とある魔術の禁書目録 自作ss保管庫

Part15

最終更新:

NwQ12Pw0Fw

---,--- view
だれでも歓迎! 編集


たった一つの思い


 常盤台中学『学外』学生寮の二〇八号室に戻ってから、ずっと御坂美琴はそわそわしていた。
 いつもならルームメイトにして後輩の白井黒子が、美琴に先にユニットバスを使うよう譲っていたのだが、今日は美琴が『黒子、お風呂なら先に入っちゃいなさいよ。私ちょっとやることあるから』と言って白井が口を開く前に勧めてきたのだ。そして白井がバスルームに足を踏み入れる直前も、美琴は携帯電話を片手にずっとそわそわしていた。
 美琴が寮に戻ってきた時、少なくとも何の変化も兆しも見られなかった。……あくまでも上辺では。
 それでも美琴が心ここにあらずなのは、白井でなくとも容易に気がついただろう。白井が何を話しかけても美琴は上の空で、ポケットの中から携帯電話を取りだしてはしまい、パジャマに着替えてからも手の中でカエル型のそれをもてあそんでいた。
 美琴の携帯電話は機能こそ一通り揃っているものの、お世辞にも中学生以上の年齢を対象とした機種とは言えない。白井も過去に携帯電話のサービス店まで足を運んだが、店員から『大変申し訳ありませんがこちらは小学生向けの機種でして』と苦笑された覚えがある。美琴があの携帯電話を選んだ時、店員はどんな顔で対応したのだろうと思うと白井は何とも言えない複雑な気分になった。
 ともかく、美琴はあの携帯電話をたいそう気に入っていて、白井が最新機種を薦めても頑として機種変更には応じなかった。『ケータイなんて使えれば何だって良いじゃない』と美琴は嘯くが、あのカエル型のデザインが美琴の好みであることは周知の事実だ。
 しかし、今日は違う。
 美琴は『お気に入りのケータイ』で遊んでいるのではなく、携帯電話に届く何かを待っていた。メールか通話かは分からないが、とにかく何かを一日千秋の思いで待っているだろうと言うことはいつになく落ち着きのない美琴の様子で窺い知れた。
 そして白井も気になっていた。
 メールの文面でも通話の内容でもない。美琴を待たせる『相手』は誰なのか。
 このところ、白井は複数の方面からとある噂を耳にしていた。いわく、美琴が異性と手をつないで幸せそうに笑って街を歩いている、と言う噂だ。最初は根も葉もない話と白井は歯牙にもかけなかったが、だんだん噂の内容は詳しく、そこから垣間見える相手の姿も明確になった。噂話を総合すると美琴が手をつないでいる相手は年上で、黒髪をツンツンさせているという。
 黒い髪のツンツン頭で年上と言えば、白井の心当たりには一人しかいない。かつて文字通り体を張って白井の命を救ったツンツン頭のあの少年だ。少年については美琴の言葉を借りるなら『あの馬鹿』、白井は『類人猿』と呼んでいる。
(お相手は……あの殿方ですの?)
 美琴の存在を背中に感じて、『あの殿方』を引き合いに出した白井の心を占めているのは、いつもの激発じみた怒りや熱情ではない。
 ここで彼のことを口に出したくはない。彼の名を出して美琴を喜ばせたくない。
 美琴の様子がいつ激変するかを伺う、張り詰めた糸のような緊張と強情にも似た自負で、白井は口を閉ざす。
 普段なら一方的に話し続ける美琴も、心をどこかへ置いてきたように口を開かない。
 夜の帳が静かに二〇八号室を包む。

 白井が敬愛するお姉様、御坂美琴はさっぱりした気性と胸に秘めた気高さ、誰にでも分け隔てなく接する優しさ、そして時折垣間見える愛らしさで白井以下常盤台中学の生徒から羨望と尊敬と憧れの眼差しを一心に浴びていたが、ここに来てその美琴に変化が見られるようになった。
 熱烈な信奉者の白井でさえ目を覆いたくなるようなガサツさが徐々に減り、身に纏う雰囲気がやや丸みを帯びてきたのだ。手っ取り早く言えば女の子らしくなったというか、艶のようなものが美琴の内部から滲み出てきた。
 もう分かっている。美琴に聞かなくても分かる。
 恋は女を変えるのだ。
 人前では決して顔に出さない、白井に対して困ったり悩んだりと言ったそぶりを一切見せない美琴が、二〇八号室で一人沈鬱な表情を浮かべていたのを白井は密かに見かけている。その時の美琴があまりにも痛々しく思えて、白井はかける言葉が見つからず、そのまま部屋のドアを閉めて外へ出てしまった。
 美琴が表情を歪めるほどつらい恋だからこそ、美琴ととある殿方が並ぶ姿を見た生徒は一様に『美琴が幸せそうに笑っている』と噂するのだろう。
 美琴が世界でたった一つの居場所と心に決めた少年の隣で幸せに笑っているのなら、それはそれでいい。それを耳にした白井の心が引き裂かれるように痛んでも、美琴が誰かを愛することと、白井が美琴を愛することは別問題だ。
 そして美琴の苦しさも、白井には手に取るように分かる。自分も同じ思いを胸に秘めているのだから。
 自分にとってたった一人の誰かのことで悩んでいる時、他の誰かに慰めの言葉なんてかけて欲しくない。言葉で心の重荷を減らすことなどできない。女にとって望む答えはいつだってたった一つだけだ。
 たった一つの答えが美琴から得られない白井は、たった一つの答えを携帯電話の向こうに待ち続ける美琴を見つめて、苦笑しながら口を開く。
「お姉様。そのようにケータイで遊んでいらっしゃいますと、そのうち壊れてしまいますわよ?」
「…………えっ? あ、うん。ちょっと手持ち無沙汰でさ」
 美琴は微かに表情をこわばらせ、あははと笑う。そして手の中のカエル型携帯電話に視線を落とし、小さくため息をついた。

 ―――来た。

 白井は呟きを聞き逃さなかった。
 白井の背後で、美琴はベッドに腰掛けたまま携帯電話を親指で操作する電子音がわずかに響く。おそらくはメールを確認しているのだろう。美琴は画面を凝視しているらしく、しばらくは呼吸音さえ途絶えていたが、それからパチン、と携帯電話を二つ折りに畳む音が聞こえた。
「黒子ー? 私先に寝るから。……おやすみー」
 後ろでバサリという掛け布団をめくる音が聞こえて、白井が振り向くと美琴は枕と携帯電話を抱きしめるように丸くなってベッドに横たわっていた。
 白井は学習机の上に置いたノートパソコンの画面に視線を落とすが、画面の内容は頭に入っていなかった。ノートパソコンを開いていたのは元々ポーズで、そこに映る内容には何の興味もない。白井の興味はただ一つ、美琴にのみ向けられていた。そして美琴が携帯電話の向こうで待ち続けた、オンリーワンの答えを持つ相手に。
 白井が美琴を思い続ける限り、いつかは戦う時が来るだろう。ただしその相手がツンツン頭のあの少年とは限らない。白井が敬愛するお姉様自身を敵に回すかも知れない。
 それがいつになるのか、今は分からないが

 ―――女には、負けると分かっていてもドロップキックしなければならない時がある。


 御坂美琴は頭から掛け布団をすっぽりとかぶり、その中で携帯電話を操作して先ほど『彼氏』上条当麻から送信されたメールの内容を確認していた。灯りを遮った掛け布団の中で、液晶画面のバックライトを頼りに文面を読んでいるとそのうち視力が落ちてしまいかねないが、今はそれを気にしている場合ではない。
 上条から送られたメールの内容は至ってシンプルだ。
『明日午後一時三〇分、コンサートホールの前で』たったこれだけだった。これに対し美琴は『遅れないでよね』と返信し、掛け布団をかぶってベッドに横になった。
 デートに誘うにしてはあまりにも味気ない文章だと、美琴は苦笑する。上条に恋人らしさは期待できないから、むしろこれでもよくやったとほめた方が良いのだろう。
(うーん、コンサートが始まる時間が時間だから待ち合わせとしては妥当なんだけど、この時間だとお昼ご飯を一緒に食べるのは無理かなぁ)
 今は春休みで、春休みの宿題が存在しない常盤台中学の学生である美琴は時間が有り余っていた。つまり暇だった。常盤台中学の学生寮は一年中昼食が存在しないので、必然的に美琴は上条の部屋で昼食を作り一緒に食べて、そのまま上条の宿題の面倒を見ていた。
 もちろん白井や初春、佐天と言った友人達との付き合いも欠かしてはいないが

 美琴が上条と付き合っていることを、同室の白井にまだ告げていない。

 初春と佐天には図らずもバレてしまったので口止めしてあるが、白井にはこの話をしていないのだ。察しの良い白井のことだからとっくに知っていると思うのだが、白井から一度としてこの件について切り出されたことはない。
 美琴が話をするまで、白井はきっと知らない振りを続けるだろう。美琴と一緒に騒ぐことはあっても、白井は心のどこかで控えるべき一線をわきまえている。話の流れでついうっかり口を滑らせてしまった、美琴のクローンに関する噂話の時のようにきっとぎりぎりまで堪えるのかもしれない。
 心底、と言う訳ではないが白井は上条をたぶん嫌っている。その理由については考えたくないが、少なくとも美琴には心当たりがある。そんな白井に上条と付き合っていることを話した時、一体何が起こるのか。
 ごめんと言えばいいのか。それとも言葉では済まされない何かが起きるのか。
 白井の優しさに甘えて、美琴はこの問題を棚上げにすることにした。
 今すぐ話して何もかもがどうにかなる訳ではないのだから。
 ともかく、とベッドの中で美琴は思考を切り替える。
 明日は待ちに待った上条との初デートだ。上条が課題の提出を遅らせまくったついででも、立派なデートだ。
 上条の部屋に美琴が行くのもデートと言えばデートだが、二人で待ち合わせてどこかへ行くのはこれが初めて。
 初めてのデートは美琴なりにおしゃれしたかったし、上条から贈られたイヤリングを付けて行きたかったが、常盤台中学は休日も制服着用が規則として定められている。どこで誰が見ているか分からないし、規則はできる限り守ると上条と約束しているので、今回は仕方がない。その分夏に取り返そうと美琴は密かに心に誓う。
 コンサートの開演時刻が午後二時。どれくらい混むのか予想もつかないが、席を確保したり開演前に演奏曲の確認をするなら、開演時刻三〇分前の待ち合わせは妥当だろう。
 ただし、その時間だと上条の部屋で昼食を作って食べて、などとやっていると『待ち合わせ』がしにくい。せっかくのデートなのに二人一緒に部屋を出て待ち合わせの場所に行くなんてあまりにも間抜けだ。
 デートの待ち合わせは男が先に待ち合わせ場所に着いて、女が遅れて『ごっめーん、待ったー?』と言う。これだけは決して外せない。上条には『そんなテンプレに俺達を当てはめるなよ』と言われそうだが、美琴は頭の中の上条に向かって笑顔でこれを封殺した。
(いいじゃない、初めてなんだから)
 恋人同士になっても、美琴にとって上条は掴めない存在だ。だからそばにいてくれる間はわがままを通そうと決めた。どれだけ上条のことを好きでいるか真っ直ぐに伝えようと決めた。そうやって少しでも長く一緒にいて、少しでも上条が美琴のことを心の中に留めるようになってほしい。何度も何度も上条をこの手で抱きしめて、私はアンタのそばにいると伝えたように。
 美琴は最後に『お昼は自分で食べるように』と上条にメールを送信して、今度こそ目を閉じた。
 夜が明けたら、美琴の決戦が始まる。


 歯は何度も磨いた。
 シャンプーもトリートメントもドライヤーのブローも入念に行った。
 鏡の前で目が腫れぼったくなってないか念入りにチェックした。
 ブラウスもスカートもブレザーにも皺は一つもない。
 唇にはリップを塗って、ほんの少しだけ香水を使って

「おっねえっさまーん」

 鏡の前で最後のチェックをしていた美琴の背後から白井黒子が空間移動で突撃してきた。
「くっ、黒子ッ!?」
 白井は美琴を絡め取るように後ろから抱きつくと
「まぁまぁお姉様、これからどちらかへお出かけですの? 今日はいつになくおめかしされていらっしゃいますけれども」
「え? あーいや、良い天気だしぶらーっとね」
 本当のことを切り出せず、美琴はお茶を濁す。
「バイオリンを持ち出されるようですけれども、本日は何か見せる行為(パフォーマンス)でもなされるおつもりですの? 身だしなみを整えて聴衆(オーディエンス)への気配りを怠らないなんてさすがお姉様ですわ! ところで、見せる行為自体は特に問題ありませんけれども、風紀委員の方へご一報いただければ現場整理などお力になれますわよ?」
「いっ、いや、その、腕がなまりそうだしここらでちょろっとバイオリンの練習でもしておこうかなーって、あはは、あはは……だから見せる行為じゃないから私一人で」
「では、わたくしがお供いたしますわ。お姉様、練習でしたら誰か客観的に評価する者がいた方がよろしいのではなくて?」
「よろしくないよろしくない! ちょ、良いから離れなさいよ黒子! アンタはまたそうやって人のどこを触ってんだ離せ馬鹿人の首筋でくんくん匂いを嗅ぐなっ!」
「あらーん? お姉様、新しい香水をお求めになりましたの? この香りは黒子も初めて嗅ぎますの……。お姉様にしてはずいぶんと大人びたチョイスですのね」
「人に抱きついたまま冷静にテイスティングすな。……だから離れろひっつくな暑い暑い暑いから!」
「もう、お姉様ったらいじわるばかりおっしゃって……」
 白井は心の中でハンカチを噛み千切ると意味ありげな笑顔を美琴に向けて
「ところでお姉様、お急ぎになりませんと『練習場所の確保』ができないのでは?」
「……、」
 美琴は一瞬だけ驚いて息を飲むと
「……そ、そうね黒子。うん、私、ちょっと行ってくるから」
 バイオリンケースを片手に、寮を飛び出した。

「……新作の香水に、『練習場所(とのがたのとなり)の確保』……」
 白井は美琴が出て行った出入り口のドアを見つめて
「あまりにもあからさますぎて笑えますわよ、お姉様? わたくしがしつこく『お供する』と申し上げたらどうするおつもりでしたの?」
 白井は一人、哀しく笑う。
 白井は心に決めたことがある。何かを巡って誰かが血を流すような世界から美琴を連れ戻すと。
 これから美琴の向かう場所が戦場ならば白井は体を張ってでも阻止するが、そこが美琴にとっての陽だまりと言うなら話は違う。
 美琴が誰かを愛することと、白井が美琴を愛することは別だ。
 美琴も気づいているかも知れないが、今回は白井が矛を収めた。
 白井は哀しく笑う。美琴の探す陽だまりは自分のそばには見つからないから。
 美琴の笑顔を守るためにほかならぬ美琴と戦わねばならないのか、と。


 バイオリンをホテルのクロークに預けて、ついでに借りた部屋で白井に抱きつかれて乱れた制服をチェックして、待ち合わせのコンサートホール前の広場をのぞいた美琴は
「あれ?」
 ……上条がまだ来ていない。
 ―――いた。
 上条はチケット売場のあたりで何やらごそごそしていた。スムーズに会場の中に入るため、あらかじめチケットを買っていたのだろう。
(へぇ……やるじゃん、彼氏)
 今日の上条の服装はロングスリーブのカットソーの上からプルオーバーシャツを着込み、薄い茶色のチノパンにいつものバッシュと、ようするにいつもの普段着だった。上条はおしゃれに気を遣うような人間ではないが、今日は大学の定期演奏会とはいえクラシックのコンサートなのだから、もうちょっと何とかならなかったのかと美琴は両手で頭を抱えて、そこで見る。
 携帯電話の液晶画面に表示された時刻は一時四〇分。
 ついでに受信メールボックスに一件、上条からのメールが届いていた。
 上条から送信されたメールには『隠れてないでとっとと出てこい』と書かれている。
(うわー、バレてる?)
 ほとんど身を隠す建物がないコンサートホール前の広場で、美琴は待ち合わせた場所からできるだけ遠い位置を選んで上条の様子を伺っていたのだが、最初から上条は美琴の到着に気がついていたらしい。
「………………ごめーん、待ったー? ……痛たっ! いきなりひどいじゃない。何すんのよ!?」
 美琴がわざとらしい笑顔を作りながら上条のそばに駆け寄ると、上条からコツンと頭を小突かれた。
「『待ったー?』じゃねえよ。テメェ、物陰でチョロチョロしてわざとらしく遅れやがって。俺より先に来てて何遊んでんだよ!?」
「……こう言う時は『ううん、俺も今来たとこだから』とか言いなさいよね」
 美琴は小突かれた頭をさすりながら上条を睨む。
「あー、はいはい」
 上条はやれやれといった表情を浮かべて、そっぽを向いたまま美琴にチケットを差し出すと
「……、こう言うのは彼氏が用意しておくんだろ?」
「……良くできました」
 美琴は上条の手からチケットを受け取って、にっこり笑った。

 コンサートの楽しみ方にはいくつかあるが、大きくまとめると楽曲そのものを楽しむか、そこで行われる演奏や演出を主眼に置くかの二つに分かれる。今回の美琴と上条の場合は前者で、しかも上条が提出しそびれた課題のために来ているので、本日の演奏曲の『情報』も必要となる。
 上条はコンサートホール入り口で係員のお姉さんからもらった、いかにも大学のサークルの演奏会なので手抜きですよと言いたげなコピー用紙製のパンフレットを片手にうーんうーんとうなっていた。
 上条がパンフレットを受け取った瞬間鼻の下が伸びた(ように見えた)ので、美琴はすかさず上条の向こう脛を力一杯蹴っ飛ばしておいた。そんな訳で上条は蹴られた足の痛みを気にしながらそこそこ豪華な観客席に腰を下ろし、パンフレットを横に傾けたりひっくり返したりしている。
「……なあ御坂。これ日本語だよな?」
 二つ折りのパンフレットでバタバタ顔をあおぎながらげんなりする上条。
「……それ以外の何に見えるってのよ?」
 上条の手の中からパンフレットを奪って、両手で開いて順に目を通す美琴。
(何だ、ちゃんと日本語じゃない。ドイツ語で書かれてるのかと思ったじゃないの)
 学園都市の学生だけあって、上条の頭の中には能力開発で使用される薬物の知識は歴史年表のように入っているが、ことクラシック音楽となると完全に門外漢だ。ベートーベンと第九ぐらいはおなじみだが、バッハの代表曲を述べよと言われてもピンと来ない。試しに上条に『ラヴェルの「ボレロ」を知っているか』と聞いたら『ボレロってどんなシールだ? 水玉か?』という答えが返ってきた。こんな上条を一人でコンサートに行かせたらちんぷんかんぷん状態で帰ってきて、まともに課題が片付かなかっただろう。
 美琴はパンフレットに書かれている『本日の演奏曲一覧』に目を通す。フルオーケストラなら交響組曲を一曲丸ごとという演奏会もあるが、こちらは初心者でも聞きやすいよう短めの楽曲が選ばれている。バッハの『G線上のアリア』、サン=サーンスの『白鳥』、ヴィヴァルディの『四季』より『春』、ドヴォルザーグの『新世界より』の『第四楽章』など上条でも一度は聞いたことがありそうな楽曲が並んでいた。
 美琴はここで一つの可能性を思い立つ。
「アンタ、あらかじめ言っとくけど」
「……何だ?」
「コンサート中に寝るんじゃないわよ?」
「……、」
 上条からの返事はない。それどころか気まずそうに美琴から視線をそらして、口笛を吹きながらシートの上で足をぶらぶらさせている。
 上条はどうやらおとなしく教室の席について授業をまともに聞く生徒ではないのだろう。下手をすると歴史の時間に『織田信長が織田幕府を作っていたら日本はどうなっていたんですか』などとお馬鹿なことを言って授業を引っかき回しているかも知れない。
 美琴はどっちが子供なんだとツッコみたくなるのを心の中で抑えて
「……ったく。デートの真っ最中に彼女ほったらかしで寝たら電撃で叩き起こすかんね?」
「……あのな、これデートじゃなくて……いやデートかもしんねーけど俺は課題のために来てるんであって」
「デートでも課題でも寝るなっつってんの! ……やっぱり私が来て正解じゃない」
 美琴は上条の左手の甲を軽くつねると、上条の左手の指の間に自分の指を一本ずつ通し、きゅっと軽く握りしめた。いわゆる恋人つなぎだ。
「……アンタが課題のために来てんのは分かってるから、ちょっとくらいはデートっぽくしてよね?」
「はいはい、っと。そう言うお前こそよだれ垂らして寝るんじゃねーぞ?」
「私はよだれなんか垂らさないし寝たりもしないわよ! アンタと一緒にすんなっ!」
「こら、そろそろ始まるからおとなしくしろって」
「…………」
 抗議の代わりに、美琴は上条とつないだ手に少しだけ力を込めた。
 ステージの幕が上がり、演奏者達がそれぞれの席に着く。
 ステージの袖から現れた若い指揮者が中央で客席に向かって一礼し、背中を向けると軽やかにタクトを振って演奏会が始まった。


「……ええっと……ターンタタンタン、じゃなくてタンタタターン、タンタタターン……あれ? 違うな。……ジャーンジャカジャカジャン?」
「……どの曲を真似してるのかわかんないけど、そんなフレーズの曲は一つとしてなかったわね」
 コンサートホールを出た後、上条は片手に持ったパンフレットで曲順を確認しながら口まねで楽曲を再現しようとしているらしいのだが、口から出るメロディがどの曲ともまったく合っていない。子供がテレビアニメを見て主題歌を適当に口ずさんでいるのと同レベルだ。
 美琴は大きくため息をついておでこに手を当てると
「……これは延長戦やった方が良さそうね」
「……延長戦? 延長戦ってまさかデートのか?」
「コンサートの、よ。アンタの頭の中で曲がごっちゃになって感想どころじゃなくなりそうだから、弾いて聞かせるのにバイオリン持ってきてあんのよ。クロークに預けてあるからついて来て」
 美琴は上条と恋人つなぎのままコンサートホールからいちばん近いホテルへ移動する。上条はパンフレット片手に曲の再現に余念がないのか、美琴と指を絡ませていると言うことに気づいていない。
 美琴の斜め後方でズンタタタじゃないズンチャッチャズンチャッチャと謎のメロディが聞こえる。ありゃ、こうじゃなくてこうか? という変な声も一緒だ。
 美琴がホテルのクロークからバイオリンケースを引き取った後も、上条はおかしなメロディで歌い続けている。中学生と高校生らしいお手々をつないだカップルがホテルにやってきて、しかも男の方が変な歌を歌っているので、クロークに詰めていたホテルマンから怪訝そうな表情と抑えきれない苦笑で見送られたことに上条は気づいていない。
「こら、その変な歌ストップ」
 美琴は上条を引きずって歩いていたが、道半ばで足を止める。
「……え?」
 上条はあれいつの間にこんなところまで歩いてきたんだろうとあたりをキョロキョロする。
「アンタの部屋に戻ったら、今日聴いた曲のさわりだけでも弾いてあげるから、無理に曲を思い出そうとすんの止めなさいっての。かえってごっちゃになっちゃうわよ?」
「へ? 弾く? 弾くってもしかして……それ、バイオリンだよな。そういやお前弾けるんだったっけ?」
 上条は美琴が手にしているバイオリンケースを指差して『それいつの間にどっから出したんだ?』と首をひねっている。上条の頭の中でコンサートホールを出てからクロークに立ち寄ったことまでは記憶されていないらしい。
「そうよー。今日ほどやっといて良かったと思ったことはないわ、うん」
「……、お前、弾けたんだ?」
「一応はね。……アンタ、去年の盛夏祭来てたでしょ?」
「盛夏祭って……何だっけ?」
「うちの寮の寮祭。八月の上旬にやったんだけど、アンタ確か……あの小っこいシスターと一緒に来てたじゃない? んで、アンタがあの子とはぐれたって言って、私のステージの裏に来てて……」
「??? ……何か覚えがあるようなないような……?」
「私が出番待ちでテンパってる時に、アンタはたまたま迷い込んだらしくてね。おかげさまでこっちは緊張がほぐれたわよ。アンタ、あの時私のこと、その……綺麗って言ってくれたの覚えてる?」
 上条は小首を傾げて
「……お前いたっけ?」
「いたっつってんでしょ!! バイオリンのソロやったんだから。……覚えてないの? あん時は白のドレスを着てたんだけど」
「……白? ……ステージの裏? 今何か思い出しかけたような…………」
 上条は何だっけ? と首をひねってうんうんうなっていたが
「もしかして、あの綺麗な女の子か? いやー悪りぃ悪りぃ。俺、お前のことあんとき知らなかったから」
「……ということは、アンタはあの時私を私と認識しないで『綺麗』って言ったの?」
「あの…………御坂? 何でお前の周辺の空気が不穏に帯電してんの!?」
「そ・れ・は、アンタがそうやって見ず知らずの女の子にほいほい『綺麗』って言うのがよく分かったからよッ!! 記憶があろうとなかろうと節操なしに声かけやがってこのボンクラがァああああああああああ!!」
「何で? 何で?? 何で俺が怒られなくちゃならないのって痛ったぁ!?」
 美琴と恋人つなぎのまま足を思い切り踏んづけられて、上条は片手に安っぽいコピーのパンフレットを握りしめながら痛みで飛び上がった。
 頼んでないのに課題でデート。今日も上条は踏まれ損の蹴られ損かもしれない。

「……なあ、演奏してた人たちみたいに椅子とかなくて良いのか?」
「良いわよ、あそこまで本格的にやる訳じゃないし」
 ガラステーブルを隅に押しやって空間を確保すると、上条はベッドに腰掛け、美琴はそこから少し離れたところで立ったままバイオリンを鎖骨の上に乗せて構える。
 ここは繊細なお嬢様の住まう女子寮ではなく上条の住むむさ苦しい男子寮で、造りはまんまワンルームマンションだ。よって隣近所の方々には多少の雑音に耳を塞いでもらうことにした。
「全部バイオリンの曲って訳じゃないから、多少違うところはあるけどそこは目をつぶってよね」
「……何がバイオリンの曲じゃないって言うのがもうすでに分かんねえから大丈夫だと思うぞ?」
「私も全部弾けるって訳じゃないけど、弾ける奴は順番に弾いていくからその間にアンタはメモでも何でも取っときなさい」
 上条が深々と頭を下げて
「それでは美琴センセー、よろしくお願いします」
「あいよー。それじゃ一曲目、ヨハン・パッヘルベルの『カノン』からね。耳かっぽじって良く聴きなさい」
 室内の空気が完全に静止するのを待って、美琴は第一バイオリンのパートをなぞるように演奏を始める。美琴も譜面を完璧に覚えている訳ではないが、目の前にいるたった一人の観客のために精神を集中し、音を外さぬよう細心の注意を払って弓を滑らせる。
(あーあ、ホント我ながら馬鹿だなぁ私)
 朝から何度も髪を梳かしたり、新しい香水にチャレンジしたり、上条に念押しして待ち合わせの時間を決めさせたり、白井の追求を振り切ったり。
 あれこれ苦心惨憺してみても、最後にはそんな乙女のいじらしい努力を投げ捨てて、上条の面倒をあれやこれやと見てしまう。こんな自分はもう笑うしかない。
 これのどこがデートなのよと思いつつも、悪い気はしない。
 美琴の目の前には、美琴が一番愛する人がいて、美琴の演奏に耳を傾けてくれる。
 上条は美琴のそばにいる。今はどこにも行かずに隣で笑っている。
 これはたった一人による、たった一人のための独奏会。
 美琴は上条ただ一人のために、思いを込めてバイオリンを弾き続ける。


「……っと。だいたいこんなもんかなー」
 ところどころ怪しい部分もあったが弾ける曲は一通り弾き終えて、美琴は肩からバイオリンを下ろすと深くため息をついた。
「お疲れさん。ひとまず汗拭けよ」
 上条が放ってよこすタオルを受け取って、美琴は額の汗を拭う。緊張と集中から解放されて、美琴は表情とバイオリンの弦を緩めた。
「お前ホントすげーな。何であんなに弾けんだよ?」
「……学校の授業でやってるからね。ちょっと怪しい部分はあったし、今日のコンサートの演奏とは比べられないほどお粗末だけど、アンタの課題の参考になればそれで良いわ」
「本当にさんきゅーな、御坂。……つか、コンサート行かないで最初っから御坂に弾いてもらった方が良かったような……?」
 美琴は上条がコップに注いで差し出すオレンジジュースを飲みながら
「馬鹿な事言ってないの」
 上条の頭をペチッとはたく。
「……まぁ、何にしてもアンタが喜んでくれて良かったわよ。バイオリン持ってきた甲斐があったってもんね」
 上条はレポート用紙に何かをせっせと書きながら
「昨日と言い今日と言い、御坂にはもう頭が上がんねえよ」
 ぺこりと美琴に向かって頭を下げた。上条は素直に感動しているらしい。
「んで、アンタ気に入った曲はあった?」
「ああ。えっと……『白鳥』って曲が良かったな」
 上条はパンフレットをめくり、その中の一行を指差した。
「あれか……本当はチェロの曲なんでバイオリンで弾くと甲高くなっちゃって趣に欠けるけどね」
「そうか? 俺はあれ、御坂に似合うと思ったけど」
 上条の唐突な言葉に
「何で?」
「えっと……小萌先生に聞いたんだよ。『御坂は低能力者(レベル1)から超能力者(レベル5)まで努力で登り詰めた』って。白鳥ってあれだろ? 水上では優雅なのに、水面下では必死に水を掻いてますって。曲も綺麗だし、白鳥はまさに努力の跡を気づかせないお前の一面にはぴったりだなってさ」
「……私はただ、目の前にハードルがあったら超えなきゃ気が済まなかっただけ。努力とかそう言うのとは少し違うかもね。でも、そう言われて悪い気はしないかな」
 上条の言葉に、美琴は気恥ずかしそうな笑いを返した。
 上条は美琴を白鳥と言った。その譬えはあながち外れてはいない。
 上条の前ではわがままだけど物わかりの良い彼女を演じ、上条のいないところで心を乱す。水面下でもがくように上条の愛を求め、上辺では面倒見良く振舞う。
 滑稽で、愚かで、見栄っ張りの白鳥。
 こんなの、もう笑うしかない。
「おっと、そうだった忘れてた」
「……何?」
「御坂先生、課題に付き合っていただきありがとうございました!」
 上条は美琴に向かって深々と一礼し、顔を上げると
「お前にはいろいろ教わってばかりで高校生形無しだな」
 上条は苦笑する。
「私もアンタにはいろいろ教わってるわよ?」
「何か教えたっけ?」
「……いろいろ、ね」
 上条と出会って、美琴は誰かを深く愛することの苦しさを知った。自分がどれだけ上条を好きでいるかを知った。自分と上条の関係に思い悩み、それでも上条のそばにいたいと願う、自分の惨めで醜くわがままで、それでも譲れない『芯』を知った。
 上条が美琴から教わったというのなら、美琴は上条から自分について多くのことを学んだと言っても良い。
 きっとそれは、上条でなければ知る事のなかった、自分の中に眠る真実の自分。
「だからアンタはんな事気にしなくて良いわよ」
 美琴は笑顔で上条に告げた。
 白鳥の優雅さで、裏に潜む身勝手な苦しみを微塵も感じさせることもなく。

「そういや御坂。お前、その……何かつけてるか?」
 美琴の前で上条が鼻をひくつかせ、怪訝な表情を浮かべる。
「何かって何?」
「えーっと……香水ってのか? 正月の時と何か匂いが違うみたいだけどよ」
「……いつ気づいたの?」
「コンサートホール前で待ち合わせた時、かな」
 美琴は上条の頭をペチッとはたいて
「……言うのが遅いわよ」
「……そ、そっか。悪りぃ」
「で、似合う?」
 上条の前にずい、と顔を近づける。
「……良く分かんねえ。けど……嫌いじゃねえ、かな」
「……あとは?」
「あとは……そうだな。今度どっか行こうぜ。今日は結局デートじゃなくなっちまったし」
 美琴は頬を膨らませると
「……ちゃんと誘ってよね?」
「……また待ち合わせんのか?」
 上条はげんなりとした表情を浮かべる。
「そうよー。デートは男が先に待ち合わせ場所に来て、んで女が遅れて行くの。私が『待った?』って聞いたらアンタは『今来たところ』って答えんのよ。いい?」
 嘯く美琴に、上条は頭をガリガリとかきながら
「……次まで覚えてたら、付き合ってやるよ……」
「それくらい覚えときなさい」
 美琴はずびし、と上条にふざけ半分でチョップした。
 上条当麻は相変わらず最低の彼氏だ。
 デートの誘いは素っ気ないし女の子の密かな努力に気づいてくれない。美琴が待ち合わせに遅れても会話を合わせてくれないし、ようやく香水に気づいたと思ったら言い出すのが遅すぎる。
 初デートはいつの間にか課題一辺倒に終わってしまったけれど、次のデートの約束が取り付けられただけマシだと思うことにした。
 この彼氏は恋人らしいことが期待できないのだから。
 次のデートを夢に見て、美琴は上条の手を取ると、少しだけ強く握りしめた。


人気記事ランキング
最近更新されたページ

atwikiでよく見られているWikiのランキングです。新しい情報を発見してみよう!

新規Wikiランキング

最近作成されたWikiのアクセスランキングです。見るだけでなく加筆してみよう!