涼宮ハルヒの邁進 その３
<p>『２年前、あの光の巨人が暴れたとき、初めて機関という存在を僕は知った。テレビ演説で華々しく公表された超能力者を<br />有する組織。多分、これが平和な日常の中だったら誰も信じず、ただのオカルト話として笑いのネタにされていただけだと思う。<br />だけど、あんな大惨事の後だったから、みんな簡単に信じてしまった。その存在と目的、そして、惨劇の原因について』<br /> 朝倉撃退後の夜、俺は機関の連中や谷口の目を盗んで、国木田のノートを読んでいた。どうやら、ここに来る前までに<br />書いていたものらしい。内容はぱっと見では日記帳のように見えたが、よくよく読んでみると回想録のようなものだった。<br />個人的な思い出を語るものだったら、プライバシーの侵害になるからあわてて閉じるつもりだったが、<br />その内容は興味深い――それどころか俺の猜疑心をえらく揺さぶるものだった。<br /> 特に、一番最初のページにあわてて付け加えられたように書かれていた文。<br />『キョン、僕の身に何かあった事を考えてこのノートを託すよ。でも、このノートの内容は機関に属する人間には決して<br />見せないこと。もし見せればキョンの命の関わるからね。機関を信じないで』<br /> 訳がわからなかった。国木田の奴、人の荷物に何でこんなものを仕込んでいたんだ？ 大体、命に関わるって……<br /> 俺は近くで新川さんと談笑する古泉の姿を横目で見る。二人とも明日の移動ルートについてでも話しているのだろう。<br />ほどなくして、森さんと多丸兄弟が見回りから帰還し、その環に入る。確かにプロフェッショナルな雰囲気を醸し出す彼らだったが<br />今までふれあってきた限り危険視しなければならないような人たちには見えない。対朝倉戦では、<br />これ以上ないほどに俺を守ってくれたしな。<br /> まあ、そんなことを言っても国木田ノートの内容の続きが気になるので、こっそりと読み続けることにする。<br />『……この日、僕は難民キャンプへと移送された。家に帰ろうにも、すでにそこは閉鎖空間に飲み込まれているらしい。<br />やむえず、遠く離れたところで仮設住宅暮らしをすることになった。幸い、友人たちも多くいたから、寂しくはなかったけど。<br />そんな生活が続いて半年ぐらい経った後、機関の人間たちがやってきた。用件は僕をスカウトしたいらしい。<br />最初は新手の詐欺か何かと思ったよ。だって僕に超能力があるとは思えなかったし、特化したものも大して無かった。<br />そんな僕をどうして？ と思ったけどどうやらキョンがらみの話らしい』<br /> ――俺はついノートの内容に没頭していることに気がつき、あわてて周囲を見渡す。幸い、機関組はまだ話し合いを続けていた。<br /> ほっと胸をなで下ろして、次のページを開く。<br />『どうやら機関はキョンが目覚めた後、閉鎖空間の中心に攻勢を仕掛けるつもりみたいだった。この時点でキョンは半年以上<br />眠ったままだったのに、気が早すぎるんじゃないかと思ったんだけど、なぜか彼らはいずれキョンが目覚めることを<br />確信しているみたいだった』<br /> 確信？ 古泉はありとあらゆる手段を行使したが、俺を目覚めさせることができなかったと言っていたんだが。<br />それともその内目覚めるに違いないと希望的観測でもしていたのだろうか。まさか、俺の目覚める時間を知っていたわけが……<br /> 俺は次のページを開き、その内容に目を疑うことになる。<br />『結局僕は機関に入ることになった。提示された報酬も悪くなかったし、何よりもお世辞にも良いとは言えないキャンプ生活から<br />家族とともに抜け出せるからね。ただ、家族とは離ればなれにされてしまった。閉鎖空間という機関の機密の中枢に<br />関わることになるから少しでも情報漏洩の芽は潰しておく必要があるだってさ。しかも、書かされた誓約書は物騒な文言が<br />並んでいて、機関の任務遂行に影響を及ぼす問題を引き起こせば、最悪極刑もあり得るとか書いてあるほどだよ。<br />このときはちょっと機関入りを後悔したね。その後、いろいろな訓練とか説明とかを半年ぐらい受けた後に、<br />ようやく僕がやるべき任務の内容を教えてもらった。複雑な説明はややこしくなるだけだから避けて、簡単に要約すると<br />キョンが目覚めた後、機関の人たちと一緒に北高に向かうってことだった。大体、予想していたことだったけど<br />その中で驚いたのがキョンが目覚める日時が具体的に示されていたこと。機関はずっとキョンの治療や昏睡状態の原因解明を<br />続けていると言っていたのに、どうしてそんなことがわかるんだろうか？ 僕の頭に初めて疑念が生まれたのはこの日だった。<br />キョンを眠らせているのは機関なんじゃないかって』<br />「何を読んでいるんですか？」<br /> 突如俺にかけられる声。目を離せない国木田ノートの内容に没頭している中での事だったので、<br />思わず悲鳴に近い驚きの声を上げてしまいそうになるが、ぎりぎりのところで飲み込むことができた。<br /> 俺はできるだけ冷静さを保ちつつ、<br />「ああ、せっかくだから体調管理とかを兼ねて日記をつけているんだ」<br />「なるほど。それは感心なことです。せっかくだから任務完了後に一緒に自伝でも出版しませんか？<br />閉鎖空間滞在日記～～それでも僕たちは諦められない～～という感じで」<br />「俺は自分の日記を世間に公表するほど派手な人間じゃねえよ」<br /> そう軽く受け流して、国木田ノートをバッグの中に片づけた。<br /> 機関が俺の目覚める時間を正確に把握していた。ひょっとしていたら俺を昏睡状態にしていたのは機関なのかも知れない。<br />確かにこのノートの内容を機関の連中に見せるわけにはいかないな。<br /> <br />◇◇◇◇<br /> <br />「そうですか。あの時長門さんと再会していたんですね」<br />「ああ。ずいぶん久しぶりに声を聞いたよ」<br />「何か言っていませんでしたか？ 涼宮さんの具体的な居場所や現在の状況など」<br />「いや……何かに追われているみたいだったぞ。すぐにどこかにいっちまった」<br />「そうですか……少しでも有益な情報が得られればと思ったんですが……」<br /> 古泉は残念そうな笑みを浮かべて嘆息した。<br /> 翌日の朝。俺たちは北高への移動を再開した。正直、第２第３の朝倉が出現するんじゃないかと思っていたが、<br />全くトラブルもなく順調に目的地との距離を縮めていっていた。このペースで歩けばあと２～３日で北高に到達できそうだが……<br /> はっきり言って国木田ノートの続きが気になって仕方がねえ。あの後、古泉たちの目が終始俺に向けられているような気がして<br />結局続きを読むことができなかったせいだ。とんでもなく重要な事を見せつけられておきながら、続きが読めないでは<br />生殺しも良いところである。<br /> ついそわそわしているところが身体に出てしまったのか、古泉が俺をのぞき込むように、<br />「どうかしましたか？」<br />「……何でもねえよ」<br /> そう言ってかわした。<br /> さて、気がついてみればもうＡ島の最北端に近くなり、着々と目的地に近づきつつある。<br />だが、あの国木田ノートを見てから俺は先に進むことに激しい抵抗を憶えるようになって来ていた。<br />機関は俺が目を覚ますタイミングを知っていた。いや、俺を昏睡状態にし続けていたのが機関なら<br />俺をいつでも目覚め指させることができる。ならどうしてそんなことをする必要がある？ これから何をしようとしている？<br />ああ、そういや俺を眠らしていたのが機関なら、そのきっかけとなった交通事故を起こしたのも連中なのか？<br />そうなると事故から閉鎖空間の発生、そして、機関の存在を全世界へ公開し俺を目覚めさせて北高に向かうという流れは<br />奴らが全て仕組んだものだったのか？ だったら何のために？<br /> 俺が思考をめぐらしている間に、自動車道のＩＣが見えてきた。朝倉に襲われた場所とは違い、ここは無傷で残っている。<br />ここを越えればＡ島と本土をつなぐ連絡橋まではすぐで、橋を渡り終えてしまえば北高は目と鼻の先だ。<br />機関の行動の疑惑が出てきている以上、安易に先に進むわけには……<br /> 地図を確認すると、このＩＣはＳＡもあるようだ。ある程度留まれる環境はあると考えても良い。<br /> 俺は古泉の方に振り返り、できるだけ本心を悟られないように疲れた表情を浮かべて、<br />「古泉。ちょっと話があるんだが」<br />「何でしょうか。改まって」<br /> ――ここでヘルメットを脱いで――<br />「前回の朝倉との戦いで思い知ったんだよ。ここでは一瞬のミスで命を落としかねないって。<br />国木田がやられたのも一瞬の出来事だったしな」<br />「その通りです。これからはあれ以上に厳しい状況に追い込まれるでしょう。以前にこの辺りに入った偵察隊が<br />無傷で出てきたことは一度もありませんからね。で、何が言いたいんですか？」<br /> ――ここで一旦躊躇するようなそぶりを見せてから――<br />「言いにくい話なんだが」<br />「遠慮無くどうぞ」<br />「俺は疲れている。昨日の戦いの疲労が蓄積しているみたいで、正直歩くだけでもつらい。こんな状態でさらに危険地帯に<br />入ってもいいのかと思うんだ。もっときっちり疲労を取ってから進むべきじゃないかってな。幸い敵の襲撃もここじゃなさそうだ」<br />「正論ですね。身体が弱っている状態で敵に遭遇すれば、まともに戦うこともできずにただやられてしまうだけです。<br />休息も戦いの内と言えますからね。それにこの辺りまではいると無線で外側と連絡も取れなくなります。<br />怪我一つが致命傷になりかねません」<br /> ――俺は古泉に軽く頭を下げて――<br />「すまない。閉鎖空間に入ってからこれで３度目のわがままになっちまうんで、自分でも言いづらい話なんだが……」<br />「良いですよ。正直、僕も超能力を使ったおかげで結構疲労があるんです。朝倉涼子との戦いで中心的役割を果たした<br />森さんたちはそれ以上でしょう。ただ任務を果たすために口に出さないだけです。あなたが休息したいと言えば森さんたちも<br />きっと喜んで賛成してくれますよ」<br /> 古泉はあっさりと俺の申し出を受け入れてくれた。だが、あまりに簡単に受け入れすぎて逆に不安を煽られた気分になる。<br />機関は先を急いでいないのか？ それともいつでも北高に行けるということなんだろうか？<br /> いや、考えすぎだ。まだ国木田ノートの内容は全部読めていないし、大体それが事実とは限らない。<br />あれだけ俺のことを助けてくれた人たちだ。安易に疑うのはやめよう。<br /> と、後方を歩いていた谷口が追いついてきて、<br />「なんだよぉー。またストライキか、キョン。おめーは本当に貧弱だなぁ」<br />「……仕方ないだろうが。あれだけの戦いを見せつけられた後じゃ、万全に万全を期したくもなる」<br />「まっ、そーだな。実を言うと俺もちょっと疲れ気味だからな。助かったぜ、サンキュな、キョン」<br /> そう俺の方にぐっと親指を上げる。そう言えば、谷口はどうなのだろうか？ 国木田とこいつは機関にスカウトされた<br />立場のはずだ。ならこいつには国木田ノートの内容を話しても良いのか？ いや、待て。焦らずにとりあえずノートの続きを<br />確認しよう。きっと谷口についても何らかの言及があるはずだ。<br /> やがて、前方を歩いてきた森さんたち機関組が俺のところまで戻ってきて、<br />「話は古泉から聞きました。１００メートル先にあるＳＡでしばらく休息を取ることにします。新川。最大でどのくらい休める？」<br />「食料を考えれば三日は留まれるでしょうな」<br /> 新川さんの返答に森さんは軽く頷き、<br />「わかりました。では三日ここで休息し、その後に連絡橋を越えて閉鎖空間の中心部分に突入します。<br />恐らくこれ以降急速を取ることは困難になるでしょうから、各員しっかりと疲れを取ること」<br /> 俺は森さんの言葉に感謝の気持ちを持つように心がけた。<br /> ――無理にでもそうしないと、疑念ばかり向けてしまうからだ。<br /> <br />◇◇◇◇<br /> <br /> ＳＡ到着後、俺はトイレと偽って機関組と谷口から目の届かない部分へ移動する。留まれるのは三日間だけ。<br />その間に国木田ノートを全て読み、今後どうするのかを決めなければならない。<br /> 俺は適当な林の中に入り、茂みに身を隠した後、腹の部分に押し込んでいたノートを取り出す。<br />『機関に入ってから僕は独自に疑惑について調査を始めることにした。でも、重要な任務を与えられているとはいえ、<br />立場は末端の兵士と同じようなものだったから表向きの情報しか得ることしかできなかった。<br />そこで、北高時代にキョンと同じＳＯＳ団にいた古泉さんに近づくことにした。最初はあまり話す機会がなくて接点を<br />持てなかったけど、その内一緒に訓練することも増えてきてだいぶ親しくなることができた。<br />プライドが高くて話しづらいような印象があったけど、話してみるとなかなかフランクな人ですぐに仲良くなれたよ』<br /> 古泉がフランクねぇ……記憶の大半がＳＯＳ団時代のもののおかげで、ニヤニヤしているイエスマンというイメージの方が<br />強いせいか違和感を憶えるな。<br />『ちょうどそのころ、谷口が機関にいることを知った。キョンの知り合いと言うことで僕がスカウトされたから<br />ひょっとしたら谷口もそうじゃないかと思っていたけど、それが現実になっていたみたいだ。<br />ほどなくして予想通り僕と同じプロジェクトチームに配属されてきた。でも、相変わらずの調子ぶりで安心したよ。<br />機関の人たちはいまいち信用できなかったから、久しぶりに楽しく話せる相手ができて嬉しかった。<br />さすがに一時間ものろけ話を聞かされるとうんざりしてきたけどね』<br /> 谷口はずっとあんな調子なのか。全く国木田も苦労しただろうな。<br />『古泉さんとの仲をきっかけに僕はじわりじわりと機関の中枢に入り込めるようになっていった。<br />結構ランクの高い機密文書とかも見れるようになったし、公表されない情報も耳にはいるようになってきていたけど、<br />やっぱりキョンや閉鎖空間の発生にどう介入したのかまではわからなかった。<br />ただ僕が決して知ることのできないトップクラスの機密情報というものはやはり存在していることには気がついた。<br />となればやはりそこに知りたい情報があるに違いない』<br /> ――次のページへ進んで、<br />『さすがに機関の最高機密だけあってなかなかそこにたどり着けなかった。色々やったよ。機関幹部の尾行はもちろん<br />クラッキングから立ち入り禁止ゾーンへ不法侵入して文書をコピーしたりってね。<br />ある時は訓練名目で閉鎖空間内に入れてもらったりもした。でも、結局わからずじまい。<br />気がつけば、キョンが目覚める予定まで一週間になっていた。けどそんな絶望的な状況の中、ある日僕宛のＥメールが届いた。<br />宛先は巧妙に偽装されているらしく誰が送ってきたのかはわからない。だけど、そこに添付されていた情報は<br />僕がずっと追い求めていたものだった』<br /> と、ここでつい読みふけってしまっていることに気がついて時計を確認する。気がつけばトイレ使用の数倍の時間が<br />経過していた。これ以上、ノートを読みふければ心配した古泉たちが探しに来るかも知れない。<br /> 俺ははやる気持ちを抑えてノートを閉じた<br /> <br />◇◇◇◇<br /> <br /> 俺がＳＡに戻ろうとしているときに、駐車場の脇で森さんと古泉が何やら話し込んでいるのに気がついた。<br />すぐに二人の前に出ようかと思ったが、<br />「彼の様子はどう？」<br />「昨日から少し様子がおかしいですね。朝倉涼子との一件かと思いましたが、その日の夜は特に変わったそぶりはなかったですね」<br /> こんな二人の会話を聞いてしまうと出れなくなってしまう。まずい。やはり俺の変化を悟られているのか？<br /> 国木田ノートの一件もあるので、俺はそのまま身を潜めて二人の会話を盗み聞きすることにした。<br />「そう。何かきっかけになったようなものはあった？ 些細なことでも教えて」<br />「そうですねぇ……そう言えば、昨日日記をつけていたようですが」<br />「日記？ 以前はつけていた？」<br />「いえ、昨日僕も初めて気がつきましたね」<br /> 国木田ノートの話をしているのか。幸い古泉は日記だという俺の言葉を信じてくれているみたいだが、<br />どうやら森さんはその部分に何かを感じ取っているらしい。まずいな。余り深く追求されて、日記を見せろなんていわれれば<br />本当はそんなものを書いていないんだから出しようがない。荷物検査をされれば一発でノートの存在がばれるだろう。<br />こんなことならダミーの日記を作っておくべきだったか？<br /> ふと、俺の方に森さんの視線が向かっていることに気がついて、あわてて茂みの中に頭を引っ込める、<br />まずい、気がつかれたか？ ここで盗み聞きをしていることまで見つかれば、余計森さんは疑惑を強めるだろう。<br /> だが、幸いなことに森さんは俺の方に気がつかなかったらしく、古泉との会話を続ける。<br />「……まあ、いいでしょう。確かに全員に疲労があるのも事実だわ。特に不自然なところも見当たらない。<br />問題なしとして処理します」<br />「わかりました」<br /> そう言うと二人はＳＡの建物の方に歩いていった。やれやれ。何とかばれずにすんだか。<br /> 俺は二人の姿が完全に見えなくなってからＳＡへ戻った。<br /> <br />◇◇◇◇<br /> <br /> ＳＡ内に戻ると、森さんたち機関一同が何やら談笑をしていた。いつもはキツイ表情で辺りを警戒しているというのに、<br />珍しく明るい笑顔を浮かべて何やら話し込んでいる。<br /> 一番以外なのは森さんだ。メイド姿の時は作り笑顔っぽかったし、朝比奈さんが誘拐された時は笑顔だったとはいえ、<br />あれは楽しさから来るものではなく、相手を脅迫する威圧のものだ。しかし、今の笑顔はまるで子供のように屈託のない笑顔を<br />浮かべている。それは――なんつーかだ。はっきり言って可愛い。表情から年齢を読み取りづらい森さんではあるが、<br />今の笑顔を見ている限りは俺と同い年ぐらいじゃないかと思いたくなるほどだ。<br />「お～い、キョン。お前何見とれてんだよ～」<br /> 気がつけば俺の肩に手を回して、ニヤニヤ顔を浮かべている谷口が隣にいる。俺はあわてて首を振って、<br />「別にただ何を話しているのかっと思ってみていただけ――」<br />「嘘だなウソＵＳＯ！ おまえの視線は完全に森さんにロックオンされていたぜ。いくら言い訳しても俺の目はごまかせねえぞ」<br /> お前の目ほど信用にならないものは無いと思うぞ。<br /> そんな俺の疑惑の視線を完全に無視して、谷口は得意げに<br />「だがよー、おまえの気持ちもよーくわかるぜ。だって森さん可愛いじゃねえか。凛としたときは大人の魅力を、<br />笑ったときは少女の魅力は振りまくっているんだからな。俺は未だかつてあれクラスの女には出会ったことがねえぞ。<br />そうだな――朝倉のＡＡ＋以上のＳＳ＋の称号を与えるほどにだ」<br />「お前から与えられる称号なんて、ただ不名誉なだけだろ。大体、事実上のフィアンセがいるくせに、そんなに色気づいていて<br />いいのか？ 彼女が聞いたら悲しむぞ」<br /> 俺のズバリな指摘で谷口は動揺するかと思いきや、やたらと真剣な表情で俺の肩をつかんだかと思うと、<br />「良いかキョン。男ってのはな、悲しかな可愛い女性やりりしい女性に反応しちまうもんなんだ。<br />見てみろ。あんな笑顔を振りまく女性がいるってのに、欲情の一つもしないってのははっきり言って男失格だぜ？<br />ずっと涼宮一直線だった不健康極まりないお前にはわからんだろうけどなぁ」<br /> 俺の知っている限りナンパ成功率０％で歩く公衆欲情マシーンのお前を基準に世界中の男の常識を語られても<br />それこそ全人類の男性を敵に回すだけだぞ。<br />「あー？ どうやらお前が眠りこけていた間に鍛え上げたナンパテクニックを見せてやらなきゃわからないようだな。<br />なら今から森さんに突撃しようぜ。俺の華麗な話術で森さんが独身かどうなのか聞き出してやるからよぉ」<br /> そう言って嫌がる俺を引っ張り、機関組の話の中に突入する谷口だ。やれやれ。こいつは本当に変わっていないな。<br /> それからしばらくの間、ここにいる全員で朝方の子供たちを送り出した後に行われる奥様方の井戸端会議の如く、<br />雑談に興じることになった。<br /> 森さんや新川さんの今までの活躍ぶりを多丸兄弟がおもしろおかしく話してくれた。<br /> 新川さんの戦地でもっとも危険な状態に追い込まれたときの話はやたらと緊迫したムードで聞くことに。<br /> 超能力者になりたての時の古泉の話は興味深く聞かせてもらったが、こっそりと古泉が耳をふさいでいたことが一番の収穫だな。<br />どうやらこいつでも見返したくない過去ってものがあるようだ。しばらくはこのネタでからかってやるか。<br /> ちなみに谷口の巧妙なる話術による『森さんは独身なのか否か聞き出してやる作戦』は見事な森さんの会話テクニックにより、<br />すべて煙に巻かれてしまった。ところで谷口。お前の巧妙なる口説き文句って歯の浮くような露骨ものばかりだぞ。<br />２年間経っても全く成長していねえじゃねえか。ま、せっかく可愛い彼女がいるんだから、身の丈をきっちり把握して<br />あまり無茶な色気は出さない方が身のためってところだな。<br /> この数時間の雑談の間、俺は完全に国木田ノートの存在を忘れてしまっていた。ここまで機関の人たちと心ゆくまで話したのは<br />初めてだったが、みんなこれ以上ないほどにいい人たちだ。こんな人たちを疑うなんてどうかしている。<br /> この時、国木田ノートを破り捨てることができれば良かったんだが……<br /> <br />◇◇◇◇<br /> <br /> その日の夜。相変わらず機関の人たちは周辺への警戒で出払っていた。あれだけ動き回っていると休息にならないんじゃないか？<br />と思いつつも、今の俺には出払ってくれてもらっていた方が好都合だ。谷口は俺の護衛って事でここにいるが、<br />さっきから携帯ゲームに夢中になっているから無視しても問題ないだろう、<br /> 俺は谷口から少し離れたところに座り、国木田ノートを取り出す。機関の人たちと雑談を満喫した後で<br />このノートを開くのははっきり言って気が進まなかった。むしろ、古泉たちにこいつを差し出してしまいたくなる。<br /> しかし――今までのノートの内容を思い出していくにつれ、さっきまでのワイワイ気分が薄れていった。<br />機関がこの閉鎖空間発生に何らかの形で関与している。これに興味や好奇心、猜疑心が揺すぶられない方が<br />どうかしているってもんだ。<br /> 俺は首を２，３回振ってノートを開いた。機関が何かをたくらんでいても、森さんや古泉がそれを知らない可能性だって<br />十分にあり得るんだから。そうならすぐに古泉にこいつを差し出して、その陰謀を打ち砕いてやればいい。<br />ただ、用心を用心を重ねておいた方がいいと思い、いざ誰かに見つかっても日記帳だとごまかせるように、<br />ボールペンを手に持っておく。ノートの後ろのページは何も書かれていない白紙だったのでそこに何かを書いているふりで<br />ごまかせるだろう。<br />『Ｅメールの本文は【君が知りたいものを送る】とだけ書かれていた。ウィルスメールかスパムかと思ったけど、<br />いざ添付ファイルを開いてみると、膨大な量の資料があったんだ。全部読むのに三日間はかかったね。<br />で、肝心のその内容だけどどれも衝撃的なものばかりだった。かなり複雑かつ膨大な量の内容のため、<br />僕なりにまとめた上で目的別にその真相を記していく』<br /> 次のページからの内容に俺は……はっきり言おう。怒りを覚えた。さっきまでの楽しい雰囲気なんて完全に飛散して<br />世界中で怒鳴り散らしても収まらないほどに。<br />『まず、全ての始まりであるキョンが事故にあった件は予想通り機関が関与していた。<br />事故を装ってキョンに怪我を負わそうとしたんだ。キョンが死に至る可能性は考慮されたけど、<br />機関内では涼宮さんがそれをさせないと結論を出したみたい。そして、それは実行され予想通りキョンは事故にあったにも<br />かかわらず無傷の状態になっていた。けど、そのままでは何もならないので、気絶している間に薬物を投与し<br />昏睡状態に陥らせてたんだ。継続して薬物の投与できるように機関の息のかかった病院に入院までさせた』<br /> ――俺は怒りで震える手を押さえつつ先を読む。<br />『どうしてこんなことをしたのか。その理由はあの涼宮さんの情報創造能力が目的だった。<br />機関はあの能力を手に入れようとしていたみたい。けど、能力を人に渡すなんていうことはできないから、<br />涼宮さんにショックを与えて呆然喪失状態に追い込み、あとは薬物でも何でも使って何でも言うことが聞く人形に仕立て上げようと<br />した。事実、キョンが入院してからというもの涼宮さんの精神状態はきわめて不安定状態になり、<br />閉鎖空間の発生が乱発していた。機関はその心の隙間を利用して涼宮さんに近づこうとしていた』<br /> なぜだ？ 機関は内部に異論があるとはいえ、大半はずっと現状維持を貫いてきたはずだ。<br />どうしてここに来てハルヒの能力を手に入れるなんて言うばかげたことを考え始めたんだ？<br /> 俺はページをめくって読み進める。そこにはまるで俺の疑問に答えるかのような内容が書かれていた。<br />『機関はずっと涼宮さんの精神状態を安定させて、現状を維持するという方策をとり続けてきた。<br />涼宮さんがどれだけすごい能力を持っていたところで、しょせん地域限定の超能力者を保有しているだけの機関では<br />利用のしようがなかったからね。それに情報統合思念体という強大な勢力が涼宮さんの観察を続けている以上、<br />手出しは厳禁と言っても良い。うかつなことをして彼らの怒りを買えば、一瞬でこんな地球なんて滅ぼされるかもしれない。<br />だからこそ、現状維持を貫いてきたんだ。でも、ここに来てその状態を覆す存在が現れた。それが情報統合思念体が天蓋領域と<br />呼ぶ勢力。彼らもまた涼宮さんの能力に興味を示していた』<br /> 別の宇宙人勢力の出現により力の均衡が変化したと思ったのか。スケールは壮大だが、考えることはしょせん人間って事だな。<br />『ちょっと話が逸れるけど、機関の中心的メンバーには結構なナショナリストがいたりする。ま、いわゆる極右って奴だね。<br />そう言う人間は多くのＴＦＥＩ端末を派遣し、いつでも地球を握りつぶせる勢力である情報統合思念体に恐怖する一方<br />反発もしていた。事実上地球は情報統合思念体に支配されているに等しい。我々は彼らに媚びを売って生きていくことしか<br />できていないと。だから、どうにかして現在の状況を変えてやりたいと思っていた。涼宮さんの能力を使えば<br />情報統合思念体の影響力を地球から排除して、真の独立を得られる。しかし、その能力は一人の少女の気まぐれでしか使えない。<br />またたとえ身柄を拘束しても使い方がわからない。そんな行き止まりの状態に希望の光となったのが天蓋領域だった。<br />彼らの協力を得られれば、涼宮さんの能力を使い放題にできるかも知れない。実のところ、情報統合思念体にも同様の協力を<br />要請していたらしいけどつっぱねられたみたいだね。でも、天蓋領域と接触して交渉した結果、彼らはあっさりと了承した。<br />捕獲は機関が行い、その能力の解析を天蓋領域が行い、涼宮さんの能力を機関・天蓋領域で共有して使用するという条件で。<br />全くひどい話だよ。本人の意志は完全に無視だから』<br /> 本当にひどい話だ。ハルヒの意志は完全に無視して、そんな野望をたくらんでいやがったのか。<br />『その目的でキョンは昏睡状態に追い込まれた。情報統合思念体も動こうとしたけど、天蓋領域が本格的に牽制を始めて<br />にらみ合いの状態になっていたらしく手出しができなかった。その間に機関の計画は着々と進行し、<br />ついに涼宮さんは部室に閉じこもりっきりの状態まで追い込まれてしまっていた。後はそこで彼女の身柄を拘束して<br />作戦の第一段階は完了する予定だった』<br /> ――次のページをめくり――<br />『でも、身柄拘束の際に予想外の事が起こった。涼宮さんが現実世界にあの青白い巨人――神人を世界中に発生させたんだ。<br />どうやら襲いかかってくる人たちをすべてなぎ倒そうと思ってしまったみたいだね。そこまで追いつめられていって事だよ。<br />結局、機関はその場で身柄を押さえることができず世界中の神人の対処に追われ、作戦は事実上失敗に終わった。<br />でも、それでも機関はまだ諦めなかった。しつこいことに次の作戦を実行に移そうと――』<br /> ――ここで、俺の視線に人影が入る。あわててノートの最終ページを開いて、何かを書いているふりを始める。<br /> 視線をちょっと上げてみると、多丸兄弟が見回りから戻ってきたらしい。ちょうど俺の前を歩いて通過していた。<br />以前ならまじめな顔で歩いているだけにしか見えなかっただろうが、今では全身から何か黒いものを吐きだしているように見えた。<br />この人たちが心底機関のやり方に賛同しているなら、一緒にいることは危険だ。<br /> 俺はノートを閉じ、荷物の中に隠す。見れば、森さんたちもＳＡ内に引き上げ始めていた。<br />今日はこれ以上読むのはまずい。続きは明日にするしかないが、まだ肝心な部分が読めていなかった。<br />今俺たちが北高へ何をしに向かっているかの部分だ。それを読まない限り、俺が今後どうするかはまだ決められないんだ。<br /> ふと空を見上げると、灰色の空に灰色の月が昇っている……<br /> <br />◇◇◇◇<br /> <br /> 俺は朝早くにまたトイレと偽ってＳＡを抜け出した。もちろん国木田ノートを読むためだ。<br />移動再開まであと二日あるが、機関の本当の目的がわかった以上、早く全てを読み終えて対策を練らなきゃいかん。<br />少なくともこれ以上古泉たちと一緒に移動するのは危険だ。<br /> ――ふと、俺は古泉のニヤケスマイルが脳裏に浮かべた。あいつはどうなんだろうか？ ＳＯＳ団に入ったときはさておき<br />最近では副団長の地位に満足していると言い、ＳＯＳ団のためなら機関を一度だけ裏切るとまで言ってのけた。<br />２年経ってもその考えは同じなんだろうか？ それともその発言そのものが俺を安心させるためだけの方便だったのか？<br /> いや、そんなことを今考えても仕方がない。とにかくノートを読み終えなくては判断のしようがないんだ。<br />『しつこいことに次の作戦を実行に移そうと動き始めた。神人を全て排除した時には北高を中心に巨大な閉鎖空間が発生して、<br />うかつに近寄れない状態。最初はもう一度超能力者を使った上で、特殊部隊を突入させて涼宮さんを捕らえようと考えた。<br />でも北高に行った人たちは誰一人として帰ってこなかった。どうやらもう力押しではどうにもならないと理解した機関は、<br />路線を変更する。まず機関の存在を世界に知らしめ、閉鎖空間の発生原因が涼宮さんにあると宣言した。<br />世界中が訳のわからない化け物と灰色空間でめちゃめちゃの状態に併せて、神人を撃退したという実績のおかげで<br />世界からはすんなりと機関の存在と主張は受け入れられたよ。そうやって機関は世界中の協力を得られる立場になった』<br /> 自分たちがその原因を作ったくせに、ぬけぬけとハルヒに全責任を追いやるなんて、機関の連中の程度が知れる。<br />『機関は自由に世界中の軍事力を利用して、閉鎖空間の状況を調べた。どこまで入れるのか。どこが危険なのか。<br />徹底的に人的資源を使って調べ尽くしたよ。一方でキョンの存在が涼宮さんに与える影響についても調査を行った。<br />どうやら涼宮さんはキョンの存在を認知しているみたいで、閉鎖空間に近づけると拡大が停止するという<br />具体的な効果も確認できた。そこで機関は準備が整い次第キョンを目覚めさせて閉鎖空間に突入するという作戦を立てた。<br />当然嘘の情報を与えて涼宮さんを救い出そうという気持ちにさせた上でね。ただ、キョンも見知らぬ人と一緒に行動するのでは<br />精神的に不安定になる可能性もあるから、顔見知りの機関の人たちと僕と谷口が突入部隊に選ばれた。<br />そして、国連軍による大攻勢も失敗した時点で最後の手段になるこの作戦が実行されることになった』<br /> 具体的な作戦内容はないのか？ 北高についてから何をするかとか……<br /> その答えは次のページに書かれていた。<br />『作戦は短絡的といっても良いようなもので、まずキョンを北高に連れて行く。当然、涼宮さんはキョンを攻撃できないから<br />高い確率で無事につけるはず。そして、涼宮さんを確保後、彼女の目の前でキョンを殺害し混乱状態に陥ったところで<br />薬物注射により思考能力を奪う。これで何でも言うことの聞く人形のできあがりってわけだね。キョンはあくまでも機関の人を<br />無事に北高に送り届けるための道具に過ぎない』<br /> あいつら……！ 散々人を騙しておいて、最後は俺を殺すつもりだったのかよ！ なんて野郎どもだよ！<br /> 怒りで目の前が真っ赤になる。頭の血管の一つが切れて、血が吹き出るんじゃないかと言うほど血が上っていた。<br /> だが、まだ続きがある。<br />『この作戦がわかった時点で、僕は一度機関から脱走しようと思った。だけど、すぐに思い直したよ。<br />ここで逃げ出してもすぐに追っ手が来るだろうし、僕に関係なく作戦は実行されるだろうしね。<br />僕はあくまでも念には念をってだけの利用価値しかないから。だから、逆にこの作戦を阻止してやろうと思った。<br />北高についてキョンと涼宮さんを守る。そうすれば、あとは涼宮さんが機関をどうにかしてくれるだろうし、<br />そうなれば閉鎖空間も必要なくなる。それで全てが終わるんだ。同じ事を谷口にも話した。でも、谷口は僕以上にまずい――』<br />「何を読んでいるんだい？」<br /> 唐突に浴びせられた声に、俺ははっと顔を見上げた。見れば目の前には多丸圭一さんの姿が。<br /> 俺は驚きのあまり２，３歩後ずさりしながら、<br />「い、いえ……大したもんじゃないですよ……？」<br /> 完全な失策だ。ノートの内容に没頭する余り、周りの状況が全く見えていなかった。今更茂みに隠れて日記を書いていました<br />なんていう言い訳なんて失笑ものだ。かといって、正直に言えば何をされるかわかったもんじゃない。どうする――どうする？<br /> 俺はこうなったら逃げるしかないと思い、さらに数歩後ろに歩いた辺りで気がついた。いつの間にか、俺の手から<br />国木田ノートがなくなっていることにだ。<br />「へえ、これ彼のものなんだ。厳重な監視下にあったはずなのに、よくこんなものを書けたもんだね」<br /> 背後から聞こえてきた声に、俺はとっさに振り返る。見れば、いつの間にやら背後に経っていた多丸裕さんの姿があり、<br />その手にはノートがあった。数ページぺらぺらとめくって内容を流し見している。<br />「返せっ！ この野郎っ！」<br /> 俺は裕さんに飛びかかりノートを取り返そうとするが、ひらりとかわされてしまう。そして、裕さんは懐から拳銃を取り出すと、<br />俺に銃口を向けながら圭一さんのそばに移動した。<br /> 圭一さんは裕さんからノートを受け取ると、その内容を確認し始めた。すぐにでも取り返してやりたいが、<br />裕さんが銃口を俺にぴったり向けているので全く動けねえ。<br /> やがて、ノートの内容を読み終えたのか、圭一さんはそれを閉じると、<br />「……なるほどな。これは非常に興味深い話が書かれているようだ。創作にしては良くできているんじゃないかい？」<br /> そうにこやかな笑顔で俺に言ってきた。俺はその言葉に激高して、<br />「創作だって！？ 白々しい嘘をつきやがって！ 国木田がそんなことをやる理由はねえ！」<br />「彼はこの内容を信じて書いたのかも知れないが、どんな証拠があるというんだい？」<br /> その反論に俺はうっとうなってしまう。証拠を見せろと言われても正直そのノートだとしか言いようがない。<br />だが、俺には国木田がでまかせや妄想を書いていたんじゃないと確信していた。そんなことをする理由なんて全くないからな。<br />大体、そんなものを俺に渡して何になる？<br /> 一向にノートは創作って事を受け入れない俺に業を煮やしたのか、圭一さんは裕さんにノートを預けると、<br />「……どうやらひどい誇大妄想を見せられて混乱してしまっているようだな。一つ懲らしめて目を覚まさせてあげよう」<br /> そう言って拳をならしながら俺の方に向かって歩いてくる。身構えるか、逃げたいという気持ちはあるが、<br />裕さんに銃口を突きつけられている状態じゃ――<br />「――ぶっ！？」<br /> 腹を捻り切られそうな衝撃で、俺の口から胃液が飛び出した。何が起こったのか理解できず、そのまま地面に膝をつく。<br /> しばらく胃をさすり、気管周辺にたまっていた胃液をはき出そうと咳き込んでいたが、ようやく何が起こったのか理解できた。<br />一瞬の間に間合いを詰めた圭一さんが俺の腹を思いっきり殴りつけてきたようだ。俺は圭一さんから視線を外さなかったのに、<br />いつの間にこんな近くまで来ていやがったんだ――<br /> 今度はこめかみ辺りに強い衝撃が与えられ、その勢いで地面に倒れ込んでしまう。激しく脳を揺さぶられたためか、<br />視界が揺れて安定しない。どうやら今度は頭を殴られたらしい。ちくしょう、圭一さんの動きが全く見えねえ……<br />「どうだい？ 少しは目が覚めたかな？」<br /> 俺の耳に、圭一さんの飄々とした声が届く。俺は自分の意思示すために、顔だけを上げちょうど真上に位置していた<br />圭一さんの顔をにらみつけながら、<br />「腹と頭の痛みはひどいが、残念ながら考えを変える気は全くないね……！」<br /> そう言いきる。すると、圭一さんは困ったようにこめかみを掻き上げ、<br />「……そうか。どうやらお灸を据えても効果がないようだな。できればこれ以上手荒なことはしたくなかったんだが」<br />「君は筋金入りのバカみたいだね。抵抗しても無駄だってわからないのかい？」<br /> 少し離れたところから聞こえる裕さんの声。姿は見えないが、まだ拳銃は構えているだろう。<br /> と、ここで国木田ノートの内容を思い出す。俺はハルヒのいる場所までたどり着くための大切な『道具』とされていた。<br />だったら、こんなところで俺を殺す事なんてできないはず。<br /> 俺は力を振り絞って立ち上がると、<br />「へっ……。手荒な事って何だよ。お前らは俺が必要なんだろ？ いくら殴ったところで殺すことができないんじゃ<br />こけおどしに過ぎねえんだよ……！」<br /> 口の中に残っていた胃液をはき出す。だが、多丸兄弟は二人で顔を見合わせると、軽く笑い声を上げて、<br />「君の言うとおりだ。確かに君なしでは目的地への到着はほぼ不可能になるだろう。だから我々には君は殺せない」<br />「でもね、言うことを聞かせるためには暴力しかないって言うのは短絡的じゃないの？ 他にいくらでも方法はあるさ。例えば」<br /> 圭一さんに続いて口を開いた裕さんは耳に付けられている無線機に手を当てて、<br />「例えば、この無線機で君の大切な人を今すぐ殺してくれと、指示を出すとか。当然、君がこちらの指示に<br />従わなかったときだけどね。誰が良いかな……最初から家族だと勿体ない……そうだ、確か昔付き合っていた可愛らしい女の子が<br />いたよね？ この無線一本で彼女をとんでもなくひどい目に遭わせることだってできるんだ」<br /> ……佐々木か！？ ふざけんじゃねえ！ 指一つでも触れてみろ！ 絶対に未来永劫てめえらの指示なんて従わねえぞ！<br /> だが、裕さんは表情一つ変えずに、<br />「無論、率先してやるつもりはないよ。これはあくまでも君との交渉の一環だからね。君が僕たちの指示に従えば<br />そんな悲劇は起こらずにすむんだ。ああ、でもあまり駄々をこねると見せしめが必要になるかも知れないよ」<br />「そう言うのは交渉とは言わずに、脅迫って言うんだよ……！」<br /> 怒りの身体を震わせる俺だったが、はっきり言ってどうしようもない。<br />このままでは佐々木や家族が犠牲になるかも知れないんだ。それだけはどんなことがあっても……<br /> ……いや待て。そういや、古泉が言っていなかったか？ ここだと無線での連絡ももう取れないって。<br /> その事実を思い出したとたん、俺は勝ち誇ったような気分になり、<br />「だからどうしたってんだ。そんな脅迫に応じるつもりはねえよ。勝手にやればいいさ。できるならな」<br /> 急に強気になった俺を見た多丸兄弟は、不思議そうに顔を見合わせるが、やがて二人そろって嘆息し、<br />「仕方ないな。こういう手段は好きじゃないんだが……」<br />「意外と傲慢な人間だったんだね。でも、後悔することになるよ」<br />「好きにしやがれ」<br /> 俺は耳に入った二人の言葉を吐き捨てるように言う。これは完全なハッタリだ。無線連絡はここから確実にできない。<br />だからこそ、二人はまるでこっちの焦りを誘うように、じっと見つめたまま一向に指示を出そうとしないんだ。<br /> だが、次の裕さんの言葉で俺の足が自然と動いた。<br />「君の要望通りにしてあげるよ。あ、ひょっとしてここからじゃ無線は届かないからハッタリだと思っている？<br />それなら無線が使える地域まで移動すればいいだけさ。そんなに遠くじゃないからね」<br />「……この野郎っ！」<br /> 俺は全力で一番近くにいた圭一さんに飛びかかった。さすがにこの動作は予測していなかったのか、<br />俺の体当たりを完全に食らった圭一さんは俺ごと茂みに突っ込む――次の瞬間、俺に強烈な落下感が襲った。<br />茂みの向こう側が高さ５～６メートルの崖になっていたのだ。<br /> 俺たち二人は組み合いながら悲鳴を上げて落下する。着地と同時に鈍い衝撃が俺を襲うが、運良く圭一さんがクッションに<br />になったおかげでダメージは思ったより大きくない。だが、感謝なんかしねえぞ。<br /> 一方、二人分の重量の衝撃を背中に受けた圭一さんが少しもだえるような表情を見せたが、すぐに立ち上がると<br />どこから取り出したのか右手に構えたナイフを俺に斬りつけてきた。<br /> 斬撃をかわすべく俺は圭一さんと距離を取ろうとして気がつく。俺たちがいる場所は崖の途中にある出っ張りの上に過ぎず、<br />少しでも動けばまた１０メートル程度下まで落ちてしまう。これじゃ、まともに避けられねえぞ。<br /> すぐに自動小銃を構えようとするが、どこにもないことに気がついた。ノートを読んでいたときは肩にかけていたはずだ。<br />恐らく圭一さんに殴られたときにどこかに落としてしまったのかも知れない。あるのは腰にある拳銃だけ――<br /> だが、圭一さんがそれを抜かせる時間を与えてくれるわけもなく、またナイフで俺に襲いかかる。<br />とっさにナイフが握られている腕をつかみ、必死にそれの移動を妨げようとするが、力の差は歴然だ。<br />ゆっくりとナイフの刃が俺に向けられてくる。おまけに圭一さんの顔は完全に怒りに染まっていた。<br />おいおい！ 我を忘れて俺を殺すか！？<br /> このままではやられる。そう判断した俺は、一か八かで足払いをかけた。腕に集中力が向けられていたためか<br />圭一さんはあっさりとバランスを崩す。俺は間髪入れずに崖の下へ突き落とそうと、力の限りはねとばそうとするが、<br />「うわっ！」<br /> 思わず悲鳴を上げたのは俺だ。崖の下に落下し始めた圭一さんは死なばもろともと言わんばかりに、俺の迷彩服の胸ぐらを<br />つかんだからだ。当然、不意打ち状態だった俺は一緒に崖下へと落下する。<br /> …………<br /> …………<br /> …………<br /> 俺は自分が意識を失っていることに気がつき、はっと目を覚まして起き上がった。周りを見ればすぐ隣に横たわった圭一さんの<br />身体がある。目を見開いたまま指一つ動かなかったが、それもそのはずだ。まるで仕組まれたかのように眉間にナイフが<br />突き立てられているからだ。完全に……死んでいる。<br />「うっ……」<br /> 始めて見る死体に、俺は猛烈な嘔吐感に襲われた。あまりのひどさにリバース寸前まで来たが、すぐにそれも収まった。<br />目の前の木に一発の銃弾が命中したからだ。とんできた方向を考えれば、俺の頭すれすれに放たれたものだったということは<br />すぐにわかった。<br /> 俺はとっさに近くの岩の陰に身を潜める。すぐに３発の銃弾が俺のそばに着弾した。<br />どうやら裕さんが俺を銃で狙っているようだ。<br />「くっそ……もう何が何やら……」<br /> はっきり言って展開が急すぎてついて行けていない。頭の中は大パニック状態だぜ。<br /> そう愚痴りつつも、俺は拳銃を取り出し裕さんの姿を探し始める。と、崖の上をちらりとかすめる影の存在に気がついた。<br />移動していく先は緩やかな下り坂になっていて、その内崖下につながるだろう。隠れている場所を把握されている以上、<br />こっちも移動しないとまずいな。<br /> 俺は足音を殺しつつ、別の岩の陰に隠れた。この位置なら裕さんが移動している下り坂がよく見えるはずだ。<br />「……いた」<br /> 予想は大当たりだった。裕さんはまだ俺が移動したことに気がついていないのか、拳銃を構えながら堂々と崖下めざして<br />歩いている。拳銃で狙うには距離が遠すぎるが、弾は届く距離だ。<br /> 銃を構えようとして一瞬躊躇という言葉が脳裏に過ぎった。圭一さんの死は事故だ。偶然といっても良い。<br />だが、今から俺がやろうとしていることは完全に裕さんを殺すという行為だ。当たり前の話だが、俺は生まれてこの方<br />人を殺したことなんてない。朝倉は宇宙人だから例外だ。そんな俺に撃てるのか？<br /> ――彼女をとんでもなくひどい目に遭わせることだってできるんだ――<br /> 裕さんの言葉が脳内にリピートされた瞬間、俺の頭から躊躇なんていう感情は完全消滅した。ここで撃たなければ、<br />佐々木や俺の家族の命が危ないんだ。迷っている暇はねえ。やるしか……<br /> ゆっくりと銃口を歩く裕さんの方に向ける。向こうはまだ俺に気がついていない。撃ち合いになれば勝てる相手ではない以上、<br />ここで確実に仕留めるしかない。<br /> 撃て、撃て、撃て、撃て――当たれ、当たれ、当たれ、当たれ……<br /> 俺は念じるように唱え、そして拳銃の引き金を引いた。パンという鼓膜を貫く発砲音と硝煙匂い。<br />やがて、裕さんの歩みが止まりぐらりと崖下へとその身を落下させる。<br />「……当たった」<br /> 俺は呆然とつぶやいた。一発で命中し、裕さんはそれで命を散らせた。そう俺は裕さんを撃ち殺した――<br /> 殺人を自覚したとき、俺はもう嘔吐感に抵抗もできずもどし始めた。人を殺したという感覚。<br />ドキュメンタリーかなんかでこういった症状を引き起こすことがあるっていうのは知っていたがこれほどとは……<br /> 数分間、そのまま俺は動くことができなかったが、はっと気がつく。さっきの発砲音を聞きつけて森さんたちが<br />こっちにやってくるかもしれない。その前にノートを回収してとっとと身を隠さなければ。<br />今なら俺が機関の事実を知ったのではなく、敵に襲われたと言い逃れができるかも知れないんだから。<br /> 俺は岩陰から飛び出すと、裕さんの死体に駆け寄る。こめかみに銃弾が直撃したみたいで即死だったようだ。<br />自分が死んだことすら理解していないように、目を見開いたままぴくりとも動かなかった。<br />幸いなことに、手にはノートがしっかりと握られていたので、それを引きはがすように取り戻すと立ち上がって――<br />「どこに行くつもりですかな？」<br /> 俺の後頭部に冷たいものが押しつけられていることに気がついて、身体が硬直した。同時に聞こえてきた声の主は、<br />「……新川さん。見ていたんですか？」<br />「ええ、一部始終全て見させて頂きました」<br /> 新川さんも多丸兄弟と同じように、いつもと変わらぬ口調だった。だが、明らかに俺の後頭部に押しつけられているのは<br />拳銃だ。そして、すぐにでも引き金を引きそうな殺気がそこから放たれていることを感じる。<br /> と、今度は崖の上から誰かが飛び降りてきた。森さんだ。<br /> しばらく地面に死体となって転がっている多丸兄弟を一瞥した後、俺の目をしっかりと見つめて、<br />「……面倒なことをしてくれましたね」<br /> そう冷たく言い放った。その時の森さんには昨日見た屈託のない少女の顔はなく、恐ろしいほどに洗練された殺し屋の<br />素顔があった。<br /> <br />◇◇◇◇<br /> <br />「話せ、この野郎っ！」<br /> 俺は森さんと新川さんに両腕を掴まれ、ＳＡの駐車場に連行された。そこには困ったような表情を浮かべる古泉と、<br />ばつが悪そうに目をそらす谷口の姿があった。どうやらこの二人も完全にグルみたいだな。<br /> やがて、俺は古泉たちの前に跪かせるように座らせられた。両腕をがっちりと固められたままなので、<br />まるで磔に架けられたような感覚に陥る。<br /> そんな俺を古泉の野郎は目を細めてしばらく見つけていたが、やがてわざとらしく大きなため息を吐くと、<br />「全く面倒なことをしてくれましたね。この先は更なる障害があるだろうと予測はしていましたけど、<br />まさかあなたが反乱を起こすとは思っていませんでした」<br />「……反乱だと？ 今まで俺を散々だましていたのはどっちだ」<br /> 俺は森さんと同じことを言うニヤケ野郎を睨み付ける。だが、古泉は全く動じることなく、<br />「仕方がないでしょう？ 本当のことを言えば、あなたが僕たちに協力する可能性は皆無ですから」<br />「当たり前だろうが！ お前ら機関はハルヒに全責任を押し付けただけじゃなくて、ハルヒの意思を無視して<br />能力だけを奪い取ろうとしたんだ。絶対に許せねえ」<br />「ですが、それも仕方のないこと」<br /> 俺の怒りに返答してきたのは、新川さんだった。じっと俺の目を見つめ、言葉を続ける。<br />「あなたには理解できないことなのでしょう。ＴＦＥＩ端末や情報統合思念体というものがどれほどのものか<br />直に見たことがないのですから。ですが、私たちはその強大な力にずっと触れ続けてきました。<br />彼らの力は私たちの住む世界など指一つ動かすだけで作りかえられます。この星の存在が危険だと認識すれば<br />即座に抹消されるかもしれませんな。所詮はこの世界など彼らの手のひらの上で踊るちっぽけな存在でしかない」<br /> 新川さんに続き、森さんも口を開く。<br />「機関という組織ができ、ＴＦＥＩ端末と初めて接触したその日から私たちはただおびえる毎日でした。<br />気の向くままに世界を作り変えかねない涼宮ハルヒという存在と情報統合思念体という強大な存在の両方に。<br />そんな中、私たちができることは涼宮ハルヒの精神状態を安定させ、情報統合思念体の観察に<br />支障をきたさないことだけです。そのため機関は奔走する羽目になりました。まるで主に仕える奴隷のようにです。<br />そんな状態に私たちはいつまで耐えればよいのですか？」<br /> その問いかけに俺は答えられず黙っていることしかできなかった。さらに森さんは続ける。<br />「機関だけではなく、この世界そのものが涼宮ハルヒと情報統合思念体の玩具にすぎないのです。<br />だからこそ、私たちはその奴隷・モルモット的状態に陥っている世界を救わなければなりません。<br />ですが、その方法が全く見つからなかった。どうすればよいのかすらわからなかった。<br />そんな袋小路の状態のときに、ようやく救世主が現れた」<br />「……天蓋領域ってやつか」<br />「その通りです。彼らは涼宮ハルヒの存在に強い興味を示していましたが、彼らもまた情報統合思念体により<br />その行動が移せずにいたのです。この時点で両者の利害は完全に一致していて、協力関係になるまで<br />さほど時間を有しませんでした。機関は涼宮ハルヒを天蓋領域に提供する代わりに、その能力を使わせてもらう。<br />情報統合思念体などという全てを超越した存在に対抗できるだけの力を有することができれば、<br />人類は強大な存在に縛られず、自由に自らの意思で判断できるようになり、真の独立を勝ち取れるのです」<br /> 森さんの演説じみた言葉は、国木田ノートに書かれていたことと全く同じだった。<br />もうノートの内容に間違いはないと思っていいだろう。<br /> 古泉は二人の演説を黙って聞いていたが、やがて腕を組んで俺に見下すように顔を近づけると、<br />「どうですか？ お二方の主張を聞いても、まだ僕たちに協力する気にはなりませんか？<br />拘束状態から脱して、自由を得るということは人間なら誰しも望むことですよ？」<br />「……そのためにはハルヒがどうなってもいいって言うのかよ？」<br />「やむ得ないと考えられます。大事の前の小事なんて考えるに値しません。恨むのなら、涼宮さんがあのような能力を<br />持ってしまったことを恨むしかないですね」<br /> 古泉は表情一つ変えずに淡々と言ってくる。<br /> はっきり言って納得できねえし、理解する気もねえ。確かに機関の主張は誤りではないだろう。<br />だが、ハルヒが神がかり的な能力を得てから４年間、水面下ではいろいろあったとはいえ<br />世界は特に変化なく続いていたはずだ。それをぶち壊して混乱状態に置いたのは機関じゃねえか。<br />こんな惨事になるくらいなら、そのままハルヒをそっとしておいた方がずっとマシだったんだ。<br /> 一向に納得しない古泉は珍しくいらだちの表情を浮かべて、<br />「わかりませんかねぇ……自決権の取得は何に変えても保持しておくべきものなんですよ。<br />それが民族的感情というものです。どうしてあなたはそれを理解しようとしないんですか？」<br />「俺はそんなものなんて意識したこともないし、たとえ意識した今でも今までどおりの生活が続けられるなら<br />必要ないと断言できるぞ。確かにおまえら機関の働きがあってこそだから、それには素直に感謝するけどな。<br />だが、プライドだけにこだわった自決権とやらを得るためには、どんな犠牲を払ってもかまわないと言い出すなら<br />大きなお世話だと言ってやる」<br />「人類の生存権を取り戻すためには多少の犠牲は避けて通れません。それに涼宮さんはやむえない犠牲として、<br />また人類を救った英雄としてずっと祭られ続けるんです。悪くない待遇だと思いますよ？」<br />「それも気にいらねえ。まるでハルヒを道具か何かとして見ていやがるからな」<br />「人類が独立するためには神ですら利用する。それが生存本能というものです」<br />「……古泉、もういいわ」<br /> 俺と古泉の会話をぶった切ったのは森さんだった。いつの間にやら、その手には薬物らしきものが入った<br />注射器が握られている。<br />「これ以上説得しても無駄だと判断します。ですが、人類の悲願達成のためにはどうしてもあなたの力が要る。<br />そのためにはどんな手段でも用いるつもりです」<br />「……また脅迫か。言っておくが、俺の知り合いに少しでも手を出したら、二度と協力なんてしないぞ。<br />当然、手を出さなくても協力するつもりはねえけどな」<br /> 俺はそう森さんに強がって見せるが、正直どうすればいいのかわからなかった。本当に佐々木や家族たちに<br />手を出されたらどうする？ しかし、だからといってハルヒを代わりにに差し出すなんてことはできない。<br /> だが、森さんから返ってきた言葉は予想外のものだった。<br />「いいえ。脅迫という手段は時として有効です。そうすれば、あなたの身体は私たちの指示に従うでしょうけど、<br />心は反発したままです。そのような不確定要素を保持したまま作戦の遂行に支障をきたしかねません。<br />ですから、薬物注射であなたの思考能力を奪います。こちらとしてはあなたの外見上の存在だけでも<br />十分に大きな効果が期待できると考えていますので」<br /> 森さんの手に握られた注射器が俺に向けられる。どうやら、あれは何でも言うことを聞かせられるようになる<br />魔法の薬のようだな。冗談じゃねえぞ。あれを挿されたらもう反抗のしようがなくなる。<br /> 俺は必死にそうはさせまいと森さんと新川さんを振りほどこうとするが、力の差は歴然のようでびくとも動かない。<br />一方で古泉はただニヤニヤしながら、俺に注射器が刺さるのを見つめている。<br />「古泉！ おまえはＳＯＳ団にいたときに言っていたじゃないか！ 今ではＳＯＳ団副団長としての立場の方がいいって！ <br />機関を一度だけ裏切るとも言っていたよな！ あれは全部うそだったのか！？」<br />「……懐かしい話ですね。当然、方便に過ぎませんよ？ あなたや涼宮さんに取り入るためのでまかせです。<br />僕があくまでも機関から派遣された人間であることをお忘れですか？」<br /> 冷酷に言い放つ古泉に俺は愕然としてしまった。全部嘘だったってのか？ 俺はそんな嘘にころっと騙されて……<br /> ゆっくりと俺の腕に注射器が近づけられてくる。抵抗もできず、助けも呼べない。もうどうすることもできないのか。<br /> ――だが、突然森さんと新川さんが俺の両腕を離し、後方へ飛びのいた。同時に俺の両脇を銃弾が飛んでいく。<br /> 何が起きたのかわからず、俺は辺りを見回すとやや離れた場所に谷口が立っているのが見えた。<br />どういうわけだか、俺――いや、森さんたちに自動小銃の銃口を向けている。そして、<br />「キョン！ 早く逃げろっ！ 急げっ！」<br /> そう言いながら今度は古泉に向けて撃ち始めた。理由はわからんが、とにかく感謝するぞ谷口。<br /> 俺はすぐに近くの林に向かって走り始めた。谷口も俺をかばうように銃を撃ちながら続いてくる。<br />「すまねえ谷口！ 恩にきるぞ！」<br />「いいからとっとと走れよっ！ すぐ追いついてくるぞ！」<br /> 谷口の言うとおりだった。俺たちがようやく林に飛び込んだあたりで、<br />「新川――！」<br /> 遠くから森さんの声が聞こえてくる。そして、次の瞬間一発の銃声が鳴り響き、後ろを走っていた谷口の身体が<br />前のめりに倒れようとしていた。俺はあわてて足を止めて谷口の身体を支える。<br />見れば、のどの一部から大量の出血が起きていた。谷口自身はショック状態に陥っているのか、<br />ほうけた表情のまま声一つ上げずに固まっている。撃たれたのは確実だった。<br />「くそっ！」<br /> 俺はすぐに谷口を背負うと、林の中を走り始めた。<br /> <br />◇◇◇◇<br /> <br />「谷口っ！ おいしっかりしろよっ！」<br /> 俺は林の中にあったくぼみの中に逃げ込み、そこで谷口の容態を確認していた。喉の辺りを銃弾が貫通したようで<br />出血がひどく、全く手の施しようがない。このままではいずれ死に至るだろう。<br />だが、治療なんて俺にはできるはずもなく、ただ小声で谷口を呼びかけることしかできなかった。<br />「……すまねぇ……」<br /> ようやく自分が瀕死の状態であることを理解したらしい谷口は、ほそぼそと俺に語りかける。<br />俺は今にも泣き出しそうな気持ちで、<br />「謝るのは俺の方だっ！ どうして……なんで俺をいきなり助けたりしたんだよ……！」<br />「……我慢できなかった……これ以上、お前を……キョンを裏切り続ける……ことが……」<br />「だからってお前が死んだら意味がないだろうがっ！ 頼む！ 死ぬなっ！」<br /> 俺の必死に呼びかけに応じたとしても、谷口の容態が回復するわけもなく、次第に顔は白くなり<br />手も血の気が引いたようになってきた。俺は……ただそれを見ていることしかできなかった……<br /> しばらく、谷口は息苦しそうに呼吸を続けていたが、やがて俺の手を握ると、<br />「キョン……ごめんな……騙しちまってごめんな……」<br />「いいんだっ……気にするなっ……」<br /> もう俺の目からは土砂降りのごとく涙があふれ出ていた。長く付き合ってきた友人が目の前で息絶えようとしている。<br />そして、俺はそれを見ていることしかできない。悲しさと悔しさともどかしさが入り混じり、頭がおかしくなりそうだった。<br /> そして、谷口が続けた言葉。俺はこれで完全に我を忘れてしまう。<br />「こんなことやりたくなかったんだ……。でも、あの子と家族が人質にとられていて……」<br /> これを聴いた瞬間、俺は頭が爆発するんじゃないかというほどの血が上り、ひどい頭痛とめまいに襲われた。<br /> ノートは全部読めなかった。だが、最後に書いてあった内容に、谷口は国木田以上にまずい状態にあるとされていた。<br />それが家族や恋人を人質にとられているっていうことだったのだろう。<br />「機関にスカウトされたときに……俺は最初は断ったんだ……でも、そうしたら奴らあの子が<br />どうなってもいいのか言い出しやがった……当然、家族もだ……俺はＮＯとは言えなかった」<br /> 目もうつろで谷口は独白するように続ける。やがて、俺の方に顔を向けると、<br />「俺が死んだら……あの子と家族はどうなるんだろう……？」<br />「……わからない」<br /> 谷口の問いかけに俺は首を振って答えることしかできなかった。<br /> 次第に、俺の手を握っている谷口の力が弱くなっていく。<br />「キョン……頼む……あの子と俺の家族を……助け……助けて……」<br /> その言葉を最後に、谷口の口が動かなくなった。俺の手から谷口の手がするりと抜け落ちる。<br /> 俺は谷口が息を引き取ったことを確認すると、開いたままだった目を閉じてやった。<br /> そして、俺は谷口の武器を取り出すと、くぼみから立ち上がった。この時点で俺は完全に自分を見失っていた。</p> <p> ……あいつら全員ぶっころしてやる……！<br /> <br />◇◇◇◇<br /> <br /> タタタタと俺はＳＡ近くの山の頂上から自動小銃を撃ちまくっていた。目標はＳＡ内を移動していた<br />森さんと新川さんだ。距離は遠いが十分に届く距離ではある。<br /> だが、距離が遠いためか二人には全く命中しない。それがわかっているのか、二人とも物陰に隠れることもなく<br />じっとこちらを伺っているようだった。なめやがって。とはいっても、俺もここで撃ち殺せるとは思っていないけどな。<br /> しばらくこのまま撃ち続けていたが、森さんたちは一向に動こうとしない。こっちの目的が何なのか考えているのか？<br />それとももう俺の意図を悟られた――<br /> バスっという鈍い音が聞こえたとたん、俺の思考が完全に停止した。見れば、俺の３０センチ右側にある木の幹に<br />銃弾が当たったような痕ができている。当然ながらさっきまでなかったものだが……<br /> 俺はとっさに双眼鏡で森さんたちの様子を伺った。そこには、自動小銃をこちらにぴたりと構えて立っている<br />新川さんの姿があった。<br /> すぐに俺は身を翻してその場から走り出した。すると、まるで俺の姿を追うように背後を銃弾が飛んでいく。<br />あの距離からこれだけの精度で射撃できるのか。とてもまともに撃ち合って勝てる相手ではない。<br /> どのみち最初から正攻法でどうにかできる相手とは思っていなかったんだ。落ち着いて作戦通りに進めよう。<br /> <br />◇◇◇◇<br /> <br /> それからの森さんたちの動きは早かった。俺が山を降りると、まるで瞬間移動でもしてきたかのように<br />新川さんが俺の前に立ちふさがる。しかし、すぐには銃を撃ってこなかった。そりゃそうだな。<br />俺を殺してしまえばハルヒの元へはたどり着けないってのが機関の見解なんだから。<br />それが唯一の俺が有利な状況である。<br /> 新川さんは自動小銃を投げ捨てると、歳に似合わない機敏な動きで俺に迫ってきた。<br />俺は近づけないように後方に下がりながら自動小銃を乱射するが、まるでこないだの朝倉のように機敏な動きで<br />全くヒットする気配がない。本当に改造人間か何かじゃないのか！？<br /> すぐに目前まで間合いをつめられると、新川さんはラリアットのように腕を回転させて俺にぶつけてくる。<br />俺はぎりぎりのところで身体を後ろにそらして、それをやり過ごした――が、今度は足払いをかけられて<br />バランスを崩してしまった。続けざまに頭をつかまれると、今度はヘッドロックをかけてきた。<br />身体が引き裂かれそうな痛みで悲鳴を上げる。しかし、それでも口からは絶対に悲鳴を上げなかった。<br />ここで痛みに身を任せればそれ以上動けなくなるかもしれないからだ。<br /> ただし、別の意味での声は上げる。<br />「痛い！ 痛い！ 首が折れる！ 死ぬ死ぬ！」<br /> 自分でも演技くさいとは思うが、新川さんは俺を殺すことができない。オーバーにリアクションをとれば<br />絶対に力を緩めるはずだ。<br /> 案の定、ほんの少しだけヘッドロックの力が弱る。それはそれで身体が動くようになったことを感じ、<br />すぐさま腰に入れていた拳銃を取り出すと、新川さんの腹の部分に密着させて数初発射した。<br /> 驚いた新川さんは俺から飛びのく――んだが、何でまだ動けるんだ？<br /> その理由はすぐにわかった。新川さんが自分の迷彩服を調えるように引っ張るとばらばらと銃弾が地面に落ちた。<br />防弾チョッキか――いやだから！ いくら貫通を避けられても、あれだけの衝撃を受ければアバラが折れたり、<br />内臓のどっかがいかれてもおかしくないはずだろ！？ やっぱり改造人間か何かなのか！？<br /> やはりまともに相手をするわけにはいかない。俺はまた自動小銃を撃ちながら、新川さんから走って逃げ出した。<br /> <br />◇◇◇◇<br /> <br />「……来たか」<br /> 前方の獣道を新川さんが歩いてくるのを、茂みの中で身を潜めていた俺は確認した。<br /> あの後、全速力で俺は逃げ出したんだが、不思議なことに新川さんは追ってこなかった。<br />いや、走って追いかけてこなかっただけだが。おかげでこちらの準備にもある程度余裕ができた。<br /> 新川さんが歩いてくる獣道には、俺が仕掛け爆弾のトラップが仕込まれている。<br />あと数メートル新川さんが前進すると、獣道に張っておいたロープに足を引っ掛け、その衝撃で<br />両脇に仕掛けてある手榴弾のピンが抜けるという寸法だ。いくら防弾チョッキをつけていても至近距離で手榴弾の破片を<br />浴びれば、身体の中まで機械製とかでない限り耐えられまい。<br /> 新川さんがトラップの位置に迫る。さあ来い。一歩先で谷口の仇をとってやる……<br /> だが。<br />「新川」<br /> 突然かけられる声。その発生源は俺のすぐ横だった。あまりの脈絡のなさに俺は一瞬声を上げてしまいそうになるが<br />あわてて手で口を覆う。<br /> 見れば、いつの間にやら森さんが俺の右数メートルの位置に立っていた。全く気がつかなかったぞ。<br />本当に瞬間移動ができるんじゃないだろうな？<br /> しかし、幸いなことに森さんは俺の存在までは気がついていないようだ。そのまま新川さんの元に近づき、<br />「迂闊よ。これを見て」<br /> そう言って持っていた自動小銃の先でトラップのロープを突っつく。ちっ、もうちょっとだったのに、<br />森さんに気がつかれちまったか。<br /> ――だが、それがばれるのも計算のうちだ。正攻法じゃあの人たちにはかなわないからな！<br /> 俺は手元に引かれているロープ２本を思いっきり引っ張った。気がつかれることを考えて、こちらからでも<br />手榴弾のピンが抜けるように細工しておいたのさ。<br /> すぐに森さんたちはピンの抜ける音に気がつき、逃げようとするが即座に周辺の手榴弾４発が炸裂した。<br />映画とかとは違い、手榴弾が爆発しても火が出たりはしない。代わりに激しい衝撃と火薬の中に混ぜられていた鉄くずが<br />周辺に飛び散り、草木が悲鳴を上げるかのようにざわめいた。<br /> しばらく砂煙がたちこめ視界が利かない状態になった。俺は確認したい気持ちをぐっと抑え、<br />煙が晴れるのをじっと待った。<br /> ２～３分ほど立つと砂煙は完全になくなった。森さんと新川さんが折り重なるように地面に倒れているのが見える。<br />俺は本当に死んだかどうか確認すべく茂みから出て、二人の元に駆け寄った。<br /> 二人とも顔がささくれるようになりスプラッタ映画状態だ。白目をひん剥き、どうみても生きているようには見えない。<br />「…………」<br /> 俺はしばらく呆然とそれを見つめる。谷口の仇を取ったという気分よりも、あの二人がこんなに簡単に<br />くたばるだろうかと不安になってしまう。<br /> だが、立ち止まっている場合ではない。まだ古泉が残っている以上、こんなところで立ち止まっている場合ではない。<br />俺は２，３回頭を振ると、その場から走り出した。<br /> ――違和感は確かにあった。だが、罪悪感は全くなかった。<br /> <br />◇◇◇◇<br /> <br />「動くな」<br /> 俺は自動車道の上で古泉の後頭部に拳銃を突きつけていた。森さんたちに任せておけば安心だと思っていたんだろうか。<br />能天気にぼけっとしているもんだからあっさりと背後に取り付けてしまった。<br />「おやおや、まさか森さんたちを出し抜いてきたんですか？ ちょっと以外ですね」<br /> 淡々とそんなことを言ってきやがった。背後に立っているせいで古泉の表情は見えなかったが、<br />どうせいつものニヤケ顔なんだろう。余裕じゃねえか。<br />「まず、国木田のノートを返してもらおうか。後で告発の証拠として使わせてもらうからな」<br />「どうぞ」<br /> 古泉はあっさりとノートを俺に背を向けたまま渡してきた。俺はそれをズボンにねじ込む。<br />「さて……これからどうするつもりですか？」<br />「確認したいんだが」<br /> ――俺は一拍置いてから、<br />「はっきりと言っておくぞ。森さんと新川さんは死んだ。多丸兄弟もだ。これで機関の人間はお前だけってことになる」<br />「そのようですね」<br />「谷口は脅迫されていた。家族と恋人を人質に取られて無理やり連れて来られたらしい」<br />「知っています」<br />「……お前は違うのか？ もう他の連中はいない。正直に答えてくれ」<br /> 俺は祈るようにその言葉を古泉に告げる。そうだ。お前も谷口と同じように機関から脅迫されていたんだろ？<br />でなけりゃ、こんな命を賭けた仕事なんてやるはずがないからな。それにお前は超能力者だから機関から<br />目をつけられる理由も十分にある。さあ、答えてくれ。そうだって。<br /> だが、古泉が言い放った言葉は、俺を完全に裏切った。<br />「答えはＮＯです。僕は僕自身の意思で機関に所属し、ここまでやって来ました。<br />誰からも強制されていませし、脅迫も受けていません。僕はね、心底機関に忠誠を誓っているんですよ。<br />得体の知れないこんな超能力を持っているにもかかわらず、彼らは僕を必要としてくれました。<br />待遇もすごくいいですし、今の立場に非常に満足しています。あと、機関の上層部が持っている人類独立の目標にも<br />強く賛同していますから」<br />「そうかよ……！」<br /> 俺は古泉から返された裏切りの返答にはき捨てるように答える。さっき言っていた通り、今までＳＯＳ団として<br />なじんできているのは全部フリだけだったのかよ。ハルヒや朝比奈さん、長門、そして、俺を裏切ってきたのか。<br />「それが僕の任務だったんですよ。涼宮さんに近づき、できるだけ理想である人物を演じ、ずっと機会を伺う。<br />全ては機関の指示――そして、理想を果たすためにね。これで満足ですか？」<br />「……ああ、満足だ。初めててめえの本音が聞けて、俺の怒りは最高潮だからな……！」<br /> 俺の頭の中にあった最後の希望の火は完全に消えてしまった。古泉が裏切った――いや、最初から仲間ですらなかった<br />ことがわかってしまった以上、もうあのときのＳＯＳ団には戻れない。俺の知っている胡散臭いが信頼できる古泉は<br />もうどこにもいなくなってしまったのだから。<br /> 裏切られた怒りともう元には戻らないという絶望。両者が入り混じり俺は軽いパニック状態に陥っていた。<br />おかげで何のためらいもなく引き金を引けそうだがな。<br />「質問はそれだけですか？ では次は？」<br />「……今考えているところだよ」<br /> 俺は苛立ちをこめて返す。正直、古泉が脅迫されているんだと信じていたし、そうであってほしかった。<br />だから、万一そうでないときのことなんて全く考えていなかったのが本音だ。しかし、混乱しているためか<br />どうするべきかなかなか頭が回らない。<br />「そうですか……！」<br /> ――次の瞬間、古泉がくるりと振り返ったかと思うと、俺に向けて腕を振り回した――いや、その手に握られている<br />ナイフで俺を切りつけてきたんだ。<br /> そして、俺は反射的に一発の発砲する。狙ったつもりはなかったが、その銃弾はきれいに古泉の額に命中した。<br />撃たれた衝撃で古泉は仰向けに倒れる。<br />「……ちくしょうっ！」<br /> 目を見開いたまま、路面に大の字で倒れた古泉を見て、俺は毒づいた。ピクリとも反応しないところを見ると<br />完全に即死だったのだろう。苦しむ暇もなく、自分が死んだことにすら気がつかないように呆然とした表情を浮かべていた。<br />「何で……こんなことになっちまったんだよ……」<br /> 俺は力なく路面に座り込んでしまう。<br /> ハルヒの無実を証明するため、ＳＯＳ団としてまた日常を過ごすために俺はここにやってきた。<br />にもかかわらず、その内の一つがかなわぬ夢と化してしまったのだ。この先、俺一人で北高まで向かい、<br />ハルヒを助け出してきたとしても、もう以前のようなＳＯＳ団はできない。事故にあったあの日より前にはもう戻れないだ。<br /> それを認識したとたん、俺はどうしようもないけだるさに襲われた。何もする気が起きない、何もしたくない……<br />「でも、そういうわけにはいかないんじゃない？」<br /> 唐突にかけられた声。俺が顔を上げると、そこには消えたはずの朝倉涼子の姿があった。<br />なぜだ？ 古泉と長門に消されたはずじゃなかったのか？<br /> 俺はあわてて立ち上がり拳銃を向けようとするが、持ち前の高速移動であっという間にそれを取り上げられてしまった。<br />そして、すぐに自動車道の外に投げ捨ててしまう。<br />「安心して。あなたに危害を加えるつもりはないの。ただ、ちょっと話したいことがあるだけ」<br />「……何の話だ？」<br /> やわらかい微笑を見せる朝倉だが、俺の警戒心が解かれることはない。こいつには何度も危ない目にあわされているんだ。<br />今だって安心させておいて、ドスッとやられかねない。<br /> 朝倉はまず手に持っていたノートを開き――いや待て！ あれは国木田のノートだ。俺が持っていたはずなのに<br />いつの間に奪いやがったんだ？<br />「ごめんね。ちょっと借りるわよ」<br />「返せ！」<br /> 俺はあわてて取り返すべく飛び掛るが、それをひらりと朝倉はかわしてノートを読み続ける。<br />相変わらず、あの異常な身体能力は健在なようだ。これじゃ、捕まえようがねえ。<br /> しばらく俺との鬼ごっこが続いたが、やがて朝倉は全てのページを読み終えると、<br />「ふーん。大体、理解できたわ。で、このノートの結果がこれ？」<br /> 朝倉は死体となって動かなくなった古泉を指差す。俺は朝倉を追い回したおかげで上がりきっていた呼吸を整えつつ、<br />「ああ、その通りだ。人のことを散々騙しやがったからな。当然の結果だ」<br />「へえ、でもこのノートに書かれているのって、あたしのポエムだけど？ それでどうしてそんな結果に？」<br />「……は？」<br /> 朝倉から返ってきた想定外の言葉に、俺は間の抜けた返事をしてしまった。バカ言え。<br />そこには国木田が書いた機関の悪行の告発が書かれているんだぞ。<br />「読んでみたら？」<br /> そう言って朝倉は俺にノートを投げつける。そして、それを開いて見て驚愕した。<br /> そこにはさっきまで読んでいたはずの国木田の告発文が一切なく、代わりに女性が書いたような丸みを帯びた文字が<br />並んでいるからだ。全てのページを見ても同じ状態になっている。いや待て――<br />「……偽物とすり替えやがったのか。本物はどこに隠したんだ？」<br />「ううん、それはあなたから借りたときと全く同じものよ」<br />「嘘をつけ！ 俺が読んだノートはこんな……」<br /> 俺はそう激高しながらノートへ再度目を落としたときに気がつく。そこには俺が知っているあの国木田の書いた<br />告発文が並んでいた。<br />「どういうことだ？ 何がしたいんだ？」<br /> 朝倉がノートに細工をしているのか。だが目的が分からない。そんなことをやって何の意味がある？<br /> 訳が分からなくなって、朝倉を怒鳴りつける。だが、朝倉は全く動じず、<br />「ま、大体分かったけどね。もうちょっとそのノートを読んでみたら？」<br /> とりあえず、朝倉の言うように俺はもう一度ノートを読み始めた。同じ内容だと最初は思った。だが何かが違う。<br /> 告発の内容は大筋では一緒だった。だが、微妙にページの位置がずれていたり、俺がさっき古泉から<br />聴かされた裏切りの言葉まで書かれている。最初に読んだときはこんな内容はなかったはずだ。<br />まだ読んでいなかった部分かと思ったが、それはもっと先ページの箇所だった。どうなってやがる……！？<br /> さらに気がついたが、ページをめくったりしているうちに、同じページであるはずなのに内容が<br />微妙に異なっていることに気がついた。内容ではなく、改行の位置やページを跨ぐときの最後の文字が違う。<br /> まさか……と思いつつ俺は、今度はあることを念じながらページをめくって見た。<br />すると、頭に浮かべた内容がそのままページに書かれているではないか。<br />「ど、どういうことだよ……！？」<br /> 俺は明らかに動揺していた。思ったことがそのままノートに書かれる？ そんな馬鹿なことがあってたまるか。<br />それなら――それが本当なら――<br /> 朝倉は頭がこんがらがっている俺から再度ノートを取り上げると、<br />「思ったとおりの内容がここに書かれるみたいね。結構面白いわね、これ。<br />でも、こんな惨事の原因となったノートの内容もあなたが思い浮かべていただけの妄想ってことになるんじゃない？」<br /> ドクンっ……俺の心臓が跳ね上がった。そんなわけがない。そんなわけがないんだ。<br />ああ、そうだ。このノートに書かれている内容がただの妄想っていうなら、古泉たちの言っていたことと<br />明らかに矛盾することになるんだぞ。ここに書かれているとおりのことを機関の連中は口に出していっていたんだ。<br />ただの俺の妄想だったら、古泉たちは当然それを否定するはずだ。<br />「あら、このノートもっと面白いことができるみたい」<br /> そう言って朝倉はノートを見つめ始める。すると、ＳＡの建物が突然大爆発を起こし木っ端微塵に砕け散ってしまった。<br />なんて事しやがる――<br /> だが。<br /> 俺の脳裏にある可能性がよぎった。いや、これもただの妄想に違いない。そんなご都合主義なことがあってたまるか。<br />あるわけがない。ありえない！<br /> だが、朝倉が俺に告げた内容は、<br />「このノートに書いてあることは現実にも反映されるみたいね。ああ、なるほど。だから、あなたの妄想が<br />ノートに反映されてそれが現実になってしまったってことみたいね」<br />「バカ言え！ そんなわけがあってたまるか！ そんな馬鹿げた話があってたまるか！ そんなわけが――」<br />「でも、それが現実よ。ここは閉鎖空間。何が起こっても不思議はないわ」<br /> 朝倉の声がとても冷たく感じた。<br /> あるわけがない。<br /> あってたまるか。<br /> なぜなら。<br /> なぜなら！<br /> そうならば、俺が古泉たちを……<br /> あんな非道な連中に仕立て上げたことになっちまう！<br />「あなたがそれを全て考えていたわけじゃないかも。きっと誰かの誘導は入っているはずよ。<br />でも、あなたはちょっとそれらしいことを吹き込まれただけでそれを信じ、あまつさえ妄想を拡大させてしまった」<br /> やめてくれ。<br />「本心の部分で疑ってしまっていた。だから、他の人たちを信じられなかった。信じられると思っているなら、<br />こんなノートとっくに破り捨てているはずだしね」<br /> やめてくれ！<br />「そう……これはあなたが無実の人たちを殺したことと同じ。どうする？ どうやって責任を取るつもり？」</p> <p> 閉鎖空間に俺の悲鳴が響く……<br /> </p> <p>～～その４へ～～<br /></p>
