「生徒会長の悪辣」の編集履歴(バックアップ)一覧に戻る

生徒会長の悪辣 - (2007/05/13 (日) 00:04:39) の編集履歴(バックアップ)


※このお話は『えれべーたー☆あくしょん』の後日談です※


「はーっ…」


 何とは無しに手に取った文庫本をパタンと閉じて、わたしは小さく息を吐きました。ダメです。内容が全く頭に入ってきません。

 そもそもわたしはなぜ、こうして放課後の図書室で時間を潰すような真似をしているのでしょうか。今日も生徒会室で会議があるのですから、さっさと行ってお茶の用意でもしていれば良いのに。
 頭の中で自分自身がそう言っているのですが、なぜだか体の方が動こうとしてくれません。


「恨みますよ、長門さん。あなたがあんな誘導尋問みたいな物の言い方をするから…」


 そう、あれ以来わたしは会長の一挙手一投足が、やたらと気に掛かるようになってしまいました。意識のし過ぎで、彼の前では動作がひどくギクシャクしてしまうほどです。そんな自分の姿を晒したくなくって、わたしはこんな無為な時間を過ごしているのです。


 ふぅ、とわたしはもう一度、息を吐きます。いいえ、長門さんを責めるのはお門違いですね。確かに彼女はわたしの意向をある方向へ作為的に向けさせようとしていましたが、それは長門さんなりのエールだと捉えるべきでしょう。何かあれば協力する、という意味合いの発言もありましたし。
 長門さんは長門さんで、情報端末と人間とのコミュニケーションに関して、何かしら思う所があるのでしょうね。でもだからといって、変にわたしを焚きつけられても困るのですが。


「そう、ほんの数日前まで…わたしはただ彼の部下で、それだけでいいと思っていたのに…」


 今では“それ以上”を望んでいる自分が居て。わたしはわたし自身に戸惑ってしまいます。
 それ以上…部下以上? たとえば、本当の意味でのパートナーとして…?


「お前は有能だな、江美里」


 眼を細めて微笑む、会長の秀麗な顔立ちが脳内で構成されます。そうしてわたしの頭をやさしく撫ぜてくれたなら――。
 次の瞬間、わたしはハッと我に返りました。気付かぬ内に、わたしは両手で掴んだ文庫本で、ばっしばっしと自分の頭を叩いていたようです。慌てて左右を見渡し、近隣にこの痴態を見ていた者が誰も居ない事を確認したわたしは、文庫本を書架に突っ込むと頬に熱を帯びたまま、そそくさと図書室を後にしました。


 何でしょう、今のは。最近、同様のエラーが頻発しています。自分に都合の良い場面を妄想して、それにひたる。もう、恥ずかしいなんてものではありません。正気に戻る度にいつも、己の卑小さにげんなりしてしまうほどです。
 でもその妄想には、それだけ抗い難い魅力があるのです。エラーのはずのデータを、なぜか削除もしないで放置してしまうくらいに。そして気が付くと、またそれを再生している自分が居たりするのです。そんな異常データで埋め尽くされたログファイルが、ここ数日でもう既に…。


「…そろそろ生徒会室へ行きましょう。まかり間違って会議に遅刻でもしたら、それこそ会長に怪しまれてしまいますし」


 努めて平静なフリをしながら、わたしは誰にともなく、そう呟きました。ええ、いずれにせよ会議には出席しなければならないのですから。単純にそれだけの事です。結局やっぱり会長にお会いしたくなったとか、決してそういう事ではありませんよ?




 そうして廊下を進んでいたわたしは、途中でふと窓の外に、向かいの校舎の角を曲がろうとしている人影を見かけました。その先はいつぞやわたしが新入生の子から告白を受けた、普段はほとんど人気のない場所です。
 あの人もまた、そういった用件で呼び出されたのでしょうか。そんな思いで何気なく目を凝らしたわたしは、途端に息を詰まらせてしまいました。だって、その人影は。少し物憂げな表情で大股に歩を進めている長身の男子は、他でもない生徒会長その人だったのです。


 思わずわたしは窓枠に駆け寄り、両手を掛けて身を乗り出しますが、会長の姿はすぐに死角に隠れて見えなくなってしまいます。元よりそういう場所だからこそ、告白などに利用されているのでしょう。

 告白。その単語の響きに、わたしは血流がサーッと引いていくような錯覚に陥りました。が、すぐに2、3度頭を振って、わたしは冷静さを取り戻します。
 落ち着きなさい、喜緑江美里。ただの憶測で取り乱すなど、人間の小娘でもあるまいし。わたしは穏健派のヒューマノイドインターフェース。抑えるべき情報を抑えた上で、適切な行動を選択しなくては。


 そう自分に言い聞かせて、わたしは向かいの校舎裏の視聴覚情報と瞬時にリンクを結びました。以前にも述べた通り、わたしたち情報端末は未検索の情報に関してはひたすら無知ですが、代わりに知ろうとして知れない事柄などほとんど無いのです。この程度の遮蔽物など、何の障害でもありません。

 けれどもそうして得られた情報に、わたしはまた息を呑んでしまいました。会長を待ち受けていたのは、一人の女生徒。会長の靴音に、彼女は自分の体が隠れてしまいそうなほど豊かで艶のある黒髪をふわりと翻らせ、軽やかに振り向きます。


「やっはー、よく来てくれたねっ。わざわざのご足労、感謝するよっ!」
「ほう。あの手紙の呼び出し主は、キミだったか」
「そ、意外だったかい?」


 仁王立ちで両手を腰に当て、えっへんと胸を反らせて屈託の無い笑みを浮かべるその人物の事は、わたしもよく存じています。あながち涼宮ハルヒと無関係でもない、どころか、多分に影響力のある存在ですから。でも――。


「どうして…鶴屋さんが、会長と? まさか…?」


 そこから先を、わたしはなぜか言葉にする事が出来ませんでした。
 鶴屋さんとはクラスこそ違いますが、わたしたちの学年で彼女の事を知らない人は、まず居ないでしょう。人間の抽象的な表現を用いるなら、『華のある人』となるでしょうか。いつの間にか皆の中心に居て、けらけらと明るく笑っている。文化祭や球技大会などのイベント事では特にムードメーカーとして、非常に目立つ存在です。
 その鶴屋さんが、なぜ会長と二人で密会を? 会話から察するに、どうやら彼女の方から会長を呼び出したようですが。


 そういえば学年性別関係なく人気のある人なのに、なぜか鶴屋さんからはあまり浮ついた噂が聞こえてきません。彼女の生家は、この界隈では財経面で多大な権勢を持ち、『機関』にさえそれなりの出資をしているそうですが、そういう家柄ゆえに実は色恋沙汰には割と慎重になっているのでしょうか。
 だとしたら、選びに選んだ末に彼女は今日、会長に白羽の矢を…?


「い、いえ、まだそうと決まったわけじゃありません。こういうのは往々にして下衆の勘繰りなんですよ、ええ!」


 自分をゲス呼ばわりするというのも、何か悲しいものがありますが。そんな事も気にならないほど情報取得に集中しきっているわたしとは裏腹に、会長はまったく普段通りのクールな態度で、鶴屋さんに応じていました。


「ふむ。意外かと問われれば、まさしく意外だったな。キミからはあまり良い目で見られてはいないようだと、私自身はそう思っていたのでね」

「そうっさねぇ、ハルにゃんや有希っこたちをイジメるよーなら、おねいさん黙っちゃいないよっ!って、目を光らせてた時もあったにょろ。
 でもそんな会長さんの雰囲気もここんとこ、ちょーっと変わってきたみたいだし? あたしもいっぺん、腹を割って話しときたいなって思ってさ」
「それは光栄の至り。と言いたい所だが、私もそれなりに忙しい身でな。今日もこれから生徒会の会議がある。出来れば手短に願おうか」


 腕組みをして斜に構え、相手を値踏みするような眼差しの会長に対して、鶴屋さんは全く臆する様子も無く、ポンポンと弾むような口調で話を続けています。
 これは…逢引というよりは、むしろ果たし合いっぽい感じですね。例えて言うなら、相対する水戸黄門と悪代官のような。ええ、どちらがどちらとは敢えて言いませんけれども。
 ともかく、わたしの心配はやはり杞憂だったようです。そうして、わたしがホッと胸を撫で下ろした瞬間。しかし鶴屋さんは、意表を突く質問を口にしました。


「んじゃ、単刀直入に訊くっさ。最近、会長さんは書記の子、えーっと、喜緑さんと一緒に下校してるみたいだよね? 二人は付き合ってるのかい?」
「ふっ、特に否定はしないでおこう」
「じゃあ、その提案はどっちからだったのかなっ?」
「私の記憶が確かなら、彼女の方からだな」
「へえーっ、そんじゃさ…」


 そう、長い髪の下で両手を組み、会長の顔を下から覗き込むようにして、鶴屋さんはまっすぐに訊ねかけたのです。


「たとえば、の話だけど。たとえば他の女の子が、自分も会長さんと一緒に帰りたい!って願い出たりしたら…まだ一考の余地はあったりするのかな?」
「なっ…!」


 思わず驚きの声を上げてしまって、わたしは慌てて口元を押さえました。いえ、この距離ではあの二人に聞こえているはずは無いのですが。代わりにわたしの後ろで廊下を通り抜けようとしていた男子生徒が、

「うおっ!?」


と背筋を引きつらせて飛び退き、それからヘラヘラとした愛想笑いでわたしの顔色を窺ってきます。
 何でしょう、うざったいですね。わたしがキッ!と鋭く睨み据えると、彼は


「WAっ…WAWAWAわ~すれ~もの~」


険悪な空気をごまかすつもりなのか、調子外れの歌を口ずさみながら、及び腰で逃げるように去っていきました。ああもう、苛立たしい。腹いせに情報連結でも解除してさしあげましょうか。


 って、わたしは何をそんなにカリカリしているのでしょう。いけません、こんな瑣末な事柄に気を取られている場合ではないのです。会長の返事をきちんと聞き届けなければ。
 ええ、これはむしろ、あの人の考えを聞く絶好のチャンスじゃないですか。会長、今こそハッキリ仰ってください!
 祈るような面持ちで見守る、わたしの視線のその先で。くいっと指先で眼鏡のフレームを押し上げた会長は、おもむろに口を開きました。


「その質問はつまり、そういう事だと解釈して良いのかな?」
「やっははは、そもそも興味が無かったら、こんな質問してないっさ」
「ふふん、物好きな事だ。しかし、そうだな。私は可能性はとことん追求する主義ではある。一考の余地があるかないか、と問われたなら、“ある”と答えよう。
 斬り込めそうな隙があればまず跳び込んでみる、という考え方は嫌いではないしな。それはさておき、キミは――」


 そこから先を、わたしは聞く事が出来ませんでした。
 別に、何の障害が発生した訳でもありません。ただなぜか、わたしはその先を「聞きたくない」と思ってしまったのです。
 こんな事は初めてです。わたしは情報統合思念体によって造られた、ヒューマノイドインターフェース。情報を収集する事こそが、わたしの存在意義のはずです。それなのに――


――知る事が恐い、そんな風に考えてしまうなんて。




 小走りにその場を離れたわたしは、とにかく誰とも顔を合わせたくなかったのでしょう、気が付くと女子トイレの個室で、ぼーっと突っ立っていました。


「ふ、ふふふっ…」


 ひとりでに、口から笑いが洩れます。だって、いずれこういう日が来る事は、わたしには分かっていましたもの。

 ええ、鶴屋さんとはベクトルこそ違いますが、会長だって女子には人気があるんですよ? 端整な顔立ちに、怜悧な立ち振る舞い。選挙でも断トツの女生徒票が勝敗を決したのだとか。
 上昇志向が強く、演技とはいえ涼宮ハルヒにすら平気で文句を付けられるほど厳然とした人なので、これまでは遠巻きに憧れているだけの娘が多かったのですが。鶴屋さんならば容姿の面でもアクの強さでも、そうそう会長に引けは取らないでしょう。


 そうです。会長の判断は至極真っ当なのです。どこにもおかしな点などありはしません。
 そもそも会長が『機関』の指令に従っているのは、主に進学面での見返りを期待しての事です。首尾よく大学に入学したその後は、官僚か実業家でも目指すつもりだとあの人は以前、尊大に語ってくれた事がありました。どうせなら使われる側より使う側の人間を志したいものだ、と。

 そんな会長にとって、鶴屋家の財力は非常に魅力的であり、もしも鶴屋さんその人から交際を申し込まれたなら、それは一考の余地があるどころの話ではないでしょう。
 わたしから見ても、鶴屋さんは好意に値する人間であり、双方共にメリットのある案件だと考えられます。そして、何より…。


「だから言ったじゃないですか、長門さん。
 わたしと会長は、そんな関係じゃありませんよって。変に焚きつけられたりしても困りますって――」


 そう、もしも鶴屋さんのような、何ひとつ文句の付け所が無い女性から交際を申し込まれたなら。会長が導き出す答えは、最初から決まっているのです。なにしろ彼は人間で、私は人間じゃないのですから。


「本物のパートナー? ちゃんちゃらおかしいですね。
 第一、情報端末たるわたしに、人間ごときのパートナーなんて…最初から必要じゃ…ないんですよ…」


 そう呟くと、これまで散々わたしを悩ませてきたエラーの類が、スーッと消えていくのが実感できました。ふふっ、なぁんだ…こんな簡単な…事だったんですね…。


 ええ、これは当然の帰結です。わたしと会長は、単に利害関係の一致から、仮面恋人の約定を交わしていただけですもの。それが解消される日が、ほんの少し早く訪れただけ。
 頬を伝って流れた一粒の水滴は、きっと最後のエラー。わたしが動作不良に悩まされるような事は…もう、無いのでしょう…。




 それから、十数分後。わたしはいつもと何も変わらない足取りで、生徒会室へ向かっていました。脳波、脈拍ともに正常。何ひとつ問題ありません。いえ、むしろ今ならまったく支障なく書記職を務められる自信があります。

 ええ、既にエラーデータの整理は付けましたもの。もはや会長と顔を突き合わせたところで、わたしの所作に差し障りが出るような事は微塵も――。


「なんだ、喜緑くんじゃないか。奇遇だな」


 瞬間、ぎくうっと胸の奥で何かが軋むのをわたしは覚えました。わたしが生徒会室のすぐ手前まで迫ったその時、廊下の反対側から姿を現したのは…なんというタイミングの悪さでしょう、生徒会長その人だったのです。

 い、いえ、これは別に運命的な巡り合わせなんかじゃないですよ。会長だって会議に間に合うように足を運んだのでしょうから、ここで鉢合わせたのも正常な可能性の範囲内です。そうに決まってます。


「今日は日直などではなかったと思ったが。何か用事でもあったのかね?」
「ええ、まあ。少しばかり想定外の事が、図書室の方で…。そう言う会長こそ、今日はずいぶん遅めのお越しじゃないですか?」
「うむ。こちらも急なヤボ用が入ってな」


 何がヤボ用ですか。さっきまで鶴屋さんと楽しそうに語らってた事くらいとっくにお見通しなんですよこの女ったらし!


「ど、どうかしたのか、喜緑くん?」

「はい? わたしはいたって普段通りですが」
「どこがだ。そんな風に口を三角にしたキミは初めて見るぞ。アヒルの真似でもあるまいに」


 眉をひそめつつ、会長はそう指摘してきました。え…? 口が、三角? わたしが、そんな表情をしている? そんな馬鹿な!?


「おいおい、しっかりしてくれたまえ。まさか、五月病に罹ったとでも言い出すつもりかね、キミが?」


 わたしが情報端末である事をご存知の会長からすれば、それは単なる軽口のようなものだったでしょう。けれどもその一言に、わたしの胸でまた、ぎくりと軋み音が鳴りました。


「五月病…環境適合不全症候群…。そう、なのかもしれません。エラーの削除さえきちんと行えないほどに、わたしは…」


 さーっと顔から血の気が引いていくのが、よく分かります。もはやわたしは情報端末として、不適格なのかもしれません。もしそうならば、いずれわたしは処分され、代わりに別の情報端末が――。


「喜緑くん? どうした、本当に病気なんじゃあるまいな?」 


 そんなわたしの青ざめた様相を勘違いしたのか、気が付くと身を屈めた会長の顔が、すぐ目の前にありました。って、えっ? えええっ!?


 こ、これは、削除し損なったエラーデータの暴走なのでしょうか? いつの間にか会長の額が、わたしの額に…押し当てられて…。

 なんて、なんて残酷なエラーなんでしょう。わたしが会長の事を諦める決断を下したその直後に、こんな――。


「ふむ。顔は赤いが、熱は特別高いというわけでもないようだな。

 しかし眼は潤んでいるし、身体もふらついているぞ。どこか苦しい所はないのか?」


 いいえ! や、やっぱりこれは現実です! いつになく心配そうにわたしの顔を覗き込んでくる会長から、わたしは慌てて身を翻しました。


「だ、大丈夫です! わたしは何とも…」
「あいにくだが、全く大丈夫そうには見えん。とにかく、まずは保健室で先生に診て貰うべきだな。必要ならば病院への手配も…」
「大丈夫だって言ってるじゃないですかっ!」


 驚いた事に、わたしは会長をそう怒鳴りつけていました。唖然とした表情の会長に向かって、わたしはまるでわたしではないように、さらに金切り声を突きつけます。


「あ、あなたに! そんな風に気を使われたりしたら、わたしは余計に苦しくなるんですっ!
 中途半端な優しさなんて見せないでください! どうせ! どうせあなたは、わたしの事なんて…ただの………としか――」


 エラー。エラーエラーエラー。
 エラーとしか言いようのない衝動が、わたしの中でぐるぐると渦を巻いています。ああ、やっぱりわたしは壊れかけの不良品なんですね。

 もはや何もかもがどうでもよくなって、わたしはダッと、廊下を反対側に向かって駆け出しました。後ろで会長が何事か声を張り上げましたけれども、振り向く気なんて起こるはずがありません。いいんです、もうどうだって。不良品のわたしに居場所などないのです。だからもう、わたしを放っておいてください。

 これ以上、優しいフリなんてしないでください。お願いですから――。




 そういえば朝倉さんが独断専行を起こしたのは、ちょうど1年ほど前の事でしたね。
 わたしはその時、なんて愚かな事をと、そう思ったものです。せめて行動する前に、統合思念体に自分の判断の是非を問うてみるべきだったでしょうに。


 でも実際、自分が異常な状態に置かれてみると、統合思念体とコンタクトする気さえ起こらないもので。制服に学生鞄を提げたまま、行く当てのないわたしが結局いつものマンションにとぼとぼと帰ってきたのは、既にとっぷり陽が沈みきった頃でした。

 家に帰った所で、不良品のわたしに、もはややるべき事などありはしないのですけれど。ただ帰宅していた方が、わたしの処分がし易くなるでしょう。その役を担うのが長門さんなのか、それとも他の情報端末なのか、それさえ今のわたしにとっては別にどうでもいい事です。


 そうしてエレベーターを降り、自宅の扉に歩み寄ったわたしは、部屋の換気扇が回っている事に気が付きました。室内に、誰かが居るようです。合鍵を渡した相手などはもちろんいませんから、おそらく長門さんか他の情報端末でしょう。さっそくわたしを処分ですか。手回しがいいですね。

 ほとんど諦めムードで、薄い笑みさえ浮かべて、わたしはドアノブを回します。そうして、玄関に一歩踏み込んだわたしを出迎えたのは。


「遅いッ!!」


 そんな、鋭い一喝でした。


「いま何時だと思っている!? 女子高生がふらふらと出歩いていい時刻ではないぞ、この馬鹿者が!」
「は、はあ、すみません…。いえ、でもあの、それよりこちらの質問に答えて頂きたいのですが…」


 轟然と怒声を叩きつけてくるその人物に、呆然というかほぼ脱力状態のわたしは、ただそう訊ねるので精一杯でした。


「どうして、会長がわたしの家に…? しかもエプロン姿でフライパンを持って…?」
「どうしてもこうしてもあるものか。料理をするのに、エプロンとフライパンが必要なのは理の当然だろうが」
「いえ、ですからそうではなくて。なぜ会長がわたしの家で料理を…」
「何にせよ、玄関先で長話でもあるまい。まずは上がって食卓に着け。話はそれからだ」


 あご先をくいっとリビングの方へ向けて、会長はわたしをそう促します。激しく今さらですが、どうしてあなたはそんなに居丈高なんですか。ここはわたしの家のはずですよね?
 あー、もういいです。逆らう気も起こりません。言われるままにわたしがテーブルへ着くと、会長はキッチンから、絞った布巾を放って寄こしました。


「いま料理を温め直しているから、お前はテーブルを拭いておけ。まったく、こういうのは出来たてが一番美味いというのに…」


 眼鏡と一緒に優等生のペルソナも外してしまっている会長は、何やら呆れ顔で文句をこぼしています。が、あなたの横暴に文句を言いたいのはこちらの方です。
 そう言いかけて、わたしはようやくその時、テーブルの上の細い花瓶に活けられた、白と淡いピンクの花に気が付きました。


 これは…アネモネ、ですか。もちろん会長が持ち込んだ物ですよね。ひょっとして、会長はいまだにわたしが病気か何かで調子が悪いのだと勘違いしていて…勝手に料理を作ったりしているのも、彼なりのお見舞いのつもりなのでしょうか。
 やれやれ、ですね。わたしの動作不良の最大の原因は会長、あなただというのに。呑気なものです。わたしは人差し指の先で花弁が幾つも重なりあった小さな花を撫ぜ、ふぅと溜息を吐きました。
 でも、なぜでしょう。こうしていると先程まで自暴自棄になっていた心が、不思議と落ち着いていきます。


「本当に、傲慢な人…。そのくせ華美になり過ぎないように、2輪だけ花を飾るなんて。そういう節度はわきまえてるんですよね…」


 やがて、わたしが片付けたテーブルの上に、会長の作った料理が次々と運ばれてきました。醤油の焦げた匂いも香ばしい、肉と野菜たっぷりの焼うどん。ゆで卵やきゅうりとマヨネーズを和えたポテトサラダ。卵とワカメのかき玉スープ。
 ふうん、割とちゃんとした料理ですね。野菜の切り方などはさすがに男の人っぽいというか、ざっくばらんな感じですけど。
 さあ喰え、それ喰えと言わんばかりに眼を光らせている会長に少々閉口しながらも、いただきますと両手を合わせたわたしは、まず焼うどんにお箸を付けました。


「あ…普通に美味しいです」
「なんだ、普通とは。失敬だな」
「いちいち突っかからないでください。別に悪い意味じゃなくて、もっとこう酷い味なんじゃないかと身構えてたものですから。意外に手馴れてらっしゃるんですね」
「………ふん」


 わたしの言葉に、テーブルを挟んだ向かいに腰を降ろした会長は、妙に不機嫌そうに食事を始めます。どうして男の人というのは、家事関連の手際を褒められても素直に喜べないのでしょうね。とても不思議です。
 まあ、そういう所を何故か『かわいい』と思ってしまう自分も、不思議と言えば不思議ですけれど。

 くすっと笑えるほど平静さを取り戻したわたしは、食事を続けながら穏やかに会長に訊ねかけました。


「会長、あなたをここに招き入れたのは…長門さんですね?」
「ああ、そうだ」


 やっぱり。他の可能性は、ほぼ考えられませんもの。鷹揚に頷いた会長が、それから語ってくれた所によると。

 あの後、会長はわたしが“急病で会議に出席できなくなった”旨を生徒会の面々に告げ、必要事項だけを連絡して解散(元々、定例会議だったので急ぎの案件等は無かったそうです)。すぐにわたしと連絡を取ろうとしましたが、携帯もつながらないので古泉一樹経由で長門さんに協力を要請。SOS団の活動後にマンション前で合流して、二人でこの部屋を訪れたそうですが…。


「結局、ここも無人だったのでな。諦めてよそを探そうかと考えていたら、長門くんが先に部屋を出て行った。
 俺もその後に続こうとしたのだが、何故か玄関の扉が開かない。鍵はもちろん掛かっていないにも関わらず、だ」


 億劫そうに、会長は肩をすくめてみせました。それが長門さんの施した情報封鎖だと、知識としては分かっても、この人には何ら対応策がなかったのでしょう。


「で、図らずも閉じ込められてしまった俺は特にやるべき事もなく、冷蔵庫の中のありあわせの材料で適当に料理なんぞして時間を潰していた、という訳だ」


 いい迷惑だと書いてあるかのような表情で、会長は一通りの説明を締めくくりました。なるほど、望むと望まざるとに関わらず、会長はこの部屋でわたしの帰りを待つ他なかったのですね。

 これが長門さんの言っていた『協力』の仕方なのだとしたら、余計なお世話だと言わざるを得ません。困ったものです。でもこうして会長とひとつ食卓を囲む事が出来たのが、彼女の配慮のおかげなのも確かですし。一応、感謝はしておきましょうか。
 ありがとう、長門さ――


「まったく、こんな面倒はもう勘弁して貰うぞ? 無理なダイエットで余計なストレスを溜め込むなど、愚かしいにも程がある」
「はい、すみませ…って、ダイエット!? 何ですかそれは!」


 一瞬、素直に謝りかけたわたしは、次の刹那には情報端末らしくもなく、大声で会長を問いただしていました。


「違うのか?」
「ガセのデマに決まってるじゃないですか、そんなの!」
「ふむ。それが一番可能性が高いと、長門くんは実にもっともらしく俺に忠告してきたがな。そのせいでキミが怒りっぽくなっているから、注意するようにと。それに――」


 むかむかむかむか。先程まで長門さんに捧げられていた感謝の思いが、あっという間にドス黒く塗り潰されていきます。えーい、何の嫌がらせですかこれはッ!


「第一、わたしにダイエットが必要だと本気でお考えなんですか会長は!? 事と次第によってはタダじゃ済みませんよ!」


 虚偽情報を信じ込まれてはたまらないと、わたしはいつになく凄みを利かせて、会長に迫りました。

 ところが。
 会長は怯える事もなく、わたしの眼をまっすぐに見返してきたのです。わたしの心をぞくりと震わせる、あの冷たい瞳で。


「――それに。
 ここ数日、お前の挙動がおかしかったのは事実だろう」


 うぐっ。気付かれてたんですか。わたしが会長の事を意識しすぎて、態度がぎこちなくなっていた事に。

 悔しいです。悔しいですけどでも、なんだかんだで会長はちゃんとわたしの事を見てくれているんですね…。
 それに、この料理。よくよく考えてみれば、口当たりが良くて栄養価の高そうな物ばかりです。会長本人は、『他にやる事がなかったから』『ありあわせの材料で』『適当に料理してみた』と言っていましたが、もしかしてこれはわたしの身体の事を思って作られた…?


 目を伏せたわたしは、今日何度目かの溜息を洩らします。そうしてわたしは空になったお皿の上に、静かにお箸を置きました。


「ごちそうさまでした。
 時に、会長。折り入ってお話があります」

「何だ、かしこまって」
「…わたしと会長が一緒に下校するようになったのは、煩わしい恋愛事を避けるための便宜的な措置、でしたよね」


 感情を殺し、淡々とした口調で、わたしは会長に呼びかけていきます。


「ですが、もう引き際が来たようです。わたしたちは偽装恋人の契約を破棄し、元の関係に戻るべきだと思われます。
 勝手ばかりを言って、申し訳ありませんが」


 そう、席を立って丁寧に頭を下げたわたしは、会長にハッキリと告げました。


「今日までわたしの演技にお付き合い頂き、ありがとうございました」



 終わりました、ね。これで。
 でもこれで、狂った歯車が元通り回り始めるでしょう。だからいいんです。もう十分です。この一晩の記憶だけで、わたしは…。


「つくづく愚かだな、お前は」


 自分にそう言い聞かせていたわたしを現実に引き戻したのは、会長の憂いを帯びた一言でした。


「人がわざわざ道化を演じてやっているというのに。いつかの柏餅の一件のように、今日の事も冗談か何かで済ませようとしたなら、俺もそ知らぬ顔でその欺瞞に乗ってやったものを」


 はーっと、わざとらしく大きな息を吐いた会長は「せっかく立ったんだ、茶でも淹れて貰おうか」とわたしを促しました。

 

「本当は、別の物で一服したいのだがな」
「…それはご遠慮願います。わたしはこの部屋にニコチンの成分を染み込ませたくはありません」
「まったく、どこまでも融通の利かない奴だ」


 努めて冷静に受け答えようとするわたしの前で、会長は不満げな顔で胸ポケットから取り出しかけたタバコとライターを、しまい直します。
 そうして、わたしが急須から注いだ湯飲みのお茶を一口すすった会長は、湯気の向こうからいきなりズバッと話を切り出しました。


「喜緑江美理。お前、俺と鶴屋の会話を盗み聞きしていただろう」

「………っ」
「やはりな。単純な消去法だが、今日の出来事の中でお前があれほど取り乱すような要因は、他に思い当たらん」


 別に咎めるでもなく、会長は淡々とそう指摘します。その普通さが、逆にわたしの心をキリキリと締め上げました。


「お前が偽装恋人の契約を破棄したいだとか言い出したのも、それが原因か」
「はい…その通りです」
「ふん。しかし、解せんな? 俺が他の女から告白を受けたとして、契約破棄を提案するのはやはり俺の方からだろう。お前が破棄を願い出た所で、何の利得もないはずだが。違うか?」
「それは…でも、遅かれ早かれの問題でしょう。
 鶴屋さんと交際し、いずれ血縁ともなれば、あなたの将来にとってそのメリットは計り知れないはずです。そのチャンスを無為に見過ごすなど、確率論としてあり得ません」
「俺が鶴屋と交際…? ふむ」
「それを差し置いても。詰まる所、わたしは情報端末です。あなたがた人間とは異なる、道具としての存在です。統合思念体にとって不要となれば、いつ消去されてもおかしくありません。
 わたしたちの関係はそれを前提とした、あくまで一時的なものだったはずです。ならば会長、あなたにとって相応しい人間の交際相手が現れたなら、そちらに乗り換えるのはそれこそ理の当然と思われますが」


 毅然とした態度で、わたしは会長にそう述べ連ねます。しかし会長はこれに、ハッ、と人を小馬鹿にするような笑みで応えました。


「それで正論を吐いているつもりか? 馬鹿め、俺に言わせればお前の理屈は矛盾だらけだ」

「えっ?」
「お前は、俺にチャンスを活かすべきだと言う。いつ消えるとも知れない自分より、もっと確たる人間のパートナーを得るべきだと言う。
 だがな、喜緑江美里。いつ消えるとも知れないお前が、なぜ俺の将来などを案じる必要がある?」


 口の端を吊り上げてそう問いただす会長に、わたしは明確に答える事が出来ませんでした。


「それは…」
「お前が俺と偽装恋人の契約を結んだのは、そこにある種のメリットがあったからだろう? ならば自分が消えるまでの間、そのメリットを甘受し続ければいい。消えた後の事など、気に病む必要は無い。俺ならそう考えるが?」


 わたしを見据える、会長の冷たい瞳。わたしの論理のほころびを鋭くえぐる、詮議の言葉。
 確かに以前のわたしだったら、彼の言うようなドライな考え方をしたでしょう。お互いに利用できるだけ相手を利用する、そういう関係をこそ当然と思えたでしょう。
 でも。でも、今のわたしには――


「矛盾なんて…ありません」
「なんだと?」
「わたしがあなたの将来を案ずるのは、それに足る理由があるからです」


 わたしの意識とは関係なく、わたしの唇はそんな言葉を紡いでいました。
 これ以上先を言ってしまったなら、もう後戻りは出来ないと、頭の中でけたたましいブザー音と共に赤と黄色の警告ランプが明滅しています。しかしそれでもなお、わたしの内なる衝動は収まりません。
 もしかしたら、わたしは『強欲』という原罪に取り憑かれてしまったのでしょうか。つい先程までは「この一晩の記憶だけで十分」だとか考えていたはずなのに。


 それは、例えるなら喉の渇きに似ています。喉が渇いて渇いてどうしようもない時に、氷の浮いた冷たい水のグラスを差し出されたなら。その一杯を飲み干さずには、他の事など考えられもしないでしょう。

 今のわたしも同様です。会長から目を逸らせません。伝えずにはいられません。わたしがなぜ、こうまであなたの事で心を砕いているのか、その理由を。
 そうして意を決したわたしは、静かに、まっすぐに口を開きました。




「お慕いしています、会長。心から、あなたの事を」




 ああ、と。
 告白を遂げた、その直後。霧が晴れるように思考が澄み渡っていく感覚に、わたしは胸の内で納得していました。こうしてきちんと言葉にする事で、ようやく理解できたのです。
 この数日、全く理論的でない衝動でわたしを翻弄し続けた、数々のエラー。それは会長を一人の男性として好きだという、思慕の情だったのですね。


 情報端末のわたしには、理解不能だと思っていました。有機生命体の言う恋愛の概念なんて。でも、会長が見せるさりげない優しさに、どうにかして報いたいという願望。我が身よりも会長の存在確率をより優先させたくなる、奇妙な欲求。これが、人を愛するという事だったんですね――。

 穏やかな、そして満たされた誇らしい気分で、わたしは目の前の愛しい人を見つめます。ところがそんなわたしの視線の先で、会長はまた空々しく、はーっと大きな溜息を洩らし、そして吐き捨てるようにこう言ったのです。


「だから、お前は愚かだと言うのだ」


と。

「俺を愛しているから、その為に身を引く? ふん、詭弁で自分をごまかすのも程々にしておけ」
「詭弁!? そんな、違います。わたしは…」
「違わないな。
 ハッキリ言ってやろう。お前は覚えたての恋愛感情に戸惑い、怯え、もっともらしい理屈を付けて逃げ出そうとしているだけだ」


 口調こそ辛辣ですが、会長はまた、あの寂しさを湛えた眼差しで語りかけてきます。思いもかけない詰問に、しばし慄然としてしまっていたわたしも、その双眸の色に改めて向き直りました。


「わたしが臆病風に吹かれている、と…?」
「自分で思っているより、よほど気位が高いからな、お前は。『なんとか恋を成就させようとしたけれども、結局ただの徒労に終わりました』、そんな結末を恐れて、始めから勝負を投げているんじゃないのか?
 俺の将来のため? いかにも耳障りのいい響きだな。だが、そんな自己弁護のダシにされる俺の方は、いいツラの皮だ」


 容赦のない追及に、わたしには返す言葉もありませんでした。
 確かに。わたしが想いのたけを告白したのは、会長に受け入れて貰うためではありません。会長への恋慕を諦めるためです。何やかやと理由を挙げ連ねて、身を引くのが正しいのだと、自分に言い聞かせていたのも事実です。

 彼に言わせれば、それは敵前逃亡なのかもしれません。でも、だって…仕方が無いじゃないですか! 会長は人間で、わたしは人間じゃない、それは厳然たる事実なんですよ!?


 情報端末らしくもなく涙腺を張り詰めさせてしまって、でもそれを懸命に堪えるわたしの前で。会長は再び、はーっと沈痛な息を吐きました。


「三十六計逃げるにしかず、という格言もある。勝ち目が無いなら逃げるのもまた作戦の内だろう。
 だが、逃げるつもりなら最後まで想いは胸に秘めておくべきだし、逆に告白したのなら、その想いが叶うまで、とことん攻め込むべきだ。なのにお前は、わざわざ告白しておいて自ら背を向けるような真似をする。それが愚かだと俺は言ってるんだ。何より…」


 そこで一度言葉を切り、ふいと視線を逸らして、会長はぽつりとこう付け加えました。


「勝てる見込みのある勝負をむざむざと敵に譲ろうとするなど、愚かしいにも程がある」


 えっ?と、思いがけない一言に、わたしは目をしばたたかせます。わたしが投げ出そうとしていた勝負は、実は勝ち目があった? それって…まさか、会長もわたしの事を…?
 大きく見開かれた、わたしの瞳孔の中で。どこかわざとらしい渋面の会長は、噛んで含めるように語り掛けてきました。


「自分はいつ消去されてもおかしくない存在だと、お前は言ったな? だがそれを言うなら、俺とて明日、事故で死ぬとも限らない。それは他の人間もそうだし、宇宙的規模で言えばお前たちの親玉の情報統合思念体さえもが同様だ。自律進化の可能性を得られなければ、いずれ緩慢な死が訪れるだろう。
 だから、何をしても結局は無駄か? 違うな、肝要なのは己が存在する間に何を成すのか、だ」


 わたしたちの間で、はかなく揺れるアネモネの花。それを見つめながら、会長は滔々と話を続けます。


「花は、いずれ散る。だが散るまでの間に、人の心を慰める事ができる。それがこの花の存在意義だろう。
 対して、お前はどうだ。いつか自分は消えるから、だから諦めるだと? ふざけるな。自分で自分の存在を否定するくらいなら、今ここで死ね」
「う………」
「だがお前が生存を望むのなら…これまで通り、俺の隣に居ろ。たとえ統合思念体が、世界中がお前を不要だと言ったとしても――」


 そう、何者にも有無を言わせない口調で、会長は断言したのです。




「俺が、お前を必要としている」






 空白。
 わたしはただ、空白の中に居ました。


 なんでしょう、これは。これまで会長への思慕が生み出してきたエラーの中には、確かにこんな光景もありました。そのたび、わたしは顔を赤らめて身悶えたり、まったくわけの分からない馬鹿げた行動を取ったりしていたものです。
 でも実際、それが現実となると…。わたしはひたすら呆然とするばかりでした。あの、ほんの些細な会長の一言の中に、わたしの思考をオーバーフローさせる程の情報量が含まれていたというのでしょうか?

 分かりません。わたしは目を開けていながら夢を見ているような心地で、ただ頭に浮かんだ言葉をそのまま口にしていました。


「でも…だって、鶴屋さんが…」
「ああ、ひとつ間違いを正しておいてやろう。一体どういうわけでお前がそんな勘違いをしでかしたのかは知らんが、俺は鶴屋から告白など受けてはいないぞ」
「ええっ!?」
「あいつは単なる代理人だ。なんでも、鶴屋のクラスメートに俺に惚れていた女生徒がいたそうだがな」


 そう、わたしと会長が一緒に下校するようになった事で、その女生徒が「この恋は諦めた方がいいのかも。でも踏ん切りが付かない」と皆に相談していたそうです。
 そこで姉御肌の鶴屋さんが「そんじゃあたしが、あの二人が本当に付き合ってるのかどうか、会長さんに直に確かめてくるっさ!」と一役買って出たのだそうで。タネを明かしてみれば何ということは無い、わたしの勝手な一人相撲だったようです。


「鶴屋としては『間違っても女の子を泣かすような真似しちゃダメにょろよっ!?』と、俺に釘を刺しておくのが目的だったようだな。ともかくその女生徒に関しては、俺が丁重に断る旨を伝えると『仕方ないねっ。じゃあアフターケアはこの鶴にゃんにドーンと任せとくっさ!』と胸を叩いていたが。
 まあそれでなくとも、俺と鶴屋が付き合う事などまず有り得んだろうよ」
「そう、なんですか?」
「俺が腹に一物持って生徒会長になった事くらい、あいつにはとっくにお見通しのようだからな。その上で、今はまだ知らんぷりを決め込んでいる。まったく、喰えない奴だ。
 外見こそ能天気極まりない感じだが、あれでなかなか結構したたかだぞ? 鶴屋という女はな」


 忌々しげな口振りの割に、会長はニヤニヤと面白がる風の表情を浮かべています。そういえば、いつぞやわたしに向かって「従順なだけの部下などつまらん」とうそぶいた時も、同じような表情をしていましたね。


「当然だろう、好敵手が居てこそ勝負事は盛り上がるものだと相場が決まっている。楽しみは多い方がいい」
「やはり、わたしには理解しがたいです。自分からわざわざ困難を求めるなんて。
 …まさか、わたしが必要だというのも、そういう意味合いでですか?」


 少し棘を含ませたわたしの質問に対して、会長ははぐらかすように、ふふんと鼻を鳴らしました。


「では逆に訊こう。食事は、栄養を摂るためのものか?
 違うな、それならサプリメントでも喰らっていればいい。食事は、食事という行為自体を楽しむためにこそあるのだ」


 言いながら、片肘を突いた会長は空になったお皿の端を、箸先でチンチンと叩きます。行儀が悪いですね。


「恋愛もまた、然りだろう。誰それと付き合えばどんなメリットがある、そんな事を考えている内は、単なる恋愛ごっこに過ぎん。
 恋愛とは、恋愛それ自体を楽しむ物だ。血縁や財産が恋愛に深く関わるのは事実だが、少なくとも俺はまだ、そんな物の為に自分をごまかせるほど大人になりきれてはいない。
 『機関』の仕事は仕事としてこなすがな。だが俺は基本、好きな物を好きなように喰うし、好きな奴と好きなように付き合う。俺がお前を求めるのは、そんな単純な理由だ。それでは不服か?」


 ニヒルに笑う会長の向かいで、わたしは、ああ、と内心で呻きました。
 底意地の悪い口調。挑戦的な物の考え方。愉快げに細められた瞳。いたずらな危うさを漂わせる笑顔。でもわたしと接するのに何の欺瞞も無い、この人の挙動の全てが、わたしの心を震わせます。

 そう、情報端末としての能力を畏怖するでもなく、また女性個体としての外面的要素ばかりを盲愛するのでもなく。わたしの尊厳を大切にし、喜緑江美里を喜緑江美里として扱ってくれる、だからわたしはこの人を愛してしまったのだなあ、と。そんな実感を、わたしは全身で感じていたのです。

 でも、なぜか。いいえ、だからこそでしょうか。心を吹き抜けていく薄ら寒い風に、突き動かされるようにわたしは椅子から立ち上がっていました。


「自信満々ですね。会長のそういう所、嫌いじゃありません。でも、少し楽観が過ぎるのではないですか…?」
「なに?」
「あなたは、わたしが愚かだと言いました。でもそう言う会長は、わたしが情報端末であるという事実を、真に理解しているのですか?」


 言い捨てるなり、わたしは高速詠唱でこの部屋の位相情報を改竄します。たちまち天井も壁も、周りの家具も光の泡のように弾けて消え去り、マンションの一室だったはずの場所は、虚ろな空に黄砂が舞う一面の砂漠へと変貌していました。


「うおっ!?」


 これには会長もさすがに仰天したようで、浮き足立った様子で辺りを見回します。そんな会長の、胸元に。
 変質し、鋭利な銀色の槍となった右腕の先を突きつけて。わたしは抑揚の無い声で、冷淡に告げました。


「わたしが人間じゃないというのが、どういう事なのか。教えてさし上げましょうか。その身体に――」



生徒会長の悪辣   つづく