いのりは、家で夕飯の準備をしていた。 両親は旅行で不在のため、自分と夫と娘の分だ。 とはいっても、米をといで炊飯ジャーに入れてスイッチを押すだけ。おかずは母が作ってくれたものが冷蔵庫に入っているから、それを温めればすむ。 ご飯が炊き上がるころには、夫が地鎮祭の仕事から帰ってくるはずだ。 そこに、神社の古参の巫女が客をつれてやってきた。 「いのり様。特別なお祓いのご依頼のお客様です」 特別なお祓い──神社内での隠語だ。年に数回はそんな依頼がある。 それは一子相伝の秘儀でもあるので、柊家直系のみきといのりだけにしかできない。 みきが旅行でいない以上は、いのりが対応するしかない。 その依頼主を顔を見て、 「あら? みさおちゃんにあやのちゃんじゃないの。どうしたの?」 妹のかがみの友人である二人が、いささか憔悴したような表情でそこに立っていた。確か、あやのは、みさおの兄と結婚したばかりのはずだ。 二人から話を聞く。 なんでも、あやのの夫でもあるみさおの兄(以下、「旦那さん」と呼ぶことにする)が、先日突然倒れて病院にかつぎこまれたそうだ。 旦那さんは、病院のベッドで四六時中うなされっぱなしで、食べ物も受け付けない状態。点滴をうっているものの、衰弱する一方。 原因は不明。精密検査を受けても何も異常はなく、医者はお手上げ状態だという。 このままでは、やがて衰弱死するのは避けられない。 そして、 「うわごとのようにずっと言ってるの……殺されるって……」 あやのがぽつりとそう言った。 これは悪霊かなんかがついているに違いない。もう神仏の力にすがるしかないということになって、こちらに飛んできたというわけだった。 「「お願いします」」 二人がそろって頭を下げた。 「場合によっては、結構なお値段になるけどいい?」 足元見るみたいで嫌な言い方だが、現実問題として神社という家業はボランティアではない。それで柊家の生計を維持しているのだから。労力と成果に見合うだけの報酬はもらわないとならない。 「お金なんていくらでも出すぜ」 「借金してでもお支払いいたします」 「分かったわ。すぐに準備するからちょっと待ってて」 いのりは、すばやく神職の服に着替え、術式の道具を入れたかばんを手に取った。 二人を連れて玄関に向かおうとしたとき、娘に見つかった。 「お母さん、どっか行くの?」 娘の頭に手を置く。 「ちょっと急なお仕事が入っちゃったの。巫女さんの言うことをきいてきちんとお留守番しててね」 「はーい」 車を飛ばして、病院に到着。 旦那さんが寝ている個室に直行する。 個室に入ったとたん、いのりの背筋に悪寒が走った。 ベッドの上の旦那さんをとてつもないものが覆っていた。悪霊なんて生易しいものではない。それは、純粋な殺意だった。 簡単にいえば、呪殺だ。 不幸中の幸いは、プロの仕業ではないことだった。 見たところ、素人が藁人形に五寸釘を打ったら効いちゃったというレベルのものだ。逆にいえば、それが効いちゃうぐらいに純度の高い殺意だということでもある。 プロだったら、これだけの純度の高い殺意があれば、相手を瞬殺できただろう。 とはいえ、このまま放っておけば、ほどなく死ぬことは間違いない。 いのりは、看病についていた旦那さんの両親やあやのやみさおを個室から追い出すと、術式を始めた。 呪詛返し。 母がやっているのを見たことはあるが、自分で本番をやるのは初めてだ。 これは、「特別なお祓い」の中でもとりわけ難易度が高い。失敗すれば、返し損ねた呪詛がいのり自身に降りかかってくる。そうなったら母を呼んでくるしかないが、間に合う保証はない。 言葉に力を込め祝詞を読み上げる。 旦那さんを覆っていた殺意が吸い上げられ、凝縮されて固まった。 その殺意の塊がいのり目掛けて襲いかかってくるのを、和紙で作った人形(ひとがた)で受け止める。 それで終わりではない。この強大な殺意は、その意を果たさない限り消え去りはしない。 だから、いのりは命じた。 「汝、その主に帰れ」 人形(ひとがた)が、青白い光に包まれ、そして消え去った。 「ふぅ……」 力が抜けた。玉のような汗が床に滴り落ちる。 ドアを開け、廊下で待っている家族に告げた。 「終わりました」 みんな雪崩を打つように個室に入り、ベッドに駆け寄った。 「あなた!」 「兄貴!」 じゃっかん気色がよくなった旦那さんが眼を開ける。 あやのもみさおも、感極まって泣き出した。 「「ありがとうございました」」 旦那さんのご両親が、いのりに対して深々と頭を下げた。 「悪いものは祓いましたので、二、三日もすれば回復するでしょう」 いのりは、何度も何度も頭を下げる一同に見送られて、その場を去った。 去り際にさりげなく請求書を置いていくのを忘れない。 一週間後、巫女服姿で境内を掃除していたいのりのもとに、お客さんがやってきた。 あのときの旦那さんだ。すっかり元気になった様子である。 社務所の縁側に並んで腰をかけた。 先日の「特別なお祓い」の料金はさきほど社務所の窓口で払ってきたそうだ。 「お祓い料は、あんなもんでよかったんでしょうか?」 請求書に記載した金額は、300万円。一般家庭にとってみれば決して安くはない金額だが、医者もお手上げだった命を救った代金と考えれば格安ともいえる。 「うちは明朗会計だからね。もっと払いたかったら、賽銭箱にでも入れてってよ」 「はぁ……。そうさせていただきます。本当にありがとうございました」 旦那さんは、頭を下げた。 「しかし、あれは何だったんでしょうか?」 あのとき、いのりは誰にも詳しいことは説明しなかった。 そして、今日、旦那さんは家族を誰一人伴わず、ここにやってきた。思い当たる節はあるのだろう。 だから、いのりは端的にこう言った。 「呪い」 「呪いですか……」 「恨みを買うような覚えはある?」 「……」 旦那さんは沈黙した。 「答えづらいなら、質問を変えてみようか。お嫁さんのあやのちゃんはモテる方かしら?」 「ええ、まあ。俺なんかにはもったいないぐらいの嫁さんですからね。あれは、結婚する一年前でしたか。あやのにしつこく言い寄る男がいましてね。最後には、ストーカーなんとか法とかいうので、警察が出てくる騒ぎになりまして」 「それは災難だったわね」 「そうそう。あのときは、弁護士のかがみさんのお世話になりまして。柊家のみなさんにはお世話になりっぱなしです」 「へぇ、かがみがね。そういうのもあの子の仕事なわけか。で、そのしつこい男は、今どうなってるかしら?」 「……退院して家に帰って新聞のお悔やみ欄を見たら、そいつの名前が出てました」 こんなことは、あやのには話せないだろう。だから、旦那さんは一人で来たのだ。 「あなたが気に病むことじゃないわよ。それがひとを呪い殺そうとした当然の報いだから」 「でも……」 「そいつが死ななきゃ、あなたが死んでた。かわいいお嫁さんや、妹さん、ご両親を悲しませるわけにはいかないでしょ?」 旦那さんは改めてお礼を述べて去っていった。 いのりは、竹箒で境内の掃除を再開した。 ぽつりとつぶやく。 「さて、私にも報いがあるかしらね……」 あのあと帰ってきてから一晩中水を被ってみそぎをしたが、それでも気は晴れなかった。 経緯はともあれ、人の死に関与したことには違いない。はっきりいえば、自分の術式で人を殺したのだ。 母のみきは、気に病むことはないと言ってくれたけど、そう簡単に割り切れるものでもない。 いつまでそうやって引きずっていると、悪い運気を引き寄せてしまうというのも分かってはいるのだが……。 **コメント・感想フォーム #comment(below,size=50,nsize=50,vsize=3)