その人はおおむね、いつも、似つかわしくない大きさの鞄を抱えてやってくる。 どこの生まれだか分からない。銀の髪を揺らして、鞄を開けて。 ほら、今日も彼女は、いつもと同じものを取り出した。 なんとも知れない本と、ぶ厚い国語辞書。 ……彼女の整った顔は、たぶん知らない人はそうそう居ない。 私の働くカフェーには、四条貴音がやってくる。 「わ、い、ぱ、あ。……ふむ、ありました」 単語を調べては、ペンで線を引いていく。 本は保存するのではなく、使うものだ。そこらへん、この人は分かっている。 四条貴音はケーキ類を頼んでこない。いつもコーヒーだけだ。 うちはアメリカンとエスプレッソ、それとカフェオレ、カプチーノしか出していない。 それでも最初の来店では、この人は目を白黒させていた。 「『あめりかん』、で、お願いいたします」 なるほど、男が狂うのも頷ける。笑顔の裏で私は感心していた。 「おかわり、いかがでしょうか」 「有難きことです。さしさわりが無くば、ぜひ、お願いいたします」 うちではアメリカンはおかわり無料だ。マスターが道楽者なのである。 おかげで長々居座るには良いのだが、場所が辺鄙なのか、ヘンな輩が寄ってくる事はあまり無いようだ。 「はかどりますか」 「ええ、お蔭様でございます」 「それは重畳。ごゆっくりどうぞ」 一礼して、四条貴音のそばを去る。 テーブルを通り過ぎるとき、ちらりと常連のサラリーマンが目を流した気がした。 男性客だって、うちには居る。 ていうか、おっちゃんばっかりである。 でも誰も、四条貴音に話しかけたりしない。 じろじろ見る奴もいない。 「こっちだって忙しいのだ」てな具合に、めいめい、新聞やらノートやらと、にらめっこしている。 ……きっと皆さん、見栄を張っているのだ。 それに加えて、ほんの少しだけ、品がいいのだ。 私はよい場所に勤めている。 「御馳走さまでした。本日も変わらぬよき味で、つくづく感服いたしました」 「ご丁寧に、ありがとうございます。店主にもよく伝えておきますので」 四条貴音が店を出る。 彼女の残したドアベルの音は、いつも浮世を離れて聞こえる。 私はすぐにテーブルを片付ける。 私のバイトと高貴な世界が、ちらりと交わる一瞬。 たまに来る、不思議なアイドルの話である。 了