界聖杯――及びその内界。 誰かの願いを叶えるためだけに生まれ、作り出された模倣の世界。 命もある、営みもある。魂もある。だが、此処に住まう人間は明確に二通りだ。 何も知らぬまま、物語の舞台上に上がることもできないまま、[[世界の終わり]]と一緒に死んでいく者。 そして。願いを持ち、外様としてこの世界の土を踏み、地平線の彼方を目指す者。 前者に未来はない。どれだけ幸せな時間を過ごそうと、いつか必ず彼らの日常は奇跡の薪木となって終わるのだ。 後者には未来がある。可能性の地平線を超えて界聖杯の奇跡をその手に収めたなら、先に待つ未来は万願成就。 しかして、では後者――外の世界から界聖杯内界に招来された者達が絶対的に幸福であるかと言えば、それは絶対に否だ。 何故なら、最後に残る椅子は一つしかないから。 願いという景品が懸かっている以上は誰もが本気で、誰もが容赦しない。 勝者の道を歩めている間はいい。だが、もし一歩でもそこから外れてしまったら? 待ち受ける結末は一つだ。敗北という汚泥の沼が、ひび割れた器を呑み込んでしまう。 「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」 そして、今まさに。 一人のマスターが、その末路を迎えようとしていた。 彼女のサーヴァントは既にこの世界に存在していない。 戦いに敗れ、当然の結果として首を斬られた。令呪を使おうが何をしようが、決して覆せない確実な死。 歴戦の英雄もそれを跳ね返すには到れず、黄金の粒子に変わって少女の希望は虚空の中へと溶けていった。 ――にも関わらず、彼女は逃げていた。追われていた。 「(やだ、やだ、やだ、やだっ……!! 死にたくない、死にたくない……!! こんなところで、し、死ぬなんて――絶対、嫌ぁっ……!!!)」 しかしてそれは、何も特別なことではない。 サーヴァントを失ったところでマスターはマスター。 生かしておけば、最悪マスターを失ったはぐれのサーヴァントと契約を結び、再び敵として立ちはだかる可能性がある。 そしてそうなれば一度手の内を見られている以上、見逃した側は絶対的に不利となる。 だから特別矜持や拘りがなければ、敗れたマスターは見逃さずに殺した方が遥かに得だった。 「おいおい逃げるなよ、それでも魔術師か? 誇りはないのかね、君には。全く嘆かわしい、たかだか使い魔を一匹失った程度で」 さながらこれは悪趣味なハンターによる鹿狩りだった。 手負いの鹿を敢えて一撃では仕留めず、惜しいところでわざと逃がし、けれど諦めることなく永遠に追いかけ続ける。 事実マスター"だった"女は右足を引きずっており、歩みに合わせて地面に血の帯を引いていた。 「そろそろ追いかけっこも飽きてきたな。 ……どれ、此処らでもう一発撃ち込んでみようか」 嫌味な笑顔を浮かべた、僧衣の男。 傍らに意思疎通のできない狂戦士のサーヴァントを連れた魔術師が、顔中を涙と洟でぐちゃぐちゃにして逃げる哀れな女を嘲笑う。 その気になればもはや英霊の力を借りずとも簡単に殺せる相手だというのに、わざとありもしない希望の幻影に縋らせて。 男は、この詰め将棋を楽しんでいた。そら詰むぞ、詰んでしまうぞ、頑張れ頑張れ逃げろ逃げろ。 そんな下卑た言葉を吐き散らしながら、男はかつん、かつんと余裕に溢れた靴音を鳴らす。 男の言葉に慌てたのか、女は逃げる勢いを早めようとし……哀れにも。足をもつれさせて転倒してしまう。 「あぐっ……!!」 「おっと、降伏かな」 「あ、ぁ……――あ、ああああああ……」 閾値を超えた恐怖に、がちがちと歯の根の合わない音を鳴らす女。 もはや腰が抜けて立つこともままならない彼女の前に立ち、男は右手を翳す。 「バーサーカーに殺させてもいいが……君の無様さはなかなかにそそる。 そこで、どれ。もう少し可愛がってあげようじゃないか」 女はこの時、全ての命運を諦めた。 分かってしまった。自分はこれからこの男に殺されるのだと。 それもただ殺されるのではなく、壮絶な拷問で延々と引き伸ばされ、長い時間をかけてゆっくりじっくり殺されていくのだと。 ああ――なんでこんなことになってしまったのだろう。 私は、ただ。界聖杯を手に入れて、死んだあの子を生き返らせたかっただけなのに。 なのにどうして叶わないの。なのにどうして、こんなことになってしまうの。 問い続けても答えは出ず、地平線の彼方に在るという界聖杯は一瞥すらしてくれず。 女は迫る"地獄"の始まりに怯え、拳骨を振り上げられた幼子のようにきゅっと目を閉じた―― その時、であった。 「――――――――――破ぁ!!」 叩きつけるような気合の籠もった声が響くと共に。 女と、そして彼女を今から嬲り殺さんとしていた男の眼前で――光が爆発した。 あまりの眩しさに視界が塗り潰される。 何が起こった。何が。いったい、何が。 混乱の二文字で埋め尽くされた脳はろくな結論を弾き出してくれなかったが、しかし。 意識が途切れるその間際、聞こえた気がした。 「他人の女とはいえ、可愛い子を無駄に恐がらせるのは男の仕事じゃないぜ」 ◆◆ 目を覚ました時、女は病院に居た。 足を弾丸のようなもので複数発撃たれていたと医者に聞かされたが、女には全く寝耳に水の話だった。 彼女の記憶では、自分はいつも通り職場を出て帰途に着き、ぽつぽつと雨が降ってきて、雨かぁ、と思って。 そこですべて途切れている。気付いたら病院のベッドの上に居て、目覚めるなりそんな話を聞かされたものだから、彼女は大層混乱した。 その後警察の事情聴取を受けたが、答えられる有益な情報は一切なく。 病室で聴取を担当した警官も、一体何が何だか分からないといった顔で首を傾げていた。 彼女の近くには外国人の男性が倒れていたそうで、重要参考人として彼にも話を聞いたそうなのだが、やはり何も覚えていないの一点張りなのだという。 現場付近の監視カメラを確認すれば、都合よく彼女が襲われたと見られる時間帯だけ映像が途切れている。 近隣住民からもろくな証言は得られず、当事者の女も、参考人の男も揃って記憶喪失。 一体自分は、何だってこんな怪我をしたんだろう。 そんなことを考えながら包帯越しに傷を撫でていると、病室のドアが開いて、また人が入ってきた。 小学生くらいの男の子だった。その顔を見て、すぐに女はぱあっと表情を明るくする。 大事な大事な、目に入れても痛くない一人息子。 長い闘病生活をつい最近終え、また外で走り回ったり遊んだり出来るようになった我が子。 心配そうな顔で飛びついてきた彼の頭を撫でながら、女は苦笑した。 ああ。せっかく毎日毎日病院に通う日々が終わったってのに、私がこうして入院してたら世話ないわね――。 不思議な出来事だったけれど、それでも彼女は依然変わらず幸せだった。 愛する息子と一緒に、彼女はこれからも平穏な日々を送っていくのだろう。 いつまでも、いつまでも、この模倣世界が終わりを迎えるその時まで、幸せな夢の中を生きていく。 ――彼女はもう。自分がこの世界の人間ではないということすら、覚えていない。 ◆◆ 「きっと死者が死者を呼ぶ潮の流れなんだろうぜ、ここは」 ……〈寺生まれのTさん〉というネットロアがある。 八尺様、くねくね、きさらぎ駅、姦姦蛇螺、ヤマノケ、リアル――など。 一口にネットロアと言っても枚挙に暇がないが、〈寺生まれのTさん〉は間違いなくその中でもひときわ異質な作品群だ。 何しろそもそも怖がらせることを目的にしていない。 恐怖をもたらすはずの怪談を、言うなれば"茶化す"、怖くなくするために生み出された悪ふざけ。 語り手の前に現れる怪異。そしてそれをあの手この手で瞬殺する、〈寺生まれのTさん〉。 寺生まれはスゴイという様式美によって締め括られるいくつかの作品群。 この界聖杯内界、英霊という名の死者に満ちた異界に顕現した"彼"は――紛うことなく、そのロアで語られる〈Tさん〉だった。 「だが、これで安心だな」 彼はサーヴァントである。 しかし、その傍らにマスターは居ない。 否。この世界を隅から隅まで探しても、彼のマスターは見つからないだろう。 "マスターだった人間"なら見つかるかもしれないが、その人物の頭の中にはもう聖杯戦争についての記憶も知識もなく、〈Tさん〉を従えるための令呪も無用の長物に成り果ててしまっているに違いない。 この世界に招かれ、何らかの願いを抱いていただろう人間。 けれど今、件の人物はすべてを忘れて――自分が何かを願っていたことも忘れて日常を過ごしている。 彼の戦う理由も心の傷も、或いは欲望も、すべてかき消されてしまった。封じられて、しまった。 〈Tさん〉は寺生まれ。 破ぁ!の一言と共に、あらゆる怪異をなぎ払う。 怪異そのものであれ、それに関わった記憶であれ、知識であれ。 何であれ、破ぁ!の前には波打ち際の砂城同然だ。 すべて、消える。あらゆる願いは、この〈Tさん〉を前にした時点でその形を保てない。 この世界に居ながら何かを願い続けるということは、すなわち――界聖杯という怪異に触れられたという"体験"があったことを逆説的に証明してしまうから。 〈寺生まれのTさん〉は、正義の味方などではない。頼れる先輩でも、歴戦のゴーストバスターでもない。 彼は、現象だ。蒼い、蒼い、どこまでも果てしなく恐怖と狂気に満たされた世界―― そこから縁を伝い、この地に這い出てきた〈寺生まれのTさん〉という名の現象。 今は裏世界の深層にある"何か"の手からも離れて独立した、真の意味での現象だ。 彼は善でなく、悪でもなく。秩序でなく、混沌でもない。 マスターとの契約すら無意味にして不要。聖杯に託す願いなど、元から皆無。そもそも何かを願う機能すらこれには備わっていない。 それでも彼は颯爽と、願い抱く者の前に現れるのだ。 頼れるナイスガイの顔をして、気心の知れた先輩のような口調で何かを喋りながら。 そして、叫び。すべての願いを、白く塗り潰す。 ――破ぁ、と。そう叫んで。 【クラス】フォーリナー 【真名】〈寺生まれのTさん〉 【出典】裏世界ピクニック 【性別】男性 【属性】中立・中庸 【パラメーター】 筋力:E 耐久:E 敏捷:E 魔力:EX 幸運:E 宝具:EX 【クラススキル】 領域外の生命:A+ 蒼い世界、裏側からの降臨者。 理解不能の恐怖を骨子に現界し、独り歩くもの。 狂気:EX 狂気そのもの。 基本的に対話は意味を成さず、人が彼に対して抱く善悪の印象すらも、すべては意味のない空虚でしかない。 【保有スキル】 単独行動:EX マスター不在でも活動できるある種の"現象"。 彼のマスターは既にマスター資格を失い、一人の[[NPC]]として舞台の背景に溶けている。 更に〈Tさん〉はサーヴァントではない人間の目から見た場合、前提知識がない限り"普通の人間である"と認識される。 神出鬼没:A あらゆる場所に、距離と時間を無視して突然出現する。 際限があるのかないのか、何らかの法則に基づいて行われる転移なのか、すべては謎。 だが〈Tさん〉を探る者、一度彼と接触し破ぁ!を受けたにも関わらず何らかの手段で回復した者などの前には、より積極的に姿を現す傾向にある。 情報抹消:B 対戦が終了した瞬間に目撃者と対戦相手の記憶から彼の能力・真名・外見特徴が消失する。 【宝具】 『寺生まれのTさん』 ランク:EX 種別:対魔宝具 レンジ:1~10 最大補足:30人 〈寺生まれのTさん〉というネットロアが、裏側の世界由来の現象として出現した形。 フォーリナーの霊基を持って現界するに至った彼の存在、及び全能力。それら全てを引っ括めて、一つの宝具。故に厳密には上記のスキル等も全てこの宝具の一部という扱いになる。 だがこの宝具もとい〈Tさん〉の真骨頂は、彼が"破ぁ!"の掛け声と共に行使する"寺生まれ"としての能力。 端的に言うなれば"封印能力"であり、破ぁ!を受けた人物の中にある、聖杯戦争にまつわる全ての記憶及び知識を封印することができる。 聖杯戦争においては、マスターが破ぁ!を受けた場合サーヴァントとの魔力パスまでもが封印される。 これを受けた場合、何らかの手段で記憶を取り戻さない限り対象が使役しているサーヴァントは休眠状態となり、現界や念話はおろかその存在を感知することも、自立思考することもできなくなる。 この状態が長く続けば続くほどサーヴァントとの縁・繋がりが希薄化していき、最終的には契約そのものが消滅。 サーヴァントは英霊の座に送還され、マスターは聖杯戦争のことを忘却したまま、誰かの願いが叶い内界が消滅するまで模倣世界の住人として生き続けることになる。 【人物背景】 〈寺生まれのTさん〉。 怪異に襲われる体験者を"破ぁ!"の掛け声と共に助けてくれる寺生まれの青年。 ちょっと気障だが頼れる、ナイスガイなゴーストバスター。 という設定は、"この"〈Tさん〉には一切適用されない。 人の言葉を喋り、雰囲気も穏当で対話ができそうに見えるが、その実彼との間に一切のコミュニケーションは成立しない。 裏世界、ウルトラブルー・ランドスケープ(UBL)から現実に這い寄ってきた〈寺生まれのTさん〉という現象。 彼は聖杯戦争に関係する全てのマスターの敵であり、全ての願いの敵である。 【サーヴァントとしての願い】 〈寺生まれのTさん〉。 【マスター】 ???@??? 【マスターとしての願い】 今はもうない 【能力・技能】 あったかもしれないが、今は思い出せもしない。 【人物背景】 界聖杯に可能性を見初められ、模倣世界に召喚されたマスター。 元の世界への帰還なり聖杯に託したい祈りなり、何らかの願いを持っていたと思われる。 今は破ぁ!によって戦いの運命から解放され、偽りの世界で平和な日常を過ごしている。 彼あるいは彼女の方から〈Tさん〉に干渉する手段は一切存在しない。 【方針】 今はもうない