光さんのバレンタイン

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光さんのバレンタイン - (2008/07/25 (金) 20:46:27) のソース

40 光さんのバレンタイン そのいち sage 2008/04/24(木) 18:19:22 ID:WzEnUb/M
  
 世の中、何はなくともバレンタインなのだった。 

「で。お姉ちゃん、あいつになんかすんの? バレンタイン」 
 キッチンで、晩ご飯が済んだ後のお茶を差し向かいで飲みながら、一応念のため訊いてみたんだけど、お姉ちゃんは案の定、小さく首をかしげただけだった。 
「そっか」 
 まあ、ご主人様って呼ぶ相手に対して、いまさら愛の告白も何もないよね。お姉ちゃんとしてはさ。たぶん、雪姫先輩はいろいろ頑張るんじゃないかと思うんだけど、あいつとお姉ちゃんが相手じゃ、のれんに腕押しもいいとこで終わるような気がする。 
「光ちゃんは?」 
「あたし? うーん、義理が多いから。この時期はやんなるよ」 
 通ってる空手道場とか伊吹先輩の空手部とか、お世話になってる男所帯には、それなりに礼儀を示しとかないと。もちろん、あたし一人でするわけじゃなくて、道場仲間の女子とか女子空手部の知り合いとかと一緒に準備するわけだけど、これが結構めんどくさい。 
 ちなみに円堂先輩にも、ファン一同から(といっても、ファングループは沢山あるし個人で送る子もいるから、毎年紙袋一杯くらいは軽く集まっちゃうんだけど)送ることにしてて、これはかなり真剣に凝ったものになるはず。 
「それだけ?」 
 珍しく、お姉ちゃんが訊いてくる。こういう分野には疎い人なのに、伊吹先輩との一件以来、なんだか気にしてくれてるみたい。嬉しいような、くすぐったいような、妙な気分。あたしは、テーブルに頬杖ついた姿勢から、思いっきり背伸びしてみせながら、 
「今んとこね」 
「そう」 
 お姉ちゃんはにっこり笑って、マグカップを口にした。 
「んとね」 
 何となく、言っとかなきゃならないような気がして、付け加える。 
「ちなみに、あたしも、あいつにはなんもなし」 
「そう」 
 とことんさりげない口振りで、お姉ちゃんの内心は何も窺えない。お姉ちゃんのことだから、いろいろ世話になったお礼がわりに義理チョコでも送っときなさい、とか言うのかと思ったけど、そんなこともないみたい。あたしは、こっそり安堵のため息をついた。 
 義理チョコなんか平気な顔して渡すには、近すぎて遠すぎる、あいつとあたしの微妙な距離。とりあえずは、ほっとこう。向こうだって期待なんかしてないだろうし。 
 それより。そろそろ……決めなきゃ。 


41 光さんのバレンタイン そのに sage 2008/04/24(木) 18:20:29 ID:WzEnUb/M
  
 お母さんやお姉ちゃんにお休みなさいを言ってから、自室に引き上げたあたしは、引き出しから二つの封筒を取り出し、机の上に並べた。さて。 
 片方は、光雲高校の願書。伊吹先輩と円堂先輩と雪姫先輩がいる学校。ほんとなら、お姉ちゃんもここに行くはずだった。あたしも、当然のように、行くつもりだった。願書は、もう提出済み。試験は、来月の初め。 
 もう一つは、お姉ちゃんが通ってる桜霧高校の願書。こっちは、お父さんのハンコとか学校の内申書までもらってて、でもまだ出してない。提出期限はもうすぐだっていうのに、あたしは、まだどうするか決めかねてる。 
 とっくに、お父さんお母さんはもちろん、お姉ちゃんにも相談した。みんな、あたしがしたいようにしなさい、って言ってくれた。学校の先生は、あんまりいい顔をしなかったけど。光雲高の方がいい学校だし、お姉ちゃんの時も随分止めたのに、って言ってた。 
 そうだよね。普通、光雲高にするよね。自分で言うのも何だけど、あたしの成績なら十分に合格圏内なんだし。知り合いも多いし。特に空手部の人たちなんかは、来年になったらあたしが入部するものって思いこんでるくらいだし。 
 それなのに、桜霧高の願書を前に迷ってるのは……いや、こんなとこで自分をごまかしても仕方ないか。正直いえば、あいつが通ってるとこでもあるから、だった。 
「って、いってもねえ……」 
 あたしは、頬杖をつき、ついでにふかぶかとため息もつく。 
 あいつと同じ学校に通って、あいつを(ちょっと癪だけど)先輩とか呼んで、もしかしたらあいつとお姉ちゃんと三人でお昼なんか食べて。それなりに楽しいような気もするけど、それで、あいつとの間で何かがはっきりしたり、進んだり、変わったりするんだろうか。 
 それに……あたしは、そんなことを望んでるんだろうか。 
 分かんない。ぜんぜん、分かんない。あいつが関わることになると、いつもこうだ。 
 思えば、あいつが現れるまでは、あたしの人生は単純明快そのものだった。お姉ちゃんが大好きで、円堂先輩や道場の仲間とわいわいやりながら、みんなで同じ学校へ通って楽しく過ごす。そんなことが、少なくとも高校くらいまでは、ずっと続くと思ってた。 
 それなのに。あいつのおかげで、ぜんぶ狂っちゃった。あたしは、机の上に体を倒して、ほっぺたを天板にくっつける。 
「ありえないよー……」 
 あたしが、こんなことで悩むなんてさ。ほんと、ありえない。そりゃ、お姉ちゃんと同じ学校に通うっていうのは、それだけで魅力的なんだけど。でも普通に考えれば、光雲高で決まりだよ。なのに、なんだってあたしは、ぐちぐち迷ってるんだ。 
 なんで……あいつと同じ学校に通ってるとこなんか、想像したりしちゃうんだ。 
 ああっ、もうっ。やめやめっ。また、おんなじことをぐるぐる考えるだけになっちゃう。決めるのは、ぎりぎりになってからでもいいんだから。ぎりぎりでも……ぎりぎりになって、それで決められるのかなあ。あたし。 
 あたしは、らしくもなく弱気な気分のまま、その日も封筒を引き出しにしまって、ベッドに飛び込んだ。同じことを繰り返して何日目になるのかは、考えないことにした。 
 ったく。全部、あのエロ金髪魔人のせいだ。バカ。オタンコナス。スケベ。変態。ヘタレ不良。甲斐性なし。鈍感。バカ。 
 ……いや。バカは、あたし、かあ……。ちぇっ。 


42 光さんのバレンタイン そのさん sage 2008/04/24(木) 18:21:39 ID:WzEnUb/M
  
「ゥス、ッかれッス!」 
「ウッス。ごくろーさん」 
 大きなボストンバッグを提げてあたしたちを追い抜いていく先輩に元気良く挨拶する。二月十四日の当日、光雲高空手部の部ミーティングで部員のみんなにチョコを配ったあと、仲良しの一年生女子部員の何人かと一緒に引き上げる途中だった。 
「で」 
 先輩が十分遠ざかったのを確かめてから、一人があたしに顔を近づけてくる。 
「光ちゃんは、伊吹先輩にちゃんとしたのかなっ?」 
「そんなこと、ないですよ」 
 苦笑まじりに、答えた。あたしと伊吹先輩とのいきさつは、割と細かいことまで含めて、光雲高空手部の人たちにはちゃんと伝わってる。変な誤解や憶測を広めたくないからって、伊吹先輩と円堂先輩が部員のみんなを集めて説明しておいてくれたのだった。 
 だから、あたしと伊吹先輩が付き合ってないとか、今のところお互いにそのつもりもないとか、この人たちもよく知ってる。知ってるんだけど、あたしをからかうのは止めてくれない。気のいい人たちで、からかい方もからっとしてるから、嫌な気はしないけど。 
「えー。やっぱりかっ。つまんなーい」 
「まーまー。光ちゃん真面目だから」 
「それにしてもさー。光ちゃんがフリーって知ってっから、なーんか男子の目つきがさー。アヤシイよねー。そこはかとなく期待に満ちてるっちゅーかさー」 
「ああ、それそれ。まあ、気持ちは分かるけどねえ」 
「いや、あんなイモどもはどーでもいいのだよっ。伊吹先輩よ伊吹先輩っ。どーすんのよっ。ぐずぐずしてたら、他の女が寄ってくるよ? ただでさえ人気あんだからっ。今日も朝とか昼休みとかすごかったんだからっ」 
「そうなんでしょうね」 
 あたしが笑いながら相づちを打つと、相手は唇を尖らせて、 
「なーんか、余裕うっ。ニクいねっ、このっ」 
「そんなんじゃないですよ。さすがだなあ、って」 
「ふーん」 
 しばらくあたしをじろじろ見てたけど、いきなり、にかっと笑って、 
「なーんかさっ。光ちゃんて、いいよねっ。一皮剥けたって感じでさっ」 
「え……」 
 いきなりそんなこと言われたら、どぎまぎするじゃないですか。 
「いや、今だから言うけどさっ。伊吹先輩にアタックしてた頃の光ちゃんって、嫌いだったもんっ。あたし」 
「はあ……」 


43 光さんのバレンタイン そのよん sage 2008/04/24(木) 18:22:51 ID:WzEnUb/M
  
 それは、そんなこともあるかな、って、思ってはいた。といっても、あらためて面と向かって言われると、それなりにキツくもあるけど。などと苦笑いしてたら、他の人たちも遠慮なく同調して、 
「そーそー。あたしも。なにこのオンナ、キモっ、とかって思ってたよ」 
「あー。分かる、それ。女子部じゃ評判悪かったよねー」 
「そりゃさあ。みんな、伊吹先輩のことは気になってたしねえ。ぽっと出の中坊に横からかっさらわれるなんて、って、けっこう息巻いてたよね。円堂先輩がいるから、大人しくしてたけど」 
「あの……すみません」 
 あたしは、うなだれる。 
 ほんとに、あの頃のあたしって子どもだったんだなあ、って思う。周りのことなんか、何にも見えてなかった。それどころか、伊吹先輩のことも、自分自身のことでさえ、ろくに分かってなんかいなかった。思い返すだに、恥ずかしい。耳まで熱くなってきた。 
 そんなあたしの背中が、思いっきり叩かれて、あたしは前方へよろめいた。 
「まーまー、気にしなさんなっ。今はみんな好きだよっ。光ちゃんのことっ」 
「はあ……ありがとうございます」 
 そう言ってもらえるのはとっても嬉しいんですけど、できたら、もうちょっと手加減してもらえませんか。あたしが情けない目つきで見返すと、相手は、にゃははっ、と笑ってくれた。 
「まっ。まだ根に持ってる人たちもいるけどさっ。あたしたちは、味方だからねっ」 
「はい」 
 あたしは、思わずにっこりした。素直に嬉しい。あたしなんかを、こんなに好いてくれるなんて、思ってもみなかった。例の一件のあと、光雲高にまた顔を出したときなんか、びくびくものだったから。いったい何を言われたり思われたりしてるんだろ、って。 
 それでも、お姉ちゃんたちの前で胸を張っていたかったから、伊吹先輩とのことから逃げたくなくて。空手部のみんなに、いろいろ迷惑かけたことを謝って。部活の後かたづけとか試合の準備とかも、積極的に手伝うようになって。 
 そうやって冷静になってみると、ほんと、いろんなことが見えてきた。空手部の人たちの一人一人。一緒にいろんな話をしたり仕事をしたり、そんな中で、あたしと仲良くなってくれる人がいて、あたしを嫌いな人がいて、あたしになんか関心のない人がいて。 
 その気になって見てみれば、学校の部活の空手にだって、いろいろ学ぶべきところはあることにも気付いた。道場と違って、素人向けにかみ砕いてある練習法で、でもだからこそ、身体の操法の基本をもういっぺん見つめ直すことができたりして、意外と面白い。 
 そんなことをしみじみ思ってたら、相手が口許をつぼめて笑いながら、こっちを眺めてるのに不意に気付く。やば、と思って体を引きかけたときには遅くて、抱きすくめられるみたいにして飛びつかれてた。 
「んーっ! 光ちゃん、かわいいっ」 
「え、あの……」 
 助けを求めて他の人たちを見たけど、どの人も仕方なさそうに笑って首を振るばかり。あの、いつものこととはいえ、あたしより背の低い人に首っ玉にかじりつかれて頭を撫でられると、全体重がかかる感じで、けっこうつらいんですけど。 
「よーしわかったっ。もう、あたしんとこにヨメにこいっ。一生可愛がっちゃるっ」 
「いや、それはちょっと……」 
 力無く笑いながら、どうやったら失礼にならずに振りほどけるか考えてたら、他の人がちょっと目を見開いて、呟くのが聞こえた。 
「あれ。あれって……円堂先輩、と、だれ? あれ」 


44 光さんのバレンタイン そのご sage 2008/04/24(木) 18:23:59 ID:WzEnUb/M
  
 その人が指さしたのは、学食の方だった。その中、ちょっと奥まったところに座っているすらりとした人影は、遠目でもひどく目立つ。確かに、円堂先輩だ。そして、その向かい側に座っている人物にも、見覚えがあった。 
「げ……」 
 思わず、声が漏れる。あのエセ金髪魔人。なんで、こんなとこにいるんだ。 
「光ちゃん? 知ってる人?」 
「あ……ええと」 
 訊かれて、目を泳がせる。しまった。どう言おう。気付くと、全員の視線があたしに集中してた。 
「光ちゃーん?」 
「あ、あはは……ちょっとした知り合い……ですかね」 
「ええー?」 
 全員の目が学食にいるあいつに向き、それからまたあたしに戻る。どうでもいいですけど、なんだってそんなにみんな呼吸がぴったりなんですか。 
「あんなのと? 知り合い?」 
「はあ、まあ……」 
 そうだよね。そう思うよね。どう見たって、どっかの不良かチンピラにしか見えないもんね、あいつ。あたしだって、あいつがお姉ちゃんの周りをうろうろしだした(あいつは逆だって言うだろうけど)時は、おんなじこと思ったもの。 
 男子部なら、あいつのこと憶えてる人も少しはいるんだけどな。女子部の人たちは、あいつがここに乗り込んだ二回とも、その場には居合わせなかったから、あいつのことを殆ど知らない。といって、ここで説明するのも……だいたい、どう言ったらいいんだろ。 
「光ちゃんっ。なんか、トラブルじゃないよねっ?」 
 あたしが迷ってるのをどうとったのか、やけに真剣な眼差しと口調で尋ねられた。その心遣いが嬉しくて、あたしは自然と笑顔になる。 
「そんなことないです。大丈夫ですよ。ほんとに、ただの知り合いで。そんなに悪い人でもないですし」 
「そーお?」 
 思いっきり、信じてない声音だった。あたしは、胸の中でだけ嘆息する。 
 だからあいつも、も少しちゃんとした恰好してれば、あらぬ誤解を受けなくても済むのにさ……って、いやいや別に、実は根はいいやつだとかいうんじゃなくて、ああっなんであたしがあいつの弁護なんかしなきゃならないんだ。なんか、ちょっと腹立ってきた。 
「え、と……あたし、ここで失礼しますね」 
「へ?」 
 いきなり言い出したあたしに、最初はきょとんと返されたけど、すぐに、親指なんか立ててみせられた。 
「わかったっ。偵察だねっ。よし、行って来いっ」 
「はあ……」 
 まあ、当たらずとも遠からずだけど。この場からそろそろ逃げ出したいのが半分、あいつが何の用でこんなとこにいるのか確かめたいのが半分だったから。あたしは曖昧に笑うと、みんなと別れて学食へ向かった。 


45 光さんのバレンタイン そのろく sage 2008/04/24(木) 18:25:03 ID:WzEnUb/M
  
 歩み寄るあたしに気付いたのは、あたしに向かって座ってた円堂先輩の方が先だった。あたしが小さく頭を下げてみせると、 
「あら。光じゃない」 
 円堂先輩から声をかけてくれる。それで、あたしに背を向けてたあいつも、首を曲げてこっちを見た。ちょっと意外そうな顔をして、 
「お。どうしたんだ」 
 それはこっちのセリフだっての。あたしは、二人が座ってるテーブルの側に立つと、円堂先輩にあらためて一礼した。 
「円堂先輩、こんにちは」 
 それから、あいつに向き直る。 
「あんた、こんなとこで何してんのよ。まさか」 
 不意にとんでもない可能性に思い至って、あたしは愕然とした。ええと、今日はバレンタインデーで、二人っきりで会ってて、それってひょっとして。いやいや、男嫌いで通ってる円堂先輩が、まさかそんな。いや、でもでも。こいつの場合……分かんないから。 
「あんた……もしかしてお姉ちゃんと雪姫先輩を毒牙にかけるだけじゃあきたらず」 
 あたしが思わず口走ってしまったら、 
「はあ?」 
 あいつは、思いっきり意外そうな顔をして訊き返してきた。えっと……そうだよね。そんなはずないよね。うん、あたしもそうは思ったんだ。思ったんだけどさ。 
「光。部の方は終わったの」 
 横からたしなめるように、円堂先輩の冷静な声がした。あたしは少し背筋を伸ばして、 
「はい。……あの」 
 あいつに視線だけを流してみせると、円堂先輩はうっすらと笑った。 
「ちょっとね。頼まれごとを、断ってたところよ」 
「はあ……」 
 訳も分からないまま一応うなずいて、あいつを見ると、憮然とした表情をしてた。いったい、何の話なんだろ。あたしが円堂先輩とあいつを見比べてると、円堂先輩が傍らのイスを指さして、 
「突っ立ってないで、お座りなさい」 
「え、でも……」 
「いいのよ」 
 円堂先輩にしては珍しい感じのお誘いだったけど、二人の話に興味はあったから、素直に腰を下ろすことにする。その拍子に窓の外を見たら、みんなが手を振ってくるのが見えた。まだいたんですか。と同時に携帯メールの着信があって、手早く見ると、 
『後日きっちり報告よろ』 
 あー、はいはい。分かりましたってば。みんなが楽しそうに笑い合いながら立ち去ってくのを見届けてから、携帯をしまって二人に目を向けると、あいつが円堂先輩に向かって、念押しのように尋ねるところだった。 
「やっぱ、だめか」 
「何度も言わせないで。お断りよ」 
 円堂先輩は、木で鼻をくくったような返事だった。それでも、あいつは円堂先輩から目を離さない。円堂先輩は、小さくため息をついた。 


46 光さんのバレンタイン そのなな sage 2008/04/24(木) 18:26:15 ID:WzEnUb/M
  
「相変わらず、頑固ね……」 
「他に、頼めるやつがいねえからな」 
「ちょっと、あんた」 
 少し迷ったけど、あたしは口を挟んだ。もしかして円堂先輩も、そのつもりであたしを加わらせたのかもしんない、って気もしたし。 
「あんまり、円堂先輩を困らせてんじゃないわよ。一体、なんなの」 
 あいつは、ちらりとあたしを見て、すぐに円堂先輩に視線を戻す。 
「空手を習いたい、って思ってよ」 
「は? 空手? あんたが?」 
「おう。……悪いかよ」 
「いや、悪かないけどさ……なんでいきなり」 
 あいつは、ちょっとだけそっぽを向いた。 
「いきなり、じゃねえ。少し前から考えてて、円堂にも何回か頼んでんだけどよ」 
「その度に、断ってるわよね。なのに、今日もこんなところまで押し掛けて。いい迷惑だわ。理由もはっきりしないし」 
「理由は言ったろ。自分の身くらいは自分で守れるようになりてえんだよ」 
「それなら、護身術を教えてくれるところなんて、他にいくらでもあるわよ。あなたみたいに我流のケンカが身に付いてると、いまさら教えにくいんだけど、それなりに親切に面倒を見てくれるところもあるでしょう。わたしじゃ、そこまでする気にならないけど」 
「俺は……円堂がいいんだけどな」 
「だから、どうしてそうわたしにこだわるのかしら。全く、番号なんて教えるんじゃなかった」 
 円堂先輩は、もう一度、ため息をついた。 
「まあ、考えていそうなことは大体想像がつくけど。どうせ、雨や雪姫の足手まといになりたくない、とか、そういったことなんでしょう。わたしなら、そのために何がどこまで必要か教えられるだろう、とか」 
 あいつは黙って、腕組みをした。それが、返事になってた。でも、足手まといにならないように空手を習いたい、って……何よそれ。お姉ちゃんを、そんなに危ないことに巻き込んでるってこと? 
 円堂先輩は表情と口調を厳しくして、続けた。 
「いい? 雨や雪姫のことを思うなら、一番いいのは、あなたが何もせず大人しくしていることなの。できれば、どこか遠くへ行ってほしいわ。それは、いつかも言ったわよね」 
 円堂先輩の手厳しい指摘に、あたしも横で深くうなずく。全く、今までお姉ちゃんと何してたのか、後でゆっくり聞き出して、とっちめてやらなきゃ。 
 あいつは、円堂先輩が譲りそうにないのを見て取ったのか、円堂先輩から視線を外した。 
「ああ……分かってる。俺だって、あいつらを厄介ごとに巻き込みたいなんて思わねえよ」 
「そうね。あなたに、そのつもりはないでしょうけど」 
 円堂先輩が、目を細める。腹を立ててるような、笑ってるような、ちょっと困ってるような、微妙な表情だった。 
「あなたがあなたでいるだけで、いろいろと……あるのよ」 
 円堂先輩の珍しく歯切れの悪い物言いにもかかわらず、あいつは、はっきりと苦笑いした。 
「そうだな。いい迷惑だろう、ってのは分かってるよ。だから……今のうちに、もうちょっと強くなっときたいんだけどな。一人になっても、困らねえようにさ」 


47 光さんのバレンタイン そのはち sage 2008/04/24(木) 18:27:30 ID:WzEnUb/M
  
 あたしは、あいつをまじまじと見た。こいつ、今、なんつった? 一人になる? それって……どういう意味なんだ。 
 だけど、その真意を問いただす前に、あいつは言葉を続けた。 
「いや、でも確かに、これ以上は円堂に悪いな。分かったよ。この話は、これきりにしとく」 
「そう」 
 円堂先輩は、何の感慨も見せず、睫毛を伏せると紅茶を一口飲んだ。あいつは、そんな円堂先輩からあたしに目を移して、 
「ちょくちょく来てんのか。ここ」 
 あからさまに、その場の空気を変えたいってだけの話の振り方だったけど、ちょっとへこんでるあいつが可哀想だったから、澄まして答える。 
「空手部にね。お手伝いとか見学とか」 
「そうか。伊吹のやつは、元気か」 
「あ……うん」 
 そうだった。こいつは、まだ、あたしと伊吹先輩が付き合ってるって思ってんだ。ええと……案外、いい機会かもしれない。ちらりと円堂先輩に目をやると、なんだか少し面白そうな顔してこっちを見た、ような気がした。 
「今日はさ……義理チョコ配ってきたんだ」 
「へえ。今日って……ああ、そうか」 
 ああそうか、じゃないわよ。つくづく、朴念仁なんだから。 
「ま、ほ本命は、ないんだけどさ」 
 い……言えた。ちょっと噛んだけど。さすがのあいつも、これだけストレートに言われると、その意味するところが分かったらしくて、 
「本命って……伊吹のやつは」 
「伊吹先輩とは……その、なんてゆうかさ。そんなんじゃないの」 
 あいつは、少し眉を寄せて、目をすがめた。 
「ちょっと待てよ……それって、まだ納得してねえってことかよ」 
 うわ。なんか、ちょっと誤解したみたい。あたしは慌てて手を振って、 
「う、ううん。違うんだ。伊吹先輩も、ちゃんと分かってくれてるってば。ただね、お互いに……もうちょっと、ゆっくり考えよう、ってことにしたの。い、いろいろあったしさ。あたしから、そうお願いしたんだ」 
「……」 
 あいつは、嘘がないか確かめるように、じっとあたしの顔を見てた。そんなに真剣なあいつの顔を見るのは初めてで、なんだか、どきどきしてきた。こいつ……相変わらず、バカだよね。あたしのことなんかで、こんなに一生懸命になっちゃってさ。 
 ほんと。バカ。おせっかい。こっちのこと、好きでもないくせに。あたしの気持ちなんか、これっぽっちも、分かっちゃいないくせに。いや、ま……確かに、自分でも、よく分かんないんだけどさ。 
 あたしが内心の動揺を押し殺して、あいつの目を見返してると、あいつは、ふっと視線を外した。 
「ま……おまえがそれでいいんなら、いいけどよ」 
「そうよ。ほっといて」 


48 光さんのバレンタイン そのきゅう sage 2008/04/24(木) 18:28:47 ID:WzEnUb/M
  
 うわ、しまった。冷静にことをおさめようと思っただけなのに、思いの外、きつい言い方になっちゃった。あたしが慌てて言い直そうとしたら、それより先にあいつは苦笑いしてて、 
「だよな。もう、俺が口出すことじゃねえな。悪かったよ」 
「う……そ、そうよ」 
 ああっ。どうしてこいつとの会話って、こうなっちゃうんだ。ええと……円堂先輩。今、ちょっと唇の端で笑いましたね? ああもうっ。何もかも、こいつが悪い。このバカが、よけいな誤解するから。 
 あたしがじっとりと睨み付けてると、あいつは居心地悪そうに身じろぎした。ちょっとあさっての方なんか見ながら、話題を変えてくる。 
「しっかし、バレンタインねえ。配る方も、大変だな」 
「ふん。男はお気楽でいいわよね。こっちはいろいろ気使うのにさ」 
「そうなんだろうな。俺にゃ縁のねえ話だけどよ」 
「あら」 
 そこで、円堂先輩が口を挟んできた。 
「柔沢くんも、雨や雪姫からあるんじゃないの」 
「なんであいつらが。ねえよ、そんなの」 
 あいつは、心の底から意外そうな声を出した。お姉ちゃんのことは知ってたけど、そうか。雪姫先輩も、何もしないんだ。ふーん。などと思っていたら、あいつがふと付け加える。 
「ああ、そういや……雪姫にゃ、なんか、来月の十四日は絶対あけとけ、とは言われたけどよ。日頃の恩返しをしろとかって。なんのこったろうな」 
 うわあ。雪姫先輩。エビでタイどころか、ルアーも使わずに釣り上げる気か。お姉ちゃんに対するフェイントかもしんないけど。考えたね。さすが雪姫先輩。 
 けど問題は、釣り上げられる方が全然釣られる気になってないってことだよね。釣り糸が垂れてることにすら気付かれないんじゃ、釣りにならないよ。気の毒に。 
 円堂先輩も、これには苦笑してて、 
「あの子たちらしいわね。まあ、わたしたちは元々あまり関心ないから」 
「円堂なんか、特にそうなんだろうな。むしろ、貰う方なんじゃねえのか」 
「まあね」 
 円堂先輩は、隣のイスの上の紙袋に目をやった。あいつも、少し首を伸ばして中身を確かめたのか、ちょっと目を丸くする。 
「それ、全部チョコか。すごいな」 
 素直に感心した様子のあいつを見て、円堂先輩は少しだけ微笑って、 
「そう? これはこれで、困りものよ。そうね。なんなら、いくつか持っていってくれてもいいんだけど」 
 あいつは、何度か目瞬きした。それから、かぶりを振る。 
「いや。そりゃやめとくよ」 


49 光さんのバレンタイン そのじゅう sage 2008/04/24(木) 18:30:04 ID:WzEnUb/M
  
「あら。遠慮なんていらないのに」 
 円堂先輩が、ちょっと首を傾げてみせた。あいつは、いくらかむっつりした顔で、 
「遠慮じゃねえよ。俺なんかがもらったら、それをくれたやつに悪いだろ」 
「そう? わたしは、そういうの分からないけど。勝手に気持ちを押しつけられても、それをむやみに尊重する気にはなれないわ」 
 円堂先輩らしい言い方だった。なのに、無表情なあいつの顔を見て何を思ったのか、円堂先輩は、こう付け加える。 
「柔沢くんは、そういうの気に入らないかもしれないけど」 
 あいつは、そこで、少しだけ笑顔になった。 
「んなこた、ねえけどよ。もらう方にしてみりゃ、ちょっと迷惑なこともあるだろうしな。でも、やっぱ、俺はもらえねえよ」 
「ふうん」 
 円堂先輩は、またちょっと首を傾げて、あいつを見た。 
「やっぱり、変な人ね。あなた」 
「まあ……そうかもな」 
 なんか、不思議。この二人、いつからこんな感じなんだろ。お互いに、相手が自分と違うことが分かってて、それでも反発し合うでも距離を取るでもなく、冷静に相手の立ち位置を認め合ってるようだった。円堂先輩が、そんな距離に他人を置くなんて、珍しい。 
 あたしが二人をかわるがわるに眺めてると、円堂先輩がめざとく気付いて、 
「どうしたの。光」 
「あ……その、ええと」 
 不意をつかれたあたしは、口ごもる。なんだか、今見てしまったものに、あたしなんかが不用意にくちばしを突っ込んじゃいけない気がした。慌てて別の話題を探して、 
「あ、あたしのもあるんですから。それは、こいつなんかにやらないで下さいよ」 
「あら。光も、くれたの」 
「はいっ。ここの空手部のみんなと……道場の分は、またそっちで」 
「そう。さすがに、後輩からもらったものは、むげにできないわね」 
 円堂先輩はかすかに頬笑んで、そう言ってくれた。うーん、相変わらずの女殺しの微笑だなあ。分かってはいても、至近距離で目にするのは久し振りだったもんだから、ちょっとくらくらきてたら、あいつが思ってもみないことを言い出した。 
「後輩か……てことは、おまえ、この学校受けんのか。なんか、雨からちょっと違う話も聞いたけどよ」 
「え」 
 あたしはびっくりして、あいつに顔を向けた。 
「お姉ちゃんが、なんですって?」 
「いや……ウチを受けるかも、って言ってたんだけどな。違ったか」 
「あ……」 
 お姉ちゃん、そんなことまでこいつに話しちゃったんだ。思わず円堂先輩に視線を走らせたら、あたしからあいつに目線を移して、それから目を伏せるのが見えた。これは……勘づかれたか。ええとその、こいつがどうとかそんなことは……そりゃ、ありますけどね。 
 あたしはちょっとだけ目を閉じて、ため息を一つついた。それで、何となく腹が据わった。いいでしょ。それに、これは結構いいチャンスかもしんない。円堂先輩……と、こいつがどう思うのか、一度訊いてみたいとは思ってたんだ。 
「うん。実は、考えてる。お姉ちゃんと一緒の学校に通ってみたいかも、って思ってるから」 
「そうか」 
 あいつはそう言ったきり、沈黙した。円堂先輩も、何も言わない。あたしもしばらくは我慢したけど、じきに焦れて、 
「な何よ。なんか、言いなさいよ。こーんな可愛い後輩ができるかもしんないのよ」 
「可愛い後輩、ねえ……」 


50 光さんのバレンタイン そのじゅういち sage 2008/04/24(木) 18:31:26 ID:WzEnUb/M
  
 む。その疑わしげなツラ、憶えとくからね。あたしの凝視の下、あいつはぽりぽりと頬を掻いて、 
「おまえがそうしたいんなら、俺が何を言える立場でもねえけどよ。決めたのか」 
「う……決めた、わけじゃないけど」 
「雨は……ああ、おまえに任せた、つってたな。円堂は、どう思う」 
 話を振られた円堂先輩は、案の定、かぶりを振ってみせた。 
「そうね。ちょっと驚いたけど、わたしも、どうこうは言わないわ。光が決めることだから」 
「俺も同じだな。けど、一つ訊いてもいいか」 
「な……何よ」 
「おまえ、うちに来て、どうすんだ」 
「え」 
 意表を突かれたあたしは、言葉を失った。いやそりゃ……お姉ちゃんやあんたと一緒に……えっと、その。学園生活なるものを。その。いろいろと。 
 そんなあたしを見ながら、あいつは淡々と続ける。 
「空手部なんて、ここに比べりゃ弱小もいいとこだぞ。頭の方だって、雨のいる進学クラスを除きゃ、レベルは高くねえ。はっきり言や、低いよ。中にはクズみたいな連中もいる。そんなとこに通ってる俺が言うのも何だけどよ」 
「……」 
「雨だって、ほんとなら、ここに通うとこだったんだろ。それを、俺がいるからって……まあ、あいつなら、どこ通おうが、あんまり関係ねえのかもしれんけど。おまえは」 
 あいつは、そこで言葉を切った。あたしは腕組みをして、 
「あたしが、何よ」 
 あいつは、軽く首を振る。 
「いや、うまく言えねえけどよ。なんつうか、うまく想像できねえ。おまえがうちに通ってるとこ」 
「……」 
 あたしが黙り込んだのを、どう取ったのか、あいつは少し口調を和らげて、 
「いや、反対ってわけじゃねえよ。来んなら、そりゃそれで歓迎だけどな。ま、俺の言うことなんか聞き流してくれても」 
「……分かってるわよ」 
「ん?」 
「分かってる、っつってんの。あんたが言ったことくらい。分かってる」 
「じゃあ……」 
 じゃあ、どうしてか、って? そんなの、こっちが訊きたいわよっ。あたしがきっと睨み返すと、あいつは「いやだから、反対ってわけじゃ……」とか何とか呟きながら、目をそらした。ほんと、何の役にも立ちゃしないんだから。 
「光」 
 横合いからかけられた冷静な声に、ちょっと沸騰しかけてたあたしの頭は、急に冷える。円堂先輩が、たしなめるような目でじっとこっちを見てた。 
「いずれにしても、あなたが決めることよ。よく、考えなさい」 
「……はい」 
 そっか。そうだよね。結局、あたしが決めるしかないんだもの。他人に頼っちゃ、だめってことだ。 
 あたしが長々と息を吐くと、その場には沈黙だけが残った。あとは、誰かが立ち上がるのを待つだけって感じになったところで、あたしの背後から声がかけられた。 
「あの……堕花光さん、ですか?」 


51 光さんのバレンタイン そのじゅうに sage 2008/04/24(木) 18:32:43 ID:WzEnUb/M
  
「え……あ、はい」 
 振り向くと、見知らぬ男の子だった。気弱そうな人で、あたしたち三人の視線を一斉に浴びて、少し怯んだみたいだったけど、 
「あ、あの。空手部の、伊吹さんて人からの伝言で」 
「伊吹先輩が?」 
「はい。あの、もし時間があれば、来てくれないか、って」 
「え……と」 
 あたしは、円堂先輩とあいつの顔を見回してから、腰を上げた。 
「すみません。失礼してもいいですか」 
「構わないわよ。行ってらっしゃい」 
「おう。またな」 
 二人とも、何となくほっとした様子で、うなずいてくれる。あたしも同じ気持ちだった。やれやれ、ちょうど良かった。あたしは男の子に向き直り、 
「どこへ行けばいいんですか」 
「ちょっと分かりにくいんで……途中まで、案内します」 
 それで、もう一度、円堂先輩に頭を下げてから、男の子の後に続いて食堂を出る。歩きながらも、さっきのやりとりを思い出すと、心穏やかじゃいられなかった。 
 いやそりゃ……あいつが飛び上がって喜んで、なんてこと期待してたわけじゃない。それでも、あいつがあんなに冷静に切り返してくるなんて、意外だった。なんか、こっちの迷いもためらいも全部見透かされた感じがして、悔しかったし、恥ずかしかった。 
 振り返ってみると、バカなことをしたかもしんない。円堂先輩だけならともかく、あいつになんか相談しても、仕方ないのに。あいつが、答えられるわけなんてないのに。全部、あたしの独り相撲みたいなもんなんだから。 
 そんな考え事をしながら歩いてたもんだから、「じゃ、僕はこのへんで。あの角を曲がったとこですから」って声をかけられて顔を上げると、あまり見覚えのない場所にいた。たぶん左手にあるのは専門教科棟で、右手にプレハブの立ち並ぶ、薄暗い場所だった。 
「え……あの」 
 男の子に顔を向けると、もうとっくに遠ざかってて、こちらに向かって小さく頭だけ下げたけど、そのまま足を止めずに行ってしまった。なんなんだ。一体。 
 首をかしげながらも、男の子が言い残した方へ足を向けようとした時、プレハブの陰から、人影が歩み出た。あたしの数メートル先に立ちはだかり、そっくり返ってみせる。この人……知ってる。あたしが口を開きかけたとこへ、向こうから声をかけられた。 
「よう。久し振りじゃねえか。ヤリマン」 







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