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香芝の地名 - (2006/11/12 (日) 18:38:35) のソース

**香芝(かしば)
 「香芝」。その名の歴史はまだ新しく、命名の由来は、昭和31年の五位堂村、下田村、二上村、志都美村4村合併の少し前、昭和24年に開校した4村及び當麻町の一部の組合立「香芝中学校」の「香芝」を採用したものです。
 この名は、広く一般から公募し、当時の県視学中川良秀氏らによって命名されました。「香芝」は、香芝中学校がある小字「香の池尻」の俗称地名「カマシバ」の転訛の説が有力で、大字の「鹿島」があったことや下田の鹿島神社の鎮座する「鹿島(カシマ)」との間に小字「鹿島前(カシママヘ)」があったことや、これが、「カマシマヘ」と訛り、音節の転倒によって「カマシバ」・・・「コウノシバ」「香の芝」となったのだと考えられています。

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-五位堂
>大伴金村の末裔、五位殿某に由来か。江戸時代には五位戸村、五井戸村の表記がある。
-鎌田
>蒲田から変化したものか。源義朝に仕え、平治の乱で討ち死にした鎌田藤原政清の子、次郎政光が、鹿島明神のお告げによって下田に鹿島神社を建て、居住したという。
-良福寺
>地名に寺名を用いるような寺院は相当の古刹と考えられるが、良福寺にはその寺跡さえも明確ではない。恵心僧都誕生伝承地を良福寺に求める意義が認められる。
-別所
>開墾地を意味する「別所」という説や、国郡司の次官が別に居を構え政務を執る所、国府に対して別府の意味を持つ郡家的なものとする説などがある。
-瓦口
>河原口、河原ともいわれ、河原の口が一般的。古文書に「瓦山一処」「瓦釜参口」がみえるところから、異論もある。
-下田
>鎌倉時代、このあたりを下田山と呼んでいたらしい。また、二上山麓に比較すると字義のように下ノ田であり、いわゆる高田の対語。
-藤山
>もと大字畑の小字名「藤山」から昭和50年に町名設定。
-逢坂
>二つの坂が合体する峠に由来する説が有力。
-狐井
>井にちなみ、杵築井(きつきい)→杵井→狐井と考えられている。
-北今市
>江戸時代に上里村から分村。明治初年、今市村を通称名であった「北今市村」に改称した。
-五ヶ所
>江戸前期に下田村から分村。空き地を拓いてつくった村という意味もある。
-磯壁
>イは接頭語で、蘇我部又は磯部の意といわれる。
-畑
>墾田の意といわれる。
-穴虫
>穴に伏す低地という地形から。古くは大坂と呼ばれていたと考えられている。
-関屋
>大和と大阪を結ぶ峠道に置かれた関所であったことから。
-田尻
>江戸前期に関屋村から分村。大和の田の尻から開墾地の終わりの場所を意味する。
-高
>江戸前期に上里村から分村。湿地帯、もしくは川の氾濫を恐れ、微高地に移動した。
-上中
>明治20年に上里村と中筋村が合併してできた地名。
-平野
>地形によるものと考えられる。
-今泉
>新しいわき水の意味と考えられる。
-尼寺
>昭和32年、大字畠田から改称。片岡尼寺があったとされることから。
-西真美
>昭和54年、馬見丘陵西の土地区画整理事業で設定され、「馬見の西」からの音意。
-白鳳台
>昭和61年、土地区画整理事業で設定。
-真美ヶ丘
>昭和61年、馬見丘陵地帯の土地区画整理事業で設定され、「馬見の丘」からの音意。
-高山台
>平成12年、土地区画整理事業で設定。
-旭ヶ丘
>終戦後、志都美村南西部を農地開拓するための開拓農業協同組合設立の折、朝日を仰ぐ東斜面であったために組合員が名付けた。
-志都美
>志都美神社の通称「清水八幡」から音の転訛
-二上
>二上山に由来