ベルクソンによるギュイヨー評(翻訳中)

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ベルクソンによるギュイヨー評(翻訳中) - (2008/04/04 (金) 04:12:41) の編集履歴(バックアップ)


「ギュイヨー『時間の観念の生成』の書評」1891

  このとても興味深い小さな本(フイエ氏の配慮によって公刊された)でギュイヨー氏は、持続の感覚が意識のなかでいかに発達するかを示すことを目的としていた。まず著者は、受動的形式と、時間観念notionの能動的な根底とを区別する。つまり彼は、時間の川床le lit du tempsと、時間の流れcoursを対置する。第一の見地(川床)から考察すると、時間の観念は、差異、類似、数、程度という四つの要素を含む。実際、均質な全体のなかでは、なにも時間の観念を生み出すことはできないだろう。持続は、諸効果の多様性varieté d’effetsとともにしか始まらない。だが他方で、絶対的異質性は、もしそれが可能だとするなら、時間も排除してしまうだろう。時間の主要な性格は連続性なのである。しかるに諸差異と諸類似の知覚は、二重性の観念を帰結し、そして二重性によって数が構成される(pp.20-22)。持続の観念はといえば、時間の各瞬間は行動activitéと感性における程度を前提としているから、瞬間momentの観念と緊密に結びついている。というのは。したがってつまることろ、時間がそこにおいて動いている枠組み、つまり時間の形式は、諸程度の多元性を形成するところの、差異であり同時に類似である表象の秩序なのである(p.25)。

 著者が「時間の観念の能動的根底」と呼ぶところのものが残っている。この能動的な根底は、意識が過去・現在・未来を区別するとすれば、意識そのものである。だがこの区別は後天的なものである。最後の分析でこの区別は、被りpâtirと行為agirの区別に帰着する。「われわれが苦痛をこうむり、それを遠ざけようと反応reagirするとき、時間を二つのもの、つまり現在と未来に切断する。この快と苦にたいする反作用は、意識的なものとなるときは志向性=意図intentionである。そして、とっさのものであれ熟慮されたものであれ志向性こそが、空間と時間の観念を同時に生み出す」(p.31)。「未来、それははじめは、存在の面前le devant êtreである。それは、私が持っていないもの、私が望むか欲するかするものである。…はじめは時間の流れは、欲されているものと所有されているものの区別でしかない。その区別はそれ自体、感情と満足の一貫した志向性に還元される」(pp32-33)。この志向性自体、最初は力もしくは努力でしかない。未来は、動物の面前にあるもの、動物が得ようと追求するものである。過去は、背後にあるもの、動物がもはや見ていないものである(p35)。したがって、つまるところ継起は、空間において行使される駆動的努力の、つまり意識的なものとなることで志向性であるところの努力の、抽象なのである。

 したがってギュイヨー氏は、時間におけるイマージュの配置の起源もしくは説明を、空間の中に求めるように徐々に導かれている。「私がA点からB点に行き、B点からA点に戻るとする。こうして私は、諸々の感覚作用の二つの系列、つまりその各項が他方の系列の項のうちの一つに対応する系列を手に入れる。ただし、対応する各項は、あるときは目標とされたB点との、あるときはA点との関連で、私の精神のなかで配列される。このとき、これらの二系列の一端ともう一端が完全に一致するためには、二系列を行きつ戻りつすることで双方を適応させるのみでよい。おわかりのように、感覚作用の二つのグループのこうした完全な一致は、空間を時間からもっともよく区別するものである。この可能で現実的な一致を考えないなら、明瞭な秩序に従って配列された一連の諸々の感覚作用しか、記憶のなかで持たないだろう。こうして、前方に向かう、未来に向かう内的な展望が築かれる。

 ギュイヨー氏はこうした分析で、時間の観念は空間のそれから解き放たれ、運動は媒介としての役目をはたす、と結論づける。「時間は運動の抽象であり、またそれゆえ相互に区別された感覚作用もしくは努力の総体をまとめる形式である」(p.37)。そしてまた少し後では「人間的意識における時間を創造するのは空間における運動である。運動なしには、時間は存在しない」(p.47)。時間における想起の局所化そのものが、空間の媒介によってなされる。というのは想起の枠組みはなによりもまず、日付の想起を引き起こす場所であるからである(p.63)。局所化するためにわれわれは指標となる点を用いるということをリボー、テーヌ両氏が示したとするなら、ギュイヨー氏によれば、これら指標となる点は、常に延長のなかに、あるいは延長と結び付けられて、捉えられるということが必要である。たとえひとが指標点として、なんらかの大きな道徳的苦痛もしくは大きな快楽をとらえるにせよ、この苦痛、この快楽は不可避に空間の中に局所化される。そして、それが時間のなかに局所化されることができ、それから時間におけるさらなる局所化の指標点としてもっぱら役に立つことができるのは、そのことによるのである。単なる類推ではなく、時間の局所化と空間の局所化の間には同一性が存在する。また、われわれが時間を測ることができるのは空間の媒介のみによってなのである。「ある環境においてある時間の間にあなたがしたことを思い出す、そしてこの想起をあなたの現在の印象と比較する。そして言う「ほとんど同じか同じでないかの長さだ」と」(p.74)

 だがその時、われわれは時間を空間からどう区別するのだろうか。ギュイヨー氏によれば、この区別をするのにもっとも役立った外官は、聴覚である。正確に言うと聴覚は、持続の中には見事に局所化する一方で、非常に曖昧にしか空間の中には局所化しないからである。聴覚のあとに、想像(構想力)が到来する。「われわれは自分の足だけによって運動をするのではない。われわれは表象によって運動をする。われわれはこの種の内的な散歩と、外的な移動を区別をすぐさまする」(p.75)
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