個人研究発表や学会誌では、西田幾太郎、和辻哲朗、ベルクソン、ホワイトヘッド、メルロ=ポンティなどの思想家の名前が目に付く。その一方で、『無量寿経』、唯識などの仏教用語も、タグとして多く見られる。
研究発表を聞いていて内容の見当がつかなくなることはないが、「どのような立場で、AとBの両者の思想を比較しているのか」という問い直しがあまりなされていない研究が幾つかあり、歯がゆい印象を受けた(亀山先生が私もに「どのような事例に則して考えようとしているのか?」と聞くのも、このような歯がゆさを私の研究に感じるからだろう)。
「Aはこのような背景のもとで道徳についてこういうふうに説明している。一方、Bはこのような背景のもとで道徳についてこういうふうに説明している。共通点はこれこれで、差異点はこれこれである。以上」。もちろんそういうサイトがあることからわかる通り、思想家の比較は、考えるヒントを豊かに与えてくれる。だが、世界観、価値観をコンバートする力は薄い(世界観、価値観をコンバートすることがいかなる場合でも良いことであるとも言えないが)。
思想家や概念のマッピング作業は必要である。が、私(太田)はどのような“地図”を作ろうとしているのか? 私(太田)どのようなイデオロギーのただなかで“地図”を作ろうとしているのか? その問い直し作業を、後々行いたいと思った。
研究発表を聞いていて内容の見当がつかなくなることはないが、「どのような立場で、AとBの両者の思想を比較しているのか」という問い直しがあまりなされていない研究が幾つかあり、歯がゆい印象を受けた(亀山先生が私もに「どのような事例に則して考えようとしているのか?」と聞くのも、このような歯がゆさを私の研究に感じるからだろう)。
「Aはこのような背景のもとで道徳についてこういうふうに説明している。一方、Bはこのような背景のもとで道徳についてこういうふうに説明している。共通点はこれこれで、差異点はこれこれである。以上」。もちろんそういうサイトがあることからわかる通り、思想家の比較は、考えるヒントを豊かに与えてくれる。だが、世界観、価値観をコンバートする力は薄い(世界観、価値観をコンバートすることがいかなる場合でも良いことであるとも言えないが)。
思想家や概念のマッピング作業は必要である。が、私(太田)はどのような“地図”を作ろうとしているのか? 私(太田)どのようなイデオロギーのただなかで“地図”を作ろうとしているのか? その問い直し作業を、後々行いたいと思った。
追記:
シンポジウムの質疑応答のなかで、「戦後の混乱期にどのように振る舞えばいいのか? という問いのなかで比較思想という作業は行われてきた。ここ十年、二十年、飽食の時代のなかで、こういう分野はもういらないのではないかと思えてきたが、いま、東日本大震災の緊迫のなかで、この作業は必要になる」というコメントを、理事の吉田先生が述べていた。今日のこの例に限らないが、311を深刻に受け止めているのは、若年層よりもむしろ戦中・戦後生まれの年代であるように思えた。
シンポジウムの質疑応答のなかで、「戦後の混乱期にどのように振る舞えばいいのか? という問いのなかで比較思想という作業は行われてきた。ここ十年、二十年、飽食の時代のなかで、こういう分野はもういらないのではないかと思えてきたが、いま、東日本大震災の緊迫のなかで、この作業は必要になる」というコメントを、理事の吉田先生が述べていた。今日のこの例に限らないが、311を深刻に受け止めているのは、若年層よりもむしろ戦中・戦後生まれの年代であるように思えた。
