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Thank You for the encounter(後編) - (2024/03/24 (日) 15:59:26) のソース

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 [[紙越空魚]]の脳内は、奇妙なほどに冷静だった。
 要するに自分は、心の芯から人でなしだったのだろうと再認識する。
 
 鳥子を、共犯者を取り戻すための戦い。
 それに敗れ、二度と伸ばした手が届かないと分かった瞬間に心のすべてが静かになった。
 

 ――ああ。
 ――終わったのか。


 散り散りになって消えたアビゲイルの姿を見送るなり、逃げるように戦場を去った。
 本当なら怒り狂ってその場で銃をぶっ放していても不思議ではなかったろう。
 けれど空魚は冷静だったから、アビゲイルを葬った剣鬼がじきに消えるだろうことにも気付いていた。
 であれば、残る可能性保持者(マスター)はあとひとり。優勝者が自動的に決まることになる。

 抱いた願いは、叶わない。
 なにひとつ、取り戻せるものはない。
 だからこそこの瞬間、女は真の意味で"鬼"になった。

 鬼(おに)とは、隠(おぬ)の転じたもの。
 形なきもの、この世ならざるもの――そうなったもの。
 強い怨みを抱き命を落としたものの成れの果て。
 そう語る文献や怪談は枚挙に暇がない。

 命を賭して望んだ戦いに敗れ、[[最後の希望]]には手が届かず。
 戴冠の権利を失い、じきに滅び去る存在となった今。
 女は、主役から舞台袖の隠者に成り下がった。
 形なきもの、目には見えないものとなったのだ。
 だからこそ、女は鬼を名乗る資格を真に手に入れた。
 始祖の鬼から連なった、人食いの鬼などではない。
 より広義の、口伝で語られ畏れられ、現代の怪談にすらしばしば姿を見せる――怪異としての、鬼。

「見つけた。それとも、そっちが待っててくれてたのかな」

 人を呪い、怨み、取り殺す。
 そういう存在に、空魚はなった。
 自分の願いを足蹴に勝ち上がり、玉座へと座った憎き童。
 それを取り殺すべく、祟りの担い手として彼女は銃を構えるのだ。

 銃口の先にいるのは、小さな少女。
 王冠を勝ち取った、世界樹の頂/地平線の彼方へ辿り着いた者。
 [[神戸しお]]という名の少女が、世界最後の可能性としてそこにいる。

「うん、待ってたよ。……お姉さんは、私に会いに来ると思ってたから」
「そっか。じゃあ、私がこれからやろうとしてることもお見通しってわけだ」
「そうだね」

 今、界聖杯に残っている命は救いの対象となった。
 されど[[アシュレイ・ホライゾン]]は、界聖杯との交渉に際し[[紙越空魚]]の名前を挙げはしなかった。
 その理由は、何も彼が空魚の存在を見落としていたからではない。
 界聖杯へ潜行しすべてを知ったアシュレイは、理解していたからだ。
 [[紙越空魚]]はそれを望まないこと。
 そして彼女は、まだ戦いを終えていないことも。

 生きて帰ることなど、空魚には何の救いにもならない。
 そうして帰り着いた先は、共犯者のいない孤独な世界だ。 

 〈裏世界〉は変わらずあり続けるだろう。
 〈かれら〉も、変わらず現れ続けるだろう。
 だがそれでも、そこにあの透明な手の女だけは存在しない。
 その時点で、空魚にとっては世界の一切が意味を持たないのだ。
 命尽きるまで退屈が果てしなく続く、ひどく迂遠で無味乾燥とした生き地獄。
 そんな世界に、誰が好き好んで帰りたいと願う。
 地獄行きの方舟になど、空魚は興味がなかった。

 生きて、退屈に身を浸すくらいなら。
 あいつのいない世界で、何十年も無駄に生きるくらいなら。
 それなら、今ここでこの命を使い切った方がどう考えても得だ。
 最後の最後に、少なくとも自分にとっては有意義な八つ当たりをして。

「あんたのせいで、私の願いは叶わなかった」

 マカロフを、向ける。
 死柄木の遺品はもう、効果を発揮していない。
 天使を守護する崩壊の龍は、いない。

「だから――あんたも堕ちろ、[[神戸しお]]。この怨み、その願いの散華で晴らしてやる」

 この怨み、晴らさでおくべきか。
 やろうとしているのは、要するにそれだ。
 神話など認めない。神を撃ち抜く凶弾が、この手にはある。

 それを突き付けられていながら、しおの表情に怯えはなかった。
 考えるまでもなく当然のことだ。今更苛立ちさえしない。
 そんな空魚に、しおは静かに口を開いた。
 そして問いかけるのだ、願いのかたちを。

「お姉さんも、大好きなひとに会いたかったの?」
「そうだよ。ずっと一緒にいたかったんだ」

 [[仁科鳥子]]。
 孤独で構わないと思っていた自分の世界に、ある日突然不法侵入してきた女。
 自信作だった心の壁を壊されたことが、何故か奇妙に嬉しかった。
 鳥子のいない世界なんて、もう考えられない。
 そんな世界に、価値はない。
 だから空魚は、願いを叶えようとした。
 今度こそ二度と脅かされることのない、永遠の冒険(ピクニック)ができる世界を祷ろうとしていた。

「じゃあ、私とおんなじだったんだね」
「勝手に決めないでほしいな」
「ううん、おんなじだよ。私も……愛する人と、ずっといっしょにいたくて戦ってきたんだから」

 少女の中に、小さな小瓶が見えた。
 そんな気がした。

「だから私ね、今とっても幸せ」

 彼女の願いは、もうすぐ叶う。
 その愛は成就し、理想の世界がやってくるだろう。
 心底幸せそうな微笑みが、空魚の神経を逆撫でする。
 引き金に指をかけた。子どもを撃ち殺す場面だというのに、指に震えはない。
 
「もうすぐ、さとちゃんに……私の大好きなひとに会えるんだもん。
 そしたらもう何もなくさないよ。二度と、手放したりなんてするもんか」
「会えないよ。あんた達の"愛"も、ここで私と一緒に打ち止めだ」

 結婚式に、銃弾を撃ち込むように。
 空魚は、確かな手付きでマカロフを握る。
 しおは動かない。逃げもしない、隠れもしない。
 必要がないからだ。空魚も、それは分かっている。分かった上で、それでもこうするのだ。
 きっとしおも、空魚の気持ちが分かっているのだろう。
 とんだ茶番だな、と空魚は心の中で失笑した。

「堕ちろ、クソガキ」

 もう生意気な年下はこりごりだ。
 どいつもこいつも、地獄に堕ちてしまえばいい。
 そんな辟易と共に引き金を引けば、銃弾は速やかに吐き出された。

 向かう先は、[[神戸しお]]の眉間。
 見たところ、地獄への回数券の薬効は既に切れている。
 故にこそ、当たれば確実に即死させることができる筈だ。
 律儀にもそんなことを考える空魚の前で、事はどこまでも予定調和のままに進行する。


 そう、当たれば、しおは確実に死ぬ。
 だが、優勝者である彼女には当然侍っている。
 彼女を玉座まで送り届けた、彼女の相棒たるサーヴァントが。
 空魚としお、銃弾と天使の間に割って入るように、チェンソーを携えた悪魔が現れた。

 がきん、という軽い音で銃弾が弾き飛ばされる。
 空魚はそれを確認して、ふう、と嘆息した。
 だよね、とでも言いたげな所作だった。

 次の瞬間、振るわれたチェンソーの刃が。
 マカロフを握る空魚の右腕を、身も蓋もなく切り飛ばしていた。


(…………、ま。こうなるよね)


 元より、結果の見えていた戦いだった。
 いや、そもそも戦いにすらなっていない。
 [[峰津院大和]]のように、生身でもサーヴァントと張り合える実力を有しているのならいざ知らず。
 たかだか麻薬のブーストと、拳銃と小手先の〈目〉だけで英霊を連れているマスターを討ち取るなんて無茶にも程がある。
 
 ましてや、[[神戸しお]]のサーヴァントは不死身の悪魔憑き。
 どの要素を見たって、空魚の八つ当たりが成功する見込みはなかった。
 だからこれは、ただただ順当な無謀の帰結でしかない。
 最初から最後までそう分かっていたのに、それでもこうして神風特攻じみた無茶に出たのはつまりそういうことなんだろうな、と空魚は腕を切り落とされた激痛と失血で霞む意識の中で考えた。

 ――死にたかったんだな、私。

 鳥子を救えなかった、取り戻せなかったこと。
 その時点で、[[紙越空魚]]の人生からすべての値打ちが消えた。
 この先の世界、この先の人生にだって夢や希望はひょっとしたら残っているかもしれない。
 だけどそこには、[[仁科鳥子]]の姿はないのだ。
 その一点だけで、空魚にとって世界とは生きるに値しない牢獄に意味を変える。

 だから、死にたかったのだと思う。
 せめて最後は、鳥子が死んだのと同じ世界で。
 鳥子が死んだのと同じように、殺されて幕を閉じたかった。

(……悪いね、アサシン。アビー)

 託された呪いの言葉は、結局果たしきれなかった。
 だが、つまるところ自分はこういう人間なのだ。
 カルトに家をめちゃくちゃにされた時からずっと、こう。
 普通の人間が持ってる感情を、持ちきれない。
 鳥子という灯火があったからなんとか人らしくできていただけで、灯りが消えたらそこには、昔通りの[[紙越空魚]]が戻ってくるだけだ。

 地面に転がったマカロフを、しおが拾い上げる。
 そして切断された腕の断面を抑えながら片膝を突いた空魚に、天使が銃を向けた。

 白い、白い大地の中で。
 滅び去った、終わりゆく世界の中で。
 天使が、怪異に銃を向ける。
 そんな、まるで宗教画の一枚のような光景。
 それが空魚に用意された"終わり"で。
 それが、空魚の望んだ"終わり"だった。

「最後に、なにかある?」

 まさか年端もいかない子どもにこんな台詞を吐かれる日が来るとは思わなかったな。
 そう苦笑しながら、女は空を見上げた。
 空は、青い。
 アビゲイルが死んで水銀の雲は晴れ、今は果てしない青空だけが広がっている。

 あの〈裏世界〉みたいだな、と思った。


「お幸せに」
「ありがとう」


 最後に、そんなとびきりの皮肉をひとつ吐いて。
 タン! と、人生の終わりにしてはやけに軽い音を聞いた。
 それが、[[紙越空魚]]がこの世界で耳にした最後の音響だった。



&color(red){【紙越空魚@裏世界ピクニック  死亡】}



◆◆



 ――、目を開ける。
 
 死後とは、人間にとって最も根源的な恐怖のひとつだ。
 死ねば無になるというのは簡単だが、では今ここにあるこの意識はその後どこへ向かうのか。
 視覚も聴覚も触覚もない暗闇の中で、時間の概念すら存在しないが故の永遠を味わい続けるのか。
 それとも生前の行いに応じた行き先が、人間の魂とやらには割り当てられるのか。
 だとしたらきっと地獄だろうな。
 そう思って女が目を開けた時、そこには。

「あ。やっと起きた」
「……へ?」

 あまりにも見慣れた、金髪の女が笑っていた。

 まるで本物の純金を梳いて糸にしたみたいな、艷やかでさらさらの金髪。
 シミはおろか傷跡のひとつも見当たらない、すべすべの白い肌。
 外国人の血が入っている、碧眼。
 そして共犯者の証たる、透明な片手。
 どこからどう見てもケチのつけようのない、疑う余地もない、記憶のまんまの……

「……、おまえ――なんで、ここに」

 ――[[仁科鳥子]]が、そこにいた。

 慌てて辺りを見回して、更にぎょっとする。
 そこは、どこまでも青が広がる〈裏世界〉ですらなかった。
 一面の黒と、光の粒。銀河が渦巻き星屑が行き交う、宇宙だ。
 生前、怪談好きの延長線で時折空想した死後の世界のどれとも違う超常的光景が広がっている。
 絶句するしかない空魚に、目の前の鳥子は苦笑して。

「びっくりするよね。私もびっくりしたもん」
「いや……え。ていうか、おまえ本物か?」
「たぶんね。少なくとも、私はそう思ってる」

 空魚の問いに、こくん、と首を縦に振った。
 思わず拍子抜けして、全身の力が抜ける。
 なんだよこれ。なんだ、この展開は。
 こんなことがあるのか、現実によ。

「……じゃあこれどこ。これ何。界聖杯の中ってこと?」
「ううん、たぶん外だと思う。そうなんだよね、アビーちゃん?」
「えっ」

 鳥子の視線を追って見れば、そこにはばつの悪そうな顔で佇む見慣れた少女の姿があった。

「――あんたの仕業か……!」
「そう、なると思う。ごめんなさい、空魚さんも鳥子さんも。巻き込んでしまったみたいで……」

 フォーリナー……、……今はその呼び名も適当ではないのだろうか。
 定かではないが、そこにいたのは確かに[[アビゲイル・ウィリアムズ]]だった。
 ただし肌や髪の色、あと服装も最初に会った時のそれに戻っている。
 雰囲気もあの狂気的なものは鳴りを潜め、より少女らしさを強く感じさせる歳相応のものに帰っていた。

 しかし、アビゲイル。
 彼女が出てきたとなると、この事態の真相もなんとなく読めてきた。
 何故なら彼女は邪神の巫女。
 遥か彼方外宇宙におわす外なる神に魅入られた、銀の鍵の担い手である。
 そして空魚は彼女に、より邪神(かなた)へ近付くことを望み。
 アビゲイルもまた、鳥子を取り戻すためにその求めへ応えた。

 その結果、[[アビゲイル・ウィリアムズ]]はサーヴァントの枠組みを超えかけるほど邪神の性質に近付き。
 敗れはしたものの、もしもあの場で[[黒死牟]]ら残存サーヴァントに勝利していたなら、界聖杯さえ掌握できる力を手にしていた可能性もある。
 そこまで狂気の深度を深めてしまったこと、深淵に近付いてしまったことがまずかったのだろう。
 彼女の死は、単なるサーヴァントとしての消滅だけでは済まない事態を、すべて終わった先の"死後"に引き起こしてしまったらしい。

「私達は今、宇宙の遠いどこかを揺蕩っているわ」
「ビビるよね。宇宙だよ宇宙。私、アビーちゃんの"そういうところ"はあえて考えないようにしてたんだけど――」
「……で。これ、いつ帰れんの。ていうか帰るとかできるの?」

 ジト目の空魚の問いに対し、アビゲイルは困ったような顔をした。
 どうやら、此処が外宇宙の彼方であるという以外に分かっていることは何もないらしい。
 鳥子と空魚は知る由もないことだが、とある時空にて覚醒(めざ)めたアビゲイルもまた、さる旅人に連れられて宇宙の果てへと旅立っている。

 "この"アビゲイルの場合、それが本人の意思決定とは無関係に引き起こされた。
 言うなれば、窮極の門――時空と空間を超越するそれを開きかけたことが仇となり、魂ごと漂流してしまったというわけだ。
 元の地球に帰れるのかも。
 そもそも今が、一体過去なのか未来なのかも。
 分かっていることは、現状なにもない。
 裸一貫で宇宙の外側に放り出されたのと変わらない。
 それが、彼女達の今置かれている状況の端的なすべてだった。

「まあまあ、そんな申し訳なさそうな顔しないでよ。どうせほら、私も空魚も死んじゃったんだし。あのまま消えるよりはよかったんじゃない?」
「よかったんじゃない? って、おまえなあ……」

 楽観的な鳥子の台詞に空魚は嘆息するが、しかし本心ではそこそこ同意見なのがなんとも癪だ。
 
「――それと、もう一個……ごめんなさい」

 アビゲイルが、そう言って唇を噛む。
 次に出てくる言葉は、二人とも予想がついた。

「私……鳥子さんのことも、空魚さんのことも守れなかった。
 私、何もできなかったわ。二人の、サーヴァントだったのに……」
「あーあー、今更そういうのいいから」
「……よくはないと思うのだけど……」
「だからいいって。宇宙の彼方にブッ飛ばされた衝撃がでかすぎて、そんな話今されてもぜんぜん頭に入ってこないのこっちは」

 とはいえ、今そんな話をされたって仕方がない。
 何せ今、ここはどことも分からない外宇宙の只中なのだ。
 界聖杯でさえスケールが小さく思えるような、未知と超常のひしめく大海である。
 それに――願いなら、紆余曲折あったけどもう叶っている。
 空魚は隣の鳥子を見つめながら、そう思った。

 生とか死とか、場所とか時空とか正直に言ってしまえばどうでもよかった。
 自分がいて、隣に鳥子がいること。
 共犯者が終わらず、続いていること。
 それさえ満たされているのなら、たとえどこだろうとそれは空魚にとって生きるに値する世界だ。
 怪異が蠢き、グリッチが敷き詰められた明日の命もおぼつかない〈裏世界〉でさえ喜々として旅した共犯者にとっては、そうなのだ。
 ……いやそれにしても、さすがに宇宙編が始まるとは思わなかったようだが。

「まあ、ずっとここでこうしてるわけにも行かないだろうけど――アビー、あんたならちょっとは勝手も分かる?」
「ええ。……ちょっとなら」
「ならもうそれでいいよ。ナビ役は任せたから、今度は私らを死なせないように」
「空魚さん――、――……ありがとう」
「はいはい」

 そんなやり取りを交わす空魚とアビゲイルを、鳥子はにこにこ微笑みながら見つめていた。
 目潰しでもしてやろうと思って指を突き出す空魚の攻撃をひょいと躱す光景は、宇宙の果てとは思えないほど牧歌的だ。
 何も変わらない。同行者がひとり増えたこと以外は、ぜんぶ同じだ。
 辺り一面には未知の世界が広がっていて、それは果てしなく続いている。
 青から蒼へ。人間の常識なんかじゃ想像も説明もつかない、怪異と脅威が蠢く深海。
 裏世界ならぬ外世界。それが、共犯者たちに与えられた新たなる白紙の地図。


「……どこまで行く?」
「どこまでも」
「いつまでやる?」
「いつまでも」
「……だよね。いつも通りだ」
「うん、いつも通り。何も変わらないよ」


 笑う鳥子に、空魚も笑った。
 この先は、きっと実話怪談本で培った知識も何ら用をなさないだろう。
 正真正銘、本物の未知がどこまでも広がっている。
 そういう世界に旅立つのだ、これから。

 ――不思議と、心はわくわくしていた。
 この見果てぬ宇宙を舞台に、鳥子と共犯者ができることに心が躍っていた。

「ねえ、鳥子」
「うん」
「これってさ、やっぱり夢?」

 そんな問いかけに。
 鳥子は、また笑って。

「空魚は、どっちだと思う?」

 そう、言った。
 ふ、と空魚もまた笑った。

「どっちでもいいけどさ」

 世界は、大いなる誰かの夢なのだと聞いたことがある。
 無限の宇宙のその中心で、いつ終わるとも知れない眠りに微睡む誰かの夢。
 考えさせられる話だが、でも結局、やっぱりどちらでもいい。
 鳥子がいるなら。

「もし夢なら……今度はなるべく覚めないことを祈るよ」

 

 ――さあ、冒険の始まりだ。



&color(blue){【裏世界ピクニック――――Sky Blue Sky】}



◆◆



 目を覚ました時、アシュレイの言葉通り死ぬほどのたうち回ることになった。
 ただでさえ片腕が吹き飛んでるのに、もう片方までぽっきりへし折られてしまったのだ。
 痛いなんてもんじゃなく、慣れるまでは顔を哀しみとは別な意味の涙でぐちゃぐちゃにしなければならなかった。
 だけど幸い、霧子は"こんなこともあろうかと"医療道具のあるだろう建物を事前に見繕っていてくれたらしく。
 痛む身体に鞭打って、霧子に励まされながらどうにか"崩壊"の及んでいなかった地区まで歩いていき――骨折の手当てと、切断された方の腕の包帯の取り替えをしてもらうと、まあだいぶマシにはなってくれた。

 落ち着いた頃、にちかは霧子にすべてを話した。
 夢の中で再会したアシュレイ。彼が自分に伝えてくれた、そのすべてを話して聞かせた。
 
 聖杯戦争は終わったこと。
 優勝者は、"あの子"で決まったらしいこと。
 そして、自分達は死んだり消えたりしなくてもよくなったこと――。

 ……喜ぶ気には、不思議となれなかった。
 無邪気に喜ぶには、あまりに多くの人が死にすぎた。
 誰も彼もが死んでいった。みんなみんな、死んでしまった。

 だから霧子は、にちかに「そっか」とだけ応えた。
 にちかも、それ以上は何も言わなかった。
 何も言わずに、ふたりでただ空を見上げて。
 しばらく何をするでもなく、そうやって過ごして。
 それでも新たな敵が現れることも、身体が薄れ始めるとかそんなこともないのを確認して――
 そこでようやく、ああ、本当に終わったんだ、と理解した。

 空がオレンジ色に染まり始めた頃、ふたりで歩き出した。
 向かった先は、過ごし慣れたあの事務所だ。
 道中のコンビニから食べ物と飲み物を拝借して、お財布の中身と相談をしない、ちょっと贅沢でいけない夕飯に舌鼓を打った。



「……あの子、どうしてるんですかね。今頃」
「しおちゃん?」

 カップラーメンの残り汁をずずず、と啜りながら、にちかは頷いた。
 結局、この聖杯戦争は方舟の対立者である敵連合に掻っ攫われてしまった形になる。
 死柄木という魔王をも破って熾天に至ったのは、連合の天使・[[神戸しお]]。
 彼女が今どこで何をしているのかも、にちか達には分からない。

「わからない、けど………でも、それでいいんじゃないかな…………」
「……いい、って?」
「…………あっちも……そろそろ、お別れだろうから…………」
「……、あー。確かにそうですね。勝とうが負けようが、結局そうなるんですもんね」

 にちかと霧子は、敗者として一足先にそれを終えている。
 元々魔王に敗れて散っていた星辰奏者の青年はもちろん、霧子の傍に侍っていた人相の怖い鬼剣士も今や影も形もない。
 霧子の腕にも、令呪は一画も残っていない。
 聖杯戦争という儀式があって、彼女達がその主要人物だった事実そのものが、蜃気楼のようにことごとく消えていた。
 今じゃ、あれほど辛く苦しかった聖杯戦争も思い出の中に残っているだけだ。
 死んでいった、助けられなかった、手を取り合えなかった者達の記憶と共に。

「あーあ。それにしても、できればもう一回"表層"に戻りたかったです」
「……うん……。私も、戻りたかったな……」
「ですよね。霧子さんは恋鐘さんに会いたかったでしょうし、私も――お姉ちゃんに、ひと目でいいからまた会いたかった」

 はあ、とにちかはため息を吐き出す。
 視線の向かう先は、虚空だった。
 手の届かない、帰れないどこかを眺める目だ。

「必ず帰るって、約束したのにな……」

 嘘だったら怒るって釘まで刺されたのに、結局帰れそうにはない。
 元がこの世界の住人であるにちかにとって、"あの"七草はづきは紛れもない実姉なのだ。
 そしてにちかはこれからこの世界を去り、はづきは[[NPC]]として聖杯の起動と共に抹消される。
 比喩でもなんでもなく、今生の別れだ。
 せめて最後にひと目でも会いたかった。
 声を届けて、にちかは大丈夫だよって、そう伝えたかった。

 ……霧子も、同じ哀しみを背負っている。

「私も……"またね"って、言っちゃった……」

 そう言って目を伏せる。
 皆で手を叩き、宇宙一だとそう叫んだあの時がもうずいぶん遠い昔のように感じられた。

「世界って、どうやって滅ぶんでしょうね」
「わかんない………けど………」
「……せめて、少しでも幸せな終わりだったらいいんですけどね。無理でしょうね、界聖杯にそんなデリカシーとか期待するの」

 そもそも、世界の真実とこの先の行く末が明かされた表層が今どうなっているのかも定かでないのだ。
 社会はサーヴァントの振り撒く暴威抜きにしたって崩壊しているだろうし、世紀末みたいな地獄絵図が広がっていても不思議ではない。
 そんな地獄の中で為す術もなく消えていく、最後の約束も果たしてもらえずに消えていく、大切な人のことを想って。
 小さな筏に乗り込むことを許されたふたりのアイドルは、また沈黙した。
 窓の向こうに見える空には、こんな状況だというのに星が瞬いている。

「霧子さんは」
「うん……」
「新しい世界に行ったら、どうします?」
「……、……あんまり、変わらないかも……。にちかちゃんは………?」
「まずはとにかく病院ですかね。正直今もけっこう痛いんですよこれ」

 もう片方も切断とかなったら、いよいよ洒落になりませんし。
 そう言ってにちかは肩を竦め、更に続けた。

「片腕のアイドルとか聞いたことないですよね。
 とりあえず半袖の衣装は着れないでしょうし、水着とかそういうのも無理。
 ただでさえ私みたいなどんぐりには高いハードルだってのに、この身体で飛び越えるなんて無理ゲーですよ無理ゲー」
「にちかちゃん…………」
「まあ、でも」

 ただでさえ、元が凡人な上に。
 隻腕という、アイドルをやるには重いハンディキャップまで背負ってしまった。
 夢を叶える難易度は強くてニューゲームどころか、前より遥かに上がっていると言って差し支えないだろう。
 まさに絶望的。頭を抱えたくなるような暗雲が先行きには立ち込めているが、しかし。

「やりますよ。ぶきっちょでも、拙くても、がんばって飛びます。
 言われちゃったし、背負っちゃいましたからね。いろんなものを」

 にちかは、残った片手で握り拳を作った。
 骨が折れているからこれだけでも激痛が走るが、今だけは我慢する。
 そして言うのだ。もういない彼ら、彼女らに伝える言葉を。

「にちかは、幸せになるんです」

 ――これから、うんと幸せになってやるぞって。
 窓の向こうの星空を見つめながら、にちかは言った。

「うん…………きっとなれるよ、にちかちゃんなら………。にちかちゃんも、とっても素敵で……きらきらした、女の子だもん…………!」
「ま、そういうわけで。霧子さんも新生活であんまりぼやぼやしてたら、アンティーカごと抜き去っちゃうんでよろしくです」
「ふふ………負けてられないね…………私達も…………」

 新しい世界とやらがどんな場所かは、未だに分からないままだ。
 もしかしたら、そこには283プロすら存在していないかもしれない。
 けれどそれでも、ふたりのアイドルは疑うことなく確信していた。
 自分達が、自分達のまま、目指す道をひた走るアイドルであり続けることを。

 聖杯戦争は、終わった。
 物語は、本来のジャンルに戻ろうとしている。
 悲愴な覚悟と流血で満たされた架空戦記から、歌と踊りで人々を楽しませるアイドルステージへ。
 
 ――彼女達の最後の夜は、そんな風にして過ぎていった。
 彼女達は敗者だから、失うものはあっても手に入れたものはない。
 大切な人と最後に交わした約束さえ、守れはしないままこの世界を去る。
 だとしても、その視線は明日へ。地平線ならぬ水平線の向こうからのぞく、希望の太陽を見据えていた。


 彼女達は、幸せになれる。



◆◆



 最後の敵を射殺して、あとは戴冠を待つだけになった。
 しおは、[[デンジ]]と共にマンションの一室にいた。
 この深層では、初めて訪れる部屋。
 だけど彼女にとっても彼にとっても、とてもよく見慣れた部屋だ。

「なんだかなつかしいねえ」
「そうだな……うお、買い揃えたゲームソフトもお菓子も全部そのままだぜ」

 そう――ここは、ふたりが本戦までの一ヶ月を共に過ごした部屋だった。
 シュガーライフと呼ぶには品がなくて、別に閉ざされてもいなかったけれど。
 それでもこの狭くて散らかった一室が、天使と悪魔の絆の象徴だったことに違いはない。
 表層ではもはや現存しているかどうかも怪しいが、そこは深層に落ちてくるという想定外の功名だったと言えよう。
 
「ていうかよ。マジで最後、ここで過ごすのか?」
「らいだーくんはいや?」
「イヤじゃねえけどよ。深層(ここ)、食い物とかは普通に残ってんだしよ。
 どうせなら祝勝会がてら、イイ飯屋にでも行って豪遊した方が――」
「ううん」

 靴を脱いで。
 とてとて、と部屋に上がり。
 それから、くるりと回って振り向く。

「ここがいいの」

 そう言って微笑む顔に、[[デンジ]]も何も言えなくなってしまう。

 否が応でも実感してしまったからだ。
 もう、これが最後なのだと。
 恐らく自分達ふたりが、揃ってこの部屋を出ることはない。
 "その時"は、すぐそばにまで迫っている。
 聖杯戦争は終わり、少女の願いは叶うだろう。
 そうすれば、それで終わりだ。
 物語の頁は閉じられて、二度と開かれることはないのだから。

「ありゃりゃ。テレビ点くけど、番組は映らないねえ」
「そりゃな。電波は飛んでるかもしれないが、肝心の演者がいないんだもんよ」
「あ、そっか」
「まあでも、ゲームなら普通に動くんじゃねえか? 見たとこ電気は通ってるみてえだし」

 どっかりと腰を下ろして、テーブルの上にレジ袋の中身を広げる。
 深層では全部の商品も、レジ袋だって無料だ。
 最後の晩餐と呼ぶには質素だが、案外このくらいがいいのかもしれない。
 
「何食う?」
「かっぷらーめん。カレー味!」
「あいよ」

 "さとちゃん"が見たらすげえ嫌な顔すんだろうな――。
 そんなことを思いながら、やかんにお湯を入れて火にかける。
 自分の分も沸かしたいから、お湯は気持ち多めに。
 お湯が沸いたらふたりぶん、並んだカップラーメンに注いで後は三分待つだけだ。
 ちなみに[[デンジ]]はチリトマト味。
 どちらも、あの一ヶ月の中で事あるごとに食べていた"お決まり"だ。

 ぴりりりり。
 キッチンタイマーがけたたましく鳴き声をあげて。
 蓋を剥がせば、食欲をそそる香りが鼻を突き抜ける。
 そういえば朝から何も食べていない。
 しおは空腹だったし、一応サーヴァントの筈の[[デンジ]]もなぜか当たり前に腹が減っていた。

「そういえばよ」
「どしたの」
「ドラクエ。まだ終わらせてなかったんだよな」
「あ。そういえばポケモンも、途中でやめたまんまだよ」
「マジかよ。……間に合うかな」
「えへへ。たたかい、まだ残ってたねえ」
「だな。魔王ブッ殺して、殿堂入りして、それでフィナーレにすっか」

 ずるるる、ずるるる。
 麺を啜りながら交わされる、最後の夜の計画談義。
 対戦ゲームも悪くはないが、やり残しのRPGを放置して去るのもなんだか具合が悪い。
 ソフトを起動してゲームを始めれば、魔王の城を目前に立ち往生している主人公一行の姿がディスプレイに表示された。

「バトル一回でこーたいだよ」
「おう。いつものやつな」

 そうして彼らは、日常に戻ってきたみたいに冒険を始める。
 別に何か、実況動画みたいなにぎやかな会話があるわけじゃない。
 律儀に一回戦うごとに操作を交代して、たまに口を挟んだり、どうでもいいことを話したりする。

 いつしかカップラーメンは空になって、机の上にはポテトチップスが広げられた。
 しおは割り箸でチップを挟んで口に運んでいる。
 コントローラーがべとべとになるのは嫌なのだそうだ。
 この辺は、さとちゃんの教育の賜物なのかね――と[[デンジ]]は思ったり思わなかったりする。

 時計なんて、わざわざ見ることもない。
 夜空の星なんて、眺めるようなガラでもない。
 ふたりはひたすら、画面の向こうの冒険に集中していた。
 彼らにとってはこれこそが、この世界で果たすべき最後の戦いだったからだ。
 どうせ世界を去るのなら、後で悔やむような心残りは排しておきたい。
 冒険の末に魔王を倒し、エンドロールを見届けても、彼らの戦いはまだ続く。

 次のソフトを起動すると、主人の帰りを待っていた六匹の手持ちキャラたちが出迎えてくれた。
 時々新しい仲間を加えて、レベルの追いつけてないやつを放逐して、旅を進める。
 最近この手のゲームは"野生のモンスター"のレベルが高いので、途中加入のキャラも即戦力になってくれる。
 いつしか彼らの手持ちは、見知った名前をつけられた仲間たちで満たされた。

 ――トムラ。
 ――アイ。
 ――ゴクドー。
 ――タナカ。
 ――エム。
 ――おばさん。

 連合じゃねえかよ、という[[デンジ]]のツッコミは「えへへ」という照れくさそうな笑い声で流された。
 そして、出会ったばかりの高レベル軍団で埋め尽くされた手持ちは破竹の快進撃を続けていく。
 長い旅の中で培った絆なんて、彼らにはない。
 ついさっき出会って、数時間一緒に過ごしただけ。
 それでも仲間みたいな顔をして、突き進んで、ちゃんと勝つのだ。
 今度は、最後までみんな一緒に。
 チャンピオンの称号を勝ち取って、連合はゲームの中でも勝ちきった。


「…………、はーーーー」
「つかれたねぇ……お尻がいたいや」
「俺は目が疲れた。しぱしぱするぜ」
「らいだーくんって一応サーヴァントなんだよね?」


 そうして、積みゲー二本をどうにかこうにかスピード攻略したふたりは。
 [[デンジ]]が近所のゴミ捨て場から拾ってきた、比較的綺麗だったソファに並んで座り、疲れ果てていた。


「今何時だよ」
「んー……十二時くらいだね」
「え。まだそんな時間なのかよ、俺ぁてっきり朝方くらいだと思ってたぜ」
「始めたの、なんだかんだで夕方くらいだったじゃん」
「あー……そういえばそうだっけか。ゲームばっかりやってると脳ミソ馬鹿になっちまうなあ」


 買ってきたお菓子はまだ微妙に残っているが、もうふたりともお腹いっぱいだった。
 血糖値の上昇と、二本連続で積みゲーを片付けた達成感とで眠気が襲ってきている。
 時間もけっこういい時間だ。そりゃ眠くもなるわな、と[[デンジ]]は大あくびをして。
 
 そして――


「らいだーくん」
「おう」
「もしかして、そろそろ?」
「……そうだな」


 自分の身体が少しずつ、霧のように溶け始めていることに気付いた。
 今まで何度か見てきた、サーヴァントが消滅する時特有の"アレ"だ。
 身体が金色の粒子に変わって、溶けていく。解けていく。
 聖杯戦争を終えたばかりとは思えないぐーたら時間を過ごしていたふたりだったが。
 それでも平等に、終わりはやってくるらしい。

「ま、そこそこ楽しかったぜ。何せ現世は久しぶりだったからなあ――バケモン共にずっとボコボコにされてた気もするけどよ。
 次があるなら、今度こそはもっと欲望全開で過ごすことにするわ」
「えー。えっちなのはだめだよ、らいだーくんも子どもなんだから」
「一緒にすんな。つーか俺に言わせれば、お前らのラブラブの方がよっぽどいかがわしく見えんだよ」
「むっ。失礼しちゃう、純愛だよ」
「お前は帰ったら言動にまず気をつけろよな。見てて思ったけど、お前って相当"たらし"だぜ」
「からし?」
「再会したら"さとちゃん"にでも聞いてみな」

 思えば、当初描いていた現世満喫プランはまるで遂行できていなかった。
 あの手この手で現世を楽しもうにも、マスターが無力な幼女なのでおちおち外出もできない。
 予選の時間はほぼほぼ全部子守りに使わされ、本戦は怪獣大決戦の画面端でヒーヒー言いながら走り回っていた思い出ばかりだ。
 最後に勝ち切れたのだけは気分がいいが、よくよく考えるとずいぶん運の悪い現界だった感は拭えない。

「ねえねえ。らいだーくん」
「なんだよ。ますたーくん」
「らいだーくんはさー。たのしかった?」

 しおは、変わらず微笑みながらそう聞いた。
 それに[[デンジ]]は一瞬、考えて。
 さて、どう答えてやろうかと思って。

「そうだな……」

 そこで不服ながら、自分はどうも、何のかんの言いながらそこそこ楽しんでいたらしいぞ――と気がついた。

 狭い部屋で、ずっとだらだら過ごしていた時も。
 いつかみたいに、対戦ゲームに明け暮れた夜も。
 無垢で純粋な子どもに、ジャンクフードの味を教えてやった日も。
 ゲーム中に寝落ちした相方に、しぶしぶ毛布をかけてやった時も。
 そいつの相棒として、地獄みたいな思いをして戦って。そして、ちゃんと最後まで届けてやれた時も――

「……ま。楽しかったんじゃねえの、そこそこ」

 少なくとも、悪くはなかった。
 そう、悪くはなかったのだ。

 だから[[デンジ]]は、ちょっと視線を逸らしながらそう伝えた。
 誤魔化してやろうとも思ったが、これが最後なのだしそれもばつが悪い。
 初めて通った学校で、初めて過ごした夏休みみたいな日々だったと思った。
 本戦の忙しさだって、必死こいて宿題と向き合っていた時のそれと思えば案外いい思い出だったかもしれない。
 それにしたって、二度とは御免だが。
 それでも、まあ。
 腐すほど悪くはなかったと、思ったのだ。

「私もね、たのしかったよ。
 私ね、友達できたのってはじめてだったの」

 [[神戸しお]]にしたって、それは同じだ。
 彼女は[[デンジ]]より直接的に、それを表現する。

「ほんとなら、もうちょっとここにいたかったくらい」

 この世界は、彼女にとって"はじめて"の事で溢れていた。
 母のもとにいたときも、愛する人のそばにいたときも、しおはずっとお城のお姫様だったから。
 外の世界の粗暴も、愛していない人との友情も、全部が新鮮な初体験であった。
 その上最後まで勝ち残って、願いまで叶えられるというのだから文句なんて何ひとつない。
 [[神戸しお]]は笑って、最後まで笑って、幸せにこの世界を去れる。

「だから――さいごにらいだーくんと遊べて、とっても嬉しかった」
「……別に大したことしてねえだろ。ただメシ食って、ダラダラ一緒にゲームしてただけだ」
「いいの。昨日ごはん食べてる時、にちかちゃんが言ってたよ。友達って、そういうものなんでしょ?」
「まあ……間違っちゃねえかもな」

 天使だった少女は、きっと大きく変わってしまった。
 
 その瞳に"悪魔"を宿して、天使のつばさはちぎれて堕ちた。
 そして堕落した天使は、お城の中では知れないものを知った。
 本当に、ほんとうにたくさんのものを見た。
 その目で世界を見て、その足で世界を踏みしめたのだ。
 それはもしかすると、彼女を愛した女の望んでいた成長ではなかったかもしれない。
 だけどその望まざる成長が、こうして彼女達にとって最善の未来を掴ませた。

「……さとうと再会できたら言っとけ。あんまり箱入り娘させないで、ゲームくらい買ってやれってよ」

 根負けしたように言う[[デンジ]]の言葉に。
 伝えとくね、と頷いてみせるしお。
 
 話したかったこと、伝えたかったことは全部伝えたらしい。
 ぽふん、と改めてソファのふわふわした背もたれに身を預ける。
 そして隣の彼を見るしおの目は、どこかとろんとしていた。

「らいだーくん、あのね……」
「今度はなんだよ。まだ何かあんのか」
「私、もうねむい……」
「ねむっ……、……いやまあ確かにそういう時間だけどよ~……最後だぞお前。そこは踏ん張って起きとけよ」
「でも、ねむいんだもん……」

 それもその筈、現在時刻は十二時/午前零時になる少し前。
 二桁にもならない歳の子どもは、もうとっくに布団ですやすや寝息を立ててる時刻である。
 [[神戸しお]]は確かに類稀なるメンタリティを持つ娘だが、それでもこの辺りはちゃんと子どもだった。
 目を指で擦って、ぱたぱた……と力なく足をばたつかせて。

「だから、ね……最後に、一個だけ……いい?」
「ったく、締まらねえ奴だなあお前も…………言えよ」
「もう、すっごくねむたいの。起きたららいだーくん、たぶんもういないだろうから。だから――」

 ぴと。
 隣の彼にもたれかかって、最後の"お願い"を。
 マスターとしての"命令"を、した。

「らいだーくん、いなくなるまで、それまで…………手、にぎってて…………」

 それが、最後の言葉になった。
 こてん、と力が抜けて。

 すうすう、すやすや。
 寝息を立て始める、小さな少女。
 なんだそりゃ。
 [[デンジ]]が思わずため息をついてしまったのも、きっと責められないことだろう。
 まさか消滅間際、最後の仕事が眠るマスターの子守りだなんて思わなかったに違いない。

「……"友達"っつーか、"保護者"だろ。それは」

 ぽりぽりと頭を掻いて小さくぼやく、[[デンジ]]。
 それから、眠る少女の小さな手を言われた通り握ってやった。
 子ども特有の高い体温が、消えかけの身体に伝わってくる。
 これも感じ収めだと思うと、ああ、本当に終わるんだな――と感じ入るものがあった。

「ま、なんだ……」

 サーヴァントの身で言うことではないだろうが。
 聖杯戦争のことなんて、結局最後までよくわからないままだった。
 なのにこうして勝ち切れたのは、"愛の勝利"というやつなのだろう。
 であれば最後に。
 最後まで、この小さい身体で歩み抜いた"相棒"に。
 ちょっとくらいは祝福を添えてやってもいいかと、[[デンジ]]は思った。

「仲良くやれよ」

 


 ――ぽーん、ぽーん、ぽーん。
 午前零時を告げる電子音が間抜けに鳴り響いて。
 聖杯戦争の、最後の夜が終わりを迎える。
 
 マンションの小さな、だらしなく散らかった部屋。
 お城だなんてとても呼べない、友達同士の暮らしたカラフルな角砂糖。
 戦いの結果になんて、きっと何の関係もない。
 小さな、小さな、彼らの世界。

 鐘の音が鳴り止んだその時。
 もうそこに、悪魔憑きの少年はいなかった。
 幸せそうに、安心したように寝息を立てているのは、王様になった少女。
 彼女の隣に、ぶっきらぼうで少し下品な友達はもういないけれど。
 それでもその手は――まるで誰かの手を握りしめているみたいな、そんな形を保ち続けていた。



&color(red){【ライダー(デンジ)@チェンソーマン  消滅】}



◆◆



 帰ってくると言ったのに、夜が明けても帰ってこない。
 スマホに連絡を入れても、返事はおろか既読すらつかない。
 居ても立っても居られなくて、危険を承知で歩き出した。

 大丈夫、きっと生きてる。
 生きて、この街のどこかにいる。
 やるべきことを、やり続けている。
 それが何かは、ついぞ教えてくれなかったけど――いや。
 今となっては、想像もつくけれど。
 それでも七草はづきは、妹を探して一日中街を駆けずり回った。
 だけど結果として。
 にちかとは会えずじまいのまま、今日が終わろうとしていた。


「ほんと、どこにおるとかねー……霧子も、にちかも……」


 隣の恋鐘が漏らした言葉に、はづきは力なく頷くしかできなかった。
 この一日で得られた成果はほぼほぼなかったが、唯一の収穫はこの月岡恋鐘と会えたことだ。
 どうやら彼女も、アンティーカのふたり……[[田中摩美々]]と[[幽谷霧子]]と"約束"をしていたらしい。
 なのに連絡しても返事がないし、いつまで経っても顔を見せないから、堪らず寮室を飛び出したのだそうだ。

 いま、東京は街中大混乱だ。
 暴徒化した市民があちこちで物資の奪い合いをしているし、インフラも政府も自衛隊もさっぱり機能していない。
 あちこちで起こっているテロやら災害やらのせいもあるが、そこに放り込まれた"世界の真実"なる流説がそれに拍車をかけていた。
 曰く、聖杯戦争。曰く、この世界はもうすぐ終わる。
 はづきは正直それに関しては半信半疑だったが、にちかの意味深な言動と、あの状況でどこかへ出かけて行った事実に対する根拠になってしまいそうなのがとても嫌だった。

 更に恋鐘の話によれば、霧子達も聖杯戦争の単語を出し、あれこれと説明をしてくれたらしい。
 ――つまりは、そういうことなのだろうか。
 恋鐘は幸か不幸か未だにいまいち理解できていないようだったが、はづきは既にいくつもの嫌な可能性を脳裏に思い描いてしまっている。
 
「……大丈夫ですよ、恋鐘さん。霧子さんも摩美々さんも強い子だし――にちかも、あれで結構したたかですから」
「――ん、そうやね……。うちらが落ち込んどっても仕方なか……!」

 この元気が、今のはづきにはありがたかった。
 何しろ暇さえあれば嫌な想像ばかりしてしまうのだ。
 恋鐘の言葉を聞いていると、自分まで前向きになってくる気がする。
 
「うちらはアンティーカ。宇宙一のアイドルばい」
「……霧子さん達と、そういう話したんですか?」
「ん! うちらは宇宙一ばーい! って、みんなで再確認したんよ。霧子も摩美々もよか顔しとったけん、どうせちょっと連絡忘れとるだけたいね!」

 ああ、そうか。
 そうか――であれば。
 であれば、生きているんだろうな。
 霧子さん達も、……にちかも。
 何の根拠もないのに、これまで重ねてきたどの想像よりも強い信憑性を、はづきは恋鐘の言葉に感じてしまっていた。

「……そうですね。みんな強いですもんね。でもね、うちの妹だって負けてないんですよ? 姉妹喧嘩とかしたら、もう大変だったんですから」

 そう言って、空を見上げる。
 今日は、やけに星が綺麗だった。
 にちかも……霧子達も、この空を見上げているんだろうか。

「今日は、ずいぶん星が綺麗やねえ……」

 ふたりで見上げていると。
 ちょうどその時、星空が変化を始めた。
 都会の夜空とは思えないような、星々の絨毯。
 煌めくそれらが、無数の流れ星に姿を変えたのだ。

「わ……! はづき、あれ……!」
「ほ――ほんとに、すっごく綺麗ですね……!」

 いわゆる、流星群だ。
 それも、この規模のものなんて見たこともない。
 指差す恋鐘に頷いて、ふたり揃って全部の不安を忘れて見惚れてしまう。
 
 彼女達だけではない。
 東京中の誰もが、今だけは空を見上げていた。
 そしてこの美しい流星群にその目を釘付けにされ、あらゆる不安を忘れ見入っていた。

「……にちか達も、見てるんでしょうね。これを」
「もち! きっと見とるばい、だってこがんすごかもん、霧子もにちかも釘付けになるに決まっとるよ!」

 ――それは。
 終わりゆく世界が見せる、最後の輝き。
 無数の可能性が織りなす、終わりの色彩。
 世界は終わる。
 今ここで、この世界のすべてが幕を閉じる。
 であればこれは、せめてもの慈悲だったのかもしれない。

 息を引き取る世界に取り残された、消えるしかない命たち。
 その最後が、せめて絶望で終わらないように。
 世界が、界聖杯が、あるいは彼女に力を添えたある男が。
 最後に見せた、この上ないほどに美しい奇蹟の星々。

「――にちか」

 はづきが、呟いた。

「――霧子」

 恋鐘も、呟いた。


 待ち人は、もう二度と来ない。
 彼女達が、大切な人に会うことは決してない。
 だけど。けれど。
 それでも彼女達は最後の一瞬まで、その幸福を祈っていた。
 いってらっしゃいの言葉はなくても。
 幸せになって、とそう祈る感情は、確かにそこにあって。
 これから新たな世界に旅立つ少女たちへの、ちいさなちいさな花束になる。


 そして、星空の下で。
 ぱたん、と、本を閉じるように。
 何の苦しみもなく、絶望もなく。
 自分達にその時が来たのだと、知ることもなく。
 このちいさな世界は、音もなく、安らかに。

 
 眠るように、その役割を終えた。



◆◆














































&color(gold){【神戸しお@ハッピーシュガーライフ  優勝】}
&color(blue){【幽谷霧子@アイドルマスターシャイニーカラーズ  生還】}
&color(blue){【七草にちか(騎)@アイドルマスターシャイニーカラーズ  生還】}


&color(gold){【Fate/Over The Horizon  完】}



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