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  • 山茶花帖

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山茶花帖

最終更新:2019年11月01日 05:57

harukaze_lab

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山茶花帖
山本周五郎

-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)定《きま》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)立|硯《すずり》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56]
-------------------------------------------------------

[#6字下げ]一[#「一」は中見出し]

 その仲間はいつも五人づれと定《きま》っていた。こういう世界のことで身分の詮索《せんさく》はしない習わしであるが、おそらく三千石以上の家の息子たちに違いない、ときたま取巻きを伴《つ》れて来たりすると、遊び振に育ちの差がはっきりみえる。ごくおっとりとした勤めよい座敷なのだが、井村と呼ばれるその男だけは初めから酒癖が悪く、芸妓や女中たちをてこずらすので嫌われていた。――その夜は五人のほかに初めての客が一人加わっていた。年は二十五、六であろう、ぬきんでた人品で、眉の凛《りん》とした、唇の小さい、羞《はに》かんだような眼の、どこかにまだ少年の俤《おもかげ》の残った顔だちであるが、時にびっくりするほど表情に威の現われるのが注意をひいた、彼はその仲間から「結城」と呼ばれた。
 ――どこかで見たことのあるお顔だ。
 八重は客のあいだを取持ちながら頻《しき》りに首を傾《かし》げた。幼な顔のほうだろうか、威厳の現われるほうだろうか、どちらともはっきりしないが慥《たし》かにどこかで会ったことがある。それもすぐに思いだせそうなのだが。――井村はひどく荒れていた。なだめると却《かえ》っていけないので誰も構わない、いつもならそのうちに酔い潰《つぶ》れるのだが、その夜はしつこく八重に絡んできた。
「おい八重次、おまえいやに鼻がつんとしてると思ったら漢学をやるんだってな、たいそうな見識だ、いったいどういう積りなんだか聞かして貰おうじゃないか」
 座にいる妓《おんな》たちの眼が自分のほうへ集まるのを痛いほどはっきり感じながら、八重はできるだけさばさばと笑って受けた。
「井村さんにかかっては手も足も出ません、お願いよ、もうこのくらいで堪忍して下さいまし」
「そいつはこっちで云う科白《せりふ》だ、芸妓のくせに漢学をやる歌を詠む、おまけに絵を描くというんだからやりきれない、どうせ跛《ちんば》の高跳びだろうが、おまえその手でいまに家老の奥へでも坐ろうという積りじゃあないのか」
「あら嬉しい井村さん貰って下さるの」
 わざとはすはに云ってすり寄り、椀の蓋を取って相手に差した。この話題だけはすぐに打切らなければならない、そのためには酔い潰すよりほかに手はないのである。
「かための盃《さかずき》よ、はい受けて下さいまし」
「よし受けてやろう、だが肴《さかな》に望みがあるぞ」
 注がれたのを三杯、ぐっぐっと呷《あお》ったが、さすがに上躰《じょうたい》がふらついて片手が畳へ滑った。顔色がさっきから蒼《あお》いところへ、眸子《ひとみ》の焦点が狂って相貌《そうぼう》がまるで変ってきた。
「八重次、おまえの三味線を持って来い」
 はいと立って、隅に置いてあったのを持って来た。
 かりん棹《ざお》のごくありふれた品であるが、七年まえ彼女が十四の年の秋に、この料亭「桃井」の主婦おもん[#「もん」に傍点]が亡くなるとき、八重へ形見に呉《く》れていったものだ。亡くなったおもん[#「もん」に傍点]も二十年ちかく愛用したそうだし、そんな品にしては珍しく音色が冴《さ》えているので、八重は自分の持物の中でもなにより大切にして来たのであった。
「はい、なにを聞かせて頂けますの」
 こう云って八重がその三味線を膝《ひざ》へ置くと、井村は「おれに貸せ」と云いながら手を伸ばして来た。避けようとしたが井村の手は早くも天神を掴《つか》んでいた。
「ああ乱暴をなさらないで」
「貸せばいいんだ」
「お貸ししますから乱暴をなさらないで」
「いい音を聞かせてやるんだ、文句を云うな」
 井村は三味線を受取ると、八重の差出す撥《ばち》をはねのけ、片膝を立てて坐り直した。
「いいか、このぼんぼこ三味線のいちばんいい音を聞かせてやる、みんなよく聞いていろよ」
 三味線をそこへ横にしたと思うと、いきなり足をあげて上から力任せに踏んだ。あっという隙もなかった。棹の折れる音と絃《いと》の空鳴りを聞きながら、人々はちょっと息をのむかたちで沈黙した。――井村は唇を歪《ゆが》めて笑い、紙入から小判を三枚出すと、まっ蒼になっている八重の前へ投げてよこした。
「取って置け、もう少しはましなのが買えるぞ」
 そのとき結城と呼ばれるあの客が立って来た。静かにこっちへ来ると、投出された金を集めて井村の袂《たもと》へ入れ、片手で腕の附根のところを掴んだ。
「少々やり過ぎるな井村、おまえ悪酔いをしたんだろう、あっちへいって少し風に当るがいい、おれが伴れていってやる、さあ立て」よほど強く掴まれたのだろう、井村は低く唸《うな》り声をあげてよろよろと立上った。結城という客は片手でそれを抱えながら、
「済まなかったね」
 と囁《ささや》くように八重へ云い、そのまま廊下へ出ていった。
 八重はああと口のうちで叫びそうになった。今こっちを見て囁いた声、廊下へ出ていった後ろ姿、
 ――あの方だ、あの方だった。
 思いだしたのである、その声とその後ろ姿から、はっきり八重はその人を思いだしたのである。彼女は云いようのない羞恥《しゅうち》のために、踏折られた三味線をそこに残したまま、逃げるようにその座敷から辷《すべ》り出ていった。

[#6字下げ]二[#「二」は中見出し]

 城下町の東に当る松葉ヶ丘に持光寺がある。永平寺系の古い禅刹《ぜんさつ》であるが、それよりも境内に山茶花《さざんか》が多いので名高く、季節にはそれを観に来る人のために茶店が出るくらいだった。八重はごく幼い頃からその花を知っていた。いちばん初めは五歳から七歳へかけてのことで、哀《かな》しさと恥ずかしさに今でも身の竦《すく》む思い出である。担ぎ八百屋をしていた父に死なれ、八重をかしらに三人の子を残された母が、どのようにして生計を立てていたかは覚えていない。ただ持光寺に葬式があると八重は妹を背負ってお貰いにいった。葬列の左右に並んで投げ銭を拾うのである。それから会葬者の尻について、菓子とか饅頭《まんじゅう》などの施物を貰って帰るのだが、幼な心にもどんなにそれが恥ずかしかったか知れない――泣きむずかる背中の妹をあやしながら、施物の始まるまで境内で待っている。われながら哀れなよるべない気持だった。ふと気がつくと山茶花が咲いていた、まだ若木で高さも五尺そこそこである、おそらく初咲きなのだろう、純白の花が一輪、あとは綻《ほこ》ろびかかったのと蕾《つぼみ》と合わせて七八つばかりしか数えられなかった。
 そこは講堂の裏に当る日蔭だった。雪のように白い弱そうな、しんとしたその花を眺めていると、ふしぎに胸がしずまり、誰かに慰められているような気持になった。――あたしは可哀そうな子、おまえも可哀そうな花。そんなでたらめな言葉が口に出て、暫《しばら》くは哀しさよるべなさを忘れていた。どうしてそんなに強い印象が残ったのだろう、それからは葬式のない日もよく持光寺へいった、花の季節には雨の日にもいったことを覚えている。
 八重が十歳になるまでの貧しい生活は、詳しく記すに耐えない。幾日も水のような粥《かゆ》を啜《すす》ったことがある、母は料亭の下働きに出たり、土工のようなこともしたらしい。腹をへらして泣く弟と妹を左右に抱きながら、時雨《しぐれ》空の街角の暗くなるまで、母の帰りを待つときの悲しさ、雨続きの日には小さな妹を負って、僅かな銭を借りるために何軒かの家をまわって歩いた。――彼女が十になった年の秋、はやり病で弟と妹をいっぺんに取られ、母が長患いの床に倒れた。これらの入費をどうしてまかなうことが出来よう、人が中に立って料亭「桃井」から幾許《いくばく》かの金が渡され、八重は桃井へ住込んだ。母親は二年病んで死んだが、身のまわりの寂しさは別として、医者にも薬にもさして不自由はしなかったようだ。もちろんそれはみな八重にかかってきたのであるが、そのことに就いては少しも負担は感じていない。一流の腕にさえなればそのくらいの借を返すのは訳のないことだ。ただ「貧乏は怖い」ということだけは骨身にしみていた。どんなことをしても再び貧乏な暮しだけはしたくない。それには人にぬきんでなければならぬ、人と同じことをしていたのでは末が知れている。……子供ごころにも八重はかたく心をきめ、三味線や唄や踊りの稽古をするひまひまに、主婦のおもん[#「もん」に傍点]について仮名文字を習いだした。
 年より長《た》けてみえる八重は十三の春から客席に出た。桃井は格式のある家で、客は身分のある武家が多い、どこか違うのであろう、八重は早くからその人たちに愛されたが、同じ理由で十二人いる抱え芸妓からは白い眼で見られた。客席へ出るようになれば外の使い走りはしなくともよいのであるが、八重はあね芸妓たちから暇もなく追い使われた。
 ――字なんか書いている暇があるんなら、ちょっと香林坊までいって来てお呉れ。
 こんな風によく云われた。それを庇《かば》って呉れたのが主婦のおもん[#「もん」に傍点]であった、おもん[#「もん」に傍点]は字のほかに算盤《そろばん》や針の持ちようも教えて呉れた。主婦が亡くなってからは、主《あるじ》の平助が眼をかけてくれたが、男のことで細かいところには気がつかず、八重には辛い年月が続いた。――十六の年の冬のことである。吉弥というあね芸妓にひどく叱られて、ふらふらと外へ出たまま持光寺へいった。なんの積りもなかったのだが、講堂の見える処《ところ》まで来たときはっと昔のことを思いだした。あの施物を待つあいだに見た白い山茶花のことを、……八重は裏へまわっていった、するとそこの日蔭の沈んだ光のなかに、山茶花が白く雪のように咲いていた。八重は大きく育ったその木の側に近寄り、あふれてくる涙を拭きながら別れた友をでも見るようにじっとその葩《はなびら》に眺めいった。
[#ここから2字下げ]
私は可哀そうな子
おまえは可哀そうな花
[#ここで字下げ終わり]
 幼い日、でたらめに口にのぼった言葉が、そのまま舌の上にかえって来た。涙は後から後から溢《あふ》れてくるが、胸はふしぎにしずまり慰められるような気持になった。――そのときから八重はその花を写すために、たびたび持光寺を訪れたのである。

[#6字下げ]三[#「三」は中見出し]

 おと年の冬だった。朝もまだごく早い時刻に、八重は持光寺の講堂裏で、あの山茶花の前に跼《かが》んでいた。
 紬縞《つむぎじま》のくすんだ着物に黒い帯、髪は解いて背へ垂れているし、もちろん白粉《おしろい》も紅も付けてはいない。――講堂の石垣の上に矢立|硯《すずり》と水を入れた貝を置き、紙と筆を持って跼んだまま花を見ている。地の上には霜が白く、空気はきびしく凍《い》てて澄|徹《とお》り、深い杉の森に囲まれた境内には小鳥の声も聞えない。……八重は心を放って静かに眺め続ける、やがて気持がおちつき、頭が冴えて、すがすがしい一種の香気に似たものが胸に満ちてくる、そのとき初めて八重は筆を取る、すらすらと自在に筆の動くこともあるが、たいていは渋滞しがちで、思う半分もかたちが取れないでしまう、然しそれはそれで悪くなかった。八重は絵を描こうとするのではない、花の気品をさぐるのが目的であった。かたちは取れなくとも、その花のもっている気品が幾らかでもつかめていると思えるときは満足であった。
 その朝は珍しく筆の辷りがよくて、五枚ばかり続けさまに写した。咲き切ったのと、蕾を添えた半開の枝とを、――そのうちにどういうきっかけであったか、ふと後ろに人のけはいを感じて振返ると、そこに一人の若侍が立ってこちらを見ていた。際立った人品で、凛と張った眉と小さな口が眼を惹《ひ》いた。幼な顔でいて自然に備わる威があった。
「失礼しました」若侍はこう会釈をした、「――あまり珍しい描きようをなさるので、お邪魔になるのを忘れてつい拝見していたんです、失礼ですが誰に就いて学んでいらっしゃるんですか」
「いいえほんの我流でございますの」
 八重は恥ずかしさに全身が赤くなるかと思え慌てて描いたものをまるめながら立上った。若侍もちょっと戸惑いをしたようすだった。彼は持っている扇で無意味に袴《はかま》をはたいた。
「四五日まえに江戸から来たばかりで、此処《ここ》の山茶花がみごとというから観に来たんです、貴女《あなた》はいつも来るんですか」
「いいえときたまでございますわ」
 そこでまた話が途切れた。八重はなにかつぎほをと焦ったが、なにか云えば日頃の生活が出そうでどうにも口がきけなかった。――若侍は会釈をしてすぐにそこを立去った。八重はその姿が山門の彼方《かなた》へ隠れてしまうまで見送っていた。云いようもなくなつかしい後ろ姿であり、心に残る声であった。八重は自分の髪かたちをふりかえって、そのように地味づくりにして来たことをせめてもの救いに思った。
 ――どんな家の娘とお思いなすったかしら。
 早朝の寺の境内で、ひとり山茶花を写している娘、なにも知らないあの人がそれをどんな風に想像するだろうかと、八重は飽きずに考え続けるのであった。――それから五、六度も持光寺へいったが、その年はそれっきり会わず、忘れるともなく忘れていたのであるが、去年の十一月はじめ、いつものとおり講堂裏で山茶花を写していると、思いがけなくその人に声をかけられた。
「また会いましたね」
 こう云って彼は近寄って来た。「――そしてまた山茶花ですか」
 まったく思いがけなかったのと、去年の印象がいっぺんに甦《よみがえ》ってきた心の動揺とで、八重はちょっと膝の竦むような感動を受けた。その人は振返って山のほうを見ながら、
「こうたくさんあると、山茶花もうるさいですね」
 そんなことを独り言のように去った。
 こちらからはなにも話しかけることができず、あっけなく別れてしまったが、その人のは八重の心にしみついて離れなくなった。花の終るまで、殆んど毎日のように持光寺へいってみたが、その年も二度と会うことはできなかった。――そして今年になって、もう二十日ほどまえから、たびたび寺へ花を写しにいっているのであるが、まだその人の姿をいちども見なかったのである。もう花は間もなく終ってしまうのにどうなすったのだろう、……八重はおちつかない日を送った。こんど会えばなにかがひらけそうであった。なにがどうひらけてゆくかはわからないが、漠然とした新しい運命が感じられた。
 ――山茶花もこうたくさんあるとうるさいと仰《おっ》しゃった、それでもういらっしゃらないのかも知れない。
 半ば諦《あきら》めかかっていたとき、まるで考えもしなかった場所でその人に会ったのである。その人にだけは会いたくない場所で、その人にだけは見られたくない姿で。――

[#6字下げ]四[#「四」は中見出し]

 雨の日が続いた。そのまま雪になるように思えた。八重は病み疲れた人のように、雨の音を聞いては溜息《ためいき》ばかりついていた。
 ――あの方は自分に気がついたろうか。
 ――自分だということがわかったとしたらどんな風にお思いなすったかしら。
 紬縞の着物に束《つか》ねての、町家の娘としかみえない姿で山茶花を写していた姿には、お心を惹かぬまでも好意はもって下すったに違いない。それが料亭の抱え芸妓で、客に三味線を踏折られるような、みじめな姿を御覧になって、同じ人間だということをお知りになったらどうお考えなさるだろう。
 ――でもお気がつかずにいたかも知れない。
 余りに姿が変っていたし、お声もかけて下さらず、そんな容子もみえなかったから。そうも思ってみた、然しどう思ってみたところで心はおちつかず、絶えずものに怯《おび》えているような気持で日を送った。
 結城新一郎はあの日から七日めの宵に独りで桃井へ来た。名指しで呼ばれたがその人とは思いもよらず、座敷へいってみてはっと息の止るほど驚いた。
 新一郎はかげのない眼で微笑した。疎《うと》からず親し過ぎず、然も温かな包むような微笑であった。
「今日は届け物があって来たんだ」彼はこう云いながら、側に置いてある桐の箱をこっちへ押してよこした、「――あけて見てごらん」
 八重は挨拶の言葉にも苦しみながら、すり寄って箱の紐《ひも》を解いた。中にはその頃まだ珍しい継ぎ棹の三味線が入っていた。出してみろと云うので、そのとおり出して棹を継いでみた。紫檀《したん》のすばらしく高価な品らしい。八重が膝へ据えるのを眺めながら、新一郎は静かなさりげない調子で云った。
「私の亡くなった母がつかったものなんだ、私に教えてそれを呉れる積りだったらしいんだ、芸ごとの好きなひとでね、鼓だの笛だの色いろやったらしい、三味線がいちばんもの[#「もの」に傍点]になったようだって父は云っていたが、……私はまたてんでいけないんだ。弾いてみて気にいったらつかって呉れ」
「勿体《もったい》のうございますわ、こんなお立派なお道具を、わたくしなどがお預り申してもそれこそ宝の持ぐされでございます」
 新一郎の眼に有るか無きかの陰影が現われて消えた。ほんの一瞬に掠《かす》め去るかげだったが、八重ははっとして眼を伏せた。
「済みません、頂戴いたします」
「酒を少し飲もうか」
 彼はもう機嫌のいい眉をしていた。――それが井村の踏折った三味線の代りだということは疑う余地はない、彼はなにも云わなかったが八重にはすぐわかった。あの夜、井村の投げだした金を拾い集めて返し、廊下へ伴れだして呉れたとき、それだけでも……白い眼で見ている朋輩《ほうばい》たちの前だけに嬉しかったが、彼のほうではもう代りを持って来る積りだったのに違いない。思いつきでない親切が感じられて、八重は柔らかく抱かれるような心の温《ぬく》もりに包まれた。
 新一郎はそれから三日おき五日おきくらいに来た。やや親しく口をきくようになったのは四五回めからで、名前はそのとき初めて知った。――彼は酒が強くて、かなり飲んでも色にも出ないし崩すこともない。ただいかにも寛《くつろ》いだように、二時間ほど飲んで話して帰ってゆくのであった。かなり遠慮がとれてから、……もう年の暮に近い頃であったが、とうとう山茶花の話が出た。
「初めから持光寺で会った女だということを御存じでございましたの」
「井村が乱暴をしたときわかった。顔色が変って眼が据ったよ、すぐに山茶花の娘だなと気がついた。そうでなくってもその横顔は隠せない」
「おさげすみなさいましたでしょう」
「誰が、なにを……」
 こう云ったとき彼の眼にまた一瞬あのかげがさした。八重はどきりとし、慌てて眼を伏せたが身が竦むように思った。
「あの三味線を弾いてみないか」
 彼はすぐ穏やかにこう云った。救われた思いで三味線を取りにゆき、少し離れて坐った。大阪のなにがしとかいう名のある職人の作だそうで、怖いように冴えた音が出る。とうてい八重などに弾きこなせるものではなかった。
「もうこれで堪忍して下さいまし、これ以上は息が切れてしまいますわ」
「聞いているほうでも神経にこたえるよ」
 こう云って彼は微笑した。「――母の弾くのはたびたび聞いたけれども、こんなことはなかったがね」
「それはお母さまがお上手でいらしったからですわ、このくらいのものになりますと相当の腕がなければ却って、――」
「では少し稽古をおしよ」
 新一郎は静かな眼でこう云った。

[#6字下げ]五[#「五」は中見出し]

 雪に埋《うも》れて年が明けた。二月にはいる頃には二人の親しさもずっと深くなり、それにつれて朋輩の嫉視《しっし》も強くなっていた。
 八重は二十一という年になって、あね芸妓の多くはそれぞれがおちつくようにおちついた。残った者はほんの二三で、いちおう姐《ねえ》さんということになってはいたが、日常の習慣の違いや座敷での客の応待などから、今でも白い眼で見られることに変りはなかった。
「結城さまって御城代家老のお跡取りでいらっしゃるんですってね」こんなことをあてつけがましくよく云われた、「――八千五百石の奥さまには及びもないけれど、せめてお部屋さまくらいにはなりたいわね」
「そう思って精ぜいてくだ[#「てくだ」に傍点]をつかうがいいのさ、よっぽどうまくいって槍持ちか、土方人足の神さんになるのがおちだろう、人間には分々《ぶんぶん》というものがあるからね」
 八重は黙って聞きながしている。自分にあてつけていることは明らかだ、その頃には新一郎の父の大学が城代家老で、八千五百石という大身であり、彼がその一人息子だということも知っていた。初めにそれがわかっていたら八重も身を引いたであろう。然し二人のあいだにはもうそんな片付けた気持の入る隙はなかった。八重は新一郎の眼をかすめる一瞬のかげを知っていた。不必要に卑下するとき必ず表われる不快そうなあの陰影は、彼女になにかを約束して呉れるように信じられた。――この気持を信じていればいい。そのほかの事には眼も耳もかすな、とう自分を励ましていた。
「おまえ漢学をやるんだって」或夜、新一郎はからかうように云った、「――いつか井村が云っていたが本当かね」
「嘘でございますわ、七番町の裏に松室春樹と仰しゃる歌の御師匠さまがいらっしゃいますの、あるお客さまの御紹介で五年ほどまえから手解《てほど》きをして頂きにあがっているんですけれど、伊勢物語のお講義を伺っていたとき、家の朋輩の者がまちがえて漢学だなんて申したんでございますわ」
「まだ続けていっているのか」
「癖になってしまったんですわね、きっと。いかない日はなんですか忘れ物でもしたようで」
「三味線より性に合っているらしいな」
「そんなことはございません」こう云ってからすぐに赤くなった、「――あら、でもあのお三味線が弾けるような方は、それこそ何千人に一人というくらいでございましょう。どうしたってわたくしなどには無理でございますわ」
「大阪に母の師匠の検校《けんぎょう》がいるが、習う気があるなら来て貰ってやるよ」
 どういう積りでそんなことを云うのかと、八重は男の顔色をうかがったが、新一郎は漫然と微笑しているだけであった。――雪解けの季節までそんな調子で逢い続けた、あとで考えるとそれが二人にとっていちばん楽しい時期だった。過去も未来もなく逢っている現在だけに総てを忘れる、逢っているだけで充分に仕合せだった。もう三味線を弾けというようなこともなく、唄をうたう訳でもない、酒を飲んで、とりとめのない話をして別れる、それ以上のことはなにもなかった。時には向合ったままぼんやりと黙って過すようなこともあるが、それでさえそれなりに心愉しい時間だったのである。
 暖かい雨が降りだし、みるみる雪が溶けはじめると、誘われるように客が多くなり、桃井の広い座敷も夜ごと賑やかなさんざめきが続いた。――そんな一夜、井村をまじえたあの五人づれが飲みに来た。初めからようすがおかしいと思っていたが、盃がまわりだすとすぐ一人が八重に向って新一郎のことを云いだした。
「だいぶ噂《うわさ》が高いが、相変らず結城の若旦那はやって来るかね」
「今夜あたりも来ているんじゃないのか」
 別の一人がそう口を入れると、井村が卑しめるように冷笑して云った。
「彼は江戸でも相当だらしなく遊んで、詰らない色街の花なんぞと出来たりしたもんで、予定より三年も早く追い返されたんだそうだが、いちどしみついた癖は治らないもんだ、こんどはどこへ追っ払われるかさ」
「心配はいらない。八重次が付いてる」
「竹の柱に茅《かや》の屋根といくか」
 棘《とげ》のある言葉が続いた。みんな大身の息子たちで、これまでそんな風な口をきいたことがない、なにか理由がありそうに思えた。新一郎とかれらのあいだに、八重などに関《かか》わりのないなにかの事情が起ったように。……それから三日ほど間をおいて新一郎が来た。別に酔ったところもみえず、毎《いつ》ものとおり寛いで楽しそうに飲んでいたが、そのうちにふとさりげない調子で微笑しながらこっちを見た。
「少し足が遠のくかも知れないよ」
「なにかございましたの」
「いや大したことじゃない、ちょっと訳があって睨《にら》まれてるんだ、そう長いことじゃないから少し辛抱しよう」
 さりげない云い方が却って八重には強く響いた。そしてはいと答えながら、暗い不吉な予感のために胸がふるえた。

[#6字下げ]六[#「六」は中見出し]

 訳があって睨まれていると云う。はたしてなにかあったのだ、然しなにがあったのだろう。まるで違う世界のことで、八重などにはどう推察しようもなかったが、それだけ不安も大きかった。――大したことではないと云ったけれど、もしもあの方の身に間違いでもあったら、こう思うと居ても立ってもいられないような気持に駆りたてられた。
 中一日おいて、暖かく晴れた日の午後、川岸の「西源」という料亭から八重に呼状が来た。この土地ではよその抱え芸妓を呼ぶということは稀《まれ》である、殊に西源という家はあまり縁がなかったけれど、なにやら誘われるような気がしてでかけていった。――そこは町の西の端《はず》れで、川に面して広く庭を取り、まわりに椎や杉や松などの深い樹立がある。八重が入ってゆくと女中が出て来て、「そのままこちらへ―――」と庭づたいに案内して呉れた。川のほうへ寄って藪囲《やぶがこ》いをした別棟の離れが建っている、茶室めいた造りで、入口に苔《こけ》の付いたつくばい[#「つくばい」に傍点]などがあり、満開の梅がぬれ縁のさきまで枝を伸ばしている。その梅の脇に新一郎が立っているのを見て、八重は思わずああと声をあげた。
 彼は微笑しながら頷《うなず》いて、先にぬれ縁から座敷へあがった。
「名を云わないんで来るかどうかと思っていたんだ、――驚いたかね」
「びっくり致しましたわ、まさか貴方《あなた》とは思いもよりませんでしたもの」
「あんなことを云った一昨日の今日だからね」
 支度の出来ている膳の前へ坐ると、新一郎はこれまでに見たことのない眼で、じっと八重の顔を見まもった。――抑えかねた感情の溢れるような眼である。それはまっすぐにそのまま八重の心へくい入ってきた。
 新一郎は黙って手を差出した。同時に八重はそれを両手で握り、膝をすり寄せた。かっと頭へ血がのぼり、一瞬なにも見えなくなった感じで、気がつくと肩を抱緊められていた。躯《からだ》じゅうが恥ずかしいほどわなわな顫《ふる》えた。
「山茶花を描いているのを見たときから」彼は囁くように云った、「――あのときから八重の姿が忘れられなくなっていた。一昨日あんなことを云って、暫くは逢うまいと決心してから、……初めてそれがわかったんだよ」
 八重はむせびあげた。よろこびというより寧《むし》ろかなしく切ないような思いだった。彼は抱いている手を少しゆるめ、涙で濡れた八重の顔を仰向かせた。
「これ以上なにも云わなくてもわかるな、八重、……簡単にはいかない、色いろ障害があるだろう、もう暫く辛抱するんだ、いいか私を信じているんだよ」とう云ってそっと手を放しながら、彼は明るく微笑した、「――さあ涙を拭いておいで、今日は悠《ゆっ》くりしていられないんだ、楽しく飲んで別れよう」
 八重は夢のなかにいるような気持だった。陶酔と云ってもよいだろう。初めて持光寺で見たときから、――男のそう云った言葉がいつまでも耳に残り、それが譬《たと》えようのない幸福感で彼女を押包んだ。その日は半|刻《とき》ほどして別れたが、翌日また西源から呼ばれ、それからは三日おきくらいに逢い続けた。
「こんなことを申上げるとまたお叱りを受けるかも知れませんけれど、わたくし段々とこわいような気持になってきますわ、だってあんまり仕合せが大き過ぎますから」
「自分のもの[#「もの」に傍点]に気臆れをしてはいけない、仕合せはこれからじゃないか」
「それが信じられなくなってゆくようなんですの、貴方のお心もよくわかっていて、このほかに生きる希望はないのですけれど、なんですか誰かの仕合せを偸《ぬす》んでいるような気持で――」
「人間は幸福にも不幸にもすぐ馴れるものさ、いまにもっと幸福を望むようになるよ」
 そんな問答がときどき出た。八重は誇張して云っているのではなかった、新一郎が将来の約束をして呉れてから、日の経つにつれてふしぎな不安がわいてきた。眼のまえに開けている運命がどうしても自分のもののように思えない。彼が愛を誓えば誓うほど、それだけずつ自分が遠くなってゆくような気持さえする、――いつかは醒《さ》める夢だ。そんな囁き声まで聞えるように思うのであった。
「もうたくさんだ、その話はよそう」
 なんどめかに新一郎は語気を強くしてこう云った。
「悪いことばかり考えていると本当に悪い運がやって来る、私を信じることが出来るなら、そのほかのことはなんにも思う必要はないじゃないか、それは愚痴というものだ」
「ごめんあそばせ、もう決して申しませんわ」
 八重は新一郎の手を求め、その手に頬を寄せながらあまえるように見上げた。彼は手を与えたまま庭のほうを見ていた。八重はそのとき彼の眼のなかにも、自分と同じ不安のかげ[#「かげ」に傍点]が動くのをありあり見たと思った。

[#6字下げ]七[#「七」は中見出し]

 春の遅いこの土地では、梅の散るより早く桃や桜が咲きはじめる。西源の離れのぬれ縁に立つと、川の中に延びている二つのかなり大きな洲《す》が、林になっている松の木越しに見える。つい昨日まで白茶けた枯れ葦《あし》で蔽《おお》われていたのに、猫柳がいつか柔らかい緑の葉をつけ、葦の芽立ちが青みをみせ始めてきた。
「私の母は普通とは違う神経があったようだな」
 或日の昏《く》れ方、その離れの縁端に坐って、川波を眺めながら新一郎がそんな風に話しだした。それまでにも彼はよく親たちの話をした、殊に亡くなった母のことはずいぶん詳しく、時には同じことを二度も繰返すほど楽しそうに話す。はじめは家庭の容子を知らせて呉れるためだと思っていたが、聞いているうちにそのひとの人柄がありありと眼にうかぶようになり、こちらから話をせがむようにさえなっている。
「例えば雨が降るとか地震が揺るとかいうときは、たいてい五拍子ばかり先にわかるんだ、ああ雨ですねと云う、冗談じゃない、いま見たら星が出ていたよ、父がこんなように笑うと間もなくぱらぱらと聞えてくるんだ」
「御自慢でございますね」
「あけっ放しで自慢するんだね、子供のように嬉しそうなんだ、そらごらんなさい、降って来たでしょうって、……地震のときはもっと確実だった、さっと顔色が変る。こうやってすばやく天床を見あげてああ地震だと呟《つぶや》く、居合せた者がはっとしたように息をのむと、五つ勘定しないうちにきっと揺れてきたね、そう云われてもわからないくらい小さな地震でも必ず母にはわかるんだ」
「芸ごとに御|堪能《たんのう》でいらっしゃったのですから、神経がそれだけ細かかったんですわ」
「もっとおかしいのは、この頃の陽気になると思いだすんだが、蛇が穴からぬけるのがわかると云うんだ、誰も信用しなかったが大まじめでね、なにかしているのを止めて、ふとどこか遠くの物音でも聞くような眼つきをする、それからこういう具合にその眼をつむって、ああ蛇が――」
 そこまで云いかけたとき、突然さっと彼の姿勢が変った。動作には殆んど現われないが、なにか異常な事が起ったという感じは八重にすぐ響いた。新一郎は手招きをしながら立ち、座敷に附いた戸納《とだな》を明けて、この中へ入れと口早に云った。
「おれを跟《つ》けまわしている連中だ、ちょっと騒ぞうしくなるかも知れないが決して出ちゃあいけない、いいか」
 夜具の積んである一隅へ、八重は身を縮めて入ったが、躯がひどく震えた。――新一郎は八重の穿物《はきもの》を片づけたらしい、そのすばやい動作に続いて、ぬれ縁の先へ四五人の近寄る足音が聞えた。
「やあ、折角しけこみの邪魔をしたようだな」
 こう云ったのは井村の声であった。
「午睡《ひるね》をしに来ていたんだ、お揃《そろ》いでどうしたんだね」
「美人は早くも雲隠れか」やはり井村のせせら笑う声だった、「――相談があって来たんだ、構わないからみんな上ろう」
「堅苦しい話は御免|蒙《こう》むるぜ」
「なに堅苦しかあない、例の問題から手を引いて貰えばいいのさ、来月は殿さまが御帰国なさる、こっちはそれまでに片を付ける必要があるんだ」
「まえにも云ったが、その話ならおれのところへ持って来たってしようがない、おれはまだ部屋住だよ、御政治むきのことにはまるで縁がないんだから」
「結城さんそれは本気で云うんですか」
 聞いたことのない若い声である、少し嗄《しゃが》れて殺気立っているのがよくわかった。
「御帰国と同時に貴方《あなた》が城代家老の席に直り、御改革とやらいう無謀な政治を始めるということは我われにはよくわかっているんです、貴方は江戸で勉強して来られたか知れないが、一知半解《なまはんか》の机上論で、長い伝統を叩き毀《こわ》すようなことはして貰いたくありません」
「繰返して云うが私はなにも知らない」
 新一郎は穏やかに制止した、「――私にそんな力があると思うのは誤解だ、御改革があるとすれば老臣一統の協議であって、その是非は殿さまが御裁決をなさるだけだ、そともと達は拵《こし》らえられた風評に騙《だま》されている」
 そこから問答は烈しくなり、八重には理解のできない言葉の応酬が続いた。新一郎はできるだけ冷静にしようと努めるらしいが、相手は反対に熱狂的で、殊に嗄れ声の一人はしだいに暴言を吐きだしたと思うと、急にだっと畳を踏みながら絶叫した。
「逃げ口上はたくさんだ、議論では埒《らち》があかぬ、外へ出よう」

[#6字下げ]八[#「八」は中見出し]

 だだっと総立ちになったようだ。――八重は思わず手を握り緊めた、喉《のど》へなにか固い物がつきあげるようで、息が詰り、跼《しゃが》んでいる膝が激しくおののいた。
「いやだね、そんな事はまっぴらだ」
 新一郎の声は含み笑いをしているように静かだった。
「卑怯者《ひきょうもの》、刀が恐ろしいか」
「人間の馬鹿のほうがずっと怖い、井村――おまえの友達なんだろう、伴《つ》れてって呉れ」
「彼は真剣なんだよ」井村の嘲《あざ》けるような声がした、「――立合ってやるほうが早いじゃないか」
 新一郎はちょっと黙った。井村の態度をみきわめたらしい、そうかと云うと静かに立上るけはいがした。
「そうか、その積りで来たのか、井村」
「なんの積りもないさ、おれはただの立会人だ」
「よかろう、それで責任が※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56]《のが》れられたら結構だ、諄《くど》いことは嫌いだからひと言だけ云って置くが、おれが結城新一郎だということ、そろそろ辛抱を切らしたということを忘れるな」
 云い捨てて庭へ下りたらしい、殺気に満ちた足音と声が遠くなり、嗄れた叫びが聞えたと思うと、突然ぱったり物音が絶えた。――ぞっとするような緊迫した沈黙のなかに、空の高みで雲雀《ひばり》の鳴くのが聞えた。
 ――新一郎さま、……貴方。
 八重はがくがくと震えながら、暗がりの中でひしと合掌した。相手は少なくとも四五人いるらしい、あの方は斬られる、これでなにもかもおしまいになるのだ。絶望が胸をひき裂き、出てゆこうとして襖《ふすま》に手をかけた。――その瞬間にするどい絶叫が起り、人の倒れる響きと、ぬれ縁へ刀の落ちる烈しい音がした。
 待て待てと喚きながら二三人の人の駈けつけて来たのはそのときであった。人の倒れる不気味な響きを聞いて、八重は殆んど失神しかかっていたが、駈けつける人の足音と、ずぬけて高い喚き声に、はっと眼の覚めるような気持で耳を澄ました。――二人か、せいぜい三人くらいであろう、走り続けて来たものとみえ、喘《あえ》ぎ喘ぎ叱咤《しった》するのが聞えた。短慮なとか、愚か者とか、侍の本分などと云う烈しい語調が、矢継ぎ早に響いてきた。あとで考えると、それが桑島儀兵衛だったのである。
「中老職として命ずる」りんりんと響く声でその人は云った。「――沙汰のあるまで双方とも居宅謹慎だ、違背する者はきっと申付けるぞ、引取れ」
 そして誰かが座敷へ上って来た。新一郎であった、なにか取りに来たように装おったものだろう、戸納の側へ寄って、低い声でこう囁いた。
「暫く逢えないかも知れない、心配しないで待っておいで、……悪かったね」
 うっと八重は泣きそうになった。御無事でようございました、去ってゆく彼の足音を聞きながら、彼女は全身でこう呼びかけていた。
 ――貴方こそ八重のことなど御心配なさいますな、本当に御無事でようございました、わたくし大丈夫でございます。
 惧《おそ》れていたことが現実になってあらわれたのは、それから僅かに七日後のことであった。桃井へ来る武家の客たちから、西源での諍いの始末が聞けるかと思ったが、おもて沙汰にならなかったものかそんなような話は絶えて出ない、ただ老職のあいだに対抗勢力があって、城代家老は去就に苦しんでいるだろうというようなことを聞いた。――あの日からちょうど七日めの午後、髪結いが終ると間もなく客があり、名指しで八重が呼ばれた。
 客は一人で、六十ちかい肥えた老人であった。禿《は》げる性《たち》なのだろう、半ば白くなった髪が薄く、瞼《まぶた》のふくれに鋭い光のある、赭《あか》い大きな顔をした重おもしい恰幅《かっぷく》の人だった。――肴《さかな》には手をつけず、黙って酒を二本ばかり飲んだが、そのうちにぐいとこっちを睨むように見た。
「八重次というんだな、ふむ、結城新一郎を知っておるか」
 八重はぎくっとして眼を伏せた。
「わしは桑島儀兵衛といって、新一郎の外伯父に当る者だ、隠さずにすっかり伝え、彼となにか約束したことでもあるか」
 西源の諍いのとき駈けつけて来て喚いたあの声であった。八重はそれを思いだしたがどう返辞をしていいのかわからなかった。
「云えなければ云わずともよい、おまえが彼とゆくすえの約束をしたことは知っている、だがそれはならん、そんな馬鹿なことが許される道理はない、それはおまえもよく承知しているだろう」
「いいえ存じてはおりません」
 八重は静かに顔をあげた。
「なに知らぬ、ふむ、知らぬと云えば沙汰が済むとでも思うのか」
「済むか済まぬかはあの方が御承知だと存じます、わたくしはただ新一郎さまをお信じ申しているだけでございますから」
「すっかりまるめ込んだという訳だな」
「それはどういう意味でございますか」
「問答は要らん」老人は吐きだすように云った、「――話は早いほうがいい、金は幾ら欲しいんだ」

[#6字下げ]九[#「九」は中見出し]

 八重の顔は額から蒼《あお》くなった。こういう境涯にいれば客に卑しめられる例も少なくはない、なかには妓《おんな》たちを辱《はずか》しめるのが楽しくて来るような人間もある。たいてい底が知れているので、それほど苦痛にも思わず受けながすことに馴れていたが、そのときは烈しく怒りがこみあげてきた。どうにも抑えようがなく、膝の上で手が震えた。
「失礼ではございますが貴方さまはお嬢さまをおもちでいらっしゃいますか」
「わしに娘があったらどうするのだ」
「お嬢さまがお有りになって、その方がいまわたくしのように人から辱しめ卑しめられたとしたら、貴方さまはどうお思いなさるでしょうか」
「折角だがわしの娘は芸妓にはならぬ」
「それがわたくしの罪でございましょうか」八重は殆んど叫ぶように云った、「――わたくしは五つの年から乞食《こじき》のようなことを致しました、よそのお葬式へいって投げ銭を拾い、施物を貰うために、泣きむずかる妹を負って雪の冰《こお》る吹曝《ふきさら》しに半刻も一刻も立っていたことがございます、母は女の身で土工のようなことをしたり、料理屋の下働きや走り使いや、時にはもっとひどい稼《かせ》ぎまでしたようです、それでも食いかねて、人さまの家のお台所に立ち、僅かな銭を泣いて借りまわったことも度たびございました、こんなこともみなわたくしの罪でございましょうか」
 こみあげこみあげする怒りと悲しさに耐えきれなくなり、ここまで云いかけて八重は泣きだしてしまった。――袂で面を掩《おお》い、咽《むせ》びあげていると、持光寺の境内の寒い日蔭がありありと眼に見えた、背中ではまだ乳呑み児の妹がぐずっている、手も足も凍えていた、五つか六つの自分も泣きそうな顔で、施物の始まるのを辛抱づよく待っている、われながら哀れな、よるべないみじめな姿――それがいま痛いほど鮮やかに眼にうかぶのであった。
「わたくしがこんな育ちようをせず」
 八重は涙を押拭いながら続けた。
「貴方さまのようなお家に生れ、親御さまたちに大切にされて、なに不自由なく読み書きを習い、琴《こと》華《はな》の芸を身につけていましたら、決して卑しいとも汚《けがら》わしいともお考えはなさいますまい、――乞食のように貧しく育ったことで、芸妓などをして来たことで、ただそれだけで、このように卑しめ辱しめられなければならないものでしょうか」
 つきあげてくる嗚咽《おえつ》で言葉が切れ、八重はまた歯をくいしばって泣伏した。儀兵衛というその客は間もなく立上った、こんこんと咳《せき》をし、冷やかな、突放すような調子で、「――わしは帰る」と云った。
「近いうちに来るから、それまでに思案を決めて置け、おまえは気の毒な育ちようをしたかも知れぬが、新一郎にその責任を負わせる理由はない筈だ、――もしおまえが本当に彼を愛しているなら、自分からすすんでも身を退く筈だと思う、そこをよく考えてみるがよい」
 そして客は去っていった。
 八重は数日まるで病人のようになった。食事も殆んど手をつけず、一日じゅう寝たまま、人さえいなければ泣いて過した。頭がどうかなってしまったように、纒《まと》まった考えは少しもうかばず、断片的な思い出や回想をとりとめもなく追っている。――小さな弟と妹を左右の手に抱えて、昏れかかる冬の街角に立って母の帰りを待ったこと、料亭の厨口《くりやぐち》へいって残った飯や育を貰ったこと、食べる物がなにも無くって、母が貰って来た蕎麦湯《そばゆ》を啜《すす》り、四人で躯を寄せ合って寝た夜のこと、桃井へ来てから肌の合わないあね芸妓たちに意地悪く追い使われたこと……。
 ――これが自分の運命なのだろうか、ここからぬけだすことは出来ないのだろうか。
 桑島儀兵衛が二度めに来たとき、八重はげっそりと痩《や》せ、泣き腫《は》らした赤い眼をしていた。そしていきなり「あの方に逢わせて下さいまし――」と云って泣きだした。
 儀兵衛は冷酷な眼つきで、黙って泣くだけ泣かせて置いた。八重はすっかりとりみだし、身悶《みもだ》えをして訴え歎願《たんがん》した。……どんな条件でもいいから二人を引離さないで貰いたい、必要なら二年でも三年でも逢わずにいよう、この土地にいて悪ければ自分はよそへ移ってもよい、また結城家の正妻にならなくとも一生かこい者でもいい、ただあの方から自分を裂かないで貰いたい、あの方なしにはもう生きることが出来ないのである。――儀兵衛は頑《かたく》なに黙っていた、そして八重が哀訴のちからも尽きて絶え入るように泣伏してから、極めて非情な、突放した調子で口を切った。
「おまえはこんな暮しをしている女に似ず、読み書きにも明るく和学まで稽古をしたそうだ、絵も描くというから少しはものの道理もわきまえていると思ったのに、云うことを聞いてみるとどんな無知な女にも劣ったことしか考えられないのだな」

[#6字下げ]十[#「十」は中見出し]

「人間には誰しも自分の好みの生き方がある、誰それと結婚したい、庭の広い家に住みたい、金の苦労をしたくない、美しい衣裳《いしょう》が欲しい、優雅に暮したい、――だが大多数の者はその一つをも自分のものにすることが出来ずに終ってしまう、それが自然なんだ、なぜなら総ての人間が自分好みに生きるとしたら、世の中は一日として成立ってはゆかないだろう、人間は独りで生きているのではない、多くの者が寄集まって、互いに支え合い援け合っているのだ、――おまえは着物を着、帯を締めているが、それは自分で織ったのではなかろう、畳の上に坐っているがその畳も自分で作ったものではない、家は大工が建て壁は左官が塗った、百姓の作った米、漁師の捕った魚を食べている、紙も筆も箸《はし》も茶碗もすべて他人の労力に依るものだ、おまえにとっては見も知らぬこれらの他人が、このようにおまえの生活を支えている、わかるか」
 儀兵衛はちょっと口を噤《つぐ》んだ。
 八重はまだ嗚咽が止らなかったが、老人の言葉には明らかに心を惹《ひ》かれたらしく、耳を傾むけて聞き入る容子だった。
「こうして多くの人に支えられて生きながら、他人の迷惑や不幸に構わず、自分だけの仕合せを願う者があるとしたら、おまえはいったいどう思うか、――新一郎は城代家老になる人間だ、藩では近く政治の御改革がある、それをめぐって新旧勢力の激しい諍いが既に始まっている、彼は中心の責任者として当然その矢表に立たなくてはならない、御改革に反対する一派は、彼を排して別の人物を据えようとしている。新一郎の身にどんな些細《ささい》な瑕《きず》があっても、彼等はのがさず矛を向けて来るに違いない、新一郎の倒されることはそのまま御改革が挫折《ざせつ》することだ、……おまえとの仲はもうかなり評判になっている、これ以上逢えばもう取返しはつかない、この事情をよく考えて呉れ」
 八重はいつか坐り直していた。まだ時どきせきあげてくるが、とりみだした気持は鎮まったようだ。
「こんどの御改革は大きな事業だ、五年かかるか十年かかるかわからない、殿も御一代の仕事だと仰《おお》せられ、特に新一郎を中心の責任者に選ばれたのだ、――彼の一身は無瑕でなくてはならない、後ろ指をさされるような事は断じて避けなければならない、おまえがもし新一郎を愛しているなら、彼を失脚させるような危険はさせない筈だ」
 八重は儀兵衛の云うことを聞き終ると、静かに会釈をして立っていった、顔を洗い化粧を直しにいったのであろう、戻って来たときは唇に紅の色が鮮やかだった。
「よくわかりました、我儘《わがまま》を申上げて恥ずかしゅうございました。わたくし、……仰《おっ》しゃるとおりに致します」
「そうなくてはならぬ、それでわしも舌を叩いた甲斐《かい》があった」儀兵衛はやや顔色を柔らげながら、「――おまえの今後のことはわしがどのようにも力になろう、金のことも身の振方に就いても、望みがあったら遠慮なく申し出て呉れ」
「有難うございます。そのときはまた宜しくお頼み申します」
 八重は唇に微笑さえうかべながら、こう云って静かなおちついた眼で儀兵衛を見上げた。――その夜、八重は更けてから、描き溜《た》めてある山茶花《さざんか》の白描《はくびょう》を取り出して見た。十八の年から三年のあいだに、数えてみると百三十枚ほどあった。初めから絵にする積りはなかったので、布置も巧みもない稚拙な線描であるが、それだけに却《かえ》ってその時その時の印象がはっきり残っている。ああこれはあの朝だった。これはあの時だった。これを描いているときに粉雪が舞いだしたので、急いで描きあげて帰ったものだ。……こんな風にして見てゆくうち、次のような歌を書入れてあるのが出て来た。
[#ここから2字下げ]
さむしろに衣かたしき今宵《こよい》もや
こいしき人にあわでわが寝ん
[#ここで字下げ終わり]
 八重は思わず眼をつむった。新一郎から二度目に声をかけられた年のものだ、もういちど会えるかとひそかに待ったが、ついに会えなかった歎きを、伊勢物語から抜いた歌に托して書入れたのである。かたくつむった眼から涙があふれ出て、白描の山茶花の上へはらはらと落ちた。
 ――可哀そうな子、可哀そうな花、……いっそあのまま二度と会わないほうがよかったのに。

[#6字下げ]十一[#「十一」は中見出し]

 八重の性質は人の驚くほど変っていった。儀兵衛の言葉を聞いて新しく眼がひらけたという風だ。
 乞食のような生立《おいたち》にも、芸妓だということにも、かくべつもう屈辱や卑下の感情は起らない、朋輩《ほうばい》たちともよく折合うようになった。おまえさん達とは違うという、これまでの気位がとれたせいかも知れない、みんな「八重次さん」「姐《ねえ》さん」とうちとけてきた。
 ――こんなに善い人たちだったのだろうか。
 八重はこう思って吃驚《びっくり》することが度たびあった。一帖の畳でさえ誰かの汗と丹精で作られたものだ、一本の柱も、一枚の瓦も、人が生きてゆくために必要などんな小さな物も、誰かの汗と丹精に依らないものはない、……八重はいまそれを身にしみて理解する、そして自分がいかに多くの人に支えられて生きて来たか、これからもいかに多くの人の労力と誠意に支えられて生きてゆくかを思い、自分が決して孤独でもなければ閉め出された人間でもないということを感ずるのだった。
 その年の秋ぐちに、「越梅《えちうめ》」という大きな絹物問屋の隠居から、八重を養女に欲しいという話があった。隠居は宗石という俳名で知られ、桃井では古い客でもあり八重も以前からひいきにされていた。よほど気性をみこんだのであろう、養女にして然るべき婿を選び、ゆくゆくは絹物店を出してやろうということだった。――八重は桑島儀兵衛に相談をした、儀兵衛はもちろん異議なしで、
「絹物店を出す出さぬは別として、今のような稼業《かぎょう》からぬけるだけでもよかろう」こう云ってから、ふと八重の眼をじっと見た、「――これでわしも本当に安堵《あんど》した。よく思い切って呉れたな」
 八重は黙ってすなおに微笑していた。
 話はすぐに纒まった。十月にはいると間もなく八重は桃井をひき、笠町という処《ところ》にある宗石の住居へひき取られた。そこは城下町の東郊に当り、附近には武家の別墅《しもやしき》や大きな商人の寮が多く、松葉ケ丘へはほんのひとまたぎでゆける。――その家は野庭づくりで、櫟林《くぬぎばやし》や竹囲いのなかに五間ほどの母屋と、別棟の茶室とがある。櫟林の中には川から引いた細い流れがあって、澄み徹《とお》った秋の水の上へ櫟の落葉がしきりに散っていた。
 家人は宗石夫妻のほかに下男下女が五人いた。もよ[#「もよ」に傍点]という妻女はたいそう肥えた明るい賑《にぎ》やかな人で、初めから「八重さん八重さん」とうるさいほど親身に世話をやいて呉れた。――おちついた静かな生活が始まった、琴を稽古するがいいということで、盲人の師匠が三日に一度ずつ教えに来る、また歌の道をもう少し続けたいと頼んだら、「外出はしないほうがよかろう」と、松室春樹にもこちらへ来て貰うようにして呉れた。
「これではまるで大家のお嬢さまのようでございますわ」
「越梅といえば京大阪から江戸まで知られた大家ですよ」もよ[#「もよ」に傍点]女は大きな胸を反らせながら云った、「――養女といえば娘なんですから、大家のお嬢さまに違いないでしょう、でもあたしのように肥ることはありません」
 八重はそれをもすなおに受容《うけい》れた。
 その年は持光寺へはゆかなかった。ついひとまたぎの処ではあるが、もし新一郎が来でもして、彼と逢ったらこの気持が崩れるかも知れない、そうなっては桑島へ義理が立たぬと思ったからである。持光寺へはゆかぬ代り茶室の横に若木の山茶花が一本あるので、その花を写した。まだ花は多くは付かないが、やはり雪のように白く、然も葩《はなびら》がみごとに大きい。こんどは時間にいとまがあるので終るまで五十枚ほど写し、その中のもっとも気に入ったのへ、やはり伊勢物語からぬいて次のような歌を書入れた。
[#ここから2字下げ]
すみわびて今はかぎりと山里に
身をかくすべき宿をもとめん
[#ここで字下げ終わり]
 いちばん終りの一輪を写しているときだった。まっ白に霜のおりた早朝、凍える手を息で温ためながら、殆んどわれを忘れて描いていると、後ろへそっと近づいて来る人の足音がした。宗石か、それとも妻女かと思っていたが、いつまでも声がしないので振返った。そして振返るなりああと叫び、持った筆をとり落して棒立ちになった。
 結城新一郎であった。新一郎がそこに立っていた、寒さに頬を赤くし、幼な顔の残っている柔和な表情で、包むように微笑しながらこっちを見ていた。――八重はくらくらと眩暈《めまい》におそわれ、総身の力がぬけるようによろめいた。「ああ危ない」新一郎は駆け寄って両手で八重の肩を抱いた、「驚いたんだね、堪忍して呉れ、済まなかった」
「放して、どうぞ放して、――いけません」
「いや放さない、いけなくはない、なにも心配することはないんだよ、八重、私の顔をごらん、これはみんな私と宗石とで相談したことなんだよ」
 八重は失神したような眼で、半ば茫然と新一郎を見上げた。彼はその眼をしかと捉《とら》え明るく微笑を送りながら頷《うなず》いた。
「そうなんだ、宗石が養女にひき取ったのはおれと相談のうえだ、この次は殿村右京という大寄合の家へ養女にゆく、いいか、殿村から中老柏原頼母の養女になる、その次は結城新一郎の妻になるんだ、――桑島の伯父はひとりで肝を煎《い》ってる、苦労性でごく小心な、そして人の好い単純な伯父貴だ、然し世の中はそう息苦しいものじゃない、そんな些細なことにびくびくして、御改革などという大きな事業が出来る訳はないんだ、……八重、眼をあげてよく私の顔をごらん」
 肩を抱いた片手で、彼は八重の顎《あご》を支え、やさしく仰向かせて眼と眼を合わせた。
「今おまえの見ている人間は、この国の城代家老結城新一郎だ、そして私はおまえに云ったろう、信じておいで、私を信じておいでって……」
「あなた」
 八重は双手《もろて》を彼の頸《くび》に投げかけ、頬へ頬をすり寄せ、身をふるわせて泣きだした。
「あなた」



底本:「山本周五郎全集第二十一巻 花匂う・上野介正信」新潮社
   1983(昭和58)年12月25日 発行
底本の親本:「新青年」
   1948(昭和23)年11、12月合併号
初出:「新青年」
   1948(昭和23)年11、12月合併号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ

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