「掛け算における順序」に対する否定的意見の傾向と対策

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ツィッター発言収集

非科学的なやり方の強制はものすごくたくさんある感じ(笑)


黒木玄 Gen Kuroki ‏@genkuroki 2014年4月18日
@genkuroki 例の「小二で掛算の交換法則を教えるのに、 #掛算 の順序を強制する教え方」は子供を正しいやり方・考え方から遠ざける教え方わかりやすい典型例として有用。小学校の算数を利用した非科学的なやり方の強制はものすごくたくさんある感じ。何がどうなっているんだか。

掛け算に順序を入れない限り交換法則には意味がない。 それを「非科学的なやり方の強制」と断ずるお粗末。3×5=3+3+3+3+3としたら5×3=5+5+5とするのが科学的な考え方だろうに。もし「考え方を強制」しているという事実があるのであれば「強制している」という点のみにおいて批判すべきこと。掛け算順序とは何の関係も無い。わかっていて書いているのだから「分からないひとたちを騙している」この者の罪は重い。(ひょっとして分からないのか?)

科学者の姿勢


編集者注)この項目は他ブログ記事からの転載。

掛け算の順序にこだわることは、掛け算を教える上では害にしかならないよ。なんの意味もないし、子どもの理解にもつながらない。ただの害悪

これはこれで一つの意見だ。ただしこの意見を取り上げる前に、そう主張するこの方が「掛け算の順序」について理解できズに「数学的にはどっちも同じ」という数学的デタラメを大声で主張して「それをもとに」上記意見を表明していることが大問題。

数学者は「掛け算の順序にこだわる教え方」について発言する前に、こういうデタラメをきちんとデタラメと指摘して、正しい議論のできる土壌を作るために発言すべきだね。

さらにさらに、掛算の順序強制教育がまかり通っている状況を何とかするために数学者達はもっと発言するべきだ、というような論調もよく見かけるし、ある意味その通りだと思うが、現実の歴史ではある種の数学者達が掛算の順序強制教育を推進する側に立って積極的に活動していたのである

この数学者クロキクンはまったく反対の事をしている。デタラメをデタラメと指摘もせずに、逆に「まっとうな主張」だと持ち上げる。そしてこういう「まっとうな主張」がいっぱいあるから何とかすべきだと五月蝿くツイートをぶんぶんと繰り返す。「たたえ目的が正しくても」デタラメをデタラメと指摘するのが科学者の正しい姿勢。クロキクンはこの姿勢を放棄したのだろう。

たとえば、最近でも、数学セミナー誌の連載で浪川氏が掛算の順序強制指導は正しいという旨の発言をしている。浪川さんには若いときに世話になっているので、こういうことをあんまり言いたくないのだが、言える立場の人がはっきり言うべきだと思うので、「非常に困ったことだ」と明言しておく。

浪川さんには若いときに世話になっているので、こういうことをあんまり言いたくないのだが、言える立場の人がはっきり言うべきだと思うので、「クズだ」と明言しておきなさいな。笑。

これがイデオロギーに汚染されたクロキクンの日和見な態度。仲間の主張には甘い。「掛け算順序は数学的にもどっちも同じ意味」という主張には諸手を上げて賛成に加わるのだ。

お世話になった人だとか、権威や重鎮、大御所の意見は批判しにくいという心理はありだろうが、それでも本来なら、批判すべきは批判するのが学術の世界だと思っていた。

ある研究者の論文(数学教育)に書かれていたことに対する反論を自分の論文に書いたら(引用元を記して)、個人攻撃だから名前を外せ、個人名を挙げて批判しないようにと言われた。この前は、基本的に今の教育を批判しては査読通らないとも。えっとぉ。教育の人びとの決まり事はよくわからん。

意見・主張に反論することと人格攻撃は別であることが分からないのだろうか?学術の世界なら、意見を戦わせることはむしろ当然だと思うのだが。当然、「どこそこの誰々がこういう論文でこう書いてあるが、それはどうこう・・・」って普通だと思う。

連続ツイートからみる連中の論理破綻の典型


毎度のことだけどな。笑。

結局、算数教育界では、掛け算で(1つ分)と(いくつ分)を区別したまま割り算になるので、【(1つ分)を求める割り算=等分除】【(いくつ分)を求める包含除】を区別することになっています。

それで別におかしくもない。区別してなあんも悪かない。

足し算を【増加と合併】、引き算を【求差と求残】という具合に区別するという、抽象化をかたくなに否定する算数教育のあほらしい流儀のひとつです。

足し算を【増加と合併】、引き算を【求差と求残】という具合に区別することに意味があるかどーかは別として(区別しても悪かない)。こいつ(ツイート主)は「抽象化」がわかってない。

20個の蜜柑を4人で分けたら1人何個?これは、( )×4=20の( )を求める割り算ということになります。

それで?

そうすると「にしがはち、さんしじゅうに、ししじゅうろく、ごしにじゅう」と求めないとならないことになるのですが、さすがにこれは面倒くさいので、算数教育界では、等分除も包含除も割る数の段で求めるとしています

いつものコジツケのナンクセだ。そうすると「その式のまま求めようとすると」「にしがはち、さんしじゅうに、ししじゅうろく、ごしにじゅう」と求めないとならないことになるのですが、これは面倒くさいので、ここで「交換法則を使って」4の段で求める。というのが数学的な発想。ちっともおかしかないね。それどころか数学はこういう考え方の積み重ねで成り立っている。

で一旦教科書に「どちらも割る数の段で求める」(←等分除も包含除も同じように求めていいよ、という親切心のつもりらしい)となると、今度は「そうしないと駄目」↓ 


あほくさ。「どちらも割る数の段で求める←等分除も包含除も同じように求めていいよ、という親切心のつもりらしい」ではありまへ〜ん。計算上は等分除も包含除も同じように求められるという「計算技術」のアイデア(コツ)をまとめただけ。上に書いたように「こういう視点の取り替え」によって数学は成り立っている。この問題では「そうしないと答えが求まらない」のだから「駄目」で数学として当たり前。

【包含除の場面と違い,等分除の場面であることを確認させる。とまどっている児童には,おはじきを使わせるとよい。□×6の式で,6の段の乗法九九を使い,】【□×6の式で,6の段の乗法九九を使い,】って、そりゃあ戸惑う児童も出てくるだろう。

まあこりゃあ【】内の説明が悪いわな。「包含除の場面と違い,等分除の場面であることを確認させる。」で戸惑う児童はでるやろう。せやけど【□×6の式で,6の段の乗法九九を使い,】で戸惑うのはまちがい。こいつ(ツイート主)には「攻撃するため」という邪心があるからこないなとこでも肝心の点を外すことになる。

掛け算と違って割り算は等分除と包含除を式で区別させることが出来ないし、「どちらも割る数の段で求める」としているので、「等分除も見ようによったら包含除」という「統合」をやる場合があるらしい。8254.teacup.com/kakezannojunjo/bbs/t2/616 …だったら掛け算の段階でやればいいと思うのに、・・・

「〜という「統合」をやる場合がある」とかいかにも胡散臭いことをやっとるように書いとるが、視点の取り替えであってこれこそが「数学を発展させる考え方」。「だったら掛け算の段階でやればいいと思うのに、・・・」というのは退歩だよ。つまりコイツラは「抽象化が大事」とかホザいとるが、算数を退化させて原始的な計算だけのソロバン状態に止めておけと言うとるに過ぎん。

足し算の増加と合併、引き算の求残と求差、などと同様、学ぶ価値はないでしょう。「20個を4等分する」「20個を4個ずつ分ける」どちらのタイプの問題も出来る必要はありますが。文章題をみてどちらのタイプなのかを判断する必要はありません。「どちらも同じ割り算」というのが重要。教える側が文章題の便宜的な分類として知っておくのは必要かもしれませんが、

ほらな。どちらのタイプの問題もソロバンで解ければええという貧弱な発想。ソロバンで解けるような状況へのプロセスなどどーでもエエという。。。そのプロセスの発見こそが「数学を発展させる原動力」であることがワカラン阿呆どもである。(一般人が分からずに疑問を持つのは阿呆でもなんでもない。阿呆のくせにいっちょまえに「口を出す」このツイート主のような連中(のやっとること)が阿呆)。

左ネジの法則


リカタンブログに「かけ算の順序強制問題」でいくつもコメントが付いている。nomisuke氏は本当に呑み助氏。読んでもよくわからない。○.○氏は大学教員か。*ある一つのテーマに自分だけは真実を知っているという人らがいるのが面白い。

読んでもよくわからない。>オマエがバカだから分からないだけだろう。笑。

○.○氏は大学教員か。>過剰反応して「◯政大学教授」と書かんでもよい職位を引ケ裸かす権威主義ノバカがコメントしている。ちなみにクロキクンは助教。たぶん(ネジコミキョージュの)左ネジは自分が社会的に上にいると思っている。

ある一つのテーマに自分だけは真実を知っているという人らがいるのが面白い。>オマエだろ。それともクロキクンの言う事を(真実かどうか確かめずに)妄信か?

どっちが先でもなんら問題ない


そりゃ、「掛け算の順序強制」なんていう指導のしかたをしたら、好きだった算数も嫌いになるわね。そのせいで算数嫌いがどれくらい増えたのか、ぜひ知りたいくらいだ。掛け算の順序なんか決まってない。どっちが先でもなんら問題ない

あいかわらず威勢だけはええのう。あの迷演説(大演説)とゆうてることがちと変わった気がするのはオイラだけ?

どっちが先でもなんら問題ないくらいなら認めてやってもええで。

けどな迷演説の主張は阿寒湖やで。んでな。相変わらず迷演説のように考えて「どっちが先でもなんら問題ない」とアホぬかしとるんやったら,そりゃアカンね。

迷演説(大演説)からアホなとこを抜粋。

僕の意見は「どちらの順に書いても、無条件に正しい」です 。どんな意味の「バツ」もありえず、「無条件に正しい」です。

かまわんよ。キミの意見な。あくまでも。キミんとこでも何処でもええが数学教室に行って「どちらの順に書いても、無条件に正しい」と叫んでみたまえ。苦笑されるのがオチ。

これは「交換できるんだから、どちらでもいい」という僕の意見とは違うのですが、しかし、 「順序は任意」であることには違いない ようです。

ほらな。順序は任意に選べるちゅうのは数学的な表現で正しいのやけど、この僕は「それとはちがう意見らしい」笑。

しかし、 どのように導入しようと、3×5 = 5×3であるという事実は変えようがありません 。交換則を習おうが習うまいが、交換則は成立しています。「実数同士の掛け算は順序によらない」は「習ったから成立する」というものではなく、実数の掛け算の基本的な性質ですから。

そのとおりやけど?この当たり前だのクラッカーがこの僕の主張「どちらの順に書いても、無条件に正しい」の根幹なんかな?当たり前のことを述べて,途中の議論の道すじ(なんや世間には「道のり」にもケチをつけとるアホな三流数学者がおりますなあ)をすっ飛ばして「せやから自分の意見は正しい。」と結んで終わる。最近ネットやテレビで流行の中身のないギロンの典型。(その点かつての西部邁はカッコえかった。ああいうのはいないね)。その証拠に,このあと直ぐ

3×5と書いていいものは、5×3と書いてもいいはずです。それは、なんの留保条件もなく「正しい」はずです 。正しいものを「なんらかの意味で適切ではない」とする教え方がいいとは僕は思いません。

とこの僕の結論を書いて終わり(笑)。「いいはずです。」「正しいはずです」と同じ事をティプレコォダのように何度も繰り返しとるだけ(それはこの迷演説全般にわたる)。アホラシ。

ちなみに数学では「3×5 = 5×3」から「3×5と書いていいものは、5×3と書いてもいいはずです」とはしないYO!

僕が言っているのは、「本当は順序が決まっているが、考えかたさえ合っていれば、逆順でも正解にすべき」とかいうことではなくて、「無条件にどちらも正しい」です。 「どちらがより適切」もありません。 どちらも同様に適切な解です。

もう破茶滅茶やね。何度読んでもお笑いやわ。だからね「無条件にどちらも正し」くないんやて。

オバカサンが数学教室で恥を書く前に助け舟。3×5 = 5×3は正しいで(笑)。んでもって「3と5の積を計算しなさい」言われたらどちらも無条件に(笑)正しいで。どちらがより適切もありません。 どちらも同様に適切な解です(笑)。「3を5倍したらいくつですか」言われても(うるそう言うと3×5が正解という理屈もあるが)まあ3×5も5×3もええんでないの。この僕のように「無条件にどちらも正しいです。 どちらがより適切もありません。 どちらも同様に適切な解です」言うてもかめへんで(大笑)。けどな。それとは別の数学の考え方(小学生の掛け算の基本)があるの。アンタはワカらんやろ?どちらでもええで済ませとるさかいな。遠山を読んでも珍紛漢紛やろ?学問に謙虚になれや。数学教室のセンセに教わって来なはれ。

迷演説の残りは「本題とはまったく関係ない議論」やから読みたい人は何処ゾで探して読んどくれ。


ただの害悪


掛け算の順序にこだわることは、掛け算を教える上では害にしかならないよ。なんの意味もないし、子どもの理解にもつながらない。ただの害悪

これには同意するところもあるで。だがな。「掛け算の順序を決める事の数学的意味」が理解できずに「どちらでも同じ」(同じってどういう意味や?)「無条件にどちらも正しい」(正しいってどういう意味や?)「どちらも同様に適切な解です」(これは間違いやね)とか言うとるオトナに,そないな浅薄で間違った理解ををもとに言うてもろても,害にしかならないよ。ただの害悪やね。

あと

「便宜上そう教える」という人(こっちが主流)とはまだ議論すれば落とし所が見つかる気もする。しかし、「自然数の掛算で順序を入れ替えると意味が変わる」が方便でなく数学的事実だと言い張っている人はもう何をどうしてもダメだと思う

これもダメやね。

確かに「数学的便宜上」の規則やで。せやから外国では反対の順序になっている(ところもあるちゅうことな)。せやけど「数学的便宜上」であることをコイツラは「教育上の便宜」としか分かっとらん。せやからダメ。分かっとらん人間の言うことに合わせて落とし所を見つかられたらタマランね。これもただの害悪。

後半は正しいがコイツが言うと「他人を貶めてる」感があって気に入らんね。セーカク悪いんやろね。左ネジみたいに(あの周辺はほとんどそないか?)。あ。これはヘンケンな。根拠はありませ〜ん。読者諸賢は真に受けんどいてね。笑。

論理的にも正しく、世間一般の常識にも一致する考え方をすることをどうして妨げようとするのか?


自分自身が日本の算数教育の被害者であることを自覚できていない人にありがちな特徴の一つ。それは「8個ずつ7人に配ること」と「7個ずつ8人に配ること」の区別をすることと、「8×7」と「7×8」の違いでそれらを区別することの違いがよくわかっていないこと。続き

おや?クロキクンもまともなことをまともに言う事もあるんだな。

もっともこれは「自分自身が自分の算数の勉強の仕方の被害者であることを自覚できていない」で「掛算に順序はない」「どっちも同じ」と叫んでいる連中にも言える事。そういう連中にはクロキクンは何にも言わない。数学者としては不誠実。

上のツイートの続き。
続き。子供であっても「2本耳のウサギが3羽」と「3本耳のウサギが2羽」の区別は明瞭にできる(当然!)。それらを区別することは掛算の順序とは一切無関係に可能であり、それらの区別を子供は最初から可能なのだから、それらを区別することを教え込む必要はない。続く

そのとおりだよ。しかし後々の展開が目に見えるから今言うとく。それらの区別を教えこんどるんではなくて、その区別が算数の上でもモチロンあって、それを意識すると自然と、3×2でどちらの全体の耳の数も表されるちゅうことがフシギだ!っちゅうことを教えとるだけ。(それらの区別を教え込んどるワケやちーともない)。

もっとも授業担当者の見識にもよるがね。それは別のハナシ。

続き。算数教育の世界ではまともなものだとされているらしいある種の教え方が世間的に馬鹿にされまくっているのは、「3×2だと3本耳のウサギが2羽という意味になるよ」と教えていたりするからだ。朝日新聞に証拠が掲載されている。

徐々に鍍金が剥がれ出しとる。笑。「世間的に馬鹿にされまくって」などいない。クロキクンがそうしたいだけ。インチキは駄目だよ。「3×2だと3本耳のウサギが2羽という意味になるよ」ここだけ取り出してもな。笑。木を見させて森を見させないのはアカンよ。

続き。4倍の意味で「×4」と書いてもよいし、「4×」と書いてもよいという事実は世間一般の常識であり、「4×」に違和感を感じてしまっている人達は世間一般の常識とは異なる感覚をどこかで身に付けさせられてしまった人達である。被害者であることの自覚が必要である。続く

4倍の意味で「×4」と書いてもよいし、「4×」と書いてもよいという事実は世間一般の常識。ちゅうのがワザと不正確に書いたゴマカシ。世間一般の常識(であり数学の常識であるもの)は、4倍の意味で「×4」と書いてもよいし「4×」と書いてもよいけど、混ぜて書いたら混乱するからやめようということ。

「どっちでも(混ぜて書いても)同じ」と信じ込んでしまっている人達は世間一般の論理性とは異なる感覚をどこかで身に付けさせられてしまった人達である。被害者であることの自覚が必要である。

続き。どこで問題が生じているのか。「3個ずつ5人に配るときの全部の数」は「3×5」と書かなければいけないとするときに問題が生じる。なぜならば「5×3」と書いてもよいことは世間一般の常識であり(それでも正しいことは当然の前提)、その常識に反するからである。続く

理由になってないゾ。笑。

「3個ずつ5人に配るときの全部の数」は「3×5」と書いても「5×3」と書いても両方同時に正しいとするときに問題が生じる。なぜならば4倍の意味で「×4」と書いてもよいし、「4×」と書いてもよいけど、混ぜて書いたら混乱するからやめようことは世間一般の論理であり(どっちでも正しいことは当然の前提)、その常識に反するからである。

続き。さらに掛算の順序を変えても答が変わらないことには九九を習っている途中の多くの子供が自然に気づいてしまうことでもある。そのような子供が「だから掛算の順序はどうでもよい」と論理的にも正しく、世間一般の常識にも一致する考え方をすることをどうして妨げようとするのか?続く

論理的にまちがっているから。笑。そのような子供が「だから自然数どうしの掛算の順序は逆にしても同じ答えになる」と言えば論理的に正しく、世間一般の常識にも一致する。そのような子供が「だから掛算の順序はどうでもよい。「3×5」と書いても「5×3」と書いてもはじめから同じ」と言えば論理的にまちがい。そこを上手く「はじめから同じでどちらでもよい」と教えられるなら(仮定のハナシ)それでもよかろう。しか〜し今声高に「掛算の順序はどうでもよい」と叫んでいる阿呆連中(九九を習ったオトナ)を見ていると、彼奴等の安っぽい(まちがった)論理性を強制された子どもほどの不幸はない。と言い切れる。クロキクンはそういうことを少しは考えた方がよい。クロキクンも上手く「はじめから同じでどちらでもよい」と説明できないもんだから「同じ内容の」意味の無いツイートをシュプレヒコールのように繰り返してるだけ。

オトナのするコドモのケンカ


「あんたがいた岡山大学の何とか学会が・・・」はぁ。。。こういう攻撃がお好きなんですね。意味のある話とも思えませんね。これもトンデモ文系と呼ばれてしまいますね。

@sobukawa #掛算  ではあなた自身は求残・求差、増加・合併の区別を子どもにさせることについて、

この「ではあなたは〜」に論理性は皆無。「あなたがわたしの発言を個人攻撃だと看破したからそれならこう訊くけど」という意味。要するに「個人攻撃」したことを認めながらそれをウヤムヤにするための言い方。もっとマジメにやりなさい。

アンタらと共通点ナドない。



@genkuroki #掛算 http://8254.teacup.com/kakezannojunjo/bbs/t21/538 … ③の方法で解いたのは、「算数が苦手な子」と私と黒木さんだったw 共通しているのはおそらく、「公式なんか知らない、公式など意識しない、面倒なことはしなくない」

ハハハのハ〜。私は式で「21÷0.6=35」こう書くけどアタマの中で③の方法で解いた。笑。アンタらみたいなチンピラと共通点などナイ。公式は大事。でも公式にとらわれずに解くだけのこと。

以下オーヨロコビしてRTとか気に入り登録とかしとる阿呆連中。


yjo(大事な写真はプリントしよう!) ‏@yjo? 0.6で割るなんて暗算では考えないと無理w 3でならすぐ割れるから、そこから考える。どうみても○にならなそうかもw

wをつけるほどのさえずりでもなし。小もの。

掛け算に決まった順序なんかない


掛け算に決まった順序なんかない

その通り。

しかし貴兄等活動家は『「掛ける数と掛けられる数を区別し」「順序を考えること」はトンデモ』とまで大声で阿鼻叫喚の如くツイートを繰り返しているではないか。

少なくともそういう阿呆な論調も支持しているではないか。

ポピュリズムで数学の仕組みは(阿呆の都合で)変えられぬのだよ。笑。

(番外編)イチャモン


クズ掲示板より。

注意)クズというのはクロキクンの用語を借用した。私はそないな下品なコトバは使いはせんよ。笑。

2116「式だけで思考過程を表せとかは無理がありすぎます。」

しかも、場面・状況も表さないとならない。
「4人に3個ずつ蜜柑を配る」、これを、「頭の中で各自に1個ずつ、それを3回繰り返す、と考えるのはかまわないが、解答欄には3×4と書かないとならない」ではない。それだと思考過程を表現していない。
思考過程と場面・状況を忠実に表すためには
「各自に1個ずつ、それを3回繰り返す」、と考えてはいけないことになる。
算数教育界は、内心の自由さえ奪おうとしている。

いちゃもん。笑。

「4人に3個ずつ蜜柑を配る」というのは「4人に蜜柑を1個ずつ3回配る」こととはチガウ。日本語がおできにならないらしい。「各自に1個ずつそれを3回繰り返す」のを「4人に3個ずつ蜜柑を配る」とは言わない。「各自に1個ずつ配ることをを3回繰り返して,4人に3個ずつ蜜柑を配った」とは言う。

算数や数学で苦労して国語力が(アゲアシ取り専用に)歪んでしまったらしいね。ザンネン。


















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