この映画は初め試練のように感じられた。なぜなら、ここまで何も起こらない映画に直面したのが初めてだったからではないだろうか。物語を練った映画は多いしそれがどんなに門きり型であろうと、日常の繰り返しに慣れ親しんだ身体へは安心感すら抱く記号となるのだ。(物語にとって)無意味なシーンでも、目で追う限り何かを繋ごうとする自分がいる。それが映画を見るときの基本的な了解事項であるかのように。
例えば是枝裕和監督の作品にはドキュメンタリー的演出が多い。一見役者の「素」な姿を捉えたかのような場面は、全体が物語りというベースの中にあるからこそ感じられるのだ。さらにイラン映画のアッバス・キアロスタミ監督作品などは、被写体がドキュメンタリー調に見えればなおのこと、その周到さがきわだつような、作りこまれた物語を感じる。
一方、この映画にはそのどちらも見当たらない。オムニバスのように断片が折り重なっていく様は、アルトマンのショートカッツを思い起こさせるが、リンクされた物語という全体は見つからない。
この探索を続ける限り、いつまでたっても試練から逃れることは出来なかった。けれど「永遠のハバナ」というタイトルが示すように、それは永遠の一部を切り取っただけなのだ。そんな了解を見つけてからはむしろ心地よさで満たされていくようだった。
映し出された人物たちは、みな自分の生活を見せている。どこか意識したような素振りでそれを演じているのだ。時間は順送りに進む。きっと夜が明けて、この映画も終わるのだろう。このまま見守ればよいのだ、朝日を前にした時のように。
しかしラスト、その了解が裏切られる。人物たちが語られはじめるのだ。素性と夢が・・。とたんに彼らを取り巻く日常へ物語りが生まれはじめる。それはどんな門きり型よりもありきたりで、まるで自分のルーツを前にしたかのような、大きな安堵感でいっぱいにさせられるのだった。2005-03-19/k.m
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