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縛られる権八
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縛られる権八
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)囁《ささや》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)女|伴《づ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符疑問符、1-8-78]
-------------------------------------------------------
[#3字下げ]風呂場の外の囁《ささや》き声[#「風呂場の外の囁き声」は中見出し]
「……もう遅い、駄目だ」
「でも、裏から」
「あれを見ろ、――裏も塞《ふさ》がってる」
声を殺した囁きである。
湯槽《ゆぶね》の中でのんびり天井を仰いでいた幸二郎は、どこから聞えて来るのかと、湯の動かないようにそっと身を起した。
東海道三島の藤田屋という宿。
宿屋としては中くらいの格だろうが、新しい普請でまだ木の香も匂《にお》うばかりだし、殊《こと》にこの風呂場は広々として明るく、横手にある流《ながれ》のせせらぎが涼しく響いて来るので、ちょっと山の温泉《いでゆ》にでも浸っているような感じを誘われる。
囁き声は窓の外だった。
風呂場の窓の外にぴったり身を寄せているらしい、男と女の、ひどく急込《せきこ》んだ、どっちらかというと取乱してさえいるやりとりであった。……幸二郎は思わず息をひそめた。
「だから、こうするんだ、いいか、駿府《すんぷ》は素通りして、清水で泊って、半日見物して、ゆうべは原だ」
「清水と原の宿を訊《き》かれたら?」
「清水は柏屋、原は……越辰《えつたつ》としよう、――もういちど云うが、兄妹だぜ、いいか、女|伴《づ》れてえことは知れてはいねえのだから、兄妹という口が旨《うま》く合えば大丈夫だ」
「あいよ、いざとなったら」
「叱《し》ッ、誰か来る」
ぴたっと声が切れた。
それっきり、もうなにも聞えなくなった。
――兇状持《きょうじょうもち》だな。
幸二郎はそう呟《つぶや》いた。
この夜更《よふ》けに、あんな口合せの相談をするなどは普通の旅人《たびにん》である筈《はず》がない。然《しか》もその言葉つきは追詰められた者の退引《のっぴき》ならぬ調子だった。……そのうえ妙なことに幸二郎はあのひそかな女の囁き声が、どこかで聞覚えのあるもののように思えた。
風呂場の杉戸があいて、
「ええ御免下さいまし」と番頭が覗《のぞ》いた。
「どうもお騒がせ申して相済みませんが、番所から御出役《ごしゅつやく》でございますので、なるべく早くお部屋へお戻《もどり》のほどを――」
「ああそうですか」
幸二郎は云いながら湯槽を出て、
「いま出ますよ、なにか有ったんですか、それとも定廻《じょうまわ》りですか」
「よくは存じませんが、なんでも駿府のお城へ賊が入って、御金蔵からたいそう盗出《ぬすみだ》したのだそうで、そのお調べでございます」
「それは物騒なことですね」
幸二郎はもう体を拭《ふ》いていた。――痩形《やせがた》の肉の緊《しま》った鹿のように敏捷《はしっこ》そうな肢体だ、女のように白い肌である。
二階の部屋へ帰ると落着く間もなかった。
宿の亭主を先に、郡代の役人が三人つかつかと入って来た。幸二郎は両掛《りょうがけ》や懐中物をそこへ揃《そろ》えて、
「御苦労様でございます」
と平伏した。――役人は宿帳を手に、すばやく人相|風態《ふうてい》を見やりながら、
「名はなんという」
「幸二郎と申します、江戸|本石町《ほんごくちょう》の呉服店|和泉屋《いずみや》五左衛門の手代にございます」
「何処《どこ》から何処へ行く」
「買出しに京へ参った帰りでございます」
「帳場へ二百両預けてあるな。……買出しの帰りにしては多分の金額ではないか」
「はい、五百両持参したのでございますが、思うような品が揃いませんので、それだけ残ったのでございます」
「手形を見せろ」
幸二郎は関手形を取出した。
このあいだに役人の下手代が両掛の中をすっかり検《あらた》めていた。関手形を見ていた役人は、下手代が異常のないことを知らせると、頷《うなず》いて部屋から出て行った。
幸二郎は取散らした物を片付けにかかったが、ふと隣室の声に耳をとられた。
「私の名は定吉《さだきち》、これはお弓と申しまして、妹でございます」
あの声だ。
風呂場の窓の外で囁いていた、あの声が、
――隣にいたのか!
と幸二郎は襖際《ふすまぎわ》へすり寄った。
「はい、……京橋八丁堀で、……麻問屋を致して居《お》ります。……はい。……近江の荷主筋を廻って来ましたので。……次手《ついで》に妹に京見物をさせようと思いまして一緒に……」
「黙れ、貴様はひと[#「ひと」に傍点]を盲と思うか!」
役人の鋭い声が天井を撃った。
[#3字下げ]助けに入った幸二郎[#「助けに入った幸二郎」は中見出し]
「駿府の城に於《おい》て御金蔵より千両を盗んだ賊がある。十日以前には尾州様《びしゅうさま》の御金蔵にも賊があって、目明しを一人|斬《き》って逃げた。権八英五郎という者の仕業と分ったから海道筋はしらみ[#「しらみ」に傍点]潰《つぶ》しに手配がしてあるのだ。貴様たちが黄瀬川《きせがわ》の茶店で休んでいた折、これに居る下役の者が側にいて話の模様を聴いていたのだぞ、――夫婦者で然も堅気の渡世ならぬことは分って居るのだ、それでも兄妹と申すか、それでも麻問屋などと云う積《つもり》か!」
「それが、――そ、その」
しどろもどろの声だった。
それより早く、なにを思ったか、つと立上った幸二郎が、間《あい》の襖を明けて、
「はははは、和泉屋の幸二郎だよ、定吉さん」
と笑いながらその場へ入って行った。
「聞いたような声だと思ったが、おまえさんとは知らなかった、だが、いま聞いていると飛んだお疑いを受けているじゃないか、旅へ出てまでおまえの癖は直らないのかえ」
驚いている男女《ふたり》が、口を継ぐ隙《すき》もなく、幸二郎は役人の方へ振返って丁寧に一礼し、
「お役人様|斯《こ》うでございます、おめがね通りこの二人は夫婦に相違ございませんが、つい先々月一緒になったばかりで、それも仲人《ちゅうじん》を立てたという訳でなく、惚《ほ》れ合って出来た仲でこざいますので、宿帳に夫婦と書くのが恥かしかったのだと存じます」
「其方《そのほう》はこの二人を知って居るのか」
「存じて居りますどころか、女の方は和泉屋の店に女中奉公をして居りましたし、定吉は出入の指物《さしもの》職人で、まあそんなところから出来た仲でございますが、――夫婦になるとすぐ京見物に立ったことも存じて居ります、麻問屋などと申上げましたのも、旅へ出て職人では安く見られるとでも思ったのでございましょう。そんなところだろう? 定吉さん」
「どうも……面目次第もございません」
定吉という男は頭を掻《か》きながら、
「どうかお店《たな》の皆様には御内聞に」
「幸《こう》どん、どうか内緒《ないしょう》に……」
と女も赤くなりながら俯向《うつむ》いた。――幸二郎は可笑《おか》しそうに笑って、
「はははは、冗談じゃない、お店の心配をするより権八英五郎のお疑い解いて頂く方が大事だろう、――お役人様、こんな次第でございます、どうかお許しなすって下さいますよう」
「其方の言葉に偽りはあるまいな」
「お疑いが晴れませんければ、江戸表《えどおもて》の店までお使者をお遣わし下さいまし、そのあいだ手前共は当家に滞在致して居ります」
このあいだに持物を検《しら》べていた下手代が、別に怪しい節のないことを慥《たしか》めたので、ようやく役人も納得したらしく、
「よし、此者《このもの》の証言に免じて咎《とがめ》無《な》しに致す。以後は再び偽りなど申すでないぞ」
「へえ、きっと慎みますでございます」
定吉夫婦は身を縮めて平伏した。
役人は出て行った。――幸二郎は再び声高に笑いながら、
「まあ無事に済んでなによりだ、詰らぬ隠しだてをするものだから、飛んだ濡衣《ぬれぎぬ》を着るとこだったじゃないか」
そう云って小声にすばやく、
「黙ってねえで、なんでも宜《い》いから相槌《あいづち》を打て」
と囁いた。
役人が出て行くまで、声高に話したり笑ったりしたのち幸二郎は部屋へ帰った。
[#3字下げ]どっちがどっちの智慧《ちえ》試し[#「どっちがどっちの智慧試し」は中見出し]
明る日もよく晴れていた。
幸二郎が宿を立つとすぐ定吉という夫婦者も一緒に伴立《つれだ》って出た。
三島から二里行くと富士平《ふじだいら》にかかる。その途中|人気《ひとけ》のない松原まで来かかった時、定吉は笠《かさ》を脱いで、
「どうも昨夜《ゆうべ》は有難うございました」
と頭を下げた。
「あなたが出て下さらねえと、すんでに十手《じって》をくらうところ、全くのどたん場で、なんともお礼の申上げようがございません」
「なあに礼には及びませんよ」
幸二郎は軽く笑った。
「本当に、あたしはもう駄目かと思いました」
女も恥かしそうに、
「茶店で睨《にら》まれたなんぞはちっとも気付かなかったもんですから、兄妹だなんて詰らないことを云って尻尾《しっぽ》を押えられ、とんだ綱渡りの仕損いを致しましたわ。……それでもまあ、権八の親分と思われただけ拾い物でござんしょうかね」
「思われたと云って……」
幸二郎は案外だという風に、
「それではおまえさん方は、権八英五郎という人ではないんですかえ」
「飛んでもない、そんな名の通った者ではござんせん、まだほんの駈出し者でござんす」
「――そうでしたか」
幸二郎は失望した様子で、
「白井権八の再来というので権八英五郎、恐ろしく度胸のいい人で、大名屋敷を一点張りに荒稼ぎをするとか、私も噂《うわさ》には聞いていました。また近頃ではその評判をうまく使って、方々に偽物《にせもの》の英五郎まで出没するというので、本物はどんな人かいちど会いたいと思っていたんですが、おまえさん方は本当にそうではないんですかえ」
「それじゃあ貴方《あなた》は」
と定吉は急に改って、
「あっしを権八英五郎と睨んで助けて下すったんですかい」
「そうですよ」幸二郎は詰らなそうに頷いて、
「私は昨夜も申上げた通り呉服屋の手代ですが、読本《よみほん》が好きで義賊物などには日頃から目のない方です。それでいちど権八英五郎という人と会って直《じか》に口を利《き》いてみたいと思っていたものですから。……でも人違いでがっかりしてしまいました」
「まあ、――あなたは御同業じゃないんですか」
女は呆《あき》れたように眼を瞠《みは》った。
「飛んでもない全くの堅気ですよ」
「じゃあ本当に権八英五郎に会いたくって昨夜のような、……どうも本当とは思えねえ」
定吉に疑わしげな眼をしたが、
「まあ宜いや、ちょっと向うへ入ろう」
と松原の奥を顎《あご》でしゃくった。
[#3字下げ]敵討どんでん返し[#「敵討どんでん返し」は中見出し]
夏草のびっしり茂っている木蔭《こかげ》、海道筋から全く見えないところまで来ると、
「おい番頭さん」
と定吉が向直って云った。
「おめえが折角の御贔屓《ごひいき》だから、本当のことを云ってやろう」
「へえ、と仰有《おっしゃ》ると※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「おまえの云う通り、おいらが権八英五郎だよ、江戸と紀州はまだだが、尾張様と駿府の御金蔵を破ったのはおいらが初めてだ。よく面《つら》を拝んどいて呉れ」
「矢張りそうだったんですね」
幸二郎はにっこと笑って、
「一生にいちどは貴方のような人と話がしてみたいと思いましたが、これでようやく本望を達しました。御金蔵を破るなどとはさぞ大変な仕事でございましょうね」
「そりゃあおめえ方が、土蔵から反物を運び出すてえ訳にゃあいかねえ」
「駿府では千両だとか、名古屋のお城ではどのくらいお仕事をなさいました」
「尾州じゃあぶま[#「ぶま」に傍点]を踏んで百両っきりよ」
「へえ――百両」幸二郎は眼を瞠ったが、
「それはなにかのお間違いでしょう」
「間違えとはなにが?」
「いいえ尾州様へ入るほどで百両っきりとはおかしいと申すので、それでは権八英五郎の名に泥を塗るようなものだと云うんです」
「だからぶま[#「ぶま」に傍点]を踏んだと云ってるんだ、おいらだっていつも上首尾ばかりとはいかねえ」
「――馬鹿野郎!」
幸二郎が刺すように叫んだ。――英五郎だと名乗った相手はぎょっとして眼をあげる、幸二郎は片手でぐっと衿《あり》を寛《ひろ》げながら、
「うぬ[#「うぬ」に傍点]あ何処の馬の骨だ!」
とがらりと伝法《でんぽう》に変った。
「尾州の御金蔵を破ったがぶま[#「ぶま」に傍点]を踏んで百両? たわ[#「たわ」に傍点]言《ごと》をぬかすのも程《ほど》にしやあがれ、権八英五郎は斯うと見込んでぶま[#「ぶま」に傍点]を踏むような頓馬《とんま》じゃあねえ、刻印のねえのを選《よ》って、三千両ずっくりと運出《はこびだ》しているんだ。――やい三下、此頃英五郎の名をかたって街道筋を稼いでいるなあてめえだな、どうかして首根っこを押えようと思っていたが、まんまと泥を吐《は》きゃあがった、前へ出ろ」
「あ、あ、兄哥《あにき》、それじゃおめえが……」
「面を拝めたあ此方《こっち》の科白《せりふ》だ、名古屋の御金蔵を破って三千両盗んだ権八英五郎、見違《みちげ》えのねえようによくよく拝んで置け」
笠を脱《と》ってぐっと睨《ね》めおろす、その顔へ、女が横からぱっと叩《たた》きつけた粉。
「――あ、なにをしやあがる」
遅かった。眼潰《めつぶ》しである。桐の灰と唐辛子の粉を混ぜた強いやつ、眼と鼻と口へ存分にとびこんだから、こんこんと咳入《せきい》りながら眼を押えざま片手をふところへ。
短刀《どす》を抜こうとしたのだが、どっこい、その手はすでに早縄できりきりと緊《し》められていた。――定吉という男は隙も与えず、体当りに突倒して、鮮かに縛りあげる。
「お栄《えい》さん、お手柄でございます」
と女の方へ云った。
「有難う、みんな定吉のお蔭だよ、こんでお父《とっ》さんも成仏《じょうぶつ》なさるだろう」
女は暗然と眼を外向《そむ》けた。
「やい、英五郎」
定吉は嘲《あざけ》るように云った。
「おめえいま偉そうなことを云ったな、権八英五郎はぶま[#「ぶま」に傍点]を踏むような頓馬じゃねえと、へん! おだをあげるな、子供|騙《だま》しのような罠《わな》にひっ掛って、尾州様から三千両盗んだことをべらべら饒舌《しゃべ》りゃあがったのはぶま[#「ぶま」に傍点]じゃあねえのか、義賊を気取る奴に限って己惚《うぬぼれ》が強いもんだ。てめえの偽物を押えていい気な熱をあげたがる、此方はその己惚を逆の道具に使ったんだ。尾州様から盗んだ金高《かねだか》は御金蔵番とお奉行と目附同心より他に知る者のねえこった、それを知っているだけでも英五郎てえ証拠になる、そのうえ念入りにうぬから泥を吐きゃあがった」
「て、てめえ、てめえ達は、何者だ」
英五郎は呻《うめ》くように叫んだ。
「うぬが斬って逃げた名古屋のお手先、三河屋源次郎の身内で早縄の定だ、こちらは親分の娘御でお栄さん、お父さんの仇《あだ》を討つためにこんな苦労なすったんだ。――おい英五郎、昨夜あの宿で郡代役人とうった芝居は気に入ったか!」
[#地から2字上げ](「講談雑誌」昭和十四年七月号)
底本:「怒らぬ慶之助」新潮社
1999(平成11)年9月1日発行
2006(平成18)年4月10日八刷
底本の親本:「講談雑誌」
1939(昭和14)年7月号
初出:「講談雑誌」
1939(昭和14)年7月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)囁《ささや》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)女|伴《づ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符疑問符、1-8-78]
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[#3字下げ]風呂場の外の囁《ささや》き声[#「風呂場の外の囁き声」は中見出し]
「……もう遅い、駄目だ」
「でも、裏から」
「あれを見ろ、――裏も塞《ふさ》がってる」
声を殺した囁きである。
湯槽《ゆぶね》の中でのんびり天井を仰いでいた幸二郎は、どこから聞えて来るのかと、湯の動かないようにそっと身を起した。
東海道三島の藤田屋という宿。
宿屋としては中くらいの格だろうが、新しい普請でまだ木の香も匂《にお》うばかりだし、殊《こと》にこの風呂場は広々として明るく、横手にある流《ながれ》のせせらぎが涼しく響いて来るので、ちょっと山の温泉《いでゆ》にでも浸っているような感じを誘われる。
囁き声は窓の外だった。
風呂場の窓の外にぴったり身を寄せているらしい、男と女の、ひどく急込《せきこ》んだ、どっちらかというと取乱してさえいるやりとりであった。……幸二郎は思わず息をひそめた。
「だから、こうするんだ、いいか、駿府《すんぷ》は素通りして、清水で泊って、半日見物して、ゆうべは原だ」
「清水と原の宿を訊《き》かれたら?」
「清水は柏屋、原は……越辰《えつたつ》としよう、――もういちど云うが、兄妹だぜ、いいか、女|伴《づ》れてえことは知れてはいねえのだから、兄妹という口が旨《うま》く合えば大丈夫だ」
「あいよ、いざとなったら」
「叱《し》ッ、誰か来る」
ぴたっと声が切れた。
それっきり、もうなにも聞えなくなった。
――兇状持《きょうじょうもち》だな。
幸二郎はそう呟《つぶや》いた。
この夜更《よふ》けに、あんな口合せの相談をするなどは普通の旅人《たびにん》である筈《はず》がない。然《しか》もその言葉つきは追詰められた者の退引《のっぴき》ならぬ調子だった。……そのうえ妙なことに幸二郎はあのひそかな女の囁き声が、どこかで聞覚えのあるもののように思えた。
風呂場の杉戸があいて、
「ええ御免下さいまし」と番頭が覗《のぞ》いた。
「どうもお騒がせ申して相済みませんが、番所から御出役《ごしゅつやく》でございますので、なるべく早くお部屋へお戻《もどり》のほどを――」
「ああそうですか」
幸二郎は云いながら湯槽を出て、
「いま出ますよ、なにか有ったんですか、それとも定廻《じょうまわ》りですか」
「よくは存じませんが、なんでも駿府のお城へ賊が入って、御金蔵からたいそう盗出《ぬすみだ》したのだそうで、そのお調べでございます」
「それは物騒なことですね」
幸二郎はもう体を拭《ふ》いていた。――痩形《やせがた》の肉の緊《しま》った鹿のように敏捷《はしっこ》そうな肢体だ、女のように白い肌である。
二階の部屋へ帰ると落着く間もなかった。
宿の亭主を先に、郡代の役人が三人つかつかと入って来た。幸二郎は両掛《りょうがけ》や懐中物をそこへ揃《そろ》えて、
「御苦労様でございます」
と平伏した。――役人は宿帳を手に、すばやく人相|風態《ふうてい》を見やりながら、
「名はなんという」
「幸二郎と申します、江戸|本石町《ほんごくちょう》の呉服店|和泉屋《いずみや》五左衛門の手代にございます」
「何処《どこ》から何処へ行く」
「買出しに京へ参った帰りでございます」
「帳場へ二百両預けてあるな。……買出しの帰りにしては多分の金額ではないか」
「はい、五百両持参したのでございますが、思うような品が揃いませんので、それだけ残ったのでございます」
「手形を見せろ」
幸二郎は関手形を取出した。
このあいだに役人の下手代が両掛の中をすっかり検《あらた》めていた。関手形を見ていた役人は、下手代が異常のないことを知らせると、頷《うなず》いて部屋から出て行った。
幸二郎は取散らした物を片付けにかかったが、ふと隣室の声に耳をとられた。
「私の名は定吉《さだきち》、これはお弓と申しまして、妹でございます」
あの声だ。
風呂場の窓の外で囁いていた、あの声が、
――隣にいたのか!
と幸二郎は襖際《ふすまぎわ》へすり寄った。
「はい、……京橋八丁堀で、……麻問屋を致して居《お》ります。……はい。……近江の荷主筋を廻って来ましたので。……次手《ついで》に妹に京見物をさせようと思いまして一緒に……」
「黙れ、貴様はひと[#「ひと」に傍点]を盲と思うか!」
役人の鋭い声が天井を撃った。
[#3字下げ]助けに入った幸二郎[#「助けに入った幸二郎」は中見出し]
「駿府の城に於《おい》て御金蔵より千両を盗んだ賊がある。十日以前には尾州様《びしゅうさま》の御金蔵にも賊があって、目明しを一人|斬《き》って逃げた。権八英五郎という者の仕業と分ったから海道筋はしらみ[#「しらみ」に傍点]潰《つぶ》しに手配がしてあるのだ。貴様たちが黄瀬川《きせがわ》の茶店で休んでいた折、これに居る下役の者が側にいて話の模様を聴いていたのだぞ、――夫婦者で然も堅気の渡世ならぬことは分って居るのだ、それでも兄妹と申すか、それでも麻問屋などと云う積《つもり》か!」
「それが、――そ、その」
しどろもどろの声だった。
それより早く、なにを思ったか、つと立上った幸二郎が、間《あい》の襖を明けて、
「はははは、和泉屋の幸二郎だよ、定吉さん」
と笑いながらその場へ入って行った。
「聞いたような声だと思ったが、おまえさんとは知らなかった、だが、いま聞いていると飛んだお疑いを受けているじゃないか、旅へ出てまでおまえの癖は直らないのかえ」
驚いている男女《ふたり》が、口を継ぐ隙《すき》もなく、幸二郎は役人の方へ振返って丁寧に一礼し、
「お役人様|斯《こ》うでございます、おめがね通りこの二人は夫婦に相違ございませんが、つい先々月一緒になったばかりで、それも仲人《ちゅうじん》を立てたという訳でなく、惚《ほ》れ合って出来た仲でこざいますので、宿帳に夫婦と書くのが恥かしかったのだと存じます」
「其方《そのほう》はこの二人を知って居るのか」
「存じて居りますどころか、女の方は和泉屋の店に女中奉公をして居りましたし、定吉は出入の指物《さしもの》職人で、まあそんなところから出来た仲でございますが、――夫婦になるとすぐ京見物に立ったことも存じて居ります、麻問屋などと申上げましたのも、旅へ出て職人では安く見られるとでも思ったのでございましょう。そんなところだろう? 定吉さん」
「どうも……面目次第もございません」
定吉という男は頭を掻《か》きながら、
「どうかお店《たな》の皆様には御内聞に」
「幸《こう》どん、どうか内緒《ないしょう》に……」
と女も赤くなりながら俯向《うつむ》いた。――幸二郎は可笑《おか》しそうに笑って、
「はははは、冗談じゃない、お店の心配をするより権八英五郎のお疑い解いて頂く方が大事だろう、――お役人様、こんな次第でございます、どうかお許しなすって下さいますよう」
「其方の言葉に偽りはあるまいな」
「お疑いが晴れませんければ、江戸表《えどおもて》の店までお使者をお遣わし下さいまし、そのあいだ手前共は当家に滞在致して居ります」
このあいだに持物を検《しら》べていた下手代が、別に怪しい節のないことを慥《たしか》めたので、ようやく役人も納得したらしく、
「よし、此者《このもの》の証言に免じて咎《とがめ》無《な》しに致す。以後は再び偽りなど申すでないぞ」
「へえ、きっと慎みますでございます」
定吉夫婦は身を縮めて平伏した。
役人は出て行った。――幸二郎は再び声高に笑いながら、
「まあ無事に済んでなによりだ、詰らぬ隠しだてをするものだから、飛んだ濡衣《ぬれぎぬ》を着るとこだったじゃないか」
そう云って小声にすばやく、
「黙ってねえで、なんでも宜《い》いから相槌《あいづち》を打て」
と囁いた。
役人が出て行くまで、声高に話したり笑ったりしたのち幸二郎は部屋へ帰った。
[#3字下げ]どっちがどっちの智慧《ちえ》試し[#「どっちがどっちの智慧試し」は中見出し]
明る日もよく晴れていた。
幸二郎が宿を立つとすぐ定吉という夫婦者も一緒に伴立《つれだ》って出た。
三島から二里行くと富士平《ふじだいら》にかかる。その途中|人気《ひとけ》のない松原まで来かかった時、定吉は笠《かさ》を脱いで、
「どうも昨夜《ゆうべ》は有難うございました」
と頭を下げた。
「あなたが出て下さらねえと、すんでに十手《じって》をくらうところ、全くのどたん場で、なんともお礼の申上げようがございません」
「なあに礼には及びませんよ」
幸二郎は軽く笑った。
「本当に、あたしはもう駄目かと思いました」
女も恥かしそうに、
「茶店で睨《にら》まれたなんぞはちっとも気付かなかったもんですから、兄妹だなんて詰らないことを云って尻尾《しっぽ》を押えられ、とんだ綱渡りの仕損いを致しましたわ。……それでもまあ、権八の親分と思われただけ拾い物でござんしょうかね」
「思われたと云って……」
幸二郎は案外だという風に、
「それではおまえさん方は、権八英五郎という人ではないんですかえ」
「飛んでもない、そんな名の通った者ではござんせん、まだほんの駈出し者でござんす」
「――そうでしたか」
幸二郎は失望した様子で、
「白井権八の再来というので権八英五郎、恐ろしく度胸のいい人で、大名屋敷を一点張りに荒稼ぎをするとか、私も噂《うわさ》には聞いていました。また近頃ではその評判をうまく使って、方々に偽物《にせもの》の英五郎まで出没するというので、本物はどんな人かいちど会いたいと思っていたんですが、おまえさん方は本当にそうではないんですかえ」
「それじゃあ貴方《あなた》は」
と定吉は急に改って、
「あっしを権八英五郎と睨んで助けて下すったんですかい」
「そうですよ」幸二郎は詰らなそうに頷いて、
「私は昨夜も申上げた通り呉服屋の手代ですが、読本《よみほん》が好きで義賊物などには日頃から目のない方です。それでいちど権八英五郎という人と会って直《じか》に口を利《き》いてみたいと思っていたものですから。……でも人違いでがっかりしてしまいました」
「まあ、――あなたは御同業じゃないんですか」
女は呆《あき》れたように眼を瞠《みは》った。
「飛んでもない全くの堅気ですよ」
「じゃあ本当に権八英五郎に会いたくって昨夜のような、……どうも本当とは思えねえ」
定吉に疑わしげな眼をしたが、
「まあ宜いや、ちょっと向うへ入ろう」
と松原の奥を顎《あご》でしゃくった。
[#3字下げ]敵討どんでん返し[#「敵討どんでん返し」は中見出し]
夏草のびっしり茂っている木蔭《こかげ》、海道筋から全く見えないところまで来ると、
「おい番頭さん」
と定吉が向直って云った。
「おめえが折角の御贔屓《ごひいき》だから、本当のことを云ってやろう」
「へえ、と仰有《おっしゃ》ると※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「おまえの云う通り、おいらが権八英五郎だよ、江戸と紀州はまだだが、尾張様と駿府の御金蔵を破ったのはおいらが初めてだ。よく面《つら》を拝んどいて呉れ」
「矢張りそうだったんですね」
幸二郎はにっこと笑って、
「一生にいちどは貴方のような人と話がしてみたいと思いましたが、これでようやく本望を達しました。御金蔵を破るなどとはさぞ大変な仕事でございましょうね」
「そりゃあおめえ方が、土蔵から反物を運び出すてえ訳にゃあいかねえ」
「駿府では千両だとか、名古屋のお城ではどのくらいお仕事をなさいました」
「尾州じゃあぶま[#「ぶま」に傍点]を踏んで百両っきりよ」
「へえ――百両」幸二郎は眼を瞠ったが、
「それはなにかのお間違いでしょう」
「間違えとはなにが?」
「いいえ尾州様へ入るほどで百両っきりとはおかしいと申すので、それでは権八英五郎の名に泥を塗るようなものだと云うんです」
「だからぶま[#「ぶま」に傍点]を踏んだと云ってるんだ、おいらだっていつも上首尾ばかりとはいかねえ」
「――馬鹿野郎!」
幸二郎が刺すように叫んだ。――英五郎だと名乗った相手はぎょっとして眼をあげる、幸二郎は片手でぐっと衿《あり》を寛《ひろ》げながら、
「うぬ[#「うぬ」に傍点]あ何処の馬の骨だ!」
とがらりと伝法《でんぽう》に変った。
「尾州の御金蔵を破ったがぶま[#「ぶま」に傍点]を踏んで百両? たわ[#「たわ」に傍点]言《ごと》をぬかすのも程《ほど》にしやあがれ、権八英五郎は斯うと見込んでぶま[#「ぶま」に傍点]を踏むような頓馬《とんま》じゃあねえ、刻印のねえのを選《よ》って、三千両ずっくりと運出《はこびだ》しているんだ。――やい三下、此頃英五郎の名をかたって街道筋を稼いでいるなあてめえだな、どうかして首根っこを押えようと思っていたが、まんまと泥を吐《は》きゃあがった、前へ出ろ」
「あ、あ、兄哥《あにき》、それじゃおめえが……」
「面を拝めたあ此方《こっち》の科白《せりふ》だ、名古屋の御金蔵を破って三千両盗んだ権八英五郎、見違《みちげ》えのねえようによくよく拝んで置け」
笠を脱《と》ってぐっと睨《ね》めおろす、その顔へ、女が横からぱっと叩《たた》きつけた粉。
「――あ、なにをしやあがる」
遅かった。眼潰《めつぶ》しである。桐の灰と唐辛子の粉を混ぜた強いやつ、眼と鼻と口へ存分にとびこんだから、こんこんと咳入《せきい》りながら眼を押えざま片手をふところへ。
短刀《どす》を抜こうとしたのだが、どっこい、その手はすでに早縄できりきりと緊《し》められていた。――定吉という男は隙も与えず、体当りに突倒して、鮮かに縛りあげる。
「お栄《えい》さん、お手柄でございます」
と女の方へ云った。
「有難う、みんな定吉のお蔭だよ、こんでお父《とっ》さんも成仏《じょうぶつ》なさるだろう」
女は暗然と眼を外向《そむ》けた。
「やい、英五郎」
定吉は嘲《あざけ》るように云った。
「おめえいま偉そうなことを云ったな、権八英五郎はぶま[#「ぶま」に傍点]を踏むような頓馬じゃねえと、へん! おだをあげるな、子供|騙《だま》しのような罠《わな》にひっ掛って、尾州様から三千両盗んだことをべらべら饒舌《しゃべ》りゃあがったのはぶま[#「ぶま」に傍点]じゃあねえのか、義賊を気取る奴に限って己惚《うぬぼれ》が強いもんだ。てめえの偽物を押えていい気な熱をあげたがる、此方はその己惚を逆の道具に使ったんだ。尾州様から盗んだ金高《かねだか》は御金蔵番とお奉行と目附同心より他に知る者のねえこった、それを知っているだけでも英五郎てえ証拠になる、そのうえ念入りにうぬから泥を吐きゃあがった」
「て、てめえ、てめえ達は、何者だ」
英五郎は呻《うめ》くように叫んだ。
「うぬが斬って逃げた名古屋のお手先、三河屋源次郎の身内で早縄の定だ、こちらは親分の娘御でお栄さん、お父さんの仇《あだ》を討つためにこんな苦労なすったんだ。――おい英五郎、昨夜あの宿で郡代役人とうった芝居は気に入ったか!」
[#地から2字上げ](「講談雑誌」昭和十四年七月号)
底本:「怒らぬ慶之助」新潮社
1999(平成11)年9月1日発行
2006(平成18)年4月10日八刷
底本の親本:「講談雑誌」
1939(昭和14)年7月号
初出:「講談雑誌」
1939(昭和14)年7月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ