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『未来を紡ぐ絆』の歌 - (2008/02/15 (金) 03:11:14) の編集履歴(バックアップ)


 季節は新春。といってもまだまだ冬と言った方がちょうど良い季候であり、シャミセンも夜中に俺の布団に
潜り込んでくるのを辞めない時期である。学校生活的な表現をすれば、ちょうど三学期に突入したばかりだ。
 一年の入学式、ハルヒの奇っ怪な自己紹介から始まった非現実的な日常生活も二年に進級してからも延々と続きつつ、
それをいつの間にやら満喫していた俺ではあったわけだが、さてさて、そんな非日常生活も二学期中に
文化大革命を赤ん坊に理解させるほどに困難で面倒で複雑な事件で大きな山場を迎えたようで、
冬休みから三学期は現在のところぼちぼち落ち着いた生活が続いている。
 もちろん俺たちSOS団は今日も変わらずに通常運営中であり、ハルヒはぼけーっとネットの海にダイブ中、
朝比奈さんは買ってきた新しいお茶をいかに美味しく作るかポットに温度計を突っ込んだりして熱心に研究中、
長門は相変わらず読書していて、俺と古泉はコンピ研からゲットしたノートPCでこれまたコンピ研制作のゲームの
ネット対戦で暇を潰している。
 しかし。
 宇宙的・未来的・超能力的ではないが、俺たちSOS団に重要な変化をもたらす日が近づきつつあった。
 
 ……それは朝比奈さんの卒業である。
 
◇◇◇◇
 
「みんな集まっているわね。今日はコロンブスの西インド諸島到達よりも重要なことの発表する予定だったから、
いなかったら一週間空気椅子で活動参加強制の刑に処するところだったのよ」
 三学期に入って数日経ったある日。SOS団のミーティングにハルヒがまた何やら思いついたらしい。
俺たちを集めて腕を組み、あの実に純粋で100Wの笑顔を振りまいていた。それはさておき、そういう重要な発表があるなら
事前に言っておいてほしいものだと常々思うぞ。
 そんな俺の心の中の不満を知ることもなく、ハルヒは続ける。
「SOS団にとって絶対に外せないイベントがあることがわかったのよ。これをやらない手はないわ」
「何だ、朝比奈さんの卒業か? それは確かにパーティーの一つもやりたい気分だが」
 俺の言葉に、ハルヒはあごに手を当てて、
「そっちじゃないわよ。それについては今じっくりと準備中だから。今はそれよりも重要なことができたの。
ほら、これを見なさい」
 ハルヒが一枚のチラシっぽい紙を差し出してきた。机の上に置かれたそれは一枚しかないので、逆さまの状態で
その内容を何とか読んでみたところ、
「……卒業式の歌を募集? by生徒会」
 端的に言うとそんな内容だった。なんだこりゃ、卒業式と言ったら蛍の光とか校歌の合唱とかだろ。
それをまさか生徒たちが作った歌に置き換えようってのか。
「生徒会長の置きみやげですよ。今年の二学期からこの計画を立てて教師側へのアプローチをかけていましたからね」
「何だ、またお前らの差し金か」
 古泉の話に、俺はやれやれと肩をすくめる。大方ハルヒが退屈しないように、生徒会選挙で交代する前に、
卒業式に向けたイベントを仕込んでおいたってことだろう。朝比奈さんの卒業とも関係しているのか?
 ハルヒは胸を張って、
「これはチャンスよ! この卒業式の歌をSOS団が作ったとなれば、学校中に与える印象は最大。その影響は計り知れないわ。
というわけで、やるわよ! この卒業歌作りを!」
「……本気か?」
「もちのろんよ」
 どうやらハルヒは本気らしい。ん、だがこの歌は卒業生が作ることになっていないか? お前まだ二年だから参加資格無いだろ。
内容を見る限り、卒業生の歌って感じで行くようだし。
 ちっちっちとハルヒは指を振って、
「だからこそみくるちゃんが必要なのよ。卒業生だし、資格は大丈夫でしょ? もちろんSOS団全面協力ってことで行けば、
万事問題なし。障害も何もなく、卒業歌が作れるってモンだわ」
 偽造かよ。確かに朝比奈さんは卒業生だが、実態は絶対にお前が99%作った物になるじゃねえか。
そんな名義貸しみたいなマネを朝比奈さんもOKするわけが――朝比奈さん、聞いていますか?
「……え、あ、はい」
 朝比奈さんはどこか憂鬱そうな表情でハルヒの話を聞いていた。俺の呼びかけにも上の空で答えている。
昨日までと比べて今日の彼女はどうも様子がおかしい。
 当然、これにハルヒが気がつかないわけがない。
「ちょっとみくるちゃんどうしたのよ。体調が悪いなら保健室行く?」
「……いえ、大丈夫です」
 朝比奈さんの答えからはどうみても大丈夫そうには見えない。本当に気分でも悪いのだろうか。しかし、ぱっとみたところ、
顔色など変調を示すサインは見えないが……
 ハルヒはさらにぐっと朝比奈さんに顔を近づけると、
「ダメよ。キョンみたいなぼけっとしたタイプならそれでごまかされるかも知れないけど、あたしは納得しないわ。
いい? 悩み事とかがあるなら相談に乗るわよ。団長なんだから団員の悩みを解決するのは当然。みくるちゃんの悩みは
あたしの悩みだと思って欲しいんだからね」
「…………」
 その言葉に朝比奈さんはすっと落としていた視線をさらに下に落とした。
 ――しばらく気まずい沈黙が流れる。
 やがて、朝比奈さんは意を決したようにゆっくりと立ち上がり、
「実はみなさんに言わなければならないことがあります……」
 ただならぬ雰囲気にハルヒも一歩身を引いて耳を傾けた。俺と古泉はもちろん、長門も読書を止めてじっと朝比奈さんを見つめている。
 しばらく彼女は喉元につっかえている言葉をひねり出そうと首を数度振ってから、
「あの……もうすぐ卒業式です。あたしはそれで卒業になります」
「知っているわよ。でも、別に永遠の別れじゃないでしょ? 安心しなさい。平日は難しくても休日の不思議探索にはきちんと――」
「そうじゃないんです」
 朝比奈さんはハルヒの言葉を静止して、少し強い口調で言った。
「あたし、卒業したら……その遠くに行くことになっているんです。きっと二度とみなさんとお会いすることが
出来なくなると思っています。大学にも行けないから受験もしません。卒業したらそれっきりになると……」
 その言葉にハルヒは愕然と絶望に染まった顔を浮かべた。俺は驚きと同時に何で気がつかなかったと後悔の念がわき出る。
 朝比奈さんは未来人でハルヒの監視係だ。卒業してしまえば、常にハルヒのそばにいることは物理的に難しくなる。
落第すれば同学年になることも可能だろうが、それでは周囲から奇異の目で見られてしまうだろう。
 そう考えれば自ずと結論が出る。朝比奈さんは卒業とと同時に任務終了。となると朝比奈さんがこの時代に行く必要が無くなるため、
未来に帰ると言うことになる。ハルヒの監視係については、ひょっとしたら後任が俺たちが三年になったら
転校してきたりするかも知れない。
 周りを見れば、古泉は悲しげな瞳でうつむき、長門はただじっと朝比奈さんを見ていた。
 ハルヒは即座に納得できないと朝比奈さんの肩をつかむと、
「何で!? おかしいじゃない! 例え外国に行っても会うことは可能のはずよ。二度と会えない場所なんてあるわけがない!
ひょっとして誰かにSOS団に会うことを禁じられようとしているの? それなら即座にそいつを教えて!
今から行ってバッキバキにしてやるんだから!」
 事情を知らないハルヒの反応は自然だろう。外国でも電話や手紙でやり取りが続けられるし、インターネットが発達した現代なら
ビデオチャットでその姿を伝えることだって容易だ。
 しかし、朝比奈さんが行ってしまうのは未来だ。おまけに朝比奈さんの意思ではこの時代との行き来も出来ない。
未来側が許可を出せば可能だが、SOS団に参加したいからなんていう理由で通る可能性は皆無だ。
「みくるちゃん! 答えてみくるちゃん!」
「…………」
 納得しようのないハルヒは肩を揺さぶって問い詰めるが、朝比奈さんは視線を落としたまま沈黙を続けていた。
言いたくても言えないのだろう。禁則事項ってやつか。
 見かねた俺はハルヒのセーラ服の襟首をつかんで強引に朝比奈さんから引き離し、
「いい加減にしろ。朝比奈さんをあまり困らせるな」
「何よっ、あんたみくるちゃんがどっかに行っちゃって会えなくなっても良いの!?」
 ハルヒはそうつばを飛ばして抗議してくる。当然ながら朝比奈さんがいなくなるのは嫌だ。断固却下であり、言語道断。
絶対阻止してやりたいというのが本音になる。
 だが。
 朝比奈さんの立場を考えれば、やむえない。いつか来るとわかっていたという気持ちも俺の中にはあった。
いつか帰ることになるっていうのは朝比奈さん(大)と会っている俺からしてみれば、まさに既定事項だ。
 くそっ……やりきれねえ。
 俺はいらだつ自分の感情を抑えつつ、
「とにかくだ。朝比奈さんの事情も考えてやれ。人には言えないことは誰にでもあるだろ? それを無理やりほじくり返すのは
お前らしくないぞ」
「…………っ」
 ハルヒは苦渋のうめきを吐くと、自分の団長席に腕を組んで座ってしまった。その顔は納得したいがどうしてもできないという
自己矛盾から来る苛立ちからか、口をへの字に曲げて眉をひそめている。ついでに何かぼそぼそと不満を口にしているようだったが、
誰かに聞かせるつもりはないようでその内容を聞き取ることは出来なかった。
 一方の朝比奈さんは暗い表情のままじっとうつむいていたが、ハルヒが座ったのと同時に椅子に腰掛けた。顔はそのままの状態だったが。
 
 結局、その日の団活はふてくされたハルヒと暗い朝比奈さんという二つのダウナー要素を抱え、陰気な状態のまま終了した。
 
◇◇◇◇
 
 その日の放課後、とっとと帰ってしまったハルヒ、それに古泉と長門から隠れて、俺はこっそりと朝比奈さんを昇降口で待ち伏せていた。
大体の事情は推測できていたが、念のため確認しておく必要があると思ったからだ。
 着替えで遅れてきた朝比奈さんが昇降口にやって来たタイミングで、
「朝比奈さん」
 そう呼び止める。彼女は浮かない顔のままだった。
「……キョンくん」
「帰り、一緒にいいですか?」
 俺の言葉に朝比奈さんは黙ったまま頷いた。
 そのまま二人で校門から出て下校コースを歩き出す。冬至から二ヶ月近くたつというのに、まだまだ日が落ちるのは早く
SOS団活動が終わった頃には地平の境界にオレンジ色の帯を残すのみで、頭の上は深い青と星々の光が瞬いている。
 朝比奈さんは俺から切り出すのを待っているのだろうか、顔をうつむけたまま黙って足を進めていた。
 さて……そうなるとこっちから動くしかないか。
「朝比奈さん。質問いいですか? さっきの卒業後いなくなるっていう件についてです」
「あ……はい」
 こくりと朝比奈さん。俺は続ける。
「やっぱり未来からの指示なんですか? 卒業したらハルヒのそばにいられなくなるから、帰ってくるように命令が出ているとか」
「そうです。あたしの役目は涼宮さんの監視。でも、それももう終わり。だからこの時間平面にいる理由はなくなるから……」
 やっぱり俺の推測通りか。いつか来る日だとはわかっていたが、実際に来てしまうとこうも切なくなるものか。
俺の中ではそんな日は永遠に来なければいい――いや意図的にそのことを頭の中から排除していたのだろう。
 しかし、朝比奈さんに背負わされた責務はまだあった。
「あと、もう一つ未来からの命令があるんです。それは涼宮さんにあたしがいなくなることを納得させろということ。
詳しくは禁則事項で話せないし、あたしも全部は聞いていないからわからないけど、涼宮さんがあたしにこだわり続けると
何か問題が起きるみたい」
 朝比奈さんの口調はどこまでもダウナーだった。
 なんてことを朝比奈さんに命令しやがるんだ、未来人の連中ってのは。あの傍若無人ハルヒを納得させろなんて無茶にもほどがある。
朝比奈さん(大)の仕業か? いや、彼女ならハルヒがどんな人物だろうか理解しているはずだから、
もっと偉いところからの指令かもしれん。
 しかし、ハルヒが朝比奈さんを引き留めると困るっていうのはなんだ? そりゃ、確かに任務引き上げを妨害されたくはないだろうが、
未来に帰ることをハルヒが阻止できるとは思えない。朝比奈さんが未来人であるという認識はハルヒにはないんだから。
 いや――待てよ? ハルヒが未来に帰らせないと考えることはなくても、ずっとそばにいろと願う可能性はあるな。
そうなると、あの変態パワーとやらが発動してやっぱり阻止できてしまうんだろうか。ううむ、その辺りはよくわからん。
古泉がいたら解説してほしい気分だぜ。
 朝比奈さんは頷きつつ、
「きっとそうだと思います。涼宮さんが時間平面に悪影響を及ぼすかもしれないことを恐れている。だから、あたしは涼宮さんに
納得してもらうように努力するしか……」
 そこで言葉が詰まってしまったのか、それ以上口を開くことはなかった。
 言葉は淡々としているように見えたが、やはりどこか無理しているように感じた。朝比奈さんもやっぱり帰るのには
抵抗があるのかもしれない。一時帰省とかなら何のわだかまりもないんだろうが、永久に会えないとかでは、
死んでしまったのと同じだからな。
 ――もっとも朝比奈さん(大)がこの時代にたびたび出現していることを考えると、永久に会えないっていうのはちょっと違うが。
 
 その後、俺たちはそれぞれの帰路につくために別れた。結局最後まで朝比奈さんはうつむいたままだった。
 一人ですっかり薄暗くなった歩道を歩きながら、俺は夜空を見上げる。いつもと同じように星々が輝き、月明かりが俺を照らす。
俺にとってのSOS団は変わらない夜空みたいなものだった。それがある日突然ひときわ大きい星が一つ消えてしまおうとしている。
それが俺にとってどれだけの変化をもたらすのか。はっきり言って考えたくもなかった。
 
 しかし。
 事態はそれだけではすまなかった……
 
◇◇◇◇
 
 翌日。登校した俺を教室で待ちかまえていたのは、決意の表情を浮かべたハルヒだった。
「昨日一晩考えたんだけどさ、とりあえずみくるちゃんと会えなくなるってのは保留にしておくことにしたわ。
理由を聞くのも野暮ったいし、なんかやらしい気もするし。けどどのみちみくるちゃんが卒業しちゃうっていうのと、
遠くに行っちゃうっていうのは事実。あたしたちはそれをふまえた上で行動しなきゃならないと思うのよ」
 俺が席に着くなり、ハルヒは一方的に捲し立て始める。やれやれ、この様子じゃ諦めるなんてほど遠いようだ。
 そんなことを考えつつ、
「で、いったい今度は何をやらかそうってんだ?」
「まずはみくるちゃんを見送る会を開催するつもりよ。もちろん、全校生徒に告知した上でね。でもみくるちゃん引っ込み思案だから、
せいぜいコスプレ握手会ぐらいが限界か。まあそれでも一人500円はかっさらえそうね」
「また金取るつもりかよ。悪徳プロデューサーか、お前は」
 ハルヒはちっちっちと指を振り、
「何言ってんのよ。みくるちゃんはSOS団団員であり、本来はあの萌の固まりを拝めるのは団員だけの特権なのよ。
それを関わりも何にもない一般人に開放するって言うんだから、その視聴代の徴収は当たり前だわ。
キョン、あんただって普段は鼻の下のばしてぼけーっとみくるちゃんを見ているけど、SOS団に入っていなかったら
今頃数十万ぐらいの代金を請求しているところなんだからね」
 つばを飛ばして力説しまくるハルヒ。わかったわかった。とりあえず、朝比奈さんを泣かせない程度にやってくれ。
ついでに公的権力(教師)に連行されないようにな。恐らく――これは俺の推測だが、朝比奈さんはそれを拒むことはないだろう。
ハルヒに自分がこの時代から去ることを納得させるためには好き放題やらせておいた方がいいだろうから。
まあ、今までもなんだかんだでいろんなことをハルヒに引っ張られてやらされてしまっていたんだけどな。
「で、それはいつやるつもりなんだ?」
「詳しくは放課後のミーティングで内容を詰めるつもりだけど、善は急げよ。できるだけ早くやるわ。あまり日も残っていないから
ちゃっちゃと進めないとね。イベントの内容、衣装の選定・試着……やることは山積みなんだから、あんたもせっせと働いてもらうわよ」
 俺はここで昨日の話をふと思い出し、
「昨日話していた卒業歌の制作はどうするんだよ? そっちはやめにするのか? 募集の終了は卒業式の練習を考えて、
確かバレンタインデーぐらいじゃなかったか?」
「そっちも進めるわよ。もちろんみくるちゃん主導でね。たぶん不器用なところがあるから作曲は無理でしょうけど、
作詞ぐらいなら何とかなるはずだわ。曲の方はあたしが軽音楽部に行って作るつもり。歌詞を作ってからになるでしょうけどね」
 こりゃ年末進行ならぬ、年度末進行でえらい忙しい三学期になりそうだ。
 
 そんなわけで数日後の放課後。ハルヒは中庭に無断特設ブースを開設し、そこで朝比奈さんのコスプレ握手会を開いていた。
ビラや伝聞で集まった暇人男子生徒たちが、生者に群がるバタリアンのようにわらわらと群がって朝比奈さんを見つめていた。
 その中、朝比奈さんは困った顔をしつつも、一心不乱に握手を続け、ハルヒは無断撮影を厳しく取り締まったり、
衣装チェンジのタイミングを計ったりと進行役に徹していた。一方、俺は観客誘導をやらされ、手を振って列を先導している。
長門と古泉は朝比奈さんグッズと称したものの販売をやらされていた。
 やれやれ、本当にこの数日でイベントを立案・企画・運営・実施までやっちまうんだからハルヒの能力もたいしたモンだ。
「よっ、キョン」
「やあ大盛況だね」
 ふと声をかけられ振り返れば、そこには谷口と国木田の姿が。なんだお前らまで来たのかよ。
「当たり前じゃねーか。涼宮の懐に金を投げ込むって言うのはいささか気が引けるところはあるがよぉ、あの美貌の女神、
朝比奈さんともうすぐお別れなんだぜ? 最後に握手ぐらいしておいていたいじゃねーか」
「僕もせっかくだし、これが最後のチャンスだと思ったから」
 そう谷口と国木田。全くどいつもこいつも朝比奈さんに鼻を伸ばしたみっともない下心丸出しの顔を見せやがって。
まあ、思わず顔がゆるんでしまう気持ちはわからんでもないが。
 二人を列に並ばせると、俺は再び列の誘導を始めた。ふと、イベントの人だかりが視界に入ったときに――何とも言い表せない
違和感を覚えた。何だ? なんかが引っかかる……
 その違和感の正体を突き止めたのは、握手を求める男子生徒の半分ぐらいを裁けた辺りだったときにやってきたハルヒだった。
新しい衣装チェンジをすませてしばらくブースから離れられる余裕ができたらしい。監視係は古泉が変わって実施している。
「ちょっとキョン」
「何だよ?」
「あんた、ちゃんの事前のビラ配りやったんでしょうね? まさか途中でめんどくさくなって焼却炉に放り込んだりしたなら、
今すぐ白状しなさい。ええ、今ならみくるちゃんの握手会が終わったら、あんたの公開火あぶりショーをするぐらいですませてあげるから」
 なにが火あぶりぐらいだ。そんな中世の魔女狩り裁判みたいなイベントをやる気なら、俺は今すぐここから逃走させてもらうぞ。
それはさておき、ビラ配りならお前の貸したむちゃくちゃなノルマをきっかりとこなしたから、そんなことはやってない。
そもそも朝比奈さんの写真が載っているものを、破いたりくしゃくしゃにしたり折りたたむだけでも心が痛むというのに、
煉獄の炎の中に放り込むなんていう残虐きわまりない行為ができてたまるか。それをしたくがない故に必死扱いて、
全部のビラを手渡しで巻いてきたんだから。
 俺の反論に、ハルヒはうーむとあごに手を当てて不審な表情を続けている。
「何だよ、なんかおかしなことでもあったのか?」
「あんた気がついていないの? 古泉くんも有希もみくるちゃんも気がついていたわよ」
 そうハルヒは朝比奈さんに群がる連中を指さす。
 いや確かに違和感なら感じているさ。その正体がつかめないだけだ。せっかくだから教えてくれ。
 ハルヒは心底あきれた表情を浮かべつつ、
「少ないのよ。明らかに人が」
「なに?」
 俺は頭の上にクエスチョンマークを浮かべ、もう一度群衆を眺めてみた。同時に記憶上過去の同様のイベントの光景と重ねてみる。
 …………
 確かにハルヒの言うとおり少ない。いつもはこんなモンじゃなかったはずだ。この2~3倍の人を動員できるだけの魅力を
朝比奈さんは持っているし、実際にそれだけの人を集めていた。
 それが今回のイベントに限っては明らかに人が少ない。違和感の正体はそれか。
 ハルヒは怪訝な顔で、
「いるのは熱狂的なファンばかりよ。今までも真っ先にこういったイベントに駆けつけるような連中ばっかり。
普段はみくるちゃんのことを忘れていて、ビラを見て思い出してきたようなニワカはまるっきりいないわ。
あんたがきちんと宣伝していなかったと疑いたくなるってモンよ」
 しかし、異常事態とまでは言えないんじゃないか? 三年は受験を控えているからな。今日はまだまだ北風が身に厳しいことも考え、
興味本位の人間の集まりが悪かっただけかもしれん。
「だといいんだけど……なんかね」
 ハルヒの第六感はどうも俺のように楽観的な推測を導き出していないようだ。こいつの勘は恐ろしいものがあるからな。
俺には感じられないような臭いをかぎつけているんだろうか。
 ――結局、そのまま違和感がとれることなくイベントは終了した。
 
◇◇◇◇
 
 イベントが終わってからは卒業歌制作が本格的に始まった。予定通り朝比奈さんが作詞(ただしハルヒの監修付き)で
作曲はハルヒ(軽音楽部の協力は了承済み)で事を進めていく。
 そんな感じの日が数日続いたわけだが、いきなり作詞をやれと言われても朝比奈さんには酷すぎる話で、
「ダメよダメダメ。こんなんじゃ入選どころじゃないわ。歌詞も平凡で、どうみても仰げば尊しのパクリじゃない。
こないだは蛍の光だったし、もっとちゃんと考えないとダメなんだからね。そんなわけでこれは没。やり直しよ」
「ふえー」
 いつぞやの文芸部機関誌制作の時の状態になってしまっている。しかも、適当な話を書けばいいわけではなく、
なんというかこう歌詞って言うのはもっといろいろな要素が詰まっていないといけないだろうから、
昨日始めて今日できるようになりました~ってことはまず不可能だろう。
 結局プロデューサーハルヒにだめ出しを食らってしまった朝比奈さんは鉛筆片手にルーズリーフと涙目でにらめっこを再開した。
あまりの痛々しさに、同情心を超えて抱きしめて差し上げたくなるよ、全く。
 しかし、苦労はしているものの朝比奈さんは卒業歌制作の主導的役割を担うことに対して、ほとんど否定的な反応を示さなかった。
恐らく卒業までに二度と会えなくなるということをハルヒに受け入れさせるために、できるだけ言うことを聞いておこうと
考えているんだろう。全く考えれば考えるほど、朝比奈さんには酷な仕事だ。
 と、ここでハルヒが席を立ち上がり、
「あたし、ちょっと用事があるから外に出てくる」
「なんだ。また軽音楽部との打ち合わせか? あんまり押しかけて向こうの活動の邪魔をするのはよくないと思うが」
 最近ハルヒは頻繁に軽音楽部に出入りしている。朝比奈さんの歌詞がなかなかできないために、その間にある程度作曲のノウハウを
つかんでおこうという魂胆らしい。
 しかし、ハルヒは首を振ると、
「違うわよ。そっちに関してはもう大体やることはわかったし、今はみくるちゃんの歌詞ができるのを待つだけの状態。
別件でちょっと気になることがあってね……」
 そう意味深なことを言うと、部室から出て行ってしまった。別件? また俺たちに内緒で得体のことを企んでいるんじゃないだろうな?
 ここで古泉が俺の表情から内心を読み取ったのか、
「涼宮さんのことでしたらご心配なく。特にイベントなどを企画している予兆はありません。なにやら学校中の生徒に
朝比奈さんのことを聞いて回っているみたいですが、詳細はいずれ本人の口から語られるのではないでしょうか」
「……何事もなければいいんだがな」
 俺は見送る会から続いている違和感も重なり、妙なもやもや感が抜けきらない状態だった。
 
 翌日の昼休み、今日もあの別件とやらだろうか昼飯を食い終えるととっとと教室から出て行ってしまったハルヒを尻目に、
谷口・国木田コンビと弁当を食っていた。
「最近昼休みに涼宮の姿をあまり見かけないが、お前らまたなんか企んでいるのか?」
「知らん。俺はあいつのSPでも何でもないんだから逐一行動を把握している訳じゃないからな。そもそも縄をくくりつけておいても、
それをくぐり抜けて突っ走るよう奴の行動なんて把握しようがない。鈴をつけてもすぐにはぎ取るだろうよ」
 谷口の指摘に、俺の反論。どうもハルヒと行動をともにしている機会が多いせいか、何でもかんでもハルヒの行動について
俺に聞いてくる奴が多くて困る。直接本人に聞けよと言いたい。一方で聞かれてもどうせあいつは答えないだろうがとも考えてしまうが。
 ここで国木田が、
「でも、涼宮さんも以前に比べると大人しくなったんじゃない? 入学した早々バニーガールになったりといろいろやらかしてきたけど、
最近はそういったこともあまり見かけなくなったよね」
 まあハルヒはSOS団内での活動で満足することが多くなったからな。古泉が退屈しないようにサプライズイベントも
たまに仕掛けたりしているし、無差別大暴れは以前ほどなりを潜めているかもしれん――って、
「こないだ朝比奈さんを見送る会っていうイベントを起こしたばっかりだったじゃないか。結局あいつの行動力は変わっていないんだから、
気分次第ってことだろうな」
「見送る会? なんだそりゃ。知らん間にそんなばかげたことをまたやっていたのかよー」
 谷口は別に深い意味で言った訳ではなかっただろう。しかし、即座に――そして、自然に返されたその言葉は、
まるでボクシングの伝説のカウンターのように俺の脳天を激しく揺さぶった。全身から音を立てて血の気が引き、
ぞっとするとはまさにこのことだろうと思うほどに冷や汗が吹き出る。
 俺はしばらく弁当箱のエビフライを箸でつかんだまま思考停止したのちに、谷口へ確認する。
「何言ってんだよ。お前と国木田も来ていただろ? ほらにやけ面で朝比奈さんと握手していたじゃないか」
「……あ? いやそんなことをした憶えはねーんだけど。なあ国木田」
「うん、僕もそんな催しに参加した記憶はないね」
 ……二人とも何言っていやがるんだ? なんだ、俺を驚かせるためにタッグを組んでからかっているのか?
だとしたら、朝比奈さんの今後を知っている俺には少々冗談の域を超えているぞ、そのボケは。
 しかし、谷口の次の言葉はさらなる追い打ち――いや、急所をえぐるクリティカルヒットだった。
「大体、朝比奈って誰だよ。そんな名前聞いたこともないぞ」
 谷口の言葉。国木田もうんうんと頷く。
 ……おいちょっと待てよ。
 朝比奈さんだぞ? お前ら二人がみっともない下心満載なツラで見ていた女性だぞ?
 こないだの見送る会だって握手していたじゃないか。
 その前の文化祭だって焼きそば食ったりしただろ?
 映画だって撮ったりしたじゃないか。谷口なんて池に一緒に落ちているし。
 さすがにその冗談は笑えねえ。
 俺は思わず机を軽くたたくと、
「おい、お前ら何を企んでいるのか知らないが、さすがに冗談が過ぎるぞ。朝比奈さんはもうすぐ卒業するんだ。
そんな日が近づいているのに、何のことだかわからないとかいたずらにしては悪質すぎる」
 少々きつめの口調で言ったものの、二人は俺の言っていることが全く理解できないらしい。不思議そうな顔でお互い確認しあっている。
 だが、二人の出した結論は、
「いやしらねーな。朝比奈だっけ? 名前も聞いたことねえし」
「僕も知らないや。涼宮さんの団体にいたのかい?」
 俺の心臓が激しく動作し始める。
 思わず俺は立ち上がり、
「何言っているんだ。朝比奈さんだよ! ずっと一緒にSOS団として活動してきたし、お前たちも何回も会っているんだ!
いい加減、目を覚ませ! 訳のわからないことを言っているんじゃねえ!」
「ちょ、ちょっとキョン落ち着いて……」
 頭に血が上った俺を国木田が制止してきた。何言ってやがる。やめるのはお前らの悪ふざけの方だ。さあ、早く言ってくれ。
冗談だった、ちょっとからかうだけだったってな。
 ――しかし、谷口の続けた言葉は俺にさらなる追い打ちをかけた。
「SOS団って、お前と涼宮と長門有希、あといけ好かない9組のイケメン野郎の4人でやっているはずじゃなかったのか?
俺の知らない間に新入部員でもいたのかよ」
 …………
 ……俺はもう何も言えなくなっていた。
 同時に弁当を放り出して教室から飛び出す。
 訳がわからねえ。まるで谷口と国木田から朝比奈さんの記憶がばっさりと切り捨てられてしまったみたいだ。
いや、記憶だけじゃない。ひょっとしたら何か状況や未来からの指令が急遽変更となって朝比奈さんはすでに未来へ――
 階段を駆け下り、三年の朝比奈さんの教室の前に立つ。
 そこで俺は一瞬ためらった。中をのぞいたとき、朝比奈さんがいなかったら? その時、俺はどうすればいいのか……
 …………
 …………
 …………
 ええい、こんなところでぼーっと突っ立っているのでは何も始まらん。
 俺は意を決して教室内をのぞき込む。内部を一通り見回すと――
「いた……」
 そこには弁当を食べている朝比奈さんの姿があった。俺はそれに心底安心し、大きなため息をついてしまう。
 よかった。いきなり予定繰り上げとかでいなくなったってわけじゃなさそうだ。
 しかし、だったらあの二人の頭の中から朝比奈さんのことがさっぱり消え失せているのはどういうことだ? 俺の知らないところで
また何かが始まっているということなのだろうか。
 ふと、教室内で弁当を食べている朝比奈さんにも違和感を憶えた。いつもは友達と和気藹々と食べているはずなのに、
今は教室の自席でぽつんと一人で寂しげに箸を進めているその姿に。
 
 その日の放課後、俺はその話をするべきか迷いつつ文芸部室に足を運んだわけだが、それはあっさりと解消された。
「みんなに話しておきたいことがあるの。まだ可能性だけで確定事項じゃないけど」
 掃除当番のため朝比奈さんがまだ来ていない部室でハルヒが話を始めた。ただならぬ剣幕に団員一同の空気が引き締まる。
ひょっとして……
 ハルヒが話し始めたのは、ここ数日走り回っていた別件についてだった。そして、それは俺の予想通り朝比奈さんについてのことだ。
「こないだの見送る会でちょっと気になっていたから独自に調査していたんだけどね、信じられないけどみくるちゃんの存在が
学校内から消えようとしているのよ。あたしの知る限り、みくるちゃんは学校内でもすごく人気があったから、
一年でも男子生徒は大半はその存在を知っていたはずよ。でも、ここ二日あちこちで全校生徒ランダムに聞いて回ってみたけど、
ほとんどが知らないって答える。あ、知っているって答えている奴もいたわ。昔からみくるちゃんの熱狂的なファンで、
SOS団主催イベントに真っ先に駆けつけるような連中ばっかりだけど。でも、そんな中でも問い詰めてやっと思い出す奴もいた。
これは絶対に何かおかしなことが起きているとあたしは考えている」
 やっぱりハルヒもそのことにとっくに気がついていたのか。まあ、見送る会の時にはすでに察知していたからな。
相変わらず恐ろしい勘と行動力だよ。
 これに古泉は目を丸くして、
「それは……ちょっと興味深い――いえ、別に好奇心をそそられるという意味ではなくネガティブな意味合いで
調査の必要を感じますね。あれだけの人気を誇っていたのに、ここしばらくでそれがあっという間にそれがなくなった。
考えられる理由としましては、その人気に嫉妬した者がデマを流して人気が低下したか、それ以上に興味を引かれる存在が
僕たちの知らない間に学校内で誕生していたのか――」
 その古泉の言葉の端々に俺は意図を感じ取っていた。朝比奈さんのことが忘れられつつあるという話だというのに、
いつの間にか人気がなくなっているというものにすり替えていたからだ。ハルヒの話を意図的に別の方向に持って行こうとしている。
どうやら古泉もそれについては知っていたか――あるいはハルヒにあまり悟られたくないことであると考えているのかもしれないな。
 だが、ポジティブ思考が基本のハルヒでも今回は相当深刻に受け止めているらしく、そんな誘導には引っかからず、
「古泉くん、それは違うわよ。まず悪い噂が流れているって言うなら、知らないとは答えないわ。そういうのは、良くも悪くも
記憶の中にきっちりと書き込まれているからね。あたしに聞かれたから意図的に知らないと答えているとも思えない。
直にあって聞いている時のそぶりからは、そんなものは感じられず本当にただ知らないだけっていう反応が多かった。
後者のみくるちゃん以上の人気者がいるっていうのも却下。そんな奴がいるならとっくにあたしたちの耳にも届いていなければ
おかしいじゃない。それとも古泉くんは何か心当たりのある人でもいるの?」
 ハルヒの反論に、古泉はしばし目をそらして考えてから、
「いえ……特に聞いたことはありませんね」
 ひょっとしたら、うまい具合にハルヒを誘導できていたら人気者をでっち上げるつもりだったのだろうか。
だが、鋭いハルヒの思考にどうやら白旗を揚げたらしい。
「有希はある?」
 念のためにという感じで、ハルヒは長門にも尋ねてみるが、首を数ミリ傾ける仕草を見せただけだった。
 それを知らないという意味でとったハルヒは、
「ね、これじゃ古泉くんのいう人気者の出現は考えられない。例えそんなのが現れても全校生徒からみくるちゃんの記憶が
さっぱり消えるわけでもないしね」
 ここで俺は谷口・国木田からも同様に朝比奈さんに関する記憶が消えていることをハルヒに告げようとして――古泉の視線に制止される。
それから読み止めるのは余計なことは言わないでください、だった。
 俺は一瞬口ごもり、古泉の進言を受け入れるか迷ったが、結局そのことを伝えるのはやめにする。これが偶然ではなく、
誰かが意図的にやっているというならそれはどう考えても未来人たちの仕業であり、これ以上ハルヒに詮索されると
面倒なことになることは確実だと判断したからだ。
 代わりに俺は、
「で、どうするつもりなんだ? 仮に本当に朝比奈さんのことがみんなから忘れられつつあるからといって、
どうすればいいのか皆目見当もつかないんだが」
「わかっているわよそんなこと。まだ確定だと思っていないから今日も調査してみるつもり。みくるちゃんにはあたしから話すから、
それまでみんなは黙っていてね。それで、本当に忘れ去られようとしているなら――」
 ハルヒはしばらく考えた後、
「……みくるちゃんに話した上で今後どうするのか決めるつもりよ」
 
◇◇◇◇
 
 その日の夜、俺はある一つやらなければならないことがあった。それは朝比奈さんに事の真相を問いただすこと。
とは言っても、いつも部室にいる愛らしい朝比奈さんではなく、朝比奈さん(大)の方にだ。
 卒業後、未来に帰る。二度と会えない。ここまでは今まで聞かされていたことから納得せざるを得なかった。
だが、朝比奈さんに関わる人間から彼女に関する記憶を消しているというのはどういうことだ? 何でそこまでする必要がある。
もっともそれが本当に未来人の仕業かどうかわからないから、それを確認しなければならない。
 俺は自室のベッドで寝っ転がりながら考えていた。さて、朝比奈さん(大)にどう接触――いや、呼び出そうか。
今までは向こうから一方的に指令書を渡してきたり、突然現れたりと一方通行状態だったからな。俺の方から会いたいといって
会えるようものなんだろうか。
 …………
 だが、考えていても始まらない。何か行動をしなければ。いっそここから未来の秘密を大声で叫んでみるか?
びっくりして止めにはいるかもしれない。あるいはハルヒに――
 ここでふと俺の部屋の扉を外側からひっかくような音が聞こえてきた。俺が扉を開けると、すぐにシャミセンが俺の部屋に入り、
ベッドの上に寝っ転がる。やれやれ、すっかり暖をとる場所になっちまっているな。
 ――とここで気がついた。シャミセンが何かを口にくわえている。それは名刺大ぐらいの小さな封筒だった。
 俺はシャミセンの背中をさすってやり、それを口から話させると、封筒を開けてみた。
「……さすが朝比奈さんといったところか」
 その中に入っていた手紙の内容に思わず言葉がこぼれた。
 
 すぐさま俺はコートを羽織って家の外に出た。そして、自転車をこぎ目的地である長門のマンションの近くにある公園に向かった。
あの手紙には朝比奈さん(大)から真相が知りたければ、すぐにそこに来るように書いてあったのだ。
全くこっちの行動はお見通しって訳か。さすが未来人。俺にとっては予知能力者とかわらん。
 数十分後、俺は公園にたどり着き適当なところに自転車を止める。みれば、薄暗い無人の公園で外灯により浮き上がったベンチに
一人の女性の姿があった。今日は寒いせいか、いつもより厚着の冬着の朝比奈さん(大)だ。
 俺がそこに近づくと、彼女は優雅な仕草で立ち上がり、
「こんばんわ、キョンくん」
 そう挨拶してきた。俺は適当にお辞儀して返し、
「……説明してくれるんですよね?」
「ええ……できることとできないことはあるけれど」
 朝比奈さん(大)の言葉を確認した後、俺は冷たくなっていたベンチに腰掛ける。朝比奈さん(大)もそれに続いて隣に座った。
 さて、何から聞いていくか。
「今日の呼び出しは、朝比奈さんが未来に帰るっていうことについてですよね?」
「そうです。そのことについてキョンくんにお願いがあったので」
 俺は確認をとった後、質問を続ける。
「大体の事情はSOS団にいる朝比奈さんから確認をとっています。卒業後に未来へ帰ること、そしてその後会えなくなるなること、
これについてはわかっていますし、納得はできませんがいつか来る日だと覚悟も――少しはありました」
「でも他にも聞きたいことがある。そうなんでしょう?」
「そうです。学校――いや、ひょっとしたら学校だけじゃなく朝比奈さんに関わったすべての人たちからその記憶が消えようとしています。
それはやっぱり未来が仕組んでいることなんですか?」
 単刀直入の俺の問いかけに、朝比奈さんはあっさりと頷いた。
「その通りです。未来から過去へやってきた人間がその時間平面を去る時、それに関わる情報すべてを消去する取り決めになっているから。
これはわたしの時に関わらず介入を実施する際には必ず行われることなんです」
「……なんでですか?」
 沸々としてきたいらだちに対して、朝比奈さんは淡々と続ける。
「最初にあったとき――あ、ちっちゃい方のわたしですが、自分はぱらぱら漫画に書かれた落書きみたいなものだと
言っていたでしょ? だから未来には影響はないって。でも、だからといってそれをほったらかしにはできないんです。
前にも言ったとおり過去はとても不安定。その落書きがどんな影響を及ぼすのか。それを検証するより、そのものを消しゴムで
消してしまった方が確実なんです。そのために、この時間平面上のあの子に関わる全ての情報を抹消しなければなりません」
「…………」
 俺は足りない脳みそながら、必死にその内容の理解に努めていた。ようは未来に帰ってしまう人間の影響は、
この時代に残しておけない。置きみやげどころか、思い出すら残すことは許されないってことですか?
「ええ」
 朝比奈さん(大)の口調は冷たい空気に染まったようにひんやりとしていた。それが任務だから、未来人たる使命だからというような
確固たる意志すら感じた。やはり朝比奈さん(小)に比べて、立場も役割もずっと上になっているのだろう。
今の彼女からはそれをひしひしと感じている。SOS団のマスコットキャラではなく、未来人組織の一員。そんな臭いがぷんぷんだ。
 しかし、だからといってはいそうですかと、俺が納得できる訳もない。今まで朝比奈さんには限りないほどの癒しをもらってきたし、
その恩返しなんて俺のもらったものが地球と同じ大きさなら、返せたものなんて砂粒一つ程度だろう。
 そんな状態だというのに、別れたあげく全部忘れろ? 無茶にもほどがある。
「……何とかなりませんかね。朝比奈さんはこの二年間よく頑張ってきたと思います。特例措置の一つや二つあげてもいいと思いますが」
「それはあの子に対してではなく、あなたたちに対してでしょう? 残念ながらそれは無理です」
 その朝比奈さん(大)の返答に、俺ははっと、
「じゃあ何ですか? 朝比奈さんはそのことをわかった上で拒否をするつもりはないって言うんですか?」
 ますます俺の頭に血が上ってくる。朝比奈さんは、そりゃまあハルヒにさんざんいじられて大変だっただろうが、
SOS団に思い入れはあるはずだ。たびたび見せるあの心底幸せで見ているこっちまで癒される笑顔に嘘偽りなど感じない。
 しかし、朝比奈さん(大)は首を振ると、
「わかるとか拒否するとかそういう話ではないの。あの子は未来人である以上、好む好まざるに関わらずそれを受け入れなければなりません。
これは自分のいた未来を守る上で絶対に必要なことだから」
 朝比奈さん(小)にとって自分の世界はここではなく、未来にある。SOS団と未来を天秤にかければ、未来を選ぶしかないのだ。
未来を否定してしまえば、自分の存在も消えることになりそれでは本末転倒だからな。
 だが……やりきれないのも事実だ。
 ふとここで一つの疑問に当たり、
「ひょっとしてハルヒを納得させるって言うのはそれについても関係しているんですか? 朝比奈さんなら、あいつがそんなことを
そう簡単に受け入れないというはわかっていると思いますが」
「それについて何だけどね……ううん、ちょっと完全には話せないけど……」
 朝比奈さん(大)は適切で禁則事項に引っかからない言葉を探してから、
「本来であれば、痕跡の消去――STCデータの改ざんは一度に行われます。ある日のある時間を境に、誰もあの子のことを忘れてしまう。
今回もそうするつもりでした。でも、それができないの。涼宮さんが作り出した次元断層のように、STCデータの書き換えが
できない部分がある。原因ははっきりとはわからないけど、そんなことができるのは長門さん――でも、そんな必要もないことを考えれば、
残っているのは涼宮さんだけ。きっとあの子との別れを惜しんでSTCデータに強力なロックをかけているんだわ。
例え別れることになっても、絶対に忘れない――忘れなくないって、無意識下でそう強く願っているために」
 ――と、ここで一拍ため息をついて、
「あと改善すべきSTCデータの範囲が大きいのも問題の一つです。本来、過去に駐留している人間はできるだけその時代の人間と
関わりが少ないように生活することが義務づけられています。昔言ったかもしれないけど、元々あの子は涼宮さんに
直接接触する予定はありませんでした。でも、ものの見事に彼女に発見されて――それからはもう落書きし放題。
いったいどれだけの影響をこの時間平面に与えたのか、具体的なデータ量を見ただけで頭が痛くなっちゃう。
さらにそれの大半に涼宮さんが関わっているからなお大変なことになっていて……」
 そう頭を抱える仕草を見せる朝比奈さん(大)。そうは言っても連れ回したのはハルヒであって、朝比奈さん(小)ではない。
またハルヒは未来人であることなんて知らないんだから、責任なんぞこれっぽっちもない。
 不信感を強める俺に気がついたのか、朝比奈さん(大)はぱたぱたと両手を振って、
「ああっ、えっと別に非難しているんじゃないんですよ? ただ大変なことになっていることを伝えたかっただけですから」
 俺はその言葉を聞き流しつつ、夜空を眺めて白い息を空に向かって飛ばし、
「つまり、朝比奈さんたち未来人は、ハルヒに朝比奈さんのことを忘れることを受け入れるように努力しろっていうんですか?」
「……そういうことになってしまいます」
 朝比奈さん(大)は申し訳なさそうにうつむく。
 なんてこった。朝比奈さんと別れるだけでもつらいというのに、さらに忘れろというのか。さらに、ハルヒにも忘れてもらうために
なんとかしなきゃならない。無茶苦茶だ。できる訳のない相談と言っていい。
 ここで朝比奈さん(大)はすっと顔を寄せてくると、
「わたしたちはキョンくんに強制はできません。だから、どうするのか判断はあなたに任せます。ただ――」
 さらに口を俺の耳元に近づけて言った。
 
「……あまりあの子を苦しめないであげて」
 
◇◇◇◇
 
 翌日の放課後、俺たちは朝比奈さんを交えた上でミーティングを実施していた。どうやらハルヒは結論を出したらしい。
 結局あの後朝比奈さん(大)はそそくさと立ち去ってしまい、やりきれない気持ちだけが俺に残っていた。
朝比奈さんとの別れ。考えるだけでも嫌だし、忘れるなんてもってのほか。しかし、朝比奈さんは意志に関わらずそれを受け入れなければ
ならない。だから、俺やハルヒが執拗にこだわればこだわるほど苦しめるだけなのかもしれない。
 ええい――どうすりゃいいんだ。
 頭を抱える俺の気持ちも知らずに、ハルヒは話を始める。
「みくるちゃん以外には昨日のうちに話しておいたけど、調査の結果あたしなりの結論を出したわ。確実にみくるちゃんは
誰もから忘れられつつある。北高生徒だけじゃない。映画撮影の時に会った電気屋さんとかに聞いてみたけど完全に忘れていた。
まるでそんな憶えは全くないという感じにね」
「…………」
 そのハルヒの言葉に、朝比奈さんはうつむいたまま特に反応を示さなかった。やっぱり本人も知っているんだろう。
それなら、最初に教えてくれたとき、それについても言ってくれれば――
 ここで俺ははっと気がつく。そうか。あのとき言わなかったということは、それが朝比奈さんの意志なんだ。誰に知られることもなく、
気がついたらいなくなっていた……そんな状態を彼女は望んでいる。そういうことなんだ。
 しかし、状況は変わった。そんな大きな変化をハルヒが察知しないわけがない。朝比奈さんを指さすと、
「驚いたかもしれないけど、これが事実よみくるちゃん」
「……はい」
 朝比奈さんの声はどこまでも鬱々真っ盛りだ。
 ハルヒは続ける。
「本当は原因追及でも何でもして、そんなふざけた悪行をしでかす輩を成敗してやりたいところだけど、時間がないわ。
調査した限りだと、朝比奈さんと関わりの薄い人の記憶から消されていっているみたい。だから、最終的にはあたしたちも
記憶を消される可能性がある。そう考えるのが自然ってものだわ」
 確かにな。朝比奈さん(大)たちの最終目標は俺たちだろう。何せこの二年間もっとも関わりを持っていたんだから。
さらにはそれを妨害しているハルヒの存在もある。
「だが、具体的にどうするつもりだ?」
 俺の問いかけに、ハルヒは腕を組んで、
「対抗手段は一つしかないわ。それは絶対にみくるちゃんのことを忘れられないようにする。それもあたしたちだけじゃなくて、
最低でも北高生の頭の中に焼き印を押すぐらいにね」
「方法は?」
「今もやっているけど、卒業歌よ。これを完成させて、さらに何が何でも採用させる。そうすれば、今年の卒業の歌として
みくるちゃんの名前はでかでかと残るし、歌を歌えばその存在を認識できるようになるはずよ。この学校にいた生徒の一人としてね。
忘れなんてさせない――絶対によ!」
 まるで未来人に対する宣戦布告のようにハルヒは声を張り上げた。
 歌か。確かに卒業の時歌ったものは強く印象に残るだろうし、卒業式では――その前の練習も含めて全生徒が歌うから
記憶には強く、鮮明に残るはずだ。記録や歌詞も残る。この学校に朝比奈みくるという人物がいたと言うことを確実の作れるだろう。
 ハルヒはすぐに朝比奈さんの元に駆け寄って、憂鬱状態の朝比奈さんに檄を入れつつ作詞作業を再開した。
 古泉と長門はそれをじっと見ているだけ。二人はどう思っているんだろうか。朝比奈さんがいなくなる――さらにいなかったことに
されてしまうことについて。
 一方の俺は、困惑していた。ハルヒの言う方法なら朝比奈さんがいた痕跡は残せるかもしれない。だが、それで本当にいいのか?
いたずらに朝比奈さんを傷つけているだけじゃないのか?
 俺はもやもやしたまま二人の作詞作業を見つめていた。
 
 やがて下校時刻を迎え、解散となろうとしたときだった。
「ちょっとキョン。話があるから、あんたは残りなさい」
 そうハルヒから残業通告を受ける。何だ、俺はそんな気分じゃないんだが……
 抵抗したい気持ちになるが、言ってもハルヒが聞くわけもなく俺は大人しく長門・朝比奈さん・古泉が部室から出て行くのを見ていた。
 ほどなくして、ハルヒは俺以外いなくなったことを確認すると、俺の前に立ち、
「ちょっとあんた! さっきからぼーっとしてみくるちゃんがいなくなっていいわけ? もっと協力しなさいよ!」
 どうやら俺の憂鬱モードはあっさりと見破られていたらしい。
 俺は後頭部をかきながら、
「……すまん。どうも朝比奈さんとの別れが近いと考えると気が沈んでしまってな」
「気持ちはわかるけど、今はそれどころじゃないのよ!」
 ハルヒはつばを飛ばして言ってくる。ああ、わかっているさ。そんな場合じゃないってな。でもな、朝比奈さんが
あまりことを大げさにしたくないと思っている以上、俺もどうすればいいのかわからないんだよ。別れるのも嫌だし、忘れなくもない。
しかし、朝比奈さんの意思は尊重してやりたい……ああ、まさに思考の袋小路に陥ってしまった。
 そんな俺の気持ちを察したのだろうか、ハルヒはすっと背を向けて、
「あんたの気持ちもわからない訳じゃない。でも、あたしは決めたのよ。絶対に例え別れてもみくるちゃんのことを忘れることだけは
絶対にしないって。最後まで抵抗を続けてやるわ」
「ハルヒ、お前……」
「みくるちゃんが普通じゃないのは知っている。人のプライバシーに干渉するほど落ちぶれちゃいないからほじくり返すようなことは
しなかったけどね。だから、卒業後会えなくなるっていうのも、みんなから忘れられつつあるっていうのも、問い詰めたりしない」
 気がついていたのか。いや未来人とか突拍子もない正体まではたどり着いていないだろうが、どこか他の人と違うということぐらいは
ハルヒの勘がかぎつけていたのだろう。
「みくるちゃんはもう会えないって言っていたけど、生きていれば絶対に機会はできるはずよ。あたしはそれに賭けることにしたわ。
そのためにも忘れることだけは絶対にできない――できないのよ! 万一、あたしの中から記憶が消されても、
何かの痕跡が残っていれば思い出せるかもしれない。あたしはそれが欲しい。残したい!」
 ……ハルヒは朝比奈さんとの別れを完全に受け入れたんだ。その上で、いつか再会できることを願っている。
 俺はこのハルヒの考え方に救われた気分になった。そうだ。生きていれば必ず会える。それどころか、俺は朝比奈さん(大)と
何度も会っているじゃないか。そう考えれば、今重要なのは忘れないことだ。それだけはなんとしてでも阻止しなければならない。
穏便に済ませたいという朝比奈さんの意志もあるだろうが、きっと彼女だって俺たちが忘れてほしいなんて思っていないはずだ。
 仮に忘れてしまっても、卒業歌という形で残っていれば、それを歌うたびに思い出すだろう。このSOS団に朝比奈みくるという
愛らしい少女がいて、ずっと癒しを提供し続けてくれたことを。
 すっと俺の心の中が晴れていく気がした。俺の腹は決まったな。
「……すまんハルヒ。お前のおかげですっきりしたよ」
「全く、しっかりしてよね。これからが大変なんだから。どうもやる気のないみくるちゃんを奮い立たせて、
さらに採用までされなきゃならないんだし」
「ああ、そうだな。及ばずながら俺も尽力させてもらうぞ」
 ……朝比奈さん(大)。どうやらあなたの申し出は拒否させてもらうことになりそうだ。
 
 俺がハルヒと別れて一人で帰路についていると、待ち伏せしていた人物に出くわす。長門と古泉だった。
「やあどうも。涼宮さんとの話は無事に終わりましたか?」
「ああ、あいつの決意を聞かされて俺も気分が晴れたよ」
 それはよかったと古泉はいつものスマイルを浮かべる。長門は無表情のままだったが。
 俺たちは三人で下り坂を下り始めた。おっと今のうちに聞いておくか。
「長門、お前のパトロンは今回の件について何か言っているのか?」
「何も。特別な指示は来ていない」
「古泉。お前の機関の方はどうなんだ?」
「指示としましては、平穏無事に終わらせることというものだけですね」
 そのどうとでもとれる内容に俺は眉をひそめて、
「なんだ、それだと卒業歌の制作をやめさせて、あっさりと朝比奈さんのことを忘れてしまえともとれるぞ」
「解釈の問題ではなく、きっと機関のお偉方はそういう意味で言ったんだと思いますよ」
「何だと?」
 少し俺はぴきぴきと額に神経を浮かべる。機関ってのはハルヒのやることを邪魔するつもりなのか?
「どうでしょうか? 実のところ、どうするかは僕に一任されている状態でして」
「ならお前はどうするつもりだ?」
 俺の追求に、古泉は目を細めて、
「……以前もいいましたが、僕は機関の超能力者であり、一方でSOS団の副団長でもあります。機関の方からは
事実上好きにやれといわれたようなものですからね。ならばあとは副団長としてその責務を果たすだけです。
もちろん――やりますよ、涼宮さんの卒業歌作りの手伝いを」
「そうか……」
 その言葉を聞いて俺はほっと胸をなで下ろす。ただ古泉は付け加えるように、
「ですが、今回の一件では僕は裏方に回ろうと思っています。積極的に卒業歌制作に携わるのではなく、それを邪魔させないという形でね。
妨害を仕掛けてきたり、SOS団に不利益な行動を仕掛けてくるものがいれば、容赦なく排除するつもりです。
それこそ、機関の全組織能力を使ってでも」
「よろしく頼むぜ、副団長殿」
 そう古泉の胸に一発とんと拳を当てる。
 ここで長門もそれに乗るように、
「わたしも古泉一樹と同様の立場をとるつもり。涼宮ハルヒの望んでいる作業への介入を阻止する。誰の邪魔もさせない」
 そう頼もしいことをいってくれた。
 よっし、これでSOS団の意志は決まったも同然。あとは目標に向けて突っ走るだけだな。
 
 ……しかし、たった一人意識がずれていた人がいた。朝比奈さん本人である……
 
◇◇◇◇
 
 翌日から決意も新たに卒業歌制作が続けられていたわけだが、その作業は難航を極めていた。最大の障害は朝比奈さん自身である。
「ちがーう! ダメよ、こんなんじゃ! 全然何も感じられないわ。まるで無理矢理書かされた読書感想文みたいじゃない。
いい? これはみくるちゃんの卒業を歌ったものになるのよ? それが全く感じられなくてどうするのよ」
「で、でもぉ……」
 もう何日も同じやりとりが続いている。歌詞については俺もチラ見させてもらったが、確かにハルヒのいうとおり、
なんつーかやる気が全く感じられなかった。大体何度かこなしていけば要領もつかめてくると思うんだが、
まるっきり進歩がないのはどういうことだろうか。朝比奈さんにそこまで学習能力がないとは思えない。
 一つ考えられる可能性は――
「ねえみくるちゃん。まさかと思うけど、わざと落選しようとか思っていないわよね?」
 ハルヒの言葉に、朝比奈さんがびくっと反応する。そして、すぐさま両手を振って、
「そ、そんなことはないですっ……そんな……ことは……」
 次第にトーンダウンしていく声に、俺はある程度の確信を得ていた。朝比奈さんは落選することを望んでいる。
それが一番確実で自分の任務をこなせるからだろう。
 これは参った。俺たちがいくら忘れたくないといっても肝心の朝比奈さんがこんな調子ではどうにもならない。
やはり朝比奈さんにとってはSOS団よりも未来を選ばなければならないという縛りが大きすぎるのだろうか。
だが、忘れられたくないという気持ちは必ずあるはずだ。それをうまく引き出せれば、きっと両者の隙間をつくようなことだって
できるんじゃないだろうか。
 席に戻り、またうつむき加減で考え込む朝比奈さんのそばに俺は座り、
「元気出してください、朝比奈さん。俺も及ばずながら手伝いますから」
「いえ……いいんです。あたしがやらなきゃ……」
 以前にも何度か手伝いを申し出たが、やっぱり今回も同じように断られてしまった。
 そんな様子の朝比奈さんに、ハルヒはたまらなくなったのか飛び出し、
「いい? このままだとみんなみくるちゃんのことを忘れちゃうのよ。そんなの嫌でしょ? だから歌を完成させて、
全校生徒にみくるちゃんの存在を焼き付けなければならないのよ。わかる? 全ての人から忘れられるなんて
そんなのは死んだも同然よ。だからお願い。がんばってきっちりやって」
 その言葉を朝比奈さんは黙って聞いていたが、やがてぽつりと言った。
「……いいじゃないですか……」
「え?」
 よく聞き取れなかったのか、ハルヒが聞き返す。朝比奈さんはもう一度口を開く。
「……卒業したら誰とも会えなくなっちゃうんです。憶えてもらっている必要なんてないじゃないですか。
会えないのに憶えてもらっていてもお互い辛くなるだけで――」
 俺は朝比奈さんが言い終える前に気がついた。ハルヒの顔がみるみる紅潮していっている。いかん。こりゃ導火線に火がついて
大爆発寸前だ。このままだとハルヒは何をしでかすかわからんぞ。
 あわてて朝比奈さんとハルヒの間に俺は割っては入り、
「おいハルヒ。落ち着け。いいか落ち着いて冷静になれよ?」
 しかし、俺の呼びかけぐらいでは一度火のついた導火線は消せなかった。ほどなくして引火して大爆発が起きる。
「なんでっ……何でなのよ! どうしてそんなに簡単にあきらめちゃうのよ! 例えみくるちゃんが宇宙の果てだろうが、
ブラックホールの中心だろうが、どこに行っても生きていれば――お互い憶えていれば会えるチャンスはあるのよ!?
忘れちゃったら、たとえ何十年後に会ってもお互いがわからないまま素通りしちゃうじゃない!」
 ハルヒは朝比奈さんに飛びかかろうとするもんだから、俺は必死にその身体を押さえつけて阻止する。
「落ち着けハルヒ!」
「答えて! 答えなさい、みくるちゃん!」
 そんな絶叫に近いハルヒの言葉に、朝比奈さんはうつむいたままじっとしていたが、やがてすっと立ち上がると、
「……いいんです。もう絶対に会うことなんてなくなるんですから。忘れてくれちゃっていいです!」
 そう言い放つと、自分の鞄を持って部室から走って出て行ってしまった。
 その光景にハルヒは目を見開いて唖然としてしまう。俺も同様だ。
 ……朝比奈さん、いくらなんでも酷すぎます。俺たちはただあなたのことを忘れたくないだけなんです。
どうしてわかってくれないんですか?
 ハルヒはしばらく俺に押さえつけられたまま目を伏せて何もできないでいたが、やがてどんと俺を突き飛ばすように離れると
自分の席に勢いよく座り、
「もう――知らないっ!」
 やけくそ気味に言い放った。
 ……最悪な状況になってしまった。
 
◇◇◇◇
 
 結局その日、朝比奈さんは戻ってくることはなく、嫌な空気のまま解散となった。ハルヒはまだ怒り心頭なのか、
口をふくらませたままとっとと帰ってしまう。残りの団員たちもそそくさと帰っていった。
 夜になってから。
 俺がどうしたものかとベッドに寝っ転がり考えていた時、携帯電話が鳴り響く。発信相手を見れば――朝比奈さんの名前が。
即座に俺は通話ボタンを押す。
『……こんばんわ、キョンくんですか?』
「ええ」
 まだ今日のことを引きずっているのだろう、どこか声が陰気に聞こえる。
 朝比奈さんは続けて、
『今日はごめんなさい……そんなつもりじゃなかったんです。でも、つい……』
「大丈夫ですよ。ハルヒの奴はだいぶおかんむりのようですが、明日にでもなれば元通りになっているんじゃないですか?
あいつは切り替えが早いですからね」
『それからあたしに関する記憶の消去についても、こないだ黙っていてごめんなさい。伝えたら、逆に別れが辛くなりそうだったから、
言いたくても言えなかったんです』
 だろうな。結局は朝比奈さんの口から聞く前にハルヒがそれに気がついてしまったために起きたのが、今日のいざこざだ。
黙っておきたくもなるさ。別にそれに気がついたハルヒが悪いってことはないが。
『あの……それでですね……』
 何か言いづらそうに朝比奈さんが口ごもる。
 しばらくその状態を続けていたが、やがて、
『いえ、やっぱりなんでもないです。今日はごめんなさい……』
 と、いきなり電話を切られそうになったので、俺はあわてて呼び止め、
「朝比奈さん! 一つだけ聞いていいですか?」
『……あ、はい。なんですか?』
「朝比奈さんは俺たちに忘れられてもいいと本気で思っているんですか?」
 この問いかけに朝比奈さんはしばらく沈黙は続けていたが、ほどなくして、
『あたしは未来人でいつか未来に帰らなければならないんです。そして、その日がついに来た。それだけなんです。
自分の意志とかそんなのはどうでも……』
 やっぱり朝比奈さんは未来人としての立場に自ら縛りついてしまっている。俺が聞きたかったのは立場の話なんかじゃない。
彼女がそういったものを考慮しなかったらどうなのかと聞きたかった。
 ――だが、俺はさらに落ち込んでいく朝比奈さんの声に押され、それ以上尋ねることはできなかった。そんなことを言っても
朝比奈さんをただいたずらに困らせるだけじゃないかと思ったからだ。だから、代わりに、
「朝比奈さん、俺は諦めませんから。絶対に朝比奈さんのことを忘れたりはしません。それが未来の意志だろうが何だろうが、
知ったこっちゃありませんから」
 そう宣言した。それを聞いた朝比奈さんは少しだけ声のトーンをあげて、
『ありがとう……キョンくん』
 それだけ言うと電話を切った。
 やはり朝比奈さんは自分の立場に縛られている。いや自ら縛っていると言ってもいいだろう。何とかその重荷を外す方法はないだろうか?
そうすれば、朝比奈さんの本当の気持ちが聞けるはずだ。
 俺はしばらくツーツーツーと通話終了後も携帯電話をつけっぱなしで考えていた。
 
◇◇◇◇
 
 翌日、俺が教室に入ると真っ先にむっつり顔のハルヒに遭遇した。この調子じゃ機嫌はまだ直っていないみたいだな。
「全く……みくるちゃんは何を考えているのよ……」
 背後で終始そんなことをぶつくさ言ってくるモンだから授業中もろくに集中できやしない。まあ、とりあえず、放課後までの辛抱だと
我慢していたんだが――
「来ないですね、朝比奈さん」
 すっかり夕日でオレンジ色に染まった部室内で古泉がつぶやく。もうあと10分で下校時刻になってしまうが、
朝比奈さんは一向に部室に姿を現さなかった。ハルヒ曰く、昼休みにちらっと見かけたから来ているはずとのことだったが、
なんで来ないんだ? 昨日のケンカ寸前が原因で来たくないのだろうか?
 その原因の片翼だったハルヒは、ぶすーっとしたまま特に朝比奈さんに連絡を取る様子もない。かけづらいのだろう。
意地っ張りな性格が災いしているんだろうな。
 その日、朝比奈さんは部室に姿を現さなかった。
 
 しかし、それだけではすまない。その翌日もそのまた翌日も朝比奈さんは部室へやって来なかった。
 ハルヒもやっぱり不機嫌モードのまま。他の団員も朝比奈さんのことを口に出しづらい雰囲気が蔓延し、
全く話題にも上がらなくなっていた。
 
 そんな状態が土日を通して一週間ほど続いた――
 
 ………
 ……
 …
 
◇◇◇◇
 
 外も陽気も少々変化し、暖かさを取り戻しつつ新春の日、いつものようにSOS団の根城である文芸部室で
俺は古泉と暇つぶしにコンピ研からせしめたノートPCでマインスイーパー上級をどっちが先にクリアできるかなんていう
遊びに興じていた。長門はいつもの席で春の光を背に読書に没頭し、ハルヒは週末の予定を立てるために、
出かける場所の検索作業を続けていた。
「最近は便利になったわよね。うちの周辺でも飲食店やイベント会場なんかすぐにネットで検索できるし。
おかげで不思議なことも探しやすくなったってものよ。ふふん、これなら隠れている連中を捜し出すのは時間の問題かもね」
 そんなことを言いながらGoogleMAPとGoogleEarthの地球儀をぐりぐりといじくり回している。
確かに情報共有っていう面ならかなり便利になったわけだが、それで見つけやすくなったならとっくに俺たち以外の誰かが
探し出しているだろうよ。世界中にはトレジャーハンターやら行動的なUFOオタクも数百万人ぐらいはいそうだからな。
 ふと、ハルヒは湯飲みを差し出して、
「キョン、お茶入れてよ」
「何で俺が。自分でやればいいだろ? 俺の入れた茶なんてうまくないぞ」
「いつも入れてくれていたじゃん。いいから雑用係は与えられた仕事をこなしなさい」
「へいへい――って、いつもやっていたか?」
 そんな違和感を憶えつつも、俺はちゃっちゃとお茶をついでハルヒに手渡す。
 が、湯飲みに口をつけたとたんハルヒは、
「熱っ! 苦っ! 何よこれ! ちゃんと入れなさいよ!」
「だから俺の入れた茶なんてうまくないぞと言っておいただろうが。せっかく注いだんだからちゃんと全部飲めよ」
「むー」
 ハルヒはうなりつつふーふーとさましながらお茶をすすり始める。
 ふと何かに気がついたのようなそぶりを見せて、
「あんたってお茶入れるのこんなにへたくそだったっけ? 何というか普段はもっとおいしいやつを飲んでいたような気がするんだけど」
「へたくそも何もお茶なんて滅多に入れねえよ」
「そうだっけ? あれ? じゃあ誰がいつも入れてくれていたんだっけ?」
 そう言ってハルヒは団員たちを見回す。
 ここで長門が本に視線を向けたまま、
「それは彼でもわたしでも古泉一樹でもない」
 そう言ってきた。ん、おかしいな。俺もいつもうまいお茶を出してもらっていた憶えがあるんだが、ハルヒでもないなら
いったい誰に出してもらっていたんだっけ?
 古泉に確認するように視線を向けるが、返ってきたのはさあ?という肩をすくめたポーズだけだった。
何だよ、部室もおかしな異界とかしていると聞いていたが、まさか今まで俺は座敷童にでもお茶を出してもらっていたのか?
うまいと思って飲んでいたのが、掃除用具入れに入っているバケツにくまれた水道水だったなんていうのは勘弁だぞ。
 と、そんな会話を続けていたときだった。何の前触れもなく、部室の扉が少しだけ開く。座敷童なんていう想像をした直後だったため、
俺は一瞬悲鳴を上げてしまいそうになったがあわててそれを飲み込んだ。
 しばらく少しだけ開いた状態のままで何も起きなかったが、ほどなくしてすっと髪の長い少女の顔が部室内をのぞき込むように
少しだけ現れて――すぐにまた引っ込んでしまった。何なんだ、本当に座敷童の出現じゃないだろうな?
 扉の窓越しにおろおろとしている人影が見るところから、なんかSOS団に用事があるようだが入りづらい様子だな。
まあこんな異様な連中が集う場所に入りたくないっていうのもわからんでもないが、お客さんを放っておく訳にもいかん。
 俺は椅子から立ち上がり、部室の扉を開けてみた。
 そこには――何というかまさにエンジェル降臨!と讃えたくなるほどのものすごい美少女の姿が。歳は俺よりも低そうだ。
というか中学生ぐらいに見える。一年か? しかし、こんなスーパー美少女がいるなんてこの一年間聞いた憶えもないが……
 少女はびくびくした表情でこちらを見ている。俺はとりあえず、
「あ、ええっとなんかご用でしょうか? ここは文芸部室とは名ばかりのSOS団という変人涼宮ハルヒが作った団が
占拠している部室なんですが」
「え……?」
 俺の言葉に少女はいったん驚きの表情を見せたかと思うと、みるみるうちにその顔を青ざめていった。
なんだなんだ? どうしたっていうんだ。なんかまずいことでも言っちまったか?
「何よ、お客さん?」
 そんなことをやっているうちにハルヒもやって来て――その少女を見るや否やいきなり抱きついた。
「うわっ! 何よこれかわいすぎ! あーもう、抱きしめないと気が済まないわ! ねっ、うちのSOS団に入らない?
今なら特別待遇で入団を許可するわよ!」
 じゃれ合うようにその少女への頬ずりまで始める。
 さすがに初対面の相手に失礼すぎると、俺はハルヒの襟首をつかんで強制的に引き離すと、
「おいお客さんかもしれないのに、勧誘してどうするんだ。すいません、こいつあなたのような人には目がなくて――あのちょっと?」
 その少女の様子がますますおかしくなっていることに気がつく。失望に染まりきった表情に、身体を小刻みに震わせてまでいた。
 まずい。驚かせてしまったのだろうか。早めに謝っておかないと教師沙汰に……
 しかし、次に少女の口から出た言葉は全く意味不明なものだった。
「いえっ……何でもないんですっ、これでいいんですっ、あ、あたしは行かないと行けない場所があるので……!」
 そんなことを言うと、一目散に部室棟の出口に向かって走って行ってしまった。
「何だったの、今の?」
「さあ……?」
 俺とハルヒはそう顔を見合わせて――すぐに顔をしかめた。
 何だ? 今すごい違和感を感じたぞ。どの部分だ。あの少女について……
 ハルヒも同様に何か頭に引っかかるものを感じているのか、壁に手をついて頭を抱えている。
 明らかに俺たちは重要なことを忘れている。しかも、絶対に忘れてはならないとんでもなく大切なことだ。
くそっ、もう一歩のところまで出かかっているのに、もどかしいったらありゃしねぇ。
 ふと、そんな俺たちの背後に長門が立っていた。そして、交互に俺たちを見渡すと、一言だけ、
「朝比奈みくる」
 その言葉の意味するところを、最初は俺たちは理解できなかった。
 だが、すぐに気がつく。
「みくる……ちゃん」
 ハルヒは目を見開き、愕然とした表情を浮かべた。そして、力なく床にへたりと座り込むと、自分の頭を抱えて苦しむように、
「あ、あたし――あたしあんなに忘れないって誓っていたのに――それなのに、どうして忘れて……!」
 あまりのショックに錯乱気味になってしまっていた。
 一方の俺もはっきりと思い出した。さっきまで俺の目の前にいたのは、正真正銘のSOS団団員で俺の癒しであり、
ずっと二年間極上のお茶を注いでくれていた人、朝比奈さんだった。何でだ? なぜ忘れていた……
 古泉も唖然と口を開き、その現実にただただ驚愕していた。憶えていたのは長門だけか。
 俺は慌てて部室内に戻ると、壁に掛けられているカレンダーを日付を見始める。いつだ。いつから俺たちは忘れていた。
 ハルヒと朝比奈さんがケンカ寸前まで行ってから数日は憶えていた。そして、週末を超えて――そうだ。週明けから
俺たちは完全に朝比奈さんの存在を忘れていた。一瞬でも疎遠になったせいだろうか。まるでその隙を突かれたかのように
未来人どもは俺たちから貴重で欠かせないものを盗み取ろうとしていきやがったんだ。
 近くに来ていた長門に気がつき、まるで怒りをぶつけるようにその肩をつかむと、
「どうして教えてくれなかったんだよっ! 長門は憶えていたんだろっ! だったら教えてくれればよかったじゃないか!」
 だが、長門はあくまでも冷静な口調で、
「あなたたちが朝比奈みくるの情報を欠落させられていたことには把握していた。しかし、例えわたしがその名前を告げても、
その意味をあなたたちが理解することはなかっただろう。朝比奈みくる本人と直接接触した瞬間にそうしなければ
あなたたちの記憶情報の欠落は修復されなかった」
「……っく」
 その指摘に俺は苦渋のうめきをあげる。確かのその通りだ。週明けからの俺とハルヒの様子を振り返ってみれば、
朝比奈みくる?誰だそれ、とか平然に言っていただろう。長門の言うとおり、思い出すなら今しかチャンスはなかった。
「すまない長門。お前は最善を尽くしてくれたのに、八つ当たりみたいなことを言っちまって……」
「それは別に問題ない。だが、あなたは今すぐやるべきことがある」
 ああその通りだ、長門。
「ごめん……みくるちゃんごめん! あたし――あたしはあんなに……!」
 床に伏せたまま錯乱状態で謝り続けるハルヒ。あれだけ決意していたのに、してやられてしまった現実に耐えられなくなっているのだろう。
しかし、ハルヒも心配だがそれ以上に問題なのが朝比奈さんだ。今すぐ追いかけないと。
「古泉! ハルヒのことを頼む! 俺は朝比奈さんを追うから!」
「は、はい!」
 俺は古泉にそう告げると、一目散に外に飛び出した。
 朝比奈さんに言わなければならない。俺たちはまだ憶えていると。さっきまで忘れていたが、今でははっきりと二年間のSOS団の
思い出を憶えていると。
 すでに鞄を持っていたところを考えれば、そのまま帰宅の道についたと考えるべきか。
 俺は校門と飛び出て下り坂を走って下り始める。
 その間、俺の脳裏に朝比奈さん(大)の言葉が蘇っていた。ハルヒが何とかデータとやらをロックしているせいで
その書き換えができない状態だと。恐らく週末かその辺りに一瞬ハルヒに隙ができたのだろう。あのケンカ寸前の後、
二人は全く顔を合わせていなかったし、ハルヒも相当怒っていたから無理もない。朝比奈さん(大)たちはその隙を
決して逃さず、いっきに俺たちから朝比奈さん(小)の記憶を奪い去っていった。だが、不手際かそれともハルヒの執着心が
まだ残っていたのか完全にはできなかった。そのおかげで長門の一言で俺たちは全てを思い出すことができたんだ。
 息も絶え絶えになりつつ、長い坂道もちょうど半分ぐらいに差し掛かったところで――いた。肩を落とし、うつむいた状態で
坂をゆっくりと下る朝比奈さんの後ろ姿が。
 俺は暴走トラックのように全速力でその元に駆け寄り、
「朝比奈さんっ!」
「えっ……あ、キョンくん……」
 俺の呼びかけに、朝比奈さんは喜びとも失望ともとれる複雑な表情を浮かべる。
 すぐに彼女の前に俺は立つと、切れる息も放ってその肩をつかむと、
「俺、絶対に忘れませんから!」
「…………」
「さっきまで忘れていましたけど、全部思い出しました。もう二度と同じミスはしない! 絶対に朝比奈さんのことは忘れない!」
 その俺の言葉に、朝比奈さんは落胆したようにうつむくと、
「やっぱり、思い出しちゃったんですね……」
「当たり前です! SOS団には朝比奈さんがいたんです。この北高にもいたんです。それは絶対に変えようのない事実なんです!」
 俺は思わず朝比奈さんにさらに顔を近づけて、続ける。
「聞かせてください。朝比奈さんは本当に自分の存在がなかったことにされてもいいんですか? 
未来人とかそんなことはどうでもいいんです。朝比奈さん個人の考えを聞かせてください!」
 俺の絶叫じみた呼びかけに、朝比奈さんは決して俺とは目を合わせようとしない。そして言う。
「あたし個人の考えなんてどうでもいいんです。あたしのいるべき場所は未来であって、そこを守るためにこの時間平面にいます。
その役目が終わり、あたしの存在の痕跡が未来に有害というなら消すしかないんですっ……!」
「そんな……」
「いいんですっ……それでいいんです。だから、あたしのことはもう忘れて……」
「嫌です! そんな未来人の一方的都合に、俺もハルヒも長門も古泉も翻弄されたくありません。朝比奈さんだってそうだ。
未来の都合どうこうで考え方まで左右されている。そんなの納得できない!」
「でもっ……でもっ……!」
 ――そんなやりとりをしているときだった。
「やっぽー! キョンくんにみくるっ! 何をやっているんだいっ? 何かめがっさ大変そうだけどっ」
「鶴屋さん!?」
 仰天の声を上げたのは朝比奈さんだった。まさか鶴屋さんも?
 鶴屋さんはいつものハイテンションモードで後頭部をかきながら、
「いやー、ここ数日なんかとんでもなく重要なことを忘れているような気がしていたんだけどねっ、ついさっきそれが
みくるのことだって思い出したのっさ。何で忘れていたのかさっぱりだよっ。ひょっとしてこの歳で健忘症になっちゃったかなっ」
 そう自虐的なんだろうけど、豪快で笑い声を上げる。
 さっきというとハルヒが思い出した時か? 確かにハルヒが思い出したと同時に俺も思い出せた。そう考えれば、
ハルヒの能力の影響により朝比奈さんに関する記憶が一斉に復活したのかもしれない。
「そんな……せっかく、せっかく忘れてくれたと思っていたのに……」
 朝比奈さんは絶望的な声を上げて、ふらふらと地面に倒れ込んでしまいそうになり、俺は慌ててそれをキャッチした。
顔面蒼白で失望の色に染まった彼女の顔は痛々しくすら感じる。
 俺はそんな彼女を抱きしめると、
「みんな忘れたくないんです、朝比奈さんのことを。だから、俺たちの思いを受け入れてください。お願いです……」
「…………」
 その呼びかけに朝比奈さんは何も答えない。代わりに身体を小刻みに震わせていた。
 と、ここで鶴屋さんがすっと朝比奈さんに顔を急接近させ、
「いいんだよっ、みくる。我慢なんてしなくてさ」
「え……」
「つらいなら――泣いちゃえ」
 この鶴屋さんの一言に朝比奈さんはしばらく首を振り、何かを耐えようとしていたが、やがて目に涙が浮かび始め、
最後には大声で泣き叫びながら俺から離れ、鶴屋さんに抱きついた。どうやらその一言で心の堰を切らせてしまったらしい。
「誰だって忘れられたらつらいよ――立場とか使命とかそんなことは関係なくさ。それが一度忘れられて、再度思い出されれば
つらさも倍増するってものさ」
 鶴屋さんは朝比奈さんの背中を優しくなでていた。
 一度忘れられて寂しさを味わい、そしてその後に思い出されて、さらに忘れられたときの恐怖が蘇る。これはどんな人間でもきつい。
まるで拷問されているような気分だろう。当然だ。朝比奈さんはつらかった。それでもやっていた。俺やハルヒは鶴屋さんと違い、
自分の思いを伝えることで精一杯で、そこをきちんと理解できていなかったんだ……
 ふと鶴屋さんは俺の方を振り向き、
「キョンくん、今日のところはみくるはあたしに預からせてもらえないかな? 大丈夫、悪いようにはしないよ。
この子には今は考える時間が必要だと思うからね」
「……お願いします」
 俺は鶴屋さんに一礼すると、北高へ戻り始めた。
 
 部室に戻ってみれば、ハルヒは何とか錯乱状態は収まったようで、団長席で顔を伏せていた。ショックはまだ抜けきっていないのだろう。
近くでは古泉もいつものスマイルを消失させてじっと難しい表情を浮かべている。長門も読書をやめて俺の方をじっと見つめていた。
「……みくるちゃんは?」
 ハルヒは顔を上げずに、俺に言ってくる。とりあえず、俺は椅子に腰掛けながら、
「鶴屋さんにいったん預かってもらうことにした。今後どうなるかは――朝比奈さん次第だ」
「そう……」
 ハルヒは力なくつぶやいた。そして続ける。
「あたし、最低よ……あんなに忘れないって心に誓っていたのに、あっさりと忘れちゃうなんて最低も最低だわ……。
こんなんじゃみくるちゃんに説教する資格なんてないわよ……」
 自分を責め続けるハルヒ。
 そんなハルヒに俺はそばによって肩に手を置いてやり、
「まだだ。まだ終わってねえぞ。俺たちは長門のおかげで思い出せたんだ。まだチャンスはある。朝比奈さんを信じよう」
 俺の言葉にハルヒは顔を少しだけ上げて、こくりと頷いた。
 その目にはうっすらと涙が浮かんでいた……
 
 翌日の放課後。
 一週間ぶりに朝比奈さんが文芸部室に姿を現した。
「あの……」
「みくるちゃんっ!」
 朝比奈さんが言葉を発する前にハルヒが飛びつき、
「ごめん――本当にごめんね! あれだけ忘れないっていっていたのに……あたし、あたし……!」
 そう言ってハルヒは泣きじゃくる。
 それに朝比奈さんも呼応するかのごとく、目に涙を浮かべ、
「いいえ、いいんです。思い出してくれただけでも感謝しています。あたし、本当は忘れられても仕方がないとずっと思っていました。
会えなくなるんだから憶えていられても仕方がないって。でも、実際に――本当に忘れられて初めてその寂しさがわかりました。
あたしは嫌です。あんな思いなんて引きづったまま、みんなとお別れなんてしたくありません。そして、またいつか会える日が
来ることのために誰にも忘れて欲しくない……」
 しばらくハルヒは抱きついたままだったが、やがてすっと朝比奈さんの方から離れて、
「一週間も来なくてごめんなさい。でも、またSOS団にあたしいてもいいですか……?」
 そう恐る恐る言ってきた。
 それに対してハルヒは、ぐっと親指をあげて、
「――あったり前じゃない! みくるちゃんは大切な団員なんだからね!」
 ハルヒの黄色い歓喜の声が部室内に響いた。そして、続けて、
「さあやるわよ! 卒業歌作り! もう時間がないから突貫作業・総動員で行くんだからね! みんな一致団結してやりきるわよ!」
「はいっ!」
 
 ――遠回りや空回り、トラブルがあったが、ようやくここに来てSOS団は卒業歌制作に向けてようやく一つになった。
 
◇◇◇◇
 
 それから数日間は濃密で怒濤の日々が続いた。何せごたごたのせいで来週初めには卒業歌募集の締め切りが迫っている。
歌詞は完全なやり直し状態だし、作曲は未着手状態だ。文化祭の映画作りのように徹夜も辞さない覚悟で進める必要があるだろう。
 歌詞の方は一人ではもう間に合わないと言うことで、ハルヒがつきっきりで作製している。今までのような不和は全くなく、
二人とも笑顔で、また真剣にどんどん進めて行っていた。
 この様子に古泉も満足げな笑みを浮かべていた。
「よかったですね。二人とも仲直りできて」
「そうだな……この調子ならぎりぎりながら何とかなりそうだ」
 俺も頷いてそれに同意する。
 と、古泉は興味津々な顔に変形させると、
「しかし、どうして朝比奈さんは考え方を翻したのでしょうね? 未来に対する悪影響は自分の存在自体を
危うくするかもしれないというのに」
「簡単な話だ。朝比奈さんにとってもこの二年間はあっさり切り捨てられるようなものじゃなかったってことさ」
 だが、この朝比奈さんの行動に朝比奈さん(大)――あるいはもっと上にいる連中はどう思うんだろうか。
もっと強硬な姿勢で朝比奈さんを無理やり帰還させたり、卒業歌を作ってもそれを無かったことにしないだろうか。
 そんな疑問を読み取ったかのように、長門がこちらを向き、
「それなら問題ない。彼らはこれ以上の介入を行うつもりはないと判断している。理由は不明。それに――」
「それに?」
 ――少しだけ長門の表情が引き締まったに見えた――
「例えそうしてきても、わたしがさせない」
 
 そして翌日――
「できたわっ!」
 ハルヒの歓喜の声。一同の視線が集まる中、ハルヒは歌詞のかかれた紙を高々と掲げていた。隣では朝比奈さんが
柔らかい笑顔でそれを見つめていた。
 俺はハルヒからそれを受け取ると、一通り眺めてみる。脇からは古泉と長門がのぞき込んでいた。
 …………
 何となくもう一度それを読んでいく。
 …………
 もう一度。
 …………
 もう一度――いかん、なんだこの歌詞。俺のハートにクリティカルヒット過ぎて目頭が熱くなってきた。それは歌詞がいいというより、
朝比奈さんの卒業と別れに重ねてしまうからかもしれないが。
 古泉も相当堪えているようで、目頭を押さえてしまっているほどだ。
 長門は無表情だが、全身から発せられるオーラが激しい変化を示しているのを俺のレーダはキャッチしていた。
 これに曲がついたらどうなるんだ? 俺の涙腺は阻止限界突破確実だろう。そんなに外れたものをハルヒが作るとも思えないからな。
 そんな感慨に浸っていると、ハルヒは歌詞の紙を回収し、
「よっし、時間がないから今すぐ軽音楽部に行ってくるわ。楽器を借りて、とっとと作曲しないとね。
さっ、みくるちゃんも共同制作者なんだから一緒に来て」
「は、はいっ!」
 そう言って二人は小走りに部室から出て行った。やれやれ、これで第一段階は終わりか。何とか期限まで間に合いそうだな。
 
◇◇◇◇
 
 週明け、締め切り日ぎりぎりに卒業歌のサンプルを作り上げた俺たちは、生徒会室へ足を運び、それを録音したCDを手渡した。
 俺は直前にハルヒが歌っているそれを聞いてみたが――もう気分は卒業式になり、ハンカチ片手に聞くことはできない代物だった。
朝比奈さんの思いが詰まった歌詞に、その効果を何百倍に引き上げるハルヒの歌声と曲。J-POPとか今時の歌とは違い、
思いの外合唱曲っぽい渋めのものだったが、それが余計に別れというキーワードを際だてていた。あまり歌は聴かない方だが、
恐らく一生の間でもこれほどのものは早々巡り会えないと断言できるね。
「あー、終わった!」
「さ、さすがに疲れましたぁ~」
 部室に戻ってから、ハルヒと朝比奈さんは机に突っ伏した。何でも土日も出ずっぱりで作業に明け暮れていたらしい。
しかも、朝早くから夜中までずっとだ。
 しかし、口にしている言葉と裏腹に二人の表情は満足げで心地よさそうである。
 ここで古泉が最近お茶くみ代理と化していた役割に従い、
「お疲れ様でした。どうぞ」
 そう言ってお茶を二人に差し出した。
 ハルヒはビールを一気飲みするように、あっという間にそれを飲み干し、朝比奈さんはさましながら少しずつ味わうように飲んでいった。
 
 そして、数日後運命の選考結果が出る。発表の予定時刻は昼休みだった。
 俺は採用の確信はしていたが、はらはらしつつ結果を記された紙が掲示板に貼られるのを見つめていた。
もちろんハルヒは授業を途中で脱走して掲示板の前で仁王立ち状態で、厳しい視線を向けていた。
 そこには――
「あった――あったあった!」
 ハルヒの歓喜の声が廊下中に響く。
 そう、そこの採用結果には、俺たちSOS団が作った歌の名前が記されていた。
 遅れて駆けつけた朝比奈さんもそれを見て、歓喜の笑みを浮かべる。同時にハルヒがすぐに彼女に抱きついて、
互いに祝いと感謝の言葉を語り合い始めた。
「やはり採用ですか。予想通りですね」
 気がつけば、俺の隣には古泉と長門の姿もあった。
 予想通りって何だ。まさか、またお前が余計な茶々を入れて裏口入学みたいな手を使ったんじゃあるまいな?
 俺の疑惑の視線に気がついたのか、古泉はすぐに首を振って、
「いえいえ。そう言う意味ではありません。はっきりと断言しておきますが、今回の企画こそ、機関の働きかけで
生徒会長が残した置きみやげでしたが、選考そのものには全く干渉していません。純粋に採用されても全く不思議はないという
出来だったという意味ですよ」
 長門は? なんかインチキしたりしていないだろうな?
「それはない。わたしはその必要は全く感じなかったし、それを行えば意味そのものを失うと判断していた」
「……そうか」
 俺はほっと胸をなで下ろす。ここで不正があったと言われたら興ざめもいいところだし、他の応募者に酷いことをしたことに
なっちまうからな。
 唯一、ハルヒがあの変態パワーを使って採用させてしまったという可能性があるが――いや、考えるまい。
ハルヒ自身は採用されることを確信していただろうし、それだけの出来だと俺も思っている。それにいくら傍若無人のあいつといっても、
正々堂々・本気勝負が信条みたいな性格を考えれば、不正行為なんて望まないさ。きっとな。
 と、ここで興味があったんだろうか、谷口と国木田が結果を見にやってきた。
「よっ、キョン。お前も見に来たのか?」
「ああ、うちの団員が絡んでいるんでな。きっちり確認しておきたかったんだ」
 俺の言葉に、国木田が結果をのぞき込んで、
「朝比奈……みくる? そんな人、涼宮さんの団体にいたっけ? 谷口、聞いたことある?」
「いんや、俺はしらねーな。知らない間に新入部員がいたのかよー。しかも、三年が」
 不思議そうな顔を見せる二人に、俺は朝比奈さんの姿を指さし、
「ちゃんと憶えておいてくれよ。俺たちSOS団の癒しにしてマスコットキャラ、なくてはならない団員朝比奈みくるさんだ」
 そう俺は誇らしげに言った。
 
◇◇◇◇
 
 それから、本格的に卒業式の練習が始まる。最初はクラス内で合唱の練習をしていたが、生徒たちの反応が
なかなかよかったことに俺は安堵した。ハルヒの歌がかなりうまいと言うことも話題作りの一環となり、自然と歌詞についても
生徒たちの間で話されるようになる。
 卒業式の合同練習が始まる時期には朝比奈さんが廊下を歩けば、すぐに声をかけられるほどなっていた。
一度は誰の記憶からも消されていた朝比奈さんの存在が、再び認知され始めたのだ。元々容姿は女神に等しいんだから、
ひとたび注目を浴びればそうなるのは必然だな。
 ただ寂しさがあるのも事実。今注目を浴びている朝比奈さんは歌を作ったという点についてであって、この二年間の朝比奈さんに
ついてではないから。
 いやもう贅沢は言うまい。ひょっとしたら一度忘れた俺たちが思い出せたように、朝比奈さんのことを強く意識したために、
記憶を蘇らせられる人間もいるかもしれないからな。今はこれが精一杯だ。
 卒業式を控えるまでの間、SOS団の活動は今まで以上に活発になった。週末は必ず出かけるようになったし、
昼休みも文芸部室に集合して一緒に弁当を食べる日々になった。たまに朝比奈さんが大量の重箱入り手作り弁当を持ってきたりして
みんなでそれを堪能したりもした。
 SOS団はみな楽しそうにしていた。特にハルヒは残された短い間で徹底的にやりたいことをやりきると決めているのか、
徹底的に分刻みのスケジュールでみんなをあちこちへと連れ回した。俺も楽しかったし、朝比奈さんも満面の笑顔でそれを受け入れた。
古泉や長門も楽しそうだった。
 
 いつまでもこんな日が続けばいい。
 別れなんて来て欲しくない。
 俺はずっとそう願っていた。
 しかし、時間の刻みは冷酷だ。
 止まることなく針は進み続け――
 
 ついに卒業式当日を迎えていた。
 
◇◇◇◇
 
 卒業式当日、学校の敷地内の桜は満開になり、少し強い風が桜吹雪を舞わせていた。
 俺たち二年は卒業式の見送る側の席に座っている。
 卒業式のパンフレットをのぞいてみたが、やはり卒業生の名前の中に朝比奈さんの名前は載っていなかった。
やはり未来はどうあっても朝比奈さんがこの北高で二年間を過ごしたことを抹消するつもりらしい。
 しかし、どういう訳だか、パンフレットに載っている卒業生が作った創作卒業歌の欄にはきっちりとかかれていた。
 作詞・作曲朝比奈みくると。
 
 ほどなくして、卒業生たちが会場である体育館内に入ってきた。吹奏楽部の壮大な音楽とともに、次々と席に着いていく。
事前に確認した限りでは卒業式にはまだ帰還しないと朝比奈さんは言っていた。ただ参加できるとまでは言っていなかったが。
 卒業生の一団の中には鶴屋さんの姿はあった。しかし、やはり朝比奈さんの姿はない。まさかもう帰還させられてしまったのだろうか……
 
 その後卒業式は粛々と進んでいく。
 はっきり言って校長の長い話とかには興味ない。俺の注目点はラストの卒業歌だけだ。
 
 そしてついにやってくる。朝比奈さんの――俺たちSOS団が作った歌が。
 吹奏楽部の演奏が始まる――
 
 ♪初めて見た水 変わらない空
 ♪見たこともない世界で どこか見たことのある景色
 ♪知らない人が道を行く その色は様々に異なる
 
 ――朝比奈さんは未来から来た。その時この世界はどう映ったんだろうか。
 ――この歌のように知らない世界なのに、どこか見たことあるものがあるというぐらいだったのだろうか。
 
 ♪わたしは忘れない 側にいた人たちを
 ♪わたしを忘れないで 身を寄せたぬくもりそのままに
 
 ――ここを歌ったとたん、唐突に俺の目から涙があふれた。朝比奈さんの思いそのまま。忘れたくない。忘れられたくない。
 
 ♪旅を続けて来た場所 知らない月に知らない森
 ♪その下でわたしの手を引く人がいる わたしを知らない場所連れて行く
 ♪不安なわたし その気持ちを笑顔で振り払う そんな人たち
 
 ――手を引いたのはハルヒだろう。いやSOS団か。知らない世界でひたすらあちこち連れて行ったしな。
 
 ♪わたしは忘れない 見せてくれた笑顔の数々
 ♪わたしを忘れないで そこにいた姿と足跡を

 ♪一人でいることのはかなさ 誰もわたしを知らないことのつらさ
 ♪ただ募らせる 人の恋しさばかりを
 
 ――そうだ。一人は辛い。誰も自分のことを知らないのはもっと辛い。朝比奈さんはそれに気がついて未来という枷を外せた。
 
 ♪わたしは忘れない 側にいた人たちを
 ♪わたしを忘れないで 身を寄せたぬくもりそのままに
 ♪わたしは忘れない 見せてくれた笑顔の数々
 ♪わたしを忘れないで そこにいた姿と足跡を
 
 
 …………
 …………
 吹奏楽部の演奏が終わる。保護者席からは賞賛の意味があるのか、拍手がまばらに起きていた。
 
 俺はそれを聞きながら、ぼろぼろの涙をハンカチで拭うので必死だった。
 
◇◇◇◇
 
 卒業式も無事に終わり、俺とハルヒはすぐさま中庭に飛び出す。
 そこは卒業生と在校生でごった返していた。二人で必死に朝比奈さんの姿を探し続ける。
「すいません遅れました」
「…………」
 その間に、古泉と長門も駆けつけてきた。4人がかりでその姿を探すが、どうしても見つからない。
ちくしょう、本当に一足先にかえっちまったんじゃないだろうな……?
「キョンくんっ。ハルにゃん」
 その声に振り返ってみれば、そこには鶴屋さんの姿が。朝比奈さんのことでどたばたしてしまったが、鶴屋さんも卒業なんだよな。
あとでお別れの一言もかけておかない。
 と、鶴屋さんはいつもの笑みで中庭の隅の方を指さす。そこには――
「みくるちゃん!」
 すぐさまハルヒが駆けだした。俺とその他もそれに続く。
 そこにはいつものセーラ服姿の朝比奈さんがいた。他の卒業生が持っている卒業証書の入った筒は持っていない。
やっぱり卒業式には参加できなかったみたいだ。無理もない。一覧にも載っていないんだから。
「みくるちゃん――みくるちゃんっみくるちゃん!」
 ハルヒは叫びながら朝比奈さんに抱きつき、止めどなく涙を流し始めた。朝比奈さんも涙を浮かべつつ、それを抱き返している。
 一歩遅れて、俺たちも朝比奈さんの周りを取り囲んだ。よかったっ……まだ間に合った……!
 朝比奈さんは俺たちを見回すと、
「本当は卒業式の前に行かないといけなかったんですけど……ちょっと無理を言って待ってもらいました。
卒業式には出られなかったけど、ここからでも十分に歌は聞こえたから……」
 そうか。聞いてくれたんだ。俺たちの呼びかけが朝比奈さんにきちんと届いてくれたんだ。
 ハルヒはしゃくり上げながらしばらく抱きついたままだったが、ほどなくして何か思い出したようにポケットから一枚の紙を取り出し、
「卒業証書なんて下らないわ! 代わりにこれをみくるちゃんに授与します!」
 名刺二枚分ぐらいのそれは、ハルヒが作った手書きのSOS団の卒団証明だった。
 朝比奈さんは涙をぬぐいながら、それを受け取り、
「はい。ありがとうございます!」
 そうはっきりとにこやかな笑みを浮かべた。
 ふと、鶴屋さんが遠巻きにいつもの笑顔でこっちを見ていることに気がつく。すぐに彼女も呼ぼうと思ったが、
朝比奈さんが制止してきて、
「鶴屋さんとはさっきお別れしました。あとはキョンくんたちと一緒にいてあげてと」
「そうですか……」
 そう言えば、鶴屋さんはいつも一歩引いた場所にいるのがいいって言っていたな。だから、先にお別れを済ませて、
後は俺たちの別れを見ている。らしいといえば、そうかもしれない。
 ここで朝比奈さんは俺に胸に頭を当ててきた。次にハルヒ、古泉、長門と続けていく。
 俺はこの行為を唖然としてみていたが、
「最後です。あたしのぬくもりを忘れないでください」
 この言葉と同時に、さっき朝比奈さんの額が当てられた胸のところをさすった。ええ、忘れません。この感触、絶対に忘れません!
 この時点で俺も気がつかないうちに、涙がだらだらとたれていることに気がつき、慌ててそれをぬぐった。
もうすぐお別れだって言うのに、涙で朝比奈さんの姿がぼやけさせてたまるか。二度と忘れないぐらいにしっかりと視界に焼き付けてやる。
 と、ここで朝比奈さんが少し寂しげな表情になると、
「そろそろ……お別れの時間です」
 そう言ってきた。
 ハルヒは自然とその手を握る。
 俺も開いている方の手を握った。
 長門と古泉は肩を掴む。
 最後まで一緒。これが俺たちの共通の意志だという現れだった。
『みなさん、憶えていますか? 今までSOS団としての活動のこと』
『あたしが一人でいると涼宮さんが現れて、手を引いて行きました。こんなところで何をやっているのよ、ついてきなさいって』
『それからキョンくん、長門さん、古泉くんと出会ってから、ずっと手を引かれ続けていました。行く先々がすごく楽しくて
明日はどこに行くんだろう、どこに行けるんだろうってそんなことを考えている毎日でした』
 ――次第にハルヒがしゃくり上げ始める。
『海に行ったり』
『山に行ったり』
『宝探しもしましたよね』
『孤島でたくさん遊びました』
『雪山でスキーもしました――遭難したのはちょっと驚きましたけど』
『バレンタインデーにチョコを作ったのもいい思い出です』
 ――ここまでで俺の涙腺はもはや制御を失っていた。止めたくても涙が止まらない。
 ――隣では古泉も目に浮かんだ涙を手でぬぐいつつ、鼻をすすっていた。
 ――長門も表情こそ変わらなかったが、悲しいという別れを惜しむ思いはひしひしと伝わってくる。
『毎日がまるでお祭りみたいでした。涼宮さんたちにはすごく感謝しています』
『あたし、この二年間のこと絶対に忘れません』
『今まで本当にありがとうございました。あたし、すごく楽しかったです』
 ――――
 ――――
 ――――
 一際強い風が吹いたと同時に、俺が握っていた暖かい感触が消えてなくなった。代わりに飛び散った桜の花びらが全身に降りかかる。
 ハルヒは崩れ落ちるように地面に座り込み、顔を手で覆って激しく鳴き始めた。俺も周囲も気にせず涙をひたすら流す。
 
 こうして朝比奈さんは未来へと帰っていった……
 
◇◇◇◇
 
 卒業式が終わり、俺たちは三年の進級を待っている状態になっていた。
 期末テストも無事終わり――いや俺の成績は無事じゃなかったが――、あとは終業式・春休みだけである。
 
 朝比奈さんがいなくなってから数日、SOS団は決定的なものが欠けてしまいにぽかんと空白ができてしまっていた。
その影響は大きくハルヒはダウナーで憂鬱な状態を維持しているし、古泉もボードゲームもやらずにぼけーとしていることが
多くなった。長門もいつもは猛烈な勢いでページをめくっていた読書の勢いが50%ダウン状態だ。
 この状態はしばらく続くだろう。こればかりは仕方がない。時が経ち、慣れることを待つしかない。
 
 ……ただ一つ大きな問題が起きていた。
 SOS団で撮った写真から全て朝比奈さんが消え去っていた。まるでそこにいなかったようにされてしまったかのようにだ。
それだけではない。俺がパソコンに密かに隠していたはずのmikuruフォルダもきれいさっぱり消えてなくなり、
その他SOS団にあった朝比奈さんの痕跡が一つ残らず消え去ってしまっていたのだ。
 さらに、俺やハルヒ、古泉から朝比奈さんに関わる記憶の大半が消え去ってしまっていた。孤島に行ったときのことも、
メイド服でお茶を入れてくれたことも、エンドレスサマーで遊び呆けたことも、俺の記憶上に朝比奈さんがその場にいなかったことに
されてしまっている。
 恐らく朝比奈さんの別れ後に、ハルヒの隙を見て未来側が懲りずに何とかデータの改ざんを行ったのだろう。
そのせいでこんなことになってしまっているのだ。
 
 では、なぜ今俺たちは朝比奈さんのことでダウナーになったりしているのか。
 忘れているなら、そんな気分にもならないんじゃないかと言われるかもしれない。
 
 その答えは……
 
 ♪初めて見た水 変わらない空
 
 唐突にハルヒの歌声が響く。今までの思い出を振り返り、別れを惜しみ、例え離ればなれになっても忘れないという強い思い。
その歌からはそれらがひしひしと伝わってきた。
 そう。あの歌に関することだけは消されなかった。今でもこれを作るために奔走した日々のことは憶えている。
卒業式のパンフレットの歌詞には、はっきりと朝比奈みくるの名前がある。さらに、朝比奈さんとの別れの時の記憶も残っていた。
 だから俺たちは例え忘れていても、すぐに思い出せるのだ。
 ひとたびこの歌を歌えばいい。それだけで、写真やものから痕跡が消えてしまっていても、彼女が確かにそこにいたという確証が得られる。
いつもここで笑顔でお茶を入れてくれて優しい癒しを提供してくれた。それは例え記憶を消されても、間違いなくあったSOS団の日常だ。
誰にもそれは否定できないし、させるつもりもない。この歌が証明さ。
 どうして未来側が消さなかったのかはわからん。知りようもないだろう。長門が守ってくれたからかもしれない。
あるいは卒業式で堂々と発表してしまい、多数の人に強い影響を及ぼした上、ハルヒの神的パワーがそれを阻止しているのかもしれない。
 
 ♪見たこともない世界で どこか見たことのある景色
 
 何となくハルヒに続いて、俺も歌い出した。
 それに気がついたハルヒは、ふふっと笑みを浮かべると、さらに音量を上げて歌う。
 長門と古泉もそれにつられるように歌い出した。
 
 ♪知らない人が道を行く その色は様々に異なる
 
 ♪わたしは忘れない 側にいた人たちを
 ♪わたしを忘れないで 身を寄せたぬくもりそのままに
 
 ♪旅を続けて来た場所 知らない月に知らない森
 ♪その下でわたしの手を引く人がいる わたしを知らない場所連れて行く
 ♪不安なわたし その気持ちを笑顔で振り払う そんな人たち
 ♪わたしは忘れない 見せてくれた笑顔の数々
 ♪わたしを忘れないで そこにいた姿と足跡を
 
 ♪一人でいることのはかなさ 誰もわたしを知らないことのつらさ
 ♪ただ募らせる 人の恋しさばかりを
 ♪わたしは忘れない 側にいた人たちを
 ♪わたしを忘れないで 身を寄せたぬくもりそのままに
 ♪わたしは忘れない 見せてくれた笑顔の数々
 ♪わたしを忘れないで そこにいた姿と足跡を
 
 寂しくなったり、忘れそうになったらこの歌を歌えばいい。
 そうすれば、あの朝比奈さんの姿が蘇り、俺たちは癒される――
 
 ~終わり~