「農」(農業、農民、農村)にとって、日本の近代化とは、いかなるものであったのか。例外的見方はあろうが、それは恐らく、貧と破壊[そして所有地の没収]を強要する妖怪的存在であったに違いない。
中央集権化、工業化、合理化、都市化などといった言葉に象徴される日本近代の急襲によって、「農」の多くは軽視され、後退、圧迫の道を余儀なくされ、ついには抹殺されんとするところまで、追いやられていった(これは18世紀のイギリスで起きた農村の大変化と基本的構造を同じくする)。「農」は瀕死の重傷を負いながらも、生き残りをかけて、近代化への同化、忍従を受け入れた。時として、変革、反逆の道を選択することもあった。しかし、いずれの道を選んだところで、それは嵯鉄と悲哀の時間を刻むことでしかなかったのである。
その過程で、「農」の救済のために反応する思いが、「農本」と呼ばれる思想の原点となったことはいうまでもない(これもまた、ロバート・オーウェンに代表される空想社会主義者を生んだ18世紀イギリスの構造と同じ)。原点は一つであっても、「農本」は、状況如何によって、様々な思想を抱き込んでゆく。思想だけではない。強弱はあるにしても、その時々のいろいろな政治、社会運動をかたちづくることにもなる。
皇道国家建設のための革新運動の動機にもなれば、農民組合運動の支柱になったりもする。国家的事業、政策となった農山漁村経済更生運動、満州開拓などとも結びついてゆく。また、日本人の修養、倫理、道徳の背骨としての役割も演じ、農民教育、農民文学にも大きな影響を与えることとなった。
周知のごとく、日本の近代主義と呼ばれるものが、思想生誕の根源に触れることもなく、外国の思想の表面を輸入し、放心状態のまま、異常なまでの関心を示し、内容のない形式的思想を、己のものと錯覚していった。その結果、人間の深層心意世界に潜んでいるところの、「悪」や「闇」、つまり、人間の心の深層に宿る非合理的なものへの強力にして、厳しい照射と解明が出来ず、やすやすとファシズムにいかれてしまった。いかれただけではなく、その後のファシズム理解にも、極めてぶざまな結果をもたらすこととなった。
降って湧いたような近代的「知」を前面に押し出しさえすれば、人間の持っているドロドロした陰湿な部分は、霧散するかのような幻想は、いまもって消えてはいない(近代的知性の祖として位置づけられているデカルトも、ちゃんと『情念論』を書いて知性にかんするものと道徳に関する議論をわけているというのに)。ひからびた抜けがらを、後生大事にしている「知識人」の姿は後を断たない。
「農本」にかかわる思想に関しても、戦後民主主義は、ファシズム体制を支援した反動思想だとの焔印を押し、軽くいなし、放榔した。「農本」に関する固定観念が生れるばかりであった。この固定化した認識、理解に対し、私などは、はやくから強い疑いを持っていた。遠い昔のような気もするが、昭和四十年頃から、私は「農本」思想の多様性、多元性について言及してきた。この「農本」がはらむ思想は、いかなる時に、いかなる場で、いかなる形象化をたどるのか。
中央集権化、工業化、合理化、都市化などといった言葉に象徴される日本近代の急襲によって、「農」の多くは軽視され、後退、圧迫の道を余儀なくされ、ついには抹殺されんとするところまで、追いやられていった(これは18世紀のイギリスで起きた農村の大変化と基本的構造を同じくする)。「農」は瀕死の重傷を負いながらも、生き残りをかけて、近代化への同化、忍従を受け入れた。時として、変革、反逆の道を選択することもあった。しかし、いずれの道を選んだところで、それは嵯鉄と悲哀の時間を刻むことでしかなかったのである。
その過程で、「農」の救済のために反応する思いが、「農本」と呼ばれる思想の原点となったことはいうまでもない(これもまた、ロバート・オーウェンに代表される空想社会主義者を生んだ18世紀イギリスの構造と同じ)。原点は一つであっても、「農本」は、状況如何によって、様々な思想を抱き込んでゆく。思想だけではない。強弱はあるにしても、その時々のいろいろな政治、社会運動をかたちづくることにもなる。
皇道国家建設のための革新運動の動機にもなれば、農民組合運動の支柱になったりもする。国家的事業、政策となった農山漁村経済更生運動、満州開拓などとも結びついてゆく。また、日本人の修養、倫理、道徳の背骨としての役割も演じ、農民教育、農民文学にも大きな影響を与えることとなった。
周知のごとく、日本の近代主義と呼ばれるものが、思想生誕の根源に触れることもなく、外国の思想の表面を輸入し、放心状態のまま、異常なまでの関心を示し、内容のない形式的思想を、己のものと錯覚していった。その結果、人間の深層心意世界に潜んでいるところの、「悪」や「闇」、つまり、人間の心の深層に宿る非合理的なものへの強力にして、厳しい照射と解明が出来ず、やすやすとファシズムにいかれてしまった。いかれただけではなく、その後のファシズム理解にも、極めてぶざまな結果をもたらすこととなった。
降って湧いたような近代的「知」を前面に押し出しさえすれば、人間の持っているドロドロした陰湿な部分は、霧散するかのような幻想は、いまもって消えてはいない(近代的知性の祖として位置づけられているデカルトも、ちゃんと『情念論』を書いて知性にかんするものと道徳に関する議論をわけているというのに)。ひからびた抜けがらを、後生大事にしている「知識人」の姿は後を断たない。
「農本」にかかわる思想に関しても、戦後民主主義は、ファシズム体制を支援した反動思想だとの焔印を押し、軽くいなし、放榔した。「農本」に関する固定観念が生れるばかりであった。この固定化した認識、理解に対し、私などは、はやくから強い疑いを持っていた。遠い昔のような気もするが、昭和四十年頃から、私は「農本」思想の多様性、多元性について言及してきた。この「農本」がはらむ思想は、いかなる時に、いかなる場で、いかなる形象化をたどるのか。
今日、「農本」思想に関する研究は、決して多くはないが、それでも様々な角度からの接近が試みられている。好論文もあるが、著書として公にされているものには、岩崎正弥の『農本思想の社会史 生活と国体の交錯』(京都大学学術出版会 平成九年)、武田共治の『日本農本主義の構造』(創風社平成十三 野本京子の『霊前ペザンティズムの系譜 農本主義の再検討』(日本経済評論社、平成十一年)、西村俊一の『日本エコロジズムの系譜- 安藤昌益から江渡狄嶺まで』(農山漁村文化協会、平成十二年)などがある。いずれも先行研究をよく精査し、それらを超克せんとする力作である。
もとはといえば、人間の徹慢がもたらしたものではあるが、生産力向上を至上命令とした資本の論理のなかで、人間性喪失が極限に達した観のある現代社会において、自然と人との共存、一体化を主張してきた「農本」思想は、いかなる有効性を持ち得るのであろうか(生産力の向上を最優先事項と見なすことの弊害を「サバイバリスト」としての環境思想家たちは説く)。それとも、自然回帰や自然との一体化など、夢のまた夢で、単に牧歌的な原初の唄を憧慢し、太古の美の幻想に酔いしれることに終わるのか。
かつて丹野清秋が提起してくれた次の視点は、極めて重要なポイントとなるであろう。
かつて丹野清秋が提起してくれた次の視点は、極めて重要なポイントとなるであろう。
農本主義思想が、現代の状況において有効性をもつには、資本の論理にもとづく支配、被支配の社会構造を告発するという論理性をもつことにおいてである。つまり、それが、近代合理主義思想に反対する思想たりうるには、単なる自然回帰としての牧歌的な生活の回帰としてではなく、反商品経済反資本主義lしたがって反権力という側面において捉へ、疎外された状況のもとにおける人間の自然性復帰という人類の本質的な権利の奪われたものの奪還という点において、現代的に継承されていく必要がある。」(「農本主義と戦後の土着思想」「現代の眼」昭和四十七年二月
この丹野の揚言は、「農本」にかかわる思想の生き残りを賭けた一つの基本的問題点として受
けとめる必要があろう。
けとめる必要があろう。
浮いては沈み、沈んでは浮くテーマではあるが、戦後民主主義とナショナリズム、愛国心といった問題が、また脚光を浴びてきた。たしかに、きな臭いにおいがしてきた。戦後民主主義によって、足腰立たぬほど叩きのめされたかに見えた、この愛国心やナショナリズムは、いわば一時的に嵐のまえで、首をすくめていただけのようにも思える。家族、郷土の実態が変容することにより、その喪失感が、逆に国家、民族への郷愁と依存度を増してきている。パトリオテイズムとナショナリズムは、幻想のなかで結合し、一つの実態創造の礎となる。
かかる状況のなかで、「農本」思想のキーワードともいうべき、権藤成卿(1868-1937)らの「社稷自治(しゃしょくじち)」の思想は、今後、どのような意味を持ち得るであろうか。中央集権的強権国家による民衆統制の不十分さを補完するものとして、その生命を売ってしまうのか、それとも人間生存の根源に、徹底的に執着することによって、国家の統制権力を相対化し得るのか、ここにも、「農本」の持つべき究極的エネルギーをめぐる一つの大きな課題がある。国家権力に吸引されることのない、人間の根源的自然性、土着性というものは、どこに、どういう形で存在し得るのか。余計なことかもしれぬが、日本民俗学の課題の一つも、このあたりにあるのではないか(もちろん、それは農業に限ったことではない→網野善彦『日本中世の非農業民と天皇』)。
かかる状況のなかで、「農本」思想のキーワードともいうべき、権藤成卿(1868-1937)らの「社稷自治(しゃしょくじち)」の思想は、今後、どのような意味を持ち得るであろうか。中央集権的強権国家による民衆統制の不十分さを補完するものとして、その生命を売ってしまうのか、それとも人間生存の根源に、徹底的に執着することによって、国家の統制権力を相対化し得るのか、ここにも、「農本」の持つべき究極的エネルギーをめぐる一つの大きな課題がある。国家権力に吸引されることのない、人間の根源的自然性、土着性というものは、どこに、どういう形で存在し得るのか。余計なことかもしれぬが、日本民俗学の課題の一つも、このあたりにあるのではないか(もちろん、それは農業に限ったことではない→網野善彦『日本中世の非農業民と天皇』)。
宗教的権威としての天皇制と、「農本」思想の関係は、日本列島に住まいする人間にとっては、依然として難題の一つである。
天皇制の持っている祭儀行為のなかで、主要なものに、天皇の即位の後に執り行われる大嘗祭大嘗会)があるが、この宗教的祭儀行為のなかで、農耕儀礼の果す役割が大きいことは周知の通りである。
昭和七年の五・一五事件に深くかかわった農本主義者橘孝三郎は、大嘗祭について、次のようなことを強調している。
「大嘗祭は一般的に、天皇が、その即位の初頭、新穀を天照大神以下の天神地祇、謂は弐八百万神の神前に供へ奉って、その即位を神々に報告し、且つ感謝し、且つ諸の常盤、堅盤の守護を祈
願する。(略)天皇は御膳即ちみづほ(瑞穂)を潅酒の礼を以て、之をいつきまつる。而して、後に、之を頗る頭を低くしたまひて最敬礼、礼拝し、手を拍ち、称唯して、嘗めたまふこと三度する。天皇は、稲を生命とする稲の国の稲の日本人すべての幸福のために、みづほをかくまつりかくおるがむのである、ここに天皇職のすべてが厳存する。(『皇道文明優越論概説』天皇論刊
行会、昭和四十三年、九九四〜九九六頁。)
制度や機構、あるいは法律などとは無関係なところで呼吸している多くの日本人の天皇信仰を生み出す基盤の一つに、長期にわたって継続してきた農耕社会の習俗が大きくかかわっていることは間違いなかろう。つまり、天皇制は、「農本」国家と共に存続してきたように思える。
日本列島から稲が消え、日本人の食生活から米が完全になくなる日が到来するであろうか。否、ということであるならば、今後、いかなるかたちで、この稲作、米と天皇制は、絡みあってゆくのであろうか。今日も、「農本」にかかわる思想は、決してその存在理由を喪失してはいない。
天皇制の持っている祭儀行為のなかで、主要なものに、天皇の即位の後に執り行われる大嘗祭大嘗会)があるが、この宗教的祭儀行為のなかで、農耕儀礼の果す役割が大きいことは周知の通りである。
昭和七年の五・一五事件に深くかかわった農本主義者橘孝三郎は、大嘗祭について、次のようなことを強調している。
「大嘗祭は一般的に、天皇が、その即位の初頭、新穀を天照大神以下の天神地祇、謂は弐八百万神の神前に供へ奉って、その即位を神々に報告し、且つ感謝し、且つ諸の常盤、堅盤の守護を祈
願する。(略)天皇は御膳即ちみづほ(瑞穂)を潅酒の礼を以て、之をいつきまつる。而して、後に、之を頗る頭を低くしたまひて最敬礼、礼拝し、手を拍ち、称唯して、嘗めたまふこと三度する。天皇は、稲を生命とする稲の国の稲の日本人すべての幸福のために、みづほをかくまつりかくおるがむのである、ここに天皇職のすべてが厳存する。(『皇道文明優越論概説』天皇論刊
行会、昭和四十三年、九九四〜九九六頁。)
制度や機構、あるいは法律などとは無関係なところで呼吸している多くの日本人の天皇信仰を生み出す基盤の一つに、長期にわたって継続してきた農耕社会の習俗が大きくかかわっていることは間違いなかろう。つまり、天皇制は、「農本」国家と共に存続してきたように思える。
日本列島から稲が消え、日本人の食生活から米が完全になくなる日が到来するであろうか。否、ということであるならば、今後、いかなるかたちで、この稲作、米と天皇制は、絡みあってゆくのであろうか。今日も、「農本」にかかわる思想は、決してその存在理由を喪失してはいない。
