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最近のノート - (2009/03/12 (木) 16:10:40) のソース

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**路上
&amazon(4309460062)
-ジャック・ケルアック (著)
-福田 稔 (翻訳) 
-河出文庫
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&italic(){「いいかね、諸君、われわれにはあらゆることがすばらしく、世の中のことは何もくよくよすることはない。本当にくよくよすることは何もないとおれたちが理解することはどういう意味をもつかを悟らねばならないよ。おれは間違っているかい?」(本文引用)}

アメリカ大陸を何往復もするサル・パラダイス(主人公)の軌跡を描きとめた小説。ディーン・モリアーティ(親友)と大半を共にする旅。20代前半の二人はトリツカレたように移動を繰り返し、その場ごとにパーティやドラッグに明け暮れ、現地で働き小金を貯めまた移動、時に伯母から送金させまた移動する。手段もヒッチハイクからバス、ピックアップトラック、旅行案内所が斡旋するガス代負担乗車、または自分の車、代行運転する車など様々だ。

&italic(){ディーンが出かけてきたのは、まったく意味のない事情によるものだったが、同時に、僕が彼と出かけてきたのもまったく何という理由もなかった。(本文引用)}

ディーン・モリアーティは躁鬱でいうところの「躁」の状態で、常に薬が効いたようなハイテンション。なんども「気狂い」という言葉が登場する。サル・パラダイスは彼に惹かれっぱなしで、周囲が止めても一切聞かず離さない。二人は実在人物がモデルで、知識人に囲われたコロンビア大学生のケルアックに対して自由奔放なニール・キャサディ。1950年代のアメリカや、ビートジェネエーションという時代的背景など、この小説に関するカルチャー体系はそれこそ膨大だけれど、聞きかじった程度にしか知らなくっても、まったく意識しなくともこの小説は楽しめると思う。

&italic(){ぼくが彼のこと、彼のなやみについて考えて数時間を過ごしたことが彼に分かったとき、それはおそらく二人の友情の軸点だったのだろう。彼はこの友情の軸点を自分のひどく巻きこまれ苦しめられている精神的カテゴリーの中に置こうとつとめていた。(本文引用)}

知識人に囲まれた生活を退屈と思い「気狂い」じみたディーン・モリアーティに惹かれ、ニューヨークという地に住みながらも希望の地として西部や中部へ憧れを抱き、幽霊のように放浪する浮浪者を車から眺めつつも彼の中へ神秘的な魅力を感じ、白人であることの幻滅感と黒人になりたいと嘆く羨望に揺れ、行きついたメキシコを路上の果ての魔法の国とみなすファンタジー的な視点。不安定な内面を抱えながら弱く叫ぶケルアックの言葉は感覚的なリズムを放ち、長編小説ならではのドライブ感と共にだんだんと疾走していく。

&italic(){一つのまぼろしがすたこらと逃げ、ぼく自身は一枚の板に向かって急いでいる。その板からはすべての天使がダイヴィングして、未創造の真空の聖なる空間の中に飛びこんで行った・・・ぼくはすでに死んで、何回となく生まれ変わってきているのだが、自分ではそれを憶えていないことに気がついた。(本文引用)}

ケルアックのナイーブさは、一見すると「周縁」に対するエキゾティシズムや植民地主義言説として聞こえるようでもある。けれどフランス系カナダ人という民族性は、有色人種でも米国中産階級の白人でもない、様々なカテゴリーの間に彼を宙吊りさせているようだ。一方で彼は白人であったがために、そのレトリックによって文化的・社会的な主流の中にもいたし、ビート世代のカリスマ的存在でもあった。

&italic(){すると、ぼくの前には、大きく膨らんだわがアメリカ大陸の、むき出しの巨体が横たわっていた。はるか彼方のどこかでは、陰うつな狂気じみたニューヨークがもうもうとした埃と褐色の蒸気を吐きだしているのだ。東部には、褐色で神聖なものがなにかある。(本文引用)}

広大な土地、他民族国家、人種、民族性、階級、ジェンダーの問題。アメリカは文化だけでなく現代世界の抱える問題を常に先取りし、今も抜け出せない未来像を提示する。ロードムービが与える解放感やビート文学の疾走感は、こういった社会の生み出す宿命と翻弄される個人の間を逃走する身体へ、移動の与えるドライブが共鳴するさまを感じ取るからなんだと思った。

&italic(){ぼくは、地下鉄の入口に立って、美しい長い葉巻の吸いかけを勇気を出して拾いあげようとしたが、かがみこむたびに群集に押されてついに踏みつけられてしまった。バスで家に帰る金もなかった。(本文引用)}2009-03-08/k.m 


**ランドスケープ 柴田敏雄展 

#image(http://k.yimg.jp/images/newgetlocal/s/local/pia/10004720.jpg)

-会場:東京都写真美術館 
-会期:2008年12月13日(土)→2009年2月8日(日) 
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美術館にはよくある「友の会」というシステムがあって、今回1400人程度の会員から事前希望により100人に向けてイベントが開かれた。学芸員と柴田敏雄自らによる展示案内。公園で超望遠レンズを装備して野鳥を撮影してそうな老人から、友人たちをスナップしていそうな美術系の学生まで幅広い層が集まっていた。 人数制限のため、とても落ち着いて話が聞けてよい。 

安保闘争の頃、東京芸術大学の油絵学生だった柴田さんは、やがてベルギーの王立アカデミーで写真を始める。1992年・木村伊兵衛賞受賞、モノクロにこだわっていたが、5年前ほどからカラーを始めたという。大型8×10カメラを使い、精密なまでに細部を表現された写真は、ダムやコンクリートに覆われた造成地など人工的に変容された風景が多く、トリミングがとても絞られているせいで抽象的な絵画にも見え、日本的な風土を捉えているのにどこか普遍的でもあり、そんな作風が海外でも注目されているようだ(以下、メモは取っていないので本人の言葉は記憶に頼っています)。 

油絵画家を目指していた点、アカデミーでの写真学、その後のモノクロへのこだわりなど、話を聞いたせいか、柴田さんの写真には一品作品としての重みが強く感じられた。例えば、モノクロに関しての言及。「モノクロは諧調の差異がとても重要で、この赤い橋のような写真はカラーを始めていなければ撮っていなかった」、「はじめに小さい印画紙へ焼き、次に大きくする段階で選定を行う、最終的に引き延ばす写真を選ぶにはあえて撮影から数か月、数年と、時間を置く」。一方カラーに関して、「カラーは焼き方へこだわらず、あくまでも見たままに表現されるようにしている」「色を重ねたりなどは一切行わない」。 

どうやら、写真家にとって手作業で画を焼き付けていく過程とは、特別で不可欠な時間なんだと思った。「写真をはじめたきっかけは、誰でも何処でも出来る気軽さ」と言ってはいるが、一方で「デジタルに移行する気持ちはない」というあたりに、写真という作品に内蔵された、様々な時間・工程を愛しむ姿勢を感じた。直接現地へおもむくフィールドワーク、シャッターを押さないとはじまらない狩猟性、撮影から作品評価へとクールダウンさせるための時間、現像という編集プロセス。写真作品として、世の中へ出てくるまでに行われる過程を思い、再度作品を見て回った。 

「海外で撮る写真は観光としての視点を避けられない」「文化の背景を知っている日本へ戻って先入観のない写真を撮りたかった」、「稲穂の連続した風景は、認識され過ぎている」「この写真は稲穂のリズミカルな点を見せたかった」これらの言葉からは、かつて自分の中で、写真を単なる広告や新聞のメッセージ媒体としか感じられなかった時期から、作品として自立していく認識の変化を思い出した。撮る側と同じような問題意識を持って写真を見ることはとても楽しい。2008-12-15/k.m


**アフタースクール
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-脚本・監督:内田けんじ 
-出演:大泉洋/佐々木蔵之介/堺雅人/常盤貴子/田畑智子 他 
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以前人にすすめられて劇場まで見に行った『運命じゃない人』は確かに面白かった。結局あれからカンヌ国際映画祭4部門を受賞してしまった。あの映画は『メメント』のような驚きで、脚本の練り込まれた秀逸さがあった。この『アフタースクール』にも同様な面白みがある。大作にはほとんどなく、中作でも最近少ないけれど、やはり監督が脚本を書いている映画に間違いはない。けれど、2作に通じる構成の巧みさ、後半へ向かうほど驚きの続く展開、いくつかの話が繋がっていく爽快さ、これらに隠れて実は、映画ならではの迫力が物足りない気もする。でも次回作が楽しみ。2008-12-11/k.m


**ザ・マジックアワー
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-監督:三谷幸喜 
-出演者:佐藤浩市 、 妻夫木聡 、 深津絵里 
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いつものようにたくさん笑えて、登場人物が多いのにすんなり分かりやすくって、きっと配役は「彼じゃなくても成功する」と思わせる脚本の確かさがあって、その上でキャスティングも徹底的に練られていて、でもちょい役でこの大物はいらないよ的な大げさ感は決定者の多さによるものか、とか。 

それ自身はすごいレベルの「お約束」積み重ね状態だけれど、「おいおい、こんなのありか」的な、どこかへ毒のような、安心するだけではない攻めの演出というか、映画史として重要な場面というか、筋道とは関係のない不可解な迫力というか、理解に苦しむけれど好きな感じとか、そんなシーンが欲しかったけれど。 

治安や食の安全を脅かされる、こんな世の中だから。安心・安全なギャング映画。2008-12-11/k.m


**終着の浜辺
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-J・G バラード (著)
-伊藤 哲 (翻訳) 

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変革をとなえ、晴々しく新大統領となった09年。ドルを基軸とした国際通貨制度は遂に崩壊すると言われはじめている。歴史的大統領の誕生を囲む世界的な祝賀ムード。通貨基軸破綻による米英の急速な弱体化と世界の不安定化。そして戦争や暴動の勃発。

両極端の言説がうごめく師走ムードの中、買ったまますっかり放置していたJ・Gバラードの本を手に取った。いくつもの短編に描かれている終末思想。来年への不安を冷たいフィクションの中へ引き込んでいく吸引力と共に凍結したい気分で読む。

気がつくと主人公たちは悲劇的な世界の中にいて、緻密な描写で積み上がっていく終末的空間はみるみるとこちら側まで覆い尽くしていく。けれど中心に居る登場人物たちは誰もそこから逃げ出そうとはせず、やがて同調するように破綻していく世界を突き進んでいく。

それは意識的に溶け込んでいるようでもあり、逃げ出せないことすら気づくことなく没入していくようでもある。しかも必ず非・破綻世界とのパイプは繋がっていて、救済者だったり、常識人が何らかの抵抗を促す場面がある。

それでも主人公たちは終末へ魅了されるかのように、後戻りできない世界を進む。まるでそこだけが楽園であるかのように。これほど魅惑を与える出来事が今、現実に起こりつつあるのではないか。そんな危険な思考に溺れそうになってしまう。2008-12-09/k.m

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