・湯気の向こう

ラウンジには、夕刻の光が斜めに差し込んでいた。
機材の低い駆動音と、カップの擦れる音だけが空気を満たしている。

「良ければ、一杯如何でしょうか? ヤトノ殿。」
穏やかな声。
サーベラスは、整った手付きで二つのカップを並べていた。
湯気が立ち昇り、焙煎の香りが漂う。

「頂こうか。」
ヤトノは近くの椅子に腰を下ろす。
「しかし……貴重な休憩に上司が来ても然程気にしない様だ。エクトやホムンクルス達とは大違いだ。」

「おや?」
サーベラスは微笑んだ。
「ホムンクルスはともかく、タロス殿は喜んで貴方との休憩時間を共にすると思いますが。しかし彼女はランチに行きましてね。」

小さな笑いが交わされる。
だがその中で、ヤトノの眼差しはふと沈んだ。
――ああ、やはり似ている。

昔の親友は、いつも彼にコーヒーを任せていた。
任せるというより、信じていたのだ。
「なぁ、ヤトノ。またコーヒー淹れてくれないか? ミルクと蜂蜜はいつもの分量で!」
面倒くさがりで、無邪気で、いつも笑っていた。

今、目の前にいる男は──その面影を一滴も残さない。
けれど、湯気の向こうで差し出されたカップの動作が、どこかで重なる。

「お口に合えば良いのですが。」
サーベラスが静かに言う。

「……ああ。悪くない。」
ヤトノは一口飲んだ。
苦味とわずかな酸味。蜂蜜ではない、しかし確かに“優しさ”の配合。
記憶に沈んだ笑顔の残響が、わずかに疼く。

「その様子では、合格という事でしょうか。」
「……誰が試験をした。」
「ふふ、表情がそう申しております。」

一瞬、静かな間が降りた。
ヤトノは視線をカップの底に落とし、
“あの時の男”に重ねそうになる意識を押し留めた。

――もう、彼はここにはいない。
記憶を失ったこの男は、新たに生きるべき誰かだ。

だから、名前を口にしてはいけない。
彼のためにも、自分のためにも。

「……次は、蜂蜜を少しだけ足してみると良い。」
「なるほど、主任の好みというわけですね。」

ヤトノはわずかに目を伏せ、
「いや、昔の話だ。」とだけ答えた。

湯気はまだ、二人の間で揺れていた。
まるで、過去と現在を繋ぐ細い糸のように。
最終更新:2025年11月12日 02:28