- 251 :一:2007/09/08(土)
13:06:15 O
- そっか
おこがましいことないけどな
でもこういうこと表現するには言葉よりも音楽の方が時に雄弁だ
音楽は意識下に直に語りかけることができるから
- 252 :一:2007/09/08(土) 18:14:49
O
- でも音楽って無意識のどういう部分に働きかけてるんだろか
考えてみれば不思議なもんだ
セックスが気持ちいいのはわかる
それは子孫を残したい本能が我々の意識にそう思わすんだろう
でも音楽を聴いたからって特に本能にとって得になることなさそうだよね
- 253 :考える名無しさん:2007/09/08(土) 18:22:03
0
- 体感的に大きな音から波形的な音と身体の相互性とか
- 254 :一:2007/09/08(土)
18:48:30 O
- 1/fゆらぎとかそういうこと?
んーまあそういうのもあるかもな
また後で考えてみる
ところで
例えば雄蝉が鳴くと雌は興奮して寄ってくるんだよね
音楽を聞くと興奮するのはそういうのの名残なのかな
- 255 :一:2007/09/08(土)
19:29:14 O
- 生物が耳を持つようになったのは何らかの生存に役立つ情報を得る為だろう
危険を察知したりラブコールを聞いたりとか
最初はそういう役割しかなかったんじゃないか
- 256 :一:2007/09/08(土)
19:39:46 O
- それがだんだん犬猫くらいになると伝達する情報が増えてくる
威嚇や服従を音声から判断できるようになる
人間も最初はショッカーみたいに一言しか言えなかったんじゃないかな
- 257 :一:2007/09/08(土)
19:52:25 O
- やがて伝達する情報の量は飛躍的に増えて鳴き声だけでは足りなくなり
言語が生まれた
その一方である種の音声を聞くと
興奮したりロマンチックな気分になる習性はそのまま残った
- 258 :考える名無しさん:2007/09/08(土) 21:37:29
0
- 僕が以下に与えるイメージ映像と、数式を矛盾(違和感)無く重ね合わせてください。
この時はロジックを使ってください。それができた時、あなたは期せずしてレトリック
を読んでしまった事になります。「理解する前→理解した後」この道中に垣間見える
モノこそが、老子がいう「道」です。
- 259 :考える名無しさん:2007/09/09(日) 01:12:20
0
- >>236
壱が万物の原因てことは
万物のあらゆる変化はその結果にすぎないってことでしょ?
てことは
壱(原因)→生(結果)→老(結果)→病(結果)→死(結果)
となるよね。
てことは死の原因は病気だからとか、病気の原因は老いたからだとか言えなくなって
死も病気も老いも生も万物の変化の中の1つの過程、1つの場面、1つの断面でしかないんだけど
それじゃ誰も納得できないから
結局今現在の各々の立場でそれを都合よく因果関係で解釈してることになるんじゃないのかな~なんて思ったりしたわけです。
つまり万物は因果もなく相互に平等にただ関連し合ってるだけだし
1個の物も因果もなくただ偶然変化していくだけになるんじゃないのかな?
で、その原因は目的のない壱にしかないということでしょ?結局。
- 260 :考える名無しさん:2007/09/09(日) 02:00:43
0
- >>247
その逆もあるよね。
自分は寝たいと意識してるのに身体は寝てくれない、身体には寝る気が全くない。
そう考えるとこの寝るってのも不思議な現象だよね、寝てるのは自我なのか身体なのか?
>壱思想ではそれもまた君に他ならないと考える
>言葉や論理を全く気にしないワイルドな君がそこにいる
ここが重要なポイントだと思うよ。(一さんの見解はわかんないけど)
正統的な西洋思想だと
神は言葉で語る主体だろうしデカルトの考える私も言葉で考える主体主観だろうし
どっちにしろ正統的な西洋思想はガチガチの論理主義、まず初めに言葉ありき主義で
非論理、非言語なものは排除の対象になり、それは神秘主義とか極端だとオカルト扱いだけど
壱思想は非論理非言語の壱を万物並びに自分の主体としてる点が斬新だね。
別にどっちがどうという話じゃなくて
西洋思想とは全く逆の視点から見てるのが面白いと思うよ。
つっても仏教関係では普通かもしれないし西洋にも類似した思想はあるけど疎いだけかもしれないけど。
- 261 :一:2007/09/09(日)
06:15:48 0
- >>259
んーなるほど
なんとなく言いたいことはわかった
原因や因果という言葉で意味してることが私と君じゃズレがあるんだな多分
私の解釈でいう因果関係とは
現象Aが力Bによって現れた
よって結果Aの原因はBである
という単純なもの
君の言う原因とは多分
私の言い方でいえば根本原因に相当すると思われる
確かにあらゆる現象の根本原因は壱という力しか無いんだけど
でも死は実際病気という力によってもたらされた現象なので
私的には死の原因は病気であると言う事ができる
じゃ病気の原因は何か?その原因の原因は?とどんどん問うていって
その原因の原因の原因のもっとも根本にある根本原因が壱
- 262 :一:2007/09/09(日)
06:40:40 0
- >>260
でへへ
斬新だなんて言われると照れちゃうな
確かにデカルト以降カントくらいまでの西洋哲学は
自我=理性としてそれ以外をテーマにしなかった
種明かしってわけじゃないが
近代西洋の哲学者で初めて自我の無意識の部分に光を当てたのは
インド哲学にも傾倒していたショーペンハウアーだ
彼は世界の主体は非言語的な「生きようとする盲目な意志」だとした
あまり当時は評価されなかったが後世になって
フロイトやユングが無意識をテーマにいろいろ考えるきっかけになった
だからまあ西洋に全くなかった発想というわけでもないっす
でも彼らも非言語の部分はやはり他者として見ている感じがあるし
それを自分の主体なんだとするのは東洋的な発想だろうね
- 263 :一:2007/09/09(日)
06:51:19 0
- 自分で言うのもなんだけど
私が壱思想を斬新だと思うのは
インド思想や禅などでは自分が宇宙の主体と合一する為には
ヨガとか座禅とか瞑想によらなければならないとするのに対して
何もしなくたって始めっから私は宇宙の主体と同一だと主張するとこにある
まあこれだけ書くといかにもオカルトっぽいけども
私は別に霊感があったりしてこういうこと言ってる訳じゃなく
いろいろ類推してこういう思想に至ったわけなので
これからもまあ懲りずに説明していこうと思う
- 264 :考える名無しさん:2007/09/09(日) 17:30:31
0
- かなり前のレスから
>それゆえ私は昨今巷で大流行の自分らしくという言葉が大嫌いである
>ミュージシャンやアスリートが自分らしいプレーができればいいと思います
>とか言うの聞くと虫酸が走る
>理想のプレーを本気で夢中になって求めたらそこに自分なんていないはず
「自分らしいプレーが出来ればいい」という言葉を発するミュージシャンやアスリート
達がいたとして、それらの人々全員が「理想のプレイ」とあなたが呼ぶ、フロー状態のよ
うななものを伴ったプレイしていないとは、いえないのでは?むしろある瞬間、あるプレイ
でフロー状態を経験していたら、それを「自分らしい」と表現する場合が多いのでは?
- 265 :考える名無しさん:2007/09/09(日) 19:14:37
0
- >何もしなくたって始めっから私は宇宙の主体と同一だと主張するとこにある
壱から発生した万物(俺含む)なんだから全て同一だろうということを指している
のか?
- 266 :考える名無しさん:2007/09/09(日) 22:17:05
0
- どんだけーー
- 267 :考える名無しさん:2007/09/09(日) 23:13:29
0
- >>261
あ~なるほど
万物の変化のうちにも因果はあるが
その総体としての万物の根本の原因は壱にしかないということね。
病気だから死んだとか眠くなったから寝たとか腹減ったから飯食ったとか
そう解釈するのが普通か、そりゃそうだね。
あ、でも壱思想では壱のみが万物の主体であり根本原因だから
病気によって死ぬという因果関係に固執して
病気になったことをくよくよ悩むより
病気も死も結局は壱による偶然の結果に過ぎないと解釈したほうが
病気も死もスッキリと納得できるような気がしないでもないけど。
- 268 :考える名無しさん:2007/09/09(日) 23:45:59
0
- >>262
やっぱ西洋人には神という超越的存在が基本にあるだろうから
原因は神の如く自分を超えてあるという発想になっちゃうんじゃないすかね?
もしくは思っててもおいそれと顰蹙買うようなことは言えなかったとか、ニーチェみたく。
増してや「自分を超えたものも自分である」なんて字義通りとれば矛盾だしね。
- 269 :考える名無しさん:2007/09/10(月) 00:10:29
0
- >>263
なんか壱思想って頭で考えて認識するっていうよりも
体感する、実感する思想って感じがするんだよね。
精神性より身体性を重視するっていう感じかな?
「考えるな、肌で感じろ」みたいな。
だから>>242みたいな疑問が生じるんじゃないすかね?
だからそういう人が修行や瞑想で自我を超えたものを直観しようと試みるんすよね?
インド思想とか禅とか全くの無知で完全なる推測ですけど。
- 270 :一:2007/09/10(月)
03:56:41 0
- >>264
んーそうかそういう意味で言ってるのか
そういう意味で言ってるなら文句はないや
けど無心で最高のパフォーマンスをしてる状態を
自分らしいと表現するのにはまだ抵抗を感じるけどね
まだ、自分が自分じゃないみたいでした
みたいなコメントの方が好感が持てる
- 271 :一:2007/09/10(月)
04:17:07 0
- >>265
万物は壱の力で現れた現象である
だから万物はその根本原因においては同一
それは確かにそう
けど私の言おうとしてることはそういうことじゃない
簡単に言い換えれば
私は壱によって現れた現象なのだけど
壱は私の他者として私の外側から私を現象させたのではなく
私の存在性の内側から私を現象させているので
壱は私の主体であり
つまり私の主体は宇宙の主体と同一なのだ
てな感じかな
- 272 :一:2007/09/10(月)
04:26:51 0
- >>267
んー因果って言葉でもちょっと解釈のズレがありそだね
私の言う意味での因果ってのは
単に原因と結果という意味なんだけど
君の言う因果という言葉には「必然的な運命」「宿命」みたいな
意味合いもありそうだ
まあ実際そういう意味でも使われてる言葉だしね
だから両者を分けて説明したらいいのかな
つまり
あらゆる現象には原因と結果の関係は存在するが
必然的な運命や宿命のような関係は存在しない
- 273 :一:2007/09/10(月)
04:34:57 0
- >>268
そうだろね
ちなみにニーチェは確か晩年
キリストも仏陀も私である
そればかりでなく歴史上のあらゆる人物は私である
みたいな事を言った
まあ普通の人からしたら単なる気違いだろうけど
私はああニーチェもそこまでは来てたんだなーと思うな
つまりニーチェは自我や個体性や時間さえも超越した自意識を感じていた
感じていたけど西洋的自我観との矛盾に耐えられなかったんじゃないかな
- 274 :一:2007/09/10(月)
04:41:57 0
- >>269
なるほどね
そういう感じがするのも不思議じゃないわな
まあそれをあえて言葉で説明してみようというのがこのスレの趣旨かな
どこまでできるのかはまだ自分でもわからないけど
でもまあまだまだ語り得ることはあると思う
- 275 :考える名無しさん:2007/09/10(月) 14:43:23
0
- 壱の一者的な思想には共感するが。
文体やものごとの思考過程を見る限り、
壱のみている「壱」という一者的なものは、
まだまだ現象にすぎないように、思えてくる。
と微妙な批評をしてみる。
ユングを読んでいててくるような麻薬的な感覚が全然ないから。
- 276 :一:2007/09/10(月)
17:37:32 O
- 若いときに狂気とか麻薬とか憧れる気持ちはわからんでもないけど
それと哲学や思想の深さは全然カンケーないと思うよ
ギリシャ哲学や老子なんかすごく健康的だけど2000年以上読まれる力を持ってるし
- 277 :考える名無しさん:2007/09/10(月)
18:04:09 0
- ここに貼ってあった「人生最大の~」を読んでいる。
っつか、すっげーーーー長すぎて読む気失せるw
やっとパート1を読み終えたところ。
なんで読んだかっつーと、関係あんのか?と思ったから。
同じことを言ってそうだが、どうなんだろうな~的な感想。
ついでに俺は禅もインド哲学も知らん。
読み終わったらまたここのぞいてみるが、これまでのやり取りを読んでいる限り
誰かも言うように、なんつ~か深みがない感覚を持っている。
奥深く広くないってな感じ。
文章表現で伝えることを意図したなら、まっさらなわからん俺みたいなヤシにも
わかるような表現して味噌。余計なお世話だろうが単純にそう思うよ。
- 278 :一:2007/09/10(月)
19:38:38 O
- んーまあどこがわからないのか聞いてくれればできる限りは説明するよ
深さうんぬんについてもどこがそうか言ってくれれば面白いんだけどな
- 279 :考える名無しさん:2007/09/10(月) 20:41:24
0
- >ちなみにニーチェは確か晩年
>キリストも仏陀も私である
>そればかりでなく歴史上のあらゆる人物は私である
>みたいな事を言った
このあたりの意味も全くわからない
ダメダコリャ orz
どういう意味?
一が今まで色々と類推して至ったというその類推を披露してくらさい。
- 280 :一:2007/09/11(火)
03:54:54 0
- >>279
昔は私も人格をもってそれを私と認識して特に疑問を持つ事などなかった
最初のステップは前にも書いたけど動物的本能を自分の中に発見したことだ
それは>>247にも書いた
つまり言語を持ち人格をもつ自分だけで私が構成されてるわけじゃない
ということに気づいた
例えば君が腹が減ったと思ったとしよう
普通ならそのとき君の身体の動物的本能も
生存のために何か栄養が必要だというふうに感じているだろう
それで脳に指令を出して腹が減ったと思わせ何か食べ物を探させる
さてこの時どこからどこまでが自分なのだろう?
- 281 :一:2007/09/11(火)
04:09:07 0
- デカルト的自我観でいえば
肉体はあくまでも他者ということになるだろう
腹が減ったと思う私だけが私
私に腹減ったと思わす存在は何であれ他者
でもそれって何か変じゃね?
私は肉体も精神もいっしょになって腹減ったと思っている
そう考えた方が自然だと思わん?
私にはそう考えた方がしっくり来た
言語をもって思考する自分以外に言語を持たない野生の自分もいる
- 282 :一:2007/09/11(火)
04:20:45 0
- これでまず自意識は人格の範囲より広くなったわけだ
動物としての本能もひっくるめて自分と認識するんだから
言語や理性や思考を持たない動物的本能としての私は
とにかく生命を維持しようとして24時間ずっと働いている
呼吸をして酸素を取り込み心臓を動かして血液を循環させる
子孫を残すため精子を作り裸の女を見るとチャンスとばかりに勃起する
まずはそんな自分を自分として認識できるかどうかだ
- 283 :一:2007/09/11(火)
04:43:22 0
- ところで
動物的本能としての君はどこからやってきたのだろう?
君はかつて母親の胎内に眠る一つの受精卵であった
しかしその受精卵は無からポッと生まれたわけじゃない
それは君の父さんの精子が母さんの卵子に突入してできたものだ
つまり動物的本能としての君は親父とお袋の細胞から発生した
ところで動物的本能それ自体も無から発生するものではない
ということは動物的本能としての君は父さん母さんの動物的本能を
受け継いでいるのだ
もともとが君は君の父さん母さんの細胞なのだから
父さん母さんの細胞には父さん母さんの動物的本能が宿っている
つまり動物的本能としての君は君が肉体として発生する以前
君の両親の動物的本能であったのだ
両者は全然異なるものではなく同一なものだ
- 284 :一:2007/09/11(火)
04:52:57 0
- これで動物的本能としての君は君の肉体という個体性を超越する
ということは君が君と認める範囲は自我の範囲を超え個体の範囲を超えた
親父お袋の動物的本能も含めて君なのだから
ここまで来るとなかなか想像しにくいとは思うけど
何回も読み直してよーく考えてみればそんなにおかしな話じゃないと思うよ
- 285 :一:2007/09/11(火)
04:58:41 0
- そしたら君の両親の動物的本能はどこから来たのか?
それは君のじいちゃんばあちゃんから受け継がれたものだ
ほらまた君の自意識の範囲は広がった
動物的本能としての君はじいちゃんばあちゃんの頃から生きていたのだ
そしたら君のじいちゃんばあちゃんの動物的本能はどこから来たのか?
こうしてどんどんどんどん遡っていけば
君は地球で最初に生まれた人類まで辿り着く
つまり動物的本能としての君は地球上に最初の人類が生まれたころから
既に存在していたのだ
- 286 :一:2007/09/11(火)
05:23:12 0
- そしたら今度は時間をまた逆に流してみる
地球で最初の人間がもっていた動物的本能は
その子に受け継がれその孫たちに受け継がれまたその子や孫へ
現在では60億人の全人類に受け継がれている
ということは動物的本能としての君は動物的本能としての私でもあるし
両者に全然違いはなく同一だということになる
だって全く同じものが受け継がれているんだから
だから私や君は歴史上の全ての人と動物的本能としては同一なのだ
そしてそういう動物的本能の存在の巨大さに比較すると
我々の人格や個性などははるかに小さく一瞬のもので誤差の範囲内だ
よって私や君はキリストや仏陀とおんなじだ
ちょっと終盤めんどくさくなってはしょったけど
まあこんなあたりが私の類推の経緯
ニーチェと同じ推論ではないだろうけど
行き着いたところは同じでそれは自我や個体性や時間を超えた自意識の感覚だ
まあ壱思想はさらにその先まで行くけど
まだ壱は出て来ない
- 287 :考える名無しさん:2007/09/11(火) 09:50:11
0
- >地球で最初の人間がもっていた動物的本能は
>その子に受け継がれその孫たちに受け継がれまたその子や孫へ
>現在では60億人の全人類に受け継がれている
えーーーっ、「地球で最初の人間」って誰々?
>そしてそういう動物的本能の存在の巨大さに比較すると
>我々の人格や個性などははるかに小さく一瞬のもので誤差の範囲内だ
えーーーっ、巨大って誰が決めてるの?どんな風に巨大なの? 「個性など
這かに小さく」って、何らかの測定したりして結果のことだよね?
「誤差の範囲」って何々?あるデータが抽出され、何らかの統計的処理を
施して、それが「誤差に収まる」と認識されたんだよね?
結果、「人間の意識?なんつーもんは~、巨大な動物的本能に比べたら所詮誤差、
アタシも仏陀もキリストもマキエも、エイジ(←多少語気が変わったように感じ
たのは思い過ごしか・・・)もみんな(誤差範囲内つながりで)一緒~」と
言う結論が生じたんだよね?
と、最近知恵が付いてきて、小うるさいJK(=女子高生)のサエコが携帯片手に申
しておりました。ダラダラ長いメール止めとけって言ってるのになぁ。
- 288 :考える名無しさん:2007/09/11(火) 13:12:04
0
- 一の説明、よくわかりました。
ありがとうございます。
続きを宜しくです。
- 289 :考える名無しさん:2007/09/11(火) 19:08:50
0
- 質問があります。
人格や自我がでてくる前・・・赤子や胎児の頃の純粋な自分というのは
そもそも認識できるのか?一はそれを認識できたのか?それとも~こんな
感じという妄想に近いような感覚なのか?
次の質問
壱思想によって淡々としない?
次の質問
俺は野球をするんだが、すこぶる調子がいい時ってまわり全体が見えて
なんの雑念もないようで頭で考えずとも勝手に体がベストなプレーをしてくれ、
球だろうがまわりだろうがスローモーションのように見えてお茶の子さいさい状態に
なったりするんだけど、これは壱と関係あり?
最後の質問
壱からしたら世の中には説明できない現象は一切なし?
- 290 :考える名無しさん:2007/09/12(水) 01:30:02
0
- >>281
デカルトは悩んでたね
考える自分と考えない他者である肉体がなぜ対応してつながってるのか?と
肉体(他者)と精神(自分)の二元論から
他者である肉体は消滅しても自分(精神、魂)は残るという発想が生まれたのかな?
考えてみれば考えない非言語の肉体がなければ言語も考える自分もなかったわけだから
肉体だけを他者として軽視する理由も確かにないな。
つ~ことは考える自分も自分だが、考えない肉体も同じく自分と考えても何も問題ないわけだ。
考える言語的自分と考えない非言語的自分、両者はなぜか対応しつつ同じ自分を構成する。
なるほどね。
- 291 :一:2007/09/12(水)
11:40:02 0
- >>287
サエコちゃんの突っ込みももっともだから
また考えてからそのうち答えるねって伝えといて
>>288
あいよ
- 292 :一:2007/09/12(水)
11:50:17 0
- >>289
質問1
赤子や胎児の頃の純粋な自分をそのまま認識できたわけじゃないすね
ただ言語や思考を持たない自分はやっぱ
どうしようもなく腹減ったり眠くなったり勃起したりとか
そういうときに認識することができる
そういうような思考以前の生命維持のための衝動は
赤ちゃんや胎児のころにもあっただろうと思う
だからそれは認識というより推論でありまあ妄想と言われれば妄想だな
- 293 :一:2007/09/12(水)
11:53:21 0
- >>289
質問2
そうだね比較的淡々とするようになったかな
熱くなることもあるけど冷めるのが早くなったかな
でも昔からそうな気もするから
あまり変わってないような気もする
- 294 :一:2007/09/12(水)
12:00:55 0
- >>289
質問3
美しさと壱は何かしら関係しているという気がしている
アスリートが最高のパフォーマンスをするとき
その姿を見て美しいと私は思う
その感動は動物や魚の動く姿を見て美しいと思うのと似ている
両者の共通点は無心でいることにあるのではないか
無心でいることとは壱と一体になっていることではないか
まあざっとだけどそんな感じ
そのうち「美しさ」や「感動」と壱の関係についても
書いてみたいと思ってます
- 295 :一:2007/09/12(水)
12:09:53 0
- >>289
質問4
それはわかんないな
説明できることはたくさんあるとは思うけど
>>290
どうして二元論みたいな不自然な主張が
何百年もまかり通ったのかが逆に不思議だわ
- 296 :考える名無しさん:2007/09/12(水) 20:41:02
0
- >美しさと壱は何かしら関係しているという気がしている
>アスリートが最高のパフォーマンスをするとき
>その姿を見て美しいと私は思う
防波堤で寝転びながら、カモメやウミネコの飛んでる姿をただ受け入れてる時がある。
だけど、あの子らにも個体差はある。威嚇しながら、餌も奪い合う。そんな時に我に返る。
可愛そうに思うときは、釣針ついたままの魚を、何の疑いもなく飲み込んじゃう時だなぁ。
- 297 :考える名無しさん:2007/09/12(水) 22:45:42
0
- ある日、母が勤め先のスーパーから鳥取のホテル宿泊券を2枚もらってきた
「店長さんが『休みなしのお勤めご苦労様。たまには坊やと一緒に行っといで』って」
J('∀`)し
(ヽロロ ヽ('∀`)/ワーイワーイ
|| (_ _)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
生れて初めての旅行に興奮する俺に母は
「鳥取には砂丘があるらしいよ」「きれいな風紋が見れるといいね」と
お出掛け用に新しい洋服を用意してくれた
J('∀`)し ♪
t─┐ノ( ノ) ヾ('∀`)ノロロ
│■| | . (_ _)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
そして旅行当日 電車やバスを何本も乗り継ぎやっと鳥取砂丘に着いた
J( 'ー`)し
. ( ) \('∀`)/
| | (_ _)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
,,..,,..,,..,,..,,..,,..,,..,,..,,
-──-‐―-──-‐''"´ ::::::::::.....::... ::::''"´ ̄ ̄~ ̄ ̄
::::::::...|:::: :::::: | | :::: ::: :/ / ̄ ̄` :::::: /~ / ::::::::
:::::::::::::|____.| | ::::.. ./ ( :::::::..... / /:::::: ::::::::
..:::::::::| | ゝ_.ノ:::::.......ヽ_::::::::::::::| ̄\ ::::::::: :::::
- 298 :考える名無しさん:2007/09/13(木) 00:51:57
0
- >>295
でも、普通の感覚だとやっぱ肉体と精神は別物と考えるのが逆に自然だと思うよ。
じゃないと他人の死を見て肉体は無くなったけど心はどうなったか?なんて発想が浮かばないだろうね。
そう考えるってことは肉体消滅後の心=自分の行方が気になるという心理が働いてるんだろうし。
精神が肉体を認識するという時、認識する精神は主体である自分だが認識される肉体は対象である他者とみなしてるんじゃないかな?
それが常識的な捉え方だと思う。
で、ここがやっぱ壱思想理解のポイントであり難点なんだと思うな。
言語で思考し認識する自分と言語で思考し認識される言語を持たず思考も認識もしない物質(肉体、生存本能)としての自分。
認識においては主体と対象に分かれる両者は元を正せば同じ自分であり自分を構成する二つの側面である。
それは自我、自意識、言語によって自(精神)と他(肉体)に分裂した結果にすぎない。
ここら辺りで大抵はつまずくんだと思うなあ。
289氏の最初の質問もやっぱ自我による認識重視で自分が認識できない対象は他者扱いしてる感じあるし。
- 299 :一:2007/09/13(木)
12:11:37 0
- >>296
今度釣り行こうぜ
>>297
あれは鳥取出身の私としては断じて許せません
- 300 :一:2007/09/13(木) 12:33:03
0
- >>298
そうか確かに
デカルトや西洋思想を知らなかった昔の日本人でも
魂が肉体に宿るとかお盆に魂が帰ってくるとか考えてた訳だし
肉体と精神は別物と考えてたんだろうな
そこまでは同意するけど
考える私のみを主体と捉え自分の本能や肉体は客体と捉える考え方は
やっぱ不自然だと思う
哲学的な問題など考えた事もない人は自分の身体と自分の意識と
全部ひっくるめて一個の自分って捉えてないかなあ
例えば誰か友達にこう聞いたとしよう
「ねえ君って誰?」
「え、俺?俺って、別に、いやこれが俺だけど・・・」
多分そんな感じで答えるんじゃないかな
そのときの「俺」って意味には身体も精神も入ってると思うけどどうかな?
最終更新:2007年10月16日 23:51