シェークスピア

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ウィリアム・シェークスピア(William Shakespeare)

世界大百科事典、中野好夫・小津次郎の記述

(1564―1616)

イギリスの詩人、劇作家。イングランドの中部ウォーリックシャーの市場町ストラトフォード・オン・エーヴォンに生まれた。4月26日に受洗の記録があるので誕生はその数日前と推定される。8人姉弟の第3子、長男として生まれた。半農半商の豊かな家庭で、父は町の有力者であったが、まもなく没落し、詩人は高等教育をうけなかったであろうと想像されている。1582年に8歳年長の女アン・ハサウェーAnne Hathawayと結婚し、6ヶ月後に長女が生まれ、さらに85年には男女の双生児をもうけたが、その後、故郷をすててロンドンに出た。それは地元の豪族ルーシー家のシカを盗んだことが発覚したためという説もあるが、根拠はない。ロンドンにおける動静についてもまったく不明であるが、92年には先輩の劇作家ロバート・グリーンの著述のなかに、明らかにシェークスピアをあてこすったものと思われる一節があることによって、当時すで新進俳優もしくは作家として名を成していたことがうかがえる。青年時代にロンドンの劇場で観客の馬番をしていたという俗説をそのまま信ずることはできないにしても、劇場関係の雑役から出発して、やがて俳優となり、劇作に手を染めることになったと想像される。彼の属した「内大臣おかかえの一座」Lord Chamberlain's Menは当時の二大劇団の一つであり、同劇団が98年にベン・ジョンソンの『十人十色』を上演したさい、シェークスピアが俳優として登場した記録が残っており、『ハムレット』の亡霊が当り役であったとも伝えられている。現在知られているかぎりでの彼の最も早い作品は1590年ころの執筆と推定されるが、それ以後20年あまりの間に、合作を含めて戯曲37編と詩7編を書いている。その間、収入の増加とともに、96年には父親のために紋章の使用許可を買いとり、翌年には郷里のニュープレースNew Placeに、町で2番目に大きな邸宅を購入し、また劇団の大幹部として、ロンドンのグローブ劇場(地球座)およびブラックフライアーズ劇場The Blackfriarsの株主となるほどの成功をもおさめていた。1611~1612年ころ、まだ50歳にも達せず、創作力もさほど衰えたともみえないのに、とつぜん筆を折るって死んだ(4月23日)。以上がシェークスピアのいちおうの伝記であるが、現存する1片の原稿も、手紙や日記のたぐいもないために、いまだに彼の実在をさえ疑う人もある。最も確実な伝記的資料は、受洗と結婚、土地家屋購入、遺言書などの法律・協会関係の記録だけで、かんじんの詩人、作家としての彼に関するものは作品のほかになにもない。『サー・トマス・モア』という当時の戯曲原稿のいち部分が彼の筆跡であると近年主張されるが、それも間接的な推測を出るものではない。シェークスピアは哲学者フランシス・ベーコンの匿名にすぎないというベーコン説をはじめ、文芸愛好家の貴族オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアEdward de Vere(1550―1604)であるとするもの、同年輩の劇作家で、若くして不慮の死をとげたクリストファー・マーローであろうと考えるものなど、シェークスピア抹殺論はいまもあとを断たないが、もとよりいずれも根拠のよわい推定にすぎない。作品についても、初版の出版年代が明らかであるほかは、創作ならびに初演の正確な年代を知ることは困難であり、学者によってさまざまな憶測がおこなわれている。ことに作品によっては作者自身が一度ならず補筆改訂を加えたものもある。現在までに最も権威があり、かつ穏当であるとされるエドマンド・チェンバーズSir Edmund Kerchever Chambers(1866―1954)の説によれば、推定創作年代はつぎのとおりである。1590~91年『ヘンリー6世』第2~3部。91~92年『ヘンリー6世』第1部。92年『ヴィーナスとアドニス』。92~93年『リチャード3世』『間違いつづき』。93~34年『タイタス・アンドロニカス』『じゃじゃ馬ならし』『ルクリースの陵辱』。93~96年『ソネット集』(大部分)。94~95年『ヴェロナの2紳士』『恋のほねおり損』『ロミオとジュリエット』。95~96年『リチャード2世』『真夏の夜の夢』。96~97年『ジョン王』『ヴェニスの商人』。97~98年『ヘンリー4世』第1~2部。98~99年『から騒ぎ』『ヘンリー5世』。1599~1600年『ジュリアス・シーザー』『お気にめすまま』『十二夜』。1600~1601年『ハムレット』『ウィンザーの陽気な女房たち』。01~02年『トロイラスとクレシダ』。02~03年『末よければすべてよし』。04~05年『尺には尺』『オセロー』。05~06年『リア王』『マクベス』。06~07年『アントニーとクレオパトラ』。07~08年『コリオレーナス』『アゼンスのタイモン』。08~09年『ペリクレス』。09~10年『シンベリン』。10~11年『冬の夜話』。11~12年『あらし(テンペスト)』。12~13年『ヘンリー8世』。

「業績と評価」劇作家シェークスピアの20年にわたる発展については、多少修正の余地はあるが、だいたいエドワード・ダウデンEdward Dowden(1843―1913)の試みた4期説に従うのが便利であろう。「第一期」ca.1591~ca.95(修業時代)確実な証拠はないが、おそらく先行作品の改作者として、先輩劇作家たちの長所を自由に吸収し、将来の大成に役だてた時代とみられる。ちょうどイギリス・ルネサンスの隆盛期にあたり、青年作家シェークスピアの筆にはみずみずしい青春の気があふれている。もとより、先輩作家マーローやトマス・キッドらの模倣のあともまだはっきりと残っており(悲劇『ヘンリー6世』(三部作)、『タイタス・アンドロニカス』、喜劇『恋の骨おり損』『ヴェロナの2紳士』など)、さらにまた習作的作品の域を出なかったが、悲劇『リチャード3世』『ロミオとジュリエット』、喜劇『じゃじゃ馬ならし』『真夏の夜の夢』など、彼のような天才だけがあらわしうる傑作もすでに書きだしている。なおこの時期には、『ヴィーナスとアドニス』『ルクリースの陵辱』の2編の物語詩、および154編よりなる『ソネット集』(1609刊)を書いている。『ソネット集』は豊かな美しさにみちた作品であるが、内容はシェークスピア自身の内面的告白とともうけとられる多くの問題をふくんだ作品である。「第二期」ca.1596~ca.1600この時期に入ると、詩人の目は人間的深さと社会的広さを加え、喜劇では『ヴェニスの商人』『から騒ぎ』『十二夜』『お気にめすまま』、史劇では『リチャード2世』、『ヘンリー4世』(二部作)、『ヘンリー5世』、悲劇では『ジュリアス・シーザー』のような人に親しまれた傑作を書いている。ことに注目すべきことは、『ヘンリー4世』に登場する愛すべき悪党、ふとった老兵のフォールスタフSir John Falstaffの性格想像であろう。このころまでに先輩作家はほとんど世を去り、有力な後輩もまだ台頭せず、ほとんどシェークスピアのひとり舞台であった。「第三期」ca.1606~ca.1608彼の最高傑作が、つぎつぎと現われた時期である。1603年にはエリザベス女王が死に、ジェームズ1世がスコットランドから王位をつぎ、ここにスチュアート朝が始まることとなったが、イギリス・ルネサンスもようやく退廃期に入り、そうした思潮を反映したためか、あるいは別の事情によるものか、シェークスピアの作品も急に暗さを加え、その背後にはつねに懐疑と不信の深いふちが口をひらいているようになった。いわゆる「四大悲劇」である『ハムレット』『オセロー』『マクベス』『リア王』はもとより、『アントニーとクレオパトラ』やローマ史劇『コリオレーナス』にいたるまで、外見と真実のくいちがいを追及しており、シェークスピア単独の作品ではないかもしれないが『アゼンスのタイモン』にいたって、そのシニシズムは頂点に達している。また『尺には尺』『トロイラスとクレシダ』などは、結末こそ喜劇的解決の形をとっているが、素材はむしろ悲劇に近く、作家精神の混迷を感じさせるいわゆる「問題喜劇」である。「第四期」ca.1609以後第三期の憂愁と懐疑から解放され、ふたたび清澄を回復して、ふつう「ロマンス劇」とよばれるもの、すなわち『シンベリン』『冬の夜話』、そして単独作としては最後の作品である『あらし』が書かれた。これらは第三期の悲劇の傑作にくらべて、芸術的価値において劣り、創作力がすでに最盛期をすぎたことを感じさせるものではあるが、彼の詩魂の展開をたどるためにはきわめて重要な作品群である。それについては、前期において経験した暗い情熱のあらしから回復して、ようやく澄んだあきらめの心地に到達したとする説、あるいは人生に対する幻滅がいよいよその深刻さを加えたためとする説、さらに最近には、晩年にいたって詩人が清教徒主義に近づいたと考える説など、学界の注目は最近この時期に向けられてきた感がある。なお彼はこのあと史劇『ヘンリー8世』を書いているが、ジョン・フレッチャーJohn Fletcher(1579―1625)の筆が大いに加わっていることは確実である。彼の作品が世界的古典としての定評を得たのは、19世紀初めに近代ロマン主義が興隆して以来のことである。もとより彼は生前から劇壇の第一人者として評価されてはいたが、比類を断つほど絶対的なものではなかった。17~18世紀においても、少数の目の鋭い日評価を別とすれば、当時の文芸思潮である古典主義は彼の天才に対して冷淡であり、「野蛮な天才」とみるのが一般の考え方であった。それが近代ロマン主義によって時空を絶した天才とあがめられ、イギリスはもとより、いわゆる「シェークスピアのヨーロッパ征服」がおこなわれることになり、ドイツを中心としてほとんど偶像的崇拝をからうるにいたった。その後ロマン的興奮はしずまったが、彼に対する世界的評価はついにふたたび低下することはなかった。このロマン主義批評は、イギリスの詩人批評家コールリジによってみごとな開花を示し、A.C.ブラッドリーの名著『シェークスピアの悲劇』(1904)において完全な結実をみせた。しかしその後、シェークスピア研究はロマン主義的批評に対して反動の傾向を示し、アメリカの学者ストールElmer Edgar Stoll(1874―)や、ドイツの文学者シュッキングLevin Ludwig Schücking(1878―1964)らの主張する歴史的実証主義が勢力を占め、彼をエリザベス朝時代のイギリス人としてみようとする方向にすすんだ。さらにその後になってスパージョンCaroline F.E.Spuregeon(1869―1942)やドイツのクレーメンWolfgang H.Clemen(1909―)による研究は、シェークスピアの研究に新生面をひらき、さらにリチャーズIvor Armstrong Richards(1893―)やエンプソンWilliam Empson(1906―)らの批評態度に刺激されておこったアメリカのニュー・クリティシズムの一派は、戯曲の言葉に鋭いメスをあてることによって作品の意味をさぐりだそうとしている。また一方においては、20世紀初めにポラードAlfred William Pollard(1859―1944)によって先手をつけられた科学的な本文批判は、グレッグSir Walter Wilson Greg(1875―1959)、マッケローRonald Brunlees McKerrow(1872―1940)、ドーヴァー・ウィルソンJohn Dover Wilson(1881―1969)らによって、めざましい発展をとげてきた。シェークスピア研究は上記のほかに今後にまつべきものも多いが、彼の文学のもつ意義はつぎの二点に要約されよう。1.戯曲史的にみて、古代ギリシアの運命悲劇に対して、性格悲劇という一つの型の完成者として不朽意義をもっている。また人工光線を用いない裸の張出舞台という当時の劇場構造を条件として、弱強5脚の無韻詩形blank verseを完成し、英語の達しうるかぎりの最高の詩劇を創造した。2.精神史的にみて、彼の全戯曲はそのままイギリス・ルネサンスの生きた姿であり、その意味で、フォールスタフ、イアゴー、ハムレット以下の性格は、またそのままルネサンス精神の典型的人間群像であるといえる。日本においては、すでに1877年(明治10)に『ヴェニスの商人』が、ラムの『シェークスピア物語』から翻案されて、『胸肉の奇松』と題して『民間雑誌』に掲載されている。また坪内逍遥は188年に『自由太刀余波鋭鋒(じゆうのたちなごりのきれあじ)』と題して『ジュリアス・シーザー』を翻訳したのを皮切りに、1928年(昭和3)までに、少数の短詩をのぞく全作品を独力で翻訳した。上演についていえば、1885年大阪において中村宗十郎一座によって、『ヴェニスの商人』が『何桜彼桜銭世中(さくらどきぜにのよのなか)』という外題で翻案上演されたのを最初に、川上音二郎一座や歌舞伎俳優によって、主として翻案形式によって上演されていたが、1906年に逍遥主宰の文芸協会が設立されると、シェークスピア上演の機運は大いに高まり、逍遥訳による記念すべき上演がしばしばおこなわれた。その後も歌舞伎俳優、築地小劇場などによってとりあげられ、注目すべきものも少なくなかったが、最近にいたって、主として新劇畑の劇団が新しい現代語訳による上演をこころみ、相当数の観客をあつめうるようになったことは、近年におけるシェークスピア映画の成功とともに、この劇作家の民衆への浸透を物語るものであろう。→ヴェニスの商人オセロージュリアス・シーザーハムレットマクベス真夏の夜の夢リア王ロミオとジュリエット


大日本百科事典、小津次郎の記述

(1564―1616)

イギリスの詩人・劇作家。イングランドの中部地方、ウォリックシャーのストラトフォード=オン=エーボンに生まれた。父は皮革加工業を主として、農作物や毛織物の仲買業を営んでいた。母は近在の豪農の出身であった。父は1568年には町長に選出され、シェークスピアは裕福な市民の長男として幸福な幼年時代を送り、町のグラマー=スクール(文法学校)に学んだが、彼が13歳の時に父の没落が始まり、大学へ進むことは許されなかったと思われる。18歳にして8歳年長のアン=ハサウェーと結婚し、6ヶ月後の1583年5月に長女スザンナが誕生、さらに85年2月にはハムネットとジューディスという男女の双生児が生まれた。彼の少年時代についてはまったく記録を欠いており、演劇との結びつきも不明であるが、有力者の子弟として観劇の機会に恵まれていたと思われる。ロンドンに出た事情や年代についても不詳であり、近郊の豪族ルーシー家のシカをいたずら半分に盗んだのが、思いがけない醜聞となったので、郷里を去ったという伝説もあるが、もとより確実な証拠はない。なんらかの理由でロンドンに出たのち劇団に加入したのか、すでに俳優として多少の経歴をもってから劇団とともに上京したのかはわからないが、ロンドンにおける俳優としての生活は80年代の末ごろに始まっていたらしく、92年には新進の演劇人として評判が高かったことを示す資料が残っている。シェークスピアの劇作活動がいつから始まったかは不明確であるが、多くの学者は1590年ごろと推定している。おそらく最初は先輩作家の戯曲に部分的改修を加える助手的作業であったろうが、やがて彼自身の作品と呼びうる戯曲を発表するようになった。その意味で『ヘンリー6世』三部作を彼の処女作と考えることができよう。そのほかに同じく歴史劇の『リチャード3世』を書いたが、歴史劇流行の波にのった新進作家の試みであったろう。またローマの喜劇作家プラウトゥスからの翻案ともいうべき『まちがいの喜劇』や笑劇『じゃじゃ馬ならし』、当時人気の絶頂にあった流血悲劇の線に沿った『タイタス=アンドロニカス』などが初期の作品群を形成している。いずれも習作であり、先輩の模倣や稚拙な部分が残ってはいるが、大作家の萌芽は既に現われている。1592年から足かけ3年にわたってロンドンに流行したペストのため劇場は閉鎖された。シェークスピアはその間に2編の叙事詩『ビーナスとアドーニス』『ルクリース陵辱』をサウサンプトン伯に献呈してその知遇を得た。94年に内大臣の庇護を受けた劇団(ロード=チェンバレンズ=メン)が誕生したが、彼は幹部座員として参加することとなった。劇場閉鎖の結果ともいうべきロンドン劇壇の大規模な再編成はシェークスピアにとって有利な情勢をつくりだしていたといえよう。当時の彼の作品には、叙情性が強く現われており、悲劇『ロメオとジュリエット』、歴史劇『リチャード2世』、喜劇『真夏の夜の夢』はその典型である。このころから1600年ごろまでに彼は主として歴史劇と喜劇を書いたが、『ヘンリー4世』二部作に登場するフォールスタッフなる老騎士は、道徳的には非難に値するが、人間的魅力にあふれており、ハムレットとともにシェークスピアの創造した性格の中でもっとも興味あるものとされている。また『ベニスの商人』『お気に召すまま』『十二夜』はロマンチックな喜劇の傑作であろう。内大臣一座は1599年にテムズ川南岸にグローブ=シアター(地球座)を建設し、シェークスピアにはゆかりの深い劇場となったが、このころから集中的に悲劇を書くようになった。『ジュリアス=シーザー』はその最初であるが、やがて『ハムレット』『オセロ』『リア王』『マクベス』と四大悲劇が相ついで発表されることになる。その素材はそれぞれに異なっているが、いずれも外見と内容、仮象と真実のくい違いに悲劇の世界を見いだし、死との関連において人間的価値の探究を果たそうとしている。1600年ごろからの数年間はシェークスピアの悲劇時代と呼ばれているが、『終わりよければすべてよし』や『尺には尺を』などの喜劇も書かれている。しかしこれらの喜劇には暗い形がさしており、モラルの混迷もみられるところから、問題喜劇という名称を与える批評家もいる。この時期の最後を飾る悲劇は『アントニーとクレオパトラ』であるが、ほぼ同じころに執筆されたと思われる『アセンズのタイモン』には悲劇形式に対する困惑が認められる。1603年に内大臣一座はジェームズ1世の庇護を受けることになり、国王一座と改称した。08年には新しくブラック=フライヤーズ座を購入したが、グローブ=シアターとは異なった様式の劇場で、入場料も高く、比較的裕福な観客層をもっていた。劇壇の新しい経営方針とおそらく無関係ではなかったと思われるが、シェークスピアの作品も1608年から新しい傾向を示すようになった。それはロマンス劇と呼ばれる悲喜劇で、一家の離散に始まり再会と和解に終わる主題の追及であった。『冬の夜話』やシェークスピア最後の刊行作『あらし』はこの系譜に属する。彼は10年ごろにロンドンを去って郷里に帰り、16年4月23日に真だといわれる。誕生日も4月23日前後であったから、満52年の生涯を閉じたことになる。23年には旧友によって戯曲全集が刊行された。通常「ファースト=フォリオ」(二つ折り本初版)と呼ばれている。シェークスピア劇の特色は人間内面の世界を描いた点にあるが、最高の詩的表現に満ちた韻文劇であることも大きな特徴となっている。同じことは英詩最大といわれる『ソネット集』についてもいいうるであろう。日本へは明治初年に紹介され、いくつかの翻案がおこなわれたが、翻訳としては坪内逍遥による『ジュリアス=シーザー』の訳『自由太刀余波鋭鋒(じゆうのたちなごりのきれあじ)』が1884年(明治17)に刊行されたのが最初である。逍遥は1906年に文芸協会を設立し、シェークスピア上演の意欲的活動をおこなったが、協会の解散とともに日本のシェークスピア上演は衰えた。しかし第二次世界大戦後は福田恆存訳による劇壇「雲」の公演活動によって、シェークスピアはふたたび観客大衆に身近な存在となった。また、シェークスピアを学術研究の対象とする「日本シェイクスピア協会」が1961年(昭和36)に誕生、英文の年刊論文集Shakespeare Studiesを発行している。


グランド現代百科事典、小津次郎の記述

(1564―1616)

イギリスの詩人・劇作家。イギリスのルネサンスにあたる、エリザベス朝の代表的劇作家であるにとどまらず、世界演劇史を通じて最高の作家と評価されている。シェークスピアの伝記については確実な資料に乏しく、彼の存在を否定する極端な憶測さえ一部には行われているが18世紀以来のシェークスピア研究の成果により、伝記の概要と作品の創作年代をほぼ確実に推測できるようになった。シェークスピアはイングランドの中部ストラトフォード=オン=エーボンに、裕福な商人の長男として生まれた。父はまもなく町長に選ばれ、彼は名士の子弟として町の文法学校に入学したと推測される。文法学校ではラテン語を中心教科としたきびしい詰込み主義の教育が行なわれていたから、後年の読書のために有益であったにちがいない。彼が13歳の時家運の没落にあい、そのため大学への進学は許されなかった。少年時代は家業を手伝っていたという伝説が残されているが、おそらく真相に近いものであろう。1582年に8歳年長のアン=ハサウェーと結婚し、半年後には長女スザンナが生まれ、さらに85年には男女の双生児が誕生し、ハムネット、ジューディスと命名された。それ以後数年間の動静については記録が皆無であるため推測の域を出ないが、一つ興味深い逸話が伝えられている。それによると、青年シェークスピアは近郊の豪族ルーシー家の鹿園からいたずらで鹿を盗んだが、そのことが露見し、ルーシー家との間に激しい応酬のあったあと、郷里にいたたまれずロンドンに出て、劇壇に参加して上京したという推定を下しているが、確実な根拠はない。確実であるのは、1592年にはシェークスピアは劇作家としてロンドンで活躍していたという事実である。これは劇作家ロバート=グリーンの残した文献によって明らかである。おそらく彼は1580年代の後半にロンドンに出て、当時の演劇人の多くがそうであったように、まず俳優として舞台に立ち、やがて劇作家に転じたのであろう。彼は名優ではなかったが、一人前の俳優であったことは記録にも残っている。シェークスピアの処女作が何であったかは確実には断定できないが、『ヘンリー6世』三部作や『リチャード3世』のような歴史劇をもって劇壇にデビューしたと考えられる。歴史劇は当時流行の演劇様式であったから、彼は1590年ごろから、いわば習作としてそのような作品を手がけたのであろう。もとより未熟な作品ではあるが、たとえば『リチャード3世』のように、一般には極悪非道の暴君とのみ考えられていた人物に、ほとんど近代的ともいえる自意識を与えて、これを単なる勧善懲悪劇に終わらせず、主人公の悲劇として完成させたのは、彼の偉大な才能がすでにこのころから自己の世界を発見していたといえるであろう。『間違いの喜劇』や『じゃじゃ馬ならし』もこのころに書かれた喜劇で、笑劇的な要素の強い単純な作品ではあるが、人間性への深い理解において、やはり凡庸な作家の手になったものではない。1592年から94年初頭にかけてロンドンにペストの大流行があり、劇場は閉鎖され、民主向けの演劇活動はほとんど全面的に停止された。この間シェークスピアは2編の叙事詩、すなわち『ビーナスとアドーニス』(1593)と『ルークリース凌辱』(94)をサウサンプトン伯爵にささげ、その個人的庇護を受けることになったが、このころに執筆されたと推定される喜劇『恋の骨折り損』は伯の政敵ウォルター=ローリー卿一派を揶揄したものであり、めったに個人攻撃をすることのなかったシェークスピアとしては異色の作品である。ペストによって多くの劇団は解散に追いこまれていたため、1594年にはロンドン劇壇は大きな変貌をとげ、その結果の一つとして時の内大臣ハンズドン卿をパストロンとする内大臣一座が誕生し、シェークスピアは幹部座員として参加することになったが、これ以後の彼の全生涯はこの劇団にささげられたといってよい。内大臣一座はシェークスピアとほぼ同年の悲劇俳優リチャード=バーベッジを中心とする若い劇団で、シェークスピアはこの劇団のために、喜劇『真夏の夜の夢』、史劇『リチャード2世』、悲劇『ロミオとジュリエット』を書いた。いずれも1595年ごろの作品であるが、高い叙情性に貫かれており、エネルギーに満ちてはいるが、粗削りの感を免れなかった従来のエリザベス朝演劇に、典雅な演劇性を与え、シェークスピア独自の世界をつくり出している。1595年ごろから1600年ごろまでをシェークスピアの喜劇時代と呼ぶ批評家もいるが、確かに彼はこの時期に多くの喜劇を書いている。『ベニスの商人』(1596)、『から騒ぎ』(98)、『お気に召すまま』(99)、『十二夜』(1600)はその代表的作品であろう。これらにロマンチック=コメディという名称が与えられているのは当時の喜劇にありがちな風刺制が希薄であり、ロマンチックな愛と結婚が主題となっているからであろう。しかし、これらの喜劇は単に甘美で華麗な愛の物語ではない。『お気に召すまま』のジェークイーズのようにロマンチックな世界への批評者を登場させることを忘れては居ないし、『ベニスの商人』におけるユダヤ人の高利貸シャイロックのような、一面では非情な悪人でありながら、他面では悲劇的な人物を導入することによって、喜劇の世界を深化している。また1597年に書いた史劇『ヘンリー4世』二部作に登場するフォールスタッフなる人物は、シェークスピアの人間研究を極致を示すものといわれている。この不道徳にしてしかも愛すべき老兵は、ゆるぎない市民感覚の持主で、貴族を中心とした歴史劇の中では笑われる存在あるが、同時にまた貴族の持つ空虚な道義感を嘲笑する役割をもになっている。また、英文学史上最大のソネット集であり、シェークスピアの自伝的要素が含まれているからに見える『ソネット集』(1609刊行)はこの時期に完成されたと推定される。シェークスピアは座付作者として成功を収め、相当の蓄財ができたためか、1596年には父親のために紋章使用権を買い取り、紳士階級(gentleman)と呼ばれる資格を得たが、さらに翌年には郷里のニュー=プレースと呼ばれる大きな邸宅を購入した。内大臣一座も1599年にテムズ川南岸にグローブ座を建設し、ここを本拠としてさらに活発な公演活動を続けることとなった。そして1600年ごろから悲劇を集中的に書くようになった。その先駆けをなすものはローマ史劇『ジュリアス=シーザー』(1599)であるが、次の『ハムレット』(1601)からシェークスピアのいわゆる悲劇時代が始まると考えてよいだろう。半世紀近くも続いて、イギリスにルネサンスの花を開かせたエリザベス1世の治世もようやく終りに近づき、急激な発展をとげたあとの弛緩と社会的矛盾が人人の意識に上るようになり、思想的にも従来の正統に対する懐疑が現われはじめた。『ハムレット』が復讐劇という形をとりながら、主人公ハムレットの精神的遍歴に焦点を合わせた傑作悲劇となっている背景には、そのような時代の影響を認めないわけにはいかない。1603年に女王は世を去り、チューダー王朝は終りを告げ、ジェームズ1世が王位を継承してスチュアート王朝が始まった。内大臣一座は国王の庇護を受けることとなり、国王一座と改称した。シェークスピアは『オセロー』(1604)、『リア王』(05)、『マクベス』(06)の傑作悲劇を次々と発表し、ここに『ハムレット』を含めていわゆる四大悲劇が完成することとなった。ハムレットはデンマーク王子、オセローはベニス公国に仕える黒人将軍、リアは伝説的なイギリス王、マクベスは史上実在のスコットランド王。それぞれに世界を異にし、置かれた境遇もちがっているが、外見と真実のギャップに落ちこみ、全人格的な懊悩と葛藤の後に、生命と引換えに真実を獲得するという悲劇的設定、真実を得えんがために、あえて悪を犯すとさえいえるような逆説的後世は、四大悲劇をはじめシェークスピア悲劇に共通した特色であるということができる。ことに『リア王』においては、正統的な悲劇の限界を越えんばかりにして、不条理演劇に接近しているとさえ評することもできよう。その破綻は次の失敗作『アセンズのタイモン』(1607)に露呈されているが、男女間の愛を当時の演劇に類例を見ないほど冷酷かつ芳醇に描いた悲劇『アントニーとクレオパトラ』(07)をもって、シェークスピアの悲劇時代は終わる。シェークスピア劇は高次元における主題の倫理性と、弾力性に富む無韻詩の駆使による詩的世界の創造によって、エリザベス朝演劇を率いてきたが、このころになって演劇界の様相も変化し、観客の嗜好にも前代との相違が見られるようになってきた。彼がその傾向に同調したか否かは軽々しく断定できないが、1608年ごろからはロマンス物語に取材した悲喜劇を書くようになった。離散した家族の再会、娘による父親の救済が共通した主題であり、その代表作としては『冬物語』(1610)、『テンペスト』(11)があげられるであろう。晩年のシェークスピアは故郷に帰り、妻子とともに数年間の家庭生活ののち、1616年に永眠、郷里のホーリー=トリニティ教会で埋葬された。23年に彼の戯曲全集が刊行されたが、かつての僚友でありライバルであった劇作家ベン=ジョンソンは、その序文でシェークスピアに「彼は一時代のものではなく、万代のものであった」と賛辞を贈っている。


世界文化大百科事典、日高八郎の記述

(1564―1616)

イギリスの劇作家・詩人。中部イングランドのストラトフォード=オン=エーボンの生まれ。8人兄弟の第3子で長男。父ジョンは農産物販売や製皮を業とする資産家で、母メアリはカトリックの旧家の出身。少年時代については伝説的なこと以外明らかでない。町の中等学校に学んだと考えられるが、買うんが傾いたためか高等教育は受けなかった。18歳のとき8歳年長の女と結婚、やがてロンドンへ出たが、その日付は不明。27前後から劇作に従事するとともに詩作を始め、1593年に書初の物語詩『ビーナスとアドーニス』を、翌年『ルークリースの陵辱』を出版。1609年には、早くに創作されていた『ソネット集』を出版した。劇作は、喜劇17編、史劇10編、悲劇10編、合計37編(このうち他人との合作と思われるもの10編)を数えるが、創作年代は1590年ごろから1613年ごろまでと推定されている。初期の傑作が『ロミオとジュリエット』『真夏の夜の夢』から二部作『ヘンリー4世』を経て、やがて創作力の頂点を示す四大悲劇『ハムレット』『オセロ』『マクベス』『リア王』の時期にはいるが、壮大さと人間性の深淵への洞察においてギリシア悲劇に比肩しうるとされている。この時期には、暗い影のある作品がにわかにふえ、作者の一身上になにかが起こったとも考えられる。以後、『あらし』などの悟りを開いたような作品数編を残し、47歳で突然筆を折り、故郷に隠退。その作品は、イギリスというわくを越えた世界最大の劇作家・詩人として、後世に深い影響を及ぼした。とりわけその大胆にして骨格の整った作劇術、力強いリアリズムの精神と奔放な想像力、あるいは人間性への鋭く、受容力の広い観察など、時代や国籍を越えて人間を打つものがある。ほかに劇作として『じゃじゃ馬ならし』ベニスの商人』『お気にめすまま』『十二夜』『ジュリアス=シーザー』『アントニーとクレオパトラ』『コリオレーナス』など。


哲学事典、著者不明の記述

(1564―1616)

イギリスの劇作家、詩人。イギリスの国家形成を描く史劇において、かれは『リチャード3世』Richard Ⅲ(1592―93)のような個性を創造し、この個人への関心に添い悲劇の主人公を登場させた。『オセロ』Othello(1604―05)は家庭悲劇的様相を帯びるが、『マクベス』Macbeth(1605―06)では、主人公の時の意識や内部秩序のくずれる破局に悪が人間の深層をみせ、『ハムレット』Hamlet(1600―01)の虚偽と真実の対照の中を生きる復讐者の心理葛藤は『リア王』King Lear(1605―06)で普遍化し、二元的因果律の中で破滅に至る人間の本性であばく。晩年『あらし』The Tempest(1611―12)のような調和の世界を示すが、多彩な喜劇も含めルネサンス人らしい豊かな人生の想像的把握を示した。上述以外に、『じゃじゃ馬ならし』The Taming of the Shrew(1593―94)、『夏の夜の夢』A Midsummer Night's Dream(1595―96)、『ヴェニスの商人』The Merchant of Venice(1596―97)、『お気に召すまま』As You Like It(1599―1600)、『十二夜』Twelfth Night(1599―1600)、『ロミオとジュリエット』Romeo and Juliet(1594―95)、『ヘンリー5世』Henry Ⅴ(1598―1599)、『ジュリアス・シーザー』Julius Caesar(1599―1600)、『トロイラスとクレシダ』Troilus and Cressida(1601―02)、『末よければすべてよし』All's Well that Ends Well(1602―03)、『以尺報尺』Measure for Measure(1604―05)、『ソネット集』Sonets(1609)など問題作は多い。