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私が博士課程において目指しているのは、「関係として自然を捉える視座」が現代の日本においてどのように可能かを考察し、それを深化させることです。ここでは自覚的に「人間と自然との関係を回復する」という表現ではなく、「関係として自然を捉える視座を可能にする」というレトリックを採用しています。これは、「関係の有無」と、「関係を自覚(あるいは感受)できるかどうか」とが別種の問題であることを確認するためです。「人間と自然との関係」として名指される関係のあり方は原理的に無限数、可能ですが(呼吸や体温調節もまた、私たちが自然と関係していることになります)、しかし、その関係について無意識・無自覚である場合、それは果たして「関係がある」ということができるだろうか、という問いを確認するためです。
関係があることと、関係を見出すことは、異なる位相に属します(それは「析出」という言葉で、あとで再定位されることになるでしょう)。通俗的な生活環境主義 が強調するように、かつては伝統的に保持されていたがいまは失われてしまった「人間と自然との関係」を回復すれば、環境思想が取り扱う案件が解決すると、私は考えていません。よしんば「人間と自然との関係」が回復されたとしても、それが私たち自身から離れうる可能性について、私たちは常に考慮しなければなりません。博士論文において一考したいのは、この「無自覚的に豊かな関係」の可能性です。つまり、いまポジティヴな=豊かな関係があるとして、それをどのように制御していいかわからないことの危険性の指摘と、その危険性の回避策としての身体技法 の位置づけを試みたいと思っています。
「関係」のただなかで、自身が機能し、傷つき、相互に矛盾する多要素のひとつとして呑みこまれてしまうという可能性があるということを自覚(あるいは感受)すること。理屈に合わないことが重なっているという状況に重なること。「関係として自然を捉えること」が可能であれば、その関係が、一般的に「豊かな関係」と評価されなくとも、私は問題ではないと考えています。
私が博士課程において目指しているのは、「関係として自然を捉える視座」が現代の日本においてどのように可能かを考察し、それを深化させることです。ここでは自覚的に「人間と自然との関係を回復する」という表現ではなく、「関係として自然を捉える視座を可能にする」というレトリックを採用しています。これは、「関係の有無」と、「関係を自覚(あるいは感受)できるかどうか」とが別種の問題であることを確認するためです。「人間と自然との関係」として名指される関係のあり方は原理的に無限数、可能ですが(呼吸や体温調節もまた、私たちが自然と関係していることになります)、しかし、その関係について無意識・無自覚である場合、それは果たして「関係がある」ということができるだろうか、という問いを確認するためです。
関係があることと、関係を見出すことは、異なる位相に属します(それは「析出」という言葉で、あとで再定位されることになるでしょう)。通俗的な生活環境主義 が強調するように、かつては伝統的に保持されていたがいまは失われてしまった「人間と自然との関係」を回復すれば、環境思想が取り扱う案件が解決すると、私は考えていません。よしんば「人間と自然との関係」が回復されたとしても、それが私たち自身から離れうる可能性について、私たちは常に考慮しなければなりません。博士論文において一考したいのは、この「無自覚的に豊かな関係」の可能性です。つまり、いまポジティヴな=豊かな関係があるとして、それをどのように制御していいかわからないことの危険性の指摘と、その危険性の回避策としての身体技法 の位置づけを試みたいと思っています。
「関係」のただなかで、自身が機能し、傷つき、相互に矛盾する多要素のひとつとして呑みこまれてしまうという可能性があるということを自覚(あるいは感受)すること。理屈に合わないことが重なっているという状況に重なること。「関係として自然を捉えること」が可能であれば、その関係が、一般的に「豊かな関係」と評価されなくとも、私は問題ではないと考えています。
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「関係として自然を捉えることは、どのようにして可能なのか?」 この問いは、次のように言い換えられます。「形式的な統合性から外れたものを、どのように許容したり拒んだりすることができるのか?」。
「形式的な統合性から外れたもの」とは、何でしょうか。その前に「統合性」というとき、私たちはなぜ全体の統合ということを自明なこととして構想することができ、その統合が部分的であることを忘れてしまいがちであることについて考える必要があります。二〇世紀後半の欧米の哲学において、統合性の限界は、「他」、「多」、「外」といった仕方である形式の開放性を示唆するものと見なされてきました。とりわけ自然科学と形而上学の相互から影響を受けたホワイトヘッド やハイデッガー において、この傾向は顕著です。(とはいえ、やはり自然科学の強い影響下にあった、フッサール やベルグソン の理論モデルはきわめてスタティックな数学的構造に沿っています。ホワイトヘッド、ハイデッガーと、フッサール、ベルクソンのなにが違うかといえば、前者の二人においては数式、科学法則、原初的な記号を、私たちの行為、私たちの生活する世界とどのように接続し、位置づけるかという、着地するべき「限界」が問題となっていた一方で、後者の二人は主に形式的合理性を自明なものとして取り扱っていたことにあると考えられます)
現代において統合性の象徴として、あるいは統合性の重要な担い手と考えられ、また統合性の限界の具体的な実例を提供しているものとしての自然科学については、環境倫理学においては無視することができません。
つまり、とりわけ七〇年代以降のアメリカにおける環境倫理学の展開において顕著であった「人間中心主義/非-人間中心主義」という二項対立図式、および自然には普遍的=客観的価値が内在しているか否かという問いかけについては、生態学的知見が少なからぬ思想的背景を準備しているからです。
「人間中心主義/非-人間中心主義」という二項対立図式、および自然の内在的価値を、環境プラグマティズムの論者らは克服しようと現在も試みているのですが、彼らもまた、彼らが批判の主たる対象とするJ・B・キャリコットらと同様に、A・レオポルドの「土地倫理」に依拠しており、生態系学を一義的な「合意」の導き手と見なすことには変わりません。例えばB・ノートンは環境保護を主張する根拠や基づく価値が異なっている立場の間であっても、実際の環境問題を解決するために必要と考える手段についての意見は収束しうるという「収束仮説」を唱えていますが、それは、人間中心主義者であろうと非-人間中心主義者であろうと、環境保護を訴える以上は科学的自然主義、すなわち生態系についての科学的理解と知識を共有しているはずであり、彼らがとるべき政策の選択はここに基づいている、それゆえに諸意見は収束する、という理路に基づいています 。しかし、ノートンの主張は環境保護に関する議論の場にいる者が等しく生態系学の世界観を自明としていることを前提としています。自然科学の知見を用いることの意義・根拠はどこにあるのか、という問いをめぐっては、今日、予防原則や環境リスク論、参加型意思決定などの議論が絶えません。もちろん、生態系学は環境保護にとってきわめて重要な知見をもたらしますが、その知見のみを特殊なものと位置づけ、一義的な「合意」の導き手と見なすことはできません。
もちろん、生態学者によって提示される地域の生態系と変化の予測、地史(任意の過去のある時点から現在に至るまでに見出される同一性)をふまえて、配置されたものとして関係を見出し、自然の改変や地域(開発)計画を策定することは実際的には必要です。それを否定するつもりはありません。しかし、「関係として自然を捉えることは、どのようにして可能なのか?」という「人間学的な」(?)問いかけには、充分に答えることができません。重要なのは、ひとつの単純な場面、限界を見出しやすい場面において、スタティックな関係を「配置」として見出すことだけではなく、観測における「極限」 、一義的な意味や価値(それらは形式的な基準にもとづく観測・評価がなければあり得ません)から常にすり抜けることがらを勘案したうえでの判断です。
「関係として自然を捉えることは、どのようにして可能なのか?」 この問いは、次のように言い換えられます。「形式的な統合性から外れたものを、どのように許容したり拒んだりすることができるのか?」。
「形式的な統合性から外れたもの」とは、何でしょうか。その前に「統合性」というとき、私たちはなぜ全体の統合ということを自明なこととして構想することができ、その統合が部分的であることを忘れてしまいがちであることについて考える必要があります。二〇世紀後半の欧米の哲学において、統合性の限界は、「他」、「多」、「外」といった仕方である形式の開放性を示唆するものと見なされてきました。とりわけ自然科学と形而上学の相互から影響を受けたホワイトヘッド やハイデッガー において、この傾向は顕著です。(とはいえ、やはり自然科学の強い影響下にあった、フッサール やベルグソン の理論モデルはきわめてスタティックな数学的構造に沿っています。ホワイトヘッド、ハイデッガーと、フッサール、ベルクソンのなにが違うかといえば、前者の二人においては数式、科学法則、原初的な記号を、私たちの行為、私たちの生活する世界とどのように接続し、位置づけるかという、着地するべき「限界」が問題となっていた一方で、後者の二人は主に形式的合理性を自明なものとして取り扱っていたことにあると考えられます)
現代において統合性の象徴として、あるいは統合性の重要な担い手と考えられ、また統合性の限界の具体的な実例を提供しているものとしての自然科学については、環境倫理学においては無視することができません。
つまり、とりわけ七〇年代以降のアメリカにおける環境倫理学の展開において顕著であった「人間中心主義/非-人間中心主義」という二項対立図式、および自然には普遍的=客観的価値が内在しているか否かという問いかけについては、生態学的知見が少なからぬ思想的背景を準備しているからです。
「人間中心主義/非-人間中心主義」という二項対立図式、および自然の内在的価値を、環境プラグマティズムの論者らは克服しようと現在も試みているのですが、彼らもまた、彼らが批判の主たる対象とするJ・B・キャリコットらと同様に、A・レオポルドの「土地倫理」に依拠しており、生態系学を一義的な「合意」の導き手と見なすことには変わりません。例えばB・ノートンは環境保護を主張する根拠や基づく価値が異なっている立場の間であっても、実際の環境問題を解決するために必要と考える手段についての意見は収束しうるという「収束仮説」を唱えていますが、それは、人間中心主義者であろうと非-人間中心主義者であろうと、環境保護を訴える以上は科学的自然主義、すなわち生態系についての科学的理解と知識を共有しているはずであり、彼らがとるべき政策の選択はここに基づいている、それゆえに諸意見は収束する、という理路に基づいています 。しかし、ノートンの主張は環境保護に関する議論の場にいる者が等しく生態系学の世界観を自明としていることを前提としています。自然科学の知見を用いることの意義・根拠はどこにあるのか、という問いをめぐっては、今日、予防原則や環境リスク論、参加型意思決定などの議論が絶えません。もちろん、生態系学は環境保護にとってきわめて重要な知見をもたらしますが、その知見のみを特殊なものと位置づけ、一義的な「合意」の導き手と見なすことはできません。
もちろん、生態学者によって提示される地域の生態系と変化の予測、地史(任意の過去のある時点から現在に至るまでに見出される同一性)をふまえて、配置されたものとして関係を見出し、自然の改変や地域(開発)計画を策定することは実際的には必要です。それを否定するつもりはありません。しかし、「関係として自然を捉えることは、どのようにして可能なのか?」という「人間学的な」(?)問いかけには、充分に答えることができません。重要なのは、ひとつの単純な場面、限界を見出しやすい場面において、スタティックな関係を「配置」として見出すことだけではなく、観測における「極限」 、一義的な意味や価値(それらは形式的な基準にもとづく観測・評価がなければあり得ません)から常にすり抜けることがらを勘案したうえでの判断です。
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ですから、「関係として自然を捉えることは、どのようにして可能なのか?」 という問いは、「形式的な統合性から外れたものを、どのように許容したり拒んだりすることができるのか?」という問いに言い換えられあと、さらに次のように言い換えられます。「普遍的=客観的価値を設定することなく、どのように適切な判断をくだすことができるのか?」。
繰り返すとおり、形式的な統合性から外れたものへのアプローチは、同時に、普遍的=客観的価値を設定しないことを意味します。「普遍的=客観的価値を設定することなく、適切な判断をどのようにくだすか?」という問いは、環境プラグマティストらも危惧する相対主義の泥沼へと近づく困難な問いです。しかし、禅の伝統において、このような問いはそれほど特殊ではありません。そして禅の認識論は、その自然観と不可分のものとして受け継がれています。
博士論文では、この禅の認識論・自然観を初めとして、環境倫理学において東洋思想が果たすことができる意義の考察を試みます。しかしながら、同様の課題に基づいた先行研究は、「禅」や「自然」というイメージを情緒的に扱うか、あるいは訓詁学的な解釈に留まり、「環境問題の現実的・思想的焦点を隠蔽する危険をはらむ」(亀山純生)ものも散見されます。重要なのはそこで私は禅の認識論、自然観を、日本の倫理学者・和辻哲郎(1889-1960)の仏教解釈・行為論を中心に扱います。和辻は、道元の『正法眼蔵』の解釈から考察を始め、原始仏教を無我論としての実践哲学とみなし、「理念を実体化すること」「対象たるべからざるものを対象とすること」を退ける営為を仏教の基本的立場として解釈しています。この和辻の仏教解釈をひとまず採用しつつ、さらに批判的に検討し、「無」の思想、「空」の思想と不可分のものである自然観が、環境思想のなかで科学的自然観のオルタナティブとして機能する意義と効果、その射程を研究していくことを考えています。
ですから、「関係として自然を捉えることは、どのようにして可能なのか?」 という問いは、「形式的な統合性から外れたものを、どのように許容したり拒んだりすることができるのか?」という問いに言い換えられあと、さらに次のように言い換えられます。「普遍的=客観的価値を設定することなく、どのように適切な判断をくだすことができるのか?」。
繰り返すとおり、形式的な統合性から外れたものへのアプローチは、同時に、普遍的=客観的価値を設定しないことを意味します。「普遍的=客観的価値を設定することなく、適切な判断をどのようにくだすか?」という問いは、環境プラグマティストらも危惧する相対主義の泥沼へと近づく困難な問いです。しかし、禅の伝統において、このような問いはそれほど特殊ではありません。そして禅の認識論は、その自然観と不可分のものとして受け継がれています。
博士論文では、この禅の認識論・自然観を初めとして、環境倫理学において東洋思想が果たすことができる意義の考察を試みます。しかしながら、同様の課題に基づいた先行研究は、「禅」や「自然」というイメージを情緒的に扱うか、あるいは訓詁学的な解釈に留まり、「環境問題の現実的・思想的焦点を隠蔽する危険をはらむ」(亀山純生)ものも散見されます。重要なのはそこで私は禅の認識論、自然観を、日本の倫理学者・和辻哲郎(1889-1960)の仏教解釈・行為論を中心に扱います。和辻は、道元の『正法眼蔵』の解釈から考察を始め、原始仏教を無我論としての実践哲学とみなし、「理念を実体化すること」「対象たるべからざるものを対象とすること」を退ける営為を仏教の基本的立場として解釈しています。この和辻の仏教解釈をひとまず採用しつつ、さらに批判的に検討し、「無」の思想、「空」の思想と不可分のものである自然観が、環境思想のなかで科学的自然観のオルタナティブとして機能する意義と効果、その射程を研究していくことを考えています。
