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変歴伝 第一話『路傍の花』 - (2011/10/22 (土) 12:36:41) のソース

120 名前:変歴伝 第一話『路傍の花』 ◆AW8HpW0FVA[sage] 投稿日:2011/10/22(土) 04:11:06 ID:yQJJwSJ6 [2/10]
平安中期に出現した武士とは、元々は私有地の治安維持や貴族の身辺警護など、
本来であれば日の当たる事のない存在だった。
だが、律令の崩壊による地方の腐敗によって、
決して当たる事のなかった光が、二つの武家に当たった。
源氏と平氏、一方は東国で、一方は上皇に昵近して力を付けた両家は、
朝廷からその実力を評価され、王朝の社会不安の取り除く役割を担った。
時代は確実に、貴族から武士の世に移り変わろうとしていた。
これは、そんな時代の物語。

丹波国の豪族の子息である天田三郎業盛は、京に本拠を構える平清盛に仕えるべく、
山茶花が目に付くようになった山陰道を従者の赤井源蔵景正と共に歩いていた。
武家の名門である平家に、大した縁もない業盛が、
郎党として仕える事が出来るという、田舎豪族からすれば感激の極みであるはずなのに、
業盛は大きな目を半分閉じ、口をヘの字に曲げていた。
「そもそも父上が、勝手に話を進めたりしたから……」
二年前の保元年間に起こった上皇と天皇の争いが、業盛の初陣だった。
初陣であるにも関わらず業盛は勇猛振りを発揮し、
上皇方の敵将兵を散々に討ち取る活躍した。
それを見た清盛が、業盛の父盛清に郎党入りを打診した、という訳である。
これは秘密裏に行なわれ、業盛は今年になって初めて知った。
愚痴の一つでも吐きたい気分になるのは当然だった。
強い風が吹き抜けた。業盛の総髪が風になびいた。

六波羅に着いたのは、それから三日後だった。
普通、武士は自分の土地を管理するのが当たり前であるが、
付近に自領を持っていない業盛は、六波羅で寝食をする事になった。
与えられた仕事は、清盛の飼っている鯉の餌やりだった。
朝と夜に餌をあげたら、後は自由との事らしい。
横で景正が羨ましそうに見つめていた。景正の仕事は水撒きである。
大して変わらんだろう、と業盛は突っ込んだ。

121 名前:変歴伝 第一話『路傍の花』 ◆AW8HpW0FVA[sage] 投稿日:2011/10/22(土) 04:12:44 ID:yQJJwSJ6 [3/10]
「三郎様、大変でございます!」
「なんだ、騒々しい」
縁側で寝転がっている業盛のもとに、泣き顔を浮かべた景正がやって来た。
その手には手紙が握られていた。
「違います。丹波にいる因幡(いなば)からの手紙にございます」
「あぁ、お前の嫁からのか……」
「嫁ではございません。ただの幼馴染でございます」
因幡は景正の言うように幼馴染である。産まれた時から雪のように白い髪と、
血のように紅い瞳を持っていた事からそう名付けられたらしい。
その神秘的な容姿から、家中では知らぬ者のいない絶世の美女である。
だが、それほどの美女を嫁にしているというのに、
景正が頑なに幼馴染であると言い張るのには首を傾げるしかない。
業盛及び家中の者達は、因幡が景正の屋敷に嬉々とした表情、
白い肌を紅く染め、なにかに熱中する時の目をして入っていくのを目撃している。
それに、
「私と源蔵様は、子供の頃に祝言をあげると約束したのです」
という言質を因幡本人から得ている。いじらしい事この上ない。
「で、手紙がどうしたって?」
業盛は手紙を読み始めた。


『拝啓、夏も過ぎ、都の方は過ごしやすくなっている事と存じます。
源蔵様がいなくなり、随分と経ちました。
幼き時分、絶対に離れない、と約束したというのに、
どういう因果か、離れ離れに暮らす事になってしまい、焦燥を抑える事が出来ません。

このたび、領主様よりご許可を頂き、あなた様と再び暮らす事と相成りました。
この手紙が届く頃には、国境を越え、都も目と鼻の先にあるでしょう。
離れた分、以前よりもさらに深く愛し合いましょう。

私がいない間に女なんて作っていませんよね。もしも作っていたら……。
その様な事がないと、祈っています。敬具』


「よかったな。これでまた因幡と一緒に暮らせるではないか」
「だから大変なのです!私が志願してあなたの従者になったのは、
因幡から逃げるための口実だったというのに……。これでは本末転倒です!」
「……お前、そんな下らん理由で付いて来たのか」
「くだらない!?そんな!料理に髪の毛や血を入れる、
どこへ行くにも付いてくる、他の女と話すだけで殴られる、
これのどこが下らない理由ですか!?」
「そんなの冗談だろ。因幡がそんな事をするようには見えんが」
「だから、それは演技、芝居なんです!!」
景正は顔を真っ赤にして反論する。素直じゃないな、と業盛は思った。
二日後、因幡が六波羅にやってきた。景正は泣いていた。

122 名前:変歴伝 第一話『路傍の花』 ◆AW8HpW0FVA[sage] 投稿日:2011/10/22(土) 04:14:12 ID:yQJJwSJ6 [4/10]
つまらない仕事と思われていた鯉の餌やりは、異常事態となって業盛に襲い掛かった。
清盛の鯉が死んだのである。寿命だったに違いないのに、
周りは、業盛の餌のやり方に問題があったのだ、と囃し立て始め、
その声が重臣らを動かし、遂には裁判が開かれるまでに到った。
業盛はその場にいる事を許されず、別室での待機を指示された。
肉刑だ、追放だ、死刑だ、周りは異様な熱気に包まれていた。
そんな熱気を冷ますように告げられた業盛への罰は、五日間の追放刑だった。
死刑や体罰は免れたとはいえ、寄る辺のない業盛は五日間も宿無しになってしまった。
景正からいくらかの餞別を貰ったが、そんなもので五日間は凌げそうにもない。
「平蔵め、もっと金をよこしやがれってんだ」
業盛は景正の事を平蔵と呼んでいる。景正が幾度となく源蔵と訂正しても、
全く改めないので、景正もその事には触れなくなった。
それはともかく、業盛は少ない銭を懐にいれ、都をふらついていた。
銭は少なく、都には親戚もいない。ごみ漁りなどは死んでもしたくない業盛の足は、
自然と都の外に向けられていた。
業盛の考えていた事は、町の中にいても、なにか恵んでもらえる訳がないのだから、
自然の恵み溢れる森に行き、そこで五日間を過ごす、というものである。
しかし、それは浅はかな考えでしかなかった。
森に着いた業盛であったが、入り口付近に食べられる物などあろうはずもなく、
ずんずん奥へと進んでいった結果、見事に迷ってしまったのだ。
暗くなり始めた森の中を、業盛は歩いていた。松明など、あろうはずもない。
木立の間から覗く月明かりだけを頼りに、業盛はひたすら真っ直ぐ歩き続けた。
蒸し暑さと蚊に悩まされながら、業盛は開けた所に出た。そこは集落だった。
一時代遡ったような、竪穴式住居が散在している。
「助かった」
業盛はそう呟き、目の前の住居に向かった。
入り口の前に掛けられている筵に、業盛は声を掛けた。
しばらくすると、一人の女が出てきた。
床につくのではないかと思うほど長い髪をした、目の覚めるような美女だった。
その美女が、一瞬目を見開いた。
「どうかしましたか?」
「いえ……、武家の方なので、少し驚いてしまって……」
「武家と言っても、申し付けられた仕事もろくに出来ない駄目武士ですけどね」
「ふふっ、面白い方ですね」
なかなか雰囲気だった。業盛は好機とばかりに事情を説明し、ここに泊めて欲しいと頼んだ。
女はにっこりと微笑んで了承し、家の中に案内してくれた。

123 名前:変歴伝 第一話『路傍の花』 ◆AW8HpW0FVA[sage] 投稿日:2011/10/22(土) 04:14:41 ID:yQJJwSJ6 [5/10]
女は菊乃と名乗った。二十歳という若さで、一人で暮らしているらしい。
これほどの美貌をもっているのなら、男などより取り見取りだろうに、
なぜ夫帯していないのか。業盛は不思議でならなかったが、それには触れなかった。
「それにしても、赤の他人がいきなり来た挙句、
五日間も逗留させて欲しいと無理を言って申し訳ありません」
夕食後、業盛は改まって菊乃に頭を下げた。菊乃は相変らず朗らかに笑っていた。
「いいんですよ。私も一人暮らしで、寂しかったところですから。
……それにしても、鯉が死んだぐらいで所払いとは、武士の世界とは分からないものですね」
「まぁ、そのお陰で菊乃さんのような美女とめぐり合えたのですから、
武士の世界も捨てたものではありませんよ」
「お上手ですね」
菊乃の優しい眼差しがなんとも心地よかった。
嫁にするなら、こんな人がいいな、などと業盛は思った。
とはいえ、野人の女を正妻に迎えるなど出来ないが。
「菊乃さん、私に手伝える事があったら、なんでも言ってください。
五日間もお邪魔するのに、なにもしないのは武士の恥ですので」
「そうですか……。では、畑仕事を手伝って欲しいのですが、よろしいでしょうか?」
「お任せを!」
そう言って、業盛は胸を叩いた。


青々とした空の下、業盛は畑仕事に精を出していた。
そもそも武士には、畑仕事は下賤の者がやる事という考えがあり、業盛も稲刈りに苦戦した。
稲を刈るというより引き千切っている業盛に、菊乃が駆け寄った。
「三郎さん、鎌は力任せにやるのではなく、
力を抜いて引くようにしてください。こういう風に……」
そう言って、菊乃は業盛の手を取って教えてくれた。
一瞬、業盛の身体が震えた。肘が菊乃の胸に当っているのだ。
細い見た目と違い、かなり大きかった。どうやら着痩せする質らしい。
それはさておき、菊乃の教えを踏まえて、業盛は稲を刈り続けた。
畑は思いの外広大で、一日で全てを刈り取る事は出来ない。
その日は畑の半分もいかないで終了した。
「あぁ疲れた。畑仕事がこれほど大変だったとは思いもしませんでした」
「ふふっ、お疲れ様です」
「少しだけコツを掴んだような気がします。明日はもっと早く刈り取って見せますよ」
「…………」
「どうかしましたか?」
急に黙ってしまった菊乃に、業盛が声を掛けた。
一瞬だけ驚いた表情をした菊乃は、照れるように笑みを浮かべた。
「なんでもありません。ちょっと昔を思い出しただけです」
「そうですか……」
この意味深な発言で、業盛は謎が解けた気がした。
菊乃に夫がいたのだ。その夫になにがあったのかは分からないが、
菊乃がその人を愛しているのは間違いないだろう。
夕暮れの中、悲しそうな表情を浮かべる菊乃に、業盛は声を掛ける事が出来なかった。

124 名前:変歴伝 第一話『路傍の花』 ◆AW8HpW0FVA[sage] 投稿日:2011/10/22(土) 04:15:22 ID:yQJJwSJ6 [6/10]
次の日から、菊乃が業盛に甲斐甲斐しく尽く始めた事に、業盛は多少なりともうろたえた。
残り短いはずだというのに、これではまるで夫婦の営みそのものである。
だが、冷静になって考えてみれば、それほど難しい問題ではなかった。
菊乃の業盛を見る目は、いつもと変わりなく穏やかなものだ。
なんとなくではあるが察しの付いている業盛は、その視線が自分にではなく、
この場にいない夫に向けられているものだと想到した。
菊乃は、自分を通して夫を見ている。
なぜか少しいらついた。一向に進まない景正と因幡の関係を見ているのと同じくらいいらついた。
これほど思ってくれる人がいるというのに、それを無視するとは、男の風上にも置けない奴である。
六波羅に戻ったら、景正に一発かましてやろう。業盛はそう決心した。

菊乃の世話を受けながら、遂に五日目の夜を迎えた。明日は六波羅への帰還が許される日である。
稲を全て刈り取る事が出来たので、業盛に心残りはないはずであるが、
「三郎さん、明日でお別れなんですよね……」
最後の夕食を食べ終えた業盛の目の前で、菊乃が悲痛な表情を浮かべていた。
これが唯一の心残りだった。
笑顔で送ってもらいたい業盛としては、今の菊乃は見るに耐えない。
どうすれば笑ってもらえるのか考えたが、思い付くのは菊乃の夫が帰ってくる事ぐらいである。
自分の無知蒙昧さに呆れた業盛は、あえて大げさな欠伸をして、床に就いた。

寝苦しい夜だった。
なぜか身体が異常にだるく、少し動かしただけで冷たい汗が背中を伝った。
堪らなくなった業盛は、少しでも涼を得ようと、
真夜中ではあるが川で水浴びをしようと起き上がろうとした。
しかし、出来なかった。
まるで凍り付いたように身体は動かず、見開いているはずの目は、視力を失っていた。
声を出そうにも出せず、業盛は言い様のない恐怖に襲われた。
なにかが近付いてくる気配があった。数は三つ。
一人は業盛の腹の上に、残りの二人が手足に纏わり付いてきた。
人間とは思えない力で首を絞められた。首の骨が悲鳴を上げている。
更には手足に鋭い痛みが走った。ぼりぼりという咀嚼音、喰われているのだ。
「愛してる」
三人が口々にそう呟いた。相変らず首の骨は軋み、手足も喰い削られている。
「愛してる」
また聞こえた。だが、それが最後だった。骨の砕ける音と共に、業盛の意識は途絶えた。

「っ!」
起き上がった業盛は、慌てて自分と手足を見つめた。
そこには喰われたはずの指があった。どうやらあれは夢だったらしい。
最悪の夢だった。服も汗でぐっしょりと濡れていた。
今度こそ水浴びをしよう、と業盛は菊乃を起こさないように静かに外に出た。
外は薄っすらと白んでいた。
ゆったりとした足取りの業盛は、道中夢の内容を思い出していた。
「あの声は、確かに菊乃さんの声だった」
夢占いや幽霊を信じるほど、業盛は信心深い人間ではないが、やはり気になっていた。
あれは自分が菊乃に殺される暗示なのだろうか。
だとしたら残りの二人はなんだったのだろう。二人の声には聞き覚えがなかった。
所詮はただの悪夢だったのかもしれない。
夢で悩むのは馬鹿らしい。そう思った業盛は、それで夢の事を忘れてしまった。

125 名前:変歴伝 第一話『路傍の花』 ◆AW8HpW0FVA[sage] 投稿日:2011/10/22(土) 04:15:48 ID:yQJJwSJ6 [7/10]
水浴びから帰ってくると、菊乃は既に起きて、家の外で待っていた。
菊乃は業盛を見付けると、凄まじい形相で近付いてきた。
「三郎さん、一体どこへ行っていたのですか!」
「いえ……、汗を掻いたので水浴びを……」
「なぜ私に一声掛けてくれなかったのですか!」
「ぐっすりと眠っていたので……」
「言い訳しないでください!」
今まで温厚だった菊乃の突然の変わり様に、業盛は面食らってしまった。
「起きた時に、三郎さんが隣にいないから心配したんですよ。
また私を置いてどこかに行ってしまったのかと思ったんですから……」
「すっ……すみません……」
「とにかく、これからはどこかに行く時はちゃんと私に言ってくださいよね」
それだけ言って、菊乃は家に入っていった。
業盛も家の中に入ると、既に朝食が用意されていた。
それ等はいつもと変わらない料理だった。が、今日に限って全てが変わっていた。
菊乃がおかしい。先ほどまでの怒気はなく、いつものように笑みを浮かべている。
しかし、熱病を患ったかのように顔を赤くしているその様は、妖艶そのものだった。
瓜の漬物を噛み砕き、玄米を咀嚼してもなお、表情は変わらなかった。
ところが、青菜汁に手を付けた瞬間、その表情が一瞬崩れた。
まるで子供が悪戯に成功したというような嬉々とした表情になった。
「どうしたんですか、冷めてしまいますよ」
菊乃の声もどこか艶っぽい。本能的に業盛は危険を察知した。
とはいえ、このまま飲まずにいても、状況は好転しそうにない。
業盛は、意を決して椀を傾けた。喉が鳴ったのを見て、菊乃の瞳が鈍く光った。

126 名前:変歴伝 第一話『路傍の花』 ◆AW8HpW0FVA[sage] 投稿日:2011/10/22(土) 04:16:39 ID:yQJJwSJ6 [8/10]
「飲みましたね」
「えぇ、いつもより味が薄いですね」
「そうですか……。そうでしょうね……」
突如、業盛は持っていた椀を落とし、その場に倒れ込んだ。
「三郎さん。実はあなたに話さなければならない事があるのです」
菊乃は笑っていた。今まで見た事もないような歪な笑みを浮かべて。
「私には、夫がいました。本当に……本当に短い間でしたけど……」
業盛は口を動かしているが、舌が痺れているのか、うまく喋れないでいる。
「六年前の夜、……夫は、私の目の前で野盗に殺されました。
私はその時……野盗に身体を犯されました。
……夫に捧げるはずだった操を……汚らわしい野盗に奪われました……」
虚空を見つめる菊乃の瞳は殺気立っていた。
「その時から、私、男というのが信用出来なくなりました。
これまでにも何人かの男達が寄ってきました。少し優しい声を掛けただけで勘違いして、
馬鹿な奴は婚姻を迫って来て……あまりにもうるさかったから、
薬を飲ませて、痺れている時に軽く叩いて……、本当、 処理するのが大変だったんですよ…」
恐ろしい事を話しているはずなのに、菊乃の声は弾んでいた。菊乃の心は完全に壊れていたのだ。
「しばらくして、私は野盗の赤ん坊を産みました。
……産まれてきたその赤ん坊を、私、どうしたと思いますか。
ぎゃあぎゃあうるさいから、首を絞めてやったんです。
そしたら、……赤ん坊って、脆いんですね。簡単に首の骨が折れちゃって……」
菊乃が業盛の方を向いた。その瞳には先ほどまでの殺気はなかった。
代わりに、異様なほど濁った瞳と、それから発せられる粘性の視線が業盛を貫いた。
「本当だったら、あなたも殺すつもりでした。……ですが、あなたを見た時、驚きました。
あなたが殺された夫にそっくりだったのですから。これが天の思し召しなのだと実感しましたよ。
天が私に、もう一度やり直す機会を与えてくれたのだと」
最早ぴくりとも動かなくなった業盛に、菊乃がゆっくりと近付いてきた。
「もう……絶対に離しません。大丈夫……怖くなんてありませんよ……。
六年前の、……幸せだったあの頃に戻るだけなんですから」
服の帯を緩め、その白絹の様な肌と、椀の様な胸を見せ付けた。
「愛しています……あなた……」
菊乃が業盛を抱きしめようとした。

127 名前:変歴伝 第一話『路傍の花』 ◆AW8HpW0FVA[sage] 投稿日:2011/10/22(土) 04:18:03 ID:yQJJwSJ6 [9/10]
刹那、この時を待っていたとばかりに業盛は菊乃に思いっきりぶちかました。
菊乃は小さく悲鳴を上げて吹っ飛ばされた。
業盛はふらつきながらも外に出た。
菊乃の家からかなり離れたところで、口内に指を突っ込んだ。
すると吐き気がこみ上げてきて、胃の中の物が吐き出された。
吐瀉物の中には漬物や玄米がいまだに原型を留めていた。
何度も続けると胃液しか出てこなくなった。それで少し楽になった。
口に含んで飲んだふりをしただけでこの有様なのだから、
一口でも飲んでいたら取り返しの付かないことになっていた。
業盛は未だに痺れる体を引きずりながら、森の外を目指した。
道中、業盛は菊乃の追跡を受けなかった。どうやらあれで気絶したのだろう。
しばらくして、やっと森の外に出ることが出来た。
その頃には、既に身体の痺れも消えていた。
しかし、業盛の表情は険しかった。
善良だった菊乃が狂ったのも、業盛がこのような目に遭ったのも、
全ては野盗というクズの集まりのせいである。
業盛の心中は、社会の不必要な悪に対する殺意で染まり切っていた。