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太陽とケモノ
びっくりした。休みの日の昼下がり、図書館帰りの昼下がり。誰も通りかからない、ウチへの近道の細い路地。たまたますれ違った、見知らぬイヌの男子の二人組み。尻尾がちょっと触れただけなのに、怖い顔して振り向いてきた。「尻尾ぶつけといて、謝らないわけ?」「……ごめんなさい」「はあ?それだけで済むわけ?」鈍く光る牙、濁った目。小さな子が目を合わせれば、泣き出してしまいそうな面構え。二人とも目元の傷を隠さず誇りにする姿は、精悍と言えば聞こえがよいが、結局は柄が悪い。謝れと言うから謝ったのに、言葉は通じても話しが通じないもどかしさ。目を合わせると、余計なことになりそうなのでわざと俯く。早く帰って借りてきた本を読みたい。出来ることなら面倒なことは避けたいけれど、逃げ出すのは『片耳ジョン』の言葉に背くんだろう。修羅場を潜り抜け、生きる勇気を諭す彼は、本の中だけでなくとも、ぼくに語り駆けてくる勇敢なオオカミ。彼が語るには……、「少年とは、困難が立ちはだかれば立ちはだかるほど喜ぶものさ」しかし、困った。「あぁ?突っ立てないで答えないわけ?」「尻尾痛いわけ?」彼奴の右手がぼくのカーディガンを掴みかけると、小さな風がぼくの目の前を駆け抜ける。白く大きな尻尾がピンと上げて、ぼくは後ろに跳んで退く。本能的に右手でぼくの顔を庇う。面倒なことに巻き込まれそうだと諦めかけたのだが、彼らと目が合うと事態が思わぬ方へと急転する。「ちょっと待て。やばいぞ」「あ?……まじ?ウチの高校の?」「おう。アイツだよな」「ここでシメてたら、狗尾高マジでやばくなるわけだよな?」狗尾高。聞いたことはある。でも所詮、聞いたことがあるだけだ。彼らが何を意味して話しているのか分からないが、とにかくヤツらは、目を見てぼくを『アイツ』だと勘違いしている。すると、尻尾を巻いてどこかへ消えて行った。あっけに取られたぼくが彼らの背中を見つめていると、聞き覚えのある声がぼくの背中を叩く。毎日聞いているような、明日も聞くような。若い女性の声だったのは間違いない。「こ、こらー!!ケンカはいけないんだぞー」一人のネコが立っていた。ぼくが教壇で見るような姿をしてはいないが、確かにあれは泊瀬谷先生。ぼくのクラスの担任で、現国の泊瀬谷先生はネコの若い女教師。短い髪が印象的だ。泊瀬谷先生はトートバッグをブンブン振って、尻尾を膨らませながら路地に向かって叫んでいたが、縮こまった両肩と、頼りなくアスファルトに踏ん張る足元が先生の勇気を中和していた。それ故、泊瀬谷先生は、ぼくの方に近づこうとせず、今だにぶらぶらとトートバッグを振っているだけ。しかし、ぼくの方から先生に近づくと小首を傾げて、泊瀬谷先生が忘れかけていた少女の頃を思い出しているよう。「ほ、ほら!先生のおかげでヒカルくんも助かったでしょ?」「……」「えへへ。怖かったんだ?先生がケーキでも奢ってあげるから、落ち着いて」本当はヤツらの方から逃げていった。ホントのことを伝えるよりも、そのままにしておく方が幸せなのかもしれない。大人びた真実は、オトナを傷付けてしまうかもしれないから、ぼくは黙って泊瀬谷先生について行くことにした。ぼくよりちょっと年上の泊瀬谷先生が、子どものように見えてくる。淡い色のスーツを着こなして、胸元にはカメオで留めたリボン。歩道を鳴らすパンプスは、先生自身を背伸びさせている。短い髪が初夏の風に揺れて、ネコでなくてもまどろみを誘う心地よさ。「こっちだよ」と、先頭を切るぼくのセンセイは、太陽よりも明るかった。歩き慣れた大通りを歩く。路面電車が街の風を掻き乱す。クロネコの紳士の毛並みがなびく。街の一場面を一瞬の風景画にして、泊瀬谷先生は大通りから外れた路地に入ると、ニコリ。「ここだよ」若いビルとビルの間にひっそりとたたずみ、老人のように街を見てきた一軒の喫茶店。軒先からぶら下がる、古びた看板のかすれた文字が、店の年輪を刻む。都心の喧騒を嫌ってか、切り取られた時間がそのあたりには漂っていた。「喫茶・フレンド……」「この間、学校の帰りに見つけたんだよ。入ろっ」扉を泊瀬谷先生が開くと、鐘の音と若い女の人がぼくらを出迎えた。ランプのともしび温かく、媚びない家具が心地よい。店の主人と、若い娘。客はぼくらの他はいない。コーヒーの香りがぼくらを嫉妬する。エプロン姿の若い店員さんは、長い髪を一つにくくってテキパキと仕事をこなしていた。じっとよく働く彼女を見つめていると、椅子に座った泊瀬谷先生から「こらっ」といたずらっ子ぽく注意された。にこりと微笑んで店員さんは、くくった髪を揺らしながらぼくらの席へ注文を取りにやってくる。「いらっしゃいませ」「……」「ご注文はお決まりでしょうか」「バニラアイスを二つね!アリサちゃん」メニューを見ずに泊瀬谷先生は、お姉さんに注文を告げる姿は、お得意さま。「かしこまりました」と、小さなクリップボードに注文をさらりと書くと、踵を返して長い髪を揺らしていた。そうだ、もしかして泊瀬谷先生なら「狗尾高」のことをちょっとでも知っているかもしれない。ぼくが「狗尾高」について、どうやって話を切り出そうかと考えていると、短い髪を頬にかけて泊瀬谷先生は、もじもじと目を合わせることがいけないことの様に、テーブルに目線を落としてぼくに静かに話し出した。「実はね……。おととい、実家から電話があってね、たまにはウチに帰って来いって言われてね」「……」「ヒカルくんにこんなこと話すのもなんなんだけど、家に帰ると……親から怒られちゃうんじゃないかなって」尻尾の動きからすると、先生はウソをついていない。それよりも、ウソがつけない先生のこと。「こんなことヒカルくんに話してもしょうがないよね。へへ」「……」先生の実家は、ぼくらの住む街から電車に揺られることちょっと。都会でもなく、田舎でもない郊外の町だという。帰ろうと思えば、すぐに帰ることができるのだが、始めの一歩が重過ぎる。さらに重くなった足は、人を愚痴らせる。自由気ままに生きているようでも、一抹の苦労を背負っていることに、泊瀬谷先生から読み取ることが出来るのだ。「どうしよっかなあ。親が待ってるしなあ」「お待たせいたしました。バニラアイスです」トレーに乗ったバニラアイスは、温かくなり始めたこの季節がいちばん美味しく感じると泊瀬谷先生は言う。小さな音を木のテーブルに響かせて、懐かしい半球を器の上で描くバニラアイス。ウエハース突き刺り、泊瀬谷先生は歓喜の声。アイスはオトナを子どもに引き戻す力があるんだと、他の誰かに言ったらきっと信じてくれるような、くれないような。「おいしそうだね」「はい」スプーンが器に当たる金属音は、いただきますのごあいさつ。ほんのちょっと、先生のゆううつを忘れさせることが出来るのなら、無邪気な姿をぼくに晒してもかまいませんよ。しかし、ぼくはバカなことに先生の頬を緩ませる顔に連れられて、聞こうと思っていた「狗尾高」について聞き忘れた。―――翌日の朝、学園のホールには人だかりが出来ていた。生徒たちは皆、刷りたての学園新聞を手に話しの種にしている。女子は甘味店の紹介記事に、男子はクラスのヒロインの写真に、教師は委員会だよりにと人それぞれ興味を抱く。だが、ぼくが目を止めてしまったのは他でもない『野球部・狗尾高との練習試合、ファインプレイ』の記事であったのだ。昼休み、ぼくはいつも行き慣れた図書館ではなく、新聞部の部室に足を向けた。ここなら何らかの情報が手に入るかもしれないと、学園新聞を片手に期待を抱き、不安を背中に扉を叩く。「どうぞ」と部屋からの返事が、ぼくを迎え入れる。ゆっくりと扉を開けるとカメラのレンズの埃を取っている一羽のカラス少女と、PC画面に向かってコントローラーを両手で握りながら、一喜一憂という言葉に振り回されるネコ少女がいた。「あの、高等部の犬上といいます……」「ああ、もしやあんさん、ヒカルはんなぁ?あんさんの噂は、おなか一杯聞いとりますわ。部長の烏丸どす」カラスの少女は手を止めて、聞きなれない訛りでぼくをのほほんと見つめていた。あまり話しをしたことが無いのに、彼女はぼくの名前を知っている。やはり新聞部の情報収集能力の賜物か。烏丸は手を止めると、備え付けの冷蔵庫から「生八つ橋」を取り出して、殆ど初対面であるぼくに勧めてきた。ひんやりとした生地が熱いお茶と愛称がよさそうだ。けっして目立つ色彩ではないが、見ていると心和むこの国のお菓子。カラスは後姿をぼくに向けて、手際よくジャーポットから急須にお湯を注いでいた。「うっひょー!さすが中ボスだよねー」一方、ネコの少女は、PCのゲームに夢中だった。花火のような砲撃を放ちながら、深い森の上空を駆け抜ける一人の魔法使い。相手が仕掛けてくる攻撃をまるで楽しむように、少女はコントローラーで魔法使いをひたすら操る。騒がしい彼女を気にせずに、烏丸は緑茶を注いだ湯飲みをぼくの目の前に置いた。コトンと使い込まれた机が音を立てる。「ところで、ヒカルはん。何か御用で?おや、早速最新号を読んでくれはったんやな」「その……。この記事についてなんだけど」「『野球部・狗尾高との練習試合、ファインプレイ』かいな。それはウチが低空飛行ギリギリで撮った写真どすえ。よう撮れとるやろ。そうや。この間、狗尾高のチンピラどもにドつかれそうになっとたやろ?ヒカルはん、大丈夫かいな」「……もう情報が。大丈夫、ケガはなかったです」「うぎゃあああ!満身創痍!!」静かにぼくが話し始めると、ネコの少女は寂しい画面にへばり付きながら、うるさくわめき出した。私立狗尾高等学校。佳望の街から電車に揺られること一時間ほど離れた海岸に構える男子校。運動部が盛んで、特に野球部の功績は数え切れないほど。そして、いちばんの特色は。「狗尾高言うたら、イヌの生徒ばっかりのとこですわな」烏丸の言葉で、ぴくんとぼくの尻尾がはねる。にっとほくそえむ烏丸の瞳は、鳥類独特の円らなものと、新聞部としての獲物を追う眼光の鋭さが同居して、彼女独特の色身を帯びていた。「うちの取材によると、佳望学園・野球部との練習試合ではうちの学校は完敗やったそうでな。なんでも、スゴ腕のピッチャーがおる言う噂ですわ。そして、そのピッチャー言うのがな……」「犬上先輩っ。犬上先輩って言うんですね!ご紹介遅れました。わたし新聞部所属・中等部の美作更紗ですっ!うわああ、真っ白でふわふわの尻尾……イヌ族の尻尾は激萌えです!うらやましいですう!!」「美作はん、黙っとき!」ゲームに飽きたのか、さっきまでPC画面に心奪われていたネコの少女は、くるりとぼくの方へと椅子に座ったまま回転した。短く揃えられた髪、少しぶかぶかのカーディガン、オトナに憧れた紺色のハイソックスとスカートの間が白く光る。美作と呼ばれたネコ少女は、ぼくの尻尾をにまにまと眺めた後に、妹のように上目遣いでぼくの顔を凝視する。「これはなかなかなの人材ですぞ!因幡お姉さまにお知らせしなければ!キリッ」人材?「白い毛並み!豊かに実るたわわな尻尾!誇り高きイヌ耳!わたくし美作更紗は、犬上先輩に出会えて感激でございますう!」美作と名乗る少女は、椅子に座ったままキャスターで移動して、本棚から薄っぺらなマンガ本を引っ張り出して自慢げに見せびらかす。尻尾を立てて目を細める美作は、オトナっぽく決めた紺色のハイソックスを履きこなしても、ばたばたとさせて落ち着きの無い子どもに逆戻り。烏丸が整理棚を探っているのを背景に、美作はぼくを舐めるように上目遣いで見つめ上げる。「どんなコスが似合うかなあ。ねえ!い・ぬ・が・み・先輩!」「コス?なにそれ」「もっふもふの尻尾を生かして、「ぎんぎつね」の『銀太郎さま』もいいなあ。王道で烏丸部長と組んで『椛・文の……』」何かの名前を言い切れないまま、烏丸からキャスター椅子を押されて美作はぼくの視界から消えていった。PCの主導権を烏丸が掌握する。画面は素っ気無いブルーのデスクトップに戻して、棚から取り出したCD-ROMをセットする。唸り声を上げたPCは、部屋の主人である烏丸には従順であり、抗することなく画像ファイルを開いてくれた。使い慣れた光学式のマウスを滑らせて、マイ・ピクチャのファイルに並んだ画像の整列には、狗尾高校の野球部員たちが青い海を背景に球を投げ、バットを振り、自分の毛並みが汚れることを臆することなくホームに滑り込む姿が写っていた。しかし、烏丸が見せたかったのは、そういうどこにでもある青春のいちページではない。そんなものなら、オトナたちからの昔話で聞き飽きた。「ほら、見てみ」「……そっくり」初めてだ。ぼくにそっくりなヤツを見るのは初めてだ。烏丸が取材のためにこっそり写した野球部員たちの休憩時間。その中の一枚に写る白いイヌの少年。確かに、彼は狗尾高のユニフォームを身に包み、野球帽から白い髪をはみ出していた。地面に付きそうな長くてたわわな尻尾が、ブルペンのマウンドに突き刺さりそうだ。ぼくと同じく真っ白い毛並みで包まれた彼は、まぎれもなくぼくらの野球部を破った、狗尾高のピッチャーであった。「どうどすえ?興味湧いた?」「……」言葉にせずにぼくは烏丸の言葉を肯定すると、せっせと烏丸は毛繕いをしていた。「すまんのう。うちら鳥はなあ、毛繕いを怠ると空を飛べんさかいな」「わたしも犬上先輩の尻尾の毛繕いをしたいですう!」「美作はん、黙っとき!」烏丸曰く「休みの日の正午に狗尾高に行くと、犬上はんならわかることがある」らしいが、これ以上、烏丸は口を挟まなかった。「ありがとう」と一礼をして、美作更紗が少しうるさかった新聞部をあとにする。教室に戻る途中、一人のウサギの少女が廊下でそわそわとしていた。その名は、我らが風紀委員長・因幡リオ。ボブショートの髪の毛は清潔感に溢れ、理知的なメタルのメガネは正義感が満ちている……、と思う。「あ!犬上!あんた、新聞部に行った?見たんだよ!あんたが文化部の部室の方へ歩いていく所!」「行ったけど、何か?」「そこにさぁ。ちっちゃくて、短い髪のネコの女の子……居たよね?」ぼくが「うん」と答えたのがいけなかったのか、彼女はポンと手を額に当てて、真っ白な上靴で廊下を慣らす。「むあああ!新聞部に『委員会だより』の原稿渡さなきゃいけないのになあ。あのさ……犬上。代わりにね、原稿、持ってってくれない?」「なんで?」「なんでもないの!!なんでもないんだから」因幡が力を込めれば込めるほど、ぼくの背中に感じる氷よりも冷たい風。一方、ぼくの真向かいで因幡は、じりじりとぼくの方から後ずさりをしている。殺気は本気に変わり、本気は因幡を危機に陥れる。「時間を取らせてゴメン!」と言うものの、ぼくにはどうでもいいことだ。「ああ!因幡お姉さまぁーーーあ!わたしはどんなキャラにも対応できるように、髪の毛を切ってきたんですよ!!そうそう!わたし、おこずかいを溜めてやっと手に入れたんですよ!あの制服!因幡お姉さまには『くろこ』、わたしが『みこと』のコスで……」先ほど新聞部の部室で大騒ぎをしていた美作更紗がすっ飛んで来た。しかし、因幡が目を泳がせる理由と、美作が言っている意味が良く分からない。「はいはい!分かったから、徹夜で書いてきた『委員会だより』の原稿、渡してあげるから、とっとと新聞部に行こうね」「ままま!まって!犬上先輩!これ、烏丸先輩からの……やだー!犬上先輩っ」頬を赤らめる美作は、ぼくに和紙で包まれた封筒を両手で差し出した。毛筆で達筆な烏丸の名が麗しい。封書を受け取ると、何故か因幡から足を軽く蹴られた。―――休みの日の午前。処は古浜海岸駅のホームにて。街の中心部からやや離れた古い木造建築の駅舎のターミナル。時代に取り残された電車が、櫛形のホームで体を休める。中心の駅とは違って、賑やかさは無いが、高校生のぼくにでもどこか懐かしさを感じる。元々線路が敷かれていた場所なのか、ぽっかりと不自然に空いた敷地から雑草が生える。遠くの目地へと単線の線路が伸びていた。閑散としているホームも休日を楽しみたいのか、のんびりとした時間が流れていた。駅員は見るからに暇そうだ。電車も発車のベルを待ちぼうけ。郊外行きの小さな電車は、わずかな乗客と共に青空を仰ぐ。天井からは夏を告げるデパートの広告と、カバーを被された扇風機が近い出番を待って釣り下がる。廃材になるはずだったレールを使った柱は、多くを語ることは無いが、少なからず街の歴史を知っている。ぼくは街のことをこの柱ほど知らない。若い駅員は、念には念を入れて指差し確認を繰り返していた。そして、ぼくは烏丸から手渡された一通の封筒を読みかけの文庫本に挟んで、繰り返して見つめていた。「あれ?ヒカルくん」「……泊瀬谷先生」この間言っていた。「今度の休みに実家に帰ろうかどうか」と。迷った挙句、帰省することにした泊瀬谷先生。イヤイヤながらも、ちょっとは楽しみにしている顔は隠せない。遅れてきた春の日差しのような白いスカートに、乙女心をくすぐるパンプス、そして、いつものトートバッグは外せない。「ヒカルくんもこの電車?」「……はい。狗尾高校に行ってみようと思いまして」「どうして」「なんとなく」学園のとき以上の笑顔で泊瀬谷先生は電車に乗り込み、ぼくもあとに続く。横一列のシートは暇そうにぼくらを迎え入れた。「こっち側に座ると、海が見えるよ」尻尾を先生と反対の方向に向けて、ぼくは少女のようなオトナのネコの隣に座った。ただ、ぼくには泊瀬谷先生との座席の隙間を詰める勇気はなかった。そっと文庫本を仕舞う。休日だからとは言え、乗客が少なすぎる。心配する筋合いはないが、ぼくらの他にいる客といえば小さな子どもを連れたヒツジの母子と他数名。ぼくらを乗せて、ゴトゴトと単線を走りながら揺れる電車は、ひと息付こうと次の駅に止まるも、乗客には動きがなかった。遠慮がちに閉まる扉を見つめる以外に出来ることは、隣で座っている泊瀬谷先生の横顔を一瞥すること。「気付いてくれたかな。お休みの日だから、思い切ってシャンプー変えてみたんだよ」頭を垂れる泊瀬谷先生の髪の毛が、開いた扉から吹き込む風で揺れる。クラスの女子たちよりも、瑞々しくも甘い香り。電車が発車する為に扉が閉まると、泊瀬谷先生の髪の毛の香りは一旦落ち着くが、ぼくの鼻をくすぐる香りは忘れられない。床下のモーター音が低く唸り、電車がカーブをゆっくりと通過すると、つり革が揃って揺れる。座ることを遠慮して立っている若いオオカミの男性の尻尾も同じように揺れる。あんまり電車が張り切るので、ソイツは座席に座っているぼくらの背中を、背もたれ越しに押してくる。いつしか電車の中に居たヒツジの親子は下車し、オオカミの弾性もいない。気が付くと車両はぼくらだけになっていた。どのくらい電車は走っていったのだろう。どのくらい人々が乗り降りしたのだろう。そして、どのくらい隣に座る先生はぼくに何かを話しかけたかったと思ったのだろう。悔やんでも、悔やんでも、いくら尻尾を膨らませても、電車はぼくらを下車する駅へと運び続ける。「佳望電をご利用いただきまして、有難うございます……。この電車は……」ときおり入る車内アナウンスに助けられ沈黙から逃れていると、ぼくらの顔が反射していただけの車窓に海が写り込む。初夏の海は新しい季節を迎えることに必死で、すっかり春の景色を忘れてしまっているのが非常に印象的な海岸線。こっちの席に座ってよかった。誰もいないのをいいことに、泊瀬谷先生の手の甲がぼくの手の甲に当たる。「先生も、この海を見ながら毎日学校に行っていたんだよ」やっと口を開いた泊瀬谷先生は、ぼくと話すことを避ける素振りを見せていた。だけど、ぼくは授業のときではない先生の声が、好きだ。出来ることなら、泊瀬谷先生から「先生」を奪い取ってしまいたい。「先生」という肩書きを失った泊瀬谷先生は、きっと迷いネコになってしまうんだろう。しかしぼくは、迷いネコを放っておこうと悪しき考えを浮かべたり、独り占めしてしまおうと思ったりはけっしてしない。なぜなら、ぼくも迷いイヌ。道に迷ったお巡りさん、迷子の子ネコに聞いても困るだけ。泣いてばかりのお巡りさん。どうしていいのか分からない。何していいのか分からない。誰に尋ねればいいのか、まったく見当がつかない。それでも側にいてくれて「これからどうしようかな」とまぬけだけれども、一緒に同じ目線で道を探したい。教えてもらうんじゃなくって、いっしょに「せんせい」と歩いてみたい。だけど、誰もこんな感情は分かってくれないんだろう。そんなことは心得てるけど。車窓近くの立木は物凄いスピードですっとんで行き、遠くに湛える湾の波はゆっくりと流れ、遥か彼方の白い雲はのんびりと浮かんでいた。ふと、泊瀬谷先生を見てみると、トートバッグをぼくの方ではなく、反対側の肩に掛けているのに気付いた。泊瀬谷先生の横顔は、授業では余り見せることはない。というより、見せる機会はない。ぼくが横顔に見入っている間に、先生がぼくの方を向いてしまったらと思うと、言葉にならないほど恥ずかしい。幸いなことに、泊瀬谷先生は俯き加減で小さな声で話し出した。「もうすぐ、狗尾に着くね……」電車の速度が緩むことに比例して、先生と同じ席に座ることができなくなるという、間違った思い。ブレーキ音が軋みつつ電車が止まる準備を始めると、ぼくは隣で頬を赤らめる小さなオトナの肩が触れた。電車は間もなく目的地である駅へと到着する兆しをみせる。時間は午前11時半すぎ。重いモーターの音とはしばしのお別れ。ハンドルを握る運転者が、慌しく運転席の窓を開くと古い設備を操作して扉を開ける。「狗尾ー、狗尾ー。狗尾高校前ー。電車とホームに隙間がございます。降りる際にはご注意ください」あっ。「ぼく、ここで降りますっ」席を立って扉の前にぼくが立つと、泊瀬谷先生がぼくに隠れるように側に立っていた。緩いカーブの上に建つホーム。泊瀬谷先生は無邪気に電車とホームの隙間を跳ねる。そこまでして跳ぶ隙間ではないが、アナウンスに素直な先生の後姿が初々しい。狗尾駅のホームは、二つに並んだ線路の間に浮かぶ。こせん橋は無く、駅構内の踏切で線路を渡って改札口に向かう古いタイプの駅だった。駅から伸びる草にまみれた線路は、再び一つにまとまり、知らない遠くの街へと繋がっていた。ぼくらが乗ってきた電車が駅を出る寸前、構内の踏切が警報音を巻き散らせて、ぼくらの歩みをさえぎる。「寄り道しちゃった……。いいよね?」「……はい」早くここから歩き出したいのに、意図せぬ足止めが泊瀬谷先生を意地悪くくすぐる。駅から出ると潮風が心地よい、海岸沿いの道に当たる。見ていて気付いたのだが、泊瀬谷先生は初めてここに来たような感じではない。すいすいと足取り軽く、目的地である狗尾高へと吸い込まれそうな勢いだった。パンプスの音がいつもより軽く聞こえる。ぼくは黙って泊瀬谷先生の後を追った。「先生の住んでいた町もこんな感じだったんだよ」「そうなんですか」「うん。懐かしいな……。まだ、あのタバコ屋さんあったんだ」駅で降りるとき「寄り道しちゃった」と言っていた。暮らしていた町ではないけれど、どこか先生にとっては思い出深い町なのには違いない。もしかして、これから向かう狗尾高と関係があるのかもしれないが、あまり深い詮索はよろしくない。休日の昼前。人通りはぼくら以外にいない。「ヒカルくーん。着いたよ!」泊瀬谷先生が手を振って居る場所は、狗尾高の正門でも通用門でもない。海岸近くの細い道を歩く。遠くには漁協の建物。グランドの脇を通る細い路地。確かに狗尾高の側にいるのだが、金網のフェンスがぼくらをさえぎる。しかし、学園の息吹は予期せぬ来訪者であるぼくらに確かに届いていた。「本当だ」「うん。わたしが初めて来たときとちっとも変わってないね」グラウンドでは、野球部員たちが海風と砂埃にまみれて練習に明け暮れていた。金網越しに彼らを見ると、本当だ。イヌ、イヌ、イヌ……。誰も彼もぼくと同じイヌの男子生徒ばかり目に付く。白球追う彼らの姿は、ぼくら「ケモノ」ではなく、野性に返った「獣」のよう。ただ、尻尾の動きは「ケモノ」のときを忘れていない。純粋に、純粋に、そして純粋に。本当に愚直とも揶揄できるぐらいに、彼らは一握りのボール目掛けて走っていた。愚直も過ぎると美しく見える。汚れがない分に本能のまま、競技の魂に導かれる分、混じりけがないスピリッツ。「烏丸の言っていた通りだ」狗尾高の野球部員たちは、丁度紅白練習試合をしているところであった。ぼくはあまりスポーツが得意ではないのだが、そんなぼくにでも彼らの技術は卓越したものだと断定できる。腕の良い料理人が包丁を裁くよう、炎を手に取るように扱うように、そして最高の一品を創り上げるように。ピッチャーがボールを投げる。心地よい音を立ててバットに当たる。天高く走り去る球を彼らが尻尾をなびかせ追い駆けて、魔法のようにグローブに吸い付けると、間髪いれずにファーストに送球する。気持ちがよいほど無駄のないプレイだった。スポーツに励むというよりも、芸術を創り上げるといった方が、彼らには相応しいのかもしれない。「……カッコいいね」「……」「そうね……。佳望学園の子も頑張ってるんだよね」無意識に飛び出した泊瀬谷先生の爪が、金網に引っ掛かる。きょう、狗尾高のグラウンドにやってきたのは他でもない。自分の目で確かめること、それに尽きる。「あの子」急に泊瀬谷先生が叫んだので、周りのみんなが驚かないか、ちょっとばかり気になった。爪を引っ込ませた指が一人の少年を差す。しかし、子どもに戻った泊瀬谷先生は、大人の会話は通用しないほどまでに、背丈が小さく見える錯覚がする。白い毛並みは生き写し。大きな尻尾は生き写し。「目元がすんごく似ているよ」と、泊瀬谷先生が言うものなので、きっと瞳も生き写し。ただ、違うことは、彼は狗尾高野球部のピッチャーだったのだ。噂には聞いていたが、びっくりするぐらいに、ぼくに似ている。ひと球ひと球に魂を込めて、相棒であるキャッチャーに投げると、重い球の音がずしりと響く。これで最後かと思わんばかりに、彼は息を切らして尻尾を落ち着かせる。尻尾の動きでバッターに悟られたら、名ピッチャーを名乗れないのは、何となく分かる。冷静に、そして冷徹に。孤独な戦いは慣れているのだろう。練習とは言え、試合さながらの投球にぼくらはすっかり彼に飲み込まれてしまった。「よーし!いいぞ!いいぞ!」仲間からの声援に頷いて答える彼は、一旦呼吸をして投球。そして、ストライク……。「わー!よーし!あと一人!あと一人だぞ!!そろそろ押さえこんじまえ!!」「もうそろそろかもね」「……あ」泊瀬谷先生の声に、先日の烏丸の声が重なった。いつの間にか太陽はぼくらを残して、てっぺんに上り詰めていた。遠くに見える校舎の時計は正午を告げる。いきなりのことだった。針が合わさると同時に、白球を追っていた生徒たちがいきなり試合をやめて、グランドに整列する。そして、帽子を脱いで美しい一列を保つ。「……」「ごらん。ヒカルくん」ぼくに似た彼も例外なく列を成し、一同が野球部の帽子を脱いだ刹那のこと、海岸の方からサイレンが響き始める。「うおぉおーーん!!うおぉーーん!」「うおぉおーーん!!うおぉーーん!」「うおぉおーーん!!うおぉーーん!」サイレンに負けじと、野球部員たちは天高らかに声を上げて、野生の血を沸かせる。まるで使えし君主から剣を授かったように、彼らは勇気と誇りを尻尾に太陽に向かって吠え続ける。剣を振り上げる代わりに、遠吠えを。災いもたらすものを斬り裂く代わりに、己の牙を。そして、大切なものを守るために、優しい毛並みの尻尾を……。「まだ残ってたんだぁ、コレ。よかった」「……そうなんですか」確か、烏丸は「犬上はんなら分かることがある」と、言っていた。なるほど、彼らの遠吠えを聞いているうちに、ケモノの血を取り戻す気になってくる。同じように、大地を駆け巡りたくなってくる。イヌだけに分かる不思議な感覚だ。サイレンが鳴り止む頃には、彼らも遠吠えを止めて帽子を再び被ると、練習試合のポジションへと戻っていった。無論、ぼくに生き写しである彼も、大きな尻尾を揺らしながらマウンドへと登る。「狗尾高って言えば、この光景が有名なのよね」グランドに面する金網にしがみ付きながら、狗尾高のエースを見守る大きな影がある。見覚えのある、厳つい二人組み。耳に残る荒い言葉遣い。不安がよぎる。「本物が投げているところ見るけど、やっぱカッケーよな」「おれもだよ。噂に聞いていたけど、マジで真っ白なわけ?」「ああ、白いわけ。この間のことは、勘弁してやろうってわけ」佳望の街で遭って、そして泊瀬谷先生に助けられた(と、なっている)ときの荒くれ二人組み。彼らはどうやら、狗尾高の生徒らしい。この間は、マウンドに登る彼と見紛って退散したのだが、やはり彼らも狗尾高で学ぶ若人とあって、ぼくに似た彼を大事にしたいらしい。と、思うことにする。誰だって、自分の学び舎が恋しいし、愛しい。「先生の家族が待ってますよ」ソイツらの影を見るや否や、ぼくはそそくさと泊瀬谷先生の手を引っ張ってその場を後にした。今思えば、なのだが……。ぼくは、どうして先生の手を引っ張っていったんだろう。ぼくのような青二才が、大人である先生の手を引っ張って先導をきって歩くなんて、若輩者の思い上がりだ。泊瀬谷先生の顔を見るのは、今はちょっとできない。ただ、泊瀬谷先生は、ぼくをにっこりと見つめているのだろう。取り戻したばかりの、ぼくの中のケモノはネコの優しさで消えてしまった。―――「先生。怒られに帰ってくるから」「……」不思議と泊瀬谷先生の顔は落ち着いていた。先に泊瀬谷先生が乗る電車が近づき、ホームの踏切が鳴り響く。恐る恐るホームに寄せる電車は、ピタリと扉を泊瀬谷先生の横に合わせた。ごろごろと扉が開く。ここに来たときのように車両の乗客は皆無。隣の車両には二、三人ほどの静かな時間。「じゃあ、また学校でね」ホームの隙間を気にしてぴょんと電車に飛び乗ると同時に、ぼくが乗る佳望ゆきの電車もやって来た。明日会うんだろ。明日どころか、毎日会うんじゃないか、と当たり前の事実がまかり通らない想い。発車する電車をお互いに見守りながら、ぼくらはそれぞれの街に帰っていった。それにしても、おなかがすいた。電車に揺られ揺られてつり革を眺める。リズムよく揺れるつり革に飽きて、朝読んだっきりの文庫本を開く。「あ」開けることのなかった烏丸の手紙が挟まっていた。表には「いざというときに開けなはれ」の一文。その内容を、今初めて知ることになる。封筒には和紙に筆ペンで書かれた手紙が添えられている。揺れる電車で文字がぶれて見える。「もしかして、もしかして必要なときには、これを見せなはれ。狼藉を働く不逞な者が近辺に居るらしゅうてな」大人のような毛筆は、京都訛りの烏丸の言葉が聞こえてきそうであった。手紙にもう一つ同封されていたのは、小さな紙片。それには印刷された文字が載っていた。一言で言えば名刺だ。『佳望学園・新聞部部長 烏丸京子』のほほんとしている割には、抜け目のない烏丸の考えそうなこと。そりゃ、乱暴を働いて、記事にされちゃ困るだろう。巡り巡って騒ぎになって、狗尾高野球部の迷惑になったらそれこそだ。それで烏丸はぼくに名刺を持たせたのだった。いや、もしかしてぼくらが狗尾高にいる頃、何処かの木の陰から覗いていたのかもしれない。そんなに烏丸のことは知らないが、烏丸のやりそうなことだ、と想像できる自分がちょっと照れくさい。「ウチはこう見えても、佳望学園以外でも顔が通るんでな。狗尾高はんにはお世話になっとります」「わたくし、新聞部の美作更紗ですっ!野球部のピッチャーさんで、真っ白で尻尾の大きな先輩がいらっしゃるそうで。もっふもふの尻尾を生かしてどんなコスが見合うかなあ!もっふもふ!!もっふ!」「美作はん、黙っとき!」新聞部の二人の会話を思い浮かべながら、街までの電車に揺れられる。午後の太陽を背に浴びながら、ぼくは小さく「わおーん」と呟く。おしまい。
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