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凡庸・暗愚で嗜好殺人を繰り返す悪逆非道な人物であるというのは、
秀次公について、特に同書で『悪業』とされる行為の数々をでっちあげた
太田牛一の『大かうさまくんきのうち』や小瀬甫庵の『太閤記』に
影響を受けた後世の創作であり、真実ではないというのが近年の通説です。
若年から茶道や連歌に造詣が深く公家や僧との交流も多く、
古筆や漢籍、文学を好む気性の穏やかな人格者であったと多くの史料は伝えています。
豊家の外交官として諸大名の接待役を任されていた事実もあり、
多くの小説や大河で描かれるように卑小・悪辣な人物ではありません。
しかし、九戸政実の乱の事後処理を始め宣教師が母国に送った書翰や書物などに
嗜虐性を垣間見せるエピソードがあるのもまた事実です。
秀次公とキリシタン
秀次公が天正十三年に築城を始めた八幡山城の城下町には相当数のキリシタンがおり、また、秀次公は彼らを保護していた形跡があります。
キリシタン大名として有名な高山右近とも親交があり、「台子七人衆」として茶の湯を通じても交流が有りました。『キリスト教に改宗した』という史料は発見されていませんが『好意を示していた』のは間違いないようです。
剣術、武術について
剣術に相当の嗜みがあり、刀剣類の鑑定も行っていました。
(天正七年(1589)二月二十三日、疋田新陰流免許皆伝)
そのことから、『太閤記』などで『千人斬り』を行ったと喧伝されたものと考えられます。