『水俣病をとおしてみる日本人の問題点』
1.はじめに
2010年に第2の政治決着がつき、チッソ分社化の問題などが残っているものの、水俣病は完全に過去のものとなりつつある。そのような中でどうして水俣病を題材として取り上げるのか。それは、自分の中で大きく引っかかっている問い、日本的自然観はなぜ公害・環境破壊抑止の原理とならなかったのか(ベルク 1992)、に対する納得できる答えを得られておらず、公害の原点である水俣病を通すことでその答えの一片でも見つけることができるのではないか、と考えるからである。また、単なる有機水銀中毒ではない水俣病を考える中で、これから日本人がいかにして環境問題や社会問題などに向き合うべきか、ということも見えてくるのではないか、とも考えている。
2010年に第2の政治決着がつき、チッソ分社化の問題などが残っているものの、水俣病は完全に過去のものとなりつつある。そのような中でどうして水俣病を題材として取り上げるのか。それは、自分の中で大きく引っかかっている問い、日本的自然観はなぜ公害・環境破壊抑止の原理とならなかったのか(ベルク 1992)、に対する納得できる答えを得られておらず、公害の原点である水俣病を通すことでその答えの一片でも見つけることができるのではないか、と考えるからである。また、単なる有機水銀中毒ではない水俣病を考える中で、これから日本人がいかにして環境問題や社会問題などに向き合うべきか、ということも見えてくるのではないか、とも考えている。
2.水俣病について
(熊本)水俣病は、新日窒(チッソ)水俣工場のアセトアルデヒド製造工程によって生成されたメチル水銀化合物が不知火海に流れ出した結果、食物連鎖を通して引き起こされた有機水銀中毒である。主な症状は視野が狭くなる、感覚障害、運動失調、言語障害、聴力障害など。公式確認は1956年だが、戦前から猫における発症がたびたび目撃されており、水俣病と疑わしき患者も報告されている。
1973年にはチッソの敗訴が確定。1977年にできた認定基準に不服とした患者の起こした裁判により、1995年の政治決着、政府による救済が始まる。またこれに漏れた患者の起こした裁判における2004年最高裁の判決を受けて、2010年第2の政治決着。1977年には約3千人、1995年には約1万1千人が認定され、2010年には新たに3万人以上が救済の申請をしており、どれだけの被害者がいるのかは未だ不明である。
(熊本)水俣病は、新日窒(チッソ)水俣工場のアセトアルデヒド製造工程によって生成されたメチル水銀化合物が不知火海に流れ出した結果、食物連鎖を通して引き起こされた有機水銀中毒である。主な症状は視野が狭くなる、感覚障害、運動失調、言語障害、聴力障害など。公式確認は1956年だが、戦前から猫における発症がたびたび目撃されており、水俣病と疑わしき患者も報告されている。
1973年にはチッソの敗訴が確定。1977年にできた認定基準に不服とした患者の起こした裁判により、1995年の政治決着、政府による救済が始まる。またこれに漏れた患者の起こした裁判における2004年最高裁の判決を受けて、2010年第2の政治決着。1977年には約3千人、1995年には約1万1千人が認定され、2010年には新たに3万人以上が救済の申請をしており、どれだけの被害者がいるのかは未だ不明である。
水俣病が公害の原点と呼ばれるのは、主に2つ理由があり、1つ目は水俣病が世界初の食物連鎖と環境汚染の結びついた中毒であるという点である。水俣病以前、希釈放流という、毒は薄めれば毒でなくなる、という考えに基づく方法が主流であった。希釈することで毒性が失われていくのも事実であるが、それと同時に食物連鎖による生物濃縮も事実であり、水俣病は自然破壊が人間の破壊に繋がることをわかりやすく示してくれた。このような人類初めての経験は、前例主義の従来の学問に大きな影響を与え、その影響はさまざまな分野に及んでおり、そういう意味で公害の原点と言われる。
2つ目は、胎児性水俣病の発見である。水俣病以前、毒物は胎盤を通らないと信じられていた。それ故、人類の未来に大きく関るこの事実の発見は世界中の人びとに大きな影響を与えた。
2つ目は、胎児性水俣病の発見である。水俣病以前、毒物は胎盤を通らないと信じられていた。それ故、人類の未来に大きく関るこの事実の発見は世界中の人びとに大きな影響を与えた。
また、水俣病に関する社会科学系のアプローチに関する実態についても少し述べておきたい。初期には内田守、宮本憲一らほんの少数であり、水俣病に関する研究のほとんどは医学・医療の視点によるものであった。しかし、近年では徐々に社会科学的、総合研究の必要性がいわれるようになってきており、わかりやすい例としては熊本学園大学において「水俣病の知識をたんに与えるだけでなく、水俣病事件というものに、私たちの身の回り、つまり私たちの生きざまとか研究のありかた、社会のありようなど、いろんな分野を水俣事件に当てはめてみる、そこに映し出してみるということ」(原田 2004)を目的とした「水俣学」という講義が2002年より毎年開講されていることがあげられる。しかし、2006年『環』において原田が「水俣病の発見初期には医学が重要かつ必要であったが、その後、これほど政治的、社会的事件を医学に全部丸投げして、解決を委ねてしまったことが一つの悲劇(失敗)だったと近年思っている。そのために半世紀経っても問題の解決が不十分なものとなってしまった。」と述べているように、社会科学的、総合的な分野における水俣病研究はまだまだ課題が山積である。
3.海外の水俣病
今回、「なぜ日本的自然観が公害防止できなかったのか」を考える際にこれから考えていくべきと思うこと、整理すべきだと思うことは以下の2つである。
今回、「なぜ日本的自然観が公害防止できなかったのか」を考える際にこれから考えていくべきと思うこと、整理すべきだと思うことは以下の2つである。
- そもそも日本的自然観とは何か
- 海外の公害、特に有機水銀中毒、と(熊本)水俣病の比較
まず、言うまでもなく「そもそも日本的自然観とは何か」を知らなければ日本的自然観が機能しなかった理由を知ることはできない。が、今回は最初に海外の公害と比べることで、水俣ではあって海外の事例ではなかったこと、もしくは水俣ではなくて海外の事例ではあったことを探し、そこから問題点らしきものに目星を付けて日本的自然観と関連付けていく、という方法を取ろうとおもうため、日本的自然観そのものについてはひとまず脇に置いておく。
- 北欧の水銀汚染
1960年代にフィンランドのパルプ工場においてパルプの消毒に有機水銀を使い、それが流れ出して魚のなかに蓄積されたという事件がある。この件において政府は魚をとって食べることを禁止したものの、魚を食べた渡り鳥の卵を食べた女性が水俣病と1971年に診断された。他にも、釣った魚を鶏に与え、その卵を食べた男性が水俣病と思われる症状を発症しているが軽度のため政府には認定されていない。
- カナダにおける水銀汚染
カナダにおいて水銀が流れ出した要因もパルプ工場である。1970年に魚から多量の水銀が検出されたことによって明るみに出た。この汚染の大きな特徴は被害者が原住民である、ということである。彼らは僻地の孤立した地区に居住区が設けられており、そこで魚を捕って暮らしていたために大きな被害を受け胎児性のものもみられるが、日本の厳しい認定基準に照らしていることなども関係して2000人ほどの原住民のうち具体的に何人が水俣病であるかは不明であり、確実にそうであると診断されたのは15人である。しかし、カナダにおける水銀汚染は医学的な視点による被害よりも、社会的な被害のほうが顕著である。水銀汚染による漁獲禁止、生態系の乱れによって収入が得られなくなり、住民の80%以上が生活扶助で生活し、アルコール中毒が大きな問題となっている。そのほかにも、原住民への同化政策の問題や差別問題など、様々な問題が複雑に絡んでおり、解決にはほど遠い。
他にも中国、中南米などで水銀汚染はあるがどれも水俣の教訓を生かしているためか、水俣ほどの大きな被害はみられない。しかし、水俣の教訓を生かすことの弊害が出ているのも事実で、前述のカナダのように、日本の典型的な患者の症状を元に水俣病かどうか診断している国が多く見られ被害の実態を正確にはつかめていないと思われる。
4.「水俣病」に対する態度への違和感
何度か水俣病に関する講演会や展示会に参加する中で、もしくは原田正純の『水俣病』をはじめとする水俣病に関する著書を読む中で違和感を覚えることが多々あった。『水俣病』は水俣病を知るためのバイブル的存在で科学者のあり方を問う、言わずもがな名著であって私自身も何度も読み返しているお気に入りの本である。また、講演会等も患者自身や研究者の意見を直接聞ける貴重な場であり、学ぶことは多々あった。しかし、そういうものとは別に何か違和感があり、それが何であるのかはっきりしたことはわからずにいた。そのような中で、その違和感が何であるかのヒントとなりそうなことを藤原書店『環vol.25』に西村肇が寄せている文書の中に見つけたので以下に記す。
何度か水俣病に関する講演会や展示会に参加する中で、もしくは原田正純の『水俣病』をはじめとする水俣病に関する著書を読む中で違和感を覚えることが多々あった。『水俣病』は水俣病を知るためのバイブル的存在で科学者のあり方を問う、言わずもがな名著であって私自身も何度も読み返しているお気に入りの本である。また、講演会等も患者自身や研究者の意見を直接聞ける貴重な場であり、学ぶことは多々あった。しかし、そういうものとは別に何か違和感があり、それが何であるのかはっきりしたことはわからずにいた。そのような中で、その違和感が何であるかのヒントとなりそうなことを藤原書店『環vol.25』に西村肇が寄せている文書の中に見つけたので以下に記す。
“私が科学者として文科系の水俣病研究者に向ける第一の批判は「研究者として水俣病に取り組むなら水俣病患者を神聖視し、特別視することにならないよう注意しなければならないのではないか」ということです。”
そして、その理由を西村は3つあるといっている。
“第一は過去の同時代の悲惨な歴史の取り扱いとしてバランスを欠かないかという問題、第二は将来起こる公害問題について、見通しを誤らせないかという問題、第三には研究者の倫理を鈍らせないか、という問題です。”
その他、彼は東大助教授時代に水俣研究をやめることと引き換えに学外追放を免れたエピソードや著書『水俣病の科学』を出版する際に朝日、岩波、東大出版会から次々断られたことを述べ、最後にこう警告している。
“水俣病のプロになるな、生業にするな、生活の資を稼ぐな”
おそらく私が抱いた違和感というものは、著者や講演者の異様なまでの使命感、患者に対する周りの人の、まるで宗教の教祖を見るかのような視線、であったのではないかと今は思うが、確信はない。
また、そこから生まれる閉塞感が社会科学系の水俣研究を遅らせた要因の一つであり、そういう閉塞感を生んでしまう日本社会というものにも大きな問題点があると思う。
また、そこから生まれる閉塞感が社会科学系の水俣研究を遅らせた要因の一つであり、そういう閉塞感を生んでしまう日本社会というものにも大きな問題点があると思う。
5.反省と今後
今回の一番の反省は色々と手を出しすぎたことである。海外の水銀汚染を見るにも一つ一つをもう少し詳しく見る必要があると思う。しかし、今回調べてみて、海外を見ても何も見えてこないのではないか、とも思い始めたのも事実なので、調べるべきことを整理しなおしたいと思う。
今回の一番の反省は色々と手を出しすぎたことである。海外の水銀汚染を見るにも一つ一つをもう少し詳しく見る必要があると思う。しかし、今回調べてみて、海外を見ても何も見えてこないのではないか、とも思い始めたのも事実なので、調べるべきことを整理しなおしたいと思う。
参考文献
オギュスタン・ベルク1992,『風土の日本』筑摩書房
岡本達明・西村肇 2001、『水俣病の科学』日本評論者
亀山純生 2005、『環境倫理と風土』大月書店
原田正純1989、『水俣が映す世界』日本評論者
原田正純 編書 2004、『水俣学講義』日本評論者
原田正純 編書 2005、『水俣学講義 第2集』日本評論者
原田正純 編書 2007、『水俣学講義 第3集』日本評論者
原田正純1972、『水俣病』岩波書店
藤原良雄 2006,『環 vol.25』藤原書店
オギュスタン・ベルク1992,『風土の日本』筑摩書房
岡本達明・西村肇 2001、『水俣病の科学』日本評論者
亀山純生 2005、『環境倫理と風土』大月書店
原田正純1989、『水俣が映す世界』日本評論者
原田正純 編書 2004、『水俣学講義』日本評論者
原田正純 編書 2005、『水俣学講義 第2集』日本評論者
原田正純 編書 2007、『水俣学講義 第3集』日本評論者
原田正純1972、『水俣病』岩波書店
藤原良雄 2006,『環 vol.25』藤原書店
