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ラ・フェ・アンサングランテ 第六話 - (2010/11/28 (日) 11:37:01) の編集履歴(バックアップ)


482 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第六話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/25(木) 08:22:40 ID:Pk9vug3C
 窓を叩くパラパラという音に、ジャンはベッドの中でゆっくりと目を開けた。

 この季節、ジャンのいる国では雨が多くなる。
 農家にとっては恵みの雨なのだろうが、街で暮らす人間にはたまらない。
 日の出ている時間も徐々に短くなるため、本格的に寒さが身にしみる季節となってくるのだ。

 足先の冷たさに、ジャンは目覚めるなり体を起こし、同時に足を毛布の中に引っ込めた。

 寒い。
 昨日までの晴れていた天気が嘘のようだ。
 身体の芯から氷で冷やされているような感覚に、思わず胸の前を両腕で抱えて震え上がった。

「やれやれ……。
 どうやら、本格的に冬がやってきたみたいだな。
 この寒さで、伯爵の病気が悪化しなければいいけど……」

 テオドール伯の病のことを考えると、ジャンは少々気が重くなった。

 彼の病気は、薬を飲めば治るようなものではない。
 体質を変え、痛みを和らげ、病気の進行を食い止めることはできても、根本から治療する術などありはしない。

 昨日、伯爵に処方した薬だけでは、もう間に合わなくなるだろう。
 こと、この地方の冬の寒さは厳しく、老齢の伯爵にはこたえるはずだ。
 リウマチを患っている者にとって、冷えは大敵である。

 ベッドから抜け出して服を着替えると、ジャンは鞄の中身を確認してから部屋を出た。
 一応、必要な薬の材料は一通り揃えてある。
 当分はこれで持つだろうが、雨が続くようでは買出しにも支障が出る。

 やはり、伯爵の力を借りて、どこぞの行商人と直接契約でも結ばねば駄目なのかもしれない。
 安定した診察と治療を続けるには、それも仕方がない。

 そんなことを考えながら、ジャンは服の襟を正して部屋を出た。
 リディは既に起きて朝食の準備をしているようで、三階の廊下はしんと静まり返っていた。

 二階へ続く階段を下り、そのまま食堂へと向かう。
 部屋の扉を開けると、何やら香ばしい匂いが鼻をくすぐった。

「あっ、おはよう、ジャン。
 今日は寒いね」

「ああ。
 どうやら、完全に冬がやってきたみたいだね。
 僕も寒いのは苦手じゃないけど……昨日と比べても、今朝はちょっと寒過ぎる気がするよ」

「大丈夫、ジャン?
 もしかして、風邪とかひいてない?」

「平気だよ。
 こう見えても、父さんと一緒に旅していた頃は、野宿するようなこともあったしね。
 屋根のある部屋と上等なベッドで眠れるだけでも、僕には十分さ」


483 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第六話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/25(木) 08:23:40 ID:Pk9vug3C
 強がりではなく、それは本心だった。
 リディは心配そうにしていたが、ジャンは自分自身、そこまで身体が弱いとは思っていない。
 小さい頃は読書好きでモヤシのような子どもだったが、父と十年も放浪の旅を続ければ、自然と暑さや寒さに対する抵抗力もついていた。

「そうそう。
 今日は寒いから、朝から体が温まるものを作っておいたんだよ。
 よかったら、出かける前に食べて行かない?」

 ジャンを気遣うような表情はそのままに、リディが尋ねた。
 先ほどの香ばしい匂いは、やはり朝食の仕込みをしていた際のものだったようだ。

「そうだね。
 折角だから、いただこうかな。
 でも……今日は雨だし、クロードさんが来るのは昼過ぎだから、それまでは宿にいることになると思うけど……」

「なぁんだ。
 まあ、ジャンが喜んでくれるなら、別に私は構わないけどね」

 口では少し残念そうに言っているものの、口調そのものは明るかった。
 軽快な足音と共に、リディは階下の厨房へと続く階段を下って行く。
 宿場の構造上、調理場だけは下の酒場と共有するような形になっていた。

 程なくして、リディがスープの入った鍋を持ってきた。
 鍋の蓋の隙間からこぼれ出る湯気に混ざって、チーズの焦げたような匂いが漂ってくる。
 蓋を開け、レードルでスープを皿に取り分けると、リディはそれをジャンの前に置いた。

「リディ……。
 このスープ……」

「うん。
 私のお母さんが得意だったチーズスープだよ。
 ジャンも、昔、私の家に遊びに来たとき、食べたことがあったよね」

「ああ、覚えているよ。
 僕の母さんは、料理はあまり得意じゃなかったからね。
 あの時は、本当にリディの家が羨ましく思えた」

「そこまで言われると、ちょっと恥ずかしいかな。
 それに、私の料理の腕だって、まだお母さんには及ばないと思うしね」

 自分の分のスープをよそいながら、リディは多少の謙遜も込めてそう言った。

 この街にいる間だけでも、ジャンには自分の作った美味しい料理を食べてもらいたい。
 その一心から、ここ最近の調理の仕込みは一段と力を入れてきた。
 メニューはどれも家庭料理の域を出ないものだったが、かけている手間と時間が違う。
 それこそ、自分の母の腕には及ばなくとも、ジャンに満足してもらえるだけのものを出しているという自信はあった。


484 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第六話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/25(木) 08:24:22 ID:Pk9vug3C
 テーブルに備え付けられたバスケットからパンを一切れ取り、ジャンはそれをスープの皿の横に置いた。
 目の前に席にリディも座り、二人で少し早目の朝食を始める。
 他の宿泊客は未だ目覚めていないのか、食堂にはジャンの他に誰かが来るような気配はなかった。

「ねえ、ジャン。
 私の作ったスープ……どうかな?」

「うん、美味しいよ。
 昔、リディの家で食べさせてもらったのと、全然変わらない」

「本当?
 無理して、お世辞とか言ってない?」

「いや……。
 お世辞なんかじゃなくて、普通に美味しいよ。
 君がこんなに料理が上手だなんて、今まで知らなかった」

「そ、そうかな……。
 別に、普通だと思うけど……」

 ジャンは率直に思ったことを述べたつもりだったが、リディは嬉しそうだった。
 少し、はにかんだ表情になりながらも、ジャンに誉められたことは満更でもなさそうである。

 それから二人は、互いに他愛もない話をしながら簡単に食事を済ませた。
 パンとスープだけの朝食だったが、冷え込んだ朝に暖かいスープが食べられたことだけで、ジャンは十分に満足だった。

 食器の片付けをしながら、リディがふと窓辺に顔を向ける。
 外では未だ大粒の雨が窓ガラスを叩いており、窓に張り付いた雨粒は、そのまま雫となって下に流れ落ちて行く。

「雨、止まないね……」

 呟くように、リディが言った。
 その顔がどことなく影を帯びているように見えるのは、果たして薄暗い空のせいだけだろうか。

「ジャン。
 あなたは、雨って好き?」

 食器をまとめたリディがジャンに問う。
 何気ない、本当に他愛もない問いかけだったが、なぜかリディの表情には元気がなかった。

「そうだなぁ……。
 天気に関して好きとか嫌いとか、あまり考えたことはなかったよ。
 少なくとも、農家の人にとっては、この時期の雨は大切みたいだけどね」

「ふうん。
 私は雨、あまり好きじゃないな。
 雨の日の思い出って、嫌なことしかないから……」


485 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第六話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/25(木) 08:24:49 ID:Pk9vug3C
「嫌なこと?」

「うん……。
 私のお母さんが亡くなった日も、こんな雨の日だったの。
 今日みたいに、冷たい雨の降る日に……お母さん、風邪をこじらせて、そのまま死んじゃったんだ……」

 いつしかリディの声は、聞きとることが難しいほどに、か細いものになっていた。
 その声に、いつものはつらつとした様子はない。
 重たい空気が部屋を包む中、ジャンもリディに何を言ってよいのか躊躇われた。

 もし、自分がこの街に残り、今のように医者をやっていたらどうだったか。
 病に伏せるリディの母親を救い、彼女に今のような思いをさせずに済んだのではないか。

 馬鹿らしい考えだということは、自分でもわかっていた。
 別に、自分が街に残っていたからといって、リディの母親の病気を確実に治せたというわけでもない。
 しかし、その一方で、別れの言葉さえも告げずに街を去ってしまった自分自身、どこかでリディのことを裏切っていたのではないのかという罪悪感もある。
 リディ自身がそんなことを言うとは思えなかったが、今のような顔をされると、やはり後ろめたいものを感じてしまう。

 何とも言えぬ気まずい空気が食堂に流れた。
 互いに次の言葉を出せなくなり、外から響いてくる雨音だけが、妙に大きな音に感じられた。

「あの……ごめんね、ジャン。
 急に、こんな話しちゃって……」

 沈黙を破ったのは、リディの方からだった。
 この場の空気を気まずくした原因が自分の言葉にあると気付き、さすがに申し訳なさそうに俯いている。

「いや、別に君が気にする必要はないよ。
 リディだって、色々と苦労はしたんだろ。
 それに……嫌な思い出ってものは、忘れたくてもなかなか忘れられないものだからね」

「ありがとう、ジャン。
 でも、私はもう平気だよ。
 家族はみんな死んじゃったけど、代わりにジャンが帰って来てくれたんだものね。
 だから、今はちょっとだけ、寂しいのも我慢できるかな」

 そう言って、リディは無理に笑顔を作るような素振りを見せたが、彼女の言葉にジャンは答えなかった。

 いったい、リディは何のつもりで、こんなことを言うのだろう。
 思わずジャンは、そんなことを考えながら彼女を見た。
 伯爵の病気が快方に向かえば、自分は街を去ってしまうのだ。
 それをわかって言っているのだろうか。

 やはり、この街に帰って来たのは間違いだったのかもしれない。
 今後もリディがこの街で宿場を続けて行くことを考えると、自分はこれ以上、リディに深く関わることは避けるべきなのかもしれない。



486 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第六話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/25(木) 08:25:48 ID:Pk9vug3C
 階下の厨房に食器を片づけに戻るリディに、ジャンはクロードが迎えに来たら呼ぶように言って食堂を去った。
 これから他の宿泊客が朝食のために食堂を訪れることを考えると、この気まずい空気は早めに払拭しておきたい。
 それに、下手にリディに同情しすぎて、彼女に妙な依存心を抱かせてしまうのもよくないと思った。

 人のいなくなった食堂に、再び静寂が訪れる。
 先ほどまでの話声は既になく、あるのは規則的に窓ガラスを叩く、雨の音だけだった。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 クロードがジャンのいる宿場を訪れたのは、昼を少し過ぎた辺りのことだった。

 最近になって気づいたのだが、彼はいつも寸分狂わぬ時間で宿場にやってくる。
 一、二分の誤差はあるものの、迎えの時間が大幅にずれたことなどまったくない。
 時間にルーズな者の多い、ジャンの国の人間とはえらい違いだ。
 これも一重に、異国から流れてきた者の感覚の違いというやつだろうか。

 その日は午前中にすることもなかったので、ジャンは独り部屋の中で、適当に本を読んで暇を潰していた。
 とはいえ、仕事のことを完全に忘れたわけではなく、読んでいたのは、例の東洋医学の本である。
 本格的に冬が訪れた今、伯爵に処方する次の薬を考えていたのだ。

 リディに呼ばれ、ジャンは本を片付けて一階へと降りた。
 クロードに案内されるままに馬車に乗り、そのまま伯爵の屋敷に向かう。
 もう、この街に来て、かれこれ一週間近くは同じ生活を続けているだろうか。

 街を濡らす雨の音に混ざり、馬車を引く馬の蹄の音が聞こえてきた。
 時折、水溜りを踏んでいるのか、パシャパシャと何かが跳ねるような音がする。
 それ以外は何も聞こえず、雨の街中は不気味なほど静かだった。

 もう昼を過ぎているというのに、馬車を包むこの静寂はなんなのだろうか。
 単に雨が降っているというだけでは、あまりに説明がつきそうにない。

 空気が冷たく感じる原因は、ジャンにもわかっていた。
 何のことはない、隣にいるクロードが、あまりに無口で無表情なためだ。
 いつもジャンの送迎に現れるものの、その顔は同じ人間として、あまりにも変化に乏しかった。
 つい、目の前の男には感情というものがあるのかと、本気で疑いたくなってしまう。

 馬車を使えば伯爵の屋敷までは決して遠くはなかったが、ジャンにはそれまでの道中が長く重苦しいものに感じられた。
 今朝のリディといい、今日はどうにも気分が滅入る。
 リディは雨が嫌いだと言っていたが、このままでは自分も雨嫌いになってしまいそうだ。

 ところが、そんなことを考えていたジャンの気持ちを他所に、その日の静寂を破ったのはクロードの方だった。


487 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第六話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/25(木) 08:26:29 ID:Pk9vug3C

「ところで、ジャン様……?」

 突然名前を呼ばれ、ジャンはしばし驚いた表情でクロードを見つめる。
 彼の方から話を振ってくることなど、これまではまったくなかったのだから。

「昨日、ルネお嬢様に会われたようですね」

 クロードの口から出た言葉に、ジャンは思わず顔を強張らせた。

 ルネ・カルミア・ツェペリン。
 テオドール伯の娘である、赤い瞳をした少女。
 昨日、ジャンが厨房で薬を煎じている際に現れ、そこで束の間の談笑をした。

 まさか、昨日のことで、自分は何か咎められるようなことをしてしまったのか。
 特に無礼を働いたつもりはなかったが、それでもやはり不安になる。
 無表情な分、何を考えているのか分からないクロードの存在が、更にその不安をかき立てる。

 だが、そんなジャンの心配を他所に、クロードは「屋敷に着いたら話があります」と告げただけだった。
 それ以上は何も語らず、いつもの無口な執事長に戻る。
 その瞳は、既にジャンの方へと向けられてはいない。

 クロードは、いったい何を考えて、ジャンにルネとのことを問うたのだろう。
 横目に彼の顔を見てみるものの、そこには答えなど書かれてはいない。

 今日は朝から、自分の周りを気まずい空気だけが漂っているような気がする。
 なんだか自分の目の前まで黒い雲で覆われそうな気分だったが、狭い馬車の中では逃げ場もない。

 いつしか馬の足音は、石造りの道を歩くそれから土を踏むそれに変わっていた。
 雨は未だ止む気配を見せなかったが、伯爵の屋敷のある丘までは、目と鼻の先まで近づいていた。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 ジャンが伯爵邸に着いたとき、外はまだ雨が降り止んでいなかった。
 屋敷の廊下を歩いている分には雨音も幾分か和らいだように思われたが、ふと窓辺に目を向けると、そこには雨垂れが止まることを知らない滝のように流れ落ちているのが見て取れる。

 これでは、むしろ朝方よりも雨が強くなっているのではないか。
 そんなことを考えながら、ジャンはクロードに連れられたまま屋敷の廊下を歩いた。

 いつもであれば、このまま伯爵の部屋に赴いて往診をし、その後、病状に合わせて薬を煎じる。
 もう、かれこれ一週間近く、こんな生活を続けている。

 ところが、その日にジャンが連れてこられたのは、果たしてテオドール伯のいる部屋ではなかった。


488 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第六話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/25(木) 08:27:19 ID:Pk9vug3C
「どうぞ、こちらへ……」

 人目を憚るようにして、クロードがジャンを部屋の中に招き入れる。
 決して大き過ぎる部屋ではなかったが、それでもジャンは、案内された部屋が十分に広いものであると感じていた。
 品の良い内装品に彩られた部屋の様子が、より一層、その場の空気を高貴なものにしていたからかもしれない。

 ガチャリ、という扉の閉まる音だけがして、部屋にはジャンとクロードの二人きりとなった。
 相変わらず、クロードは必要以上のことを語ろうとしない。
 彼が何を考えているのかが分からないだけに、先ほどから妙な不安にまとわりつかれているような気がしてたまらない。

「あの……この部屋は……?」

 たまらず、ジャンがクロードに尋ねた。
 これ以上の沈黙を続けることは、心の方が先に悲鳴を上げてしまいそうで怖かった。

「ここは、私の部屋ですよ、ジャン様。
 この部屋であれば、人目を憚ることなくお話ができるというものです」

「人目を憚るって……。
 何か、僕だけに話さなくちゃいけないことでもあるのかい?」

「ええ。
 昨日、ジャン様がお会いになったルネお嬢様ですが……彼女のことについて、少々お話があります」

 やはり、そう来たか。
 自分の予想が悪い方向に当たってしまったことを感じ、ジャンは思わず指に力を込めて手を握った。

 執事長であるクロードが、自分の部屋に客人を直々に呼び出して話をする。
 彼の立場から考えれば、これは余程のことだ。
 昨日、ルネとは互いに談笑をしただけだったが、やはりどこかで無礼を働いてしまったのか。

 この先、自分はどんな断罪を受けることになるのだろう。
 そう思って身構えるジャンだったが、クロードの口から出たのは意外な言葉だった。

「では、ジャン様。
 単刀直入に申し上げます」

「な、なんだい……?」

「ジャン様には、お嬢様の……ルネ様の話し相手になっていただきたいのです」

「えっ……!?」

 あまりのことに、ジャンはしばらく時が止まったような感じがした。
 自分の耳を疑ってみたくなったが、クロードは至って真剣な眼差しでこちらを見つめている。
 もっとも、目の前の人形のような執事長が、冗談を言うとは間違っても思えないのだが。


489 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第六話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/25(木) 08:41:28 ID:Pk9vug3C
「あの……話し相手って……」

 クロードの言っていることが上手く呑み込めず、ジャンは言葉を切りながら聞き返した。

「ですから、ジャン様にはお嬢様の話し相手になっていただきたいと……そう、申し上げているのです」

「でも、話し相手って言ってもなぁ……。
 見ての通り、僕はしがない旅の医者だ。
 テオドール伯の診察のために、この御屋敷に通わせてもらっているだけで……貴族のお嬢様が楽しめるような話なんて、そう知っているような者じゃないよ」

「これは、ご謙遜を。
 昨晩、お嬢様はジャン様のことを、いたく気に入られたご様子でした。
 見ず知らずの他人に、お嬢様があそこまで心を開くようなことは、滅多にないことなのです。
 故に、ジャン様にはお嬢様の、お話し相手になっていただきたいと思った次第なのですが……」

「それはまた、随分と過大評価されたものだね、僕も……。
 でも、さっきも言ったけど、僕はあくまで伯爵の病気を治すために訪れた旅の医者さ。
 クロードさんが、僕のことをどう思っているかは知らないけれど……あなたの言うお嬢様の話し相手には、やっぱり吊り合わないんじゃないのかい?」

 自分のことを誉められて悪い気はしなかったが、それでもジャンは、あえて自分を卑下するようにして言った。

 所詮、自分は気まぐれで帰省した旅の医者。
 定住の地など求めてはいないし、何よりも自分を追い出したこの街に、そこまで長くいるつもりもない。

 他人と深い繋がりを持つこと。
 それは、旅の医師である自分には不要な関係だ。
 今朝のリディを見ても分かるように、下手な優しさは相手の依存心をかき立てる。
 その結果、不幸な別れしか残らないのだとしたら、最初から深い繋がりなど持たない方がよいのだ。

「なるほど。
 ジャン様のお考えは、わかりました……」

 クロードが、小さな溜息と共にそう言った。
 いつもは感情の片鱗さえ見せないだけに、こういった仕草さえも珍しく感じられる。

「では、質問を変えましょうか」

 何も言わず、あくまで自分を下に見ることで距離を保とうとするジャンに、それでもクロードは諦めずに尋ねる。

「ジャン様は、お嬢様のお姿を見て……どう思われましたか?」

「ど、どうって……」

「御覧の通り、お嬢様は普通の人間とは、その容姿を大きく異にしておられます。
 故に、他の者から好奇の目で見られ、拒絶されることも多かったのです。
 心無い者からは、魔女とまで呼ばれたこともありました」


490 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第六話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/25(木) 08:42:00 ID:Pk9vug3C
「魔女、か……。
 まったく、馬鹿馬鹿しい発想だね。
 彼女だって、望んであの姿に生まれたわけじゃないだろうに……」

「ええ、その通りです。
 ですが、お嬢様はその体質故に、光に臨むことは決して叶わないのです。
 日中の太陽の光は肌を焼き、酷いときは全身に飛火や瘡蓋ができます。
 他の者たちが容易につかむことのできる光でさえ、お嬢様には身を焦がす毒でしかないのです」

 いつしかクロードの口調は、ややもすると熱を帯びたものに変わっていた。
 普段、感情の欠片さえ見せない男だったというのに、そのどこにこれだけの想いを隠していたのかが不思議だった。

 クロードの言わんとしていることは、ジャンにも分かる。
 ルネが、他者とは異なる容姿で生まれついたが故に、好奇と偏見の目に晒され続けてきたという現実。
 物心ついた時から奇異の眼差しを向けられてきたとあっては、その心を貝のように閉ざしてしまうこともまた、至極当然のことだったのだろう。

 しかし、だからこそ、そんなルネが自分から心を開こうとした相手を逃したくない。
 ルネのことを理解してくれる人間に、彼女の側にいてもらいたい。
 その気持ちは、ジャンにもわからないでもない。

「僕は……」

 慎重に言葉を選びながら、ジャンは大きく息を吸い込んでクロードに言った。

 自分は医者だ。
 例えどのような姿で生まれ、どのような瞳や髪の色を持とうとも、それらに偏見を抱くようなことがあってはならない。
 それに、自分のせいではないというのに、他者から拒絶され、意味嫌われる辛さは痛いほど知っている。

「僕は……彼女のことを、容姿で判断したりはしないよ。
 それが医者としての、人に対する接し方だし……彼女だって、自ら望んで人とは違う姿に生まれてきたわけじゃないんだろうからね」

「なるほど。
 それが、あなたの答えというわけですね」

「ああ、そうだよ。
 まあ……しいて言えば、僕は彼女のことを、とても美しい人だと思った。
 こんなことを言えるような立場じゃないってことは、自分でもわかっているけど……彼女がとても純粋な人だってことは、僕にもわかる」

 その場を取り繕うための方便ではなく、これはジャンの本心だった。

 全身の色が抜けてしまったかのようなルネの身体は、たしかに知らない者が見たら驚くだろう。
 だが、ジャンにはそんなルネのことが、とても純粋で美しいものに思われた。
 自分と同じ異端者でありながら、穢れを知らず、一点の曇りもない眼差しを持っている。


491 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第六話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/25(木) 08:42:50 ID:Pk9vug3C
 下らない、身勝手な幻想だということは、ジャンも十分にわかっていた。
 ただ、同じ異端者という立場が奇妙な同族意識を生み、そこに共感することで、自分自身を慰めようとしているのだということも知っていた。

 自分がルネに抱いている感情は、結局のところ自分勝手な妄想に過ぎない。
 そう思っていたジャンだったが、彼の言葉を聞いたクロードは、どこか安心した様子でジャンに答えた。

「美しい……ですか。
 そのようなことを言われたのは、あなたが初めてですよ、ジャン様。
 お嬢様を御自分の養女として迎えたテオドール伯でさえ、彼女にそこまでの言葉をかけることはありませんでしたからね」

「養女!?
 それじゃあ、ルネ……いや、お嬢様は……」

「ええ。
 ジャン様のお考えの通り、御主人様の本当の娘ではございません。
 四年前、まだ我々が隣国にいた際、御主人様がご自身の養女にされたのです」

「そうだったのか……」

 テオドール伯とルネは、血の繋がりのある親子ではない。
 クロードの口から語られた言葉は衝撃的だったが、彼の言葉によって、ジャンの中で疑問に思っていたことが一つ解決した。

 伯爵とルネは、父親と娘というには、あまりにも年齢が離れ過ぎている。
 母親に当たる人物が屋敷の中にいないこともあり、どうにも奇妙な感じを抱いていたが、養女という関係であればなっとくがゆく。

「四年前……お嬢様は、家族の者と峡谷を馬車で移動している際に、不幸にも落石による事故に遭われました。
 その現場に偶然居合わせた私と御主人様が、お嬢様を助け出したのです」

「落石事故、か……。
 だったら、彼女の本当のご両親は……」

「ええ。
 既に、この世を去られています。
 お嬢様も酷い怪我をされていましたが、奇跡的に命を取り留めました。
 以後、御主人様は彼女を養女にされ、亡くなられたご両親の代わりに育てておられるのです」

 話を続けているうちに、クロードの口調はいつものそれに戻りつつあった。
 昔の話をすることで、少しは気も静まったのだろうか。

「御主人様は、ジャン様と同じように、人の容姿に関して偏見を抱くようなことはされません。
 だからこそ、身寄りのないお嬢様を、何の躊躇いもなくお引き取りになられたのです。
 例え、その髪の色や肌の色、瞳の色が、他の者たちと異なるものであったとしても……」

 ジャンに背を向け、窓辺に流れ落ちる雨垂れを見据えながら、どこか遠くを見るような表情でクロードは話し続ける。
 人を見た目で判断しないというテオドール伯の考えには、ジャンも共感する部分はあった。


492 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第六話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/25(木) 08:43:33 ID:Pk9vug3C
 だが、それにしても、クロードが自分を個室に招き入れた理由はなんだろうか。
 先ほどから、不思議に思っていたのはそこである。
 ルネと伯爵の関係については謎が解けたが、それとは別の疑問がジャンの頭の中に浮かんできた。

 ルネについての話をするのであれば、別に移動中の馬車の中でもよかったではないか。
 確かに聞き手を選ぶような話かもしれないが、別に人目を憚る必要があるとは思えない。

「あの……クロードさん。
 話はわかりましたけど……それなら、どうして僕を、わざわざこんな個室に呼んだんですか?
 話をするだけなら、別に馬車の中でもよかった気がしますけど」

「そうですね。
 確かに、御主人様とお嬢様の関係をお話するだけであれば、それで済んだでしょう」

 クロードが、どこか意味ありげな口調でジャンに告げた。
 まだ、こちらには伝えたいことがある。
 そう言わんばかりの表情で、無言の圧力をかけてくる。

「ですが、お嬢様のお話し相手になっていただくのであれば、ジャン様にも知っておいていただきたいことがあるのです。
 そして、それは……なぜ、私がジャン様に、このようなお願いをしたのかという理由でもあります」

「知っておいて欲しいこと?
 なんだい、それは……?」

「口でお伝えするよりも、お見せした方が早いでしょう。
 医師であらせられるジャン様であれば、私も抵抗なく秘密をお話できます故に……」

 そう言うと、クロードはジャンの方に向き直り、徐に自分の服についたボタンに手をかけた。
 何事かと思うジャンではあったが、クロードはそんな彼に構うことなく、己の着ている服のボタンを外してゆく。
 脱ぎ去った黒い燕尾服を椅子にかけると、今度はその下に着ていた服のボタンにも手をかけた。