<百物語と青行灯について>
灯きえんとして又あきらかに、影憧々としてくらき時、青行灯といへるものあらはるる事ありと云。
むかしより百物語をなすものは、青き紙にて行灯をはる也。昏夜に鬼を談ずる事なかれ。
鬼を談ずれば、怪にいたるといへり(今昔百鬼拾遺)

このゲームの主軸になってるっぽい百物語ですが、
百物語の終わりに正体不明の怪異である青行灯が訪れるので
実は百物語は九十九話で終わらせるのが通例です(百話は話しません)
そして青行灯という名前は、話を一つ終える毎に行灯に青い紙を貼りつけてゆくことに由来します
青行灯とは具体的な妖怪の名前ではなく百物語の後に起きる怪異の総称のようです

<座敷童子について>
座敷童子は東北地方を中心としたよう回で、3~12歳位の男児、もしくは女児の姿をしている
要するにロリータで髪型はおかっぱが一般的。別称も多い。
座敷童子がいる家は繁栄するが、居なくなると途端に廃れるとも言われており、
単純にありがたい妖怪とも言い難いものがある。
座敷童子がいなくなる前兆現象として、普段家の者の前には姿を見せないものが
ある時にふと姿を見せるようになるということが挙げられる。
座敷童子は寝ているときに悪戯をする妖怪で、物音や足音、布団や枕への悪戯などが挙げられる。
また、座敷童子には階級のようなものがあり、階級の低いものには何となく「間引きの習慣」との関連性が見られるそうである。
(間引きとは口減らしのために生後間もない赤子を家の中や周囲に埋めること。)


<妖怪観と出現条件についての考察>
人に利益をもたらし崇拝されるのが神
人に害をもたらすが崇拝されるのが厄神(じゃなくて鬼神?)
崇拝されなくなった神が妖怪、という神の没落という妖怪の発生の仕方(河童など)
それとは別に人の死後の姿やそれが変化する妖怪の生まれ方(鉄鼠など)
長い年月を経た物が妖怪化するという妖怪の生まれ方(猫又や付喪神)
曖昧な空間や現象に生まれる漠然とした不安から形になるという妖怪の生まれ方(垢嘗め、家鳴り)

と、一口に妖怪と言っても
「没落した神としての妖怪」と
「幽霊、あるいは幽霊が変化したモノとしての妖怪」と
「物や生物が長い年月を経て変化したモノとしての妖怪」と
「未知への不安が形を成した妖怪」
の4通りがあると考えてます。

そして凡その妖怪は真昼間に往来の真ん中に現れたりはせず、必ず曖昧な空間や境目に現れます。
例えば垢嘗めは夜中誰もいない風呂に現れますし、網切りは夜の天井裏から蚊帳を切りにきます。
こういった夜中の風呂や夜の天井裏といった曖昧な空間は現在では電気の普及により明らかな空間になってしまいましたが
妖怪はその舞台を天井裏や風呂から、夜の学校や夜中の小道に変えています。夜の学校ほど未知で曖昧な空間はないでしょう。
境目、に関してですが、これは空間的境目と時間的境目を指します。
例えば先程の天井裏は一つの境目といえますし、昔の怪談では峠や岸辺、村外れが舞台になり易いです。
時間的境目としてはこれは普段我々が何気なくやっている風習に現れております。
まず、節分。節分は本来季節の分かれ目を指す言葉で、立春、立夏、立秋、立冬の前日のことです。
季節の境目は悪いものが出入りしやすいと考えられ、特に立春を年の初めとし、鬼を追い払うために豆まきをするのです。
そして大晦日の大掃除。これも年の境目には悪いものが出入りしやすいと考えられているために行われるもので、
特に付喪神を避けるためのものです。
(余談ですが付喪神をよく九十九神と書くことがありますが、これは付喪に長い年月を表す九十九を当てたものです)




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最終更新:2008年06月23日 01:09