[[←>そんなヒーローになるための歌(前編)]] 心の中の、秘密の瓶。 砂糖菓子をふたつ入れた、彼女が信じる永遠そのもの。 それに触れた絶望の手、その幻影が弾かれて逆に崩れる。 その光景を幻視しながら、しおは自分に言い聞かせるように頷く。 ――とむらくんは強いね。 [[神戸しお]]は、ずっとそのことを知っていた。 何故なら誰より近くで見てきたからだ。 どんな強大な敵にでも笑いながら向かっていく彼の背中を。 世界そのものをさえ壊しながら、自分の理想へ邁進していく魔王の強さを。 簡単に勝てるなんて思っていたつもりはないが、それでもまだ足りなかったということらしい。 緊張で乾き切った喉を唾液で潤しながら、しおは改めて彼の姿を見た。 純白の滅び。身体中血と傷にまみれているのに、不敵に笑い続けるその姿が見た目よりもずっと大きく見える。 それを、しおは"怖い"と思った。 それはいつぶりの感覚だったろう。 さとうを失ったあの日から、一度だって抱いたことのない気持ちだったのは間違いない。 無敵の愛で世界を荒らす天使を、ただの子どもへ戻してしまう恐怖が目の前に立っている。 怖い。この気持ちは、きっと嘘じゃ誤魔化せない。 なのに―― 「がんばって。私も、がんばるから」 この口が、自然と笑顔を浮かべているのは何故だろう。 こんなにも恐ろしいのに。 生き物としても、願いを追う者としても、[[死柄木弔]]という魔王をこんなに恐れているのに。 不思議と心が揺れている。恐怖とは違う震えで、瓶がからから音を立てているのが分かる。 伸ばしたちいさな手で、スターターを引いた。 今まさに尽きた命が、再起動される。 胸の真ん中に空いた穴は塞がっていない。 バケツをひっくり返したような血を河のように垂れ流しながら、それでも悪魔は立ち上がった。 少女の意のままに。揺れ、震えるその気持ちに応えるように。 「とむらくんはさ」 しおは、この情動に与えるべき名を知らなかった。 理解できなかった、という方が正しいだろうか。 神戸しおは運命を背負うにはあまりに幼くて、敵を名乗るにも未熟すぎたから。 だから定義する代わりに、彼女はとある記憶を思い出していた。 それは死柄木弔と出会う更に前、安くて狭いマンションの一室で過ごしたひと月のこと。 テレビの前に座って、コントローラーを握って、隣の彼と勝負をする。 大人気なんてあるわけもない彼だから、最初のうちはまったく勝てない。 そのうち自分もムキになって、熱中しているうちにだんだん勝てるようになってきて。 そうやって遊んでいる時の気分が、強いて言うなら近いのかもしれないとそう思っていた。 そして今、言葉を重ね、物語を重ねてしおはその"初めての気持ち"に名前をつける。 「今まで、たのしかった?」 「あ?」 「連合のみんながいて……えむさんがいて、らいだーくんがいて、私がいて。 海賊さんたちとたたかって、なにもかもめちゃくちゃにしてきたよね」 何かを愛すること。 それは、すべてを失くした少女が得たたったひとつの尊いもの。 神戸しおという少女は、間違いなくただそれだけを追い求める存在だった。 [[松坂さとう]]から継承した狂おしいまでの愛情、それだけを糧に歩む翼のない天使。 彼女にとって、世界とはすべてがうわべだけのハリボテで。 価値のあるものは、もうどこにもいないさとうと、さとうと過ごしたあのお城だけ。 そうだったし、それでいいと思っていた。 それが変わったのは、この世界に来てからのこと。 「私は……楽しかったよ」 ああ、私は楽しんでいたんだな、と今なら分かる。 敵連合は、しおにとって間違いなく拠り所だった。 もうやめてしまった筈の家族にも似た、そんな温かい場所だった。 この胸の奥で今も痛み続ける愛さえなかったなら、しおは喜んで連合の幸せのためにすべてを尽くしていただろう。 「とむらくんは、どうだった?」 それでも、しおにはもっと大切なものがあるから。 じゅくじゅくに膿んだ生傷みたいに痛みをくれる、甘い甘い記憶があるから。 桜の木の下で、あの人に抱き締められていた時のことを覚えているから。 だから神戸しおは、楽しかった思い出に、大好きだった連合(みんな)に"さよなら"をする。 最後の問いかけに、死柄木弔は押し黙った。 「――――」 何故そうしているのか、自分にも分からない。 ふざけた問いだ。一蹴してしまえばいいだけのことだ。 なのにどうしてか、吐き捨てる筈だった言葉が喉の奥につかえている。 「――――俺は」 この世界での敵連合は、元いた個性社会の同組織とは似て非なるものだった。 何しろ目指す場所が一部の例外を除いて全員違ったのだ。 だから裏切りも起きたし、こうして連合の主要メンバーと殺し合う羽目にもなっている。 単なる呉越同舟、百パーセント利害の一致だけで結成された悪の寄り合い。 過ごした時間も共にした成長も、本来の連合の面々とは比較にならないほどわずかだ。 仲間、という呼称すら大袈裟に思えるような薄っぺらの同盟関係に未練などあろう筈もない。 「――――そうだな」 にも関わらず、王手を突きつけた少女の放つ言葉がやけに重たく胸に響くのは何故なのか。 ……それが分からないほど、今の彼はもう幼くなかった。 「まあ――――楽しかったよ」 言葉に出して、らしくないこともあるものだと驚く。 どうやら自分もまた、あの希薄で歪な集団に思いのほか価値を見出していたらしい。 驚きではあったが、辻褄の合うこともあった。 裏切り者の[[星野アイ]]に対し、柄でもなく弔いじみた真似をしたことも。 [[田中一]]という毒にも薬にもならない駒との約束をわざわざ果たしてやったことも。 そんな今思えばらしくない数々の行動も、要するに連中のことを少なからず気に入っていたからこそのものだったのだろう。 そしてそれはきっと、眼前の彼女も例外ではないのだ。 越えるべくして用意された相棒。[[ジェームズ・モリアーティ]]の、もうひとりの教え子。 「そっか」 「よく笑う奴だよな、お前は」 「うん。友達と同じ気持ちだと、やっぱりうれしいよ」 「背中が痒くなるようなこと言うんじゃねえよ。こちとらもうそんな歳じゃねえんだ」 死柄木の手が、龍脈のホーミーズたる魔王の影の肩に触れる。 次の瞬間、彼の身体を突き破るようにして無数の"力"が形を持って噴出した。 「お前、学校に行ったことはあるか?」 「ないよ。とむらくんは?」 「俺もない。だからまあ、実際に経験したわけじゃねえが」 喩えるならば、それは百鬼夜行の如き現象だった。 元の五体がどこにあったのか、それすら見失う勢いで噴出と膨張を繰り返していく体躯。 異形は異形でも、[[峰津院大和]]が従えていた龍脈の龍とは似ても似つかないグロテスクなキメラだ。 死柄木弔が龍脈のホーミーズ/オール・フォー・ワンに搭載したあらゆる異能が、用途も相性も一切合切無視して強引に外へ引き出されている。 「チャイムが鳴れば、それで終わりなんだとよ」 オール・フォー・ワンは、死柄木がかつて信じていた力の象徴だ。 彼を信じ、彼を慕い、彼の言葉を聞いて社会のゴミなりに大きくなってきた。 今になって思えば自分のすべては彼の手のひらの上、彼の目的を遂げるための"手段"でしかなかったのだろうと思うし。 彼の理想に殉ずるために生きてやるつもりなど、今はもうひと欠片だってありはしない。 それでも、彼の存在が死柄木にとって今も変わらず巨大であることに変わりはない。 その力、その悪意、そのすべてが今も死柄木の心の中に残光あるいは傷跡として焼き付いている。 何かを信じる力は脅威だ。それは、時に道理を超えた力を生み出す。 死柄木弔の中に残るかの先代、死柄木弔の信じたすべてを投影して生み出したのがこの"龍脈のホーミーズ"だ。 「学校を出て、手を振ったらそれぞれの帰り道にさよならだ。 俺はそれを知らないが、お前の言う"友達"ってのは所詮そんなもんなのさ」 死柄木は今――そんな最高傑作のホーミーズを一度きりの最終兵器として射出しようとしている。 間違いなくそれは、今の死柄木弔にできる最大の攻撃手段だった。 それを今此処で開帳するその意味は、しおにも分かる。 「連合(おれたち)も、そろそろ下校の時間だろ」 彼は今、さよならをしようとしている。 手を振るなんて仲良しこよしなやり方は悪党達(ヴィラン)には似合わない。 お別れをするなら、ありったけの殺意でやるのがヴィラン流だ。 いつまでも続く遊びの時間なんてありはしない。どんなに気の合う友達でも、結局のところ家路についたらただの他人なのだ。 「お前にとっての松坂さとうが、俺にとってはこの人だった。 ドブネズミみてえに街の片隅で腐ってた小汚いガキを拾い上げて、魂胆はどうあれ育ててくれた"先生"さ。 此処に来てジジイに出会わなかったら、今も変わらずそうだったろうな」 後に控えるフォーリナーとの決戦に温存しておく選択肢ももちろんあった。 なのにそれをしなかった理由は、それだけ目の前の敵を評価しているから。 そして、彼なりの"相棒"に対する餞だったのかもしれない。 不本意ながら悪くないと感じていたあの時間、あの集団。 敵連合という教場を締め括るために放つ、下校のチャイムこそがこの最大攻撃だった。 「その記憶のすべてをこれからお前達にぶつける。 それで……さよならだ」 楽しい時間は早く過ぎるもの。 始まりがあれば、終わりがいつか必ずやってくる。 「そっか」 しおは、わずかな寂しさを感じながら納得したように頷いた。 この寂しさという感情自体、"彼女"以外に向ける日が来るとは思わなかった情動だ。 今までならば、しおはそれを抱くことを胸に抱く愛を裏切る行為だと信じて疑わなかったろう。 だが今は違う。今の彼女は、愛を抱きながら他者の存在を受け入れることを覚えた。 連合とのいびつな絆と。 お城とはとても呼べないような散らかった部屋で過ごしたひと月と。 アイドルの少女から受けた、お日さまのように温かい言葉がしおにそれを教えてくれたから。 「私たち、始まりはおんなじだったんだね」 ふたりとも、始まりは社会の片隅でだった。 孤独からすべてが始まった。運命のような出会いを経て、大きくなった。 そうして巡り合った、敵連合の双翼。 相棒で、共犯者で、宿敵で、たぶん友達だった二人。 けれどその終わりがお互いの否定だったことは、たぶん必然だったのだろう。 同じ始まりから育ってきたふたつの器。 ひとりは愛を見た。そしてひとりは、悪を見た。 そして今、愛の器と悪の器は対峙している。 その因果と友情は、殺意でもって終わるのだ。 「楽しかったよ。ありがとう」 「じゃあな。もう会わないことを祈るよ」 悪魔が、立ち上がって。 魔王が、手を伸ばした。 母に/社会に棄てられた二人の繋いだ手は此処で途切れる。 一瞬の静寂が、感傷のように世界を包んで。 ふたりの声で、本当の終わりが始まった。 「全因解放――――"全ては一つの目的の為に(オール・フォー・ワン)"」 「――――やっちゃえ、チェンソーマン!」 ◆◆ あらゆる色の絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜ合わせたみたいな混沌だった。 ツギハギと呼ぶのさえ過大評価に思えるような、お粗末すぎる力の塊。 全因解放。一つの目的を達成する為に全てを費す、魔王の精神性のその具現。 それを前に地を蹴ったチェンソーマンの身体は、既にすべての再生を完了している。 その証拠に、胸に空いていた風穴は完全に塞がっていた。 最後の最後に飛車角落ちだなんて無粋はない。 全霊対全霊。最終局面に相応しい力と力が、今真っ向から相対する。 チェンソーマンは不死身の悪魔だ。 彼にとっては心臓を破壊されることも首を千切られることも滅びを意味しない。 しかし、今の彼は神戸しおを守るという重荷を背負わされている。 彼だけが生き残っても意味はないのだ。しおが死ねばその時点で、死柄木の勝利が確定してしまう。 そしてその点、今目の前にある最大攻撃は凡そ最悪の相手と言ってよかった。 何しろ単純に力として強大すぎる。 直撃はおろか、その余波でさえしおの全身が吹き飛ぶ対城砲撃だ。 これならば形のない自然現象の亜種に過ぎない"崩壊"の方がよほど与し易かったし、死柄木もそう考えてこの鬼札を切ってきたのだろう。 優位に立つのは死柄木弔。 チェンソーマンは挑戦者だ。 魔王の悪意に立ち向かう、勇者のようなもの。 奇しくもこの場でさえ、彼らはヒーローとヴィランの構図から逃げられないらしい。 残骸未満の瓦礫。 かつて街だった粉塵の地平。 そのすべてを文字通り平らげながら、異能の暴風が迫る。 咆哮にも似た轟音をあげるそれとは対照的に、チェンソーマンは静謐を保っていた。 地を蹴り、空へ舞う。 今度はそれは、逃げの一手ではない。 立ち向かうためにこそ空を、高度を使う。 悪魔の脚力で到達可能な最高高度に達した時点で、彼は重荷を"投げ捨てた"。 死柄木としお、双方の顔に驚きが宿る。 最初にそれを消したのは、しおの方だった。 自由落下に身を委ねながら、それでも遠のいていくその背中を疑わない。 ふわり、ふわりと、天使が来臨するように少女が墜落していく。 天使の背中に翼はない。彼女はそれを捨ててしまったから。 天使を空に置き去りにして、悪魔はかつて魔王だったモノへと突き進む。 ――ぶうん、と、彼の刃が哭いた。 敵は数百数千の群れを束ねたレギオンだ。 対するチェンソーマンは、圧倒的に孤軍である。 しかし孤軍にありながら、悪魔は殺意を掻き鳴らす。 終線(DEAD LINE)を、踏み越えていく。 チェンソーがまず、全因の先頭に鎮座する先代魔王の頭蓋を割った。 それは事態の解決には繋がらない。 どだい命の存続など度外視した砲撃なのだ、急所などあってなきが如し。 その証拠に、チェンソーマンの身体は瞬く間に死の河へと呑み込まれていく。 微生物一匹の生存さえ許さない、あらゆる命を芥子粒のようにすり潰す濁流の中に消えた悪魔。 だというのに――だというのに、ああ何故。 何故、音がやまないのか。 何故、あの音が。 地獄で殺しに明け暮れる億千万の悪魔たちが震え慄いたあの音が、響き続けているのか! 血飛沫があがる。 それは彼の血飛沫であって、しかしそれだけではない。 解放された異能達のあげている鮮血が、撒き散らされる瀑布のような血飛沫の九割以上を占めていた。 そう――彼は、殺しているのだ。 自ら河の中に身を投げて、そこに棲まうすべての力(いのち)を殺している。 チェンソーで斬る。裂く。割る。削ぐ。刻む。粉々に砕いて、他の血肉と混ぜて塵にする。 暴走師団聖華天の再現を前にやったことと、彼の取っている攻略法は何ひとつ違わない。 まったく同じだ。すなわち一切鏖殺、チェンソーマンは解き放たれた百鬼夜行のそのすべてを殺そうとしている。 響く斬音、肉が裂けて骨が砕ける音。 そのいずれもが、彼の奏でる[[終末数え唄]]。 彼の繰り出す刃が一秒ごとに[[星々の葬列]]を連ならせていく。 それはさながら、地平の彼方までを埋め尽くす蝗の群れを一匹ずつ叩き殺すような所業。 夜空の星を全滅させることを本気で目指すように意味のない、遂げられる筈もない難業だ。 しかし彼も、彼女も、その行動を無謀だとは微塵も思っていなかった。 彼らは知っているからだ。この悪魔が、この英雄が、どれほどめちゃくちゃな生き物であるのかを。 実際に目の当たりにし、時には命さえ救われてきたからこそ――この悪魔ならばやってのけると本能がそう確信させるのだ。 天使の来臨を背に。 悪魔が、魔王の影を虐殺する。 恐るべきことに、全因解放の進軍が止まっていた。 完全な停止でなくとも、限りなくその歩みは遅々となっている。 チェンソーマンが片っ端から殺しているから、軍勢そのものが物理的に削られている故の停滞。 魔王の影は、チェンソーマンを喰えていない。 この恐るべき悪魔を、咀嚼できていない――! そして。 ひときわ大きな"ぶうん"が最後に響くと同時に、大気を引き裂くような轟音が響いた。 それは魔王の絶叫。すべての夢が潰えて散る、大悪党の断末魔。 その叫喚を合図にしたように、死の河が破裂した。 全てを集めて一つにしても。 彼は、彼らは、ひとりの悪魔を殺せなかった。 飛び散る血肉が、黄金色の粒子に変わって溶けていく。 サーヴァントの消滅にも似たその光景は、オール・フォー・ワン……龍脈のホーミーズが完全に死亡したことを物語っていた。 しおの身体を、そのタイミングで一本のチェーンが絡め取る。 そして優しく、抱き上げた子どもへそうするように穏やかに地面へ下ろした。 チェンソーマンにとって、しおを抱えながら目の前の災禍に対応するのは確かに難題だった。 しかし荷物を一度放り捨て、投げたそれが地面に叩き付けられる前に事を済ませるのなら可能だった。 だから実行した。その上で、抹殺も救助もどちらも成し遂げた。 完封、である。死柄木弔の全力は、この悪魔にとっては次のタスクを控えさせながら捌ける程度の脅威でしかなかったのだ。 「マジで化け物かよ、お前」 死柄木は全力を出して尚、敗れた。 その結果は揺るがないし、言い訳のしようもない。 だからこそ彼は呆れ返ったように嘆息した。 強さ比べの結果は、もはや火を見るよりも明らか。 「やっぱり、ままならねえなあ――」 完敗である――ただし。 最後の勝ちまで譲ってやったつもりはない。 「念には念をで、準備しといてよかったぜ」 舞い散る血飛沫、全因の肉片が舞う空の中で。 事をやり遂げた悪魔に向けて、接近する影があった。 全因解放の一撃が本命だったのは本当だ。 死柄木は本当に、先の一撃でもってチェンソーマンをしお諸共に消し飛ばしてやるつもりだった。 だが万が一、億が一それが叶わなかった時を想定しての備えを、この魔王は潜ませていたのだ。 それは間違いなくこの界聖杯で学んだこと。 物事は、大体の場合で想定通りには進まない。 圧倒的な力の差があるのに苦戦する、殺されかける。当てが外れる。 この世界で何度も味わされてきた挫折と苛立ちが、彼に"もっと先へ(プルス・ケイオス)"を促した。 ・・・・・・・・・・・ そう、こんなこともあろうかと。 死柄木は全因解放の巨体を影に、既に攻撃の準備を進ませていた。 河の末尾に触れ、崩壊の伝播を開始させていたのだ。 悪い予想は当たり、チェンソーマンは死の河を泳ぎ切った。 そこに宿るすべての因果を鏖殺し、自分の算段を頓挫させてくれた。 だからこそこの瞬間、打っておいた布石が活きる。 「――――――――」 舞い散る血飛沫、肉片。 その中に混ぜられた崩壊の存在に気付いたチェンソーマンに、逃げ場はしかしどこにもない。 死の吹雪が彼の身体に一つ二つと触れていき、接触の度に彼の輪郭を文字通り崩していく。 「残念だったな、ヒーロー」 両腕が欠けた。両足がもげた。 それでも魔王殺しを成さんとする悪魔の心臓に、突貫した魔王の右手が触れた。 チェンソーマンは、チェンソーの悪魔は不死身の存在だ。 しかし彼は今、どうしようもなくサーヴァントという枠組みに縛られている。 要するに零落である。ひとつの都を脅かした祟り神が、チープな怪談のひとつに貶められるように。 その不死性は完全なようで、あくまでも道理の内側に収まる不死(しなず)へと零落している。 だからこそ。 存在のすべてを凌辱し、魔力のような無形の概念さえ崩壊させる魔王の"個性"の直撃は、今の彼にとって間違いなく"致命"だった。 「これで……」 悪魔の身体が、白く染まり。 そして、網目状に亀裂が走った。 最後、その口は何かを言わんとするように微かに動いていたが。 それ以上の生存を、崩壊の魔王は許さない。 「――俺の、勝ちだ」 チェンソーマンが、空に消える。 崩れて、溶けて、風に乗って消えていく。 嵐の去った地平に立つのは、死柄木弔。 連合の双翼による最終決戦の結末が、そこにはあった。 &color(red){【ライダー(チェンソーの悪魔)@チェンソーマン 消滅】} ◆◆ その光景を、神戸しおはどこか他人事のように見つめていた。 あ、負けたんだ、と理解が追いついた頃にはもうチェンソーの悪魔はどこにもいなくて。 へたり、と地に座り込んだしおの視界の中には、佇む死柄木の姿があるだけだった。 「……ポチタくん」 声に出して名前を呼んでも、返事はない。 生き返らせるためのスターターロープも崩れてしまってどこにもない。 完全なる詰みが、敗北が、まっさらになった大地の中に漂っていた。 「これが……お前の、そして俺たちの終わりだよ。神戸しお」 魔王が、否、死神が歩みを進める。 逃げようという気にはなれなかった。 そうしようにも、どうしてか足が動いてくれないのだ。 腰が抜けているのではなく、力が抜けている。 終わってしまったことに対する理解が追いついていないかのように、身体が反応してくれない。 ――負けちゃった。 敗北するのは、これが初めてではない。 破竹の勢いで勝ち進んできたように見えて、しおは何度も負けている。 けれど今回のそれは、今までのとはまったく話の違う敗北であると幼いながらに彼女は理解していた。 「俺は、願いを叶える。聖杯を手に入れて……目障りな何もかもを、この景色みたいにまっさらにブチ壊してやるんだ」 どうしよう。 考えてみても、答えなんて出るわけもなかった。 神戸しおは非力だ。 心に何を飼っていても、彼女に現実を変える力はない。 モリアーティのヒントで見出した技巧(スキル)も、この状況では焼け石に水でしかないだろう。 それに、あんな猫騙しのような芸当がこの魔王に通じるとはどうしても思えなかった。 仮にこの足がちゃんと動いて、背中を向けて逃げ出させてくれたとしても、結末は何も変わらないに違いない。 軽いひと撫でで都市ひとつを更地に変えられるような巨悪に、齢一桁の幼女がやれることなんて何ひとつありはしないのだ。 「だから、お前は」 どうしよう。 約束したのにな。 さとちゃん。 せっかく、二回も助けてもらったのに。 「その"愛"を抱いて――――此処で死ね」 魔王の手が、少女の顔へと伸びてくる。 それを避ける手段はないし、避けたところでどうにもならない。 ハッピーシュガーライフは、二度と紡がれない。 彼女達の"愛"は、この時をもって永久に途絶する。 砂糖少女の献身は実を結ばず。 蒼き雷霆の想いは空を切る。 ふたつの砂糖菓子を収めた瓶に、絶望というコールタールが流れ込んでいく。 最期はヴィランでもなければ天使でもない、ただの歳相応の無力な子どもとして。 神戸しおは、撫でるような"死"に呑まれた。 「――――けて」 ――響き渡る"その音"さえなければ。 ぶうん。 ◆◆ 夢の中にいるみたいな、ふわふわした感覚に包まれながら少年は目を覚ました。 現実世界、少なくともあの界聖杯深層でないだろうことはすぐに分かった。 というよりこの光景自体覚えがある。 懐かしい、いつかのボロ屋。 小さな悪魔の友人と一緒に過ごしてきた、言うなれば生まれ故郷の景色だ。 『ポチタ……?』 彼は、少年に背を向けてそこにいた。 小さな体躯が、白く染まっている。 まるで灰みたいだとそう思い、手を伸ばそうとしてすぐに『だめだ』と制止された。 とっさに手を引っ込めた少年に、悪魔は少しだけ笑った気がした。 『■■■は、あの子が好きかい?』 そう問われて、少年は言葉に窮してしまう。 Loveかどうかを聞いているんじゃないことは分かった。 でもこの気持ちが、果たしてLikeなのかいまいち判断がつかない。 なんだって今そんなことを聞くんだよ、とも思って。 そこでようやく気が付いた。 目の前で崩れていく友人の身体。 その崩壊を、彼は知っていた。 『あいつはさ、どうしようもねえクソガキだよ』 何が起こったのかをすべて理解し、少年は口を開く。 此処でこうしていられる時間はきっと長くはないだろう。 それどころか、果たしてこの先があるのかどうかも分からない。 だからこそ、答えなければならないと思った。 この質問にだけは、答えてやらなきゃいけないのだと思った。 『信じられるかよ、あの歳でとんだ色ボケなんだぜあいつ。 窓辺に座って、ウットリした顔で死んだ女の昔話聞かせてくんだよ。 もう慣れたけどよ、最初はマジで勘弁してほしかった。いっそ鞍替えでもしちまおうかと思ったこともあるぜ』 けど、と続ける。 そこで言葉に詰まった。 はて、どう言語化したらいいものか。 迷って、悩んで、仕方ないので雑に絞り出すことにする。 『けど……今思うとさ、けっこう悪くなかったんだ』 要するに結局、自分も彼女をそれなりに気に入っていたということなのだろう。 なんだか負けたような気がしないでもないが、こうなっては認めるしかなかった。 昔、ひとつ屋根の下に三人で暮らしていたことがあって。 遠いいつか、別な誰かと二人で暮らしていたこともあった気がする。 そんな、懐かしくて名残惜しい、そんな日常が確かにあの世界にはあった。 『俺は、きっと』 いつか繋いだ手を、開いて。 視線を落として、少年は言った。 『あいつに、勝って欲しいと思ってる』 『そうか』 わん、と悪魔が今度は確かに笑った。 『私も、君があの子と遊んでるのを見るのが好きだったよ』 世界が、白く崩れていく。 "あいつ"の力が、もうじきに此処を覆い尽くしてしまうのだと分かった。 振動と轟音がけたたましく響く追憶(ゆめ)の中で、けれど友の声ははっきりと聞こえる。 『これは契約だ、■■■』 『おい、ポチタ……!』 『私の心臓をやる。かわりに――』 遂に足元までもが崩壊した。 果てがあるかどうかも分からない奈落に落ちながら、少年は消えていく友に手を伸ばす。 でもその手が、伸ばした腕が何かに触れることはなく。 代わりに彼のからっぽの身体に、何かあたたかいものが入ってくるのが分かった。 『――しおちゃんを助けてあげなさい。ほら、あの子が君を呼んでるよ』 ◆◆ 伸ばされた、死の腕。 少女のすべてを終わらす筈の"崩壊"が、その黒髪に触れる寸前で断ち切られた。 地面に落ちる右腕を、しかし死柄木もしおも見ていなかった。 ふたりの視線は、結末の定まった運命に割り込むようにして現れたその少年へ注がれていた。 「……正直言うとな。俺も物足りないと思ってた」 チェンソーの悪魔は魔王の滅びに喰われ、風に吹かれて消え去った。 本物の不死を聖杯戦争の舞台で、サーヴァントの身では体現することができない。 だからこそ、今ここに彼がいることは道理から考えて絶対にあり得ない事態だった。 神戸しおのライダーは、チェンソーの悪魔という本体を格納するための“乗り物”である。 言うなれば本体、霊核そのものがかの悪魔であって、普段表に出ていた彼は悪魔の不在を埋め合わせるための代役でしかない。 主役が去ったのなら舞台は終わる。 心臓が止まったのなら肉体は止まる。 本体なくして付属品だけが自律行動するなど、どう考えても道理に適わない。 ――その"代役"が、"主役"となり得る資格を得でもしない限りは。 「あの殺人鬼には世話になったが、そいつのサーヴァントって言ったらやっぱりお前だろ。 そうだ、そうだな、そうだよな――俺達が決着をつけるってんなら、本当に殺さなくちゃいけないのは奴じゃなくてお前だったんだ」 チェンソーの心臓を搭載した武器人間の少年は、愛をもって支配から脱却した。 そこから始まるのは彼の物語だ。 檻の中から檻の外へ、首輪もリードも外されて駆け抜けていく。そういう歴史を、この少年は確かに経験している。 それは本来ならば呼び起こされることのなかった記憶。 支配の悪魔を殺し、彼女の陰謀を打ち砕いたという反逆者の逸話を参照して召喚された彼には生涯縁のないままで終わる筈だった未来(かこ)。 浮上しない筈の記憶を呼び起こさせたのは、召喚された彼が置かれた環境そのものだった。 狭い部屋の中で、ちいさな同居人と暮らす。 悪い意味で年齢離れした言動と性格に振り回されながら、彼女と四六時中を共にする。 そうして、ちいさな砂粒を積み上げて山にするみたいに少しずつ絆を紡いでいって。 彼女のために生きて、戦う――あの檻を抜けた少年の人生をなぞるような一ヶ月間の戦いが、奇跡を起こす呼び水となった。 そして、消えゆくチェンソーの悪魔と交わした最後の契約。 その縛りが、悪魔と人間の契約という魔術的に見ても大きな意味を持つだろう工程が。 達成されていた条件と合わさって、この状況を実現させていた。 「――ごちゃごちゃうるせえよ。ったく、ポチタもこんな糞野郎に負けんなよな。せっかく気持ち良く寝てたってのによ〜……」 負けて、死ぬのを待つだけだったしおの前に立つ背中がある。 その背中を、しおは知っていた。 この世界で誰よりも間近で、ずっと見てきた背中だった。 ――霊基再臨。 容れ物でしかなかった少年は、こうして彼自身の物語へと到達する。 チェンソーの悪魔が消滅するその寸前に、彼と契約しその心臓だけを受け継いで。 もう付属品などではない、正真正銘一体のサーヴァントとして再臨するに至った。 「……らいだーくん」 「おう」 彼の名は、チェンソーの悪魔に非ず。 しかし人は彼を、悪魔と同じ名で呼んだ。 チェンソーマンと。悪魔を殺す悪魔として、彼をこう扱ったのだ。 「あのね。ポチタくん、いなくなっちゃった」 「知ってるよ。さっき話してきた」 「おねがい。一個、してもいい?」 「んだよ」 すなわち。 ヒーローと。 「たすけて、らいだーくん」 返事はなかった。 そんなもの、必要でさえなかった。 いちいち答えてやるのも気恥ずかしい。 少年は、[[デンジ]]は、ただ黙って一歩前へ出る。 「遅かったな。ようやくケツに火が点いたか?」 「おかげさまでよく寝れたよ。ポチタに手こずってくれたお前のおかげだ」 それを受けて立つように、魔王は足を止めた。 正面から再び対峙する、白き魔王とチェンソーマン。 もう、悪魔と魔王の殺し合いではない。 これは。野良犬のように生きた、人間と人間の喧嘩である。 「行くぞ、死柄木」 「来い、ライダー」 正真正銘、此処からが最終決戦。 都市を滅ぼす火力の応酬にはならないだろう。 先の戦いに比べれば、これから始まるのはきっと驚くほど小規模で見栄えのしない戦いになる。 チェンソーの刃音が、高らかに嘶いて。 再生を終えた魔王の右腕が、迎え撃つように突き出された。 その光景を、誰かにさよならをするための戦いを、しおはやはり見つめるだけで。 どこまでも無力な少女の口が、小さく動く。 「……がんばれ」 これは、彼女のための英雄譚。 本当にちっぽけな意地のぶつけ合いが、彼らに相応しいゴミ溜まりの街で幕を開けた。 [[→>KICK BACK]]