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「資料集(その3)」(2006/11/08 (水) 00:36:39) の最新版変更点
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<h3>週刊朝日 2006 11/17日号より<br>
「未履修」「いじめ」…そして「母校との決別」</h3>
<h3>(前半のいじめ・未履修については省略)<br>
安倍首相が10月に立ち上げた教育再生会議の有識者メンバーとなった。</h3>
<p>
安倍さんには総理になるずっと前に、私的な席で一度お会いした。<br>
末席で小さくなっていた私に、安倍さんは「とにかくいま教育が大事なんだ。<br>
教育を取り戻さなければ、この先の日本は大変なことになってしまう」と熱心に語られた。<br>
胸を熱くしましたよ。そして、今回打診があった。<br>
とても悩みました。なぜならば委員になるということは、母校と完全に決別するという<br>
ことを意味するからです。しかし自分自身がなぜ母校を離れたのか、何を大切だと感じているのかを<br>
考えた時に、それから逃げるのは間違いだと思ったんですね。そこから逃げながら「教育に、<br>
子どもたちに、人生をかけている」とは言えないと思った。</p>
<h3>
教育再生会議に入った義家氏を待っていたのは、保守派からの批判だった。<br>
義家氏がかつて、共産党の機関紙「しんぶん赤旗」のインタビューで教育基本法改正を疑問視する<br>
発言をしていたことなどからだ。</h3>
<p>
北星学園余市高校は何もかも失った私を受け入れてくれた母校です。しかし、05年、私はその<br>
母校を去ることを決意し、教師を志した原点の街・横浜市の教育委員になりました。<br>
その決断は、何よりも大切にしてきた母校と違う道を歩いていくことを意味します。<br>
産みの母を知らない私にとって、母校との決別は、まさに母との別れと同じ重さを持つ決断でした。</p>
<p>
北星余市は、今日行く基本法改正反対、日の丸・君が代反対の立場を取る左寄りの高校です。<br>
ほかの教育現場を知らない私にとって当初、それは当たり前にことだった。しかし、次第に疑念を<br>
抱くようになった。なぜ、まだ10代半ばの子どもたちが、故郷を離れ、遠く北海道までたどりつく<br>
のか。現在の公教育の実情と母校の政治姿勢に同じ根っこを感じたからです。<br>
私への取材は当然、学校を通して下りてきますから、学校の姿勢と乖離した発言はできない。<br>
私は、本当の自由、権利、個性は教育のゴールで初めて手にできるものと思っています。<br>
未熟な子どもたちに対して、不自由なところから教育を始める。そして、成長とともに一つひとつの<br>
権利や自由を保障していく。私は少年時代、初めから自由や権利を手に入れようとあがき、すべてを<br>
失った。だから、その重さを誰よりも知っているつもりです。<br>
その意味で、教育基本法から波及している戦後の教育の風潮に強い危機感を抱いています。<br>
「子どもたちの個性を大切にし、指導ではなく支援を」と聞いた時は、苦笑いするしかなかった。<br>
実は、北星余市ではスタートの時点で生徒たちの自由や個性を認めてはいない。<br>
「勝手な行動は許さない」。<br>
そこから始まるわけです。<br>
ある意味、押し付けです。<br>
日の丸・君が代についても反対の立場を取っていますが、余市という町を大切にしろ、学校を大切にしろ、<br>
クラスを大切にしろ、と要求する。大切にすべきことを示し、公を意識させ、その上での教育を始めて<br>
いるのです。<br>
私は自分が生まれたこの国が好きです。今でも故郷の長野で強制的に覚えさせられた長野県歌が脳裏に<br>
浮かぶ。長野から追い出された私なのに、思い出すのはつらい思い出じゃない。あのきれいな山並みです。<br>
公教育であるなら、地域、学校、そしてもっと言えば国を大切にすることをスタートに置く。<br>
そして、その先でそれを愛するのか愛さないのかは彼ら自身が決めればいい。でも、「愛するな」<br>
「大切にしなくていい」と教育するのはおかしいし、それでは教育は成り立たないと思っています。</p>
<h3>週刊朝日 2006 11/17日号より<br>
「未履修」「いじめ」…そして「母校との決別」</h3>
<h3>(前半のいじめ・未履修については省略)<br>
安倍首相が10月に立ち上げた教育再生会議の有識者メンバーとなった。</h3>
<p>
安倍さんには総理になるずっと前に、私的な席で一度お会いした。<br>
末席で小さくなっていた私に、安倍さんは「とにかくいま教育が大事なんだ。<br>
教育を取り戻さなければ、この先の日本は大変なことになってしまう」と熱心に語られた。<br>
胸を熱くしましたよ。そして、今回打診があった。<br>
とても悩みました。なぜならば委員になるということは、母校と完全に決別するという<br>
ことを意味するからです。しかし自分自身がなぜ母校を離れたのか、何を大切だと感じているのかを<br>
考えた時に、それから逃げるのは間違いだと思ったんですね。そこから逃げながら「教育に、<br>
子どもたちに、人生をかけている」とは言えないと思った。</p>
<h3>
教育再生会議に入った義家氏を待っていたのは、保守派からの批判だった。<br>
義家氏がかつて、共産党の機関紙「しんぶん赤旗」のインタビューで教育基本法改正を疑問視する<br>
発言をしていたことなどからだ。</h3>
<p>
北星学園余市高校は何もかも失った私を受け入れてくれた母校です。しかし、05年、私はその<br>
母校を去ることを決意し、教師を志した原点の街・横浜市の教育委員になりました。<br>
その決断は、何よりも大切にしてきた母校と違う道を歩いていくことを意味します。<br>
産みの母を知らない私にとって、母校との決別は、まさに母との別れと同じ重さを持つ決断でした。</p>
<p>
北星余市は、教育基本法改正反対、日の丸・君が代反対の立場を取る左寄りの高校です。<br>
ほかの教育現場を知らない私にとって当初、それは当たり前にことだった。しかし、次第に疑念を<br>
抱くようになった。なぜ、まだ10代半ばの子どもたちが、故郷を離れ、遠く北海道までたどりつく<br>
のか。現在の公教育の実情と母校の政治姿勢に同じ根っこを感じたからです。<br>
私への取材は当然、学校を通して下りてきますから、学校の姿勢と乖離した発言はできない。<br>
私は、本当の自由、権利、個性は教育のゴールで初めて手にできるものと思っています。<br>
未熟な子どもたちに対して、不自由なところから教育を始める。そして、成長とともに一つひとつの<br>
権利や自由を保障していく。私は少年時代、初めから自由や権利を手に入れようとあがき、すべてを<br>
失った。だから、その重さを誰よりも知っているつもりです。<br>
その意味で、教育基本法から波及している戦後の教育の風潮に強い危機感を抱いています。<br>
「子どもたちの個性を大切にし、指導ではなく支援を」と聞いた時は、苦笑いするしかなかった。<br>
実は、北星余市ではスタートの時点で生徒たちの自由や個性を認めてはいない。<br>
「勝手な行動は許さない」。<br>
そこから始まるわけです。<br>
ある意味、押し付けです。<br>
日の丸・君が代についても反対の立場を取っていますが、余市という町を大切にしろ、学校を大切にしろ、<br>
クラスを大切にしろ、と要求する。大切にすべきことを示し、公を意識させ、その上での教育を始めて<br>
いるのです。<br>
私は自分が生まれたこの国が好きです。今でも故郷の長野で強制的に覚えさせられた長野県歌が脳裏に<br>
浮かぶ。長野から追い出された私なのに、思い出すのはつらい思い出じゃない。あのきれいな山並みです。<br>
公教育であるなら、地域、学校、そしてもっと言えば国を大切にすることをスタートに置く。<br>
そして、その先でそれを愛するのか愛さないのかは彼ら自身が決めればいい。でも、「愛するな」<br>
「大切にしなくていい」と教育するのはおかしいし、それでは教育は成り立たないと思っています。</p>