傾いた太陽が照らし出す車窓の内側で、七草にちかは憂鬱な表情をしていた。 少女の精神のキャパシティは、もうずっと超過の寸前でなんとか耐え凌いでいる状態にある。 言うなればそれは、グラスに並々注いだ水や紅茶が表面張力で決壊を堪えているように。 本当なら、今すぐにでも叫び出したい。床を転げ回って、幼子のように不満をぶちまけたい。 けれどそれをしたところでなんにもならないし、ただ恥をかいて無駄な精神的ダメージと将来寝床で思い出す黒歴史が一つ増えるだけだ。 はぁ、と溜息をついて窓越しに流れていく景色を見やる。 こうしているぶんには、にちかの知る東京と何も変わらない。 だけどそんな張りぼての日常の皮を一枚捲れば、血で血を洗う命の争奪戦が平気な顔をしてのさばっているのだ―― 『……ていうか。ふと思ったんですけど』 こうしてちょっと心の中で話しかけるだけでも、日常はすぐさま非日常へと形を変える。 今のにちかにとって、"心の声"は単なる内心の整理の意図に留まらない。 現にその声は彼女の裡に溶けて消えることなく――脳内に響く、にちか以外の誰にも聞こえない声という形で返答を得られた。 『どうした?』 『私に会いたいっていう誰かさん。 それがもしも[[プロデューサー]]さんだったなら、全部のお話に筋が通りません?』 『あー……うん。にちかにしたら残念かもしれないが、多分それはないな』 『……にべもないですね。そうまで言うんだったら理由を教えて下さいよ』 どういうわけか、七草にちかに会いたいと願い出ているらしい何者か。 その正体が[[プロデューサー]]なのではないかと疑うのには、きっとにちかの希望も含まれているのだろう。 しかしそれは彼女のサーヴァントであり、念話の相手である[[アシュレイ・ホライゾン]]にあっさりと否定されてしまった。 アッシュが今実体化していたなら、申し訳なそうに苦笑していただろうか。 『意味がない。わざわざWに仲立ちを頼んでおきながら、自分でも接触を試みるなんて矛盾してる』 『それは……そう、ですね』 『あくまで推測の段階の話だけど、Wと[[プロデューサー]]の間に繋がりのラインは恐らくない。 意図的に繋がっていないのか、単に巡り合わせが悪かっただけなのか、まではまだ分からないが』 『……はあ……。あ~あ、ちょっとでも優しい展開を妄想した私が馬鹿でした!』 『そう拗ねなくてもいい。自分で考えるってのは大事なことだからな。 何か気付いたこととか、思い付いたことがあったらこれからもどんどん俺に言ってほしい』 『……、……。まあ、気が向いたら。で』 [[ウィリアム・ジェームズ・モリアーティ]]――"W"の手腕は、数多くの策謀家を知るアッシュをして脱帽の一言に尽きるものだった。 一月の準備があったとはいえ、特に本戦が始まってからは目まぐるしく変わり続けているこの街の中でこうも的確に為すべきことを為せるものかと、末恐ろしいものすら感じてしまう。 だがその一方で、Wが完全に地盤を固め切れているかと言うとそんなことはないだろうとアッシュは踏んでいた。 まず大前提として、彼を擁するマスターは十中八九283プロダクションの関係者であろう。 あの男はアッシュに対し、自身の目的をこう語った。 ――マスターを"悪い子"にしないまま、元の世界へと帰すことであると。 悪い子。その言葉の定義は定かではないが、しかし推測することは出来る。 恐らくWのマスターは聖杯を獲得せねばならない"動機"を持たず、また自身の生存のために他者を踏みつけにする類の人物ではないこと。 そしてWは彼ないし彼女のそんな姿勢に同調し、守り導きたいと考えているだろうこと。 この時点でアッシュは、Wに対しある程度の範囲内ではあるものの安心して向き合うことが出来るのだった。 話を戻そう。 では何故、そんなWは283プロ周りという"地盤"を固め切れていないと断言出来るのか? 『マスターを不安にさせたくて言うわけじゃないことは、事前に前置きしておくが』 『……いや、流石にそれは分かりますって。子供じゃないんですから』 『一応な。その上で言うけど――現状の283プロは、火の点いた爆弾にも等しい状態だ。いつ弾け飛んでもおかしくはない』 息を呑む、にちか。 だがアッシュの言に嘘偽りはなかった。 白瀬咲耶の炎上騒ぎを引き起こした陣営、仮称『蜘蛛』。 Wにとって恐らく唯一の誤算は、自身と同じレベルかそれ以上の領域でチェスを打てる人間の存在だろう。 蜘蛛陣営の実権を握る何者かが、恐らくは事のついで。 もし当たりがあればそれで良し、程度の心持ちで投げた投網が――不運にもWの地雷を踏んだ。 彼が守るべき生存圏をごっそりと覆い隠す形で、蜘蛛の巣網がべっとりと被さってしまったのだ。 巧者故の、馬鹿げた精度に裏打ちされた博打打ち。 それが、美しく整備されつつあったチェス盤をぐちゃぐちゃにした。 『白瀬咲耶の騒ぎを引き起こした人物……俺は仮に"蜘蛛"と呼んでいるが、奴の仕掛けた一手がとにかくクリティカルだったんだ。 この騒ぎのせいで、Wは甚大なリソースを割いて283プロを物理的にも戦況的にも保護しに打って出なければならなくなってしまった』 『……ちょっと待ってください。じゃあ』 『ああ。多分、Wのマスターはにちかと同じ事務所に所属する関係者だ。アイドルだと断定はまだ出来ないけどな』 蜘蛛の巣は拡散する。 一度繋がれてしまえば、引き剥がすのは決して容易ではない。 糸に誘われて新たな獲物がかかり、それがまた巣を広げるに当たって一役買う。 何をどうやっても、あちらの陣営に敗北の目は薄いのだ。利確の態勢が整ってしまっている。 そして何より、蜘蛛は此処で優先して滅ぼすべき"当たり"を見定めてしまい。 Wもまた、自分の逆鱗の上で這い回る害虫を見咎めてしまった。 爆弾の導火線には火が灯り――今は、起爆の瞬間を待つばかり。 『とはいえ、まだ打てる手は残されてる。 今こうして[[プロデューサー]]のところに向かってるのも、その一つだな』 『――えっ。[[プロデューサー]]さんに会うと、それが皆さんの助けになるんですか?』 『だってマスターは、[[プロデューサー]]のことを信頼してるんだろ?』 その言葉に、ハッとしたような顔をするにちか。 そうだ。それこそが、肝なのだ。 こと283プロという事務所をまとめ上げる上で、件の"[[プロデューサー]]"以上の人材はまず存在しない。 Wですら、その点においては遅れを取るかもしれない。そうとまで、アッシュは考えていた。 『信頼、っていうか……。いや、まあ、そうなるのかも……ですけど。んん……』 『それに、何も能力に限った話じゃない。 今は一人でも多くの力がほしい状況なんだ――Wもきっとそう考えてる筈さ』 にちかとしても、その認識に異論はない。 だが正面から認めるのは、なんとなく癪で。 だからこそわざとらしく、こほん! こほーん!と咳払いをして話を反らした。 『……それより、ですよ? その――蜘蛛さん、でしたっけ。その人って何者なんですかね。 サーヴァントなのは間違いないとして、それ以外のコトがさっぱり伝わって来ないんですけど』 『社会的に巨大な後ろ盾を保有していて、その上で下手に動くことを良しとしない慎重派……ってところかな』 『へ? 慎重……? あの、話に聞いてる限りだとそんな印象ぜんぜんしないんですが』 『いいや、慎重だよ。率直なところを言うとな、やろうと思えばもっと単純な筈なんだ。 いちいち炎上騒動をでっち上げたりしなくたって、もっと致死的で確実な手を打つことだって出来る筈なんだよ』 それこそ、情報戦に限らない直接的な攻撃に訴えることだって出来る筈。 社会の裏側を掌握しているというのはつまり、それほどまでの戦術的アドバンテージを握っていることを意味するのだ。 283プロダクションという枠組み自体を潰して瓦解させ、その上で全員を潰しに掛かることだとて恐らくは可能。 にも関わらず、蜘蛛陣営はそうしていない。 デマゴーグの流布による嫌がらせじみた"削り"を繰り返すばかりだ。 そしてその理由も、アッシュにはおおよそ見当が付いている。 『なあ、マスター。この東京には一つ、分かりやすい巨大組織がある。何だか分かるか?』 『――それは、分かります。峰津院財閥……ですよね? ていうか私、蜘蛛さんはそこに潜んでるんだろうなーくらいに思ってたんですけど』 『半分正解だが、半分は不正解だな。 逆だよ。蜘蛛が峰津院財閥に潜んでいるんじゃなくて、蜘蛛は峰津院財閥から隠れてるんだ』 何故なら、とアッシュ。 『ちょっと調べただけでも、峰津院が驚くほどの権力を持っていることは分かった。 正直、異常と言ってもいいくらいだな。この現代日本の中で、あの財閥は明らかに浮いている。 持ってる資産の量も、行使出来る行動の幅も桁違いだ。 こと東京で戦争をするに当たって、奴らの存在を無視することは誰にも出来ない。戦いの手段に社会を用いるのであれば尚更だ』 下手に敵に回すのは避けたい。 いずれ激突することになるとしても、それは今すぐの話ではない。 踏んでいい逆鱗と踏んではならない逆鱗を、しっかり蜘蛛は判別した上で糸を伸ばしている。 勢力を、拡大させ続けている。 一体何処までの範囲が蜘蛛の息もとい糸がかかった状態であるのか、想像するだけでも気の遠くなる思いだった。 『なるほど……。言われてみれば確かに、[[神戸あさひ]]?が未だに逮捕されてないのも不自然ですもんね』 『そういうことだな。蜘蛛の影響力は、とりあえずまだ警察などの公共機関には及び切っていないと判断できる―― ……時にだ、マスター。その[[神戸あさひ]]とも、俺は出来れば何処かのタイミングで接触してみたいと考えてるんだが』 『……あー。確かに手、組めそうですもんね。立場的に』 『それもそうだけど、界奏の発動を目標に行動する上で一つでも多くの情報を確保しておきたいんだ。 ……まあ、俺がこう思うんだからWの奴も大方考えてることは同じだろう。 蜘蛛に踊らされた他の陣営に釘を刺すためにも、デマを使った炎上戦術が有効だという前例を作らせないためにも、俺より迅速で的確にあさひへの接触を行う可能性は高いと思う』 そうでなくても、アッシュが思うにWは"この手の理不尽"を見逃せない手合いだ。 悪の敵。誰もが見て見ぬ振りをする"当たり前"を、そうだと片付けられなかった男。 であれば[[神戸あさひ]]との接触に関しては、急ぐ必要はないだろう。 『はぁ……。なんだか、どっと疲れた気がします』 『一気に色々話してしまったからな。とはいえ、いつか伝えなければならないことだった。勘弁してくれ』 『分かってますよ。私だって、いつまでもおんぶに抱っこでいるつもりとか、ないですし……』 座席の背もたれに全体重を委ねて、はぁと息を吐く。 頭の中は、色んな情報や知識で洪水状態と化していた。 子供は勉強しすぎると知恵熱を出すなんて迷信があるが、きっと今の自分もそんな状態なのだろうなと思い、にちかは額に手を当てる。 じっとりとした汗が、色白な細指にまとわり付いた。 嘘のように冷たい汗。真夏だと言うのに、冬の雪解け水にでも触ったような冷感が肌を伝い落ちる。 そこで、ふと。本当にふと――にちかは呟いた。 「……いや、いくら何でも疲れ過ぎじゃ――」 その瞬間。 にちかは、気付いた。 いつの間にか車内に自分達しか居なくなっていること。 そして車両の外に広がる街並みの景色が、奇妙に間延びした残像のようなそれに変わっていること。 見渡す限りの真っ赤な、血色の空に白い雲の軌跡だけが線になって残っていること―― それら、数多の違和感が急に噴出して。にちかは、気づけば胃の中のものをすべてぶち撒けていた。 「ぉ……げ、ぇっ……!!」 気持ち悪い。 何が、とは言えない。 ただただ、気持ち悪いのだ。 まるで身体の芯に異物をぶち込まれて、骨の髄を直接揺さぶられているような。 自分を自分たらしめる大事な部分が一秒ごとに揺らいでいくような。 そんな気味の悪さににちかが嘔吐した時、既にアッシュは剣を抜き臨戦態勢を整えていた。 「……大丈夫か、マスター」 「っ、はぁ、はぁ……。だ、大丈夫……じゃ、ないです。見れば分かるでしょ……」 「すまない。これに関しては完全に俺の落ち度だ――今の今まで、全く感知出来なかった」 サーヴァントとしては不覚も甚だしい話だったが、事実アッシュはにちかが異変に気付くまで"それ"に全く気が付かなかった。 いつの間にか、世界の位相が変わっていたこと。 止まった世界、赤く染まった夕焼けの世界。 逢魔ヶ時――或いは誰かの腹の中に。 自分達が、一体いつから放り込まれていたのか……呑み込まれていたのか。 背筋に冷たいものを感じながらも、アッシュは剣を構えて虚空を睨む。 すると、どうだ。今の今まで確かに何も存在していなかったはずの空間が、どろりと滲む。 インクに水を垂らしたように、空間そのものが朧にぼやけて――そこから、何かが零れた。 「――――ンン」 それを一目見た時に抱いた印象は、にちかとアッシュでそれぞれ異なった。 にちかは、蝿だとか蜚蠊だとか、そうした不快害虫が群れ成して人の形を作っているのだと思った。 そしてアッシュは、人間の体内から生きながらに引きずり出された臓腑を練って人間台に成形したように感じた。 共通しているのは、これはヒトではない。そして――まともではない、ということ。 「好い夕暮れですな、お二方」 ◆◆ "それ"の言葉を、にちかは耳穴から百足が侵入してくるように錯覚した。 おぞましい。そして、何より――恐ろしい。 見ているだけで正気を保てなくなるような、自分の常識が、日常がブレていくような。 そんな存在の登場を前にしては、まともな言葉など紡ぎ出せる筈もなかった。 唇が青ざめ、歯はぶつかり合って音を鳴らす。 肉食獣を前にした小動物のように震えるにちかをしかし、落ち着かせてくれる味方が此処にはいる。 「見るな。苦しかったら、言葉も聞かなくていい」 この先には進ませないと、確たる意志でにちかに背を向けて立つアッシュ。 そんな彼の姿を、現れた獣(ケダモノ)は検分するように眺めて。 かと思えば、似合わないほど慇懃に……片膝を突いてみせる。 「不躾な訪問、お詫び申し上げましょう。 拙僧はアルターエゴのサーヴァント。されど名は、どうぞ"リンボ"と。そうお呼び下され」 「……辺獄(リンボ)、か。ずいぶんと物騒な名前を名乗るんだな。そういう奴の相手をするのは、まあ慣れてるが」 それで、とアッシュは話を進める。 生憎と、相手の体内にも等しい空間で長々世間話に興じるつもりはなかった。 アッシュとしては一向に構わないし、むしろ望むところであったが――此処に居るのは自身だけではないのだ。 にちかの精神を必要以上に擦り減らせる事態を避けるためにも、話は率直であるに越したことはない。 「まずは何を考えて、俺達を此処へ取り込んだのか……それを聞かせて欲しい。 協力し合える余地があるのなら歩み寄るのも吝かではないし、交渉にも出来る限りは応じるつもりだ」 「……えっ」 にちかが驚きの声を漏らしたのも無理はないだろう。 それほどまでに、今アッシュが口にした言葉は常軌を逸したものだった。 協力? 交渉? この、お世辞にもまともな対話が期待できるとは思えない男を相手に……今協力と言ったのか。 驚き慌てるにちかを宥めている余裕は、残念ながらない。 アッシュとしても、このリンボは危険極まりない相手なのだ。 一瞬たりとも意識は反らしたくない――そんな愚を犯せば、きっと致命的な事になると。 アッシュの英霊としての……否、それ以前の本能がそう告げていた。 そして、そんなアッシュの言葉を受けたリンボは――くつくつと笑って。 「よもや、このような無礼者に交渉の余地なぞ与えてくれるとは。 あまりの慈悲深さに……ンン。さしもの拙僧もちと驚いてしまいました」 「……それはどうも。で、どうなんだ?」 「多くは望みませぬ。聖杯の恩寵さえ、この身、この霊基が真に望む未来とは異なる」 「……、……」 この段階で、アッシュは既に彼との話し合いの結末に予想が付いた。 陶然とした様子で語り始めたリンボの、その巨躯が背負う凶気がぶわりと膨れ上がる様を幻視したからだ。 剥き出しの悪意。剥き出しの欲望。 こんなものを詳らかに明かしてくる手合いが愉しげに語る未来など、十中八九―― 「このリンボめが望み、絵筆を用いて描き上げるは"地獄"。 万物、万象、万人……誰もが具材の一個となって慄き惑う無道の曼荼羅。 それこそ我が悲願。そして我が憧憬! その名を――」 「いや、もういい」 そら見ろ。&ruby(・・・・・・・・・){ろくなものではない}。 アッシュは対話を自ら打ち切る。 そして、戦闘の態勢を完了させた。 「一応言っておくと、さっきの言葉には誓って嘘はないよ。 仮に敵対するしかない立場だったとしても、わずかでも手を取り合える余地があればと思っていた」 [[アシュレイ・ホライゾン]]は受容の人であり、融和の人だ。 界聖杯、いやさ英霊の座の全体を引っくるめても間違いなく屈指であろうネゴシエーター。 進む以外の選択肢を持たない怪物とさえ手を取り合ったその手腕は嘘ではないが、しかし。 そんな彼をしても、どうしても手を取り合えない存在というものはいる。 このリンボという怪僧は、間違いなくその一例だった。 「けどな、おまえの目的は俺にとって何をどうしても認められるものじゃない。 おまえの未来は、俺が……マスターと共に目指すそれとは致命的にかけ離れたものだ。 引き止めて悪かったな。悪いけど、さっさとお引き取り願いたい」 「――は。弱い鼠を愛でるのがお好きなようで」 極彩色の花が咲く。 リンボを中心に咲き乱れる、呪いの曼荼羅。 交渉は決裂。であれば最早、行き着く先など一つを除いてあり得ない。 即ち――殺し殺され。聖杯戦争として、あるべき形にたどり着くだけだ。 「人形が欲しいと考えていたのです。 急いでいるのは此方も同じですので……なるべくなら速やかに、無垢で無知なる骸と化していただきたく」 「お断りだ」 静寂が、一瞬あって。そして―― ◆◆ 「さて、それでは――お手並み拝見と行きましょうか」 宙に舞い踊るは、アルターエゴ・リンボの呪符。 一枚一枚に並の人間が一生を懸けて練り込む次元の呪力が込められたそれの脅威度は、最早ある種の戦術兵器にも等しい。 それが蝶のように、或いは常夜灯に群がる毒々しい蛾のように舞い広がっていく。 アッシュはにちかを下がらせつつ、自らの握る発動体に自身の星光を宿らせる。 辺獄の呪いが支配するこの空間の中にあって、アッシュとにちかにとって唯一手放しで信じることの出来る輝きだった。 「(……不甲斐ない話だが、俺とは魔力の桁が違うな。まともにやり合ったりしようものなら、百パーセントこっちが押し潰される)」 [[アシュレイ・ホライゾン]]という男は、決して強力な部類のサーヴァントではない。 その体内、霊基の内側に棲まうモノの容量(サイズ)をさえ除けば、彼はどう甘く見積もっても並かそれ以下だ。 そんな彼が単身で向かい合うには、このリンボという怪僧は明らかに不釣り合いな相手であった。 何しろ――今しがた、小手調べと称して撒かれた呪符の群れ。 この時点で既に、発散されている魔力の総量はアッシュがその星を全力で駆動させた際のそれに迫っている。 情けない言い草なのは承知だったが、交渉で片を付けられたならどれほど良かったかと思わずにはいられない。 しかし、貧乏くじを引くことには慣れているのが[[アシュレイ・ホライゾン]]という英霊だ。 剣を構え、星を廻し……背後で固唾を呑む少女の位置をしっかりと確認した上で、リンボにより行われる呪力の砲火に相対する。 「そぉれ、そぉれ」 呪い。 呪詛。 それ即ち、常世……ヒトが産まれ生き暮らしそして死んでいく都の中に生まれ出る全ての"負"を意味する。 疫病、殺生、格差、嫉妬、赫怒、情欲、悪意、虚言、詭弁、恐怖、憎悪、禁忌、背信、人身御供。 信仰、妄想、虚無、虚脱、忘却、裁き、盲目、転嫁、皮肉、差別、偏見、傀儡、征服、尊き者への背信。 ありとあらゆる悪が、ありとあらゆる罪が、ヒトの原罪から枝分かれした全ての心(シン)が、渦を巻く。 それこそがリンボの武器であり、手繰り寄せてはその指先で奏で給う楽器の旋律に他ならない。 一切呪殺。宿業ならぬ宿痾で以って、境界線を穢す悦びに耽溺するはアルターエゴ・リンボ。 アッシュは臆せずして、悪念の波の中へと足を踏み入れる。 だがにちかを狙い撃ちされる事態だけは避けねばならない。 そのことだけは常に意識しつつ位置取りを決めて、刃を振るう。 白い光を灯す銀刃が、直視するだけでも精神を病むような負の想念の塊に触れれば―― 「ほう」 リンボが、驚いた。 アッシュの剣が触れた箇所の呪力が、宛ら消しゴムでも掛けたかのように消滅したからだ。 いや。消滅、という表現は少し違うか。 消し去ったのではなく、これは…… 「術式の吸収。なかなかに面妖な、それでいて健気なものをお持ちのようで」 「素直に褒め言葉として受け取っておくよ。お前の言葉は、額面通りに受け取ってると精神衛生上良くなさそうだ」 「ンンンそれこそ褒め言葉! 真に一流の術師ならば、言霊にすら詛呪を宿らせるもの――」 術式、そして魔力の吸収能力。 リンボが放った呪詛のエネルギーを、あろうことか彼は吸い上げることで削ってのけたのだと理解する。 その証拠にアッシュの刀身、先程までは清らかな白色に輝いていた筈のそれは禍々しい色彩に染まりつつあった。 手品としてはなかなかのものだろう。だがしかし、所詮手品は手品。 リンボはまるで子供の児戯を見守るように迫るアッシュの姿を眺め、電車の床面からどろりと濁った呪詛の噴水を吹き上がらせた。 それをアッシュは、発動体を高跳び棒代わりにすることで回避しながら一気にリンボへの距離を詰めてくる。 ――その顔に、苦悶の表情を貼り付けながら。 そんな彼の様子を見て、リンボは得たりとばかりに嗤った。 「やはり、健気。そして乞食のように見窄らしい力でありますなァ」 [[アシュレイ・ホライゾン]]の星辰光、『白翼よ縛鎖断ち切れ・騎乗之型(Mk-Ride Perseus)』。 他者の異能を制御し、場合に応じては奪取することをも可能とする宝具(ちから)と書けば聞こえはいい。 しかしその実、ペルセウスの星は存外にシビアで等身大だ。 吸収の許容量には限度が存在し、それを超過した分は当たり前のようにアッシュの肉体を蝕む形で精算される。 故にリンボのような、単純に振るってくる魔力の桁が常軌を逸している相手は実のところ分が悪い。 アッシュの手足に、這うような傷や火傷が走っているのがその動かぬ証拠だった。 それに―― 「命知らずとはまさにこのこと。事もあろうに、術師を相手に"力の吸奪"などという手を講じるとは」 もう一つ、別な理由でこの星はリンボとの相性が最悪である。 悪念、凶念を根源とするエネルギーである呪詛――呪力。 それを吸い上げて、一時的とはいえ自らの霊基の内側に取り込むなど、放射性物質を直食いするにも等しい愚行だ。 視界がブレる。脳が揺れる。体内の内臓が全てヘドロの塊に置き換わったような不快感に嘔吐さえしそうになる。 そんなアッシュに、リンボは肉食獣そのものとでも称するべき勢いで踏み込んだ。 喜悦と嘲弄。アルターエゴ・リンボを象徴する二種の感情に美顔を歪めて、飛んで火に入る夏の虫を磨り潰すべく右腕を突き出す。 「ふ、ははははははははははは――――消えいッ!」 首を刎ねる? 否々、生きながらに霊核を抉り出してくれよう。 そして南米文明の儀式宛らに、無力な偶像の口へねじ込んで吐瀉物で窒息死するまで咀嚼を強要してやろう。 その見世物を命尽き果てるその瞬間まで、心臓なき身体で眺めさせ無力と絶望と呪いに淀んだ視線と絶叫を浴びて恍惚を、 「――――お前がな」 ……リンボが覚えることは、ない。 迫るアッシュ、無力なるホライゾン。 その手に握られた、黒濁した刀身が――リンボの眼前で猛る炎の一刀へと姿を変えた。 刹那、リンボに一切の反応を許すことなく刀身から生じた大瀑布が彼を呑み込んだ。 ――星辰光の入れ替え(スイッチ)。 [[アシュレイ・ホライゾン]]という極めて特殊な"事情"を抱えた星辰奏者だからこそ可能となる芸当。 リンボとの格の差は、言われるまでもなくアッシュ本人が一番よく理解している。 だからこそ油断を誘い、起死回生の一手に全てを懸けて打って出た。 窮鼠猫を噛むとはまさにこのこと。 しかし問題は、今この鼠が相手としている猫は単なる野良猫に非ず。 とびきりの悪意を餌に育まれ、獣の身に余る嘲笑を浮かべる妖猫(リディクールキャット)であったこと。 「――ンン」 炎の波が、裂ける。 モーゼの逸話になぞらえて語ったならば天罰が下るだろうか。 かの聖者を例えに持ち出すには、その佇まいはあまりに醜穢過ぎたから。 僧衣を多少焦がされながらも、肉体そのものには何の火傷も及んでいない。 それを見るなりアッシュは再び、一歩前へと歩み出る。 いや、歩み出る――などという次元ではない。 星辰光に物を言わせて、絶大なまでの加速を得たのだ。 一撃で殺せなかったのは痛恨だが、しかし予想通り。 一の矢で仕損じたのなら二の矢を、次なる初見殺しを持ち出して討ち取るまでだとアッシュは即断即決した。 「そう無理をするものではない。 非才の凡愚にも、それらしい生き方というのはあるのですから」 煌赫墜翔、発動(ニュークリアスラスター、ブースト)―― 自身の内界から引き出した炎を推進機に変えて行う、速度の概念を超絶した文字通り爆速での刺突。 アッシュの刃は、構えすら取らないリンボの心臓にあっさりと吸い込まれた。 撒き散らされる鮮血と、骨の欠片。皮膚と肉の焦げ、血液が蒸発していく悪臭が立ち込める。 どう考えても致命傷。英霊であろうと死は免れない手傷であるというのに、それでもリンボは嗤うばかりで。 「……っ。せめてちょっとくらい痛がってくれると、有り難かったんだけどな」 「痛がれ? ンンンンそれは無理なご相談で。 見てくればかり大層で、炎を名乗るには熱も密度も何もかも足りぬような有様では、とてもとても。 線香を押し当てて自慢げに嘯くのがご趣味なのでしたら、ご期待に添えず申し訳ありませぬと不徳を侘びも致しますがァ――」 ずるり、とリンボの身体が刃から抜ける。 刃が、抜けるのではない。 身体が、抜けるのだ。 ホラー映画のワンシーンとしか思えないような光景を当たり前のように具現させながら。 抜け出たリンボの胸板には、炭化して真黒に染まった風穴が空いていた。 その孔から、何かが蠢き出でる。それが無数の蛆虫と、蜚蠊と、毒蛾と、百足の群れであるとアッシュがそう視認した時には時既に遅い。 呪わしき毒虫が、百鬼夜行と化してアッシュを喰らい尽くさんと襲い掛かったのである。 それをアッシュは炎の帯を形成することで焼き払いつつ遮り、致命を凌いだものの―― 「どうにも貴方のそれは涙ぐましい。 英雄の器に非ず、名君の器にも非ず。 受け止める器はないというのに、運命に巡り会うことだけは上手い様子。 さしもの拙僧も、ひとつ抱いてしまいますな。憐憫――というモノを」 「……ああ、いかにもその通りだよ。正鵠を射られすぎて返す言葉も見当たらない」 次の瞬間には、彼の首筋はリンボの鋭腕によって掴み取られていた。 そのまま宙に浮かされる。宛ら大人と子供、そして現に両者の間にはそう言っても過言でないほどの力の差が横たわっている。 神霊三騎を束ねたハイ・サーヴァントであり、本人も突出した術師であるリンボと。 並の星辰奏者よりは"多少"やるというだけで、出力でも秘めたる魔力量でも彼に遠く及べないアッシュ。 戦いなど成立する筈もない。 限界を二つ三つと飛び越えでもしない限り、この戦闘の結果は至極当たり前の虐殺が繰り広げられる以外になかった。 「だけどな。そんな砂粒も、伊達や酔狂で此処まで生き延びてきたわけじゃない。 死に物狂いの悪足掻きくらいはさせて貰うぞ――アルターエゴ・リンボ」 ――だが、そんなことはアッシュとて端から承知している。 彼が目指したのは正面突破の討伐ではない。 この場における"勝利"とは、それ即ち七草にちかを連れてこの隔絶された空間から生き延びること。 だからこそ彼は、リンボに対し無駄な抵抗と涙ぐましい奮戦を続ける傍らでずっとある作業を続けていた。 白騎翔(ペルセウス)の星を使っての、空間解析。 呪いの帳が降りたこの車両内を脱出するための糸口を探ることにこそ、アッシュは全力を注いでいたのだ。 リンボに対して振るってみせた全力など、その本命を隠すための三文芝居に過ぎない。 そして今。アルターエゴ・リンボが構築した帳、結界術式の中に存在する外の世界との繋ぎ目をアッシュはとうとう見出した。 自分自身を巻き込み燃やすことすら厭わない、紅焔の放出。 収束性に特化させた焔は、車両の床を焼き融かして結界の陥穽を瞬く間に貫いた。 正しい解析と、ある程度の収束性。この二つさえ満たせるならば、アッシュのような並の英霊でも結界術の突破は可能だ。 結界が崩れる――世界がブレる。 アッシュは逆手に振るった刀でリンボの左腕を斬り飛ばして拘束を脱すると、結界の力とそこに宿る呪力を吸い上げて黒く染まったペルセウスの星を充填させた銀刀を突き出し、今度こそこの厭らしい陰陽師の確殺を狙った。 「大方、本体ではないんだろうが……何にせよ、とにかく此処からは消えて貰うぞ。おまえの言葉と放つ悪意は、ちょっと教育に悪すぎる」 リンボの領域を出る算段さえ立ったならば、後は術者を排除するだけだ。 先ほど放った煌赫墜翔とは違い、これは他でもないリンボ自身の力を起爆剤にした一撃である。 無傷で済む筈もない。式神ならそれでも構わない、追手が来る前にこの近辺を離れるまでのこと。 「交渉の続きをしたくなったらまた出直して来てくれ。その時は、俺もまた誠心誠意対応させて貰うよ」 「ンン――」 壊れゆく、異界。 焼き消える、呪い。 そんな世界の中、胸元に再びアッシュの刃を迎え入れるリンボの口から声が漏れた。 されどそれは、観念して敗北を認めた声でも、この期に及んで己のような悪性存在に交渉の余地を残すお人好しぶりに呆れた嘆息でもない。 「愚かしき砂粒ひとつ、捕らえたり」 ――そう、あり得ない。 アルターエゴ・リンボが、悪意と嘲笑の権化であるこの男が! 潔く敗北を認めて去ることなど、そして他者の善性に絆されることなど、ある筈もない! アッシュの剣が突き刺さった、その地点がぐにゃりと歪む。 孔が空く――ぽっかりと口を開けたそれは、類稀なる術才を持つリンボが瞬間的に構築した極小の異空間に他ならない。 されども、自身の霊核を巻き込んで異空間の発生を試みた以上は彼もこれ以上の式神の維持は不可能だ。 [[アシュレイ・ホライゾン]]の目論見は、ある意味では果たされた。 だがその一方で……アルターエゴ・リンボもまた、自身の目標を果たさんと命を燃やす。 「ッ」 リンボの五指が、アッシュの頭を掴む。 瞬間そこに浮かび上がるのは、血に濡れた五芒星であった。 「が……ッ!? ぁ、ガッ、ぐ――!!」 「そうれ、そうれ。輝き喰らえ我が五芒星」 にちかの悲鳴に、言葉を返す余裕すら今の彼にはない。 全てを食い尽くすように侵食する、リンボの呪詛。 これなるは読んで字の如く、輝き喰らう五芒星。 英霊の霊基を変質させ、殺戮の限りを尽くす躯へと変貌させる大呪術。 かの海賊達や鋼翼の戦闘狂のように、そもそもの地金からして常軌を逸した次元にある規格外達ならいざ知らず。 自他共に認める凡俗である[[アシュレイ・ホライゾン]]に、それに抵抗する手段などあるわけもなかった。 「下総のアレを繰り返すには些か役者が足りぬ。 御身は狂ったように生き恥を晒しながら、己の蒔いた善意を恥で上塗りしていくが宜しいかと――――」 英霊剣豪とまでは行かずとも。 慄く以外に能のない偶像ともども傀儡にし、弄んでやるのは面白い。 実用性は皆無に等しいが、本命の計を進める傍らでの癒やし程度にはなるだろう。 そう考えながら術の行使を終えようとしていたリンボだったが、次の瞬間、その目が驚愕に見開かれる。 「――――ッ、何!?」 此処に来て生じる、起こる筈もない不測の事態。 有無を言わさず、リンボの意識が現実という座標から引き離される――引きずり込まれる。 向かう先は彼が凡愚と嘲った男、[[アシュレイ・ホライゾン]]の霊基の内側。 彼は未だ、アッシュの内に何が眠っているのかを知らない。 ◆◆ 「人は見かけによらぬもの、とは……よく言ったものですな」 これは何だ、とリンボは思った。 どうやら自分は、あの砂粒めの精神の内側に吸い込まれたのだと察しは付いたが、解せないのはその広大さだ。 明らかにこれは一介の凡愚の精神世界の広さではない。 見果てぬ大地が、大地の形をした炎が続く赤の世界。 あの凪いだ地平線のような青年の姿からは想像もつかないような"異界"が、今リンボの前には広がっている。 「頭ばかり回るつまらぬ凡俗だとばかり思っていたが、どうやら撤回が必要なようだ。 認めて差し上げましょう、愚かなる砂粒よ。力の有無は兎も角、秘めたる可能性の多寡においては見誤ったのは拙僧の側であったらしい」 性質としては恐らく、あのあり得ざる人類史――"異聞帯"に近いか。 地上の何処にも存在せず、そして精神の内側にさえあるべきでない炎熱の領域。 常人であれば踏み込んだだけで精神が焼き消え、英霊でさえ適応するのは困難だろう死の世界。 この形容をするのはリンボとしては些か業腹であったが、認めざるを得なかった。 「まさしくこれは、一つの"地獄"」 炎が埋め尽くし、全てを焼き尽くしながら存続するという根底から矛盾した煌きの地獄。 解せないのは、この壮絶なまでの精神世界と[[アシュレイ・ホライゾン]]という英霊の印象が何一つ結び付かないことであった。 形は違えど、地獄という意味ではリンボの目指す場所は同じ。 だからこそ興味が湧く。知的好奇心が抑えられない。 あの凪いだ水平線のような青年の全てを凌辱し、暴き立てて喰らいたい衝動を最早リンボは堪えられそうになかった。 全てを暴き、全てを喰らおう。 この炎は、この地獄は――儂の腹に収まってこそ真に輝くものであるとそう確信していたから。 「ンンンン――では、早速始めるとしましょう。 精神世界に引きずり込まれるという事態は少々予想外でしたが……内にこれほどのモノが眠っていると分かった以上はそれも怪我の功名。 凡愚の霊基を支配し、このリンボめが彼奴の秘めたる地獄を簒奪してくれる!!」 魔力が鳴動する。 術式が、行使される。 輝く地獄の内界にて花開く、アルターエゴ・リンボという名の呪い。 暗く、昏く、儚く、冥く、光と熱を染め上げ蝕むは大呪術。 この地獄を呑み込み支配して糧にしてやるのだと、悪僧は高らかにそう宣言した。 これほどの力を己が物に出来たならば、地獄界曼荼羅の構想にも相当な変更を加えられるだろう。 より直接的に、そしてより破滅的に。 全てを超越し、そして燃やし尽くす未曾有の大地獄を具現させることが必ずや叶うに違いない。 「光の時、これまで。 これなるは拙僧が奏で給う、闇の逢魔ヶ刻なれば――!!」 浮かび上がる五芒星。 其処から溢れ出す闇が、呪いが、捕食器官として地獄を啄む。 吸い上げ奪うことは何もアッシュのみの専売特許ではない。 むしろそれは、美しき肉食獣と呼称されるこの男にこそ相応しい貪食。 以上をもって戦いは決着した。 未知の地平線を目指して歩む灰色の青年は、文字通りその全てを喰らい尽くされて消え果てる。 その結末を確信しながら、リンボはいざや世界の簒奪を開始し―― 「――――――――――ぬ?」 異変に気付いたその瞬間に、頭頂部から股下までを唐竹割りに斬り裂かれていた。 抵抗の余地などない。それどころか、逃げの一手を選ぶ暇すらなかった。 刹那にしての斬殺。呆けた面のまま一刀両断されたリンボの足元で、五芒星が蒸発して闇が悲鳴をあげながら消えていく。 何が起きた――いや、そもそも今儂は何をされた? 疑問符を浮かべながらも、現界を保つこと叶わず消滅していくリンボ。 その視界が、今際の際に一つの影を見出した。 あらゆる闇を焼き尽くし、跳ね除け、斬殺する光の地獄。 そこにただ一人佇む、網膜を焼くような黄金の男が一人。 彼の姿を認識した途端、リンボが覚えたのは魂を焼き焦がされる強烈な激痛と…… 「おぉ……」 それをすら忘れてしまうほどの、感嘆であった。 よもや。 よもや、こんなものが。 こんなものが、この世界には存在していたのか。 何故誰も気付かなかった。いや、誰も気付けなかった? もっと早くこれの存在を知れていたならばと、未練を抱くのを止められない。 凄まじいなどという言葉では到底足りない、惑星の爆発にも似た圧倒的な存在感と熱で独り立つ"煌翼(それ)"に――リンボは未練と、清々しくさえある諦めを抱きながら蒸発する。 「実に……惜しい。その力、儂ならば必ずや――」 「黙れ」 その声は、彼の耳に届いただろうか。 リンボの未練も、貪るような悪意も、その全てを両断するような鋭い声。 「この程度――――影にもならん」 燃える、燃える、燃える、燃える―― 世界の全てが再び炎に包まれ、そして……。 ◆◆ 「……ふぅ」 現実世界にて、十数分後。 されど"彼"の体感時間では数時間、数日……もしくはそれ以上の後に。 [[アシュレイ・ホライゾン]]はようやく、蚊帳の外に置かれていたマスター・七草にちかの前へと真の意味で帰還を果たした。 その顔色はお世辞にも良いとは言い難い。 色は青ざめ、脂汗が滲み、消耗と疲弊の色がありありと顕れている。 「悪い。待たせたな、マスター」 「ま、ままままま……待たせたなじゃないですよ! ようやくあのキモいやつが消えてくれてホッとしたのに、ライダーさんってばずっと黙りこくって立ち尽くしてるんですもん……!」 「ちょっと……色々あってな。でも、これで本当にもう大丈夫だ」 彼が戦ったのは、リンボだけではない。 リンボを前に不覚を取った尻拭いは、彼ではなくその内側に潜む"モノ"がやってくれた。 結果だけを見れば難を逃れた形だが、しかしアッシュの失態を何処までも生真面目で甘えのないかの煌めく翼は見逃さなかった。 リンボとの交戦の疲れも冷めやらぬ中、アッシュが降り立ったのはリンボが踏み入りそして即座に排除された眩しい地獄の精神世界。 そこで、彼は第二の戦いに挑まねばならなかった。 戦いの土俵は"戦闘"ではなく"対話"。 しかしそれに臨むに当たって背負わねばならない危険性は、あのアルターエゴ・リンボを前にした時のそれよりも格段に高い。 事実、仮にアッシュ以外がその戦いに挑んだのならば恐らく生き延びられる人間はこの世界に存在すまい。 それほどまでの戦いを、今の十数分で彼は繰り広げてきたのだ。 負ければ即座に精神死へと至る逃げ場のない"対話"を乗り越え――[[アシュレイ・ホライゾン]]は七草にちかの許へと帰ってきた。 「"あいつ"にも謝ったけど……マスターにも言っておかないとな。 すまない、不甲斐ないところを見せた」 「そんなこと思ってないですよ……それよりっ、早くこの辺を離れた方がいいんじゃないですか?」 「――そうだな。向かう先は変わらないけど、急いだ方が良さそうだ。背負っても大丈夫か?」 「……はい。な、なるべく急ぎでお願いしますねっ!」 先ほど倒したアルターエゴ・リンボは、十中八九偵察用の触覚に過ぎないだろう。 単なる分身でさえあれほど強かったのだ。 本体が駆け付けてくるような事態になれば、まず間違いなくアッシュ単体では対応し切れない。 だからこそ、にちかの言う通りなるべく歩みを速めて進む必要があった。 にちかの身体を背負って地を蹴ると同時に、アッシュは思い返す――辺獄を名乗る、あの悪意に満ちた僧侶の姿を。 「(惨いな。怖いとか、腹が立つとかじゃなくて……ただただ、憐れな奴だった)」 アッシュは、アレに酷似した存在を知っていた。 否、存在というよりは……概念と呼んだ方が近いだろうか。 生前の衝動や未練を拡大解釈され、趣味の悪い風刺画のように悪辣なあり方を強いられ続ける骸の人形。 魔星。人造惑星(プラネテス)。そう呼ばれた者達のそれにひどく近いものを、アッシュはリンボの嘲弄を通じて感じ取っていた。 「そうまで成って、何を目指すんだ」 彼が己の手を取ることは、恐らくないだろう。 そう確信しているからこそ、アッシュは彼を憐れむ。 何一つ愛すことの出来ない、飢えた獣。 悪にすらなり切れない、一個の呪い。 可哀想な奴だったと、[[アシュレイ・ホライゾン]]はアルターエゴ・リンボとの邂逅をそう締め括るのであった。 【品川区・[[プロデューサー]]自宅から一駅くらい離れた路線脇/一日目・夕方】 【[[七草にちか(騎)]]@アイドルマスターシャイニーカラーズ】 [状態]:健康、精神的負担(大) [令呪]:残り三画 [装備]: [道具]: [所持金]:高校生程度 [思考・状況] 基本方針:283プロに帰ってアイドルの夢の続きを追う。 0:[[プロデューサー]]と話をする。何してんのあの人? 1:殺したり戦ったりは、したくないなぁ…… 2:ライダーの案は良いと思う。 3:梨花ちゃん達と組めたのはいいけど、やることはまだまだいっぱいだ……。 4:私に会いたい人って誰だろ……? 5:次の延長の電話はライダーさんがしてくださいね!!!!恥ずかしいので!!!!! 6:……疲れた……。 [備考] 聖杯戦争におけるロールは七草はづきの妹であり、彼女とは同居している設定となります。 【ライダー([[アシュレイ・ホライゾン]])@シルヴァリオトリニティ】 [状態]:全身に中度の火傷(回復中) [装備]:アダマンタイト製の刀@シルヴァリオトリニティ [道具]: [所持金]: [思考・状況] 基本方針:にちかを元の居場所に戻す。 1:界奏による界聖杯改変に必要な情報(場所及びそれを可能とする能力の情報)を得る。 2:情報収集のため他主従とは積極的に接触したい。が、危険と隣り合わせのため慎重に行動する。 3:セイバー([[宮本武蔵]])達とは一旦別行動。夜間の内を目処に合流したい。 4:アサシン([[ウィリアム・ジェームズ・モリアーティ]])と接触。定期的に情報交換をしつつ協力したい。 [備考] 宝具『天地宇宙の航海記、描かれるは灰と光の境界線(Calling Sphere Bringer)』は、にちかがマスターの場合令呪三画を使用することでようやく短時間の行使が可能と推測しています。 アルターエゴ([[蘆屋道満]])の式神と接触、その存在を知りました。 ※アルターエゴ([[蘆屋道満]])は消滅しました。本体へのリンク等も一緒に消し飛ばされていますが、本体がどの程度情報を拾えているかは後続の書き手にお任せします。 **時系列順 Back:[[凶月鬼譚]] Next:[[むすんで、つないで]] **投下順 Back:[[凶月鬼譚]] Next:[[むすんで、つないで]] |CENTER:←Back|CENTER:Character name|CENTER:Next→| |058:[[霽れを待つ]]|CENTER:七草にちか|074:[[動点Pおよび境界線H上の接点Nとの距離を求めよ]]| |~|CENTER:ライダー([[アシュレイ・ホライゾン]])|~| |063:[[まがつぼしフラグメンツ]]|CENTER:アルターエゴ(蘆屋道満)|073:[[絶望と、踊れ]]|