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建築的反省 - (2008/05/20 (火) 01:51:39) の編集履歴(バックアップ)


建築的反省

  • 新建築6月号/丸山洋志氏


カテゴリー-建築

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青木さん、伊東さん、妹島さんなどの、メディアへ多く取り上げられる建築家。彼らへ共通にみられる言葉。「自由な感覚」「柔らかな境界」などにうんざりだ、というちょっとショッキングな意見。もちろん、それらの分かり易さには、なにか見落としている視点、あるいは履き違えた感覚がつきまとうものなのかもしれない。

「分かる」ということ、理解とはものごとの分割と整理からはじまる。しかしこれは裏返せば、思考がときに誤った分割から出発し、したがって初めから終わりまで、徹頭徹尾誤ったまま理解だけが進むことがある。

つかむこと、記憶の操作/東浩紀氏の文章を思い浮かべる。

最近のフラットで無機質な、それでいて肌に合う感覚をまとったそれらの建築。

時代にあっているのは否定できずとも、あたかも近代批判が、それによって成立することは、あり得ないということか。何かを乗り越えたかの、新しい感覚の覚醒を促す建築とは言えないということなのか。

2000.06.06/k.m

追記メモ
思想史的文脈から眺められるような見方が、それを仕事としている人のリアリティーならば、そこからみた「フィクション」である現実のなかで、知覚し意識していく我々のような一般的感覚がとらえたリアリティーとは。
そして、あやまった文脈からつくられた次なる「フィクション」が、明日のリアリティーとして既に我々へ準備された状況とは。さらに、それらで構築されたマスメディア、社会、世間などのメタ的な方向性を「時代性」というパッケージでプレゼされ商品となっていく現状とは。

建築家は、モノ造りに関して常に既成の認識を疑っていくことから、自らの主体性を構築していく。そのとき立つ位置が個人の存在的リアルならば、そこを疑うことはやはり難しい。
ただ、どの段階でよりリアルなパッケージを組むかのことで、そこを深めていくことへは、あまり執着出来ないのでは。その時の、そのパッケージがリアルならば、そこを追求していくことで、存在的リアルができ、いま求められているのは、そういった意味での、より身近なリアルなんだと思う。

どうやら、リアルとフィクションというように、2つへ分けきれないのが現状なのだということは感じる。全てがフィクションならば、その中での価値判断、引きつけられる「度合い」を示すものが、そのまま従来のリアルに取って代わるということなのではないだろうか。

00.06.08/k.m

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