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ルイス・フロイス著
日本史
第十九章
『この若者(孫七郎殿)は伯父(秀吉)とはまったく異なって、万人から愛される性格の持ち主であった。特に禁欲を保ち、野心家ではなかった。』
第三十八章
『老関白(秀吉)の甥である新関白(秀次)は、弱年ながら深く道理と分別をわきまえた人で、謙虚であり、短慮性急でなく、物事に慎重で思慮深かった。そして平素、良識ある賢明な人物と会談することを好んだ。
彼は(老関白から)、多大な妄想と空中の楼閣(とも言える、上記のような内容の)書状を受理したが、ほとんど意に介することなく、かねてより賢明であったから、すでに得ているものを、そのように不確実で疑わしいものと交換しようとは思わなかった。
彼は幾つか皮肉を交えた言葉を口外したものの、伯父(老関白)との折り合いを保つために、胸襟を開くこともなく自制していた。』
年報補遺
殺生関白という悪名を後世に残した『太閤記』成立以前に同ルイス・フロイスが母国のイエズス会総長クラウディオ・アクアディーヴァに書き送った報告の中で秀次公は、
『優れた才能を有し、気前のよい人で多くの資質を備え、機敏、怜悧、かつ稀に見る賢明さの持ち主であり、特に親切で、その他にも多くの優れた徳を備えていた。(中略)殿にとっては、人間の血を流すことは何でもないことで、人間を虐殺するにあたっても(その手段は)非常に戦慄的であった。(中略)私が若い頃に読んだ歴史上の人物でも、またこれらの皇帝でも、関白殿がなしたように自ら手を下した人間の血で地面を汚し、このような悪業をひどく愛好するとか、またこのような不評の業を誇らしく思った人はいなかった。』
と、優れた才を持ちながらも拭い難い性癖の持ち主であるとも伝えられていました。
太閤秀吉との関係
『(前略)第四は関白殿の甥の事に関す。既に記しまゐらせしが如く、関白殿(秀吉)は之にその国を譲りたまひしが、之を傲慢なりとて憎みたまへば、かの君も関白殿をうとみたまへり。されば老関白殿都に止り大坂に滞留し、都にてその母の葬儀を行ひたまへる時も、この君その近くに住みてありながら大坂には赴かざりき。日本全土の人々いたく驚き、是れ必ず両人の間に何事か起るべしと予想したり』
この書翰は1592年に書き送られており、両者の確執が秀頼誕生前、関白職移譲直後よりのものであったと窺う事ができます。
(記述内容に誤解を生じているとの指摘もあります)
アーノルド・モンタヌス著
1669年にオランダの牧師アーノルド・モンタヌスがイエズス会の厖大な書翰や記録に基づき、アムステルダムで刊行した『モンタヌス日本誌』の中で秀次公は
『彼の最大の娯楽は人の屠殺場に於て人を殺すことなり。彼は此屠殺場を宮殿付近の或地域に於て開きたる中庭の中央に作り、壁を以て囲み、白砂を敷き、一脚の卓子を置けり。(中略)如何なる虐政者の行ひたる処刑といふとも、彼の所為に過ぎたるは無し。以て残忍な屠殺者の王と称すべし。』
と、当時の日本国内での浮説を纏め上げたかの様な表現がなされており、また、同書は独・仏・英語に翻訳され十七世紀のヨーロッパにおいて広く読まれていました。
(但し同書が刊行されたのは日本国内でのキリスト教布教が弾圧され、海外との国交が制限されていた時期でもあり、記述内容が正しくないとの指摘もあります)