フラクタル 第4話

695 フラクタル ◆P/77s4v.cI sage 2009/02/13(金) 18:12:27 ID:eq93nQxn
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 最低だ、と、俊介が自らを省みることになった遊園地での一件が終わると、もう夏休みがすぐそこまで迫ってきていた。
 あれ以来、舞が妙に優しい。
 早起きが過ぎたり、アダルト雑誌を新しく買っていたのが見つかったりしても、怒鳴ることはなく、
それどころか風呂に背中を流そうと入ってきたり、一緒に寝ないかと尋ねてくるようになったのだ。
 俊介はと言えば、そんな舞を逐一意識してしまっている。
 気の迷いだ、という気持ちが三割。あれだけのことがあったのだから仕方ないという気持ちが四割。残りの三割は、俊介自身よくわかっていない。
ただ、それがなんだか薄暗いものだということは感じている。黒になりきれていない灰色のような。
 だから今日、何年ぶりかに外食をすることにした。
 あまり仲のいいクラスメイトではないが、多少無理を言って夕飯を一緒に取ろうと誘ったのだ。
 相手は訝しがるそぶりも見せたが、店を目指して歩いている頃にはすっかりそんな様子はなくなって、時折ふざけて肩を組んだりするようになった。
 素行の悪い人とは馬が合わない。そう俊介はずっと思っていたが、そういう人たちは案外考え方がシビアで、
学校で接するときと外で話をする時では印象ががらりと変わり、俊介は少なくとも、この人はいい人だと思った。
「なあ、繁華街まで行かないか」
 唐突に相手がそう言った。繁華街の方がうまいものがある、せっかく仲良くなれたんだから、と言い出したのだ。
 どうしたんだ突然、と聞くと、あー、と言いながら視線をそらして頬を掻きだした。
 俊介は一瞬身構えたが、相手は、誰にも言わないでくれよ、と前置きして語り出した。
「俺、家庭があんまり裕福じゃないんだ。このあたりだと俺の家の噂がよく聞こえてくるからさ……お前にまで迷惑掛けるわけにはいかないだろ?」
 立ち止まって、相手が自販機を指差す。二人で向かった。
「それに俺、弟達に食わせてやらなきゃならないから、夜のバーで働いてるんだよね。だから、繁華街の方がいろんな店に詳しいんだ」
 買ったお茶が妙に体に冷たかった。
 それから俊介たちは、言葉を切らすことなく繁華街に向かった。




697 フラクタル ◆P/77s4v.cI sage 2009/02/13(金) 18:12:51 ID:eq93nQxn
 俊介が一人になったのは、午後九時を回ったころだった。
話がどんどん弾んで、相手がもう仕事の時間だと言い出すまでずっと店に居座っていたのだった。
「帰る、か」
 人々の行き交うスクランブルの中ぼそりと呟く。歩く人たち。派手さが増している。
「舞は、一人で済ませたかな」
 連絡はした。今日は夕飯はいらない、と淡白なものだったが。当然、なんで、どこで、と返信も来たが、それには繁華街にいるとしか答えていない。
 帰りの道は、ひどく憂鬱だった。最近はずっとそうだ。原因は、はっきりしている。自分自身だ。舞には全く問題なんかない。
 勝手に自分が錯覚して、勝手に自分が邪な感情を持っているのだ。お化け屋敷で襲ってきた人物は結局わからなかったが、そこはもう原因ではなくなっている。
 何もかも、よくわからなかった。自分も、舞も。あれから、時折寂しそうな目を向ける小枝子さえ。ただ無性に歯痒かった。
 小枝子は、少し変わった。ほんの少し。
 積極的になった、と俊介は思う。
 毎日必ず学食に行きましょう、と誘いに来るからだ。行きませんか、ではなく、行きましょう、という言葉は以前からは考えられなかった。
「ねえ、今日家に遊びに来ないかな?」
 その小枝子の積極性に便乗して、この舞に対する劣情を解消できたらと思って言ったこともある。俺たちは付き合っているんだから、と思って。
 けれど、小枝子はいつも唇を噛んで決まった言葉を言う。すみません、と。
 やはり、よくわからなかった。
「おにーさん、高校生?」
 声が聞こえ、顔をあげた。
「あんまり、遊んでなさそうな顔だね。私、君みたいな男の人好きだな」
 胸元を大きくはだけた女が言う。きらきら光るベルト。茶色に染まった髪。妖艶な女だ。
俊介が知っているクラスメイトの派手な女とは全く違っていた。男をよく知っている女だった。
「ねえ、きて」
 慣れてない俊介は手を引かれるままについて言ってしまう。あの、その、とかいう言葉が口から洩れるが、もちろんそんなこと女は聞いていない。
 周りを見た。考え事をしていたせいで、いつの間にか繁華街でも特殊なところに来てしまったようだ。女は振り返って、優しく微笑んでくる。
 引かれて連れてこられた場所は、とにかく写真が多い店だった。ピンク色の文字で下に文字も書かれている。俊介は、ああ、ここはホステスという人がいる店なんだ、と思った。
「りか、私この子連れてきたから。今度はアンタが出て」
 女は、俊介にかけたものとは違った声を出して、店の前にいたもう一人の女に言った。
「あ、はい。わかりました」
 答えた女も、派手な服装をしている。会話から察するに、この女の方が後輩なのだろう。
わざわざ頭まで下げていた。化粧のアイシャドウが濃く、頬がうっすらときらきら光っていた。
「この子、高校生だよ」
 俊介が、どうしようかと考えている時、手を引いてきたほうが言った。
「へえ。いいんですか」
「うん。結構好みだし。これで百人目達成したからボーナスもらえるよ」
「いいなあ。もっと私も」


698 フラクタル ◆P/77s4v.cI sage 2009/02/13(金) 18:13:22 ID:eq93nQxn
 そこまで言った後輩の女が、急にぴたりと静止した。俊介を見て、え、と漏らす。
「先輩」
 俊介もそう言われて、はっとして後輩の女を見る。
「え? 知り合い?」
「……いえ、知らない人です。じゃあ私、行ってきますね」
 振り向いて去ろうとする女に、俊介は唖然として呟いた。
「朋美、ちゃん?」
 呼ばれた女は、ぴくりと体を止めた。
「やっぱり、朋美ちゃんだろ。どうしてこんなところに」
「え、やっぱ知りあい」
「いえ違います」
 即答するりかと呼ばれた女。向き直っていないのに、いやにはっきりと声が届いた。
「でも、あんたの名前知ってるじゃん」
「私の名前はりかですよ。何言ってるんですか、まゆさん。それじゃあ、私は行きますね」
「ちょっと、まちなって」
 まゆと呼ばれた女が朋美の手を掴む。それでも無理やり手をほどこうとしたので、おい、と低い声が出された。
「あたしがもう一回出るから。あんたはここにいな。裏に行ってもいい」
「……店長に怒られちゃいますよ」
「あたしが言っとく」
「この人は悪い人なんです。私を追いかけてきたんですよ」
「この子が? ……下手な嘘はやめな。そういうのなら、私がここに連れてくるわけないだろ。それとも何? 私がそういう男を引っ掛けてくると思ってんの?」
 朋美は何か痛いものを見るように、目を細めた。一瞬俊介を見て、それから下を向く。
 彼女に何があったのか、俊介は想像できなかった。
 引っ越したにもかかわらず、近くで働いていた朋美。化粧がされているが、それを考えても以前とは全く違っている。
 外見だけではない。今の朋美には、何か俊介とは違う、いや、同年代の人とは全く異なる雰囲気があった。悟ったような、常に考え込んでいるような。
 結局、二人でさっき俊介が夕食を済ませた店に行くことになった。
まゆが、朋美が俊介を客として同伴している、という形にしたのだった。リラックスさせるためや、店に来てもらうためにたまに使われる方法らしい。
 店に行く間、朋美はずっと黙っていた。
 俊介も何と声をかけたらいいかわからなかったから、ひとまず落ち着こうと店に向かった。
 店は、夕食時同様、空いているようだった。
 からんからんと鈍い鈴が出迎える。店員が礼儀正しくお辞儀をしてやってきた。
 俊介が二人です、というと、先ほどと同じ席になさいますか、と言ってきたので、お願いします、と返した。
 窓際には何人か座って食事をしている。夕食のときに聞いた話では、この店は外から見ると混んでいるに見えるので、よく敬遠されているらしい。
そのため、外観も食事も文句ないのにそれほど混雑しないのだ。
 内装は落ち着いた印象が強かった。入ってすぐにあるカウンターは奥にある調理場を隠していて、ところどころに植物が飾ってあった。
 案内されたテーブルには花のランプが用意されており、造花がきれいにそれに巻きついている。


699 フラクタル ◆P/77s4v.cI sage 2009/02/13(金) 18:14:08 ID:eq93nQxn
「えっと、ブラック一つ。朋美ちゃんは、何にする」
「……何もいりません」
 席に座っても、朋美は俊介を見なかった。見ない、というより見たくないという感じが強い。下を向いたまま喋るので、染められた髪の後頭部がよく見える。
「じゃあ、俺も何もいらないや。すいません、水だけでいいです」
 俊介の言葉に店員は眉をしかめたが、かしこまりました、と言うと厨房の方へ歩いて行った。
 何を聞けばいいのだろう。
 俊介は、そう考えるのに必死だった。何があった、とか、どうしてあんなところにいたんだ、とかそういうことを自分が聞いていいのかわからない。
 心配だという気持ちはある。しかし、夕食前の一件が尾ひれを引いて、言いたくない事情があるかもしれないと考えてしまうのだ。
 男を誘うような格好。まゆとの会話。少なくとも、今日はじめて働いた、なんてことはないのに。
「……朋美ちゃん、君自身のことだからあまり口を出したらいけないってわかってるけど、でも、ああいうのは出来るだけ止めた方がいいと思う」
 ぴくりと朋美の体が揺れた。
「は?」
「高校生で水商売なんて」
 朋美は呆けたように俊介を見た。まるで言葉がよく理解できない子供のように。
「もちろん興味本位じゃないってことはわかってる。朋美ちゃんはふざけてるようで聡明な子だから」
 俊介はそうも言った。
 聡明だから、なんて言うのは、事情はあるのだろうけれど忠告はさせてくれ、という保険だ。
 朋美はまだ、黙っている。
「……」
 それは、沈黙、ではなかった。意図的に口を閉じているのではなく、俊介の言葉を反芻しているために喋るのが遅れている、そんな感じだった。
「……何、言ってるんですか? ……何言ってるのよ」
 朋美の声は、恐ろしくかたかった。
「ふざけないでよっ!」
 え、と返した俊介の言葉など、もう届いてはいない。朋美は自分の言葉で自分に興奮していた。
 声とともに叩かれたテーブルが大きな音を立てる。店内にまばらにいた人たちが一斉にこちらを見た。
「あなたの、あなた達のせいじゃない! 私だってこんなことしたくないわよ!」
 コップの水が、俊介の制服を濡らす。
「でも、しょうがないじゃない、お金が必要なんだから。私がお金を稼がないと、どうしようもないんだから」
 朋美は切羽詰まった声でそう言った。そして何度も繰り返して言う。どうしようもないんだから、と。
「どういうことなんだ」
 店内がまたざわつくころ、俊介はやっと訊いた。こぼれた水をウエイトレスが拭きに来たが、自分でやるからと断った。
 朋美は、睨みつけるのが終わるとじっと立ったままテーブルを見つめていたが、俊介の言葉を耳にすると、みるみる顔が歪んでいった。
「何、その反応? もしかして、知らない? もしそうなら、ますます許せないな。梶原俊介」
「ちょっと待ってくれ。意味がわからない。どういうことなんだ。説明してくれ」
「……本当に知らないんだ。呆れた。親が親なら子も子ね。残酷。他人をこんな目にあわせておいて、本人は何も知らずにぬくぬくと生活してるんだから」
 だんだんと怒りよりも嘲るような声になっている。俊介は動揺しながらも必死で何があったのか訊こうとつとめた。
「だから説明してくれよ。俺が何かしたのなら、すぐにどうにかするから。いや、朋美ちゃんが水商売なんかしないでいいようになるなら、何でもするよ」
「何でも?」
 へえ、と嗜虐的な顔をする朋美。
「先輩、でも、ひとつ間違ってることがあるんですよ」
 二人の視線が絡まったのを確認して言った。
「あそこね、ソープランドって言うんです」





700 フラクタル ◆P/77s4v.cI sage 2009/02/13(金) 18:15:00 ID:eq93nQxn
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「私、結構人気者なんですよ。高校生だから。中に出させたあげることもあるし。まあ、その場合はお金を上乗せしてもらいますけどね。先輩も抜いてあげましょうか」
 自信満々に朋美は言った。さっきの金切り声よりは小さく、でも前に学校で話したときよりも大きな声で。
「俺のせいで、あそこに、いるのか」
 言いながら、震えているとわかった。
「……そうですよ。あの店で、女にされたんです」
 朋美はそう言うと、やっと席に座りなおした。
「説明、してくれ」
 身を乗り出してくる俊介を朋美は一瞬、唇を噛んで見詰めたが、鼻を鳴らすと、
「私は、あなたが知らないことが許せないって言ってるじゃないですか」
 と言った。
「頼む!」
 今度は俊介の声の大きさに周囲が反応した。けれど、今度は先ほどよりも短い時間で元に戻る。
誰も聞いていないからなのか、それとも聞き耳を立てているからざわついたのか、それはわからなかった。
 朋美はただ黙って目を細めた。
「あなたのお父さんは何をしてる人ですか」
 間髪入れず、俊介はほとんど反射的に訊いた。
「親父が何かしたのか」
 朋美はこたえない。
 けれど、それだけで十分だった。
「今すぐ、親父のところに行こう。俺が何とかする」
「もう何をしても無駄ですよ。今の私を知らなかったあなたに、何かができるとは思えません」
「それでも、それでもだ」
「先輩。私はあなたを許しません。絶対に」
 そう言われ、俊介は愕然とする。もうそれで、何もかも手遅れなのではないかと思ってしまったから。
 朋美は、泣いている。
 今、俊介を責める立場にいたはずなのに。ぼろぼろとぬぐうことさえ忘れて泣いていた。はっとして、上を向いて涙を止めようとしたが、すでに遅かった。
 何も知らなかった俊介。知らないところで泣いていた朋美。つくづく、人は見かけによらないと思った。


701 フラクタル ◆P/77s4v.cI sage 2009/02/13(金) 18:15:30 ID:eq93nQxn
「許してもらわなくても結構よ」
 そんな中、愉しそうな声が横からした。
「結局、股を開いたのはあなたでしょう? なにお兄ちゃんのせいにしようとしているの?」
 見ると、舞が、ほんとうにおかしそうに笑って、そこにいた。
 いつからそこにいたのか、夏なのに薄い長袖のシャツとジーパンをはいている。どうやってここに、と俊介は訊いたが、舞はひたすらくすくすと笑ってやめようとしなかった。
 朋美が、急いで自分の顔を拭こうとする。
「あら、お化粧が崩れちゃうわよ」
 途中にそう言われたが、ハンカチでごしごしと涙をぬぐった。アイシャドウが崩れ、パンダのような目になってしまったけれど、気にしなかった。
 舞はそれをみて、またしてもにんまりと笑う。が、俊介の方を向くと片手を腰に当てて眉を尖らせる。
「お兄ちゃん、何こんな所で遊んでるのよ」
「今、それどころじゃないんだ」
「もうすぐ夏休みだからって怠けてるんじゃないの」
 舞は、俊介の腕を掴んで引っ張る。早く帰ろう、と言いながら。
 朋美のことを説明すると、舞はさっき笑っていたくせに、あら、なんて声をあげて話しかけた。
「ハロー。久しぶりね。菅野さん」
 まるでいじめられっ子を見つけたいじめっ子のような声だと、俊介は思った。
「……この恰好を見ても何も言わないんですね」
「ええ。言わないわ。ああ、似合っているわよ、って誉めた方がいいのかしら」
「舞っ」
 すぐに俊介が怒鳴ったが、舞はどこ吹く風と涼しげな顔をしている。
「親父が、親父が何かしたのかもしれないんだ。そのせいで朋美ちゃんがこんなことになってるのかもしれないんだ。そんなこと言うもんじゃない」
 俊介がそういさめるのに、舞は、
「朋美ちゃん?」
 などと見当違いな所に反応する。
 そして、はあ、とため息をついてテーブルの真ん中に言葉を置くように言った。
「仕事なんて、何があるかわかったもんじゃないわ。この女は運がなかったのよ」
「舞!」
 俊介は手を振り上げた。引っ叩かなければならないと思った。
しかし、自分がそんなことをしたって朋美は何とも思わないのはわかっていた。見れば、無表情に俊介たちを見つめている。
「謝りなさい。今のは、兄ちゃんも許せない」
 大きく息をついたあと、俊介はそれだけ言った。
「……悪かったわ」
 と、舞もそれには従った。


702 フラクタル ◆P/77s4v.cI sage 2009/02/13(金) 18:16:08 ID:eq93nQxn
「……いいよ。謝らなくて。そんな必要、ない」
 朋美は立ち上がって、語気を強める。
 そして俊介を見た。俊介だけを。
「先輩、最後に一つ聞かせてください」
「何でも言ってくれ」
「もし、この人が、現われなかったら本当に私を助ける気でいたんですか」
 深い、こげ茶色の瞳だった。化粧なんて、服なんて、気にしなかった。俊介は自分も立ち上がって、舌に言葉をしっかりとのせた。
「今でも、助ける気だ。朋美ちゃん、親父が不当なことをして君の家に何かしたのなら、俺が何とかする」
「……何とかできるとは、思えませんけど」
「絶対だ、信じてくれ」
 朋美はそのまま頭を下げた俊介の背中に、そっと手を置いた。温かい手のぬくもりが伝わっていく。
「どこにいるのかもわからないのにどうするのよ、お兄ちゃん」
 舞が嘲るように言った。
「どうにかする」
 大きな声で言い、俊介は自分の財布を出したが、朋美に首を横に振られてやめた。
「先輩……でも、私は、もしあなたが助けてくれたとしても、許すことはできないかもしれません」
「うん。それはもちろんだ。俺は、君が助かればそれでいい」
 朋美を見つめ返して、俊介は心から言った。
 許されるかどうかなど問題ではなかった。ただ朋美に以前のように明るく楽しい女の子に戻ってほしかった。戻った結果、自分のことを憎んでいたとしてもかまわない。
それどころか、自分が犠牲を払うことで彼女が助かるならば、喜んでそうする。
「後ろを向いて、耳をふさいでください」
 唐突に、朋美はそう言った。
 首をかしげる俊介に、何でもしてくれるんですよね、とも続ける。
 俊介は言われたとおり、後ろを向いて両手で耳を押さえた。
 数分して、肩を叩かれたので俊介が振り向くと、朋美が、
「それじゃあ、私は仕事がありますのでもう行きます。もし、話があったら店に来てください。……待ってますから」
 と言って、店を出て行った。
 俊介は舞とともにぽつんと取り残される。
 これから本当に大変になるな、と俊介は目をつぶって噛みしめるように息を吸った。
 自分たちも店を出ようと、前にいた舞の傍に行く。
「お前、どうしたんだ」
 しかし、舞は頭から水滴をぴちゃりぴちゃりと床にたらしていた。まるで大量の水をかけられたように。
下を見れば銀のポットが、がらんと転がっていた。氷も無数にちらばっており、舞の足元には水たまりさえできている。
 左の頬には大きな赤い跡があった。
 その場にいた俊介も含めた全員が、目を見開いて舞を見つめている。
「帰ろう、お兄ちゃん」
 しかし、それなのに舞は、くすくすと笑って俊介に抱きついた。
 何をされても、負け犬なのは明白で、笑いが止まらないのだった。
 止めてみろ、という気さえした。

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最終更新:2009年02月15日 21:15
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