第5章 唯物論の宗教観の根本的転換(P179~)
―認識論主義から“実践としての宗教”観へ―
“実践としての宗教”観はいかなる意味で唯物論なのだろうか
→本章:唯物論の宗教理解の基本的論点と位置づけの確認
通俗的唯物論の認識論主義的宗教観の問題点と限界を明らかに
―認識論主義から“実践としての宗教”観へ―
“実践としての宗教”観はいかなる意味で唯物論なのだろうか
→本章:唯物論の宗教理解の基本的論点と位置づけの確認
通俗的唯物論の認識論主義的宗教観の問題点と限界を明らかに
1 唯物論の意味とその理論的性格
唯物論とは何か(P179~)
唯物論materialism
=精神(人間)と自然の関係、意識と物質の関係について、どちらが根源的かと問われれば、自然や物質のほうが根源的だと認める理論的立場(エンゲルス 1972を援用)
⇔観念論idealism
唯物論とは何か(P179~)
唯物論materialism
=精神(人間)と自然の関係、意識と物質の関係について、どちらが根源的かと問われれば、自然や物質のほうが根源的だと認める理論的立場(エンゲルス 1972を援用)
⇔観念論idealism
- 人間と自然について
精神的存在である人間は自然の歴史的過程で産出され、それゆえ人間は、一面では自然を改造しつつもあくまで自然の一部として存在し、究極的に自然に依存
- 意識と物質について
人間は何より身体として存在し、精神や意識は身体の物質的活動の所産
- 思考と存在について
人間の思考やさまざまな精神的活動は、根本的には、人間の存在のあり方(身体性、物質的条件、社会的関係、自然など)に規定される
○注目すべきポイント
- 世界や知の見方に関わる哲学的立場であり、人間・文化・社会を理解するための方法論的・理論的な立場
- 精神や意識活動の存在を否定して、世界や人間を単純に自然や物質からのみからなると見る立場ではない
→・(本書において)唯物論=タダモノ論という理解とは無縁、宗教と相容れないといったことは決してない
・科学主義やいわゆる反映論とは無縁
・科学主義やいわゆる反映論とは無縁
唯物論の基礎としての感性的生の地平と実践(P181~)
○「科学主義やいわゆる反映論とは無縁」ということについての補足
上で援用した唯物論の定義
→世界が意識・精神界と物質・自然界に判然と二分され、後者の内実が前者に投射されるというイメージと結びつく(実物と鏡像の関係をイメージさせることも拍車をかける)
→意識現象が、客観的世界の正しい反映と誤った反映に二分
⇒意識活動は客観的世界(真理・科学的認識)に従うべきという短絡へ
※認識論主義の宗教観はこのような短絡と密接に関連
○「科学主義やいわゆる反映論とは無縁」ということについての補足
上で援用した唯物論の定義
→世界が意識・精神界と物質・自然界に判然と二分され、後者の内実が前者に投射されるというイメージと結びつく(実物と鏡像の関係をイメージさせることも拍車をかける)
→意識現象が、客観的世界の正しい反映と誤った反映に二分
⇒意識活動は客観的世界(真理・科学的認識)に従うべきという短絡へ
※認識論主義の宗教観はこのような短絡と密接に関連
→難点は、科学的世界の実体化と意識界・物質界のアプリオリな前提
○フォイエルバッハの人間学的唯物論
- 人間を原理的に心身不可分の人間的(文化的)身体とみる
- 自然科学が明らかにする自然界は現実の感性的自然の物質的側面の抽象
(「生ける自然」から生の関わりを捨象した「死せる自然」)
- 科学的自然はそのようなものとして、
人間の生の現実を貫く物質的客観的原理の解明として人間・現実理解の重要な意味をもつ
⇒科学的世界は実体としてアプリオリに意味をもつのではない
⇒科学的世界は実体としてアプリオリに意味をもつのではない
- 意識と物質の区別は存在論的区別ではなく認識論的区別で、区別の必要は「実践」に由来
例:パン、恋人
実践的唯物論における科学的認識・理論の位置づけ(P184~)
以上のことは、客観的世界の内容も実践的連関・感性的世界と無関係に存在するわけではないという視点と不可分
→科学的認識の内容は実践的連関からのバイアスの刻印を免れているわけではない
科学的認識の内容は本質的に実践的連関と一体、実践的意識・イデオロギーに浸透されている
以上のことは、客観的世界の内容も実践的連関・感性的世界と無関係に存在するわけではないという視点と不可分
→科学的認識の内容は実践的連関からのバイアスの刻印を免れているわけではない
科学的認識の内容は本質的に実践的連関と一体、実践的意識・イデオロギーに浸透されている
⇒科学的認識の客観性は、
実践的意識・イデオロギーの不断の見直し・批判を通じてのみ担保される
※見直し・批判の源泉はとりわけ人間(的身体)の生の営みにおける「窮迫」にある
実践的意識・イデオロギーの不断の見直し・批判を通じてのみ担保される
※見直し・批判の源泉はとりわけ人間(的身体)の生の営みにおける「窮迫」にある
○ まとめ
物質界・客観的世界を存在論的にアプリオリに実体化
科学的認識を真理として絶対化 逆立ちしている理論的枠組
科学的真理を生の営み・実践の根本原理に置く
物質界・客観的世界を存在論的にアプリオリに実体化
科学的認識を真理として絶対化 逆立ちしている理論的枠組
科学的真理を生の営み・実践の根本原理に置く
⇒唯物論は実践的唯物論、批判理論たらざるをえない
2 唯物論の宗教観の古典的論点とその現代的意義
本節:このような理論的立場としての実践的唯物論からは宗教はどう理解されるのか
(主に、フォイエルバッハ、マルクスによりながら)
=唯物論の宗教論の基本的理解とされてきた内容とその歴史的意義を再確認
あらためて現代的意義を明確化
※これまで唯物論の宗教論の根本と解された内容は、
歴史的文脈を度外視して結論だけをみてきたきらいがある
本節:このような理論的立場としての実践的唯物論からは宗教はどう理解されるのか
(主に、フォイエルバッハ、マルクスによりながら)
=唯物論の宗教論の基本的理解とされてきた内容とその歴史的意義を再確認
あらためて現代的意義を明確化
※これまで唯物論の宗教論の根本と解された内容は、
歴史的文脈を度外視して結論だけをみてきたきらいがある
神の不在と宗教の虚偽性の焦点(P185~)
キリスト教:神が世界の創造者
自然と人間は神の被造物として神の意思と計画に基づいて存在
⇔18世紀の啓蒙主義的唯物論(特にフランス百科全書派)
・自然が客観的に存在し人間は自然の一部として自然によって産出
・人間によって神が産出
⇒キリスト教の世界観は虚構、それに基づく自然解釈は虚偽
※デカルト以来の近代哲学によるキリスト教批判の徹底として唯物論は生まれた
キリスト教:神が世界の創造者
自然と人間は神の被造物として神の意思と計画に基づいて存在
⇔18世紀の啓蒙主義的唯物論(特にフランス百科全書派)
・自然が客観的に存在し人間は自然の一部として自然によって産出
・人間によって神が産出
⇒キリスト教の世界観は虚構、それに基づく自然解釈は虚偽
※デカルト以来の近代哲学によるキリスト教批判の徹底として唯物論は生まれた
→フォイエルバッハ
生きた人間が生きた感性的自然に根源的に依存することを基礎に論点を継承
→マルクス、エンゲルス
・フォイエルバッハのいう感性的人間および人間・自然の関係は社会的関係を通して存在
→歴史的変化の中で存在
・キリスト教の神と教説は社会の客観的関係に背反するがゆえに空想・虚偽
生きた人間が生きた感性的自然に根源的に依存することを基礎に論点を継承
→マルクス、エンゲルス
・フォイエルバッハのいう感性的人間および人間・自然の関係は社会的関係を通して存在
→歴史的変化の中で存在
・キリスト教の神と教説は社会の客観的関係に背反するがゆえに空想・虚偽
⇒神(超越的存在)は主観的存在
宗教的言説における神と社会・人間・自然に関する客観的な存在関係は虚偽、幻想
宗教的言説における神と社会・人間・自然に関する客観的な存在関係は虚偽、幻想
疎外としての宗教とその人間的意味(P187~)/
疎外された実践としての宗教への視点(P190~)
神の不在と宗教の虚偽性は客観的認識に関してである
=神と宗教が主観的理念存在として人間生活に存在することは人間的事実として認める
→その人間的事実のうちに神と宗教の必然性と人間的意味があり、
そこから宗教固有の構造が見えてくる(この視点を重視したのがフォイエルバッハ)
⇒宗教は人間の本質的活動の疎外された形態であるという視点へ
疎外された実践としての宗教への視点(P190~)
神の不在と宗教の虚偽性は客観的認識に関してである
=神と宗教が主観的理念存在として人間生活に存在することは人間的事実として認める
→その人間的事実のうちに神と宗教の必然性と人間的意味があり、
そこから宗教固有の構造が見えてくる(この視点を重視したのがフォイエルバッハ)
⇒宗教は人間の本質的活動の疎外された形態であるという視点へ
- 神の“正体”は自然と人間の類的本質
- 自然と人間の本質が絶対化されて神へ、人間や自然は無力化し神に依存・服従する存在へ
- 人間は神によって力と価値を回復、人間らしい生を保障される
→このような構造がもつ本質的な逆立ち=疎外
⇒神は現実生活のうちに存在し、内容的には人間に関わる実質をもつ存在だという視点へ
⇒神は現実生活のうちに存在し、内容的には人間に関わる実質をもつ存在だという視点へ
2神と宗教が存在する必然性は現実生活の状態にあり、その核心は生活の悲惨さ、欠如感
「窮迫した生活」「根源的依存性」(フォイエルバッハ)
・客観的現実的な窮迫・依存
・主観的心理的窮迫
↑これらに宗教の必然性がある
→現代の宗教理解にとっても重要な論点を含む
・宗教の意義は、内面的・心理的条件と客観的条件、どちらかだけでは理解できない
・客観的条件としても、内面的条件としても、人間関係の欠如が決定的
「人間は自然によって存在し、人間によって人間となる」(フォイエルバッハ)
⇒神がどんな性格と内容をもつかは、信仰する人間に何が欠如しているか、と相関関係
「窮迫した生活」「根源的依存性」(フォイエルバッハ)
・客観的現実的な窮迫・依存
・主観的心理的窮迫
↑これらに宗教の必然性がある
→現代の宗教理解にとっても重要な論点を含む
・宗教の意義は、内面的・心理的条件と客観的条件、どちらかだけでは理解できない
・客観的条件としても、内面的条件としても、人間関係の欠如が決定的
「人間は自然によって存在し、人間によって人間となる」(フォイエルバッハ)
⇒神がどんな性格と内容をもつかは、信仰する人間に何が欠如しているか、と相関関係
| + | 「神なし」と唱えることについて |
- 各宗教共通の人間的意義
信仰者の生活上の苦悩や不安を心理的に解消し、主観的に主体性を回復する
- 宗教ごとに多様な人間的意義をはらんでいる
例:フォイエルバッハによる自然宗教とキリスト教の分析
→人間らしさの根拠を人間の共同性におき、他者との共感関係を通して自分らしさがあることを前面に押し出す視点は、現代においても重要
※宗教は、客観的には抑圧的ないし非人間的となる必然的傾向をもつ
例:神の愛ゆえに異教徒や批判する人には敵対的にもなるキリスト教
→人間らしさの根拠を人間の共同性におき、他者との共感関係を通して自分らしさがあることを前面に押し出す視点は、現代においても重要
※宗教は、客観的には抑圧的ないし非人間的となる必然的傾向をもつ
例:神の愛ゆえに異教徒や批判する人には敵対的にもなるキリスト教
4宗教への否定的肯定的な「二重の態度」
人間疎外の側面、人間抑圧性、人間性剥奪→否定
人間性回復の側面、人間解放性、人間性形成→肯定
⇒否定性と肯定性を分別し、否定性を除去する点に宗教批判の課題を見るという視点へ
例:フォイエルバッハによるキリスト教の整理
人間疎外の側面、人間抑圧性、人間性剥奪→否定
人間性回復の側面、人間解放性、人間性形成→肯定
⇒否定性と肯定性を分別し、否定性を除去する点に宗教批判の課題を見るという視点へ
例:フォイエルバッハによるキリスト教の整理
社会的存在としての宗教とその社会的意味(P192~)
以上の基本視点を社会との関係で豊かに
→マルクス・エンゲルスの史的唯物論
・人間学的唯物論からの宗教批判を継承
・フォイエルバッハの、人間と宗教を歴史的な社会産物と見ない点を批判
以上の基本視点を社会との関係で豊かに
→マルクス・エンゲルスの史的唯物論
・人間学的唯物論からの宗教批判を継承
・フォイエルバッハの、人間と宗教を歴史的な社会産物と見ない点を批判
○史的唯物論のポイント
1ある社会にどんな宗教がどんな形態で存在するかは、その社会の歴史的構造に規定される
※社会構造から宗教現象を説明・整理するのではなく、宗教現象から社会の構造の分析へ
1ある社会にどんな宗教がどんな形態で存在するかは、その社会の歴史的構造に規定される
※社会構造から宗教現象を説明・整理するのではなく、宗教現象から社会の構造の分析へ
2宗教存立の独自の根拠として、社会的根拠がある
フォイエルバッハ:人間の本質的な存在構造から宗教の自然的根拠と人間的根拠を明らかに
→これらは社会の構造に規定される=人びとの願望や欲求は社会の構造によって異なる
フォイエルバッハ:人間の本質的な存在構造から宗教の自然的根拠と人間的根拠を明らかに
→これらは社会の構造に規定される=人びとの願望や欲求は社会の構造によって異なる
3宗教(教団や運動)自体が社会システムの一部をなす
○宗教の社会的機能
○宗教の社会的機能
- 社会的統合機能
宗教は一つの社会制度であり、社会的統合(ないし解体)の機能をもつ
一制度であるだけでなく政治制度、共同体、家族制度などほかの制度と有機的に連関
一制度であるだけでなく政治制度、共同体、家族制度などほかの制度と有機的に連関
- イデオロギー性
社会制度や社会的行為を宗教的な虚構の理念や目的によって意味づけし説明する
例:神の権威によって人間の生の目的を幻想化し教会や国王の専制的な抑圧への服従を神聖化
⇒民族抑圧・性的抑圧・弱者抑圧など多次元にわたる社会的抑圧関係に拡張すれば、
現代においてもますます重要な視点
例:神の権威によって人間の生の目的を幻想化し教会や国王の専制的な抑圧への服従を神聖化
⇒民族抑圧・性的抑圧・弱者抑圧など多次元にわたる社会的抑圧関係に拡張すれば、
現代においてもますます重要な視点
3唯物論=反宗教の歴史的誤解と払拭
以上のような論点は、現代ではほとんどの宗教学者・研究者に共有されている
=唯物論哲学は“公平に”宗教を理解するための基本視点を提起してきた
→超越的存在を認めないという非宗教的立場には立つが、反宗教思想ではない
以上のような論点は、現代ではほとんどの宗教学者・研究者に共有されている
=唯物論哲学は“公平に”宗教を理解するための基本視点を提起してきた
→超越的存在を認めないという非宗教的立場には立つが、反宗教思想ではない
唯物論の反宗教イメージとその払拭の歴史的背景(P195~)
唯物論が反宗教だとみなされる理由
=唯物論の宗教観がキリスト教による社会支配体制の変革運動の中で形成されてきたという歴史的事情
唯物論が反宗教だとみなされる理由
=唯物論の宗教観がキリスト教による社会支配体制の変革運動の中で形成されてきたという歴史的事情
○反宗教的イメージ形成の歴史的過程
絶対王政に対する市民革命の過程で西欧近代哲学・唯物論哲学は形成
例:フォイエルバッハ・マルクスはドイツのキリスト教国家の市民抑圧の現実の批判から
→ロシア革命と社会主義国成立により唯物論が反宗教というイメージが決定的に
・ロシア正教が帝政ロシアと同盟したため、革命運動は反宗教的様相を呈す
・スターリンにより“マルクス・レーニン主義”が歪曲、“社会主義=無神論”教育の徹底
※レーニンは、マルクスを受け継ぎ、宗教撲滅運動の無意味さを指摘している
→キリスト教や宗教各派は社会主義・マルクス主義・唯物論に対して反宗教と非難キャンペーン
資本主義諸国ではマルクス主義を信仰の自由を認めない反宗教思想だとみなす
絶対王政に対する市民革命の過程で西欧近代哲学・唯物論哲学は形成
例:フォイエルバッハ・マルクスはドイツのキリスト教国家の市民抑圧の現実の批判から
→ロシア革命と社会主義国成立により唯物論が反宗教というイメージが決定的に
・ロシア正教が帝政ロシアと同盟したため、革命運動は反宗教的様相を呈す
・スターリンにより“マルクス・レーニン主義”が歪曲、“社会主義=無神論”教育の徹底
※レーニンは、マルクスを受け継ぎ、宗教撲滅運動の無意味さを指摘している
→キリスト教や宗教各派は社会主義・マルクス主義・唯物論に対して反宗教と非難キャンペーン
資本主義諸国ではマルクス主義を信仰の自由を認めない反宗教思想だとみなす
○反宗教的イメージの払拭
1西欧マルクス主義によるスターリン=マルクス正統主義の否定
→フォイエルバッハの再評価も
1西欧マルクス主義によるスターリン=マルクス正統主義の否定
→フォイエルバッハの再評価も
3宗教と唯物論・マルクス主義双方のイメージ変化は、
現実的苦悩の解決のための双方の地道な協力協同の延長上に起こった(岩崎・志木1990)
例:反ファシズム運動、戦争・貧困問題・人権抑圧に反対する協力共同
→80年代末、社会主義の崩壊によって一般的にも政治主義的偏見から解放、再評価へ
現実的苦悩の解決のための双方の地道な協力協同の延長上に起こった(岩崎・志木1990)
例:反ファシズム運動、戦争・貧困問題・人権抑圧に反対する協力共同
→80年代末、社会主義の崩壊によって一般的にも政治主義的偏見から解放、再評価へ
日本の通説的唯物論宗教観の変化(P198~)
日本において唯物論的哲学の宗教論は天皇制ファシズムの下での“宗教=アヘン”論として展開
※服部之総のように(小西・遠山1998)宗教が民衆の利害を代弁する側面に注目する議論もあったが、圧倒的に少数(亀山2003)
→敗戦後の絶対主義的天皇制と地主制解体により、平和・貧困を基盤とする宗教への注目
→世界的な宗教論の“和解”の影響もあり、宗教との対話を強調する唯物論哲学の展開へ
日本において唯物論的哲学の宗教論は天皇制ファシズムの下での“宗教=アヘン”論として展開
※服部之総のように(小西・遠山1998)宗教が民衆の利害を代弁する側面に注目する議論もあったが、圧倒的に少数(亀山2003)
→敗戦後の絶対主義的天皇制と地主制解体により、平和・貧困を基盤とする宗教への注目
→世界的な宗教論の“和解”の影響もあり、宗教との対話を強調する唯物論哲学の展開へ
○日本における宗教との対話・協調を強調する唯物論的宗教論の理論的特徴
1“宗教=アヘン”論が誤解であることを明らかに
マルクスが『法哲学批判序説』でアヘンを持ち出したのは、
苦痛緩和の意味に過ぎないことが明らかに(蔵原1978)
1“宗教=アヘン”論が誤解であることを明らかに
マルクスが『法哲学批判序説』でアヘンを持ち出したのは、
苦痛緩和の意味に過ぎないことが明らかに(蔵原1978)
2宗教の原点が民衆の抑圧からの解放の要求と願望の表現にあることを強調
→仏教も社会主義と共通の根をもつことが強調される
→仏教も社会主義と共通の根をもつことが強調される
3宗教者と唯物論者その他世界観・価値観の異なる人びととの協力共同の重要性を強調
→民衆の現実的苦悩の解決のために「天上の問題」での相違による対立から、
「地上の問題」での協力共同へ(岩崎・志木1990)
→民衆の現実的苦悩の解決のために「天上の問題」での相違による対立から、
「地上の問題」での協力共同へ(岩崎・志木1990)
→否定的側面に重点を置いた戦前から、戦後は宗教の肯定的側面の解明が進んだ
⇒問題は、この両義性の関係をどう見るか
ここが解明されなければ上の変化は単なる政治的ご都合主義でしかなくなる
⇒問題は、この両義性の関係をどう見るか
ここが解明されなければ上の変化は単なる政治的ご都合主義でしかなくなる
宗教進化論と通説的唯物論の宗教観の枠組み(P200~)
宗教の両義性の関係をそれなりに説明し、通俗的唯物論の宗教観に基本的枠組みを与えた
→宗教進化論に注目
=エンゲルスに似依拠しつつ
ウェーバーの“合理化=脱魔術化”論の影響も受けた佐木秋夫(1980)らによって展開
宗教の両義性の関係をそれなりに説明し、通俗的唯物論の宗教観に基本的枠組みを与えた
→宗教進化論に注目
=エンゲルスに似依拠しつつ
ウェーバーの“合理化=脱魔術化”論の影響も受けた佐木秋夫(1980)らによって展開
○宗教進化論
- 宗教の否定的側面の主な要因である虚偽意識性は原子未開の時代の自然などに対する
誤った表彰に起源をもつ
- それは、人間と文明の歴史的進歩とともに克服
→宗教は“私事”の事柄へ、個人の内面的原理の問題に収束していく
- 原始宗教、自然主教→民族宗教、民俗宗教→世界宗教、普遍宗教
→天蓋的宗教→近代的内面主教 =“本来の宗教”固有のあり方へと“純化”
- 後に、資本主義の根本的変革と階級社会の廃絶によって純化の果てに自然消滅
⇒これらは、フォイエルバッハやマルクスの宗教理解の基本的論点の20世紀的展開の到達点
=通俗的な唯物論・マルクス主義は現実社会やそこで生きる人間において宗教が存立する必然的根拠を理解し、社会の積極的な社会的意味を見出すことを基本方向としていた
=通俗的な唯物論・マルクス主義は現実社会やそこで生きる人間において宗教が存立する必然的根拠を理解し、社会の積極的な社会的意味を見出すことを基本方向としていた
→しかし、認識論主義の基本的枠組みのゆえに宗教ジレンマ(1章)に陥ってしまっている
→次節ではそれらの問題点を整理し、“実践としての宗教観”の射程を示す
→次節ではそれらの問題点を整理し、“実践としての宗教観”の射程を示す
| + | 「どうして科学万能というイデオロギーが流行ったのか?」 |
