<div class="main"> それは唐突で意味不明なハルヒの一言から始まった。<br> 「そうだっ! 古泉君よ!」<br> また、突然何を言い出すのか。<br> こいつは全人類が自分の思考回路と同期していると勘違いしているから、<br> 往々にしてこのように言葉が足りなくなる。<br> だからこそ誰かが通訳になる必要があるのだが、なんでそれが俺なんだ?<br> たまには誰か替わってくれよと思いつつ、<br> 「古泉がなんだって?」<br> 「だから、古泉君の家よ!」<br> 「……」<br> やっぱり誰か替われ。<br> 「僕の家がどうかしましたか?」<br> ハルヒはお得意の百ワットの笑顔で解説を始めた。<br> 「思ったんだけど、あたし古泉君の家に行ったことないのよ!」<br> だからどうしたと思いつつ、<br> 「それで?」<br> 「古泉君の家に行きましょ!」<br> 「それはそれは」<br> 古泉が苦笑している。<br> 「何でそんなに唐突なんだ、お前は」<br> 「いいじゃない。もうすぐ団も一周年だし、親睦を深めるにはもってこいよ」<br> 古泉と親睦を深めるより、朝比奈さんと親睦を深めたいものだね。<br> そういえば俺は彼女の家を知らないな。古泉の家じゃなくて朝比奈さんの家に行かないか?<br> と、考えていた俺だが、気付けばハルヒがジト目でこちらを睨んでおり、<br> 「マヌケ面」と、断罪しやがった。<br> おいおい。<br> 「どうせみくるちゃんの家でも夢想していたんでしょ、エロキョン」<br> 実に鋭く俺の心を読み、しかし標的を素早く変更して、<br> 「古泉君、お邪魔してもいい日ある?」<br> 古泉は顎に手をやり、<br> 「そうですね……」<br> とはいえ、俺も超能力者の家ってやつが気にならないと言えば嘘になる。<br> 「では、今日来ますか?」<br> ああ、今日か。今日は特に用はないから……って、<br> 「今日?」<br> 何とも急な話であると思うのは俺だけらしく、<br> 「思い立ったが吉日よね! さすが古泉君! みんなも良いわね?」<br> 「大丈夫です」<br> 「……」と、うなずく長門。<br> 朝比奈さんと長門がそれぞれの方法で賛成を表明し、<br> 「キョンもどうせ暇でしょ?」<br> とは疑問の形を取った確認、あるいは命令。どうも俺には選択肢はないらしい。<br> 「というわけで、出発よ!」<br> 俺の返事も聞かずにハルヒは宣言しやがった。なんて奴だ。<br> ……どうせ暇だけどな。というか、暇じゃなきゃここに来ないさ。<br> <br> <br> たどり着いたのは鶴屋邸や阪中邸には及ばないものの、それでもなかなか立派な一軒家だった。<br> 中の上とでも言おうか。<br> 「どうぞ」<br> と言いつつ古泉が玄関を開けた。<br> 「あいにく父も母も今日はいないんですよ」<br> リビングに通されたが、飲み物を持ってくると言った古泉に俺はついて行った。<br> 俺が口を開くより早く、<br> 「聞きたいことは分かりますよ」<br> なれた手つきでコップを取り出し飲み物を注ぐ古泉。<br> 「だろうな」<br> ここは本当に古泉の家か否か。<br> 古泉はいつもの笑みのまま、<br> 「禁則事項、ってことで手をうちませんか?」<br> 俺が何も聞けないのに手をうつとか言うな。手をうつ、は俺の言うべき台詞だろう。<br> 「ですが世の中には知らない方がいいこともありますから」<br> はて、お前はそんな危ない人間だったかな?<br> 「どうでしょう」と古泉はごまかすように笑い、<br> 「……すいませんが半分持っていただけませんか?」<br> 俺に並々と注がれたコップを二つ差し出す。<br> 別に断る理由もないので受け取り、リビングに戻る。<br> <br> <br> リビングではハルヒが、<br> 「あ、古泉君。これ弾いてもいい?」<br> と、ピアノの前に座って言った。<br> 学校にあるようなどでかいグランドピアノではなく、こじんまりとしたアップライトピアノだが、<br> それでもなかなかスペースを取る。楽器に縁のない俺からすれば邪魔なものだ。<br> 「殺伐とした奴ねえ」<br> ハルヒはあきれたように言い、古泉は微笑ましげに俺たちを見ながら、<br> 「どうぞご自由に弾いてください」<br> ハルヒは鍵盤の上に柔らかく指を置き、一音だけ鳴らした。<br> 「ピアノなんて久々だわ」<br> こいつの場合久々だろうと初めてだろうなんだろうと人並み以上にこなすんだろうな。<br> それからハルヒは軽く目をつぶり、また開けて音を紡ぎ出した。<br> <br> <br> ゆったりとした綺麗な曲だった。それくらいしか言えないのが何とも虚しい。<br> 詳しくない俺が言うのも何だが、やっぱりハルヒは上手かったぞ。<br> ……しかしまあ、この団長様がこんな曲を弾くとはね。<br> ハルヒが弾き終わって古泉がニコニコと、<br> 「『悲愴』の第二楽章ですね?」<br> ハルヒは我が意を得たりと言わんばかりに笑い、<br> 「さすが古泉君ね」<br> 「何だ、そのひそうって曲は?」<br> ハルヒが見下すように、<br> 「あんたねえ、ベートーヴェンの三大ピアノソナタくらい覚えときなさいよ。<br> あんたが将来どうなるか分からないけど、芸術的な教養くらい持ってないと」<br> 大丈夫だろ。どうせ俺は芸術には縁がない生活を送るに違いないんだ。<br> 「あんたがどうこうじゃないわよ。<br> もし億万が一普通の会社勤めして、取引先の人にそういう趣味があったらどうする気?<br> 音楽は分かりません、なんて言うより何百倍も良いでしょ!?」<br> 億万が一って、……俺がなぜお前に将来設計されなければいけないんだ?<br> 「それにあんたがそんなことも知らないとあた、<br> ……じゃなくてあんたの将来の奥さんが恥かくわ!」<br> そんなものかね?<br> 「そんなものよ!」<br> 断言するハルヒ。<br> 「それにしても涼宮さん、上手でしたねぇ」<br> 朝比奈さんが憧れるように言う。<br> ハルヒがその台詞から何をどう解釈したかは分からないが、<br> 「なあに、みくるちゃん、ピアノできないの? 駄目よそんなんじゃ。<br> あたしが、きっちり教えてあげるわ」<br> ハルヒがニンマリ笑っているところをみるとまともに教えるつもりはないらしい。合掌。<br> 「えええ遠慮……」<br> 「しなくていいわ!」<br> 朝比奈さんの後ろに回り込み手を掴むハルヒ。<br> 「ぴええぇー」<br> ほら、指はこっち、と字面だけは厳めしいがもの凄く弾んだ声をBGMに俺は飲み物を啜った。<br> 長門辺りにやらせたら完璧にこなすんだろうなと思いつつ、<br> 長門のいた方に視線を向けるとなぜか古泉がいた。<br> 腹立たしいと思いつつもちょっとした疑問をぶつけてやる。<br> 「お前は弾かないのか?」<br> 「はい?」<br> 不意打ちくらって呆然としているような古泉に、<br> 「お前はピアノを弾かないのか?」と繰り返す。<br> 途端に朝比奈さんの悲鳴がやんだ。なぜならばハルヒが、<br> 「そういえばそうね。古泉君は弾かないの?」<br> 「別に聞かせるほどのものでは……」<br> 珍しくしどろもどろな古泉。<br> 「いいじゃない、減るものでもないでしょ」<br> そういって古泉をピアノ前まで誘導する。<br> 「ぜひ聞いてみたいです」<br> ぐおっ、朝比奈さんにそう言われるなら俺も習えばよかった。<br> 「わたしも興味がある」と長門。マジかよ。<br> 「というわけよ!」<br> 古泉は救いを求めるように俺を見ていたが、何か覚悟したらしく急に顔を引き締めて、<br> 「それでは」<br> <br> <br> 暗く物悲しい曲調。穏やかな旋律。うん、やっぱり音楽的感性ゼロだな、俺は。<br> やがて古泉が鍵盤から手を離し、音の余韻が消えた頃にまた手を置いた。<br> 今度は一転して明るく弾んだ調子の曲だった。<br> そしてまた、曲調が一転する。<br> それはとても激しく力強い曲だった。今までのゆったりとした雰囲気を壊すかのような。<br> ……俺にこれ以上は伝えられないな。ただ、弾き終わった古泉の顔は満足そうだった。<br> 気付けばもう二十分も経っていた。<br> 「……」<br> 誰一人として口を開こうとしなかった。<br> <br> <br> 「……参ったわね、びっくり」<br> 最初に口を開いたのはハルヒだった。<br> 「すごいです……」<br> 長門でさえ感心したような雰囲気を醸し出している。<br> そんな称賛の対象となっている古泉は、<br> 「おや、もうこんな時間ですね」<br> と、我関せずである。もしかしたら古泉流の照れ隠しかもしれないが。<br> 「そろそろお開きにしませんか? 途中まで案内しますよ」<br> 古泉に促されるように家を出る俺たち。<br> <br> <br> その帰り道のことである。<br> 俺と古泉はハルヒたち三人の前にいた。<br> 「あの曲はなんていうんだ?」<br> 古泉は少し驚いたような顔をし、<br> 「通称『月光』です。やはりベートーヴェンの三大ピアノソナタの一つですよ。<br> 一度くらい聞いたことありませんか?」<br> どうだかな。<br> 「わかってはいたけどお前もすごい奴だな」<br> 「あなたに褒められるとは。珍しいですね」<br> 古泉が笑いやがるので俺はそこで会話を打ち切った。<br> <br> <br> さて、これは古泉が家に引き返す直前のできごとである。<br> 「古泉君、ちょっといい?」<br> 「なんでしょうか」<br> ハルヒは躊躇し、<br> 「古泉君はあの曲がどうして作られたか知ってるわよね?」<br> 今度は古泉が一瞬黙り、<br> 「……ええ」<br> 「知っててわざわざあの曲弾いた?」<br> 「……はい」<br> ハルヒは途端に古泉から視線を逸らし小さく頭を振ってから、<br> 「じゃ、みんな解散ね」<br> そう言って一人で駆け出して行った。<br> <br> <br> 長門と朝比奈さんもそれぞれ家路についたが俺だけなぜかその場にとどまっていた。<br> ハルヒと古泉の間で何か大きな事が起きた気がしたからだ。<br> 「……」<br> 「……」<br> 古泉がぽつりと、<br> 「……月光はベートーヴェンが彼の教え子のために作った曲なんです。<br> 彼はその教え子に恋をしていた。しかし身分の差からその恋は実らなかった」<br> 実らぬ恋、と古泉は繰り返し、<br> 「涼宮さんもこのエピソード、知っていたみたいですね」<br> 「お前まさか……」<br> 「本当はあれを弾くつもりじゃなかったんですよ。だけど気付いたら弾いていた。<br> たった一人に聞かせるために……」<br> 古泉は黙った。俺も黙った。<br> 「……なんで今日はこんなに感傷的になってしまうのやら」<br> 古泉は手を広げて大袈裟に首を振り、<br> 「忘れてください」<br> そう言って古泉はもと来た道を引き返した。<br> 月光に照らされたその道を――。<br> FIN.</div> <!-- ad -->