1963年1月4日生まれ 米テキサス州アマリロ出身
1985年にアマチュアのフリーエージェントとしてミネソタ・ツインズと契約
現役時代はメジャー経験はなくマイナーリーグで3年間プレー後に
ニューヨーク・ヤンキース傘下のマイナーで監督を11年経験後にテキサス・レンジャーズで
ディレクター兼フィールドコーディネーターを経験した後に日本ハムの監督に就任。
言わずと知れた2003~07年までの監督。
新庄に負けず劣らすファンサービスで日本中を湧かせた監督。
日本一の地味球団と言われた(?)日ハムを日本一、二度のリーグ優勝に導いた功績は大きい。
しかし、だからと言って監督としての年俸は優勝するまで五千万円(優勝後は一億一千五百万)という外国人の監督では破格の額であった。(優勝後の年俸もファンサービスを入れれば破格の額である。)
はむせん住人は残留希望だったが子供のことを考え故郷へ。でも、ヒルマン監督も故郷で元気にやってるし、
梨田監督に変わっても優勝できたからいいじゃあありませんか。
退任後はカンザスシティ・ロイヤルズの監督を勤めていたが成績不振のため10年に解任。その後ロサンゼルス・ドジャースのベンチコーチ就任(~13年)。
以降はニューヨーク・ヤンキースのスペシャルアシスタント→ヒューマン・アストロズのベンチコーチを経て、16年10月に韓国のSKワイバーンズ監督に就任。
17年シーズンは5位も翌年の18年は韓国シリーズで8年振りの優勝を達成、だが家族の事情でこの年限りで退任した。
以降はマイアミ・マーリンズコーチ、ロサンゼルス・エンゼルスで選手育成コーチを経た後、23年1月10日に古巣ハムにてコンサルタント契約を結んだことが発表された。
エピソード
- 広島や楽天で監督だったブラウン氏とはマイナーリーグ時代からの友人である
- 趣味はカントリーギター弾き語りでファン感でも披露したこともある。
- 10年に再来日して札幌グランドホテルでディナーショーを開催した。
- 18年の韓国リーグ終了後にトークショーなどで来日、球団事務所を訪れたり、FIGHTERS DINING ROSTER~DELI&ROASTへも訪問したりした。
Mr.ヒルマン
整理中
秘術「スモールベースボール」
06~07年までヒルマン監督が使っていた秘術。03~05年はビックバン打線と言われる物理攻撃を使っていたがあんまりにも成績が良くならないので、06年ぐらいからチーム一丸で秘術の会得を開始する。その後はリーグ優勝、日本一と大成功を治める。しかし、この秘術には弱点があり、07年の日本シリーズは中日に見事に完敗している。そのため梨田監督に変わったあと08〜09年にかけてビックバン打線(いてまえ打線?)とのハイブリット・スモールベースボール(バーニングハート打線)という新秘術を完成させ、弱点だった打線を強力にして09年に三度めの優勝をした
ヒルマン語録
- マチガイナイ
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- ホッカイドウノ ミナサンハ セカイデ イチバンデス
- シンジラレナ~イ(06)
- シンジテマシタ~(07)
最終更新:2023年01月14日 20:21