「ラ・フェ・アンサングランテ 第十一話」の編集履歴(バックアップ)一覧に戻る

ラ・フェ・アンサングランテ 第十一話 - (2011/02/08 (火) 07:25:05) のソース

339 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十一話】  ◆AJg91T1vXs :2010/12/24(金) 00:47:51 ID:g6UM6UEf
 薄暮の迫る時分、ジャンはいつもの如く馬車に揺られながら、自分の寝泊まりしている宿場へと戻ってきた。 
 街の空気は相変わらずで、冷たい風が路傍を吹き抜ける音がする。 
 この地方を包む冬の寒さはジャンも十分に理解していたが、街を覆う空気が嫌に冷たく感じるのは、季節のせいだけではないだろう。 

 この街は、自分の家族を追い出した街だ。 
 そこに留まることが決して望ましいことでないというのは、当然のことながらジャンにもわかっていた。 
 だが、ここで全てを投げ出して、ルネに何の贖罪の意思も示さないというのは気が引けた。 

「つきましたよ、ジャン様。 
 しかし……今日は、本当に驚きましたよ。 
 まさかジャン様が、お嬢様の身体を治すなどと言われるとは……」 

「別に、そう誉められたものじゃないよ。 
 医者として、病に苦しんでいる人を助けたいって言うのは本当だし……これは彼女を傷つけた事に対する、僕なりの贖罪だからね」 

「贖罪、ですか……。 
 なるほど、確かにジャン様のお気持ちは分からないでもないですが……くれぐれも、無理だけはなさらないでください。 
 私が最も辛いと感じるのは、お嬢様の笑顔が見られなくなることです。 
 ジャン様に何かあれば、私は今度こそお嬢様に顔向けできませんので」 

「ああ、気をつけるよ。 
 でも、クロードさんも無理はしないで。 
 ルネに求められて血を与え続ければ、今にあなたの身体だって持たなくなりますよ」 

「ええ、それは承知しております。 
 ですが、私はお嬢様のために死ねるのであれば、それも本望と考えております。 
 全ては我が主であらせられるテオドール伯と……ルネお嬢様のためですから」 

 一点の曇りもない眼差しを向けながら、クロードはジャンにそう告げた。 
 その顔には珍しく、微かな笑みが浮かんでいる。 
 機械のように感情を見せないこの男――――何度も言うが、彼の心はあくまで男である――――が、こんな表情を見せたことに、ジャンは少し驚いた。 

「それじゃあ、今日はここでお別れですね。 
 ルネにはクロードさんからも、よろしく伝えておいてください」 

 馬車を降り、自分を送り届けてくれたクロードに一礼すると、ジャンは軽い溜息をついて肩を下ろした。 
 吐き出された息は白い霧となって、その一部はジャンの眼鏡をうっすらと曇らせる。 
 レンズについた霞を指で払い、ジャンはそのまま宿場の裏手にと回って行った。 

「ただいま……」 

 別に、自分の家でもないのに、そう挨拶して入るのが日課になっていた。 
 借り暮らしの身であることが、無意識の内にそうさせていたのだろうか。 

 遠慮がちに、足音を立てないように気をつけつつ、ジャンはそっと階段を上がって行った。 
 従業員用の通用口から大声を上げながら中に入るのも気が引けたし、何より、リディのことがある。 
 ジャンが帰って来たとなれば、仕事そっちのけで迎えに出て来る可能性があるのだからたまらない。 
 下手に宿が忙しい時分に帰宅すると、それだけで他の宿泊客の迷惑になっているような気がして頭が痛かった。 


340 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十一話】  ◆AJg91T1vXs :2010/12/24(金) 00:48:15 ID:g6UM6UEf
「あっ、ジャン! 
 帰ってたんだ!!」 

 噂をすれば、なんとやらだ。 
 ジャンが帰って来たことに気がついたのか、早速リディが姿を見せた。 
 片手にレードルを持っているところを見ると、夕食の準備の最中だったのだろうか。 
 だとしたら、何もそれを放ったままにして出迎えに来なくてもよいのに、とジャンは思う。 

 昨晩のことがあるだけに、ジャンは今のリディに対しても後ろめたさが残っていた。 
 今朝、朝食の際に「気にしなくてよい」と言われたが、どうにも納得のゆかない何かが心の中で燻っている。 

 幼い頃のリディは、確かにジャンに頼っているような節のある少女だった。 
 物静かで大人しく、家が貧しいことを周りから馬鹿にされても何の抵抗も示さない。 
 彼女をいじめっ子から助けるのは、いつもジャンの仕事だった。 

 だが、十年という歳月は、一人の少女を確実に大人に変えていた。 
 あの日、初めてこの街に帰って来た日にジャンが見たリディは、一人でも立派に宿場の経営をする自立した女性だった。 
 少なくとも、ジャンにはそう思えたのだ。 

 しかし、だとすれば、昨晩のあの行為はなんだったのか。 
 悪ふざけにしては程が過ぎるし、何よりジャンは、あんなリディの姿を見たことがない。 

 いったい、自分はどこまでリディのことを知っているのだろうか。 
 幼馴染であることで安心していたが、彼女もまた、ジャンの知らない全く別の顔を持っているということだろうか。 
 それとも、いつもジャンに見せている顔の方が偽りであり、本当のリディの性格は、心の奥底に隠されているとでも言うのだろうか。 

 居候に近い関係を続けながらも、相手の本心が見えない不安。 
 そのことが、ジャンのリディに対する態度を妙に固くさせていた。 
 今の彼女はジャンの知るリディなのか、違うのか。 
 それがわからないまでは、迂闊に話をすることも憚られる。 

「なあ、リディ……」 

 何から話そうかと考えながら、ジャンは少し遠慮がちにしてリディに尋ねた。 
 対するリディは、いつもと代わり映えのない顔をしてジャンが次の言葉を言うのを待っている。 
 どうやら今のリディは、ジャンの知っている彼女らしい。 

「前に、この街には長く留まらないって言ったけどさ……」 

 慎重に言葉を選びながら、ジャンはリディに向かって話を続けた。 
 気さくな女性になったはずの幼馴染に、なぜここまで気をつかわねばならないのかが、自分でもわからない。 

「今日、伯爵の家で新しく仕事が入ってね。 
 当分、この土地に留まることになりそうだ」 

「えっ!? 
 そ、それって本当!?」 

「ああ、本当だよ。 
 もしかすると、今年はこのままこの場所で、年を明けることになるかもしれない」 

「そうなんだ……」 


341 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十一話】  ◆AJg91T1vXs :2010/12/24(金) 00:49:00 ID:g6UM6UEf
 気持ちを押し殺しながらも、リディは嬉しそうな顔でジャンを見てきた。 
 そんな彼女の顔を見ると、次に告げる言葉を言うべきかどうか迷ってしまう。 

「まあ、詳しくは言えないんだけど、新しく診なければならない患者が増えたからね。 
 往診の時間も今まで以上にかかるだろうから、帰りは遅くなることも多いと思うよ」 

「帰りが遅いって……。 
 それ、どれくらいの時間なの?」 

「たぶん、夜までかかると思う。 
 だから、これからは夕食も要らないよ。 
 僕はいつも通り裏口から入るから、悪いけど、そこの合鍵だけ貸してくれないかな?」 

「う、うん……。 
 ジャンがそう言うなら、私は別に構わないけど……」 

 先ほどまで太陽のように明るかったリディの顔が、一瞬にして曇り空になった。 
 ここ最近、ジャンの世話をすることに、リディは妙な生甲斐を感じていたようである。 
 献身的と言えばそれまでだが、やはり自分がジャンのためにできることが減るのは、彼女としても不本意なのだろうか。 

「まあ、そう言うわけで、今までよりもリディに迷惑をかけずに済みそうだよ。 
 基本、部屋には寝に帰るだけになるからね。 
 僕のことは気にしなくていいから、君は君で、自分の仕事に専念してよ」 

「そっか……。 
 でも……そういうことなら、仕方ないよね……」 

 リディの視線がジャンから逸れ、少しだけ俯いたような姿勢になる。 
 予想していたことだけに、ジャンもそれ以上は何も言わない。 
 それに、この先も居候のような生活を続けさせてもらうのであれば、それこそリディの世話になり続けるのはよくないと思った。 
 願わくは、年明けにでも新しく自分が暮らす場所を見つけ、そこで一人暮らしでもした方がよいとさえ考えていた。 

 何も言わないリディの横を通り過ぎ、ジャンは三階へと続く階段を上る。 
 ぎし、ぎし、という木の軋む音に混ざって、階下の酒場から賑やかな話し声も聞こえてきた。 
 その後ろからリディが灰色に淀んだ瞳でジャンを見上げていたが、ジャンがそんな彼女の視線に気づくことはない。 

 人の声が遠ざかってゆくにつれ、徐々に自分の寝泊まりしている部屋が近づいてくる。 
 部屋の扉を開けると、少しばかり冷えた空気が外に漏れて足にかかった。 

 薄暗い部屋の中、ジャンは備え付けられたランプに灯りをともし、鞄を置いて椅子に腰かける。 
 先ほどのリディの様子も気になったが、今はそのことについて考えている余裕などなかった。 


342 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十一話】  ◆AJg91T1vXs :2010/12/24(金) 00:49:30 ID:g6UM6UEf
 ジャンの心の中にあるもの。 
 それは、他でもないルネのことだ。 
 クロードの手前、彼女の身体を治すと言ってしまったものの、その方法に見当がついているわけではない。 

 人の血を啜ることでしか渇きを癒せない、原因不明の奇怪な症状。 
 ジャンが旅先で診てきた患者はもとより、彼の持っている本からも、そんな症例はお目にかかったことはない。 
 悪いのは身体のどんな部位で、それを治すために何が必要なのかさえも、これから探ってゆかねばならないのだ。 

(このままだと……下手をすれば数年は、この街にいることになるのかな……。 
 でも、僕は決めたんだ。 
 僕がルネのためにできることをするんだって……) 

 先の見えない不毛な戦いだということはわかっていた。 
 しかし、ルネの身体の治療法を見つけることでしか、ジャンには彼女に贖罪するための術が見つからなかった。 


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 


 翌日は、久しく晴々とした天気だった。 
 宿泊客が起きるよりも早く目を覚ましたジャンは、朝食を摂ることもせずに宿場を出た。 
 昨日、ルネの身体を治すと心に決めただけに、何か身体を動かしていないと不安だった。 

 宿場を離れ、ジャンは珍しく街の中央にある図書館へと足を運んだ。 
 いつもは買い物以外で街中を歩きたいと思わなかったが、今回ばかりは話が別だ。 

 ルネの症状は、ジャンの中にある知識でどうにかできるものではない。 
 大して役に立つ本があるとは思えないが、それでも僅かな望みに賭けてみたくなるのもまた、人間の性である。 
 この街に古くからある図書館の蔵書にならば、ルネの症状についてのヒントくらいは載っているかもしれない。 
 そんな微かな期待に賭けてのことだった。 

 朝は図書館で本を漁り、昼から伯爵の屋敷に往診に向かう。 
 伯爵の診察と薬の処方を終えた後、ルネの身体のことについて自分なりに調べてゆく。 
 そんな生活が、しばらく続いた。 

 朝が来て、夜が来て、また朝が来る。 
 時間だけが刻々と過ぎて行き、気がつけば十二月も半ばに差し掛かっていた。 

「はぁ……。 
 やっぱり、僕一人の力でルネの身体を治すことなんて、無理だったのかなぁ……」 

 薄暗い地下の一室で、ジャンは溜息交じりにそう呟く。 
 ルネを助けると言ったことに後悔はなかったが、早くも焦燥感が現れてきたのは紛れもない事実だ。 

 今、ジャンのいる部屋は、テオドール伯の屋敷にある地下室だった。 
 もともとは物置小屋として使われていたような場所だが、ジャンの話を聞いた伯爵は、その部屋を彼に貸し出した。 
 ルネの病の正体を探るための、研究室に使ってくれというのだ。 


343 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十一話】  ◆AJg91T1vXs :2010/12/24(金) 00:49:57 ID:g6UM6UEf
 四方を石で囲まれた地下の部屋は、日中でもランプがなければ辺りの様子がわからないほどに薄暗い。 
 陽の光に弱いルネにとっては好都合な場所なのだろうが、さすがにジャンも、こんな湿っぽい場所にルネを閉じ込めておこうとは思わない。 
 この部屋は、あくまで自分がルネの病を調べるための部屋である。 
 そんな風に割り切っていた。 

 だが、例え部屋を貸し出され、必要な道具まで一通り揃えてもらったとしても、それでルネの病の正体がわかるわけでもなかった。 

 図書館から借りてきた本は、この数日で全て読み漁った。 
 が、そこに書かれていた知識は、どれも今のジャンが欲していたようなものではなかった。 

 馬鹿馬鹿しいと思いつつも、ジャンは吸血鬼にまつわる話の書かれた本も借りてみた。 
 ルネのことを吸血鬼だとは思っていなかったが、もしかすると、伝説の中に何かのヒントが隠されているかもしれない。 
 そう願ってのことだった。 

 しかし、そんな彼の願いも虚しく、本に書かれていたのは下らない迷信のような話ばかり。 
 しかも、本によって記述が実にまちまちで、何が嘘で何が真実なのかさえもわからなくなりそうだった。 

 特にジャンが馬鹿らしいと思ったのは、吸血鬼の誕生に関する話のうちの一つだ。 


――――吸血鬼に血を吸われた者は、吸血鬼になる。 


 そんな下らない内容のことが、さも真実であるかのように書かれているから嫌になる。 

 そもそも、吸血鬼は人間にとって、数少ない捕食者であると言えるだろう。 
 しかし、捕食者が獲物を捕食した結果として新たな捕食者が誕生するとなると、これは実に困ったことになる。 

 食事の度に仲間が生まれるとなれば、当然のことながら、吸血鬼の数はねずみ算式に増えてゆく。 
 結果、瞬く間に捕食者の数が被捕食者の数を上回り、この世界のバランスが簡単に崩れることになるだろう。 
 本の記述が正しければ、今頃はこの世界の殆どの人間が吸血鬼になっていてもおかしくはないのだ。 

 それに、クロードの様子を見る限り、彼は――――その身体の特徴以外は、であるが――――至って普通の人間だった。 
 ルネのように血を求めることもないし、太陽の下も平気で歩ける。 
 クロードはルネの求めに応じて血を与えていたようだが、彼が吸血鬼になっているような様子はない。 

 やはり、これは病気なのだ。 
 そう信じて、ジャンはルネの身体を調べることにした。 


344 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十一話】  ◆AJg91T1vXs :2010/12/24(金) 00:50:27 ID:g6UM6UEf
 定期的に血を求める衝動に襲われること。 
 怪我をしても瞬く間に血が固まって、傷の治りも他人よりも極めて早いこと。 
 何かにつけて血に関する事柄が目につくことから、ジャンはルネの抱える病の原因が、彼女自身の血にあるのではないかと考えていた。 

 彼女の血を摂り、それを調べること。 
 何から調べてよいのかも見当がつかなかったが、とりあえずはそこから始めたい。 
 そう思ったジャンだったが、研究は遅々として進まなかった。 

 採血が済み、地下室へと運ぶまでの短い間で、ルネの血液はいとも容易く凝固してしまう。 
 そうなった血は単なる巨大な瘡蓋の塊であり、何かを調べるには適さない。 
 結果、ルネを地下室に呼んで血を摂ることになったが、それでも状況は好転しなかった。 
 血が固まるまでに調べられることは限られていたし、ジャンの知識も不足していた。 

 固まった血を戻す方法なども考えたが、ルネの血は、ジャンの持っているどんな薬にも反応しない。 
 血液の巡りを良くするという東洋医学由来の薬も煎じてみたが、それを飲ませたところでルネの体質に何か変化が見られたわけでもなかった。 

 ルネの抱えている病の正体は、いったい何なのか。 
 その原因はどこにあり、何をどうすれば、彼女の体質を普通の人間と同じものにできるのか。 
 あまりにわからないことが多過ぎて、ジャンは独り地下室で頭を抱えた。 

 クロードの話では、ルネが血を求めるようになったのは、落石事故の後だったという。 
 彼女は生まれつき、今のように人の血を啜っていたわけではない。 

 だが、ルネの身体に現れた変化は、果たして本当に病なのだろうか。 
 もしかすると、彼女は本当に伝説の吸血鬼ではないのか。 
 そんな疑念がジャンの脳裏を掠めたとき、彼は地下室の扉が開く音を聞いて我に返った。 

「失礼いたします……」 

 部屋に現れたのはクロードだった。 
 その手には、銀のトレーに乗せられた夕食がある。 
 夜遅くまでルネの病を治す方法を研究するジャンに、伯爵が出させたものだった。 

「クロードさんか。 
 もう、夕食の時間になったんですね……」 

「はい。 
 お食事は、いつもの場所に置かせていただきます」 

「助かるよ。 
 でも……正直なところ、なんだか申し訳ないな。 
 あの日、あなたと約束をしてから一週間以上も経つのに、僕はまだ何も解決の糸口を見いだせていない……」 

「そうですか。 
 しかし、そう簡単に事が上手く運ぶとは、私も思ってはおりません。 
 それよりも……私はむしろ、ジャン様のお身体の方が心配です。 
 お嬢様のために色々と調べていただけるのはありがたいですが、あまり無理をなさりませんよう……」 


345 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十一話】  ◆AJg91T1vXs :2010/12/24(金) 00:50:51 ID:g6UM6UEf
 珍しく、クロードはジャンの身体のことを心配するような素振りを見せた。 
 感情を殆ど表に出さず、テオドール伯とルネのためだけに生きているような男の口から出た言葉としては意外である。 
 もっとも、そのことをジャンが問うたところで、クロードは「あなたの身に何かあれば、お嬢様が悲しみます」としか言わなかったが。 

「ところで……」 

 机の上にある道具を片付けながら、ジャンはクロードに言った。 

「あなたこそ、身体の方は大丈夫なんですか? 
 いくらルネが求めてくるからと言って、彼女に血を与え過ぎれば、いずれはあなたの方が先に死にますよ」 

「それは承知の上です。 
 しかし、仮にそうなったとしても、私は本望ですよ。 
 お嬢様のために死ねるのであれば、己の命など惜しくもありません」 

 一寸の迷いもない口調で、クロードはきっぱりと言い切った。 
 この男――――しつこいようだが、彼の心は正真正銘の男である――――にとっては、自分の命よりも伯爵やルネの喜ぶ顔の方が大切なのだろう。 
 そのためならば、己の命さえ簡単に投げ捨てる。 
 そんな彼の心を知ってか、ジャンもそれ以上は何も言わなかった。 

 静寂が、再び部屋を包む。 
 クロードが去り、地下室にはジャンが独り残された。 

 運ばれてきた食事を適度に片付いた机の上に置き、ジャンは本を片手にそれに手を伸ばす。 
 パンを口に運びながら読んでいるのは、古今東西に存在する血の病について書かれた本だ。 

 血の病と一口に言っても、その種類は実に様々である。 
 怪我をしてもなかなか出血が止まらないような病気もあれば、どこかにぶつけたわけでもないのに身体に紫斑が現れる病気もある。 
 また、脱水症状の結果、血が濃くなり過ぎて身体に変調をきたすような病気などもあった。 
 もっとも、それらの病のどれ一つとて、ルネの抱えている症状に合致するものがないのが悩みの種だったが。 

 薄暗い、ランプの灯りに照らされただけの地下室で、本のページをめくる音だけが響いている。 
 いつしかジャンは夕食を口にすることさえ忘れ、自分の手の中にある医学書を読み続けることに専念していた。 

「ジャン……。 
 まだ、そちらにおられますか?」 

 突然、ジャンの後ろで声がした。 
 扉の開く音さえも聞こえなかったため、いささか驚いた顔をしてジャンは振り返る。 
 先ほど、夕食を置いていったクロードが再び現れたのかと思ったが、そこにいたのはルネだった。 


346 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十一話】  ◆AJg91T1vXs :2010/12/24(金) 00:51:17 ID:g6UM6UEf
「なんだ、ルネか。 
 どうしたんだい、こんなところに一人で」 

「いえ……。 
 私は、ただ……ジャンのことが心配になっただけですわ。 
 こんな暗い部屋に毎日閉じ籠っていては、きっと身体にもよくありませんもの」 

「確かにね。 
 でも、僕は決めたんだよ。 
 君の身体を治す方法を見つけるまでは、この屋敷で研究を続けようってね。 
 それが僕にできる、君に対しての贖罪さ……」 

 自嘲気味な笑みを浮かべてジャンは言ったが、ルネは笑わなかった。 
 彼女にとっては病を治すことなど二の次で、ジャンと一緒にいられることの方が嬉しかったのだ。 
 ジャンが再び自分のところへ戻って来てくれた。 
 自分の本当の姿に一度は恐れを成しながらも、それでも理解を示そうとしてくれた。 
 その事実だけで十分だった。 

 自分のためにジャンが苦しむ。 
 それは、ルネにとって最も望ましくないことである。 
 ジャンは贖罪と言っていたが、そんなものをルネは望んではいなかった。 
 今までのように、父の往診に来てくれたついでに、紅茶を飲みながら他愛もない話ができればそれでよかったのだ。 

 だが、そんなルネの気持ちを知ってか知らずか、ここ最近のジャンは地下室に籠りきりだった。 
 当然、ルネと会話をする機会も減り、彼は何かにとり憑かれたようにして研究に没頭している。 
 これでは例えジャンが毎日屋敷を訪れたとしても、ルネにとっては彼と引き離されているに等しい。 

 彼女の血を求める衝動は、ここ最近になって更に強まってきた。 
 ジャンと一緒にいられる時間が減ってゆくほど、ジャンに会えないと思う気持ちが強くなるほど、その衝動は更に高まった。 

 クロードはルネの衝動に合わせて血を与えてくれたが、それでは既に満足できなかった。 
 血の渇きは多少和らぐことはあっても、それ以外の渇きがまったく満たされない。 
 このままではいけないと思っているのに、吸血という行為に縋ることでしか感情を抑えられない自分が嫌だった。 

「あの……」 

 遠慮がちに、それでも可能な限りの勇気を振り絞り、ルネはジャンに語りかける。 

「なんだい。 
 もしかして……どこか、具合が悪いとか?」 

「いいえ、そうではありません。 
 ただ、少しばかり、ジャンに私の我侭を聞いていただきたいと思いまして……」 

「我侭? 
 まあ、内容しだいでは聞いてあげられないこともないと思うけど……。 
 いったい、何をして欲しいんだい?」 

「はい、実は……」 

 胸の中に大きく息を吸い込んで、ルネはジャンに自らの願いを告げた。 
 それは、普通の人間から見れば、取るに足らないものだったかもしれない。 
 だが、彼女のような身体を持つ者にとっては、それはあまりにも無謀かつ大胆な願いだった。 


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 




347 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十一話】  ◆AJg91T1vXs :2010/12/24(金) 00:51:44 ID:g6UM6UEf
 夕暮れ時の厨房で、まな板を叩く音がする。 
 しかし、それは決して軽快なリズムではない。 
 コン、コンと、まるで途切れるような感覚で、まな板だけを叩く音が響いていた。 

 あの日、ジャンが街に残ると告げた時から、リディは家事に力が入らなくなっていた。 
 宿場の掃除や客のための夕食作りは辛うじてできるものの、いかんせん、自分自身のことに身が入らない。 
 今日も自分のための夕食を作ろうとしてみたものの、結局何もできずにまな板を叩いているだけだ。 

 今まで自分は、ジャンのことを考えて夕食を作っていた。 
 いや、夕食だけではない。 
 朝食も夕食も、ジャンが喜んでくれそうなメニューは何かを考えて、常にそれを作るよう心がけていた。 

 そんなジャンだったが、彼は彼女の前から姿を消した。 
 同じ街に住まい、未だ宿場の三階に居候をしているものの、最近の彼は寝に帰って来るだけだ。 
 朝食も夕食も外で済ませ、リディの作った物を口にする余裕はない。 
 その上、何やら思いつめているようで、リディのことなど眼中にはないといった様子だった。 


――――トン……トン……トン……トン……。 


 光を失った仄暗い瞳で、リディはまな板を叩き続ける。 
 ジャンは今、どこでなにをしているのか。 
 そればかりが頭をよぎり、まともに夕食のことを考えるだけの余裕がない。 
 考えても仕方のないことだとわかっていたが、それでも頭が勝手に考えてしまう。 
 そして、そんな彼女の気持ちを代弁するかのようにして、無常な包丁の音だけが部屋を支配する。 

 どれくらい、そうしていたのだろうか。 
 気がつくと、リディの後ろには一人の女性が立っていた。 
 厨房に入ってきた人の気配を感じ、包丁を握っていたリディの手が止まった。 

 振り向いて顔を確かめずとも、それが誰なのかはリディにもわかる。 
 宿場の一階を借りて、酒場を経営している男の妻だろう。 


348 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十一話】  ◆AJg91T1vXs :2010/12/24(金) 00:58:52 ID:g6UM6UEf
「まったく……。また、こんなところにいたんだね……」 

 半ば呆れたような顔をして、恰幅のよいその女性は言った。 
 腰に手を当て、ともすれば怒ったような視線をリディに向けて来る。 

「リディちゃん……。 
 あんた、また夕食を食べてないんでしょ? 
 お客さんのお世話で大変だってのは、私にもわかるけどさ。 
 こう何日も夕食を食べない日が続くと、さすがに身体に毒だと思うよ」 

「すいません、おばさん……。 
 でも……なんだか、どうしても自分の分を作る気が起きなくて……」 

「まったく、しょうがない娘だねぇ。 
 でも、そろそろ店も忙しくなってきたからね。 
 悪いけど、こっちも厨房を使わせてもらえないと困るんだよ」 

「それでしたら、どうぞ……。 
 私は部屋にいますんで、何かあったら言って下さい……」 

 どこか遠くを見るような視線のまま、リディは呟くようにして言った。 
 その声にあまりに生気がないことに、酒場の店主の妻もぎょっとして目を丸くする。 
 虚ろな目をしたリディが隣を通り過ぎた時、思わず冷たいものが背中を走った。 

「ま、まあ……それでもリディちゃんは、今まで一人でよく頑張ってきたからね。 
 たぶん、疲れも溜まっているんだろうし、今日はゆっくりしな。 
 賄いでよければ、食事は私が部屋まで届けておくからさ」 

 慌てて後ろから声をかけたが、リディは返事をしなかった。 
 こちらに背を向けたまま頷いたようにも見えたが、はっきりとはわからない。 

 いったい、リディはどうしてしまったのか。 
 年末が近づき忙しくなっていることはわかっていたが、それにしても、あんな顔のリディは今までに見たこともない。 

 しかし、いつまでも考えていたところで話は始まらない。 
 酒場の客に出す料理を作るため、店主の妻はリディに代わって厨房に立つ。 
 一通りの調理器具と贖罪を揃え、腕まくりをして気合を入れた。 

「さあて……。 
 それじゃあ今日も、一仕事させてもらうとするかね」 

 包丁を握り、まな板に乗せたハムにその刃を当てる。 
 数枚のハムを切り出したところで、店主の妻は、ふと隣にある鍋に目がいった。 

 いつもであれば、リディが作った夕食が入っているであろう鍋。 
 だが、今日に限っては、それもない。 
 厨房に籠る時間が増えている割には、リディはまともに自分のための家事をすることがなくなっていた。 
 宿場の客の世話はするものの、後は全てどうでもよいといった感じである。 

「やれやれ……。明るく元気なところがとりえだったって言うのに……最近のあの娘は、どうしちまったんだろうねえ……」 

 厨房を出るときのリディの様子を思い出しながら、店主の妻は独り呟いた。 
 今まで、何があっても負けることなく宿場の経営を続け来たリディ。 
 そんな彼女の中に生まれつつあった闇に、何も知らない店主の妻が気づくはずもなかった。