学習能力、というものが人間には備わっている。いや、人間に限らず、生きとし生けるもの、全てに。 何かしら経験したら、それについて記憶し、次の機会に活かす。 生き残るために身についた、生物の能力だ。 環境に適応する能力も、学習能力に含むことが出来る、と思っている。 昆虫が、花や植物だらけの環境で敵に見つからないよう、身体の色を景色に同調させる、なんていうのがわかりやすい例だ。 人間は肌の色を赤や緑や青や、七色に変化させることはできない。 しかし、環境に適応する能力を持たない代わりに、知性を持っている。 敵に見つからないために、どこか目立たない場所に隠れよう。 それが無理なら、敵を倒してしまおう。他の人間の助けを借りて。 知性と学習能力。この二つをフルに活用することで、人間は天敵の脅威を減らしていき、地上に溢れた。 人類の天敵が減った理由には、偶然の天災による、天敵の絶滅などもあるだろう。 しかし、それはそれ。天災により絶滅したのなら、それは自然であり、もとより絶滅するはずだったのだ。 そう、俺は考えている。 きょうび、人類の天敵は、同じ能力と特徴を持つ人間、ということになってしまった。 もしも、知性と学習能力のどちらかを持たない人間がいたら? そいつはおそらく、知性と学習能力を備えている人間にすぐさま追い詰められ、倒れてしまうだろう。 だが、何事にも例外は起こり得る、ということは想定しなければならない。 なぜなら、俺の家族の一人は、学習能力が無くても生きている。 それは誰か? 俺の弟のことだ。 あの男には学習能力が欠けている。俺にはそう思えてならない。 なぜあいつは十六になるまで、倒れることなく健康に生きているのか。 学習能力の代わりに、知性が発達しているのだろうか。 否。もしもあの男に人並み外れた知性が備わっていたなら、俺は弟に勉強を教えることにはならなかっただろう。 いやそれ以前に、優れた容姿と身体能力と知性まで持ち合わせる弟に嫉妬する、コンプレックスの塊になっているはずだ。 俺の兄としてのプライドが折れないのは、弟に成績不良という欠点があるからだ。 誰しも、何かの欠点があったほうがいい。その方が、親しみが湧いてくる。 自分の良いところはすぐに思い浮かばないけど、良くないところはすぐに浮かぶから。 弟の欠点が、成績不良なところだけしか浮かばないっていうのは、あいつのことをよくわかっていない証拠かもしれない。 弟もそうなのかね。俺の欠点を一つ以上挙げられなかったりするのだろうか。 俺が、自分の欠点を挙げていけば――――三十秒に一個ずつ挙がっていくから、考えるのが嫌になって、やめてしまう。 欠点ばかりで辛くなる。全ての人間の前から消えてしまいたい、とか思うこともある。 ま、消えやしないがな。消えることを許されない、とも言えるけど。 弟の学習能力。それが欠けているという根拠を挙げてやろう。溜息付きで。 「……馬鹿なんだ、あいつは」 実際はそれほど馬鹿ではない。だが、俺には言う権利がある。 一言も告げずに外泊するような弟は、馬鹿野郎だ。過保護な親だったら、今頃警察を訪ねているところだ。 せめて一言ぐらい、メールなり電話なりで残していけ。 また誘拐されちまったのか、とか、心配するだろうが。 そもそも居なくなってしまったと言っていいのかわからないが、現在弟が家に居ない。 昨日は俺ら兄妹に加え、葉月さんに花火に、澄子ちゃんに藍川に玲子ちゃん、大勢が集まった。 混沌としたものの、最後は誰一人怪我することなく、お客さん全員に帰っていただけた。 俺と妹に怪我はなかった。高度から落下して地面に落ちて平気だった。 しばらく立てなくなるぐらい、脳からの命令が乱れる衝撃を受けたことを平気というのなら、だが。 俺と妹が地べたに伏せているという状況下、葉月さんとの会話中に、弟は家から出て行った。 行き先は、花火の家だと思う。 倒れながらだが、弟と葉月さんの会話は聞こえた。 俺と付き合いだしたと、葉月さんは弟に告げた。その途端に弟は家から飛び出した。 確証のない俺の想像だが、弟は花火に交際の申し込みに行ったと思われる。 弟は花火に恋をしている。弟は俺に遠慮している。俺よりも先に女性と付き合うことはできない。 その前提があると、葉月さんの台詞を聞き、花火に告白するため弟が家を飛び出す、という反応が起こることは自然である。 それはいい。 もうしばらく弟と花火をお友達のままにしておこう、とか思っていたが、こうなったら仕方ない。 よろしくやってくれ。ただしやることやるなら、俺に黙ってやれ。 報告とかするなよ。弟が初体験を終えたとか、なぜ聞かなきゃならん。罰ゲームか。 だいたい、俺の後を追って進行するというスタンスなら、俺が初体験を終えてからにすべきだ。 ……いや、これからするって意味じゃないぞ。 したいさ。そりゃ俺だって興味がある。経験してみたいよ。 けど、直感が働くんだ。頭の中で真っ赤なサイレンが、回りながら鳴るんだ。 葉月さんとセックスしたら、ただでは済まない。 代償が大きい気がする。その代償は、少なくとも今の俺には大きすぎる。 葉月さんの抱く俺への好意と、俺の抱く葉月さんへの好意は、違いすぎている。 葉月さんは俺に何度も告白してくるぐらい、熱心な人だ。 彼女に比べると、俺は冷めている。クーラーの効いた部屋に十分間放置されたお茶みたいに。 冷めたお茶ほど、つまらなくて、味わいのないものはない。少なくとも俺は知らない。 付き合うことを決心することは、親友の言葉を借りてなんとかなった。 しかし、セックスとなると別だ。 父と母のまぐわう声をよく耳にする俺は、初めのうちこそどきどきしたものの、今ではむかむかしている。 子供が起きてるのにそんなでかい声を出すな、プラモデルのスミ入れ中、面相筆が溝から外れるだろうが。 俺は両親の性の乱れについて一言言ってやりたいのだが、いかんせん母がやかましくてなかなか言えないのである。 というか父も父だと言ってやりたい――――いや、両親の話じゃなかった。 セックスの話だ。そういった行いは、気軽にやるものではない、と思っているのだ。 最初からポンポン気軽にしていたら、駄目だろう。そんなんだから今の若者の性は乱れてる、とかテレビで討論されるんだ。 駄目なんだよ、よくわかんないけど、上手く説明できないけど、とにかくさ! けど、弟はとっくに花火との初体験を済ませてるかもしれない。 弟が消えてから一晩経ってる。 あいつのセックスに対する考え方はわからないが、花火に恋していたなら、付き合いだしてベッドインするのは、実に『らしい』。 いや、俺の後を追わないんなら別にしたって構わないんだ。 弟が花火とよろしくやっても、俺が何か困るわけでなし。困るのは澄子ちゃんだ。 ただ――正直に言うと、弟が俺より先に前に進むことに、抵抗がある。 弟が、弟的存在でなく、よくわからない存在になることが、俺は嫌なんだろう。 子供っぽいよなあ、この年になってまで。 「お兄さん、お兄ちゃんから電話あった?」 妹が部屋を訪ねてきた。 「いや、まだだ。お前は?」 「無いわ。メールも送ってみたけど、反応無いし」 「ふうん。ってことは、電源切ってるのかもな」 それか、携帯電話を手に取れる状況ではないか。 連絡がつかない理由なんか、挙げてみればきりがない。 どこかに置き忘れた、電池が切れた、誰かに本体をへし折られた、水の中に落っことして壊れた、などなど。 「まあ、あんまり気にする必要はないと思うぞ」 「そうかしら……」 「心配なのはわかるが、あいつのことだ、ひょっこり戻ってくるさ」 「気楽に考えすぎじゃないの? この間のバレンタインなんて、大変だったじゃない。 花火ちゃんがやってきたり、お兄さんが怪我したり」 思い出させるな、忘れてる振りをしてたんだから。 「大丈夫だよ、きっと」 「お兄さんの大丈夫って、あんまり安心できないわよね」 そう言うと、妹は俺の部屋に入ってきた。 「……………………は」 「なによ、は、って」 驚いてるんだよ。疑問符だよ、クエスチョンマークだよ。 妹が部屋に入ってきた。 言葉にすれば簡単だが、俺にとってはこれがどれほどおかしなことか、言い表せないほど理由不明な行いだ。 部屋っていうのは、いわば個人のテリトリーだ。 その人間が過ごしやすいように作られた、空気までも部屋の主に支配された空間。 同じ家の中であっても、それは通用するものだと俺は思ってる。 扉を隔てた向こう側は共有の空間だが、扉の内側はプライベートだらけだ。 弟と妹の部屋に簡単に入らないのは、デリケートな部分に触れないよう、遠慮しているからだ。 部屋に入るということは、テリトリーを侵す、もしくは部屋の色に染まる、ということを表わしている。 妹が俺の部屋に入った。それはつまり、それなりの覚悟があっての行いだ、ということ。 「……部屋は譲らんぞ。ここは俺の作業場だ」 「こんな塗料臭い場所、土下座されても自分の部屋にしようなんて思わないわよ。 それとも、部屋の中じゃなくて廊下に座って話した方がいいの? 声、聞こえにくいと思うんだけど」 ふうむ。それもそうだ。 ――考え過ぎかな。妹が俺の部屋に入れるぐらい、俺に親近感を持ってくれたんだ、っていうのは。 妹が手近にあった座布団を敷いて、腰を下ろした。 「お兄ちゃん、どこに行ったんだと思う?」 「たぶん、花火の家だろ」 「そうよね。私もそう思う。……お兄ちゃん、花火ちゃんのこと好きだから。 知ってる、お兄さん。お兄ちゃんが花火ちゃんのために、どんなことをしてきたのか」 「いいや。それ、いつ頃の話だ?」 「んと、伯母さんが、いえ伯母さんをお兄さんが……その……」 ああ、俺が伯母を刺したあの日の後か。 「言いにくいなら言うな。それで、弟がどうしたって?」 「うん。お兄ちゃんは毎日、欠かさずに花火ちゃんの家に行ってたの。 花火ちゃんを励ましてたのよ。花火ちゃん、お兄さんにされたことで、傷ついてたから」 「仲よかったからな、あの頃は」 そう。あの日、虐待の現場を目にするその時までは。 その後は――今の関係のままだ。 「うん。花火ちゃんは、お兄さんのこと好きだったもの。 きっと、他の人に傷つけられるよりもショックだったと思う」 「そうか、花火は俺のことを――――嫌いだもんな」 「嫌い? 今はそうかもしれないけど、昔は違ったはずよ。 花火ちゃんは、お兄さんのことが好きだった。お兄ちゃんよりも、私よりも」 「なんで、そう言える」 「女の勘。それと、花火ちゃんの言葉から読み取って。 ちなみにこれ、お兄ちゃんも同じ意見だった。昔の花火ちゃんは、って。今は別だけど、とも言ってた」 「……そうかい」 傷ついただろうな、花火の奴。 弟のお墨付きなら、間違いないだろう。過去の花火は、俺に好意を持っていた。 だから、今がどうだってわけじゃない。過去は過去、今は今。 今の花火は弟に恋している。過去に俺を好きだったからって、今の思いがぶれたりしない。 「でも、どうにもならないよな、もう」 「どうして、そんなこと言うの?」 「花火に御免って謝って、許してくれるのか? 謝ったけど、あいつは無視したぞ」 「それはきっと……お兄さんが、自分のやったことを全部思い出してなかったからじゃない? きっと、あの時のこと全部、一つ一つ気持ちを込めて謝れば、通じるはずよ」 「本当にそう、思うか?」 「ええ。だって、お兄さんは私のこと、許してくれたもの。 信じるわ。お兄さんの気持ちが花火ちゃんに通じるって」 やれやれ――本当に、こいつは。 「いい子に育ったな、お前は」 「別にいい子なんかじゃないわよ。っていうか、その言い方、馬鹿にしてない?」 「ん、いい女に育ったな、って言った方が良かったか?」 「……馬鹿じゃないの。私、部屋に戻る」 そう言って、妹は自室に戻っていった。 妹が信じるっていうなら、試してみる価値はあるかもな。 今更仲直りして、どうするんだって話なんだけど。 携帯電話を持って、弟にコールする。 今日一日で聞き飽きた呼び出し音が続き、溜息の後で電話を切ろうとした。 「もしもし、兄さん?」 弟の何ら変わらない声が聞こえてきたのは、ちょうどそのタイミングだった。 ***** 電源を入れた途端、兄さんから着信があって驚いた。 兄さんと妹からいっぱいメールが届いてたから、連絡がつかなくて、きっと心配してたんだろう。 「お前、今どこにいるんだ」 「今? 今は……友達の家」 「本当かよ。実は花火の家に居る、とかじゃないだろうな」 「そんなわけないでしょ」 さすが、兄さんは鋭い。 今、僕が花火の家にいるってことぐらいお見通しだ。 でも――僕が何をしていたのかまで、鈍感な兄さんに読むことができるかな? 「まあいいや。お前いつ帰ってくるつもりだ? 妹の奴、心配してるぞ」 きっと妹はもう、僕のことなんか心配してないけどね。 兄さんのことだから、妹の心が僕から兄さんに移ったことも気付かず、妹に接してるかもしれない。 正直に言うと、もうちょっとだけ、そんな兄さんと妹を見ていたかったな。 「ごめんね、兄さん」 「なぜ謝る。帰ってこなかったことなら――」 「僕はもう、家には帰らない」 沈黙。 兄さんが息を呑むのが聞こえた。 「……何言ってやがる。怒られるのが嫌なら、減刑してやってもいいぞ」 「怒られることなんか怖くないよ。 僕は、家には帰りたくないんだ。帰る必要がないんだ」 「お前の家は、俺がいるこの家だぞ」 「違う。僕の家は、僕の居場所は――僕がいるここだ。 家っていう場所じゃなくて、必要としてくれる人の隣。一番住み心地がいいんだよ」 「……おい、悪ふざけをやめるならここが最後だぞ。いいか、ごちゃごちゃ言わずに戻ってこい」 「嫌だよ。僕は帰らない。 いつか子供は家を出るんだ。家族から離れていくんだ。兄さんだってそうでしょう? 僕は、今がその時なんだ」 「本気か。そこまで言うなら、俺も本気になるぞ」 「いいよ、それで。僕はこればかりは、今回だけは譲れない。 いくら兄さんが止めても、無駄だからね」 「……そうかよ」 「そうだよ。それじゃあ、バイバイ……兄さん」 通話を終える。続けて、電源を切る。 さよならなんて言っても、無意味だって分かってる。 きっと、兄さんは僕を見つけようとして、偶然見つけることだろう。自分の恐ろしく鋭い勘に気付くことなく。 どういうわけか、兄さんは僕と妹を見つける能力がずば抜けている。 どういう原理なのかはわからない。わからないから、そういうものなんだって納得するしかない。 でもね、兄さん。 僕だって、何も考えていないわけじゃないんだ。 兄さんに見つからないように工夫するし、見つかっても逃げられるような対策をしてるんだ。 見つけられるなら、見つけてごらんよ。兄さん。 これは、初めての僕と兄さんの喧嘩だよ。 負けない。僕は兄さんを超えて、ここを――花火の隣にずっと居るんだ。 「……もう、早くこっち」 「ああ、ごめんね。花火」 「……さっきから、激しくしすぎ。もっと優しくしろ」 「うん。そうする。大好きだよ」 「……ん。私も」 ベッドで待つ恋人の体を抱きしめる。 この温もりを得るために、僕は生きてきた。 この体を離さないために、僕は兄さんに喧嘩を申し込んだ。 ――負けられない。 花火の温かな肌の触り心地を味わい、少しだけ強く、僕は抱きしめた。