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路上 - (2009/03/12 (木) 14:29:31) の編集履歴(バックアップ)


路上

  • ジャック・ケルアック (著)
  • 福田 稔 (翻訳)
  • 河出文庫


「いいかね、諸君、われわれにはあらゆることがすばらしく、世の中のことは何もくよくよすることはない。本当にくよくよすることは何もないとおれたちが理解することはどういう意味をもつかを悟らねばならないよ。おれは間違っているかい?」(本文引用)

アメリカ大陸を何往復もするサル・パラダイス(主人公)の軌跡を描きとめた小説。ディーン・モリアーティ(親友)と大半を共にする旅。20代前半の二人はトリツカレたように移動を繰り返し、その場ごとにパーティやドラッグに明け暮れ、現地で働き小金を貯めまた移動、時に伯母から送金させまた移動する。手段もヒッチハイクからバス、ピックアップトラック、旅行案内所が斡旋するガス代負担乗車、または自分の車、代行運転する車など様々だ。

ディーンが出かけてきたのは、まったく意味のない事情によるものだったが、同時に、僕が彼と出かけてきたのもまったく何という理由もなかった。(本文引用)

ディーン・モリアーティは躁鬱でいうところの「躁」の状態で、常に薬が効いたようなハイテンション。なんども「気狂い」という言葉が登場する。サル・パラダイスは彼に惹かれっぱなしで、周囲が止めても一切聞かず離さない。二人は実在人物がモデルで、知識人に囲われたコロンビア大学生のケルアックに対して自由奔放なニール・キャサディ。1950年代のアメリカや、ビートジェネエーションという時代的背景など、この小説に関するカルチャー体系はそれこそ膨大だけれど、聞きかじった程度にしか知らなくっても、まったく意識しなくともこの小説は楽しめると思う。

ぼくが彼のこと、彼のなやみについて考えて数時間を過ごしたことが彼に分かったとき、それはおそらく二人の友情の軸点だったのだろう。彼はこの友情の軸点を自分のひどく巻きこまれ苦しめられている精神的カテゴリーの中に置こうとつとめていた。(本文引用)

知識人に囲まれた生活を退屈と思い「気狂い」じみたディーン・モリアーティに惹かれ、ニューヨークという地に住みながらも希望の地として西部や中部へ憧れを抱き、幽霊のように放浪する浮浪者を車から眺めつつも彼の中へ神秘的な魅力を感じ、白人であることの幻滅感と黒人になりたいと嘆く羨望に揺れ、行きついたメキシコを路上の果ての魔法の国とみなすファンタジー的な視点。不安定な内面を抱えながら弱く叫ぶケルアックの言葉は感覚的なリズムを放ち、長編小説ならではのドライブ感と共にだんだんと疾走していく。

一つのまぼろしがすたこらと逃げ、ぼく自身は一枚の板に向かって急いでいる。その板からはすべての天使がダイヴィングして、未創造の真空の聖なる空間の中に飛びこんで行った・・・ぼくはすでに死んで、何回となく生まれ変わってきているのだが、自分ではそれを憶えていないことに気がついた。(本文引用)

ケルアックのナイーブさは、一見すると「周縁」に対するエキゾティシズムや植民地主義言説として聞こえるようでもある。けれどフランス系カナダ人という民族性は、有色人種でも米国中産階級の白人でもない、様々なカテゴリーの間に彼を宙吊りさせているようだ。一方で彼は白人であったがために、そのレトリックによって文化的・社会的な主流の中にもいたし、ビート世代のカリスマ的存在でもあった。

すると、ぼくの前には、大きく膨らんだわがアメリカ大陸の、むき出しの巨体が横たわっていた。はるか彼方のどこかでは、陰うつな狂気じみたニューヨークがもうもうとした埃と褐色の蒸気を吐きだしているのだ。東部には、褐色で神聖なものがなにかある。(本文引用)

広大な土地、他民族国家、人種、民族性、階級、ジェンダーの問題。アメリカは文化だけでなく現代世界の抱える問題を常に先取りし、今も抜け出せない未来像を提示する。ロードムービが与える解放感やビート文学の疾走感は、こういった社会の生み出す宿命と翻弄される個人の間を逃走する身体へ、移動の与えるドライブが共鳴するさまを感じ取るからなんだと思った。

ぼくは、地下鉄の入口に立って、美しい長い葉巻の吸いかけを勇気を出して拾いあげようとしたが、かがみこむたびに群集に押されてついに踏みつけられてしまった。バスで家に帰る金もなかった。(本文引用)2009-03-08/k.m

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カテゴリー-小説ロードムービー