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#image(No074.jpg) #contents() &autolink(id=wikibody) ---- *CV ---- 洲崎綾 ---- *Illustrator ---- やどかり ---- *電の史実を読むのです! ---- #ref(Inazuma.jpg)  1932年11月、大阪府の藤永田造船所にて竣工。 電と言う艦名の駆逐艦では、若き日の米内光政が日本海海戦時に搭乗していた雷型駆逐艦『電』に次ぎ二代目。 特型駆逐艦はロンドン軍縮条約の「1500トンを超える艦は、合計排水量の16パーセントまで」という新たに設けられた制限に抵触することとなる。 そのため帝国海軍は電以降の特型駆逐艦の増産を行えず、結果的に電は特型駆逐艦最終艦となった。 …………ということが広く信じられているが、実際は「これ以上大型駆逐艦を作ったら英米を刺激して建艦競争になるだろ」「というかこれ以上は予算的に無理」 となったために特型の建造を打ち切り、以降は中型駆逐艦(これが[[初春型>初春]]のベースとなった)に切り替えるつもりだった。 翌年の1933年、第二水雷戦隊隷下で姉妹艦[[雷]]、[[響]]と第六駆逐隊を構成する。[[暁]]が加わるのは1939年から。 1934年6月29日、済州島南方で演習中に視界不良の中&bold(){「電の本気を見るのです!」}とばかりに僚艦[[深雪]]に衝突。 二度に渡り深雪の艦体に接触した電は艦首部を喪失、応急修復を誤った[[深雪]]は後部が沈没。その後二隻は[[那珂]]および[[白雪]]に曳航された。 [[深雪]]前部は浸水により途中で海中投棄されるも、電は後進で佐世保に帰投、その後呉にて約三ヶ月間かけて修理が行われた。 その後、友鶴事件・第四艦隊事件の影響を受けて性能改善工事が施され、暁型の特徴であった軽巡並みの馬鹿でかい艦橋が撤去された。 代わりに小振りな艦橋が設置されている。  開戦時、第六駆逐隊は第1艦隊第1水雷戦隊隷下となっており、電は1941年12月の香港攻略戦を初陣に迎えた。 次ぐ1942年1月からはメナド攻略戦に参加するも、同月中にダバオ湾口にて再び&bold(){「電の本気を見るのです!」}と徴用輸送艦『仙台丸』と衝突。 再び艦首部分を損傷して工作艦[[明石]]による応急修理を受けた後台湾に回航され、馬公工作部にて修理を実施された。 2月には戦線復帰し、高雄から出港する[[妙高]]の護衛を兼ねて南方へ戻り、同年3月のスラバヤ沖海戦に参加。 僚艦[[雷]]艦長工藤俊作少佐の命により、[[雷]]とともに掃討戦にて撃沈された英重巡エクセターの乗員を救助している。           &bold(){「電の救助を見るのです!」}  その後はキスカ方面やトラック方面などで船団護衛に従事し、ミッドウェー海戦にも不参加。 第三次ソロモン海戦には参加したが、すぐに本業の輸送任務及び護衛任務に戻っている。 1943年3月にアッツ島沖海戦に参加した後も横須賀~トラック島間の船団護衛をはじめとした護衛任務に従事した。 電の最期は1944年5月14日、僚艦[[響]]と共にマニラからダバオまでの船団護衛中の事だった。 [[響]]と持ち場を交代した30分後、セレベス海にて米潜水艦SS-223ボーンフィッシュの雷撃を受けた。 魚雷命中後、総員退去命令が出されるもわずか2分間で沈没。まさに轟沈であった。 [[響]]によって121名が救助されたが、艦長以下169名が戦死した。  駆逐艦ではあるが由緒正しき艦名であり、初代電は大日本帝国海軍が運用した駆逐艦のうち最初の艦級である雷型駆逐艦の2番艦でもある。 初代も含めて後に語り草となる軍人が若き日に艦長を務めていた、と言う例も意外と多い。 戦後は護衛艦の名に用いられており、今日もいなづまは平和な世界で平和の為に日々任務をこなしている。 が、一方で『電』の名はよく衝突する&bold(){呪われた艦名}でもあり、1899年に就役した初代の駆逐艦電は1909年に函館沖で機帆船と衝突し沈没している。 二代目電もご存知の通り戦前に深雪を沈め、戦中にも仙台丸と衝突し、そのたびに自分も大破している。 更に三代目電こと海上自衛隊のDE-203いなづまも1960年に津軽海峡での対潜訓練中に僚艦DE-201あけぼのに衝突されて、艦橋が破損する事故を起こしている。 2000年に就役した四代目電こと、むらさめ型護衛艦のDD-105いなづまもごっつんこしなければよいのだが・・・・・・ そんな四代目電だが、どうやら二代目と同じく人命救助に縁があったらしく、2014年に海賊対策のため派遣されたソマリアにてエンジン故障のため漂流していた小型の乗合船を発見し、乗っていたソマリア人とエチオピア人75人を救助している。 なお電の艦長は後に名を残す艦長が非常に多かった。 |2代目|有賀幸作|後の第4駆逐隊司令であり、最後の[[大和]]艦長。&br()坊ノ岬沖海戦で乗艦大和ともに戦死。| |3代目|渋谷紫郎|開戦時の第16駆逐隊司令。&br()第101戦隊司令として船団護衛中に米軍機の攻撃に会い、戦死。| |4代目|山田勇介|戦中第23駆逐隊、第6駆逐隊司令を歴任。&br()第三次ソロモン海戦にて乗艦[[暁]]とともに戦死。| |5代目|宮坂義登|開戦時の第18駆逐隊司令。&br()キスカ沖での[[霰]]喪失と[[霞]]、[[不知火]]大破の責任を取り割腹自殺。| |7代目|勝見基|2代目[[谷風]]艦長。&br()ミッドウェー海戦にて70機の米軍機からの猛爆撃をすべて回避したことで有名。| |9代目|寺内正道|1943年末から終戦にかけての[[雪風]]艦長。&br()巧みな操艦と豪胆な指揮で雪風を生き延びさせた人物。| これ以外にも沈没時まで乗務していた軍医長は、後にアリチアミン(商品名アリナミン)を発見する藤原元典氏であった。  余談だが、暁型駆逐艦は大きく見れば吹雪型の系列艦であるため『吹雪型○○番艦』あるいは『改吹雪型○○番艦』とも呼ばれる。(この場合電は吹雪型24番艦あるいは改吹雪型4番艦) また、吹雪型を『特Ⅰ型』、綾波型を『特Ⅱ型』、暁型を『特Ⅲ型』とも呼ぶ。 このことから艦これでも暁型の艦娘は『Ⅲ』の徽章を付けている。([[暁]]は左襟、[[響]]は帽子、[[雷]]は右襟) 電の徽章は持っている魚雷に隠れてわかりにくいが右裾近辺にある。中破絵だとわかりやすいので機会があれば是非ご堪能いただきたい。  暁型全般に言えるが一番煙突がそれまでの吹雪型系列に比べて細くなったり魚雷発射管に防盾がついたりと外見上の変化が既存艦に比べて大きい艦級である。 艦これでも背中の機関部が比較的小さく描かれていたり、防盾が腕や背中についていたりとしっかりフィードバックされている。 もちろん電ちゃんの魚雷発射管にも防盾がしっかりついている。(見ようによっては防盾が折りたたまれた飛行機の主翼に見えなくもないが) &table_color(table1,#ddd){} |>|>|~司令官さん、その・・・誰かの艦歴と間違えてないですか?| |発注|>|昭和2年度艦艇補充計画特型駆逐艦第58号駆逐艦| |起工|1930年03月07日|於藤永田造船所| |進水|1932年02月25日|特型駆逐艦第24番艦“電”と命名| |就役|1932年11月15日|横須賀鎮守府へ編入| ||1933年11月15日|第六駆逐隊新編に伴い編入(僚艦“[[雷]]”“[[響]]”。後に“[[暁]]”が編入)| ||1934年06月29日|済州島南方にて演習中に&bold(){本艦艦首が“深雪”の船体中央部に衝突}、“深雪”は船体が分裂したことで沈没。本艦も第1砲塔より前方を失う| ||1934年09月|戦列復帰| ||1941年12月08日|香港攻略戦に参加| ||1942年01月09日|メナド攻略戦に参加| ||1942年01月20日|ダバオ湾港にて&bold(){“仙台丸”と衝突}。工作艦“[[明石]]”による応急修理を受ける| ||1942年03月01日|スラバヤ沖会戦に参加。同海戦で撃沈された英国重巡洋艦“エクセター”の乗組員救助を実施| ||1942年06月03日|アリューシャン作戦に参加| ||1942年11月12日|第三次ソロモン海戦に参加| ||1943年03月26日|アッツ島沖海戦に参加| |戦没|1944年05月14日|僚艦“響”と共にヒ六一船団護衛作戦に参加中、セレベス海で米潜の雷撃を受け沈没| |除籍|1944年06月10日|| ---- *台詞一覧なのです! ---- &table_color(table2,#ddd){} |~状況 |~台詞 |~関連する史実や元ネタ、解説など| |自己紹介|電です。どうか、よろしくお願いいたします| | |秘書クリック会話①|はわわわ・・・びっくりしたのです…|| |秘書クリック会話②|なるべくなら、戦いたくはないですね|| |秘書クリック会話③|司令官さん、その・・・誰かと間違えてないですか?|同型艦「[[雷]]」のこと、名簿のみだと海軍もよく間違えたらしい| |戦績表示時|お手紙が届いたのです|| |編成選択時|電の本気を見るのです!|| |装備時①|問題・・・ないですか?|| |装備時②|ちょっと、体が軽くなったみたい|特Ⅲ型駆逐艦は艦形の変化に合わせ重心が上昇、後に改修された| |装備時③|あの・・・あ、あの・・・ありがとう|| |>|>|(マップ選択・資材発見・装備開発・修復材使用と装備時①、補給と装備時②は共通)| |補給時|ありがとう、なのです|2014/2/14のアップデートで追加。以前は装備時②と同じ| |ドック入り|ちょっと直してくるのです|| |ドック入り(重傷)|衝突とか、気を付けますね|戦前、深雪に衝突して沈没させる 戦中に輸送艦仙台丸にも衝突した| |建造時|建造が終了したのです|| |艦隊帰投時|艦隊がお戻りみたいです|| |出撃時|第一艦隊、第一水雷戦隊、出撃です|開戦時、電は第一艦隊・第一水雷戦隊・第六駆逐隊所属| |戦闘開始時|なのです!|攻撃時にも使用| |攻撃時|魚雷装填です|| |夜戦開始時|沈んだ敵も、できれば助けたいのです|スラバヤ沖会戦にて敵艦乗員多数を救助| |夜戦攻撃時|命中させちゃいます!|| |MVP時|戦争には勝ちたいけど、命は助けたいって、おかしいですか?|スラバヤ沖会戦にて敵艦乗員多数を救助| |被弾小破①|ふあっ!|| |被弾小破②|ふにゃぁぁぁ!?|| |被弾カットイン|いったぁ・・・恥ずかしいよぉ・・・|| |撃沈時(反転)|COLOR(white):次に生まれてくる時は・・・平和な世界だといいな・・・|COLOR(white):海自のむらさめ型護衛艦4代目いなづま(護衛艦としては2代目)のことか| |放置時|こうやって、何もない平和な時間も、とっても好きなのです|2014/2/14のアップデートで追加| ---- *同型艦 暁型(特III型) [[暁]] ― [[響]] ― [[雷]] ― &bold(){電} ---- *コメント 最新の30コメントを表示しています。 #comment_num2(num=30,disableurl,log=電/コメント) ---- *タグクラウド #tag_cloud(sort=num) ---- *関連ページ #related(sort=timestamp) ---- ▼wikiレンタル代価広告
#image(No074.jpg) #contents() &autolink(id=wikibody) ---- *CV ---- 洲崎綾 ---- *Illustrator ---- やどかり ---- *電の史実を読むのです! ---- #ref(Inazuma.jpg)  1932年11月、大阪府の藤永田造船所にて竣工。 電と言う艦名の駆逐艦では、若き日の米内光政が日本海海戦時に搭乗していた雷型駆逐艦『電』に次ぎ二代目。 特型駆逐艦はロンドン軍縮条約の「1500トンを超える艦は、合計排水量の16パーセントまで」という新たに設けられた制限に抵触することとなる。 そのため帝国海軍は電以降の特型駆逐艦の増産を行えず、結果的に電は特型駆逐艦最終艦となった。 …………ということが広く信じられているが、実際は「これ以上大型駆逐艦を作ったら英米を刺激して建艦競争になるだろ」「というかこれ以上は予算的に無理」 となったために特型の建造を打ち切り、以降は中型駆逐艦(これが[[初春型>初春]]のベースとなった)に切り替えるつもりだった。 翌年の1933年、第二水雷戦隊隷下で姉妹艦[[雷]]、[[響]]と第六駆逐隊を構成する。[[暁]]が加わるのは1939年から。 1934年6月29日、済州島南方で演習中に視界不良の中&bold(){「電の本気を見るのです!」}とばかりに僚艦[[深雪]]に衝突。 二度に渡り深雪の艦体に接触した電は艦首部を喪失、応急修復を誤った[[深雪]]は後部が沈没。その後二隻は[[那珂]]および[[白雪]]に曳航された。 [[深雪]]前部は浸水により途中で海中投棄されるも、電は後進で佐世保に帰投、その後呉にて約三ヶ月間かけて修理が行われた。 その後、友鶴事件・第四艦隊事件の影響を受けて性能改善工事が施され、暁型の特徴であった軽巡並みの馬鹿でかい艦橋が撤去された。 代わりに小振りな艦橋が設置されている。  開戦時、第六駆逐隊は第1艦隊第1水雷戦隊隷下となっており、電は1941年12月の香港攻略戦を初陣に迎えた。 次ぐ1942年1月からはメナド攻略戦に参加するも、同月中にダバオ湾口にて再び&bold(){「電の本気を見るのです!」}と徴用輸送艦『仙台丸』と衝突。 再び艦首部分を損傷して工作艦[[明石]]による応急修理を受けた後台湾に回航され、馬公工作部にて修理を実施された。 2月には戦線復帰し、高雄から出港する[[妙高]]の護衛を兼ねて南方へ戻り、同年3月のスラバヤ沖海戦に参加。 僚艦[[雷]]艦長工藤俊作少佐の命により、[[雷]]とともに掃討戦にて撃沈された英重巡エクセターの乗員を救助している。           &bold(){「電の救助を見るのです!」}  その後はキスカ方面やトラック方面などで船団護衛に従事し、ミッドウェー海戦にも不参加。 第三次ソロモン海戦には参加したが、すぐに本業の輸送任務及び護衛任務に戻っている。 1943年3月にアッツ島沖海戦に参加した後も横須賀~トラック島間の船団護衛をはじめとした護衛任務に従事した。 電の最期は1944年5月14日、僚艦[[響]]と共にマニラからダバオまでの船団護衛中の事だった。 [[響]]と持ち場を交代した30分後、セレベス海にて米潜水艦SS-223ボーンフィッシュの雷撃を受けた。 魚雷命中後、総員退去命令が出されるもわずか2分間で沈没。まさに轟沈であった。 [[響]]によって121名が救助されたが、艦長以下169名が戦死した。  駆逐艦ではあるが由緒正しき艦名であり、初代電は大日本帝国海軍が運用した駆逐艦のうち最初の艦級である雷型駆逐艦の2番艦でもある。 初代も含めて後に語り草となる軍人が若き日に艦長を務めていた、と言う例も意外と多い。 戦後は護衛艦の名に用いられており、今日もいなづまは平和な世界で平和の為に日々任務をこなしている。 が、一方で『電』の名はよく衝突する&bold(){呪われた艦名}でもあり、1899年に就役した初代の駆逐艦電は1909年に函館沖で機帆船と衝突し沈没している。 二代目電もご存知の通り戦前に深雪を沈め、戦中にも仙台丸と衝突し、そのたびに自分も大破している。 更に三代目電こと海上自衛隊のDE-203いなづまも1960年に津軽海峡での対潜訓練中に僚艦DE-201あけぼのに衝突されて、艦橋が破損する事故を起こしている。 2000年に就役した四代目電こと、むらさめ型護衛艦のDD-105いなづまも2023年1月に座礁してスクリュープロペラを損傷する事故を起こしてしまった。本当に呪われているのかもしれない… そんな四代目電だが、どうやら二代目と同じく人命救助に縁があったらしく、2014年に海賊対策のため派遣されたソマリアにてエンジン故障のため漂流していた小型の乗合船を発見し、乗っていたソマリア人とエチオピア人75人を救助している。 なお電の艦長は後に名を残す艦長が非常に多かった。 |2代目|有賀幸作|後の第4駆逐隊司令であり、最後の[[大和]]艦長。&br()坊ノ岬沖海戦で乗艦大和ともに戦死。| |3代目|渋谷紫郎|開戦時の第16駆逐隊司令。&br()第101戦隊司令として船団護衛中に米軍機の攻撃に会い、戦死。| |4代目|山田勇介|戦中第23駆逐隊、第6駆逐隊司令を歴任。&br()第三次ソロモン海戦にて乗艦[[暁]]とともに戦死。| |5代目|宮坂義登|開戦時の第18駆逐隊司令。&br()キスカ沖での[[霰]]喪失と[[霞]]、[[不知火]]大破の責任を取り割腹自殺。| |7代目|勝見基|2代目[[谷風]]艦長。&br()ミッドウェー海戦にて70機の米軍機からの猛爆撃をすべて回避したことで有名。| |9代目|寺内正道|1943年末から終戦にかけての[[雪風]]艦長。&br()巧みな操艦と豪胆な指揮で雪風を生き延びさせた人物。| これ以外にも沈没時まで乗務していた軍医長は、後にアリチアミン(商品名アリナミン)を発見する藤原元典氏であった。  余談だが、暁型駆逐艦は大きく見れば吹雪型の系列艦であるため『吹雪型○○番艦』あるいは『改吹雪型○○番艦』とも呼ばれる。(この場合電は吹雪型24番艦あるいは改吹雪型4番艦) また、吹雪型を『特Ⅰ型』、綾波型を『特Ⅱ型』、暁型を『特Ⅲ型』とも呼ぶ。 このことから艦これでも暁型の艦娘は『Ⅲ』の徽章を付けている。([[暁]]は左襟、[[響]]は帽子、[[雷]]は右襟) 電の徽章は持っている魚雷に隠れてわかりにくいが右裾近辺にある。中破絵だとわかりやすいので機会があれば是非ご堪能いただきたい。  暁型全般に言えるが一番煙突がそれまでの吹雪型系列に比べて細くなったり魚雷発射管に防盾がついたりと外見上の変化が既存艦に比べて大きい艦級である。 艦これでも背中の機関部が比較的小さく描かれていたり、防盾が腕や背中についていたりとしっかりフィードバックされている。 もちろん電ちゃんの魚雷発射管にも防盾がしっかりついている。(見ようによっては防盾が折りたたまれた飛行機の主翼に見えなくもないが) &table_color(table1,#ddd){} |>|>|~司令官さん、その・・・誰かの艦歴と間違えてないですか?| |発注|>|昭和2年度艦艇補充計画特型駆逐艦第58号駆逐艦| |起工|1930年03月07日|於藤永田造船所| |進水|1932年02月25日|特型駆逐艦第24番艦“電”と命名| |就役|1932年11月15日|横須賀鎮守府へ編入| ||1933年11月15日|第六駆逐隊新編に伴い編入(僚艦“[[雷]]”“[[響]]”。後に“[[暁]]”が編入)| ||1934年06月29日|済州島南方にて演習中に&bold(){本艦艦首が“深雪”の船体中央部に衝突}、“深雪”は船体が分裂したことで沈没。本艦も第1砲塔より前方を失う| ||1934年09月|戦列復帰| ||1941年12月08日|香港攻略戦に参加| ||1942年01月09日|メナド攻略戦に参加| ||1942年01月20日|ダバオ湾港にて&bold(){“仙台丸”と衝突}。工作艦“[[明石]]”による応急修理を受ける| ||1942年03月01日|スラバヤ沖会戦に参加。同海戦で撃沈された英国重巡洋艦“エクセター”の乗組員救助を実施| ||1942年06月03日|アリューシャン作戦に参加| ||1942年11月12日|第三次ソロモン海戦に参加| ||1943年03月26日|アッツ島沖海戦に参加| |戦没|1944年05月14日|僚艦“響”と共にヒ六一船団護衛作戦に参加中、セレベス海で米潜の雷撃を受け沈没| |除籍|1944年06月10日|| ---- *台詞一覧なのです! ---- &table_color(table2,#ddd){} |~状況 |~台詞 |~関連する史実や元ネタ、解説など| |自己紹介|電です。どうか、よろしくお願いいたします| | |秘書クリック会話①|はわわわ・・・びっくりしたのです…|| |秘書クリック会話②|なるべくなら、戦いたくはないですね|| |秘書クリック会話③|司令官さん、その・・・誰かと間違えてないですか?|同型艦「[[雷]]」のこと、名簿のみだと海軍もよく間違えたらしい| |戦績表示時|お手紙が届いたのです|| |編成選択時|電の本気を見るのです!|| |装備時①|問題・・・ないですか?|| |装備時②|ちょっと、体が軽くなったみたい|特Ⅲ型駆逐艦は艦形の変化に合わせ重心が上昇、後に改修された| |装備時③|あの・・・あ、あの・・・ありがとう|| |>|>|(マップ選択・資材発見・装備開発・修復材使用と装備時①、補給と装備時②は共通)| |補給時|ありがとう、なのです|2014/2/14のアップデートで追加。以前は装備時②と同じ| |ドック入り|ちょっと直してくるのです|| |ドック入り(重傷)|衝突とか、気を付けますね|戦前、深雪に衝突して沈没させる 戦中に輸送艦仙台丸にも衝突した| |建造時|建造が終了したのです|| |艦隊帰投時|艦隊がお戻りみたいです|| |出撃時|第一艦隊、第一水雷戦隊、出撃です|開戦時、電は第一艦隊・第一水雷戦隊・第六駆逐隊所属| |戦闘開始時|なのです!|攻撃時にも使用| |攻撃時|魚雷装填です|| |夜戦開始時|沈んだ敵も、できれば助けたいのです|スラバヤ沖会戦にて敵艦乗員多数を救助| |夜戦攻撃時|命中させちゃいます!|| |MVP時|戦争には勝ちたいけど、命は助けたいって、おかしいですか?|スラバヤ沖会戦にて敵艦乗員多数を救助| |被弾小破①|ふあっ!|| |被弾小破②|ふにゃぁぁぁ!?|| |被弾カットイン|いったぁ・・・恥ずかしいよぉ・・・|| |撃沈時(反転)|COLOR(white):次に生まれてくる時は・・・平和な世界だといいな・・・|COLOR(white):海自のむらさめ型護衛艦4代目いなづま(護衛艦としては2代目)のことか| |放置時|こうやって、何もない平和な時間も、とっても好きなのです|2014/2/14のアップデートで追加| ---- *同型艦 暁型(特III型) [[暁]] ― [[響]] ― [[雷]] ― &bold(){電} ---- *コメント 最新の30コメントを表示しています。 #comment_num2(num=30,disableurl,log=電/コメント) ---- *タグクラウド #tag_cloud(sort=num) ---- *関連ページ #related(sort=timestamp) ---- ▼wikiレンタル代価広告

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