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ぽけもん 黒  草むらの会敵 - (2009/06/04 (木) 21:00:20) のソース

148 :ぽけもん 黒  草むらの会敵 ◆wzYAo8XQT. [sage] :2009/05/31(日) 02:08:45 ID:1uTQqnCC 
 インセクトバッジを手に入れた僕達は、とりあえずポケモンセンターに戻った。香草さんは大丈夫というものの、一応肩も気になったし。 
 本音を言えば、ツクシさん達としばらく談笑でもしていたい気分だったけど。 
 彼女達を見ていると、久しく忘れていた“安らぎ”のようなものを覚える。 
 ああ、何時から僕はそんな当たり前のものすら無くしてしまったんだろうか。 
 きっと僕の嘆きはおかしなものなんだろう。 
 可愛い女の子二人(内一人は小さな子供だけど)と旅をしているというのに、愚痴を言っている奴がいたら、僕でも腹が立つ。 
 でもなぜだろう。そんな羨ましい状況なのに、ちっとも僕の心が休まらないのは。 
 香草さんの診察中に溜息をついていたら、看護婦さんに「あなたも診察を受けたほうがいいんじゃないかな」と言われた。僕はそんなに疲れた顔をしていたのだろうか。 
 肝心の香草さんはというと、診断結果は「打ち身」とのことだった。 
 しばらくは安静にして、処方する湿布薬を毎日張り替えること、だそうだ。 
 何が演技だ。本当に怪我してたんじゃないか。 
 尤もこの程度の怪我を見ることなら日常茶飯事なのか――ジムがあるから当たり前だろうけど――、こんな田舎町であるにも関わらず女医さんは平然としていた。 
 トレーナーとしての資質を問われて注意されなかったのはよかったんだけど、怪我をしたのに雑に扱われているようで少し癪だった。 

「ち、違うのよ! あの医者が藪医者なのよ!」 
 これは香草さんの弁。そんなに強がらなくてもいいのに。 
 そういえば、香草さんは以前にどんな相手にも負けないと啖呵を切ったから、怪我なんてしたら僕にそれを揶揄されると思ったのかもしれない。 
「香草さん、誰が見ても分かるものに藪医者もなにも無いよ」 
 僕は香草さんの意向で診察室に入れなかったから分からなかったけど、打ち身なんかは誰が見ても怪我していることくらいはわかるものだと思う。 

 そういうわけで、僕と香草さんは薬局で湿布薬の処方を待っていた。 
 ちなみにポポはポケモンセンターであてがわれた部屋にお留守番だ。僕とずっと一緒にいたがったけど、病院スペースではしゃがれては本当に具合の悪い人たちの迷惑になるので残ってもらった。 
 ポポは一応は僕の言うことをちゃんと聞いてくれるんだけど、常に怯えた様子なのが気がかりだ。 
 僕はそんなに冷酷な人間に見えるのだろうか。 
 地元にいた頃は、なめられることこそあれ、怖がられることなんて一度も無かったのになあ。 
「ホントに違うのよ……あんなの、ただのまぐれよ……」 
 香草さんは下を見てブツブツと呟いている。 
 そんなに一撃入れられたことが許せないのかな。 
 ジム戦は普通一戦目なんて負けて当たり前くらいのものだ。 
 ジムの攻略が時間的にも、物理的にも、旅における最大の障害となるものなのだから。 
 だからいくら怪我を負ったからといって、一回で勝てれば上出来なのだ。 
 しかもその怪我も軽傷だし。 
 ……しかしこれはトレーナーである僕が言っていいことではないから言えないけど。 
 僕の力量不足の責任転嫁になってしまうからね。 
「香草さんはすごかったよ。アレは、相手を甘く見た僕の過失だよ」 
 桔梗ジムでの圧勝で、僕は無意識のうちにジム戦というものを軽視していたのかもしれない。 
 部屋に戻ったら、ポポも交えてちゃんと作戦を考えて、簡単な合言葉で実行できるようにしておかないと。 
 そんな基本的なことを今更思う。 
「……ねえ、私、強いわよね」 
 香草さんは突然ポツリと漏らした。 
「うん、強いと思うよ」 
 彼女の発言の真意は分からないが、とりあえず無難な返事を返す。 
「じゃあ……私のこと……」 


149 :ぽけもん 黒  草むらの会敵 ◆wzYAo8XQT. [sage] :2009/05/31(日) 02:09:22 ID:1uTQqnCC 
「香草さーん。香草チコさーん」 
 香草さんの言葉は、薬局の呼び出しによって中断された。 
「あ、はーい」 
 香草さんに代わって、僕が薬を取りにいく。 
 二種類の湿布薬を渡された。 
 片方は最初の三日。もう片方はそれ以降使うように、とのことだ。 
 湿布薬の入った袋を持って、香草さんの元に戻る。 
「香草さん、それで、さっき言いかけたことって……」 
「なんでもないわよ!」 
 なぜか怒られてしまった。確かに、タイミングを逃すと言いにくいことやどうでもいい話はある。それを考えず聞いた僕は無神経だったのだろう。 
「そう。じゃあ戻ろうか」 
 僕はそう言って、座っている香草さんに手を差し出した。 
 香草さんは僕の手をじっと見ている。 
 僕の手のひらに何か書かれていたりするのかな。 
 あ、そうか。 
「香草さんは肩が悪いんだから、手なんて引いたら肩が痛いもんね。ごめんね、気が利かなくて」 
 僕はそういいながら手を引っ込める。気を使うつもりが相手の負担を増やすところだったとか、僕は何をやっているんだ。 
 しかし、この言い方は嫌味に聞こえるかな。 
 僕が手を引っ込めると、香草さんは「あ」と短い声を漏らした。 
「どうしたの?」 
「な、なんでもないわよ!」 
 香草さんは勢いよく立ち上がると、大股で僕の前を歩き出した。 
 なんだろう。やっぱり僕の手のひらに何か書かれていたのだろうか。 
 自分の手を覗き込んでみても、いつもと変わらぬ手のひらがあるだけだった。 

 足早に歩き出したと思われた香草さんの足取りは、すぐにゆっくりとしたものになった。普段の香草さんからは考えられないくらいに。 
 肩以外にも、どこかに怪我しているのかな。 
「ねえ、ゴールド」 
 僕が彼女に、他にも怪我があるんじゃないか、と質問しようとした矢先、彼女のほうから声をかけられた。 
「何?」 
 歩く早さが遅くなっていたのは、僕に何か言いたいことがあったからかな。 
 僕はごくりと唾を飲み込む。 
「あ、あのね……ちょっと散歩でもしない?」 
 予期せぬ提案だ。 
 もったいぶった割には、随分とたいしたことない。 
 どんな非難や中傷が来るのだろうかと戦々恐々としていたのに。 
「うん、いいね。まだ時間も早いし、僕もちょうど一日中部屋に篭っているのもどうかなと思ってたんだ。じゃあポポも呼んで来るよ」 
 そう言って進む僕の手が、香草さんにつかまれた。 
「ふっ……二人っきりがいいの!」 
 唖然。 
 きっと今の僕の表情は、百人が見て百人が「なんだあの間抜け面は」と思うようなものだろう。 
 自分の口が開きっぱなしになっているのは分かるが、顎の動かし方が思い出せないから閉じられない。 
 僕と二人っきりで散歩したい。あの香草さんが、だ。 
 口を開けば罵倒、手を動かせば殴打、目を開けばフラッシュという、あの香草さんが、である。 
 うん、大げさなのは分かっている。しかしすべて彼女が行った行動であることは紛れもない事実である。このことは周知だと思う。 
 僕はふいに一つの結論を見出した。 
 これは、夢だ。 


150 :ぽけもん 黒  草むらの会敵 ◆wzYAo8XQT. [sage] :2009/05/31(日) 02:09:52 ID:1uTQqnCC 
 何時から見ていたのかは知らないが(ジム戦で、実際は二人とも倒されちゃって、僕は目の前が真っ暗になってそのまま眠っているというのが最有力)、僕は夢を見ているようだ。そう考えればすべてのつじつまがあう……気がする。 
 そうと分かれば早速実験だ。 
「香草さん」 
「な、なに?」 
 彼女はビクッと体を震わせた。そういえば、彼女は僕からの返答を待っている最中だっけ。 
「今日も可愛いね」 
 僕は出来うる限り最もさわやかな表情でその言葉を吐き出した。 
 傍から見たら胡散臭いことこの上ないだろう。胸焼けしそうな甘さだ。 
 僕の言葉を受けた香草さんは、表と裏で色の違うカードを裏返すように一瞬にして真っ赤になった。 
 どこかで見たことがあるような、と思ったら、トマトだった。 
 緑の髪がヘタ。真っ赤な顔が果実。丁寧に天辺には葉っぱまでついている。完璧だ。 
 でも、たとえ冗談でもこんなことを言ったらぶち殺されること請け合い。 
 僕は自殺志願者ではないので、もちろんそんなことは口にしない。 
 それがたとえ夢でもだ。 
 そう、これは夢であることは確定した。 
 もし現実であれば、香草さんは顔を朱に染めることなどなく、冷めた目で僕を見ながら「気持ち悪い」と言ってくるに違いないのだから! 
 ……むなしい自虐だ。 
 そういえば、馬鹿とか最低だとかは結構言われている気がするけど、気持ち悪いと言われたことはないな。となるとこの予測は完璧とは言えないかもしれない。 
 しかし、夢と分かってしまえば話は早い。目を覚ませばいいのだ。 
 目を覚ますには、どうするのがいいんだろうか。 
「ご、ゴールド、どうしたのよ急に」 
 香草さんはまだ赤い顔をしたまま、蚊の鳴くようなか細い声で問いかけてくる。 
 うん、やっぱりこれは夢だ。本物の香草さんがこんな可愛いリアクションをするわけがない。 
「いや、ただのテストだよ」 
 そう答えると、即座に腕をギリギリと締め上げられた。 
「ただのテストってどういうことよ」 
 今度は香草さんじゃなくて僕の顔が赤くなりそうだ。もちろん恥じらいなどではなく痛みで。 
 っていうか夢なのに痛いってどういうことだ! 
「ちょ、折れ……」 
「俺?」 
「折れそうなんだけど!」 
「折ってんのよ」 
 僕の釈明を待たずにですか!? 
 非常に恐ろしいことを申す香草さんの口調は極々気軽なもの。それが恐ろしさを助長する。 
「ち、違うんだ! これは夢だと思って……」 
「夢? 今あなたが感じているこの痛みは夢かしら?」 
「夢じゃない! 夢じゃないです!」 
「たとえ折れても夢なら大丈夫よねー」 
「大丈夫じゃないです! お願い許してえええええ!」 
 僕は、自分がこんな音も出せることを初めて知った。一生知りたくなんかなかった。 
 こんなにも僕が叫んでいると言うのに、誰一人駆けつけてもくれない。 
 他人に残酷なまでの無関心。まさに現代の闇、白昼の道路でそれを垣間見た気がした。 
 ようやく香草さんから解放された僕は、荒い息を吐きながら膝から崩れ落ちる。 
 腕は……動く。ただし痙攣による動き。脳の命令を受理しているのではなく、無視して自律運動を行っている。腕によるボイコット。残念ながら雇用者である僕に責任はない。よって稼動条件の改善を訴えられても、受理することが出来ない。 
 まったく動かないのと痙攣で動くこと、果たしてどっちがマシなのだろうか。 


151 :ぽけもん 黒  草むらの会敵 ◆wzYAo8XQT. [sage] :2009/05/31(日) 02:10:47 ID:1uTQqnCC 
「そもそも、どうして夢だなんて思ったのよ」 
 僕は今、腕の心配で忙しい。 
 しかし答えないときっと僕は腕を心配する必要もなくなる。 
 そもそも心配っていうのは大丈夫な可能性もあるからするものだからね。完全に再起不能になれば気にする必要はなくなる。 
「香草さんの態度がおかしかったから……」 
「おかしいって……何よ、おかしなところなんかないわよ」 
「あるように見えたんだ」 
「ないわよね」 
「ないです!」 
 おかしなところなんてなかった。今この瞬間から、そういうことになった。 
「で……ど、どうなのよ」 
 香草さんは視線を微妙にそらしながら僕に問いかける。 
 どうなの……って何かあったっけ? 
 強すぎる痛みは人を一時的に健忘症へ陥れる。 
「う、うんいいよ」 
 なので適当に答えておいた。 
「ホントに!?」 
 彼女の顔がぱあっと明るくなる。僕は一体何に同意してしまったのだろうか。 
「立てる?」 
 右腕が小刻みに振動していること以外は僕はいたって平常。立てないわけがない。 
「うん」 
 左手で床に落ちた薬の入った袋を拾い、立ち上がった。 
 彼女は僕が立ち上がるのを見ると、そのままどこかへ向けて歩き出した。 
 部屋とは逆方向である。 
 僕はどうするべきなのだろうか。 
 彼女をこのまま見送るべきか、着いて行くべきか。 
 さっき何について言っているのか聞いておくべきだった。今となってはなおさら聞きにくい。 
「もう、どうしたのよ」 
 僕が呆然としていたからだろうか、彼女は僕のところまで戻ってきて、そのまま僕の手をとった。 
 そして僕の手を引いて歩き出す。 
 いきなりどうしたのだろう。僕は驚いた。 
 しかしそれよりも、右手がなんの感覚も伝えてくれないということのほうが驚きだった。 
 手の柔らかさ、しなやかさ、人のぬくもり。何一つ伝わってこない。恐ろしいまでの無である。 
 僕の右腕はもうダメなのだろうか。 
「ご、ゴールドって手、冷たいのね」 
 香草さんは照れたように言う。君のせいだよとはとても言えない。 
「私もよく手が冷たいって言われるのよね。……冷たい?」 
 何も分からないとなどとても言えない。 
「ど、どうだろう。普通じゃないかな」 
 そう答えた瞬間、僕の手に痛覚がよみがえった。 
 僕の手は香草さんにギリギリと握りつぶされている。そうか、この痛みが電気ショックのような役割をはたして、僕の腕を蘇らせたのか! 
 そんな風に感動している場合ではない。再び僕の腕のピンチ。 
「……普通ってどういうことよ……そんなに何人もの女の子の手を握ったことがあるの?」 
 普通だよ、の言葉からここまで想像をめぐらせることができる香草さんの豊かな想像力に驚嘆だ。 
「そ、そんなことないよ! ほ、ほら、女の人は手が冷たいってよくいうから、そうなのかなーって!」 
 必死の弁明。これが聞き届けられなかったら、僕は無実の罪で腕を失うことになる。魔女裁判並みの理不尽だ。 
 腕が潰れなかったら女の子と手を繋いだ経験豊富ということで有罪。よって腕は潰される。腕が潰れたら経験豊富ではないということになり無罪。ただし腕は潰れる。ふとそんな想像をしてしまい、心臓の鼓動が一層早くなる。 
「そう、ならいいわ」 
 香草さんの手の力が緩んだ。見事勝訴したようだ。 
「あれ、今度は急に暖かくなってきたわね」 
 僕の手はジンジンと脈打っている。香草さんが握りつぶしたせいだよとはとても言えない。 
「も、もしかして、てて照れてる?」 
 てててれてるとは一体何の呪文だろうか。あの毒々しい駄菓子のCMの効果音であるテーレッテレーの親戚だろうか。僕はあのいかにも科学の産物といった、紫の駄菓子を思い出す。 
 ようやく、今僕は香草さんと手を繋いでいるんだということを思いだした。よく考えればこれは恥ずかしい。 
 色々あってそれを考えるどころではなかったけど、いざ意識するとどんどん恥ずかしくなってくる。 
「……うん」 
 こう答えるのが精一杯だ。気の効いた事の一つでも言えたらいいのに。 


152 :ぽけもん 黒  草むらの会敵 ◆wzYAo8XQT. [sage] :2009/05/31(日) 02:11:18 ID:1uTQqnCC 
「と、ととと当然よね。なんたってこんな可愛い子と手を繋いで二人っきりなんだから!」 
 高飛車に聞こえるこの発言だけど、不服ながら異論はない。 
 僕は何も言えずに、暫し無言が続く。 
「……私なんか、可愛くないって思ってる?」 
 香草さんから不安げな声がポツリ。 
 突然どうしたのだろう。彼女らしくもない。 
「そんなことないよ! 香草さんはとっても可愛いよ!」 
 僕はむきになって大声で言ってしまった。 
「で、でも、テストだったんでしょう!?」 
 彼女は僕のついさっきの言葉を引きずっているらしい。 
「あれは確かにテストだったけど、可愛いっていうのは僕の本心だよ!」 
 僕は大きな声で何を言っているのだろうか。 
 恥ずかしいどころではない。きっと僕の顔は真っ赤だ。 
 香草さんの顔をまともに見れずに、僕は俯く。 
 香草さんの様子はうかがい知れないが、僕のほうに向き直ったのは気配で分かった。 
 香草さんの甘い香りが、僕の鼻腔をくすぐる。 
「じゃあゴールド……」 
 香草さんが何か言いかけたそのとき。 
 森のほうからガサッという音がした。 
 二人で慌てて音のしたほうを向く。草むらの向こうに炎が見えた。 
 焚き火か何かだろうか。 
 森で焚き火なんて危ないなあ、と近付く。 
 すると炎の隣に、泥まみれのフードが並んだ。 
 フードの下にあるのは、見まごうこともない赤い髪。この髪の色ははっきりと覚えている。見間違えるはずもない。 
「シルバー!」 
 僕は驚いて叫んでしまう。まさかこんなところで会うことになるとは。 
 ロケット団と行動を共にしているとしても、まさか草むらから出てくるとは思わない。奴は確か人間だったはずだ。草むらから飛び出していきなり人に襲い掛かる習性はないはずだ。 
 フードも僕の声に答えるようにして立ち上がった。そこには予想通りの凶悪な面構え。隣の炎はランだったのか。 
 どうしてここに、という言葉を飲み込んで、香草さんの腹部に腕を回して右に飛ぶ。 
 先ほどまで僕たちが立っていた地点に数本のナイフが突き刺さった。続けざまに火の粉も。 
「まさかこんなところでお前と会うなんてな」 
 フードを脱ぎながらシルバーが言った。 
 それは僕の台詞だと言いたかったがそんな余裕はない。 
 事情なんて関係ない。シルバーは目の前にいる。千載一遇のチャンスだ。 
 ……荷物の大半が部屋に置いてなければだけど。なんて間の悪い。 
 すぐさまポケットを探る。幸いにも煙玉は常備してあった。煙球の有用性は前の彼らとの戦いで証明済み。リュックに入っている、効果があるか分からない大半の道具よりは頼もしい。 
「香草さん、大丈夫!?」 
 香草さんの腹部から手を離し、問いかける。 
 香草さんは少し呆然としていたようだったが、すぐに正気を取り戻した。 
「な、れ、レディーのお腹をと、突然触るなんて何考えてるのよ! この変態!」 
 ええー。 
 どう考えてもそんなこと言っている場合ではないと思うんだけどなあ。 
「こ、今度から触りたければちゃんと前もって……」 
 なにやらよく分からないことをゴニョゴニョと言っている香草さんを抱えて再び飛ぶ。 
 再び地面にナイフが突き刺さった。 
「今はそんなこと言っている場合ではないよ! 早くシルバーを戦闘不能にしないと!」 
「そんなことって何よ! アンタ本当に……」 
 香草さんの反論の途中で、僕の頭に鈍い痛みが走った。視界の端に宙を舞う石が見えた。僕は痛みで思わずその場に蹲る。 
 その直後、頭上を火炎が通り過ぎていった。 
 石はシルバーの投げたものらしい。ちょうど投擲用のナイフが切れたのか。本当に危なかった。あれがナイフだったら今頃僕は死んでいただろう。 
「な、ゴールドに何すんのよ!」 
 自力で火炎を回避した香草さんはシルバー達に向かって吠える。 
 当然だけど、僕が抱えて跳ぶ必要なかったな。 
 僕は彼女を守りたかったわけではなく、無意識のうちにセクハラを行いたかっただけなのだろうか。 
 それならば彼女の批難も尤もだ。 
 僕がそんな思考を終えるよりも早く。 
 香草さんは数本の蔦を二人目掛けて伸ばしていた。 
 その蔦は二人を打つことなく、切り裂かれ、焼け落ちる。 
 シルバーのナイフによって払われ、ランによって焼かれた結果だ。 
 なくなったのはあくまで投擲用のナイフだけで、普通のナイフは当然だが健在というわけか。 


153 :ぽけもん 黒  草むらの会敵 ◆wzYAo8XQT. [sage] :2009/05/31(日) 02:11:53 ID:1uTQqnCC 
「ラン!」 
 僕がランに呼びかけた直後。 
 僕の正面から火炎が向かってくる。 
 僕はそれを横っ飛びで回避する。 
 しかし姿勢を大きく崩してしまった。 
 追撃の炎が僕に降りかかる。回避は不可能。 
 僕は即座に煙玉を炸裂させた。 
 大量の煙が視界を奪うと同時に空気も奪い、炎を弱める。 
 僕は前面に熱を感じながらも姿勢を立て直し、地面に刺さっているシルバーのナイフを回収する。 
 計六本。今の僕には貴重な武器だ。 
 使った煙玉は一個なので、晴れるのは早い。 
 僕が距離をとったころには、煙はすっかり晴れていた。 
 逃走される危険も考えたが、香草さんが煙幕めがけて葉っぱカッターを撃ち続けてくれたため、行動を封じることが出来ていたようだ。さすが香草さん。 
「相変わらず小賢しい奴だ」 
 煙が薄くなるやいなや、シルバーは両手にナイフを構えてこちらに走りこんできた。 
 狙いは香草さんか。 
 僕はすぐにナイフの一本を投擲する。 
 シルバーは当然僕も視界に入れていたようで、後ろに飛びのきそれを交わす。 
 一拍おいて、シルバー目掛けて香草さんの蔦が殺到したが、ランの炎によってさえぎられた。 
 シルバーはランの隣まで後退する。 
「お前にしちゃあ、随分上手いじゃねえか」 
 シルバーは不敵に言う。僕のナイフ投げのことだろう。 
「当然だろ。僕はあの時以来ずっとナイフ投げの訓練をしてきたんだから」 
 ――お前を、殺すために。 
 シルバーとラン、二人を相手にして決定打を負わせることは今の僕たちには難しそうだ。そもそも、僕はランとは争いたくない。 
「ラン、シルバーから離れろ。シルバーを怖がる必要なんてない。シルバーは一人では何も出来やしない」 
 そもそもランはシルバーに脅されて一緒にいるだけなんだ。ならばここで保護すれば何の問題もないじゃないか。 
 幼少期からずっとシルバーの下で過ごしてきたんだ。恐怖は相当なものだろうけど、もう怖がる必要なんてないんだ。 
 大量に警官が村にいる今、きっとシルバーを逮捕できる。そしたら報復の心配もない。 
 ランの顔が不意に歪んだ。 
 彼女が俯くと、背中の炎がドンドン大きくなっていく。なんらかのトラウマが文字通り再燃したのか。 
 それとも、考えたくはないけど――シルバーに洗脳されているのか。 
「ラン、そのまま火力を上げて奴らに突っ込め」 
 シルバーは冷たく命令した。 
「はい、マスター」 
 ランのかすれた声がそれに答えた。 
 炎はランの全身に回り、さらにどんどん温度を上げていく。炎の色が見る間に赤からオレンジ、そして白色へと変わっていった。 
 香草さんはすぐさま危険に気づいたのか、彼女に向けて葉っぱカッターを飛ばす。しかし軽い葉っぱは彼女の熱によって起こった上昇気流のせいでまともに当たらない。 
 香草さんの行動でようやく事の重大さに気づいた僕は、彼女を止めるために、痛む心を抑えて彼女の両足目掛けて二本のナイフを投げた。 
 しかしそのナイフは彼女に到達する前に、燃え尽きて消えた。 
 果たしてナイフが燃えてなくなるのを見たことがある人はどれくらいいるだろうか。 
 当然、僕は初めて見た。 
 そもそもナイフが可燃物だったという事実を初めて知ったくらいなんだから。 
 唖然とする僕をよそに、ランが上体を傾けた。 
 そして弾かれたように走り出した。 
 狙いは……僕だ! 
 彼女の踏みしめた草は見る間に水分を失い、燃えていく。 
 彼女は熱の塊と化していた。 
 百メートル先から見たって恐怖で凍りつきそうなものが数メートル先から僕目掛けて迫ってきている。 
 想像を絶する恐怖だ。 


154 :ぽけもん 黒  草むらの会敵 ◆wzYAo8XQT. [sage] :2009/05/31(日) 02:12:49 ID:1uTQqnCC 
 香草さんの蔦がラン目掛けて伸びてきているのが見える。だが、間に合わない。 
 そもそも香草さんに期待していなかった僕は、すでに準備をしていた。 
 煙玉を炸裂させ、思いっきり右に飛ぶ。 
 ワンパターンに思われるかもしれないけど、パターンを増やせば良いって物じゃない。基本を忠実に行うことは大切なことだ。 
 それに、僕の今の貧弱な道具の状況も考慮に入れて欲しい。 
 ちなみに、今の僕の道具は煙玉がポケットに残り三つとベルトにつけた怪しい光曳光弾が二本、それにシルバーの投げたナイフが三本。 
 熱の塊であると同時に光の塊でもある今のランに、曳光弾の光が届くとは思えない。ナイフの無力さは先ほど照明済み。 
 ああ、それとポケットを探ったら平べったいものに指があたったから、多分ガムも持っている。今僕が持っているものの中で一番いらないものだ。そのガムでも噛んで落ち着けって? 喧嘩売ってんのか。  
 予想通り、炎に包まれているランはもともとあまり視界が明確でないようだ。さらに煙幕。回避は成功した。 
 しかし優に二メートルは離れている場所を通過したのに、僕は信じられない熱波に晒された。肌は痛むし、服からは長時間ストーブに当たり続けたときのように嫌な臭いがする。多分髪はチリチリになっていることだろう。 
 なんて熱量だ。直撃したら大火傷どころか火葬まで完了してしまうだろう。骨が残るかどうかは微妙なところだけど。 
 そのまま数メートル進んだ彼女は、僕に避けられたことが分かると、こちらに向き直り、再び突撃してくる。 
 その様子は猪を連想させた。猪は燃えていたりしないから良いよね。 
 僕はワンパターン極まりなくて申し訳ないが、煙玉を使い、今度は左に飛んだ。 
 右に飛ぶとランによってこんがり焼かれた、湯気の代わりに煙が立ち上るホッカホカの地面にダイブするはめになってしまうからね。 
 彼女は再び僕の脇を走り抜ける。当然また僕は熱にさらされ、体力と精神力を同時に削られる。 
 再び回避に成功したわけだが、このまま続けていたってジリ貧だ。煙玉の残弾数は残り二。 
 何とか活路を見出さないと、と考えていると、ランの纏っている炎が随分と小さく、色も赤よりのオレンジと随分落ち着いてきていることに気づいた。 
 ラン自身も苦しそうに顔をゆがめている。わずかこれだけの運動でそんなに体力を使うはずもないから、考えられる線としては、この状態だと呼吸が出来ないのか、それとも単にあまりの火力のために消耗が激しいのか。 
 ほとんど維持できないような技を使わせるなんて、シルバーのトレーナーとしての度量はたかが知れる。 
 視界の端で香草さんとシルバーが戦っているのが見える。 
 香草さんの蔦はかなり焼けたとはいえ、それでも両手二本しかないシルバーが数本の蔦を操る香草さんとまともに戦えているのは驚きだった。 
 香草さんがシルバーにやられることはないだろう。そしてこちらも後数回かわせば片がつきそうだ。 
 シルバーもそれを察したのだろう。 
「ラン、火を消せ。撤退だ」 


155 :ぽけもん 黒  草むらの会敵 ◆wzYAo8XQT. [sage] :2009/05/31(日) 02:13:22 ID:1uTQqnCC 
 火を弱めたランはそのままその場に崩れ落ちる。 
 よほど消耗していたようだ。あれだけの大技で、消耗していないほうが異常なんだから当然なんだけど。 
「逃げるのか!」 
「元々お前なんて眼中にねえんだよ。ラン、煙幕だ」 
 素早くランに駆け寄ったシルバーはランにそう命令する。 
 あっという間に二人は黒い煙に包まれる。 
 ランがいるので闇雲に攻撃するわけにもいかず、手をこまねいていると、煙が晴れたときにはもう二人の姿はなかった。 
 慌てて付近を捜索すれば、彼らが現れた草むらの影に人が通れそうな穴があった。 
 穴を掘るで現れ、この穴を使って逃走したわけか。 
 前回と同じ逃走手段ながら、僕たちに打つ手はない。 
 ワンパターンな奴め。もう少しバリエーションを用意しようとは思わないのか。この単純馬鹿が。 
 内心で悪態をつくも、またシルバーをまんまと逃がしてしまい、ランを救えなかったという事実に変わりはない。 
 僕は一応警戒して穴から離れると、見通しのいい場所で横になった。 
 失意と疲労で動く気が起きない。 
「ゴールド、大丈夫!?」 
 香草さんが慌てた様子で僕に問いかける。僕が怪我でもしたと思ったのだろうか。 
「大丈夫、疲れただけだよ。香草さんこそ、怪我はない?」 
「当たり前でしょ」 
「蔦は?」 
 う、と言いよどむ。痛いところを突かれたのだろう。香草さんの自慢の蔦は大半が使い物にならなくなっている。 
「すぐに治るわよ!」 
 本当にそうならいいんだけど。 
 すぐ、というのがどれくらいの時間のことを指しているのか、僕は分からない。 
 でも、たいした怪我がなくて何よりだ。 
 ……怪我? 
 そういえば、香草さんは右肩を怪我していたんだった。シルバーが善戦していると思ったら、そういうわけだったのか。 

 シルバーが人間離れした強さを持っていたわけではないんだと少し安心すると共に、いくら五体満足でも逃げることしか出来ていない自分が少し惨めになった。