。 ケルヌンノスは立ち上がり、再び移動を始めました。果てしない灰色を横切るように、この空っぽな世界に唯一響く彼の呼吸音と、灰に刻まれる足跡が背後に残されました。彼は息子の叫びを追って、巨大な奈落の穴まで辿り着きました。奈落の中央には御影石の島が浮かび、眼下の暗闇へと灰が砂のように絶え間なく降り続けていました。アガレスはその島に、捕えたガワーと共に立っていました。 ケルヌンノスは跳躍しました。まるで鳥のように広がる奈落の上を飛び、それと同時にガワーの叫びを耳にしました。跳躍の半ばで、アガレスは若いサテュロスの首を締め上げ、そしてサテュロスは死にました。ガワーの魂は宙に漂い、永遠の故郷へと導いてくれるスケルスの呼び声を待ち望みましたが、代わりにアガレスが腕を伸ばして、サテュロスの魂を一呑みにしてしまいました。 ケルヌンノスは奈落に浮かぶ島の側面に激突しました。絶望の中で息子の名前を叫びながら壁をよじ登り、島の縁を跨いで最上部へと至りました。 アガレスは平坦な御影石の上にただ独り立っていました。ガワーの潰れた身体を足元へ無造作に放ると、ケルヌンノスが突進してきました。アガレスは憤怒に燃える大天使を迎え撃つべく手を伸ばし、激突の衝撃に世界のすべてが震えました。アガレスはこの世界の中心であり、その場から一歩も退かせることはできませんでした。しかしケルヌンノスの一撃はあまりにも強力で、周りを取り巻く世界のほうが動いたのでした。もっとも深い地獄の表面に大きな裂け目が口を開け、失われた大空洞にいくつもの河が押し寄せました。そしてアガレスは、並外れたケルヌンノスの前に膝をついて倒れました。 アガレスは、角の衝撃に凹んだ漆黒と黄金の胸当てを見下ろしました。これまでに受けたことがある中でも最強に属する一撃でした。しかし神として、大天使の攻撃に倒れるつもりはありませんでした。 アガレスは全ての力でケルヌンノスに組み付きました。大槍も忘れ、獣のような角の巨人へ襲いかかりました。漆黒と黄金の炎が両者を包むと、ケルヌンノスは燃え上がり、灼熱の痛みは身体だけではなく魂そのものをも苛みました。アガレスの力の前に、心も体も挫けつつありました。アガレスはケルヌンノスの頭を掴んで、滑らかに磨き上げられた島の床に押し付けました。そこは黒々とした完璧なまでの鏡面であり、ケルヌンノスが受けている痛みと苦悶を余す所なく映し出していました。 「大天使の中でも、貴様のことは前々から気に入っておったのだ。」とアガレスが囁きました。 黒の鏡の中で、ケルヌンノスの写し身が身悶えしながら叫びました。それはケルヌンノスのあらゆる特徴を再現していましたが、本物が持つ土と緑の色ではなく、黒と赤とを基調にしていました。戦慄の中で見つめていると、写し身は鏡の表面へと手を伸ばし、こちら側へと這い出てきました。ケルヌンノスの暗黒面ともいえる存在が、アガレスに組み敷かれた本体を横目で睨め付けながら立っていました。 自分の新たなる創造に満足すると、アガレスはケルヌンノスの喉元に手をかけて締め上げました。ケルヌンノスの視界では世界が渦を巻き、生命力を吸い取られる感覚に襲われると、アガレスが魂を味わう準備を整えているのだと悟りました。 大気を引き裂くような雷撃が島を揺るがしました。アガレスは苦痛に呻いてケルヌンノスから手を離しました。さらなる一撃がアガレスの胸当てを砕き、神をより後方へと退かせました。ケルヌンノスの捩れた写し身が突進してきましたが、鹿の蹄がそれを捉えて島の外側まで蹴り飛ばし、写し身は奈落の底へ落ちていきました。スケルスが、自らのすべての栄光にかけて怒れる神が、島の中央に立っていました。彼はケルヌンノスを見下ろしましたが、その視線は黒の鏡に据えられていました。 ケルヌンノスは直ちに何が起こったのかを把握し、渾身の力を込めて拳を鏡に叩きつけると、鏡は粉々に砕けて周囲へ飛び散りました。大いなる鏡の破片はその場にいた者たちへ降り注ぎ、アガレスは怒りの咆哮を上げました。ケルヌンノスは破片を拾い上げて絶望の神へ投げつけようとしましたが、スケルスは彼を掴み上げ、そして灰色に荒廃したアガレスの地獄は足元から消え去りました。 森に戻ると、スケルスはあらゆる植物や動物たちを招集し、来たるべき戦いに備えるよう命じました。スケルスの影響力が全速力で森を掌握すると、すでにアガレスの穢れが森じゅうに蔓延していることを察知できました。森は捻じ曲がり、腐り落ちていました。草木はしおれ、動物たちは病を患って逃げ出し、行く先々に病気を撒き散らしました。 ケルヌンノスはリョースアールヴを編制し始めました。人々はこれまで戦など知りませんでしたが、それは目前にまで迫っていました。ある若い彫刻家が、まだケルヌンノスの手に握られていた黒の鏡の破片を覗き込みました。彼女は凍りつき、鏡に釘付けになりました。幽霊のような写し身が隣に現れ、写し身はしかし悪意と残忍さに満ちていました。ケルヌンノスは巨大な拳で写し身を粉砕すると、破片の表面を伏せてそのエルフに手渡しました。 「これを封印すべし。決して誰の目にも触れさせてはならぬ。」 彼女は破片を受け取ると、直ちに使命を果たすべく駆け出しました。戦いが迫ってはいましたが、その前にケルヌンノスには果たさなければならない役目が残っていました。 彼は赤柏の下にある我が家へと戻りました。外ではガワーの母親が待っていました。何も告げる必要はありませんでした。彼が近づくと、母親は頭を抱えて泣き崩れました。 子供たちは物語に引き込まれたまま座っていました。攻撃のたびに瞳は大きく見開かれ、打ち倒されるたびに身を震わせて悲しみました。 「次はどうなったの?」とケウェリンが尋ねました。 語り部はその問いかけに思案しました。 「めでたしめでたし、と言えたら良かったんだけど、ところがなかなか厄介なことになってしまったんだ。スケルスとダナリンが神々の大戦に加わると、続く数週間のうちに創造界は滅びる寸前まで行ってしまったんだ。幸いにもそうなることはなく、神々は協力して盟約を作り、創造界からはいなくなるという話し合いをしたのさ。そうした結末はすべて、ガワーから始まったことなんだよ。」[NEWLINE]   「スケルスはガワーを助けてくれたの?」 「いや、そうはならなかっただろうね。でもケルヌンノスを崇める国々は、彼に愛された息子を記念して、ベルテン祭で格闘の試合を奉納するんだ。そして今日に至るまで、ケルヌンノスの遠い子孫であるサテュロスたちは、大いなる父祖を崇めるどんな国へも味方してくれるのさ。」 語り部はそこで小休止しました。ベルテン祭まではあとほんの数夜しかなく、そうした試合は単に技を競うだけのものではないのだということを子供たちが理解してくれればいいと彼は願いました。 「でも、今夜はもう遅い。このお話の続きは、別の夜を待たないといけないよ。」 語り部がそう言って笑うと、子供たちは不服そうに、もう少しだけお話してとせがみました。しかし最後には語り部の言うことを聞いて、それぞれの寝床へと向かいました。戦う神々や、ケルヌンノスと愛された息子に出会える、夢の中へと。 ベルテン説話集: 第三章[\LINK][NEWLINE][LINK=BUILDING_MAGE_GUILD] ベルテン説話集: 第四章[\LINK][NEWLINE] ベルテン説話集: 第五章 初めてデヴォンを見掛けたとき、テッサはまだ40の夏を過ごしただけの少女にすぎませんでした。彼が下の小道を歩いて来たとき、彼女は一本の古代樹の枝に腰掛けていました。彼の母親はたいそう美しく、天使が恋に落ちたと言われていることを彼女は耳にしていました。デヴォンはその二人の間に授かった子供であり、普通のエルフよりもひときわ優秀で気品に溢れていました。[NEWLINE]   より間近で姿を見ようとテッサが枝から身を乗り出すと、デヴォンは視線を上に向けて彼女の目をまっすぐに見つめました。テッサはびっくりして枝を掴む力を失い、真下の下生えに転がり落ちました。倒れ込んで茫然自失となりましたが、それが落下の衝撃によるものなのか、決まりの悪い恥ずかしさによるものなのか、はっきりとは分かりませんでした。やさしい手が彼女の手を掴み、穏やかな動作で助け起こされました。[NEWLINE]   「気をつけるんだね、お嬢ちゃん。枝の上はうっかりさんには危ないよ。特に、気を取られてしまう人にはね……別のどこかに。」と、彼は微笑みました。その微笑みは後に、彼女の最も大切な思い出の宝物として数えられました。[NEWLINE]   テッサは、エヴァーモアでも屈指の魔術師として成長しました。若い頃は、ほとんどの訓練で他の生徒たちを上回り、ときには教師さえも凌駕するほどでした。一度など、楢(なら)の樹を地面で拾ったどんぐりの状態から夜通しかけてどうにか成木にまで成長させ、力を使い果たして数日間意識不明になったほどでした。[NEWLINE]   たったひとつの事件だけが、教師たちの評価を曇らせました。彼女は一度、屍霊術の魔道書を読んでいるところを見つかったことがありました。その魔道書はずっと以前にカラビムから盗まれたもので、高位の魔術師たちのほとんどは、それをとっくに破棄されたものか、少なくとも厳重に封印されたものと思い込んでいました。その魔道書は直ちに没収され、そしてその年若き少女には、それ以上禁忌の呪文を学ぼうとする様子は確かに見られませんでした。テッサはそのように自分自身が才能に溢れる勤勉な学生であることを証明したので、その事件のことは間もなく忘れ去られました。[NEWLINE]   正式な教育課程を修了すると、彼女には大魔道の地位が用意され、強い責任感に駆られて彼女はそれを拝命しました。まったく別の、何よりも差し迫った望みがあったにもかかわらず。[NEWLINE]   ベルテン祭で、彼女とデヴォンは夜を踊り明かしました。一枚の金の羽で飾られたテッサの長い黒髪が、エルフの歌声とフルートの音色に合わせて翻りました。村は踊りに沸き、木々と星明りの下で楽しみに明け暮れました。彼女の人生の中で、最も輝かしい夜でした。[NEWLINE]   エルフたちの平穏な森に災厄が訪れました。斥候たちが恐ろしい報告と共に国境近くの地からやってきました。それは侵入してくる敵軍ではなく、もっと不吉な何かでした。奇妙な腐敗が現れ始めました。草はしおれて枯れ果て、それよりも丈夫な植物は茎や幹を捩れさせ、種と共に更に遠くまで腐敗を広げる膿で満たされました。動物たちが死に絶え始める前になんとかしなければならず、当然の成り行きとして、ある大魔道に助けが求められました。[NEWLINE]   テッサは喜んで任務を引き受けました。その頃には、そうすることが常となっていました。彼女自身の著しい魔力は、どんな仕事を引き受けようとも、簡単に片付けてしまえるように思えました。しかし腐敗は、彼女にとってさえ手に余るものだとわかりました。最も強力な浄化の呪文でさえ、狭い範囲に一時的な安寧をもたらすだけで、あとには数日にも渡る疲労が残されました。そうして腐敗は自由に広がるままにされ、それはゆっくりと森の中心部へと、そしてエヴァーモアへと忍び寄ってゆきました。[NEWLINE]   デヴォンは彼女との結婚を望みました。彼はベルテン祭で、その意志を打ち明けました。彼女は日増しに募る彼の焦りを感じ取ることができました。木々たちの緩やかな荒廃を止める術を考えることに心を奪われながらも、彼女はついに身を任せました。ふたりの家族は、大魔道と天使族が神の名のもとに結ばれる、壮大な祝宴の準備を始めました。[NEWLINE]   その一方で、テッサは森に働く不可解な力との勝ち目のない戦いを続けていました。彼女は穢れの源に向けて進みましたが、その発端となる場所を突き止めることはできませんでした。それは多くの場所で同時に発生したように見えました。そして彼女は、なんらかの悪意を持った魔術師が、彼女のふるさとに強力な不可逆の呪文を施したのではないかと疑いました。彼女は里に戻る途中で、二匹の鹿が横たわって死んでいる広場を見つけました。その死体は吐き気を催させるような黒紫色に染まっていました。絶望に暮れて灰色の大地に座り込むと、しかし突然、恐ろしいまでの考えが脳裏に閃きました。[NEWLINE]   彼女はこの地で失われてきた命について深く悲しみ、そしてこれから失われるであろう命について嘆きました。[NEWLINE]   結婚式の披露宴は本当に素晴らしいものでした。異国の果物と上物の葡萄酒による宴がありました。巧緻を極めた沢山の演奏家がいました。歌と踊りがありました。テッサは催しの間、妙に気もそぞろな様子でした。しかし招待客のほとんどは、彼女の新郎がそうであるように、働き過ぎによる心労が原因だろうと思い込みました。夜も更けると、招待客たちは赤柏の巨木の周りに設えられた広場から退散しました。エルフのしきたりに従い、婚姻の仕上げとなる初夜の儀式を執り行う場所に、新婚の二人が残されました。[NEWLINE]   そうして二人はその場に立ちました。デヴォンの瞳は喜びと期待に輝き、テッサはとても彼を見ていられなくなりました。それでも彼女は無理に微笑み、穏やかに彼を引き寄せました。デヴォンは彼女に囚われるあまり、光の宿らぬ目や、そこに溢れ出した涙に気付きませんでした。彼は口付けを求め、しかし彼女は身体を押しのけ、最後に彼の目を見つめて優しく囁きました。[NEWLINE]   「ごめんなさい。」[NEWLINE]   デヴォンが答える間もなく、彼女はドレスの中に忍ばせた儀式用の短剣を取り出し、その森で何百年ものあいだ聞くことがなかった不可解な呪文を呟いて、短剣を彼の心臓へと突き立てました。その呪文はデヴォンの身体から神なる魂を吸い取り、彼女自身の魔力へと変えました。そんな膨大な魔力に満たされながら、彼女は浄化の呪文を解き放ちました。衝撃波がその広場を中心に拡がり、澱みを一掃するかのように、大気や大地や木々のあいだを流れました。そして森は癒されました。[NEWLINE]   夜が明けました。青々と茂り、生命に満ちた森を太陽が明るく照らしました。広場の亡骸と、その傍らにうずくまり、頭を抱えて涙に暮れる女性を除いた、すべてを。
&setpagename(テッサ Thessa) #pc(){ #image(thessa.gif) } #mobile(){ #image(thessa50.gif) } [[ベルテン説話集:第一章]] [[ベルテン説話集:第二章]] [[ベルテン説話集:第三章]] [[ベルテン説話集:第四章]] **ベルテン説話集:第五章 初めてデヴォンを見掛けたとき、テッサはまだ40の夏を過ごしただけの少女にすぎませんでした。彼が下の小道を歩いて来たとき、彼女は一本の古代樹の枝に腰掛けていました。彼の母親はたいそう美しく、天使が恋に落ちたと言われていることを彼女は耳にしていました。デヴォンはその二人の間に授かった子供であり、普通のエルフよりもひときわ優秀で気品に溢れていました。 より間近で姿を見ようとテッサが枝から身を乗り出すと、デヴォンは視線を上に向けて彼女の目をまっすぐに見つめました。テッサはびっくりして枝を掴む力を失い、真下の下生えに転がり落ちました。倒れ込んで茫然自失となりましたが、それが落下の衝撃によるものなのか、決まりの悪い恥ずかしさによるものなのか、はっきりとは分かりませんでした。やさしい手が彼女の手を掴み、穏やかな動作で助け起こされました。 「気をつけるんだね、お嬢ちゃん。枝の上はうっかりさんには危ないよ。特に、気を取られてしまう人にはね……別のどこかに。」と、彼は微笑みました。その微笑みは後に、彼女の最も大切な思い出の宝物として数えられました。 テッサは、エヴァーモアでも屈指の魔術師として成長しました。若い頃は、ほとんどの訓練で他の生徒たちを上回り、ときには教師さえも凌駕するほどでした。一度など、楢(なら)の樹を地面で拾ったどんぐりの状態から夜通しかけてどうにか成木にまで成長させ、力を使い果たして数日間意識不明になったほどでした。 たったひとつの事件だけが、教師たちの評価を曇らせました。彼女は一度、屍霊術の魔道書を読んでいるところを見つかったことがありました。その魔道書はずっと以前にカラビムから盗まれたもので、高位の魔術師たちのほとんどは、それをとっくに破棄されたものか、少なくとも厳重に封印されたものと思い込んでいました。その魔道書は直ちに没収され、そしてその年若き少女には、それ以上禁忌の呪文を学ぼうとする様子は確かに見られませんでした。テッサはそのように自分自身が才能に溢れる勤勉な学生であることを証明したので、その事件のことは間もなく忘れ去られました。 正式な教育課程を修了すると、彼女には大魔道の地位が用意され、強い責任感に駆られて彼女はそれを拝命しました。まったく別の、何よりも差し迫った望みがあったにもかかわらず。 ベルテン祭で、彼女とデヴォンは夜を踊り明かしました。一枚の金の羽で飾られたテッサの長い黒髪が、エルフの歌声とフルートの音色に合わせて翻りました。村は踊りに沸き、木々と星明りの下で楽しみに明け暮れました。彼女の人生の中で、最も輝かしい夜でした。 エルフたちの平穏な森に災厄が訪れました。斥候たちが恐ろしい報告と共に国境近くの地からやってきました。それは侵入してくる敵軍ではなく、もっと不吉な何かでした。奇妙な腐敗が現れ始めました。草はしおれて枯れ果て、それよりも丈夫な植物は茎や幹を捩れさせ、種と共に更に遠くまで腐敗を広げる膿で満たされました。動物たちが死に絶え始める前になんとかしなければならず、当然の成り行きとして、ある大魔道に助けが求められました。 テッサは喜んで任務を引き受けました。その頃には、そうすることが常となっていました。彼女自身の著しい魔力は、どんな仕事を引き受けようとも、簡単に片付けてしまえるように思えました。しかし腐敗は、彼女にとってさえ手に余るものだとわかりました。最も強力な浄化の呪文でさえ、狭い範囲に一時的な安寧をもたらすだけで、あとには数日にも渡る疲労が残されました。そうして腐敗は自由に広がるままにされ、それはゆっくりと森の中心部へと、そしてエヴァーモアへと忍び寄ってゆきました。 デヴォンは彼女との結婚を望みました。彼はベルテン祭で、その意志を打ち明けました。彼女は日増しに募る彼の焦りを感じ取ることができました。木々たちの緩やかな荒廃を止める術を考えることに心を奪われながらも、彼女はついに身を任せました。ふたりの家族は、大魔道と天使族が神の名のもとに結ばれる、壮大な祝宴の準備を始めました。 その一方で、テッサは森に働く不可解な力との勝ち目のない戦いを続けていました。彼女は穢れの源に向けて進みましたが、その発端となる場所を突き止めることはできませんでした。それは多くの場所で同時に発生したように見えました。そして彼女は、なんらかの悪意を持った魔術師が、彼女のふるさとに強力な不可逆の呪文を施したのではないかと疑いました。彼女は里に戻る途中で、二匹の鹿が横たわって死んでいる広場を見つけました。その死体は吐き気を催させるような黒紫色に染まっていました。絶望に暮れて灰色の大地に座り込むと、しかし突然、恐ろしいまでの考えが脳裏に閃きました。 彼女はこの地で失われてきた命について深く悲しみ、そしてこれから失われるであろう命について嘆きました。 結婚式の披露宴は本当に素晴らしいものでした。異国の果物と上物の葡萄酒による宴がありました。巧緻を極めた沢山の演奏家がいました。歌と踊りがありました。テッサは催しの間、妙に気もそぞろな様子でした。しかし招待客のほとんどは、彼女の新郎がそうであるように、働き過ぎによる心労が原因だろうと思い込みました。夜も更けると、招待客たちは赤柏の巨木の周りに設えられた広場から退散しました。エルフのしきたりに従い、婚姻の仕上げとなる初夜の儀式を執り行う場所に、新婚の二人が残されました。 そうして二人はその場に立ちました。デヴォンの瞳は喜びと期待に輝き、テッサはとても彼を見ていられなくなりました。それでも彼女は無理に微笑み、穏やかに彼を引き寄せました。デヴォンは彼女に囚われるあまり、光の宿らぬ目や、そこに溢れ出した涙に気付きませんでした。彼は口付けを求め、しかし彼女は身体を押しのけ、最後に彼の目を見つめて優しく囁きました。 「ごめんなさい。」 デヴォンが答える間もなく、彼女はドレスの中に忍ばせた儀式用の短剣を取り出し、その森で何百年ものあいだ聞くことがなかった不可解な呪文を呟いて、短剣を彼の心臓へと突き立てました。その呪文はデヴォンの身体から神なる魂を吸い取り、彼女自身の魔力へと変えました。そんな膨大な魔力に満たされながら、彼女は浄化の呪文を解き放ちました。衝撃波がその広場を中心に拡がり、澱みを一掃するかのように、大気や大地や木々のあいだを流れました。そして森は癒されました。 夜が明けました。青々と茂り、生命に満ちた森を太陽が明るく照らしました。広場の亡骸と、その傍らにうずくまり、頭を抱えて涙に暮れる女性を除いた、すべてを。

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