「ID:z6.qAfUo氏:彼方より、此方のしあわせを願うあなたへ」の編集履歴(バックアップ)一覧に戻る
でも、なんで急にかなたのことを?
わたし、おかあさんのこと、よく知らないし。
「……こなた、おかあさんいなくて、さびしいか?」
「いやいや、そんなしんみりされても困るよ。おかあさんの話題出したことに深い意味ないから。
おとうさんもゆーちゃんもいるしね、さびしいと思ったことはないよ」
おとうさんの静かな問いに明るく答える。「そうか」と、ひとこと、おとうさんは笑った。
やや、沈黙。それは重くもない、気まずくもない、言葉が不要な静かな空気。おとうさんが、こころのなかでおかあさんに笑いかけているのが容易く見てとれる。
「まあこんな言い方するのもアレだけど、知らないひとにさびしいもなにもないっていうのが本音なんだけどね~」
そんな雰囲気がむずがゆくて、わたしはそれをぶち壊した。
「えぇ~!?」
空気読めよこなたぁ~、とさめざめ涙を流しながら、おとうさんはわたしにすり寄ってくる。
「いや、ほんとのことだし」
もちろん娘として、母を悼むきもちは当然持っている。もちろん娘として、おとうさんがおかあさんとの夫婦のおもいでを大切にしてることを喜ばしく思っている。でなければわたし自身、おかあさんに線香をあげたりなんかしない。
ただ、わたしが母親がいなくても特に不便を感じずに育って、そしていまさら母親という存在をなにも必要だと感じていないというだけだ。
そしてそれは―――やっぱり、おとうさんの愛情のたまものなのだと思う。
「……まあ、なんだな、こなた。この機会だから言うけど、おれより先に死なないでおくれよ」
「はいはい、そんな気はさらさら無いよ」
―――わたしが先に死んだあとのおとうさんなんて、想像するまでもなくやばい。
「かなたは、若くして逝ってしまったけれど……。最期は"しあわせだったよ"って笑っていたよ」
―――そうだね。おかあさんがあなたからしあわせをもらっていたように、きっとわたしも、あなたからしあわせをもらっているんだね。
「遺されたほうはそれでもさびしいものだけど」
―――わたしには、遺されたあなたのきもちをほんとうの意味でわかってあげることはできないから。
「おれも最期はそう在りたいもんだなあ」
―――あなたがわたしを遺して逝く日まで。そしてあなたが逝ったあとも、きっとわたしはのんびり生き続けていく。
「でも最期に笑う死に方って、おとうさんどんなの考えてるの?」
―――もしもわたしが、こんな我ながら殊勝なことを考えてるなんて知ったら、あなたは泣いて喜ぶんだろうな。
「そうだなぁ……」
でも―――
「萌え死に、とか」
……でも、このきもちを表に出すなんてことは、未来永劫ぜったいにないんだろうねー。
「まったく……、いつも思うけど、おかあさんはこんなオジさんのどこに惚れたんだろう」
「うっ……、いつも思うけど、こなたは手厳しいよなあ」
母親には関心はないけれど、泉かなたという故人への興味は普段からあった。
だけど、おとうさんにおかあさんの人物像をまじめに尋ねるつもりはない。おとうさんの偏愛フィルター越しの泉かなた像、わたしが知るのはそれでじゅうぶん。
「じゃあもうわたし部屋戻るよ? ゲーム途中だし」
「あ、ちょっと待った。すこしここで待っててくれ」
リビングを出ようとするわたしを引き留め、逆におとうさんが私室へと戻っていった。なにか物を取りに行ったらしい。
唐突な父の行動、リビングにひとり残るわたし。突然訪れたひとりきりの静寂、母の遺影に視線を移した。肩をすくめて微笑んでみせる。しょーがないオジさんだね。
線香をあげる。そっとまぶたを閉じた。澄ました耳には虫の澄んだ鳴き声。静寂の、音。
神妙な――でもそれは故人を偲ぶきもちではなく、かっこつけてみただけのきもちが多分に含まれた、きっとばちあたりなものだったけれど――心もちで母に語りかける。
特別な祈りはなにもない。ただ―――父娘そろってマイペースで、それなりに、問題なくやっています、とだけ。
心のなかで、そう思ってみただけ。
それで、終わり。
目を開ける。写真のおかあさんの表情は当然なにも変わらない。だけれど今日に限って、なんの反応もないことがさびしいと思ってしまうのは、やっぱりおかあさんの話をしたせいだろうか。
いまのわたしたちを、おかあさんにみせてあげたいと思ってしまう。みていてくれていたら、いいなと思ってしまう―――
虫鳴りが止んだ。花擦れの音を引き連れて、風がそよぎこんできた。線香の煙が揺れた。
「―――、―――?」
奇妙な感覚。かすかな違和、誰かがあいさつもなく勝手に玄関を開けたことを察したときの、あの感じ。
足音が近づいてくる、これはおとうさんの音だ。カメラを手に携えていたおとうさんを視界に入れて、わたしは息をのんだ。
「……おとうさん、玄関開けた?」
「ん? なんのことだ?」
「…………………………いや、なんでもない。気のせいだね」
―――そう、気のせいに決まっている。
おとうさんのうしろにおかあさんが立っているように見えるなんて、それはもちろん気のせいに決まっているさ―――!!
わたしたちを眺めているおかあさんの姿。見ないように目を伏せるも、チラチラと伺ってしまいそうな自分を全力で押さえつける。
わたしにひっついてポーズをとるおとうさんがうっとーしい、暑苦しい。空気読め。娘の都合を考えれ。おかあさんがみてる。呆れ顔。でもおとうさんはおかあさんが見えていないらしい。どうすりゃいいのさこの状況。心臓がだんだんだんだんうるさい。
足で突っぱねておとうさんを引き剥がした。おかあさんに視線を向けてしまう。ハタと目があった。反射的に目を伏せた。
苦笑していたおかあさんの表情が、あら? と疑問の色を浮かべる。わたしに向かって手を振った。どうしろと。振り返せとでもいうのだろうか―――と、疑問に思ってしまったのがまずかった。ますますわたしの視線はおかあさんに釘付けになってしまったから。
そんなわたしたちをよそに、おとうさんはマイペース。
「抱っこした感じがだんだんかなたに似てきてドキドキするなー」
「そんな、危険な発言を堂々としないよーに……」
おかあさんが頭を抱える。おかあさん、苦労してたんだネ……。わたしも頭を抱える。わたしの苦悩はおとうさんの変態発言のみならず、おかあさんの幻で10割り増しだけれど。
―――よし、順応してきた。
抱えた頭を上げる。夫婦のトンデモ現象に驚愕しっぱなしであるこの状態に慣れてきた。落ち着きを取り戻し――開き直り――つつある自分を自覚する。おかあさんの存在を認識していることが当人にバレたいま、失うものはなにもない!
「……さっきも聞いたけどさあ、なんでおかあさんはおとうさんに惚れたの?」
動揺が胸にしぼんでいく。わたしは平然とおとうさんと会話をつなげる。おかあさんが見ていたいのは、きっといつものおとうさんだと思うから。
「かなたは勘が鋭かったから、見抜いてたんだよ、ダメ人間なおれが唯一絶対の自信を持ってたトコロを」
「絶対の自信ー?」
それは是非とも聞きたいね。おかあさんの前で、言ってほしい。
「―――オレが、世界中でいちばんかなたをあいしてるってことだよ」
質問をしておいて、返ってきた答えにわたしは反応しない。それを忘れて、おかあさんの反応ばかりを伺っていた。
そこには、おとうさんの言葉を抱きしめるようにして、くちもとにほほえみを浮かべているおかあさんの姿。
生きているわたしたちと、死んでいるおかあさん。わたしたちに、自分自身に、なにを思っているのだろう。
しあわせを抱きしめるおかあさんをみつめていると、やがておかあさんもわたしの視線に気づく。からかうように、ニラニラと生温い眼差しを送ってみた。
顔を真っ赤にするおかあさんの姿に、わたしは逆に自分のペースを取り戻す。
「あー……、こなた? なんで黙り続けるんだ? おとうさんだんだん恥ずかしくなってきちゃったよ~」
「いやいや、おとうさんはよくやったよ~。さ、写真撮ろう写真。とびっきりの笑顔で写ってあげるよ」
顔を真っ赤にするおとうさんの姿に、わたしの気分がさらに浮きたつ。
「え? おい?」
「いいからはやくはやく」
不可解なわたしの態度に混乱するおとうさんを強引に押しきる。カメラの準備。おかあさんに向かってちいさく手招きした。いっしょに写ろう。
「よーし、いいかー?」
「あー待って待ってちょっと待って」
とことことわたしたちの後ろへ回るおかあさんと笑みを交わしあう。
夫婦がそろう。親娘がそろう。それを奇跡だとか一生一度の機会だとか、そんな思いはぜんぜん浮かばない。自然に、あたりまえに、一緒にフレームに収まるわたしたち。
「うん、いいよ~」
三人で、シャッターが切られる音を聞いた。
「―――写真も撮ったし、ゆーちゃんもそろそろお風呂あがるだろうし、わたしもう戻るね」
「いや写真てこれ」
「消したらダメだからねそれ、アルバムにちゃんと残しておいて」
ほんとうなら、おかあさんの隣に並べたいけれど。
「こなた……?」
「おねがい」
「……わかった」
理由を深く聞かず、納得してくれるおとうさんにこころのなかで感謝する。
リビングを出る際に、わたしは言った。
「部屋戻る前にちょっと外の空気吸ってくる」
外は虫鳴りを取り戻していた。ぶんぶんと頭を振って顔を上げる。夜の中におかあさんの姿を映す。
明るいリビングではわからなかった、おかあさんを包むほんの少しの白いひかり。存在感は幽かに、闇にのびる細い腕は白く。一歩の動作のたびに薄衣がはためいていた。
微笑でわたしをみつめる母の姿に、わたしはなにも言葉を思いつけなかった。
自分はあまり母へ関心をもっていないタチだと思っていたのに。いざこうしてふたりきりで向かい合うと、なんでか、なにも言えない。
「ごめんね。写真、写れなかった」
「……いや……いいよ、写真くらい……。いいオチが、ついたと思うよ」
はじめて聞くおかあさんの声は、心臓を跳ね上げる単純な衝撃。わたしの胸がうれしさとせつなさと驚きにごちゃごちゃにかき混ぜられる。
ほんとうはどれだけ、わたしは母と一緒に写る写真を楽しみにしていたのだろう?
「わたしのこと、怖がらないのね」
「おかあさんだもん。怖くはない、よ……」
会話をつなげるたびに、なんでか、わたしの目に涙が溜まっていく。
「……こなた」
名前を呼ばれた。こころのまんなかを貫通された。息がつまってうつむいた。
「顔を上げてくれる?」
ゆっくり、顔を上げた。おかあさんの顔がゆがんで見える。つま先を地面に押しつけて、拳を握って、頬に力を入れて、涙がこぼれないようにこらえた。
「なんだか、不思議ね……、あんなに小さかった赤ちゃんが、私と同じくらいの身長になって目の前にいるんだもの」
はあ、とおかあさんのため息が聞こえる。
「……不思議、っていったら……そっちでしょ……」
「そうね、幽霊だものね」
こっちは会話を受け答えすることがだんだん困難になってきたというのに、おかあさんはおかしそうに微笑するだけ。嗚咽がこみあげてくる。ほんとうに、わたしは限界だった。
「おかあさ……その、ね」
だから、なにかを伝えなきゃ。おかあさんがいつまでもわたしの目の前に居る保証なんてないのだから。わたしたちの様子を見に来たというおかあさんの用事は、もう済んでしまっている。だからさっさとわたしの用事を済ませないといけない。
おかあさんに言いたかったいちばんのことを、いろんなきもちが渦巻いている頭のなかから引きずり出さなきゃ。こころの堤が、決壊する前に。
なんだっけ。なんだっけ。おかあさんが現れる前に、わたしはおかあさんへなにを想っていた?
それは、娘として母へ甘えることではなく―――
「―――見てのとおりわたしたち、いちおう、あんなふう、だから……」
―――そう。彼方より、此方のしあわせを願うあなたへ。
「おとうさんは、いつもあんなだし。あと、いま、小早川の方のいとこ。ゆーちゃ、ゆたかちゃんってかわいい子がしばらくうちにいてくれてるし」
あなたが遠い彼方で好きに遊んでいてかまわないくらい。
あなたがいつでもわたしたちに会いに来てかまわないくらい。
ゆるく、平凡に―――しあわせに、わたしたちは生きています。
「だから、またいつでも、会いきて、よ」
だから、また巡りあうときを、ずっと待っている―――
おかあさんの手が差しのべられる。わたしを抱き寄せるしぐさ。抱擁の感触はない。
肌のぬくもりの代わりに、ひかりの白。おかあさんの身体を包んでいたひかりが、ことばなくわたしを包む。
薄れてゆく母の姿。夜天(そら)へと還ってゆく母の姿。いかないでと縋りつくことはかなわない。
とうとう決壊するわたしの涙腺。だけれど、おかあさんは―――
―――最期は"しあわせだったよ"って笑っていたよ
「ありがとう、こなた。そう君だけではなく、小さかったあなたからもたしかに、私はしあわせをもらっていたわ。
そして、今日のあなたからも、たくさんのしあわせをもらった」
―――遺された方はそれでもさびしいものだけど
「私のために泣いてくれるあなたが、私のなかにいるように、あなたを想う私も、あなたのなかにいることを覚えていて」
―――おれも最期はそう在りたいもんだなあ
「お別れは、笑顔が良いな。たしかにいままでたくさんのしあわせをもらったけれど、最後でもらうのが愛娘の泣き顔っていうのはちょっといやだな。画竜点睛を欠く?」
わたしを包むひかりが薄れてゆく。母と触れあった証が、消えてゆく。
身体のひかりはすっかり消えて、最後にのこったかけらはてのひらに。
「……でも、そういうオチがつくのはある意味おいしいって思わない?」
流れ落ちる涙に抵抗して、わたしはニヤリと笑ってみせる。あなたの望むとおりに笑ってあげられないくらい、わたしはあなたを好きなんだという気もちをこめて。
育ててもらった記憶はないから、一緒に過ごした記憶はないから、でもあなたはやっぱりわたしのおかあさんだから。だからこのひとときだけで、あなたを好きになってしまったのだと伝えたくて。
いちばん伝えたいことは言えたかもしれないけれど、まだまだ話をしていたいから、別れたくないから、わたしは泣きながら笑うのだと伝わってほしくて。
そんなわたしの強がりを受けとったおかあさんは。ほとんど輪郭が透けてしまっているけれど、それでもはっきりわかるほど朗らかな笑みをのこして―――
―――花擦れの音を引き連れて、風がそよぎ過ぎた。
ぎゅっ、とまぶたを強く閉じて、目尻から涙を追いだした。
ぐず、と鼻を鳴らして、平時の呼吸をとりもどした。
我に返ったわたしの聴覚が、虫鳴りの音をまたとらえはじめる。
我に返ったわたしの視覚が、夜闇のなかに母のひかりをさぐる。
そうしてみつけたひかりは、わたしのこぼした涙の雫だけ。
てのひらをみつめる。ひかりのかけらは、そこにはもうない。
てのひらをみつめる。母と触れあったいっときのおもいでは、あたたかな名残を胸に残して。
わたしは足を玄関へと向ける。家の灯り。ゆーちゃんはもうお風呂から上がっただろうか。おかあさんの写真にびっくりしているかもしれない。おとうさんはわたしの態度から、あの影の正体を察してしまっているかもしれない。世界中でいちばん、おかあさんをあいしてるひと。
きっといまごろ、ゆーちゃんをおかあさんに紹介しているだろう。おかあさんに、まだちゃんとゆーちゃんのことを話していなかった。
……死人の魂は空高く昇って天国へいくという。月は死者たちの太陽だという。ひとが死んだらそのいのちは星のひかりになるという。
わたしは、星がいいな、と思う。死んだひとは黄泉の世界へいくのではなく、月影にあつまるのではなく、星になる説を推したい。
だって、あれはウルトラの星だ、あれは巨人の星だ、あれはおかあさんの星だ、なんて。こんな愚かな会話ができるわたしたちなんだから。
ドアハンドルに左手をかける。そのまま動作を止めた。しあわせの星、気まぐれの星、らっきー☆すたー。星たちのあかりのしたで、もういちど、母を思う。
泉の家、おかあさんがこころのなかで生きていたい場処、扉の向こうにある小さな世界、もう届かない過去の日は。
右手を胸にあてた。母の名残。ここにある彼方をていねいにたたんで、たいせつに、そっと此方に仕舞い込む。
扉を開く。玄関をまたいで小さな世界のなかにわたしは帰る。おかあさんが生きていたかった場処。わたしたちが生きている場処。おかあさんが、わたしたちのこころのなかで生きている場処。
―――こなた。それが、この場処の名前だ。