ヨーロ大陸の極北に位置する小国。
北東に大国ロマノフ(ソヴェート)があり、古来より戦争、併合、独立を繰り返してきた。
北東に大国ロマノフ(ソヴェート)があり、古来より戦争、併合、独立を繰り返してきた。
| 国歌 | 我が祖国の地 |
| 首都 | ハールシンク |
| 公用語 | ソン語 ゲーマニア語 |
| 最大都市 | ハールシンク |
| 民族構成 | ファンラント(ファン人とサーミュ人)90% ゲーマン人6% その他 |
| 貨幣 | 帝国ゲルト(元はコロネ) |
概要
古来はロマノフ、現在もソヴェートとその属国との戦争を繰り返しており総合した軍事力は少ない。
しかし個々の練度は非常に…異常に高い。
そして国土が非常に雪深いこともあり、ファングラントの人々の歴史は常に雪と共にあった。
しかし個々の練度は非常に…異常に高い。
そして国土が非常に雪深いこともあり、ファングラントの人々の歴史は常に雪と共にあった。
歴史
ファングラントに住まうファン人及びサーミュ人のルーツは旧石器時代に住まいを求め若干南下したバイキ人(ファン人)3世紀ごろ現在の北フランソワでの差別を受けた人々が北上した少数のノル人(ノルマン)とバイキ人が共生し、交配した(サーミュ人)ことに端を発する。
しかし9世紀ごろ、ルマゥ人現在のロマノフに住むロマ人が北欧に到達。
10世紀からしばらくするまでは互いの存在を確認しつつとくに仲が悪くもなく良くもない微妙な関係を築いていた。
しかし12世紀末にロマノフ王国が誕生し、全ルーシア地方が統一された。
それに合わせて人口増加を懸念した大王、ロマノフ大王は北進政策を発表し、ファングラントへの侵攻を始めた。
俗に言う『ロ=フ5年戦争』の始まりだ。
1201年まで戦争は続き最後は両者消耗するもののついにファングラント側は領土の最北、つまるところバイキィンガム王国との国境線の町、コッコラまで追い詰められ降伏した。
ここから17世紀まではロマノフの傀儡としての政策を行った
『ロマノフ=ファング大公国』としての時代が続く。
しかし17世紀ごろノルドフォルケスインペリウムが領土を拡張。
9世紀前半の大地殻変動によりできた大河、ルォミヨギを越え極北へ進出してきた。
結果ノルドフォルケスインペリウムは冬将軍に敗れるが比較的防御の手薄だったファングラントを含む極北領を手に入れることができた…のだが異常なほどの寒さと雪に阻まれ本格的な支配はできずそのまま自治領として独立。
1810年までは平和な期間が続く。
しかし1811年。
ロマノフ帝国の第三次北進政策でまたも占領され、ロマノフの自治領となる。
時はまた一気に進み1918年。
第一次全大陸戦争開戦より4年がすぎた頃。
ロマノフ帝国はノルドインペリウムとの戦争で支配力が低下するとともに広大な属国や植民都市を維持できず、あちこちで独立紛争が起こった。
その独立紛争開戦第一号がファングラントである。
独立紛争は半年にわたって繰り広げられ最終的にロマノフ帝国崩壊後の新政府ソヴェートヴァニアとコルッカラ=ルォミヨギ条約締結により自主独立を成し遂げた。
その後は北欧三国、ノルゲ王国、ヴァイキ王国、ファングラント共和国の三国で『ノ=ヴ=フ三国共防同盟』を締結し北欧三国、いわゆるノルデン三国で共に領土を守り合っている反面、現在もソヴェートヴァニアとの紛争や小競り合いは現在も続いている。
しかし9世紀ごろ、ルマゥ人現在のロマノフに住むロマ人が北欧に到達。
10世紀からしばらくするまでは互いの存在を確認しつつとくに仲が悪くもなく良くもない微妙な関係を築いていた。
しかし12世紀末にロマノフ王国が誕生し、全ルーシア地方が統一された。
それに合わせて人口増加を懸念した大王、ロマノフ大王は北進政策を発表し、ファングラントへの侵攻を始めた。
俗に言う『ロ=フ5年戦争』の始まりだ。
1201年まで戦争は続き最後は両者消耗するもののついにファングラント側は領土の最北、つまるところバイキィンガム王国との国境線の町、コッコラまで追い詰められ降伏した。
ここから17世紀まではロマノフの傀儡としての政策を行った
『ロマノフ=ファング大公国』としての時代が続く。
しかし17世紀ごろノルドフォルケスインペリウムが領土を拡張。
9世紀前半の大地殻変動によりできた大河、ルォミヨギを越え極北へ進出してきた。
結果ノルドフォルケスインペリウムは冬将軍に敗れるが比較的防御の手薄だったファングラントを含む極北領を手に入れることができた…のだが異常なほどの寒さと雪に阻まれ本格的な支配はできずそのまま自治領として独立。
1810年までは平和な期間が続く。
しかし1811年。
ロマノフ帝国の第三次北進政策でまたも占領され、ロマノフの自治領となる。
時はまた一気に進み1918年。
第一次全大陸戦争開戦より4年がすぎた頃。
ロマノフ帝国はノルドインペリウムとの戦争で支配力が低下するとともに広大な属国や植民都市を維持できず、あちこちで独立紛争が起こった。
その独立紛争開戦第一号がファングラントである。
独立紛争は半年にわたって繰り広げられ最終的にロマノフ帝国崩壊後の新政府ソヴェートヴァニアとコルッカラ=ルォミヨギ条約締結により自主独立を成し遂げた。
その後は北欧三国、ノルゲ王国、ヴァイキ王国、ファングラント共和国の三国で『ノ=ヴ=フ三国共防同盟』を締結し北欧三国、いわゆるノルデン三国で共に領土を守り合っている反面、現在もソヴェートヴァニアとの紛争や小競り合いは現在も続いている。
文化
文化は古来より雪深く極寒の寒さであるため健康志向が強く、寒中水泳、サウナ、健康食など兎に角健康的な生活習慣が特徴である。
また雪対策や雪に合わせた建物など兎に角どこかしかも雪、雪、雪、雪またまた雪という調子でこれでもかと雪への対策がなされている。
(ちなみに100年戦争時の長寿国ランキング万年一位)
また雪対策や雪に合わせた建物など兎に角どこかしかも雪、雪、雪、雪またまた雪という調子でこれでもかと雪への対策がなされている。
(ちなみに100年戦争時の長寿国ランキング万年一位)
軍備
ファングラント陸軍
戦車32輌
装甲車10台
豆戦車8輌
対戦車砲31門
旧式野砲80門
スキー部隊:5大隊
装甲擲弾兵大隊:2つ
師団数:3師団
戦車32輌
装甲車10台
豆戦車8輌
対戦車砲31門
旧式野砲80門
スキー部隊:5大隊
装甲擲弾兵大隊:2つ
師団数:3師団
ファングラント空軍
戦闘機60機(内21機は未稼働)
攻撃機15機(内6機は整備中)
偵察機6機
爆撃機19機
戦闘機60機(内21機は未稼働)
攻撃機15機(内6機は整備中)
偵察機6機
爆撃機19機
ファングラント海軍
弩級戦艦1(1938年にソヴェートより鹵獲)
海防戦艦2
軽巡洋艦1(1938年にソヴェートより鹵獲)
コルベット艦3(1942年にソヴェートより鹵獲)
駆逐艦4(内2隻は1938年にソヴェートより鹵獲)
重砲艦3
砲艦4(内1隻は1938年にソヴェートより鹵獲)
水雷艇8(全て1918年にロマノフ、(ソヴェート)より鹵獲)
魚雷艇20艇
対空艦2隻
弩級戦艦1(1938年にソヴェートより鹵獲)
海防戦艦2
軽巡洋艦1(1938年にソヴェートより鹵獲)
コルベット艦3(1942年にソヴェートより鹵獲)
駆逐艦4(内2隻は1938年にソヴェートより鹵獲)
重砲艦3
砲艦4(内1隻は1938年にソヴェートより鹵獲)
水雷艇8(全て1918年にロマノフ、(ソヴェート)より鹵獲)
魚雷艇20艇
対空艦2隻
まずはファングラント陸軍から。
陸軍は最近機甲化を始めたため戦車をはじめとする装甲戦力は極めて少ない。
しかし歩兵は独立戦争からの歴戦の古参兵からその技術を受け継いだ優秀な兵士が多い。
特に装甲擲弾兵は肉薄戦や対戦車戦闘以外にも遠距離戦も得意としている。
そして雪国ならではのスキー部隊はその機動力を活かして敵のあらゆる兵科を翻弄した。
さらに機甲部隊も敵からの鹵獲戦力で開戦時は30輌余りだった規模がどういうわけか80〜100輌程度。
さらにそこへ稼働したかどうか不明なものを含めれば130輌余りにまで戦力が増加した。
陸軍は最近機甲化を始めたため戦車をはじめとする装甲戦力は極めて少ない。
しかし歩兵は独立戦争からの歴戦の古参兵からその技術を受け継いだ優秀な兵士が多い。
特に装甲擲弾兵は肉薄戦や対戦車戦闘以外にも遠距離戦も得意としている。
そして雪国ならではのスキー部隊はその機動力を活かして敵のあらゆる兵科を翻弄した。
さらに機甲部隊も敵からの鹵獲戦力で開戦時は30輌余りだった規模がどういうわけか80〜100輌程度。
さらにそこへ稼働したかどうか不明なものを含めれば130輌余りにまで戦力が増加した。
ファングラント空軍は1920年の完全独立直後、ロマノフ帝国より捕獲したケレンスクSf-15戦闘機6機の運用から始まった。
その後1926年にエグレス、1928年に合衆国、1937年にノルドフォルケスインペリウム領のベルマール共和国からの航空機販売契約を取り付け、戦闘機の数を増やした。
とはいえ、仮想敵国から見れば輸入機のみでは圧倒的な力不足であるのは自明の理であり、1942年からは自国での戦闘機開発を開始。
しかし1942年型試作機は要求を全て満たす性能こそ出せなかったが、実戦での運用は可能との判断により国産主力戦闘機開発、採用までの「つなぎ」として採用。
しかしソヴェートとの戦争が最も激化した時代である1938〜1955年まで
その後1926年にエグレス、1928年に合衆国、1937年にノルドフォルケスインペリウム領のベルマール共和国からの航空機販売契約を取り付け、戦闘機の数を増やした。
とはいえ、仮想敵国から見れば輸入機のみでは圧倒的な力不足であるのは自明の理であり、1942年からは自国での戦闘機開発を開始。
しかし1942年型試作機は要求を全て満たす性能こそ出せなかったが、実戦での運用は可能との判断により国産主力戦闘機開発、採用までの「つなぎ」として採用。
しかしソヴェートとの戦争が最も激化した時代である1938〜1955年まで
海軍