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赤い絲 前篇 - (2007/01/15 (月) 04:16:59) のソース

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<div>『赤い絲 前篇』<br></div>
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<div>どこか遠くから甲高い電子音が聞こえてくる。<br>
それは自己主張するかのように徐々に大きくなっていき、呼応するが如く闇に潜っていたあたしの意識が浮上した。<br>

あたしは毎朝の習慣で無意識に布団の中から手だけ伸ばして、ちょっと煩わしくなってきた発信源を引き寄せた。手探りでタイマーを解除する。音が止んだ。<br>

取り戻した静寂の中、再び意識が深淵に滑り落ちていきそうになる。まだ眠い。けれど起きなきゃ。<br>

重い瞼をなんとか押し上げる。右手に納まったままの時計を見ると『AM 07:07』<br>

その数字の配列になんだか少し得した気分になった。自ずと睡魔が撤退し、それを機にあたしは上半身を起こした。<br>

大きく伸びをする。カーテンの隙間から差し込む光が『本日ハ晴天ナリ。』と告げた。ますます気分は上昇する。<br>

今日は土曜日だから学校は休み。でもSOS団の活動はある。集合は九時。<br>

まだぼんやりした頭をもたげて、ベッドから這い出しパジャマのまま階下に降りた。洗面所に向かう。まず顔を洗って目を覚まそう。<br>

洗顔石鹸で顔を洗い、冷水を二、三度顔面に浴びせた。すっ、と頭の芯が冷えていく感じ。ようやく目が醒めた気分になった。<br>

頬を伝い顎から滴り落ちる水滴をタオルで拭い、さて歯を磨こうと鏡の前にある自分の歯ブラシに手を伸ばして──気が付いた。<br>

左手の小指に何かからみついている。<br>
あたしは自分の左手を引き戻し、それを見直した。<br>
赤い、糸。<br>
糸はくるくると小指に何重にか巻かれ、小さく蝶結びしてあった。その結び目の端の片一方がやけに長く垂れ下がっている。<br>

それを目で追うと洗面所を抜けて廊下に続いていた。数歩移動して廊下に出たその糸を辿ると、玄関のほうに向かって延びている。<br>

これは俗に言う『運命の赤い糸』ってヤツ? とか、ちらりと考えてみたけれど、「まさか」という思いの方がまだ強かった。この時は。<br>

寝ている間にいつの間にか絡みついたのだと結論づけ、その赤い糸を取り外そうとして──できなかった。<br>

「え?」<br>
確かにこの目で見えているにも関わらず、糸は自分の指先をするりと通り抜けてしまう。感触もない。<br>

思えば小指の方もしっかり糸が巻きついているのに緊縛感は一切なかった。<br>

まだ夢を見ているのかしら。<br>
あまりにも非常識な展開に思わず敵前逃亡しかけたけれど、それは許されなかった。<br>

「あらハルヒ、早いわね」<br>
後ろで母親の声がした。鏡越しに自分の背後を見ると、既に普段着に着替えた母がシーツのなどの山を抱えて立っている。どうやら先に起きて洗濯の準備などをしていたみたい。<br>

「母さんこそ――おはよう」<br>
朝の定期挨拶を口にしながら首を巡らし振り向く。振り向いて――固まった。<br>

母が「おはよう」と笑顔で返してきたが、あたしの様子に僅かに怪訝な顔つきになった。<br>

「どうしたの?」<br>
「ううん、なんでもない」<br>
あたしは誤魔化すように鏡の方に向き直った。保留中だった歯ブラシを手に取る。<br>

母親は首を傾げたがあまり気に留めなかったらしく、そのままランドリースペースに消えていった。<br>

「ああ、ハルヒのシーツも今日洗うから出して頂戴ね」<br>
去っていった方から主婦の指示が飛んできた。洗濯日和だから一気に色々洗うのだろうか。<br>

あたしは歯磨き粉を歯ブラシにのせながら短く「わかった」と返事をした。<br>

返事をしながら考える。これは夢ではなく歴とした現実みたいだ、と。<br>

歯を磨きながら左手の小指を目の高さに掲げた。やはりしっかり見える赤い糸。<br>

そして。<br>
母の小指にも自分と同じく巻きついていた赤い糸。<br>
口を濯いでため息ひとつ。<br>
これはもう認めざるを得なくなってしまった。<br></div>
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レモンママレードを塗ったトーストを齧りながら、あたしは目の前の光景をそれとなく観察した。外面はいつも通りの朝の風景だ。<br>

親父は新聞を読みながらテレビのニュースを『聞いている』し、母親は焼きあがった目玉焼きを食卓に運んだり親父のコーヒーを淹れたり忙しなく動いている。<br>

しかしその食卓を取り囲むように巡らされている赤い糸が、あたしに否応なしに非日常を伝える。<br>

この赤い糸は両親のもの。正確に言うと二人を繋いだ一本の赤い糸だ。両親はめでたいことに『運命の赤い糸』(推定)でしっかりと繋がれていた。<br>

その事実を確認したとき少なからずあたしは胸を撫で下ろした。自分の両親の赤い糸がお互い別のところに延びている光景は想像しただけでも精神上よろしくない。<br>

かといって今この状況を手放しで微笑ましいと思えるかというと、それはそれで話は違う。<br>

なんか当てられてるってカンジだわ。ゴチソウサマ、と言ってやりたいくらい。<br>

自分の両親の運命論についてなんて、気恥ずかしくて娘の立場からこれ以上考えたくもない。だから後は専ら赤い糸の観察、そして考察に神経を注いだ。<br>

両親の小指と小指を繋ぐ赤い糸は伸縮性があるのか、目まぐるしく変わる二人の距離をものともせず常に一定の緩徐を保っていた。<br>

しかも糸は実体がないことをいいことに、時として──無理がある移動や、物や人に絡みつきそうな時──物質を通り抜けるという反則技まで備えているので、障害物は尚更意味を成さなくなる。<br>

そしてどうやら、この赤い糸は自分にしか見えていないらしい。<br>

洗面所で母と対面したときに薄々気づいていたけれど、食卓についてそれは確信に変わった。親父も母親もこの赤い糸に囲まれた状況に顔色ひとつ変えず日常に徹している。<br>

両親の常日頃の言動は一般常識の範疇を超えることはなかったから、これが演技であるということはないだろう。有希ならともかく。あの子ならこの糸が見えている状況でも平然と日常を貫きそうだわ。<br>

部室に巡らされた何本もの赤い糸の中で黙々と本を読みつづける有希の姿を容易く想像したとき、あたしは忘れかけていた今日の予定を思い出した。<br>

部屋の壁掛け時計を見る。七時五十分。そろそろ出かけないとキョンに出し抜かれてしまう。<br>

あたしはグラスに残っていたオレンジジュースを飲み干し、「ゴチソウサマ」と呟いて立ち上がった。二つの意味でね。<br>

自分の食器をシンクに片してリビングを出る。途中両親を繋ぐ赤い糸を思わず跨いだことに後で気付いてひとり苦笑した。<br>
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<div>家を出るとこれまた異様な光景だった。<br>
自分の赤い糸は勿論、誰の者かわからない複数の赤い糸が道なりに連なったり、もしくは道を横切ったりしていた。<br>

途中すれ違った人はもれなく小指から一本の赤い糸を引き連れて歩いている。車からも赤い糸が延びていた。運転手や同乗者のものだろう。<br>

その光景にまず驚き、呆気にとられ、そして不安になった。<br>

これが見えてるのはあたしだけなの?<br>
というよりも寧ろあたしの頭がどうにかなってしまったのかしら?<br>

ここでようやくあたしは、折角自分の身に起こった不思議現象に対してまったくテンションが上げられずにいる己の内面を知った。<br>

いつも非現実的なものを欲しているのに、いざ直面するとどう対処すればよいかわからずに尻込んでしまったのだ。情けない。<br>

なにを怖気づいてるの涼宮ハルヒ、と自分を奮い立たせる。この状況を楽しまないで何がSOS団長だ。<br>

この状況を持て余しているなら──そう、目的を作ればいい。<br>

そうだ、手っ取り早く自分の糸の先を捜してみるのよ。<br>
決めたら胸内に蟠っていた不安が引き潮のように遠のいた。代わりにワクワクと期待に満ちたものが胸に広がる。ちょっぴりドキドキもプラスする。うん、かなり興奮してきたわ。<br>

本当なら今すぐスタートを切りたいけれど……さて、すると今日の団活である不思議探索はどうしよう。皆で探すのも一興だけれど、この糸があたししか見えてなかったら色々面倒くさいわね。<br>

あたしは数十秒かけて考え巡らし、一つの結論に至った。<br>

上着のポケットから携帯を取り出す。現在八時三分。もうそろそろ起きていてもいい頃合いだ。<br>

片手でボタンを操りアドレスからある電話番号を引き出した。即通話ボタンを押し、耳にあてる。呼び出し音が聞こえはじめた。<br>

一回。二回。三回。……<br>
十回繰り返されても出やしない。まったく、と惰眠を貪る相手に心底呆れた。勿論イライラもしている。<br>

一度切って自宅に電話してやろうかしら、と思っているとようやく呼び出し音が途切れた。<br>

「もしもし~?」<br>
開口一番怒鳴りつけてやろうと準備をしていたら、想定外の声を耳にしてあたしは口を大きく開けたままフリーズしてしまった。<br>

耳元で高い声が「もしもーし?」と繰り返され我に返る。電話の向こうの人物を確認するため恐る恐る口を開いた。<br>

「妹ちゃん?」<br>
「あ、ハルにゃんだ! おはよう!!」<br>
朝から元気のいいお子様だ。兄と違って。あたしは路上であるのにも関わらず、妹ちゃんの声につられて結構大きな声で「おはよう」と返した。すれ違ったおばさんが自分にかけられたのかと振り向く。違うわよ。<br>

「相変わらず元気そうね、妹ちゃん。ところでキョンは?」<br>

「キョン君? それがねー、まだ寝てるの」<br>
無邪気な天使は困ったような声で事実を伝えてくれた。──まったく、こいつは団の活動を何だと思っているのかしら。<br>

メラメラと音を立ててあたしの悪戯心、もとい団員指導に火がつく。<br>

「妹ちゃん、携帯電話をキョンの耳に当ててくれる?」<br>
「うん、わかった!」<br>
弾むように返事したかと思うと、パタパタという足音とゴソゴソという雑音が聞こえてきた。それが収まると遠くから妹ちゃんの「いいよー」という声が聞こえた。<br>

大きく息を吸う。丹田に力を込めた。<br>
「おーきーなーさーいー!! このバカキョン!!!!」<br>

百デシベルは越すのではないかという大声を右手に握った携帯電話にぶつけてやった。当然あたしの周りいた人たちはほとんど全員こちらを振り向く。驚かせて悪かったわね。でも一番悪いのはこの時間まで寝こけているキョンというバカですから。悪しからず。<br>

そして、その張本人であるバカは「バカキョン」の「ン」辺りで「うわぉ!!」と情けない声を上げた。コイツホントに寝てたわね?<br>

妹ちゃんの「キョン君起きたー?」とか「ハルにゃん、すごーい!」という声を背景に数秒待つと、間の抜けた呻き声が聞こえてきた。<br>

「もしもし……」<br>
「お・は・よ・う」<br>
わざとにこやかな声で挨拶する。対してキョンは「あー、えーと……『ハルにゃん』、か……おはよう……」とまだ寝惚けた声だ。『おはよう』に欠伸がついているし。というか寝惚けてでも、妹につられても『ハルにゃん』とか呼ぶな。恥ずかしいわね。<br>

『至極にこやかに会話』続行決定。<br>
「随分とごゆっくりね、『キョン君』」<br>
加えてハルにゃん呼ばわり意趣返し。<br>
「……今何時だ?」<br>
あたしの口調にようやく徒ならぬものを感じてかキョンは声を低めて聞いてきた。<br>

「八時過ぎね」と親切に答えてあげるあたし。<br>
それを聞いて「なんだ九時じゃないのか」とか言いやがりました、この男。<br>

あたしはそろそろ続行限界になってきた柔らかな口調をなんとか保ちつつ、しかし押し殺した声で、<br>

「そんなことだからいつも罰金払うハメになるのよ?」<br>
「……休日くらいゆっくり寝かせてくれ」<br>
──ああ、もうムリ。『にこやかハルヒさん』解除。同時に通常ハルヒモード全開。<br>

「あんたはどこぞの働き盛りのサラリーマンよ!! いーえ、サラリーマンのお父さんの方が偉いわね。家族サービスとやらで休み返上で体に鞭打って家庭に貢献してるんだから。それなのにあんたときたらたかが高校生の、しかもSOS団の雑用係の分際でこんな時間まで寝くさって、世間のお父さん方に申し訳ないと思わないの!? いーい? 今日学校は休みでもSOS団は通常営業なの!! わかったなら──」<br>

と、周囲の覗うような、もしくは窘めるような視線を無視して一気に捲し立て、そして勢いに任せて「とっとと目ぇ覚ましてすぐさま集合場所に駆けつけなさい!!」と続けてしまいそうになった。転がり出そうな言葉を慌てて呑みこむ。<br>

あぶないあぶない。怒りのあまり目的を忘れるところだった。あたしは暴走しかけた自分を戒めるかのように、左手の小指の赤い糸に目線をやる。<br>

不自然なところで途切れたあたしの声に訝しんだのか、携帯から「ハルヒ?」と問いかけるキョンの声が聞こえた。反射的に「あ、うん」と返すとキョンが小さく溜息吐いて、<br>

「おまえの言い分はわかった。でも今こうして電話で四の五の話していたら本末転倒だろう? 今から急いで支度する──」<br>

「その必要はないわ」<br>
キョンが皆まで言う前にあたしは遮るように口を切った。キョンの「は?」と腑抜けた声が聞こえる。<br>

あたしは構わず続けた。<br>
「今日の探索は中止よ」<br>
「……なんだって?」<br>
キョンの恨めしそうな声。「ならなぜ今まで寝ていたことに文句をつけられたんだ俺は」と言いたいらしい。<br>

その罰当たりな雑用係にあたしは指示を出した。<br>
「だから他の皆に即刻伝えなさい。本日は団長様の私用によりまことに残念ながら不思議探索は中止となりました、ってね」<br>

「へいへい」<br>
心底面倒臭そうな返事にちょっとムッとする。毎度のことだけど。<br>

そこであたしはふと『いい事』を思いついて、「じゃあな」と通話を切ろうとするキョンを呼びとめた。<br>

「あ、あとキョン」<br>
「なんだ?」<br>
「妹ちゃんに伝えてくれない?『今度一緒に遊びましょ』って」<br>

キョンは虚を突かれたらしく、一瞬黙ってから吐息のように「珍しいな」と呟いた。なによ、『珍しい』って。失礼ね。<br>

それにあたしは全部言い終えてないのよ?キョン。<br>
「それから」とあたしは続ける。<br>
「『あなたのお兄ちゃんの奢りでね』って」<br>
あたしは満足してキョンが抗議の声を上げる前に通話を切った。通話時間を表示した液晶画面を見つめながら、携帯を持ったままベッドの上で情けない顔をしているキョンを思い浮かべると自然と口元が緩んだ。<br>

さてと。あたしは深く息を吸った。<br>
携帯を上着のポケットに戻し、軽く目を閉じる。<br>
改めて何かに臨むとき自然としてしまう儀式のようなもの。時間としては二、三秒ほどの間、黙祷。祈ることは何もないのだけれど。差し当たり、この赤い糸を辿る行為が楽しいものでありますように、とか?<br>

僅かに笑んであたしは瞼を開けた。視線を赤い糸が指し示す方向に据える。<br>

──それじゃはじめましょうか。<br>
あたしは意気込んで赤い糸が導く方向に一歩足を踏み出した。<br>
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<div>──中篇に続く<br></div>
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