「関心・意欲・態度」は◎でしたけど、何か?

2012年10月26日(金) 22:51-エンディミオン

もっと積極的に、と言う人間が私は嫌いだ。若者の政治参加を問題意識に据える学生にはもちろん声高に叫ぶ権利があるわけだが、声をかけるのは是非私以外の学生にしておいてほしい。なぜそこまで自分の利益とかけ離れた事に執心出来るのか、私にはよく分からないのだ。
だって欠片も自分のためにならないじゃないか。積極的に参加したところで私の生きているうちに政治が本当の意味で変わる確証がどこにあるのか。政治ならまだ可能性があるかもしれないが、地球温暖化などは最悪だ。カミングアウトになってしまうだろうか、正直言って私は私の生きている間に化石燃料が使えればそれで満足だし、その影響で将来の地球の担い手たちが困ったところで知ったことではない。子供がいれば話はまた別なのだろうが、私にはそもそも結婚願望すらない。
こんな事ばかり言っていると友達がいなくなりそうだから別の視点を持とう。私は私のためになる、『私』に直結する問題になら興味が持てる。私は大学で法哲学、特に正義について勉強しているが、もちろんその正義は「私の周り存在する不正義」があるからこそ、私の心に留まるのである。例えば、経済危機から生じる第三次世界大戦が私の時代に起こる危険性を信じているからこそ勉強する、といったところだろうか(先程、政治ならまだ可能性があるかもしれないと述べたのは、こうした考えによる)。
ところで、最初は政治が変わる確証がない、つまり可能性が100%でないから興味がないと言っていたのに「危険性が高い」から勉強するとはどういう事か、と言う人がいるかもしれない。至極まっとうな反論である。しかし、前者からは相当ぼやけた利益しか見えないのに対し、後者からは将来の危険に対する高度の蓋然性が見うけられはしないか。そこには単なる確率の問題だけではなく、幸福度の上下度合いも関わってくる。つまり、政治が変わる事と私個人が幸福になる事はイコールではないが、第三次世界大戦が訪れれば私の生活が一変するに違いないと考えるのである。もっと端的な表現で良いのなら、要するに私は幸福の可能性よりも不幸の確実性に重きを置くのだ。そうなると現状が最も望ましい状況という事になるわけだが、逆に言うと私の現在の生活が地に堕ちれば、あるいは政治参加にも興味が持てるのかもしれない。
話が少し脱線したので本論に戻すと、しかしここで困った事態が生じてくる。先程私は「私の周囲に存在する不正義」なら興味に値すると述べたが、この表現が妥当する問題が実に悩ましい。例えば前述した第三次世界大戦については、問題点・論点が広すぎて扱いづらい。一方でより扱いやすい「私の周囲に存在する不正義」を考えると、そこには大きな問題が存在していない事も多いのだ。ならば私はどうすれば良いのか。何を勉強すれば良いのか。もしかすると私の一連のスタンスは、法哲学という学問領域とは(というか学問全般と?)致命的に相性が悪いのかもしれない。ただこれは、一つ前の段落で述べた事と同様に、現代社会において私の他にも「やる気がない」「積極性がない」と言われる学生が多い理由の示唆となるのではないかと密かに思う。
うだうだ書いてきたが、要するに「やる気がない」とか言うな。どうもそういう事を言う人間は積極性という事について無考慮で、教育を受ける過程で芽生えた洗脳から抜け出せていないのではないかと思えてならない。

 

 


ノンフィクショナルな作品があんまりないなぁ、と思ったので書いてみました。

エッセイ? コラム? いいえ、ただの性悪発言集です(笑)

僕としては「批判・応酬」みたいな事がしたかったので、主張に必要と思われる要素を意図的にかなり削ってます(半分自己保身です、はい)