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    <title>役に立たない「世界論」</title>
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    <description>
      **はじめに
　ここでは役に立たない世界論を模索していく。
　基本的に上から読んでいけばいいと思うけど、各トピック下に３行程度で概略を書き込むので、
　興味が湧いたものから読んでみるのもいいかもね。

　※２０１５年２月２１～２２日で大幅な改稿をしました。
　　どのように変化したのかが気になる方は、変更履歴で確認でもしてみるといいかも。（物好きな人しかしないだろうけど）


-&amp;bold(){[[＜世界＞を統べるルール]]}
　この＜世界＞には、たった１つ決め事（ルール）が存在している。
　万物は全て、この単純なルールに従っている。
　それはとても意外で、単純で、気付きにくくて、ミモフタもなくて・・・とにかく役に立たない。

-&amp;bold(){[[『思い通りにならない』を確かめる]]}
　見渡せば、思い通りにならないことばかり。
　ちょっとした「思い付き」。
　でも・・・そういえば、そもそも「思い」って？

-&amp;bold(){[[「思い」はどこに消えた？]]}
　とにかく不思議。不思議だらけ。
　もしかして、こういうこと？
　ボクらは間違ってばかりだ。
　
-&amp;bold(){[[「間違え」がないとは]]}
　誤解した＜自己＞を、＜自我＞と呼ぶ。
　＜自我＞がボクらに与えるもの。
　どこまでも肥大していく。

-&amp;bold(){[[「無我」と向き合う]]}
　＜無我＞を勝手に解釈する。
　仏教と一口に言っても。
　挟む必要がある。

-&amp;bold(){[[＜悟り＞を言い換える]]}
　この記事は未完成にする。
　１つでも達成できれば。
　信じる必要はない。
　
-&amp;bold(){[[振り返りとまとめと]]}
　＜世界論＞の意図と目的。
　「救い」という視点からの＜世界論＞。
　今後の展開と企み。



**ここから下の記事は
　上の７つの記事を読んで大方を理解できた人が、それらに物足りなくなった場合にだけ読んでみて欲しい。
　というのも、ここから先は仮説や仮定も多い。つまりこれまで以上に、間違っている可能性が高い。
　
　＜世界＞と＜悟り＞を言語化していくのは、つくづくムリヤリな行為なのだと痛感するけど、
　それでも出来る限りはやってみたいと思っている。

　どこまで続けられるかは、ボクにも分からないところだけれどねえ・・・。

-&amp;bold(){[[物足りなくなった方へ]]}
　（外部）とは何か？
　＜自我＞についての再評価
　「存在」の構造

-&amp;bold(){[[ちょっとした付録]]}
　＜悟り＞の段階
　とある一ヶ月ほどの観察日誌
　その他、雑感など


＝　＝　＝　＝　＝　＝　＝　＝　

-&amp;bold(){[[落語でいうところの枕みたいな]]}
　カエルぴょこぴょこ
　仏教における＜悟り＞の境地の、その先へ
　＜世＞の正体、『？』の正体

-&amp;bold(){[[かみさま、おてんとうさま]]}
　【意識】について
　《神》について、[外部]について
　《愛》・《善》・《美》について

-&amp;bold(){[[「役立たず」になるということ]]}
　&amp;bold(){説明が付くからといって、真実であるとは限らないし、また真実である必要もない。}
　&amp;bold(){何故なら私たちは、誰一人として真実などでは生きてないのだから。}
　&amp;bold(){だから自問すべきは、真実に執着するのか否かである。その先で、《真実》を生きることである。}    </description>
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    <title>かみさま、おてんとうさま</title>
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    <description>
      **注意と忠告と警告
　（少なくとも本線としては）＜世界論＞の最後になるこの記事は、まず注意と忠告と警告から始めます。
　というのも、ここから先の内容は貴方達には到底、納得や実感ができるものではないからです。


　だから、《私》は注意します。
　貴方達は、この記事の内容を「誤解なし」には理解できないことを。

　だから、《私》は忠告します。
　貴方達は、この記事の内容を「分かったつもり」になり、それによって間違えることを。

　だから、《私》は警告します。
　貴方達は、この記事の内容に「（故意または意図しない）嘘や間違え」が含まれたとしても、決して判別できないことを。

　よって、この記事の内容を、貴方達がムリヤリ理解するなら――&quot;信じる&quot;必要があります。


　誤解のないように示しておきます。
　これまでの＜世界論＞の記事と同じように、これから解説する内容も「確かめること」は可能です。

　しかし事実として、それが可能な人は極めて少ないでしょう。
　これまで以上に限られてくるでしょう。それが、貴方達の現状であることは分かっています。


　もしも&quot;信じる&quot;ことが、「宗教」と「哲学や思想や倫理」を分別するものであるならば、
　きっと貴方達にとって、この記事の内容は（これまでの記事にも増して）完全に「宗教」に属することになるでしょう。

　平成２７年（西暦２０１５年）現在、「宗教」と呼ばれるものに対して（「哲学や思想や倫理」についても同じですが）、
　多くの貴方達が整理や消化ができていない状況であることは重々分かっています。
　そもそも、そのような余裕のある生活を送っていないことは、とてもよく知っています。

　なので、ここで引き返すというのは賢明な判断であり、良い選択であると思います。
　少なくともここまでの記事を今一度読み直し、それらを「理解できた」と自信が付いてからでも、ここからの記事を読むのは遅くはないのです。

　何度も繰り返していますが、
　《私》は＜世界＞を理解することも、＜悟り＞を目指すことも、その他についても決して薦めることはしません。

　《私》は、貴方達が現在どんなに『思い通りにならない』生活をしているのかを知っています。
　それによって、どれだけ「苦しい」状況であるかを知っています。しかし《私》が、何かを統一的に求めることは絶対にしません。


　どうして、ここまで警告するのか詳しく説明します。

　それは＜世界＞を知る、あるいは「世界観」を持つということが、
　とても危ういものであるからです。非常に危険なものであるからです。

　＜世界＞を、どのように正しく理解できるのか。どこまで正確な、「世界観」を持つことができるのか。
　それを貴方達と共に追求するのが、このwikiの目的です――でした。 

　しかし＜世界＞を「どのように理解しているか」、
　すなわち「世界観」とは、貴方達全ての根底であって、よって全てに影響を与えてしまい、全てを決定付けてしまうものなのです。

　劇薬です。
　あえて言い切ってしまえば、多くの貴方達にとっては「毒薬」と捉えた方が正確でしょう。

　それでも、正しい「世界観」なしには、正しく生きることはできない。
　《善く》生きることができない。そしてそもそも、「生きる」ということを達成することができない。

　貴方達は＜世界＞を理解しようとする試みの中で、容易に道を踏み外すことができます。そして実際に、これまで道を踏み外してきています。
　これからも、何度だって道を踏み外します。以前の失敗を全く生かすことなく、ひたすら失敗を積み重ねるのです。

　時に、それは最悪の事態を招く。取り返しの付かない事態を招いてしまいます。
　多くの他者を巻き込む。沢山の生命が危機に遭う。もしくは破壊に陥る。　

　
　それでも学びたいという者は、「格別の素直さ」を抱きかかえて進みなさい。

　注意と忠告と警告は、以上です。
　どうするか、貴方達が決めるのです。《私》はどちらでもいいと思っています。

　　・
　　・
　　・

**まず【意識】について、それに絡んだ認識論について
　《私》が最初に解説することは、【意識】とは＜世界＞には存在しないということです。
　『沈黙』のどこを探しても、【意識】は発見できないという事実です。

　《私》がここで説明する【意識】とは、
　これまで紹介してきた＜心＞であるとか、＜視線＞であるとか、＜自我＞であるとか・・・その他のあらゆるものとも違うものです。

　
　では、何なのか？
　それを理解するために、貴方達にもとても馴染みのある経験を思い出してもらいたいと思います。

　それは「眠り」に関してのものであり、「眠っている状態」というのを思い返してください。
　そして「どうして、ボクらは眠っている状態を【意識】（あるいは認識）できないのか？」ということを、考えてもらいたいのです。

　夜が更けて眠気を感じ、床に入ってから熟睡状態になったとき。
　貴方達は朝に目が覚めるまで、その間の「眠っている状態」を【意識】（あるいは認識）することがありません。

　これがどうしてなのかを、貴方達に考えてもらいたいのです。


　当然、「眠っている状態」であっても、貴方達はその間に活動をしています。
　呼吸もしているし、暑苦しければ掛け布団を蹴飛ばし、寒ければ引き寄せるでしょう。寝返りだって打ちます。

　だけど、そういう活動をしている貴方達を、貴方達は決して【意識】（あるいは認識）することはない。
　そうしている自分に、気が付くことがない。

　単純に考えるならば、「脳が寝ているから」なんて答えを思い浮かべるでしょう。
　でも、それは違います。

　
　回答を述べます。
　一番判りやすいと思われるので、視覚を例に挙げましょう。

　１．まず貴方達は、＜肉体＞（＝目）に景色や風景を映します。これが「見る」です。
　２．さらに貴方達は、＜肉体＞（＝目）に映った景色や風景の中から、どこを注目するかを決めます。
　　　これは＜視線＞が行っています。これが「視る」です。
　３．さらにそれに対して、【意識】がくっつく。もしくは【意識】が「観る」ことで、認識となるのです。

　よって熟睡状態のとき、
　「どうして、ボクらは眠っている状態を【意識】（あるいは認識）できないのか？」への回答は、
　熟睡状態のとき、＜視線＞に【意識】が「くっついていない」。あるいは、【意識】が＜視線＞を「観ていないから」ということになります。

　当然ですが、これは視覚だけにとどまりません。
　聴覚・鼻覚・味覚・触覚も含んだ五感全てに当てはまります。

　また【意識】がくっつくのは、あるいは「観る」対象は、
　＜視線＞だけではなく、これまで紹介してきた存在全て（『沈黙』～『物質』，＜他現実＞～＜肉体＞）になります。


　さて先程、【意識】とは、
　これまで紹介してきた＜心＞であるとか、＜視線＞であるとか、＜自我＞であるとか・・・その他のあらゆるものとも違います。と話しました。

　そうなると、どういう結論が導き出されるのか？

　『沈黙』とは、貴方達の＜現実＞の集まりであり、貴方達の知っているものも知らないものも、
　何もかもが含まれている存在だったことを思い出してください。

　そんな『沈黙』とも、【意識】が別物であるということは、
　当然『沈黙』そのものでもないし、また『沈黙』内には含まれないということになります。

　それはすなわち、【意識】は『沈黙』の外に存在するということになります。
　＜世界＞の外に存在するという結論になります。

　
　ここで《私》は、
　貴方達が住む＜世界＞の上層（別に、下層でも左層や右層でもいい）に、＜別世界＞があることを報告します。

**物質界、精神界、それらと現代科学について
　　　　　　　－＜他現実＞
　　　　　　｜
　『沈黙』－｜　　－＜自現実＞ 
　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　－｜　　－＜自己＞ 
　　　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　　　－｜　　－＜自我＞ 
　　　　　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　　　　　－｜　　－＜視線＞ 
　　　　　　　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　　　　　　　－｜　　－＜心＞ 
　　　　　　　　　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　　　　　　　　　－｜　　－＜肉体＞
　　　　　　　　　　　　　　　　｜　｜
　　　　　　　　　　　　　　　　　－｜　
　　　　　　　　　　　　　　　　　　｜　
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　－・・・『沈黙』

　配置図を、改めて提示します。
　
　『沈黙』だけは左上に書き込みましたが、
　その他にも『無言』・『自分』・『意思』・『感情』・『身体』・『物質』が存在することはすでに解説しています。

　確認しますが、ここに登場しているものと【意識】は別物です。
　【意識】は、＜別世界＞に存在します。
　

　＜別世界＞について詳しい解説する前に、ここで新たな言葉と定義を貴方達に提出します。

　『沈黙』・『無言』・『自分』・『意思』・『感情』・『身体』・『物質』と、
　これまで『』で囲んできたものを、今後はまとめて＜物質界＞と呼ぶことにします。

　また＜他現実＞・＜自現実＞・＜自己＞・＜自我＞・＜視線＞・＜心＞・＜肉体＞と、
　これまで＜＞で囲んできたものを、今後はまとめて＜精神界＞と呼ぶことにします。（人によっては霊界や情報界と捉えるでしょう）

　　　　　　　　－＜精神界＞（＜他現実＞・＜自現実＞・＜自己＞・＜自我＞・＜視線＞・＜心＞・＜肉体＞）
　　　　　　　｜　
　　＜世界＞－｜　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
　　　　　　　｜　　　　　　　　　　　　　　　　　　
　　　　　　　　－＜物質界＞（『沈黙』・『無言』・『自分』・『意思』・『感情』・『身体』・『物質』）

　また、これまでは＜世界＞と『沈黙』を区別なく同一のものとして表記と説明をしてきましたが、
　今後は明確に区別することとします。

　（ちなみに空を＜精神界＞と捉えるのもいい手です。
　　その際、色を＜物質界＞と捉えれば「色即是色・空即是色」が綺麗に解釈できます。オススメです）


　さて、新たな言葉と定義によって、分かってくるものを確認していきます。
　存在の構造とは「矛盾」であったことを思い出してもらいましょう。ここでは２つの例、『物質』と＜心＞を図示します。

　　　　　　　－＜肉体＞　　　　　　　　　　　　　　　　　　『感情』－
　　　　　　｜　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　｜
　『物質』－｜　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　｜－＜心＞
　　　　　　｜　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　｜ 
　　　　　　　－・・・＜他現実＞（・＜自現実＞）　　　　　　『身体』－

　ここから、何が分かるのか。

　まず、『物質』とは＜精神＞で出来ているということ。
　また反対に、＜精神＞は『物質』で出来ているということです。

　注目すべきこと、勘違いしやすいこととして、＜肉体＞というのは「『物質』ではない」ということを図からも確認してください。
　＜肉体＞は、＜精神界＞に属する存在です。


　ここで現代科学――主に物理学を取り上げて、
　《私》がここまで解説してきたことが荒唐無稽で宙に浮いた空理空論&amp;u(){ではない可能性}を示したいと思います。

　物理学に、「超ひも理論」というものがあります。
　これを簡単に説明するなら、「『物質』を１本のひもとして捉える」というものです。

　《私》は、この捉え方は正しいと思っています。
　もしも手元にひもがあったら、ぜひ手にとってもらいたいです。そして真ん中辺りを２本の指で「く」の字になるように摘んでみてください。

　その時、２本の指で挟まれた１本と、そこから左右（や上下）の正反対の方向に伸びる２本という形が確認できるはずです。
　「U」や「Y」のような形になっていると思います。３方向に伸びたひもの形を確認できると思います。

　これが、これまで解説してきた「存在の構造」そのものであると思ってます。
　ひもの波が立ったところが「存在」となる。その時、例えば内側に波が立てば『物質』で、外側に波が立てば＜精神＞という感じなのでしょう。（実際には直交関係でしょうけど）

　波は伝播します。
　よって＜世界＞が、すなわち＜他現実＞と『沈黙』と＜自現実＞が『無言』を生み出し、『無言』が＜自己＞を生み出し、
　＜自己＞が『自分』を生み出し、『自分』が＜自我＞を生み出し、＜自我＞が『意思』を生み出し・・・という風になっていると考えます。

　そして波は、また＜世界＞に戻っていくのです。

　
　物理学は、あくまで『物質』を取り扱う学問ですが、
　近年では＜精神＞との区別を付けることが難しくなってきています。正しい兆候だと思います。

　＜精神＞の部分も統一して記述するためには、数学との協力が不可欠でしょう。
　今現在も使用しているでしょうが、虚数や複素数の概念と研究が、とても役に立つのではないかと推測します。

　と言っても、《私》は２桁の足し算や引き算、九九すら怪しい実力です。
　研究者の方々に、詳しい部分で何かを言える立場ではありません。勝手に「頑張ってくださいな」と応援するだけです。



　※補足
　　ここで、ずっとごまかしていた『物質』について、さらに現代科学との関連について追記します。

　　　　　　　　－＜肉体＞　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　－（自分の）＜肉体＞
　　　　　　　｜　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　｜
　　『物質』－｜　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　『物質』－｜
　　　　　　　｜　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　｜ 
　　　　　　　　－・・・＜他現実＞（・＜自現実＞）　　　　　　　　　　　　－（他者の）＜肉体＞

　　上に示した左図が、これまで示してきたごまかしを含んだ『物質』の説明です。
　　右図は、『物質』についてごまかしなしに図式したものです。

　　これは何を意味しているかというと、『物質』とは&amp;u(){自分と他者の、つまり別々の者が共有される場}に存在・現出するということです。
　　＜精神界＞に属している別々の者の＜肉体＞が共有される場に、『物質』が確認されるという意味です。
　　（１１月１１日追記：ここに記していた２行を取り下げ。とりあえず、このままでいいようだ）


　　さて、現代科学との関連についても追記します。
　　ただし、この部分については、先の解説以上に間違っている可能性が高いと考えています。話半分に読んでみてください。

　　すでに「超ひも理論」については紹介しましたが、この理論の先に「Ｍ理論」というのが語られています。
　　やはり正直に告白しますが、解説本などを読んでも変わらずさっぱりでした。

　　それでも、数式などを軽く読み飛ばして日本語で書かれている部分だけを拾い読んでいくと、こんなことが書かれていました。
　　
　　「線分（＝１本のひもとして捉える『物質』）の端にそれぞれ２つの１０次元の宇宙があり、それらは１１次元で繋がっている」

　　これをこれまで《私》が解説してきたことに重ねてみると、下図のようになります。

　　　－　・　　　・　　　・　　　・　　　・　『沈黙』　・　　　・　　　・　　　・　　　・　－
　　｜　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　｜
　　｜　　－（＜他現実＞）　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（＜他現実＞）－　　｜
　　｜　｜　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　｜　｜
　　　－｜　　－＜自現実＞　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＜自現実＞－　　｜－
　　　　｜　｜　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　｜　｜
　　　　　－｜　　－＜自己＞　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＜自己＞－　　｜－
　　　　　　｜　｜　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　｜　｜
　　　　　　　－｜　　－＜自我＞　　　　　　　　　　　　　　　　　　＜自我＞－　　｜－
　　　　　　　　｜　｜　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　｜　｜
　　　　　　　　　－｜　　－＜視線＞　　　　　　　　　　　　　　＜視線＞－　　｜－
　　　　　　　　　　｜　｜　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　｜　｜
　　　　　　　　　　　－｜　　－＜心＞　　　　　　　　　　　　＜心＞－　　｜－
　　　　　　　　　　　　｜　｜　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　｜　｜
　　　　　　　　　　　　　－｜　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　｜－
　　　　　　　　　　　　　　｜　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　｜
　　　　　　　　　　　　　　　－＜肉体＞－　　　　　　　　－＜肉体＞－
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　｜　　　　　　｜
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　－『物質』－

　　別々の者の＜肉体＞によって共有される『物質』の両端に、
　　『身体』・＜心＞・『感情』・＜視線＞・『意思』・＜自我＞・『自分』・＜自己＞・『無言』・＜自現実＞という１０個の存在があり、
　　それが１１個目の『沈黙』によって繋がっているという図がこのように導出できます。

　　ただ、これまで解説してきた存在を、勝手に「次元」として数えているわけですが、これが許されることなのかは《私》には全く判断できません。
　　あるいは解説本などによると、『物質』の部分で３次元＋時間の４次元がすでに数えられているようにも読めるので、その場合は数が合わなくなります。

　　そうなると、《私》は見当違いな解説をしていることになります。
　　まあその可能性のほうが高そうだな、と冷静に判断して思っています。
　　それでもこんな風に紹介しているのは、この妄想が単純に楽しいと感じているから、という理由だけです。愉快犯です。


　　繰り返しますが、話半分で読んでください。

　　もしかしたら次元を数えるのは、＜肉体＞からすべきなのかとも考えたりしていますし、共有される『物質』は３つ以上場合もあるんだろうかとか、
　　＜世界＞には共有されていない沢山のひもがありそうで、これがよく言われるアレとアレのことなのかなとか、
　　こういった解説の中では＜他現実＞や『沈黙』や＜自現実＞は、違う形として捉え直したほうがいいのではないかとか、
　　時間についても、《私》はまた違う形の理解をしていたりもしています。他にも叩けば叩くだけ、いくらでも埃と妄想が出てきます。

　　やはりこの辺りは、研究者の方々に任せたほうがいいのでしょう。改めて、頑張ってください。

**第７段階について、再び【意識】について、そして＜別世界＞　
　　　　　　　－＜他現実＞ 
　　　　　　｜ 
　『沈黙』－｜　　－・・・[外部]（物質的、精神的、認識的、自我、自己、自現実の誤解だけは抜けている） 
　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　－｜　　 
　　　　　　　　｜　 
　　　　　　　　　－ （＜自現実＞、＜自己＞、＜自我＞、＜視線＞、＜心＞、＜肉体＞）『沈黙』 

　＜別世界＞の解説へと向かうために、
　まず第７段階というのが、＜他現実＞の執着を離れることで達成されるものであると、これまで解説していたことをまた思い出してもらいます。

　具体的な、「＜他現実＞に対する執着」というものがどういうものなのか。
　そして「＜他現実＞の執着を離れる」というのが、どういう意味合いを持つのかについては、後々説明します。

　この部分はとても大切な解説になるので、じっくりと時間を掛けて話したいと思っています。


　なので、ここでは別の解説を優先します。
　これまで、執着から離れたものは『沈黙』に取り込まれる。溶け込む。という言い回しを使っていたことを思い出してください。

　そして第７段階の場合、＜他現実＞の執着を離れることができたとき、
　上の図から想像ができるように、＜世界＞には『沈黙』しか存在しなくなるということになります。

　より正確に説明するなら、＜世界＞だけになるということになります。


　ですが、この境地に到達した人は、あることに気付くことになります。
　「＜世界＞だけになったこと」を【意識】（あるいは認識）できているという事実です。

　実はこのことについては、
　第３段階の時点で、小さな疑問や理解のきっかけを得ることができるのです。

　というのも、第３段階は＜視線＞という認識作用の執着を離れることで到達するわけですが、
　「到達できた」と判断できるためには、それを認識する「＜視線＞とは別の認識作用」が必要になるはずだからです。
　
　そして、それこそが【意識】であり、
　第７段階すなわち＜他現実＞の執着を離れることを達成したとき、その「別の認識作用」が＜世界＞には存在しないという結論に至ります。

　＜世界＞内の全てを探しても、それが見つからなかったことから、
　別の＜世界＞――＜別世界＞が存在し、そこに【意識】という認識作用が存在することを結論付けることになるわけです。


　１つ上の段落で、＜物質界＞と＜精神界＞を新たに提示しました。
　そして、それらによって＜世界＞が構成されていると解説しました。

　つまり＜世界＞を認識できるということは、以下のような図式ができることになります。（例によって、＜世界＞は現れません）

　　　－【意識】
　　｜ 
　　｜　　－＜精神界＞ （＜他現実＞・＜自現実＞・＜自己＞・＜自我＞・＜視線＞・＜心＞・＜肉体＞）
　　｜　｜ 
　　　－｜　　 
　　　　｜　 
　　　　　－＜物質界＞（『沈黙』・『無言』・『自分』・『意思』・『感情』・『身体』・『物質』）

　改めて、《私》は述べます。
　【意識】がある場所は、＜世界＞の外です。＜別世界＞となります。

　その【意識】が＜世界＞を、すなわち＜精神界＞と＜物質界＞にある存在を「観る」ことで、認識が生まれているのです。
　
**【意識】は誰のものか？
　さて、＜別世界＞にある【意識】によって認識が成立していることを説明しました。
　そしてそうであるならば、【意識】というのは貴方達に「属しているもの」と言えることを理解してもらえるでしょうか。

　さらに、下図を眺めてください。

　　　－【意識】　　　　　　　　　－＜視線＞
　　｜ 　　　　　　　　　　　　　｜
　　｜　　－＜精神界＞ 　　　　　｜　　－＜心＞
　　｜　｜ 　　　　　　　　　　　｜　｜
　　　－｜　　 　　　　　　　　　　－｜
　　　　｜　 　　　　　　　　　　　　｜
　　　　　－＜物質界＞　　　　　　　　 －＜肉体＞

　今説明したばかりの【意識】と、＜精神界＞と＜物質界＞の関係。
　そしてこれまで説明してきた＜視線＞と、＜心＞と＜肉体＞の関係。これを並べたものです。

　そして認識作用である【意識】と＜視線＞。
　それに認識される＜精神界＞と＜心＞、＜物質界＞と＜肉体＞の関係性はとてもよく似ています。

　ここから発想を発展させれば、＜視線＞に『感情』や＜自我＞や『自分』・・・など他の存在が繋がっていたように、
　同じように【意識】にも他の存在が繋がっているのではないかという推測が立つわけになりますが――それは当たっています。

　　　－＜他現実＞
　　｜
　　｜　　－＜自現実＞ 
　　｜　｜ 
　　　－｜　　－＜自己＞
　　　　｜　｜ 
　　　　　－｜　　－＜自我＞
　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　－｜　　－【意識】
　　　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　　　－｜　　－＜精神界＞ 
　　　　　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　　　　　－｜　　
　　　　　　　　　　　　｜
　　　　　　　　　　　　　－＜物質界＞

　例によって図式できない、
　『沈黙』・『無言』・『自分』・『意思』・『感情』・『身体』も、しっかりと存在します。

　確認しますが、【意識】以上は全て＜別世界＞の存在です。


　さて、これは一体何を表しているのか？
　これから解説することは信じられないかもしれませんが、正直に《私》が理解していることを述べます。

　１．【意識】が自分に属しているものであるということ。そうならば、＜別世界＞に「もう一人の自分がいる」ということ。
　２．認識とは、「＜世界＞の自分」による＜視線＞の認識と、「＜別世界＞のもう一人の自分」による【意識】の認識との合作であるということ。
　３．人間とは、もしくは生物とは、もしくは生命とは、＜世界＞と＜別世界＞という２つの世界を跨ぐものであるということ。
　４．図から＜世界＞の位置と、「もう一人の自分」の『身体』の位置が重なっていることを確認してください。
　　　ということは、&amp;u(){＜世界＞とは「もう一人の自分の『身体』」}であるということ。
　　（ただし、誰にとっても「もう一人の自分の身体」であり、決して「もう一人の自分の身体」に他者が住んでいるなどという意味ではありません）
　　（絶対に誤解しないように。＜世界＞は全ての存在に独占され、また共有されています。決して自分勝手にしていいものではないのです）

　これはかなり私的な呼び方になって申し訳ないですが、
　《私》は「＜世界＞の自分」のことをボクと、「＜別世界＞の自分」のことをオレと呼んでいます。

　　　　　　　－【オレ】 
　　　　　　｜
　　《私》－｜
　　　　　　｜
　　　　　　　－「ボク」

　ここまでの見地から、＜悟り＞について今一度振り返ってみましょう。どのように＜悟り＞を解釈できるか、改めて考えてみましょう。
　＜悟り＞とは何を目指すものか、それを再定義するなら、「《私》を発見する」ことになります。

　その為には、「＜世界＞の自分」にばかり注目していても仕方がありません。
　なぜなら《私》とは、「＜別世界＞の自分」と共に構成している存在だからです。

　だからまず、「＜世界＞の自分」への執着やこだわりを断つ。
　そのことで「＜別世界＞の自分」を思い出したり、あるいは「＜世界＞の自分」や＜世界＞ばかりを注目しないようにする。

　これが修行の目的ということになります。

　「もう一人の自分がいる」ことを忘れたとき、「我を失う」と言います。この「我」は【オレ】です。
　「＜世界＞の自分」の執着から離れることを、「無我」と言います。この「我」は「ボク」です。
　修行の結果、発見するのが「我」です。この「我」は《私》です。

　大変ややこしいですが、言ってみればこれだけのことなのです。
　ですが、きっと貴方達は納得も実感もできないでしょうね。

**＜別世界＞の存在は、普段どう呼ばれているか、捉えられているか
　普段の、通常の常識から考えれば、きっと＜別世界＞の存在は、そのまま《神様》や《お天道様》と呼ばれるものであり、
　《神様》や《お天道様》がいらっしゃるとされる位置の存在となるでしょう。

　当然、これは言葉の定義の問題なので、それでも構わないとは思います。
　実際に多くの宗教や哲学などでは、まさにこの定義を使用していて、広く採用されているわけですから。

　これを踏まえて＜悟り＞を解説すると、
　「多くの人が苦しむのは、自分が《神様》&amp;u(){でもある}ことを忘れているから」ということになります。

　なかなか夢が広がりそうな文章ではありますが、
　《私》は、「もう一人の自分」を《神様》や《お天道様》とすることは不採用とします。【オレ】が《神様》ではないことは、よく分かっています。

　《神様》や《お天道様》とは、もっと偉大で畏れ多い存在です。
　なので《神様》や《お天道様》は、（少なくとも）さらに上層の＜世界＞の存在として定義したいと思います。


　ここで＜別世界＞に「もう１人の自分」がいるということを述べている人が、《私》だけではないことを紹介しておきましょう。
　ヤージュニャヴァルキヤさんとラマナ・マハルシさんという偉大な方々が、同じことを述べていらっしゃいます。

　きっと《私》が知らないだけで、他にもいらっしゃるのだと思います。
　同一の見解を持つ方がいらっしゃるというのは、非常に有り難く感じます。

**再び第７段階について、[外部]について、《神様》と《お天道様》について
　話題が行ったり来たりしていると感じているかもしれませんが、これ以外の順序では解説できる気がしません。
　これで「まっすぐ」解説していると理解ください。

　　　　　　　－＜他現実＞ 
　　　　　　｜ 
　『沈黙』－｜　　－・・・[外部]（物質的、精神的、認識的、自我、自己、自現実の誤解だけは抜けている） 
　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　－｜　　 
　　　　　　　　｜　 
　　　　　　　　　－ （＜自現実＞、＜自己＞、＜自我＞、＜視線＞、＜心＞、＜肉体＞）『沈黙』 

　さて、改めて第７段階について解説をします。
　第７段階の達成は、＜他現実＞の執着を離れることで達成すると何度も解説してきました。

　では具体的に、「＜他現実＞に対する執着」というものがどういうものなのか。
　そして「＜他現実＞の執着を離れる」というのが、どういう意味合いを持つのかについて、解説に移りましょう。

　この部分はとても大切な解説になり、じっくりと時間を掛けていきたいと思っています。
　

　まず既に、第６段階を達成していることで、少なからず『沈黙』に到達していることでしょう。

　そしてそうならば、まず自分については（＜自現実＞も含めて）「ありのまま」を受け入れることができているはずです。
　そして同じように他者に対しても、「ありのままであればいい」という考えを基本的には持っていると推測します。

　しかし、あくまで＜他現実＞に対する執着は残っています。
　なので第７段階に取り組む際に、貴方達は「他者との関わり方」にとても苦労することになるでしょう。

　どういうことなのか？
　貴方達がどれだけ「自分や他者は、ありのままであればいい」と思っていようと、＜世界＞はそんなことを簡単には許さないということです。

　貴方達の希望など全く配慮することなく、他者は貴方達を＜悟り＞から遠ざけようとします。
　また貴方達は、他者の在り方に不満を覚えずにはいられないでしょう。またそのため、他者を＜悟り＞へと導きたい衝動に駆られます。

　そして何よりも、このような状況や不満がある＜世界＞について、
　様々なことを思い悩まずにはいられなくなることと思います。

　それは例えば、こういうものです。

　どうして、＜世界＞には理不尽が溢れているのだろう。
　どうして＜世界＞は、このような＜世界＞の在り方なのだろう。
　＜世界＞の、あるべき在り方。最も良い在り方とはどういうものなのだろう。
　《愛》とは何なのだろう？　《善》とは何だろう？　《美》とは何なんだろう？　・・・その他、諸々。


　実はこれらは、そのまま《神様》や《お天道様》への疑念や要望と同一なのです。

　なぜそうなるのかと言うと、＜世界＞に関与できるのは＜別世界＞の存在であるからです。
　そして貴方達には既に、＜別世界＞の存在とは「もう一人の自分」であると解説をしていますが、
　それを知らない、あるいは確かめられていない段階では、＜別世界＞の存在は《神様》や《お天道様》として想定されるものだからです。

　仮に「もう一人の自分」であることを事前に理解していたとしても、
　その更に上層の＜世界＞には《神様》や《お天道様》がやはり想定されるので、
　結局は＜別世界＞を含めた形で、＜世界＞の在り方への疑念を持つことには変わりはありません。

　どちらにせよ。
　＜世界＞への疑念は、そのまま《神様》や《お天道様》への疑念や要望となるのです。

　どうして《神様》は、＜世界＞をこのような在り方にしているのだろう。もっと良い在り方にしてくださらないのだろう。
　どうして《神様》は、＜世界＞を理不尽で溢れさせているのだろう。理不尽を失くしてくださらないのだろう。

　《神様》は一体どのようなお考えで、＜世界＞に関与されているのだろう。
　それを《愛》と呼ぶのなら、《愛》とは何であろう？
　それを《善》と呼ぶのなら、《善》とは何であろう？
　それを《美》と呼ぶのなら、《美》とは何であろう？


　つまり、第７段階で求められていることは、
　単純に＜他現実＞からの執着を離れることだけではないのです。

　＜世界＞を「ありのまま」に認識することが求められているのです。
　また《神様》を、あるいは《神様》が「為していること」を正しく理解することが求められているのです。

　そして《神様》が、＜世界＞に対して「為していること」をお手本にして、
　それと同じことを貴方達も、他者に対して「為すこと」が出来るようになることを求められているのです。


　そして実はさりげなく、（外部）と［外部］を解説の中で使い分けをしてきました。

　（外部）は単純に、「五感（＝＜肉体＞）で触れることができる（他者の）＜現実＞」という意味合いで理解してもらえば構いませんが、
　［外部］とは＜世界＞であり、《神様》を意味します。

　つまり＜悟り＞が進むと、＜世界＞と《神様》の誤解が晴れていくのです。
　逆に言えば、＜世界＞と《神様》への誤解を晴らしていくことが、＜悟り＞の修行と言ってもいいのです。


　※補足
　　「＜別世界＞の自分」の【意識】と、＜精神界＞・＜物質界＞の関係と、
　　「＜世界＞の自分」の＜視線＞と、＜心＞・＜肉体＞の関係が対応していることは、すでに解説しました。

　　また＜世界＞と、「＜別世界＞の自分」の『身体』は同一であることも話しました。

　　　　－【意識】　　　　　　　　　－＜視線＞
　　　｜ 　　　　　　　　　　　　　｜
　　　｜　　－＜精神界＞ 　　　　　｜　　－＜心＞
　　　｜　｜ 　　　　　　　　　　　｜　｜
　　　　－｜　　 　　　　　　　　　　－｜
　　　　　｜　 　　　　　　　　　　　　｜
　　　　　　－＜物質界＞　　　　　　　　 －＜肉体＞
　　　
　　そして第７段階の＜他現実＞の執着への取り組みは、すなわち＜精神界＞の執着の取り組みということになります。
　　また対応する＜心＞の執着からの取り組みと、同一の問題と理解することができます。

　　＜心＞の執着からの取り組みは、第１段階での問題でした。
　　すなわち「どのような＜心＞の状態が望ましいか」、「こういう『感情』が望ましい」という執着やこだわりから離れることが求めらましたね。

　　これと全く同じで、「どのような＜精神界＞の状態が望ましいか」、「こういう＜世界＞が望ましい」という執着やこだわりから離れることを求められるわけです。
　　ただし、＜他現実＞は他者から見れば＜自現実＞であり、＜自現実＞は他者から見れば＜他現実＞である事実があります。

　　それを踏まえると、第６段階と第７段階は、実際には区別が付きづらいものかもしれません。
　　特に第７段階に取り組む際には、＜自現実＞と『沈黙』と＜他現実＞の問題意識を行ったり来たりすると思われます。

　　ですがその中で、
　　＜世界＞の、すなわち《神様》や《お天道様》への理解を深めていくのです。
　　また＜別世界＞や「もう一人の自分」についても、少なからず着想を得ることになるでしょう。



　※※補足（１１月２９日追記：こちらの補足は、この記事を最後まで読んでから目を通すことをオススメします）
　　さて、万歳！ということで。また１つ、『分からない』になれました。
　　この部分について、どこか引っかかっていたものに気づけました。大変に嬉しいです。

　　では何に気づけたのか、まず結論を言えば。
　　これまで第６段階と第７段階の解説で重要になっていた、＜自現実＞と『沈黙』と＜他現実＞についてですが、これは間違っています。

　　＜自現実＞と『沈黙』と＜他現実＞という捉え方は、
　　修行をしていく上で方便としては有用なのですが、正確なものではありません。


　　何から、追加で説明していけばいいのか迷うところですが、
　　とりあえず…＜現実＞について、＜自現実＞と＜他現実＞に、１つ上の記事で別けたわけですが、これは別けなくてもよかったです。

　　つまり第６段階は、＜自現実＞ではなく単純に（自分と他者の）＜現実＞ということになります。
　　そして後で解説しますが、これを＜有＞と捉えるべきでもあるということが、《私》が確認できた部分なのです。

　　
　　では第６段階に統合されてしまった、第７段階の存在は何なのか？
　　先程まで＜他現実＞が居座っていた場所には、何が代わりに入るのか？

　　それは、＜無＞です。
　　すなわち、よって『沈黙』とは何か？　それは以下のようになります。

　　　　　　　　－＜無＞ 
　　　　　　　｜
　　『沈黙』－｜
　　　　　　　｜
　　　　　　　　－＜現実＞　※もしくは＜有＞と表記すべきもの。

　　
　　また＜世界＞についても、
　　＜物質界＞と＜精神界＞の内訳が変更になります。

　　　　　　　　－＜精神界＞（＜無＞・＜現実＞（もしくは＜有＞）・＜自己＞・＜自我＞・＜視線＞・＜心＞・＜肉体＞）
　　　　　　　｜　
　　＜世界＞－｜　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
　　　　　　　｜　　　　　　　　　　　　　　　　　　
　　　　　　　　－＜物質界＞（『沈黙』・『無言』・『自分』・『意思』・『感情』・『身体』・『物質』）


　　ところで、貴方達には＜無＞というのが何なのかぴんと来ていないと思います。気持ちは分かります。
　　しかし、この＜無＞は貴方達にとても馴染みがあるものなのです。ほぼ毎日のように、実は出会っているものなのです。

　　それは、貴方達が睡眠している時、
　　実はその睡眠とは、&amp;u(){【意識】が＜無＞に対して没頭している状態}のことを言うのです。

　　没頭することを（おそらくサマタの）瞑想と呼ぶのであれば、誰でも毎日のように瞑想しているのです。


　　さて「無」と言えば、様々な定義があります。
　　最も厳格なのが、「想像や想定すらできないもの」というものでしょうか。

　　それを「完全無」という言葉で定義するのであれば、＜無＞は「完全無」ではありません。
　　しかしながらこの＜無＞は、「無」という言葉を使用してもいいものであるとは確信しています。

　　よって、この＜無＞と対比する形で、
　　第６段階の＜現実＞を捉え直すと、それは＜有＞と捉えるべきものなのだろうと、《私》は考えるのです。

　　それにこう捉えると、都合のいいこともあります。
　　よく空（くう）の解説で使われる、「有るでもなく、無いでもないもの」等の言い回し。これがぴたりとはまるのです。

　　１つ上の記事で、『沈黙』を『空』と同一だと捉えていることは解説しましたが、
　　＜有＞だけを言っても、＜無＞だけを言っても、両者を肯定しても、両者を否定しても、『空』が正確ではないことは存在の構造を考えてもらえれば分かると思います。

　　　　　　　－＜無＞ 
　　　　　　｜
　　『空』－｜
　　　　　　｜
　　　　　　　－＜有＞


　　さて、慎重にもう１度確認しますが、
　　修行の上では、この記事ですでに解説している＜他現実＞・『沈黙』・＜自現実＞の捉え方がまずは有用ではないかと思います。

　　なので、どっちでもいいです。
　　＜無＞・『沈黙』・＜現実＞と、そのときそのときで都合のいいほうを選んでください。

　　ということなので、この補足以外の解説については、これまでの内容を修正しないこととします。
　　これは面倒くさがっているのもありますが、事実としてこのままの内容で、とりあえず問題ないからです。

　　１点、念のために確認しておくと、
　　このままの内容は、結局は「第６段階まで」の解説ということになります。

　　ではその先の、第７段階の執着を離れるとは何なのか？
　　これについては、睡眠とは「【意識】が＜無＞に対して没頭している状態」と説明したことを踏まえれば、以下のようになります。

　　「寝る」（＝＜無＞）状態にも、「起きる」（＝＜有＞）状態にも、執着しないようにするということ。
　　

　　すでに・・・《私》は「おあとがよろしいようで」をしました。だからもう黙りましょう。
　　この補足で、あるいは＜世界論＞全体において何か不足や誤りがあるというのであれば、誰かが必要なことを必要なだけするでしょう。

　　それでは。

**今一度、＜世界＞をありのままに観察します
　さて、貴方達は＜世界＞をありのままに観察しなくてはなりません。

　＜世界＞で何が起こっているのか。
　それがすなわち《神様》や《お天道様》は、＜世界＞に対して「どのように」関わっているのかを理解することになります。

　その意味で言うと、第７段階の問題意識とは、
　「《神様》や《お天道様》は、どのようなものであって欲しいか」という執着やこだわりから離れることを求められていると言っていいでしょう。
　あるいは「《神様》とはこういうものである」という勝手な解釈、誤解から離れることを求められていると言っていいのです。


　では、＜世界＞をありのままに観察してみましょう。

　そこで分かることは――「理不尽」であるということです。
　「不条理」であるということです。「報われない」ということです。「思い通りにならない」ということです。

　これらのことは、今までも何度も示してきました。
　ですが今一度、この事実に貴方達は向き合わなくてはなりません。


　＜世界＞とは、「理不尽」なのです。
　すなわち《神様》の＜世界＞への関わりは「理不尽」なのです。《神様》の振る舞いは、為していることは「理不尽」なのです。

　「そんなことはない。《神様》は本当にお優しい方で、＜世界＞に対してこれ以上のない慈愛で接してくださっている」
　「どんな者に対しても、《神様》は救いを与えてくださる」などと、反論される方はいらっしゃるでしょう。

　《私》は、それを否定しません。
　その通りです。《神様》や《お天道様》が為していることは、確かに「そういうもの」でもあります。

　ですが、それだけではない。絶対にそれだけではないのです。
　その「優しさ」と同じくらい、《神様》は「厳しい」のです。

　「《神様》は本当にお厳しい方で、＜世界＞に対してこれ以上のない残虐で接してくださっている」
　「どんな者に対しても、《神様》は救いを取り上げる」のです。

　この振る舞いについても、貴方達はちゃんと目を向けなくてはなりません。
　＜世界＞で起こっているありのままを、ありのままに認めなくてはなりません。

　決して＜世界＞に「理不尽」があることを、
　《神様》が「たまたま間違えた」だとか、「《悪い神様》の方がやった」というような都合のいい解釈をしてはいけません。

　間違えているのは、貴方達の方なのです。
　貴方達が勝手に「《神様》や《お天道様》とは、こういうものであって欲しい。こういうものであるはずだ」と誤解しているだけなのです。

　もしも《神様》や《お天道様》が為していることを《愛》と呼ぶのなら、貴方達は《愛》を理解していないのです。
　もしも《神様》や《お天道様》が為していることを《善》と呼ぶのなら、貴方達は《善》を理解していないのです。
　もしも《神様》や《お天道様》が為していることを《美》と呼ぶのなら、貴方達は《美》を理解していないのです。

　貴方達が苦しむのは、ただそれだけのことなのです。
　《神様》というものを、＜世界＞というものを誤解して理解しているから、その分だけ苦しんでいるのです。

**旧約聖書より、「ヨブ記」
　ここで参考資料として、「ヨブ記」を取り上げたいと思います。

　「ヨブ記」は＜世界＞というのもの、そして《神様》や《お天道様》というのものを考察したり、深く理解する上で、
　とても参考になる書物の１つだと思います。

　実際にそのような目的で、
　多くの方々がそれぞれ様々な研究や解釈、そして解説を発表したりしています。

　　～

　あらすじとすれば、こんな感じです。

　あるところに、裕福で幸福な暮らしをしているヨブという男がいた。
　ヨブは、妻と七人の息子と三人の娘を持ち、その他にも沢山の羊や牛やラクダやロバを所有していて、
　多くの使用人と共に大きく立派な家に住んでいた。

　しかしヨブはそのような幸福に溺れることなく、《神様》を厚く畏れ敬い、品行方正な日々を過ごしていた。
　その《神様》への深い崇拝と、正しい人生の歩みは、《神様》も認めるところだった。

　ある日の事。
　《神様》の前に天使たちが集まってくると、その中に悪魔（サタン）が混ざっていた。

　《神様》が「何処から来た？」と問うと、悪魔は「大地を一巡りして」と答えた。
　《神様》は「それならば、ヨブを知っているはずだな。あの者ほどに正しき者は他に居るまい」と言った。

　悪魔は言った。「あの者が《神様》を崇拝するのは、《神様》のお陰で裕福で幸福な暮らしができているからでしょう。
　もしもそれらを失えば、たちまち《神様》への崇拝を辞めるでしょう」

　それに対し《神様》は、
　「ならば試してみるがいい。ヨブの財産に手を出すことを許そう。ただしヨブ自身には手を出すな」と答えた。

　ヨブの身に不幸が降りかかることになった。
　悪魔によって、ヨブは七人の息子と三人の娘達を一度に亡くした。さらに家畜たちを全て奪われた。

　ヨブは哀しんだが「母の胎から裸で出てきた私が、母なる大地に裸で戻る。《神様》が私にそれを与えそれを奪う。
　《神様》よ、主の名に讃えあれ」と言って、愚痴の一つもこぼさなかった。

　またある日の事。
　《神様》の前に天使たちが集まってくると、その中に悪魔が混ざっていた。

　《神様》が「何処から来た？」と問うと、悪魔は「大地を一巡りして」と答えた。
　《神様》は「それならば、神を畏れ悪を退けて生きるヨブの姿を見たはずだな。お前は違うものを見たかったようだが、
　ヨブはどこまでもまっすぐだ」と言った。

　悪魔は言った。「誰しも本当に大切なのは我が身。我が身に比べれば家族や財産など、問題にはならないでしょう。
　もしも我が身が危機となれば、《神様》への崇拝を辞めるでしょう」

　それに対し《神様》は、
　「ならば試してみるがいい」と言った。

　ヨブの全身は、重い皮膚病に侵されることとなった。
　異常な痒みがヨブの身体を苛むが、ヨブはそれでも「どうして《神様》を呪わないのか？」という妻の質問に、
　「幸福を貰った以上、不幸も貰うのだ」と答えた。


　ヨブに降りかかった不幸を伝え聞いて、三人の友人（エリファズ、ビルダド、ツォファル）が訪ねてきた。
　三人は全身を重い皮膚病に侵されたヨブの姿に、慰めの言葉をかけることもできずに、七日七晩ただ寄り添うことしかできなかった。

　やがて皮膚病に苦しみ続けるヨブが、友人たちを前に口を開いた。
　「私が生まれた日よ、消滅せよ。何故、母の胎の中で死ななかったか、せめて光を浴びてすぐ、何故死んでしまわなかったのか」

　思いもよらないヨブの言葉に、エリファズが言った。
　「《神様》への畏れはどうした。勇気と忍耐は、何処へ行ってしまったのだ。その道を全うすることが、お前の生きる道ではなかったのか。
　考えても見よ。正しい者は絶たれはしない。悪の種を蒔くものが災いを刈り取ることになっているのだ。《神様》以外に、誰がお前の叫びを
　聞いてくれるのか。ただ祈って、《神様》の救いを待つべきだ」

　ヨブは、それに対して言った。
　「私にこの恐怖を与えているのは、他ならぬその《神様》なのだ。ロバは食う草があれば鳴いたりはしない。
　《神様》よ、私を傷つけることで始まったのなら、もう命を取って終えてくれ。私には待つ力などない。このまま待つことで、
　どんな終わりがあるというのか」

　さらにヨブは言う。
　「もしも教えてくれるのなら黙りもしよう。私のどこが間違っているのだ。このまま生きて何になるのか。
　よしんば私が過ちを犯したというのなら、その罪人を《神様》は何故さっさと取り除いてくれないのか」

　今度はビルダドが口を開いた。
　「そんなことを言うものではない。全能の《神様》は正義を曲げたりはしない。何のために《神様》が裁きの在り方を曲げるのか。
　お前の息子達が死んだのは、息子達が罪を犯したからだ。お前が潔白であるかぎり、《神様》はこれから必ず救いを与えてくださる」

　ヨブは言う。
　「そんなことは知っている。問題は、どうして《神様》は訳もなく私を傷めつけるのかということだ。
　自分が正しいと言えば言うだけ、《神様》に背いたことになる。正しい人間であると言えば言うだけ、罪を重ねることとなる。
　もはや私が正しいかどうかなど、どうでもいい。罪があろうがなかろうが、私はどのみち滅ばされるのだ。どのみち有罪とされるのだ。
　あえて聞こう、教えてくれ。私の無実を知りながら、自分達ではこの私を救えないことを知りながら、どうして更に私を責めるのか。
　もしも私が罪を犯すのを見過ごしていたというのなら、どうして今教えてくれないのか」

　ツォファルが言った。
　「そこまで言うのならば、当然同じだけ聞く耳は持っているだろうな。それとも口を開いただけ正しいとでも言うのか。
　お前は、自分は誓って正しい。誰の目にも潔白だというが、全てを知っていらっしゃる《神様》ならば何と仰るか。
　お前の現状は、むしろ《神様》に手加減されたものかもしれないぞ」

　ヨブは言い返す。
　「どうして、お前達だけが《神様》の考えを知っていると言えるのか。いいか。私が話したい相手は《神様》なのだ。
　《神様》に会って直接、私が潔白であることを主張したい。お前達は、出来もしない《神様》の代理をしている。
　勝手に代弁して、私に向かってただ自分が思っていることを言って責めているだけなのだ」

　さらにヨブは言う。
　「私が正しいという訳を聞いてくれ。自分で自分を裁くなら、私は間違いなく潔白だ。
　もしそれを信じ味方をしてくれる者がいるのなら、このまま黙ったまま死んでもいいのだ。《神様》よ、教えてくれ。
　私にどんな罪があるというのか。どうしてそれを教えてくれないまま、こんな風に私を罪人として扱うのか」

　エリファズが言う。
　「知恵のある者が、お前のように言葉を撒き散らしたりするものか。どうして《神様》に逆らうのか。
　《神様》に対して、そのような言葉を吐くものが一体どこにいるというのか」

　ヨブが言う。
　「そんな説教を聞くのは、もうまっぴらだ。こうなった私に、どんな希望が残されているというのか」

　それから四人の議論は、堂々巡りを始める。
　ビルダドは「怒りで自ら命を断つ者よ」と非難し、ヨブは「これ以上、私を苦しめるな」と言い返した。
　
　ヨブが友人達に言う。
　「どうして、せめて同情してくれないのか。それが友ではないのか。それなのに、どうして《神様》と一緒になって責めるのか」

　ツォファルが、
　「不信心者の栄華などない」と《神様》に逆らう者の味方などしない、と答えた。
　
　ヨブはそれならば、
　「どうして、現実には不信心者が栄えているのか。そして更に富を増やすことができているのか」と問う。

　エリファズはそれに対し、
　「《神様》にとって、人間は小さく相手にするほどの存在でもない以上、《神様》は特に問題がなければ放っておかれるはずだ。
　だからお前は、知らず知らずのうちに《神様》が気に留めなくてはならないほどの罪を犯したのだ」と筋違いの反論をした。

　ヨブは言う。
　「《神様》はどこに居るのか。どうすれば会えるのか、話せば分かってくれるはずなのだ」

　それに対しビルダドは、
　「《神様》にとっては、人間など虫けらである。どうやって《神様》と人間とを比べて裁判ができよう」と言った。

　ヨブがまた口を開く。
　「私は、絶望する者がいれば共に泣いた。貧しい者に心を痛めた。私は、曲がった道を歩かなかった。私の手は汚れてはいない。
　私が自らの立場を利用して、孤児に手を振り上げたことがあったか。金と権力に頼ったことがあったか。
　アダムのように、罪を胸に秘めたことがあったか」

　四人の議論は感情的にもなって全く噛み合わなくなっていくが、ヨブはあくまでも自分の潔白を主張することをやめなかった。
　議論は暗礁に乗り上げた。


　ここで、ずっと黙って推移を見守っていたエリフという人物が、
　四人に向かって言った。

　まずはエリファズ、ビルダド、ツォファルの三人に向かって、
　&amp;bold(){「彼を論破するのは《神様》であって、自分達人間ではないなどと言って済ましてはならない」}と叱った。

　それからヨブに向かって、
　「貴方の過ちは、自分は罪を犯していないのに《神様》が罰すると言い張ることだ。
　《神様》がどうしてお前の言うことにいちいち返答しよう。ヨブよ、黙しなさい。《神様》の裁きを待つべきだ。今はその時ではない。
　貴方は失礼な言葉を吐いても、《神様》が怒ってこないからといって不誠実を重ねている。貴方が罰を受ける気持ちなら、裁きは正しく下る」


　そしてついに、《神様》が竜巻の中からヨブに話しかけた。
　「無知な言葉で裁きに口を挟むとは何者か。これから聞くことに答えよ。大地の基礎を据えた時、お前は何処にいた。
　一度でも、お前は朝の光に命じたことがあるのか。深淵を巡ったことがあるのか。光の住まいは何処か。闇の住み家は何処か。
　誰が雨と霜と霰を創ったのか。お前が雲を呼べば、洪水が起こると言うのか。稲妻が答えるのか。鷹に南へ飛ぶことを教えたのはお前なのか」

　ヨブは《神様》の声に答えた。
　「返す言葉もありません。私が浅はかでした。この手で口を塞ぎます。貴方の存在は、聞いて知ってはいました。
　しかし実際に貴方を知った今、私は自らの誤りを理解し、灰と塵に伏して罰を受けます」

　さらに《神様》は、エリファズ、ビルダド、ツォファルの三人に向かって叱った。
　「ヨブのようにまっすぐ話さなかった者たちよ。七頭の雄牛と雌羊を引いてヨブの下に赴き、お前達自身のために生贄を捧げよ。
　さすればヨブはお前達のために祈り、お前達の罪を許すこととしよう」

　そして《神様》の言われたとおりに、
　ヨブが三人のために祈ったとき、《神様》はヨブの身体を元通りにしたばかりか、財産を倍にした。
　その後、ヨブは百四十年の生を全うした。

　　～

　以上が「ヨブ記」のあらすじです。いかがでしたか？
　是非こんなあらすじではなく、きちんとした「ヨブ記」も読んでみてください。

　さて《神様》や《お天道様》が、＜世界＞に為していること、
　そして《愛》や《善》や《美》の解説については、次の段落で詳しく話したいと思っています。

　ですので、ここでは貴方達に「ヨブ記」の中で一箇所だけ強調して示したいと思います。
　太字にしていたので予想は付いているかもしれませんが、エリフが三人に向かって発した言葉です。

　&amp;bold(){「彼を論破するのは《神様》であって、自分達人間ではないなどと言って済ましてはならない」}

　この言葉の態度こそが、貴方達に求められているものです。

　貴方達は、《神様》が為していることを、
　《愛》と《善》と《美》について理解しようとすることを、諦めてはいけません。
　決してそれらを《神様》に丸投げしてはいけないのです。（※「もう一人の自分」と共に考えるのは構いません）


　これを可能とする姿勢は、
　「分からない」ことを、分からないと正直に認められる素直さです。
　そして「分からない」ことに、ひたすら取り組み続ける忍耐であり、勇気です。

　「ヨブ記」について、貴方達は多くを理解できなかったことでしょう。でも、それは構わないです。
　しかし、もう一度取り組みなさい。何度も敗北することになりますが、それでもひたすら取り組みなさい。

　それ以外に、道はないのです。

**《神様》が為していること、《愛》とは《善》とは《美》とは
　これから、《私》の見解を述べます。

　《神様》が為していることが何なのか、
　それを《愛》や《善》や《美》と呼ぶのなら、それは何なのかを。


　結論は、《神様》が為していること「とは」――『分からない』です。
　すなわち《愛》「とは」、《善》「とは」、《美》「とは」――『分からない』です。


　決して、勘違いしてはなりません。

　為していること&amp;u(){が}、『分からない』と言っているわけではないことを。
　為していること&amp;u(){は}、『分からない』と言っているわけではないことを。

　《愛》や《善》や《美》&amp;u(){が}、『分からない』と言っているのではないことを。
　《愛》や《善》や《美》&amp;u(){は}、『分からない』と言っているのではないことを。

　また、《神様》が為していることは「無い」と言っているわけでもないことを。
　《愛》や《善》や《美》が「無い」と言っているわけでもないことを。

　《神様》が為していることは、「有る」のです。
　《愛》や《善》や《美》は、「有る」のです。

　そして《私》は、『分からない』を為しているのだと言っているのです。
　《愛》や《善》や《美》「とは」、『分からない』であると言っているのです。


　・・・残念ながら、ここまで丁寧に話しても、貴方達が区別を正確に付けられないことは知っています。
　区別が付けられないから、毎日を苦しんでいることを《私》は知っています。


　理解を深めるための、補助線を示しましょう。

　第４段階、つまり仏教における＜悟り＞の境地のことを思い出してください。
　『無言』に到達することで、それは達成されるものでしたね。

　そこで取り組む問題意識とは、「『自分』が生きている」のように、
　常に『自分』を【意識】していないと駄目ですか？　というものでした。

　「生きている」だけでは駄目なんですか？
　いちいち「『自分』が」を【意識】していなきゃ駄目ですか？　というものでした。

　そして『無言』に到達するとは、「自分そのもの」になるということでした。
　つまり『自分』というのを本当に達成したとき、理解したとき、『自分』とは『分からない』になるのです。

　これが&amp;bold(){＜分かる＞というものの原理}なのです。

　他の全てのものに対しても、
　『分からない』になったときに、貴方達は「そのもの」を本当に理解することになるのです。

　よって逆に、「そのもの」を本当に理解できていないとき、すなわち『分からない』になっていないとき、
　貴方達は「分かっているつもり」になっているだけなのです。

　『分からない』になるのが正しいのに、
　「分かっているつもり」になっているから、貴方達は間違え続けるのです。


　ここで偉大な方々の一人である、ソクラテスさんを取り上げましょう。
　そしてソクラテスさんと言えば、「無知の知」が有名ですね。つまり、『分からない』ことを知っていた方なのです。
　
　更にこんなことを述べています。
　「自ら進んで悪を為すものはいない。もしあるとすれば、それは「知っているつもり」ゆえである」

　非常に正しい見解だと思います。


　改めて、《私》は述べます。

　《神様》や《お天道様》とは、そして《神様》や《お天道様》が為していることとは、
　《愛》とは、《善》とは、《美》とは――『分からない』です。

　これは「何もしていない」という意味でもなく、それらが「無い」という意味でもないのです。
　むしろ歴然と「有る」のです。「為している」のです。

　そして貴方達にも、生を全うする上で、
　同じように為すことを＜悟り＞と《神様》は求めているのです。

**おあとがよろしいようで
　ずっと勘違いしていたのですが、
　落語で使われる「おあとがよろしいようで」という言葉は、「落ちが付きましたので失礼します」という意味ではないそうですね。

　　１．「次の方の準備ができたようなので、これにて失礼します」
　　２．「わたしよりも、次の方のほうが良いらしいですよ」

　などという意味だそうです。

　その意味で、＜世界論＞最後の段落にはこの題名を付けさせてもらいます。
　つまり貴方達にはそれなりの期待をしているということです。まあ、明日の朝の占いが良いものであったらいいな程度ですが。


　＜世界論＞は、これで終了となります。
　後で付録のようなものは用意しようかと思っていますが、本線としては終わりです。

　改めて《私》は言います。
　&amp;bold(){&amp;u(){＜悟り＞とは、役に立ちません。}}

　そして今や、それは＜世界＞とは役に立たないということを意味するものであり、
　またそれは、《神様》や《お天道様》が役に立たないということも意味し、
　《愛》や《善》や《美》が役に立たないということを意味していることを、貴方達は少なからず理解しているはずです。

　「役に立たない＜世界論＞」の名に偽りなく、
　この最後の記事まで書き上げることができたことを、《私》は大変満足しています。

　もちろん、今後もたくさん修正や追記をすると思います。
　＜世界論＞の全ての記事について、間違えが何も含まれていないなどとは全く思っていません。

　むしろ、全て間違っていて欲しいとさえ思っています。
　間違っているのなら、《私》はさらに『分からない』になれる。『知らない』になれるのですから。

　ですから、その意味でも貴方達には、《私》など軽く超えてもらわなくては困る。
　そして《私》の間違えを指摘して欲しいのです。もっと『分からない』にして欲しいのです。

　だから今一度、この言葉を――「おあとがよろしいようで」。    </description>
    <dc:date>2017-05-21T19:05:58+09:00</dc:date>
    <utime>1495361158</utime>
  </item>
    <item rdf:about="https://w.atwiki.jp/midutamali/pages/43.html">
    <title>「役立たず」になるということ</title>
    <link>https://w.atwiki.jp/midutamali/pages/43.html</link>
    <description>
      **他にやらなくてはならないことができました
　ので、この記事を更新するのはずっとずっと先か、もしくは決して更新されないものと思ってください。


　この付録では、＜世界論＞全体の総括だとか補足だとか、
　ボクがごまかしていたことの白状だとか、
　今現在の分かっていることと、分かってないことと、分かっているつもりのことと、分かっていないつもりのことを話そうと思っていたのですが、それは出来ません。

　どう上手く解説しようとしても、言葉にしている限り＜世界＞と＜悟り＞の解説は不十分なものにしかならないわけですが、
　それを抜きにしても、不完全な形で＜世界論＞は放置されることが決定しました。

　ただでさえ不十分にならざる得ないものが、ボクのせいで「さらに不完全になっている」ということを念頭に置いて、
　この＜世界論＞を深く理解しようとされる方がいらっしゃるのならば、読み進めることを忘れないで下さい。

　まあいい具合なのかもしれません。
　結局は、自分で手にするしかないのですから。何もかも。

　誰にも頼れないのですから。


　そういう意味で言うと、このwikiは全てが&amp;bold(){「野暮」}なのです。

　ボクは、ボクの（修行の）ために＜世界論＞を書き始めたわけですが、
　書き始める前から、＜世界＞や＜悟り＞は言葉にできないことを知っていました。（先に＜無我＞の体験があったからです）

　それを誰かに正確に伝えようとするなら、ただ黙っていればいいことを知っていました。


　それでも、ボクは、ボクの修行として言語化の作業を始めたわけです。
　それは、ボクにとってはこれが一番有効なものであるという感覚と、どこか導かれるものがあったからです。

　なので、この＜世界論＞はそもそも他者に＜世界＞や＜悟り＞を解説しようと書いたものではありません。
　当然wikiですから、そのことを想定もしていますし、実際その想定の上で記事を書いてはいます。

　ただし、あくまでもこの＜世界論＞は、ボクがボク宛てに書き進めたものなのです。
　だから自信があります。この＜世界論＞を誰よりも読み込んでいるのは、ボクであると。

　ボクは＜表現＞というのが、&amp;u(){自分の実力以上のもの}が創出されることを経験上、何となく分かっていました。（ただし、正しく＜表現＞した場合のみです）
　最初からそれをちゃんと理解していたわけではなかったのですが、記事を重ねることでより確信しました。

　それを利用したわけです。
　秘密ではない秘密を明かしてしまえば、ただそれだけのことです。


　まだまだ、語れることもありますし、語れないこともあります。
　それと語らないほうがいいこともあります。ですが、「語るべきこと」はそもそもないのです。

　　（２０１６年９月２４日追記：やはり、このことを少しでも示しておく必要があると感じたので追記します。
　　　ボクがこの＜世界論＞から故意に排除し、語らなかった項目の筆頭に《性》がある。
　　　実はこの《性》とは、＜世界＞や＜悟り＞以上に本来は優先して語らなくてはならないほどのものだと考えている。それほど《性》とは重大かつ根本なものだ。

　　　だけど、それは重大すぎて、根本すぎるがゆえに、
　　　＜世界＞や＜悟り＞以上にどれほど慎重に工夫を凝らして語ったところで、どうしても酷い誤解を与えてしまう。それも決定的に、長引く絶望的な誤解を。

　　　そしてそれは、膨大な不幸を産み出すことになるだろう。


　　　もう黙る。
　　　この追記でボクが示したいことは、ただ１つ。「語らなかった」ということだけだ。おあとがよろしいようで。後はお願いするよ？）

　黙っていればいいんです。
　それが最も正しいのですから。

　ただこんなことを書くと、中途半端な方々が形式だけ「黙っている」ように振る舞い始めるでしょう。
　あるいは何でもかんでも「分からない、分からない」と言い始める方々も出てくるかもしれません。

　ですが・・・そのお世話まで、ボクがやらなくてはならないでしょうか？

　確かに原因を作ったのはボクであり、それは時に酷い事態を招くと思います。とてつもない犠牲を産み出すことも知っています。
　ボクは「世界観」というものの、その恐ろしさをよく知っているつもりです。

　その凄惨さを。その破壊力を。その未知を。

　ですので、かなり慎重に語ったつもりです。
　例えば＜世界論＞で何度も制止を促しているのは、その一環なのです。


　正直に言います。
　ボクはもう&amp;u(){面倒になっている}のです。

　この＜世界論＞に携わることも、その後に関与することも、もはや面倒になっているのです。終わった話です。


　他にやるべきことができました。
　これから取り組もうとしていることは、＜世界論＞と全く関係がないわけではないですが、とりあえず別分野です。

　ボクとしては、決して意欲的でも積極的でもないのですが、オレとその奥から指導が入りました。

　なら、選択肢はありません。
　まあやるからには、専念しましょう。専念していることすら意識しないぐらいに。


　と、いうことで、
　＜世界論＞は多分終わりです。
　
　もしかしたら、私にもっと何かを期待している、あるいはもっと何かを期待していた方もいらっしゃるかもしれませんね。
　でも、私は「役立たず」なのですよ。「役立たず」ってこういうものです。そうでしょう？

　「役立たず」に何かを期待していたら、それは期待していたほうが間違っているのです。

　どうです？　
　「役に立たない、になる」って、「役立たず」になるってこんな感じなのです。こんな感じでしかありません。

　それでも目指したいって思いますか？
　道を歩みたいって思いますか？

　もしそうなら、「勝手に頑張りなさい」という言葉と、「勝手に応援しています」という言葉の両方を送りましょう。

　好きにするといいです。
　どのような貴方であろうとも、貴方のことを。

　それでは。ではでは。


**＜世界＞を統べるルール



　    </description>
    <dc:date>2016-09-25T10:20:07+09:00</dc:date>
    <utime>1474766407</utime>
  </item>
    <item rdf:about="https://w.atwiki.jp/midutamali/pages/27.html">
    <title>振り返りとまとめと</title>
    <link>https://w.atwiki.jp/midutamali/pages/27.html</link>
    <description>
      **まずは謝辞から、それと＜世界論＞全体の意図
　さあて、ここまで＜世界論＞では６本の記事を準備させてもらった。

　今、ここを読んでいるみんなが、その６本に目を通しているかは分からないけれど、
　もしそうならば、本当に感謝を。大変に有り難い話だ。　

　そうでなくとも、こんなwikiに迷い込んでくれたことをしめしめと喜んでるよ。


　[[トップページ&gt;トップページ]]でも紹介しているんだけれど、
　このwikiでは＜世界＞というのものに少しでも近づくことを目標としている。

　その中での役目として、この＜世界論＞はwikiの軸を担ってもらう大事なところだ。

　ボクらが、ボクらの所在地である＜世界＞をどのように捉えられるのか。
　「世界観」・・・と言うべきなのか、それをどのように持てるのか。
　どのように理解できるのか。どのように言葉にできるのか。

　それを考察していくのが、この＜世界論＞の目的だ。

　とりあえずは、ここまで用意した６本の記事で、
　ボクの現在の「世界観」については、ある程度、紹介することができたと思ってる。


　その上で、&amp;u(){ちょっと注目なんだけど}。
　この記事の最後では、ボクが「あえて」６本の記事の中では強調しなかった、
　「あえて」みんなが誤解して解釈するように仕向けたポイントについて、誤解を解く意味でも列挙していこうと思ってるんだ。

　ただしその部分は、これまでの６本の記事をちゃんと「理解できた」と自信がある人だけ目を通して欲しい。
　というのも、そうしないとせっかく掴みかけていたものが意味不明になって、混乱が酷いことになるだろうからだ。

　これは約束だよ。


　どうして、「あえて」強調しなかったのかは説明しておこう。

　１つは、情報過多で複雑になりすぎるのを嫌ったからだ。
　ただでさえ＜悟り＞や＜自己＞や＜自我＞など、日頃はまず気に留めたことがないであろう部分に話が及んでいて、
　それだけでもなかなかピンと来るものではないのに、重箱の隅をつっつくような詳細な解説をさらに加えると、
　結局、何もかも分からなくなってしまう気がしたんだ。

　もう１つは、誰かに何かを「伝える」とき、
　そこには故意もしくは意図しない「嘘」や「誤り」が必要だと考えているからだ。

　特に＜悟り＞の説明の場合、このことをよくよく気をつけておかないと、説明する側も訳が分からなくなっていく。
　どうしてなのかというと、＜悟り＞とは決して「言葉にできない」からだ。

　それなのに無理やり言葉にしようとすると、どんどんどんどん＜悟り＞から離れていってしまうか、
　もしくは全く違うもの、つまり嘘や誤りを含んだものになってしまう。故意か、意図しないものかは別にしてね。

　それを避けるためには、
　説明の中の、どこで「嘘を付いているのか」をはっきり明示するか、
　もしくは「言葉で以って、言葉にできない」を表現していくしかない。

　つまり＜悟り＞とは、
　現象としても、文章表現としても、本来は&amp;bold(){「言葉ある無言」}や&amp;bold(){「言葉ある沈黙」}としか表せられないものなんだ。


　古今東西の、＜悟り＞を語る書物や発言が、極めて難解に感じられるのはこれが原因だ。

　それらは「言葉で以って、言葉にできない」を表現しているから、
　まともに読んでいくと「結局、何が言いたいんだ？」なんて感想を持つことになる。
　＜悟り＞に近い書物であればあるほど、その傾向はとても顕著になる。

　でも、それはその「感想そのもの」がそのまま答えなんだ。
　ある意味で、みんなは十分に理解できていることになるんだよ。

　その感想をそのままに。
　混乱や困惑を――「言葉にできない」ことを、そのまま腑に落ちることができれば＜悟り＞に触れられるんだ。


　＜世界論＞では、ここまでの６本の記事に「あえて」嘘を混ぜることで、その引き換えに分かりやすさを確保したつもり。
　それを、みんなには提供したつもりなんだ。

　だから逆に言えば、正確ではないということになる。
　どんな嘘を混ぜたのかは秘密にして墓場まで持っていってもいいんだけど、まあ最後に正直に列挙しておくよ。

**「救い」を軸にして、＜世界論＞全体を振り返ってみる
　&amp;bold(){[[１．＜世界＞を統べるルール&gt;＜世界＞を統べるルール]]}
　　＜世界論＞の導入として、まず最初にみんなへ提示した＜世界＞のルール。
　　『思い通りにならない』というルールは、本来は誰でも気付くことが可能なものなんだ。

　　ありのままに、よくよく日常を見つめて観察すれば、
　　それは当たり前のこととして、すんなりと導出できるものだ。

　　だけどボクらは、その結論にたとえ気付いたとしても暗に理解を拒否をする。
　　発見したとしても、認めたくないという気持ちが勝って、必死に目を逸らしてしまう。
　　そしてその内、すっかりそのことを忘れてしまう。

　　どうしてかというと、あまりにも結論がミモフタもないと考えるからだ。
　　あまりにも、「救いがない」と感じてしまうからだ。

　　だけど、それは捉え方が完全に間違っている。


　　＜世界＞に「救いがない」ということは、
　　それは、ボクらが生きる上で「救い」のことを全く考える必要がないということだ。
　　一切、「救い」にこだわる必要がないということだ。

　　「死ぬまでに救われないと、未練が残ってしまう」なんて、考える必要がないということ。
　　「一体、どうしたら救われるんだろう」とか、「あの人はもう救われてるのに、ワタシはまだ救われてない」なんてことを、
　　考えたり、悩んだり、苦しんだりして、思い煩う必要がないということだ。


　　だから「救いがない」という話は、
　　決して悲劇として捉えるべきものじゃない。決して絶望として捉えるべきものじゃない。絶対にそれは違う。

　　そして、気がついてほしいんだ。
　　ボクらが「救い」のことなんて考える必要が全くないこと――それこそが「救い」であるということを。

　　＜悟り＞が与える「救い」というのは、こういうことなんだ。
　　ボクらが「救い」のことなんて一切考えなくてもよくなる。そんな風に生きることができる。
　　
　　だから生きていく上で、いついかなる瞬間も、ボクらは未練も不足も余分もない。
　　完全に満たされていて、完全で完璧だ。そんなボクらがそこに居るんだ。

　　これが＜悟り＞であり、＜悟り＞が与えてくれる「救い」なんだよ。


　　言ってみれば、ボクらはすでに「救われている」んだ。
　　だけどそれを忘れているから、忘れてしまっているから、ボクらはずーっと苦しんでいるんだ。

　&amp;bold(){[[２．『思い通りにならない』を確かめる&gt;『思い通りにならない』を確かめる]]}
　　すでに「救われている」ことを思い出すためには、思い出すことを邪魔している覆いを取ればいい。

　　覆いとは、ボクらがすでに「救われている」のにそれを忘れてしまって、
　　さらに「救い」を求めようとする試み（「思い」）のことだ。

　　『思い通りにならない』ものを、「思い通りにしようとする」試みのことだ。
　　探しても探しても絶対に見つけられない、「救い」を探そうとする試みのことだ。


　　そりゃあ、見つからないよね。
　　だって「救い」は、それを探そうとしてる「ボクら」そのものなんだから。

　　それを忘れて、ボクらは「ボクら」以外のところを熱心に探す。
　　必死に、懸命に、執拗に、何とか救われたいってひたすら苦しみながら一生懸命に探しているんだ。

　　その試みは、全て無駄で不毛なことなのにね。


　　だからそんな無駄で不毛な試みは、止めてしまえばいい。
　　『思い通りにならない』ものを、「思い通りにしようとする」試みなんて、止めればいい。

　　そんな覆いは剥ぎ取ってしまえばいい。

　　覆いが取られたら、
　　そこで剥き出しになるものは、すでに救われている「ボクら」だ。「救い」はそこで見つかるんだ。

　&amp;bold(){[[３．「思い」はどこに消えた？&gt;「思い」はどこに消えた？]]}
　　この記事の、＜自己＞と＜視線＞と＜心＞と＜肉体＞の関係や解説について、
　　もしも解説が分かりづらく感じていたら、ボクに愚痴や文句を言いながら、適当に無視してもらって構わない。
　　＜悟り＞に触れるために、ここを理解することは必須なことじゃないからね。

　　ただそれでも抑えてほしいポイントを挙げるなら、
　　「思い」は、ボクらからは「視えないところ」からやってきて、
　　「ボクら」（「救い」）を覆い隠してしまってるんだってことかな。

　　ボクらは毎日毎日、とんでもない量の「思い」――覆いを、生み出し続けているんだってこと。
　　そして何層にも、何重にも、その「思い」で「ボクら」を覆い隠しているんだってことを理解してほしい。

　　そしてその「思い」は、すべて勘違いから生まれる。
　　勘違いとは、すでに「救われている」のに、それを忘れてしまって「まだ救われてない」とする勘違いなんだ。　

　&amp;bold(){[[４．「間違え」がないとは&gt;「間違え」がないとは]]}
　　必死に、懸命に、執拗に、ボクらは「ボクら」以外のところから「救い」を探そうとする。
　　だからその対象は、あらゆるものだ。見境がない。

　　＜視線＞や＜心＞や＜肉体＞は簡単に飛び越えて、
　　もはや対象が真実であるとか、実在しているとか、確かめられるものか、なんて関係がない。

　　そんなことを気にしている余裕は、きっとボクらには無いんだろうね。
　　

　　常に焦っていて、怖れていて、怯えていて、
　　不安で、不満で――とにかく１秒でも早くこの状態から抜け出したくて、だから一心不乱に「救い」を探し続ける。

　　だけどそもそもボクらは、
　　「救い」を必死に探しているボクらすら、その事実すら、まるで気がついてなかったりする。

　　だから理由も分からずに、（視えないところから）湧き上がる感情や衝動に振り回される。掻き乱される。
　　その苦しみは、全てボクらの「勘違い」が作り出しているのに、それだって忘れて過剰な破壊衝動や保護衝動へと結びついていく。

　　それが、ボクらの＜日常＞だ。
　　「一切皆苦（いっさいかいく）」、『思い通りにならない』の中で、ボクらは生きている。

　&amp;bold(){[[５．「無我」と向き合う&gt;「無我」と向き合う]]}
　&amp;bold(){[[６．＜悟り＞を言い換える&gt;＜悟り＞を言い換える]]}
　　上の４つの記事までで、「救い」を軸にした振り返りはできたと思うから、この２つは同時に扱ってしまおうと思う。

　　それで唐突に話は変わるんだけど、
　　お釈迦様は＜悟り＞を得ることができるか、ということを考えてみる。
　　答えは当然にも、意外にも感じられるけど「ノー」となる。

　　同じように、お釈迦様は「救い」を得ることができるか、ということも考えてみる。
　　これも答えは「ノー」だ。

　　何故ならば、お釈迦様はすでに＜悟り＞を得てしまっている。「救い」もすでに得てしまっているのだから、
　　そこからさらに＜悟り＞を得たり、「救い」を得ることはできないってことになるから。


　　何が言いたいのかというと、
　　もしもみんなが＜悟り＞を得たいと思っていたり、「救い」を得たいと思っているなら、
　　その第一条件は、みんながまだ＜悟り＞を得ていないということ、「救い」を得ていないということになるって話だ。

　　これはお釈迦様だって踏んだ、由緒正しき第１ステップなんだよ。

　　つまりすでに、みんなには＜悟り＞や「救い」を得るための準備ができていることになる。
　　やったね。良かったね！



　　それと、もう１つ。

　　ボクはこれまで、＜悟り＞について拙い解説をしてきたわけだけど、
　　「悟り方」となると解説できるものはほとんどない。

　　その部分に関しては、もっと適任の方がいらっしゃるんだと思う。
　　残念ながら、最も適任な方であろうお釈迦様は今の時代にはいらっしゃらないけど、まあ頑張って見つけるといいと思う。

　　その見つけられた方が仰ることが、どういう意味の話なのか。
　　あるいは本当に確かなのかっていうのを判断するための１つの参考資料として、
　　この＜世界論＞を始めとするwikiの記事を、適当に眺めてもらえればいいんじゃないかと思ってる。

　　もちろんそのときには、ボクもその方も、そして何よりみんな自身が間違っている可能性を等しく念頭に置いた上でね。
　　１つ上の記事でも言ったけれど、疑うことは悪いことじゃない。
　　
　　最後は、自身で確かめるしかないんだから。　　

**＜悟り＞は役に立たない
　ボクは＜日常＞や＜社会＞で価値があるとされるものを、「役に立つ」と定義する。
　よってこの定義からみれば、＜悟り＞とはまったくもって&amp;bold(){「役に立たない」}ということになる。

　＜悟り＞から見て、
　＜日常＞や＜社会＞は「勘違い」を基底として出来ているものだ。「誤解」で構成されているものだ。

　公平に書き加えるなら、＜日常＞や＜社会＞から見れば、
　＜悟り＞とは「勘違い」や「誤解」であるということになるね。


　あ、そうそう。
　&amp;bold(){ボクは決して、みんなに＜悟り＞を薦めないよ。絶対にそれはしない。}
　
　理由は色々とあるけれど、長くなってしまいそうだからここでは割愛する。　
　まあボクが薦めようと薦めまいと、求める人は求めるし、求めない人は求めないんだから、
　どうでもいいことではあるだろう。

**今後の展望と企み
　ということで、＜世界論＞はこれにて終了ってことになる。
　改めて、心から感謝をみんなに伝えたい。ここまで長文に目を通してくれて本当に有難う。かんしゃ！

　
　この先、この＜世界論＞を軸にして、
　このwikiでは目標だった＜世界＞へと迫っていくため、様々な考察や分析を行っていくつもりだ。

　その副産物として、
　＜日常論＞や＜人間論＞や＜社会論＞だとかの記事を、これからミモフタもない情報でいっぱいにしてやろうと企んでる。

　あ、それと偉大な方々についても記事を書いていこうと思う。
　＜世界＞には、凄い人がたくさんいる。
　このwikiの全ては、そういった方々からの引用やパクりだって言っても間違いじゃないからね。

　ボクがその方々に教えてもらったこと、その知慧に触れたときの感動を、
　そのままお伝えできるようなものが書ければいいんだろう。


　一番の企みを言えば、
　ある日、この＜世界論＞を全部書き直さなくちゃならない日が来てほしい。

　何というか・・・「全然、違うじゃん！」って瞬間が来てほしい。
　やってしまった凄い間違えや、誤りに気づきたい。

　当然すでに、記事の中にはそれはあるんだろうけれど、
　それだけじゃなくて、もっともっとボクは＜世界＞に関して「分からなく」なりたいし、何もかも「知らない」になりたいんだ。

　幾つかの宗教や哲学だとかの中で、ボクをそうしてくれる可能性を感じる分野もあったりする。
　今後そういったものの理解を深めていけば、＜世界論＞の拡張や更新ができるようになって、また少し＜世界＞に近づけるかもしれない。

　そうなるといいなぁ、と思う。
　（嬉しいことに１回目は来てくれた。すっごく嬉しかった。また「分からなく」なれた。
　　強欲かもしれないけれど、是非２回目も来て欲しい）
　
　でも、それはまだまだ先の話だろう。多分ね。
　とりあえずは、次の役に立たない記事を用意して、そこでまたみんなが来てくれるのを待つことにするよ。

　良かったら目を通してみてね。
　[[またね！&gt;役に立たない「世界論」]]

**約束だよ！　ここから先は「理解できた」と自信がある人だけ読むようにね！
　さてさて、前半で言っていたように、
　最後に＜世界論＞の解説で、「あえて」強調しなかった部分を列挙していく。

　ここまでをちゃんと「理解できた」と思えた人だけ目を通してほしい。
　そうじゃないと、絶対にちんぷんかんぷんになってしまうだろうからね。

　それぞれの詳しい解説は、また今後の別記事でしていくことになると思うから、
　そういった記事が出るまで読まないというのも、賢い判断だよ。


　　　・


　　　・


　　　・


　１．＜世界＞のルールと、＜自己＞の定義を紹介したけれど、これはあくまで定義だ。
　　　「定義である」こと以外に、これが正しいかどうかを説明する言葉はないよ。


　２．誤解しやすいから念のため補足しておくけれど『思い通りにならない』を希望するとは、
　　　積極的に不幸になるという意味ではない。だってそれは積極的に不幸になるという「思い」に他ならない、から。

　　　じゃあ、どういうことかというと、そのこと自体に「執着しない」ということだ。


　３．ボクは何度も、＜悟り＞とは「＜自己＞を発見する」ことであると解説してきたけれど、
　　　一度も「＜自己＞は存在する」とは言っていない。また、だからといって「＜自己＞は存在しない」とも考えていない。


　４．＜自己＞のことを、カメラに例えて解説したけれど、
　　　これはカメラであって、カメラマンではないことに注意して欲しい。


　５．「思い」が、＜自己＞の場所で生まれて、
　　　さらに＜視線＞と＜心＞と＜肉体＞に対して命令すると解説したけれど、

　　　事実としては、「思い」は＜自己＞の場所では生まれていない。
　　　ここまでの説明は、そう話すと分かりやすいだろうと判断したのでそうしたものだ。

　　　「思い」は＜自己＞の場所ではなく、その「すぐ近く」で生まれる。
　　　詳しくは次の記事に任せる。


　６．＜自己＞が存在しないことを、＜無我＞と呼ぶと解説したけれど、
　　　仏教では＜自己＞だけではなく、ボクらが視ている対象（本当は視えない対象も含めて）全てが＜無我＞であると説く。
　　　これを漢字四文字で、「諸法無我（しょほうむが）」と呼ぶ。
　　　よって記事では＜無我＞の「我」をワタシという言葉で説明したけれど、きっと主体という言葉のほうが適切だろう。


　７．『我だと思ってきたもの』という誤解が消えたとき、すなわち＜自我＞が消えたとき、
　　 　&amp;u(){そこに残るもの}を＜自己＞だと定義すると解説したけれど、これはこれでいいんだけど。
　　　「残る」という意味では＜自己＞だけが残るわけじゃないことを補足しておこう。
　　
　　　「残る」のは＜視線＞と＜心＞と＜肉体＞、そして＜世＞である。
　　　また＜自我＞についても、消えるというのは「跡形もなく失くなる」という意味ではないから「残っている」。

　　　それを、ありのまま、あるがままと呼ぶ。
　　　すなわち＜悟り＞である。

　
　８．＜分かる＞に対して簡単に解説したけれど、これはまだ半分ぐらいだ。
　　　これで「全て＜分かる＞っ！」なんて考えないようにね。


　９．『我だと思ってきたもの』が消える感覚のことを、＜無我＞を体験すると言う、と解説したけれど、
　　　＜自我＞を生み出している誤解が晴れた時に起こることは、これだけじゃない。もっと正確に話そう。

　　　１つ目は、誤解（『我だと思ってきたもの』、すなわち＜自我＞）が晴れる。
　　　２つ目は、＜世＞を発見する。
　　　３つ目は、＜自己＞を発見・確定する。（それまで＜自我＞を含んでいるものだったのが解消される）
　　　４つ目は、＜視線＞と＜心＞と＜肉体＞も、誤解を離れた＜視線＞と＜心＞と＜肉体＞になる。

　　　これらを同時に体験する。
　　　だから、これらはある意味で全て「同じこと」であり、

　　　その意味では＜世＞と＜自己＞と＜視線＞と＜心＞と＜肉体＞を
　　　『分けていた』（もしくは『重なっていた』）ことが全ての原因であり、誤解の正体ということになる。 


　　　※まだ正確な判断ができていないけれど、上記はちょっと違う気がしている。
　　　　一回の＜無我＞でいきなり誤解を離れた＜視線＞と＜心＞と＜肉体＞になるのではない感じがする。
　　　　確かに一度は、一瞬はそうなるのだけれど、その後により戻しが起こることが多いと想像する。
　　　　その後に修行を重ねることで、＜心＞・＜視線＞・・・という順で誤解が離れていくと考える。

　　　　ただ、一回の＜無我＞の体験により、最低でも＜肉体＞の誤解は晴れるのだろうとは思う。
　　　　より戻しが起こらなければ一回で＜悟り＞を「得る」ことになる。この辺りの条件は不明なところが多い。


１０．＜悟り＞は段階を踏んで、深まっていくものである。
　　　だから＜世界論＞では、完全な＜悟り＞の場合は「得る」という言葉で、
　　　それまでの段階の場合は「触れる」という言葉を使用している。一応、区別しておいて欲しい。

　　　ちなみに＜悟り＞に「触れる」というレベルでは、解脱はできない。
　　　＜悟り＞を「得る」というレベルならば、解脱することができると考えてる。（疑義あり）


　　　補足すると、ボクはここまで解説した＜悟り＞に「触れる」という部分を、
　　　「＜現実＞から&quot;現実感（リアリティ）&quot;が消失する」と表現している。

　　　突然、＜現実＞なんて用語が出てきてビックリしたかもしれないね。だとしたらごめんね。
　　　とりあえず、＜現実＞は先に話していた＜世＞と＜自己＞の間にあるものって捉えて欲しい。図にするとこんな感じ。

　　　　－＜世＞ 
　　　｜ 
　　　｜　　－＜現実＞ 
　　　｜　｜ 
　　　　－｜　　－＜自己＞ 
　　　　　｜　｜ 
　　　　　　－｜　　－＜視線＞ 
　　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　　－｜　　－＜心＞ 
　　　　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　　　　－｜ 
　　　　　　　　　　　｜
　　　　　　　　　　　　－＜肉体＞

　　　解説を続けよう。
　　　どうしてボクが急に＜現実＞なんて言葉を使ったかというと、
　　　それは日常のボクらが&quot;現実感&quot;に生きているという理解をしているからだ。

　　　どういうことかというと、
　　　ボクらは日々を＜現実＞に生きているのではなく、&quot;現実感&quot;に生きてしまっている。

　　　すでにある＜現実＞以上の、現実感（リアリティ）なんて在り得ないにも関わらず、
　　　ボクらはそのことを忘れて「ボクらにとって都合のいい＜現実＞」を求める。
　　　それが&quot;現実感&quot;となってしまうんだ。そして、この&quot;現実感&quot;に日々のボクらは生きているって話になる。
　　　
　　　だから、この誤解を晴らすこと。つまり、ちゃんと＜現実＞を生きること。
　　　それがすなわち「＜現実＞から&quot;現実感&quot;が消失する」ということであり、＜悟り＞に「触れる」というものなんだ。


　　　そしてその先に、それを安定化させた境地に＜悟り＞を「得る」はあると考えている。    </description>
    <dc:date>2016-05-07T21:32:36+09:00</dc:date>
    <utime>1462624356</utime>
  </item>
    <item rdf:about="https://w.atwiki.jp/midutamali/pages/26.html">
    <title>＜悟り＞を言い換える</title>
    <link>https://w.atwiki.jp/midutamali/pages/26.html</link>
    <description>
      **この記事は未完成にする
　これから＜悟り＞という境地を、色々な言葉で言い換えながら紹介していこうと思ってる。

　そしてみんなが、その中の１つでも達成できれば、あるいはすでに達成ができていれば、
　完全な＜悟り＞そのものじゃないけれど、その一端に触れることができているってことになる。

　
　そして、この言い換えの紹介は、
　ボクが思いつく限り今後もちまちまと追加していこうと思う。

　だから、この記事は常に未完成ってことになる。
　どうしてそんなことをするのかというと、どんな言い換えや言い回しが、みんなの中でツボになるか分からないからだ。

　古今東西の様々な宗教や哲学などで語られている言い回し、
　それからボクが思いついた言い回し、それらを順番は特に気にせずにたくさん挙げていこうと思ってる。

　たくさん挙げるから、
　その中にはほとんど見分けがつかないというか、同じに感じられるものもあると思う。

　まあ、そういうのはあんまり気にしないでくれると嬉しいかな。
　意外とそういうちょっとした違いで、しっくりきたりしなかったりするもんだと思ってるんだ。


　あ、そうそう。
　次の段落だけ『自分』という言葉を解禁しようと思う。

　理由はそのほうが書きやすいというボクの身勝手な事情と、
　そのほうが、みんなに理解してもらえる可能性が上がるんじゃないかっていう予想からだ。合ってるといいんだけどねえ。

**ということで、言い換えていくぞーっ！
　&amp;bold(){１．満足する}
　　満足しましょう。
　　それも小さい満足じゃなくて、とってもとっても大満足しましょう。

　　短い時間や期間だけの満足でもなく、
　　これまでの過去も、これからの未来も、そして今この瞬間の現在も、とにかく満足しっぱなしになりましょう。

　　満足して、満足して。
　　その勢いで、「満足」そのものになってしまいましょう。

　　今、何かが足りないから不満じゃなく。
　　今、何かが余計だから不満じゃなく。

　　そういったことを何とかしようと考えてる暇があるなら、とにかく今すぐに満足してしまいましょう。
　　それができたら＜悟り＞です。

　&amp;bold(){２．絶望する}
　　まず＜世界＞のルールは『思い通りにならない』だけれど、それに全力で逆らってみましょう。
　　このとき、２つのことを守りましょう。
　　
　　１つ、周囲に対して出来る限り迷惑が掛からないようにする。
　　２つ、自分の尊厳やら人生やらを全部もれなく賭けて取り組む。

　　必ず見事に大失敗しますので、むちゃくちゃ絶望できます。
　　そのとき、次の２つのことを守りましょう。

　　１つ目、死なない。
　　２つ目、生きたいと自発的に思わない。

　　その後、その状態をそのまま見つめましょう。
　　まっすぐ見つめられたとき、そこにあるのは＜悟り＞です。

　&amp;bold(){３．悔やまない}
　　これまでの過去も、これからの未来も、今ここにある現在も、
　　何１つ、自分は「変更する必要はない」と思いましょう。

　　たとえ、
　　もう１度どころか無限に、同じ人生を経験することになったとしても構わないと思えるようにしましょう。

　　「自分の“生きる”には、悔やむところなど一瞬たりともない」
　　そう思えたら、それは＜悟り＞です。

　&amp;bold(){４．見つめる}
　　よーく見てみましょう。
　　＜視線＞と、＜心＞と、＜肉体＞と、（外部）をよく見つめて観察してみましょう。

　　そうしている内に、分かってくることが２つあります。

　　１つ目は、それらは常に変化して絶対のものではないということ。
　　２つ目は、見ているものだけが「自分」ではないということ。

　　それが分かったとき＜悟り＞です。　

　&amp;bold(){５．委ねる}
　　とにかく委ねましょう。
　　自分の何もかも、１つ残らず全て委ねましょう。

　　どこに委ねるのかは、みんなが自由に決めてもらって構いません。

　　ただし日常で、決して目にできないものを対象にするのがポイントになります。
　　そうすると段々、日常で目にできるものが「どうでもいい」と思えるようになってきます。

　　それは「こんなのイラナイ」という気持ちではなく、
　　日常で出会うものについて、区別なく等しく接することができてくるという意味です。

　　そうできたら＜悟り＞です。

　&amp;bold(){６．知る}
　　何を知るのか？
　　「知らない」を知りましょう。
　
　　自分が「何も分かってない」ことを知りましょう。　　
　　自分が「何か１つでも分かった上で」これまで生きてきたわけじゃないってことを知りましょう。
　　
　　自分が「分かっていたつもり」だったことを知りましょう。
　　自分が「知ったかぶりだった」ことを知りましょう。
　　
　　自分の「無知」を知りましょう。「自分の無知」も知りましょう。
　　それを知ることができたら＜悟り＞です。

　&amp;bold(){７．自惚（うぬぼ）れる}
　　もう、とことん自信家になってみましょう。
　　「自分は今までだってこれからだって、常に完璧で完全な存在だ！」って、本気で自惚れてみましょう。

　　そうすると、何も欲しがれなくなります。
　　だって何かを不足に思えたら、自分が不完全であることの証拠になってしまうから。

　　そうすると、何も捨てられなくなります。
　　だって何かを不要に思えたら、自分が不完全であることの証拠になってしまうから。

　　傲慢だけではなく、謙虚さも同じように捨てましょう。
　　だって常に完璧で完全な存在なのだから、傲慢にも謙虚にもなる必要はないんです。

　　究極の自信家になって、その状態をそのまま見つめられたら＜悟り＞です。

　&amp;bold(){８．離れる}
　　自分と関わりがあるものから離れてみましょう。
　　それもとてもとても大事にしているもの、自分のことのように大事にしているものから離れましょう。

　　注意として「捨てる」と混同しないようにしましょう。
　　関わりにこだわらないという意味です。

　　自分が固執しているもの。
　　自分が依存しているもの。

　　それらから離れましょう。
　　すると最初はショックがあるかもしれませんが、意外と問題なく生きています。

　　不必要なものから離れられたとき、そこに残るのが＜悟り＞です。

　&amp;bold(){９．何もしない}
　　自発的とか、自律的な言動を止めましょう。
　　「何かをしよう」だとか、「何かをしなきゃいけない」と思うことを止めましょう。

　　そんなことを思わなくても、「何かをできている」自分に気づきましょう。
　　「何かをしている」自分に気づきましょう。

　　「何もしない」がちゃんとできたとき、それは＜悟り＞です。

&amp;bold(){１０．見捨てない}
　　これまでのどんなに恥ずかしい「自分」も、これからのどんなに悲惨な「自分」も、
　　これまでのどんなに醜い「自分」も、これからのどんなに不幸な「自分」も、
　　
　　どんな「自分」であっても、決して見捨てない。
　
　　現在の自分は、過去や未来のどんな「自分」も決して見捨てないし、
　　過去や未来の自分は、現在のどんな「自分」であっても見捨てることはない。

　　そうなれたら＜悟り＞です。

&amp;bold(){１１．受け入れる}
　　何もかもを受け入れましょう。
　　自分の希望だとか、自分の意思は後回しにして受け入れましょう。

　　ただし分かりやすく具体的な形ある指示が現れた場合、それらは無防備に受け入れるべきものではありません。
　　無言で、あるいは沈黙の形でやってくるものだけを、素直に受け入れましょう。

　　その指示がどこから、あるいは誰からやってきたのかは、みんなが自由に決めてくれて構いません。
　　ただしその対象は、日常で目にできるものにしないことがポイントです。

　　それができたら＜悟り＞です。

&amp;bold(){１２．待つ}
　　待ち焦がれるのでもなく、待ち望むのでもなく、待ちわびるのでもなく、
　　待ち遠しいでもなく、待ち構えるのでもなく、待ち伏せるのでもなく。

　　待ち尽くすのでもなく、待ちかねるのでもなく、待ちあぐねるのでもなく、
　　待ちくたびれるのでもなく、待ちきれないのでもなく、待ち明かすのでもなく。

　　ただーー「待つ」ことができたなら、それは＜悟り＞です。

&amp;bold(){１３．看取る}
　　あらゆるものを看取りましょう。
　　万物の“死”はもちろんのこと、“生”もまた看取りましょう。

　　看取れるものは、美しく。そのために見惚れるものです。
　　見惚れるものは、美しく。そのために看取れるものです。

　　あらゆるを「看取る」ことができたなら、それは＜悟り＞です。

&amp;bold(){１４．諦める}
　　まず、「放り投げる」みたいな投げやりな意味ではありません。
　　これは「どうしようもなさ」という意味なのです。
　　
　　つまり投げやりな態度のーー“その先”にあるものです。

　　またそもそも、投げやりな態度に到達する前には、そこには探求という段階があるはずで、
　　またさらにその前の段階には、文句や我儘や不満や不服といった怒りの段階があるのです。
　　
　　なので、その意味では投げやりであるというのは、まだ見込みがあると言えるかもしれません。
　　ですがやはり、それでは不足なのです。また同じことを繰り返します。何度でもです。


　　投げやりでは我慢ができず、投げやりでは納得ができず、投げやりでは理解できず、投げやりでは承認できず。投げやりでは救われない。
　　ひたすら考えて、迷って、苦しんでーー“その先“についに訪れた（というか元々あった）「お手上げ」の状態。

　　それが「諦める」です。つまり「どうしようもなさ」なのです。
　　そうできたら＜悟り＞です。

&amp;bold(){１５．遊ぶ}
　　弄（もてあそ）ばれるのではなく、弄（もてあそ）ぶのでもなく、
　　ただ――「遊ぶ」ことができたなら、それは＜悟り＞です。

&amp;bold(){１６．構わない}
　　“構わない”という言葉は、とてもいいニュアンスだと思う。

　　まず１つ目の意味合いは、対象に「積極的、自発的に関与しない」という意味での“構わない”。
　　２つ目の意味合いは、対象の「今の状態、あるいは今後どのような状態」であっても“構わない”。

　　これは対象との関係を、完全に退けるだとか、絶対に接点を持たないという立場ではないことを注意して欲しい。これは、ついつい勘違いしてしまうことだ。
　　むしろ、「計らいがあれば」対象を受け入れ、係わりを持つ立場なんだってことを、よくよく理解していなければならない。


　　あらゆるものに、“構わない”という立場を取ることができれば、
　　それは＜悟り＞と呼ぶに相応しい。

&amp;bold(){１７．脱力する}
　　「力み」と「硬さ」を抜くことが、とても大事です。
　　それが出来た状態を脱力と呼び、それは＜悟り＞の状態です。

　　「力み」とは、対象を変化させようとすること。動かそうとすること。
　　「硬さ」とは、対象を固定させようとすること。固めようとすること。


　　脱力とは、「あるがまま」にすること。

　　だけど「あるがまま」を固めようとすると、それは「硬さ」になるし。
　　その硬さを調整しようとすると、次は「力み」となる。難しいところだね。だからボクらは間違え続ける。


　　自分も、他者も、世界も、脱力することができれば、
　　それは＜悟り＞と呼ぶ。


**「信じる」必要はない
　さて、冒頭に書いたとおり、
　上に挙げた項目の１つでも達成できれば、＜悟り＞に触れられることになる。
　そしてどれかを達成できているとき、他の項目も同時に達成できていることに気づけると思う。

　ただ公平に言うならば、
　ちょっとこれはボクが卑怯なこと言ってるかもしれないと、ボク自身も思ってたりする。

　と言うのも、実際に上の項目のどれかをみんなが真剣に取り組んで、
　それでも「全然＜悟り＞に触れられないぞ！」と非難されたとき、ボクは「まだ不十分だからです」と逃げられるからだ。

　・・・まあ、実際に不十分なんだろうから、
　それが事実である以上、ボクが悪いというわけではないとは思うんだけど、
　ちょっと公平ではないというのはそうかもしれない。


　だから少しばかり公平さを確保するためにも、みんなにはっきり言うけれど、
　これまでの記事も含めて、ボクの話を「信じる」必要は全くない。
　
　これには２つの理由と意味がある。

　１つ目は、＜悟り＞とは極めて論理的でちゃんと辻褄が合う合理的なものだからだ。
　つまり＜悟り＞というものがあることも、こうすれば＜悟り＞を得られるというのも、どちらも当たり前のことなんだ。

　水素原子２つと、酸素原子１つが結びつくと、水が生まれるという化学実験を学校の授業でやったことがあるだろうか？
　そのときに水が生まれるように信じたり、祈ったり、拝んだりしたことがあるかい？

　そんなことはしないだろう。
　辻褄が合うものに対し、ボクらがそれを「信じる」必要はない。

　というか、信じる信じないに関係なく、現象はただ起こるんだ。
　だからボクらが信じるかどうかは、どうでもいいことになる。

　
　 ２つ目は、これまでのボクの話に対して、みんなの反応は２つに別れると思う。
　「信じている」か、「信じてない」かだ。

　「信じている」なら、もうこれ以上「信じる」必要はない。
　そして「信じてない」人には、ボクは無理矢理に信じてもらいたいだとか、信じるフリをして欲しいとかは全く思ってない。

　よってどちらにしても、「信じる」必要はないということになる。
　

　簡単に信じないことは、悪いことじゃない。
　疑うことは、大変に結構なことだ。

　あえてボクが希望を述べるなら、是非とも「確かめてほしい」ってだけだ。
　どちらにしても、最後はそれしかないんだから。

**次の記事はまとめだよ
　みんな、お疲れ様でした。
　とりあえず、ボクが＜世界論＞の中で説明しようと思っていたことは、これでほぼ記すことができたと思ってる。

　全体的にどうだったかなあ。
　どうしても小難しくなっちゃうのが、記事を書きながらうんうん唸るところではあったけれど。

　なるべく急がず焦らず、
　ゆっくりゆったり優しく丁寧に進めてきたつもり。

　「分かりづらいぞ！」というお叱りのお言葉には、ごめんねとしか言えないね。
　ほんと・・・ごめん。


　さて、次の記事の紹介に移る。
　
　次は＜世界論＞で、とりあえず最後の記事になるつもり。
　これまでの記事の振り返りとまとめ、それと何かその中で補足したいことがあったら加筆していこうと思ってる。

　これまでの復習だとか、
　あるいは、嬉しいことに２周目を読んでくれるって人が居れば、そのきっかけになるようなものにできたらいいんだろう。

　そういうのを目指して、最後の記事を書いてみるよ。


　それじゃあ、最後までお付き合いいただければ幸いかな。
　[[待ってる&gt;振り返りとまとめと]]からね。    </description>
    <dc:date>2016-05-03T12:32:47+09:00</dc:date>
    <utime>1462246367</utime>
  </item>
    <item rdf:about="https://w.atwiki.jp/midutamali/pages/33.html">
    <title>ちょっとした付録</title>
    <link>https://w.atwiki.jp/midutamali/pages/33.html</link>
    <description>
      **境界線から考える＜悟り＞の段階
　さて、またまた下図を見てもらおうかな。
　今回は今後の説明がしやすいという理由から、[外部]を復活させてるよ。それと一番下の部分は省略してある。

　　　－＜世＞
　　｜
　　｜　　－＜現実＞ 
　　｜　｜ 
　　　－｜　　－＜自己＞ 
　　　　｜　｜ 
　　　　　－｜　　－＜自我＞ 
　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　－｜　　－＜視線＞ 
　　　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　　　－｜　　－＜心＞ 
　　　　　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　　　　　－｜　　－＜肉体＞
　　　　　　　　　　　　｜　｜
　　　　　　　　　　　　　－｜　　－・・・[外部]
　　　　　　　　　　　　　　｜　｜
　　　　　　　　　　　　　　　－｜
　　　　　　　　　　　　　　　　｜
　　　　　　　　　　　　　　　　　－（　）＜現実＞・＜世＞

　１発で完全な＜悟り＞を「得る」場合もあるらしいけど、多くの場合は段階を踏むことが多いと思う。

　そんなわけで、各段階での問題意識や、
　他記事で解説していた「同一化」や「区別を意識しない」に絡んだ説明みたいなことをやってみようと思う。

　ただ正直、「大体こういう段階があって、その段階では大体こんな感じ」って程度に捉えて欲しい。
　何度も言っているけれど、切り離して単体で語るってことは難しいというか、事実として不可能だと思ってるんだ。

　もちろん、ボクの説明力不足とか理解不足ってこともあるけどね。

　
　・第０段階（『身体』で生きている）
　　通常のボクらの段階。

　　この段階では、何でもかんでも「思い通りにできる」と誤解して、
　　それでも『思い通りにならない』の中で生活するから、ずーっと苦しむことになる。

　　特に、物質的な快感に対する執着が激しい。

　　何かが「ある」から幸福だとか、何かが「ない」から不幸だという発想をする。
　　「余ってる」から満足だとか、「足りない」から不満だとかいう発想をする。

　　次の段階に進むためには、（外部）の物質的な執着を手放す必要がある。
　　この時、『自分』の物質的な執着――＜肉体＞の執着も同時に手放すことになる。
　　（これは自然とそうなるし、そうでないと不徹底でもある）

　　これを達成すると、＜肉体＞が＜世＞へと取り込まれる。溶け込む。
　　つまり同一化し、物質的な世界では区別を意識しないようになる。

　　またこの時＜肉体＞は、誤解を離れた＜肉体＞となる。
　　その意味では、同一化したからといって本当に消えるってわけじゃない。

　　図にするならば以下のようになる。

　　　－＜世＞
　　｜
　　｜　　－＜現実＞ 
　　｜　｜ 
　　　－｜　　－＜自己＞ 
　　　　｜　｜ 
　　　　　－｜　　－＜自我＞ 
　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　－｜　　－＜視線＞ 
　　　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　　　－｜　　－＜心＞ 
　　　　　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　　　　　－｜　　－・・・[外部]（物質的な誤解だけは抜けている）
　　　　　　　　　　　　｜　｜
　　　　　　　　　　　　　－｜　　
　　　　　　　　　　　　　　｜　
　　　　　　　　　　　　　　　－（＜肉体＞）＜現実＞・＜世＞　　　　　　　　　　　
　　　　　　　　　　　　　　　　　

　　※まだ確定ではないけれど、
　　　第０段階から「きちんと」次の段階に進むためには、最低でも一度＜無我＞を経験する必要がある可能性がある。
　　　つまり＜無我＞なしに、物質的な快感への執着を逃れても一時的で安定しない可能性がある。

　　　＜無我＞を体験する方法は、既に示した物質的な快楽への執着だけでなく、
　　　少なくともこれから示す精神的・認識的・自我の執着と向き合わなくてはならないと考えてる。
　　　（参考情報が少なくすぎて不正確な可能性も高し）

　　　それが出来る態度とは「向こう見ずな問題意識」であると、
　　　どこかで記されていたような気がするけれど、確かにそうかもしれない。

　　　異常な、馬鹿げた、病的な、過剰な、非常識な、倒錯した「問題意識」。
　　　それぐらいないと、＜肉体＞も＜心＞も＜視線＞も＜自我＞も差し出そうなんて思わない。

　　　しかも差し出したからって、当初の目的が達成できるわけじゃない。
　　　むしろ何もかもを失ってすら目的が達成できないことを理解して、ようやく＜無我＞を迎える。

　　　そして＜無我＞を体験できたとしても、その後は第１段階からやり直しすることが多いようだ。
　　　・・・割が合うんだろうかね。


　・第１段階（『感情』で生きている）
　　物質的な快感に対する執着が抜けたこの段階では、＜心＞が問題の焦点となってくる。

　　ただし＜心＞と＜肉体＞が決して切り離せないことを思い出してもらえればいいんだけど、
　　執着が残っている＜心＞に引き摺られるように、＜肉体＞の執着も（長続きはしないけれど）再燃しやすい。

　　ただ主な問題とすれば、精神的な快感への執着ということになる。
　　形がないもの、見えないものが問題になってくる。

　　幾つか代表的と思われるものの例を挙げると、
　　社会的な承認欲求であったり、名誉欲求だったり、尊敬や羨望を得たいという欲求だったり、
　　常に「嬉しいを感じていたい」とか、「楽しい気持ちでいたい」とか、こういうものが精神的な快感への執着と言っていい。

　　次の段階に進むためには、（外部）の精神的な執着を手放す必要がある。
　　この時、『自分』の精神的な執着――＜心＞の執着も同時に手放すことになる。

　　それを行うと、今度は＜心＞が＜世＞へと取り込まれる。溶け込む。
　　つまり同一化し、精神的な世界では区別を意識しないようになる。

　　またこの時＜心＞は、誤解を離れた＜心＞となる。
　　その意味では、同一化したからといって消えたわけじゃないというのも同様だ。

　　図にするならば以下のようになる。


　　　－＜世＞
　　｜
　　｜　　－＜現実＞ 
　　｜　｜ 
　　　－｜　　－＜自己＞ 
　　　　｜　｜ 
　　　　　－｜　　－＜自我＞ 
　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　－｜　　－＜視線＞ 
　　　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　　　－｜　　－・・・[外部]（物質的、精神的な誤解だけは抜けている）
　　　　　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　　　　　－｜　　
　　　　　　　　　　　　｜
　　　　　　　　　　　　　－（＜心＞、＜肉体＞）＜現実＞・＜世＞　

　
　・第２段階（『意思』で生きている）
　　物質的、精神的な快感への執着が抜けたこの段階では、＜視線＞が問題の焦点となってくる。

　　この段階になると、物質的な快感（＜肉体＞）への執着はかなり薄くなっている。
　　ただし精神的な快感（＜心＞）に関しては、第１段階と同じ理由で＜視線＞に引き摺られて（長続きはしないけれど）再燃しやすい。
　　
　　さて、この段階での主な問題は＜視線＞ということになるんだけれど、
　　これはどういう快感への執着かというと、＜視線＞というのが認識作用だということを思い出してもらいたい。

　　それを踏まえると、この執着とは、
　　つまり「何を感じているべきか」、「何を＜心＞に浮かべているべきか」という問題意識ということになる。
　　
　　実際は、何が＜心＞に浮かんでいても構わない話だから、
　　「何を感じているべきか」、「何を＜心＞に浮かべているべきか」なんて気にする必要がないんだけどね。

　　（１１月２４日追記：そういえばと忘れていたので補足しますが、＜視線＞で以って「（常に）何かを感じていないといけない」とか、
　　　あるいは逆に「何一つ感じたくはない」というのものまた執着となります。もっとも単純なので抜けてました）
　　（２０１６年２月３日追記：これがより分かりやすい解説になるか分からないけど、＜視線＞の執着っていうのは、
　　　価値観へのこだわりを問われているって理解するとピンと来やすいかもしれない。決して、価値観を持つなという意味ではないから注意してね）


　　次の段階に進むためには、（外部）に＜心＞を不快にさせるものがある、という執着を手放す必要がある。

　　これはつまりどういうことかというと、
　　（外部）にあるもので「これは良いものだ」とか、「これは悪いものだ」という『えこひいき』を止めなさいってことになる。

　　いや、誤解させないようにちゃんと言うなら、
　　これは、それらが「本当は良いものではない」とか「本当は悪ではない」とか、そういうことを言っているわけじゃない。
　　「良の中にも悪があって、悪の中にも良があるんだ」みたいなことを言っているわけじゃない。

　　それらが「良い」とか「悪い」とかは、それはそれでいい。
　　そう感じるのであれば、それがその通りあるのなら、それはそれでいいんだ。

　　ただし、それらは「良い」ものであろうと、「悪い」ものであろうと、
　　ボクらをどれだけ「不快」にさせるものであろうと、「汚い」と感じるものであろうと、「穢れ」だと思うものであろうと、
　　「非道」なものであろうと、「残虐」なことであろうと、「不幸」なものであろうと。どんなものであろうと。

　　それらは――「ボクらでもある」。

　　つまり「『自分』でもある」と、「＜現実＞でもあるんだ」ってことを、
　　決して『えこひいき』せずに認めなさいってことなんだ。

　　（外部）のあらゆる悪に感じられるものは、ボクらの中に、『自分』の中にあるんだ。
　　だから『自分』の中には、あらゆる悪が入っている。

　　だから、（外部）に＜心＞を不快にさせるものがあって、
　　それが「あれは『自分』じゃない」とか「＜現実＞の中にない」なんて発想をしている限り、
　　不快から逃れることはできない。

　　それをボクは、『えこひいき』だと呼んでいるんだ。


　　このことを達成できた時、＜視線＞の執着も同時に手放すことになる。
　　それにより、＜視線＞が＜世＞へと取り込まれる。溶け込む。

　　同一化して、認識的な世界では区別をしないようになる。
　　またこの時＜視線＞は、誤解を離れた＜視線＞となるのも同様だ。

　　図にするならば以下のようになる。

　　　－＜世＞
　　｜
　　｜　　－＜現実＞ 
　　｜　｜ 
　　　－｜　　－＜自己＞ 
　　　　｜　｜ 
　　　　　－｜　　－＜自我＞ 
　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　－｜　　－・・・[外部]（物質的、精神的、認識的な誤解だけは抜けている）
　　　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　　　－｜　　
　　　　　　　　　　｜　 
　　　　　　　　　　　－（＜視線＞、＜心＞、＜肉体＞）＜現実＞・＜世＞
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　

　・第３段階（『自分』で生きている）
　　物質的、精神的、認識的な快感への執着が抜けたこの段階では、＜自我＞が問題の焦点となってくる。

　　ここでの問題意識とは、『自分』の「在り方」ということになる。
　　それは、どういう在り方が『自分』として相応しいか、というものになるんだけれど。

　　もっと素朴な言い方をするなら、
　　「どういう人生を歩む『自分』がいいか」という、快感への執着だと思ってくれていい。
　　（転じてそれは「どういう人生を作り出す＜現実＞がいいか」という快感への執着と同一である）

　　でもそんなものは『えこひいき』だ。
　　どんなときでも、どんな場所でも、どんなものでも、そこには『自分』がある。

　　そしてそれ以外の『自分』は在り得ない以上、そんなものは『えこひいき』としか言いようがない。
　　あるがままの、今ここにある、これこそが『自分』なのだから。


　　だからもっと言ってしまえば、「『自分』じゃないと駄目ですか？」と問われていると言ってもいい。
　　今ここにある＜現実＞を味わうときに、「『自分』が味わう」にしないと駄目ですか？と聞かれてるんだ。

　　「味わう」だけじゃ駄目なんですか？って問われてるんだ。
　　いちいち、「『自分』が味わっている」って意識しないと駄目ですか？って聞かれてるんだ。
　　
　　よってこの問題が解決できた時、＜自我＞の執着は手放される。
　　それにより、＜自我＞が＜世＞へと取り込まれる。溶け込む。

　　同一化し、＜自我＞と＜世＞の区別をしないようになる。
　　またこの時＜自我＞は、誤解を離れた＜自我＞となる。

　　図にするならば以下のようになる。

　　　－＜世＞
　　｜
　　｜　　－＜現実＞ 
　　｜　｜ 
　　　－｜　　－＜自己＞ 
　　　　｜　｜ 
　　　　　－｜　　－・・・[外部]（物質的、精神的、認識的、自我の誤解だけは抜けている）
　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　－｜　
　　　　　　　　｜　
　　　　　　　　　－（＜自我＞、＜視線＞、＜心＞、＜肉体＞）＜現実＞・＜世＞　　　　　　　 
　　　　　　　　　　　

　・第４段階
　　＜解脱＞。＜涅槃＞。（と呼ばれている境地）
　　仏教における＜悟り＞の境地。


　　すでに＜自我＞が＜世＞に取り込まれているため、
　　この時点で『自分』の構成要素が片方なくなっていることになる。

　　つまり、『自分』という存在が成立しなくなる。（しつこいけど消えてなくなるという意味ではない）
　　よってこの境地では『無言』で生きる。＜現実＞を生きる。＜自己＞（過去の自分。記憶。経験。体験）を生きる。


　　ちなみにだけど、この境地はあくまでお釈迦様が「説かれた」段階というだけで、
　　お釈迦様自体は更に先の境地に達していた可能性がある。・・・というか、先の境地に到達していたと確信している。



　　　※ちなみに、逆に「－１段階」というのもある。ボクらは容易にこの段階に落ち込みやすい。
　　　　つまり『物質』で生きてしまいがちだ。
　　　　
　　　　さらに言うと、－２、－３、ー４・・・と理屈上はもっと奥の段階もある。
　　　　これらの境地とは、他者の＜現実＞に食い込む。介入する。侵食する。占領する。支配する。

　　　　とっても苦しい。
　　　　本人も、相手も、それをどう理解して、どう自覚しているかは別として。


　　　　ただまぁ、こちら（自分の＜現実＞以外）の方向が苦しいことばかりであるかというと、
　　　　厳密にはそうではないとも言えるのだろう。

　　　　いわゆる《愛》と呼ばれるもの、呼びたいもの、呼んでいるものは、
　　　　自分の＜現実＞の中だけをあーだこーだしているだけでは、
　　　　その内側で満足しているだけでは、達成できないのだろうと考えるからだ。

　　　　他者の＜現実＞か、もしくは[外部]が必要なのである。
　　　　愛するにも、愛されるにも、自分以外がやっぱり必要なのである。
　　　　
　　　　それって当たり前のことのはずなんだけど、
　　　　やっぱり当たり前であるがゆえに、それはとても忘れがちだ。

　　　　忘れてしまいがちなんだよなぁと、自省を込めてボクはココに記す。

**とある一ヶ月ほどの観察日誌
　この段落を書くかどうか悩んだけれど、公開することにする。　
　これから示すことは、第２段階から第３段階へ、そして第４段階に向かい始めたとある人物の観察日誌だ。

　公開する理由なんだけど、　
　それはこの段階の情報が書籍やネット上を含めて、圧倒的に少ないと思うからだ。　
　（あと、出して欲しいって書いていたところがあったから）


　さて、この日誌の読み方なんだけど、　
　まずポイントとすれば、これはあくまでも「とある人物のみの話」ってことをきちんと念頭に置くこと。

　ここに書かれている内容と、みんなの経験が違うことをあまり気にしないほうがいい。　
　それぞれの経験なんて違うのは当たり前なんだから。

　それともう１つは何と言っても、　
　この日誌にある「間違った言葉遣い」である。

　もしも、正しく言葉が使えていたらその人は＜悟り＞を得ているわけで、　
　そうなっていない段階の文章がきちんと正しいはずがない。

　まさにそのことを、とある人物の誤解具合。　
　混乱具合。迷走具合を感じて欲しいって感じかな。

　なので、（）にしてあるところは後から追記したところだって理解して欲しい。　
　（）だらけなのが、とある人物のその時そのままの実力を示しているってわけだ。

○２０１４年の年末にかけて　
　この当時、ボクが感じていたのは、　
　＜現実＞（正確には欲界？）に対して「名残惜しいな」という感傷だった。

　お釈迦様の言葉を信じるなら、ボクの今現在の立ち位置が第１段階であったら５００年ほど、
　第２段階だったら１００年も＜現実＞を生きられないってことになる。
　（この当時、ボクは自分の段階を見極められてなかった）

　そりゃあ、ボクを＜現実＞に縛り付けているのは執着であり、
　ちゃんとした仏教徒の方なら執着は悪いものだっていうかもしれないけれど、
　それはある意味で愛着と言ってもいいものなんだ。

　愛着は執着ではあるけれど、愛と言いたいものでもある。
　何だかんだ愛しているこの＜現実＞には、後それくらいしか生きられないんだなって思うと名残惜しく感じた。

　そして更に、第３段階になってしまったらもう戻ってくることすらないらしい。
　「何だかなあ」と思うと同時に、まあボクをどうするかは全て「お任せします」って気持ちもあった。

　そして何となくだけど、年末にかけてもしかしたら第３段階が近いかもって予感があった。
　だけど、こういう予感は裏切られるものだし。後何十年先とか、もしくは達成できないことも十分に考えられると冷静に思っていた。

　元々目指しているような目指していないような、まあ自然とそっちの方向に歩いているよなあっという感じだったし。


　さて、その他に考えていたのは、
　＜現実＞の中で気に入らないものだとか気に入るものだとかいう「えこひいき」を止めようということだった。

　＜自己＞のことをよく考えれば考えるほど、それはおかしな話だったからだ。
　（正確には『自分』。存在の構造を理解していなかった当時、＜自己＞が真のボクであると考えていた。
　　もっと言えば、「自分」や「ボク」という言葉はそのまま＜自己＞とイコールで捉えていた）

　そしてその「えこひいき」が、心の煩わしさを生んでいると思っていた。
　気に入るものも、気に入らないものも、全ての中にボクは含まれていて、またボクの中にも全てが含まれている。
　そんなことを、この時期ぼやぼや考えていた。

○２０１５年１月１２日
　年末もずっとそうだったけど、時間があるときは某所の記事や、自分が書いた記事やメモを読み直していた。
　（ここでも統一感がなく「自分」って言葉が突然出てくる。
　　これが『自分』とは＜自己＞と＜自我＞という矛盾なのである、ことを分かっていなかった証拠である）

　夜になってから、何となくふと座禅を組んでみようと思った。その「何となく」がとてもいいと思っていて。
　それまでボクはあまり座禅を組むという修行をしていなかった。全部合わせても２０日も組んでないと思う。

　それは座ってみても、全く手応えもないわけじゃないけれど、上手くいかないと感じることが多かったからだ。
　特に、どうしても座禅を特別だとか、修行と捉えてしまいがちで、そうなると良くないんだろうなあと思ってた。

　もっとこう、お茶が飲みたくなったらから淹れる。みたいな感じで、
　座禅という行為を特別視をすることなく、日常の１コマな感じでやらなくちゃならないんだろうなと思ってた。

　その日の座禅は「何となく」やりたいと思って、これも「何となく」ただ呼吸のみに集中することにしてみた。
　特にサマタとかヴィバッサナーとか考えずにそう決めた。（というか、そもそもこの区別に自信がない）

　時間はほんの１０分ほどだったとと思う。その時間で止めたのも「何となく」いいかなって思ってやめた。
　だけど、今までやってきた中で一番ちゃんと座禅をできたって感じていた。凄く集中ができた。

　その後、何となく『老子』（「老子」新訳　著：加島祥造）を手にとって、その中に「道」という音はずっと鳴り続けている。
　だけど音量があまりに大きすぎるから気が付かないんだ。というような文脈を読んで「ああ、なるほど」と思った。

　ずっと＜身体＞や＜心＞を静めると、（この２つだけでは足らないけどね。それとこの時点では『身体』と＜肉体＞の区別が付いてなかった）
　どうして＜悟る＞のか、その理屈がピンときてなかったけど、
　正しいかどうかは別として、ちょっと筋が通る納得が得られた気がした。

　そんなことをぼやぼや思いながら、この日はすぐにそのまま床に入った。２２時前頃だったかな。
　いつもよりずっと早いけど、それも「何となく」気分で決めた。

　座禅が集中できた、といういい感じの心地よさがその時も残っていて、とてもいい眠りになりそうな予感がしていた。

○１３日未明
　後から分かったけれど、大体深夜１時～２時頃だったみたい。
　その時間に、気づいたら覚醒していて、あるいは覚醒したからそれに気づいて。

　最初は何となくまだ深夜であることは分かったから、「こんな時間に目が覚めるなんて珍しいな」と思った。
　明け方に目が覚めることはあっても、深夜に起きることは珍しかった。

　そしてよくよく気がついてみると、ボクが、ボクの状態がちょっとおかしかった。

　まず、＜身体＞と＜心＞がすぐに分かるほど静まり返っていた。
　でも＜身体＞は動かそうと思えば動かせて、＜心＞も何かを思い浮かべようとすればできる。
　だけど、それはそれとして凄く静かで、それらを落ち着いて認識することができていた。
　（思い浮かべることができるのは＜心＞じゃなくて＜自我＞だね。この時点ではこのことも分別できていなかった）

　少ない坐禅経験でも一度もできなかった状況、もしくは境地だった。

　「あー、これが座禅の時とかの理想の状態なのかな」とか、「これで＜身体＞が動かなかったら、いわゆる金縛りってやつなのかな」とか、
　関心なのか、呑気なことをぼやぼや考えたりしていた。この時点では、特に何か「特別」な状況にいるとは思っていなかった。

　そんな＜身体＞と＜心＞の状況を妙に冷静な気分で確かめていて、
　そして感覚的には、それまで胸元より下ぐらいに向けていた意識を、上の方――頭や頭の中に向けた瞬間「ぶつっ」という音が聞こえた。

　「え、何だ？」と思ったのと同時に、最初はそれが古いテレビの電源が切れる音みたいだなって思った。
　それから、糸が切れるような音みたいだったなとも思った。

　そしてこの「切れる」って言葉で思い出して、
　「そういえば第３段階に到達すると五下分結というのが『切れる』って表現されていたな」って思い出した。

　あれ、もしや。と思って。
　色々と確かめ始めると、そこから何を思い浮かべても、何を見ても、何を感じても。それは全て＜自己＞になっていた。
　（もしかしたら「ぶつっ」の前からそうだったけど気づいていなかった可能性もある。
　　ちなみにここから先の＜自己＞は、全て本当は『自分』となる。これも分かってなかった証拠だ）


　年末にかけて、取り組んでいたこと。（ごめん。ここから数行の（）は後付ではないので誤解なきよう）
　
　その時は、何かを思い浮かべたり見たりしたとき――例えば「車」を見た時に、
　「車だ」と思った後に「あれも＜自己＞だと思わないといけない」（「えこひいきしちゃ駄目だ」）と気をつけなければできなかったのが、
　こういった流れなしに最初から「＜自己＞だ」（同時に車であることも認識している）と思えるようになっていた。

　認識したその瞬間から、同時に「車（＜自己＞）だ」って感じ。


　それからその状況をあれこれ確かめている内に、あまり眠ることもできず起床時間となった。
　その日は、一日眠たい思いをしながら仕事をすることになったのだけれど、
　日中の間も、どこを見ても何を考えても全て＜自己＞になっている感覚は消えなかった。

　流石に、これは本当に第３段階になってしまったのかな。と思ってはいたのだけれど、いまいち実感が湧かなかった。
　というよりも、そもそもこの体験前までで、それまでの状態のボクが第１段階なのか、第２段階なのかも見極められてなかったのに、
　「まさか第３段階になっているのか？」という気持ちと「でも実際、それっぽいしなあ」というのが今現在でもせめぎ合っていて、
　半信半疑かつ疑心暗鬼に日誌を書いている。

○１４日、１５日（日誌を書き始めたのは１５日から。つまりそれより前は思い出しながら書いている）
　もう一日経って、何かを見たりしたときに「＜自己＞だ」という感覚は薄れていた。さらに翌日の１５日ではもっと薄れていた。
　でも完全に消えたわけじゃなくて、現在でも何かを見た時に「＜自己＞だ」と自然に思えている。

　だから感覚とすれば、
　そういう感覚が当たり前になったから意識するほどのことじゃなくなったってことなのかもしれない。


　だけどそれと入れ替わるように別の感覚が出てきていた。
　それは『あらゆるもの「で」＜自己＞だ』という感覚だった。

　この感覚が、その前の感覚よりも、前進しているのか、後退しているのか、
　あるいはこんな感覚が出るのは第３段階に到達したというのが間違えであったことになるのか、それともやはり確定することになるのかは分からない。（結果的には前進していることになった）

　ただ１３日では、個々それぞれを見て『それら、それぞれ個々「が」＜自己＞だ』と感じていたものが、
　今はそれが薄れて『それら、それぞれ全体「で」＜自己＞だ』と感じるのが強くなっている。

　言い換えるなら、１３日の時点では、年末に取り組んでいたことを達成できたという感じなんだけど、
　現在はそうではなく『＜現実＞は＜自己＞だ』という感じだ。（惜しい表現だよね）


　それともう１つ。
　１５日に職場で、直接ボクに対してではないけれど理不尽に出会った。

　職場のある人が理不尽に怒り出し、またそれに怒られる人が居た。そんなある種、よくある出来事。
　そのことを間近で見ていて怒りの感情が湧いたのだけれど、湧いた対象が「誰か」ではなかった。
　湧いた対象は、怒り出した人でも怒られた人でもなかった。

　湧いた対象は何と「＜自己＞」であり、すなわちこの時点で＜自己＞＝＜現実＞だったから、＜現実＞に対して怒りが湧いた。
　それは「＜現実＞＝＜自己＞の実力ってこんなもんかよ」という怒りだった。
　
　「お前。＜現実＞＝＜自己＞ってのは、こういう理不尽が存在するもんなのかよ」という怒りであって、
　それは初めての感覚でとても面白かった。（後から思い返しても本当に面白い感覚だった）

　この日の時点ではもう当たり前の感覚になっていたけれど、何もかもがもう＜自己＞になってしまっているのだから、
　どのような理不尽や不条理や悲惨さに出会っても、＜自己＞が＜自己＞を傷つけたりされたりしているに過ぎないわけだ。

　その状況で怒りなり、何か他の感情を覚えるとしても大きなものにならないし、長続きもしない。
　それに感情の対象は、ようはこの＜現実＞そのもの――「お前。つまり＜現実＞＝＜自己＞ってこんなもんかよ」という方向性しかありえなくなる。


　そしてここで直感したのが、
　つまりこの感情を静めること、「＜現実＞という＜自己＞」を落ち着かせることが、次の段階への道なのだろうと理解した。

　そしてそうなれば、「＜自己＞という概念そのものが成立しなくなる」というのが第４段階の特徴として語られていることは、
　その通りだと思われる。とても納得した。（この辺りも惜しいよね。ちょっと違うんだよなあ）

○１９日
　最初の、個々それぞれを見て『それら、それぞれ個々「が」＜自己＞だ』と感覚。
　次の、『それら、それぞれ全体「で」＜自己＞だ』という感覚。

　そのどちらもが薄れてくると、日々を過ごす中で「こんな生活でいいんだろうか」という漠然とした感慨が浮かんでいた。
　そんなことを考えている内に、ふと着想を得る。
　
　つまりその感慨は「こんな在り方でいいんだろうか」という感覚ということであり、
　これこそが取り組まなくてはならないことなのだと思った。

　真実は、何をしていても、どんな生活だろうと、どんな人生なのだろうと＜自己＞なのだから、
　そんなこと気にする必要はない。
　
　もっと＜自己＞に、もっと＜現実＞に没頭しなくてはならない。
　ここに向き合わないといけないと感じた。
　（この辺りが、上で説明した第３段階の問題意識ということになる）

○２４日、２５日
　何となく、第４段階は近い気がして。
　（どうしてそう思ったかというと、第４段階を阻むという五上分結の中で、
　ボクが該当しそうなものが「無知」しかなかったからだ。瞑想を修行として取り組んでなかったことがある意味で幸いしたのだろう）

　それがとってもやばい気がした。まだ準備が整ってないと思った。
　（いや、実際すごく困ったなあと思ってた。恐怖すら感じていた。
　　特に後で詳しく書くけれど「第４段階になると俗世には居られなくなる」って言われていたから）

　だけど、準備が整ってからできる「心構え」なんて、そんなものは当たり前のものであり、それは価値が見出だせないものだとも思った。それをしている限り、先に進むことはないだろう。準備が整っていないからこそ、整えなくてはならないのだろう。

○２９日～２月１日
　ボク、と口にすることが野暮に感じていることに気づく。
　それとたまに、どうしようもなく＜自己＞であることそのもので、それだけで強い幸福を感じる。
　（『自分』が崩壊していく様子がよく分かる。
　　それとたまに『無言』に到達しているのに気づいていない時間があったみたいだね）
　（※追記（３月１５日）：到達していたのは『無言』ではなかった可能性があることに気づく）

○７日～１５日
　最近よく泣く。
　（涙を流すタイプではなかったんだけどね。きっと＜悟り＞って無防備なんだと思う。
　　何か、内側に深く入っちゃうときは『自分』の深い深いところまで入ってきちゃう感じがある）


　最後に行く手を阻むのは、ボクをそもそも＜悟り＞へと追い込んだボクだった。
　最初の村周辺のザコ敵もボクで、中ボスもボクで、そしてラスボスもボクなわけだ。

　これは強敵だ。最弱でもあるけれど、とても殺めにくい。
　（ラスボスとは＜自我＞のことを表している。だがこれはそもそもボクをこの道に導いたものでもある。
　　でも第４段階のためには、それを殺めるというのは言い過ぎかもしれないけど、手放さないといけない。
　　色々と感慨深かった。そしてこの辺りが、よく泣いちゃうようになった理由でもあるんだろうね）
　
○１６日～２２日
　誤解に気づく諸々。

**その他、雑感
　・「空（くう）」あるいは「空性」と呼ばれるものについて
　　まず「空」や「空性」についてだけど、ボクは仏教における＜悟り＞については「空」や「空性」という用語を使用せずに説明した。
　　だけど＜悟り＞へ向かう際に、「空」や「空性」を全く使用しちゃいけないってわけじゃない。

　　ただまぁ、ちょっと便利すぎる概念かもしれないというのは思うところかもしれない。
　　だから頼り過ぎることに関してはちょっと注意が必要かもしれないね。
　
　　容易に「分からないもの＝空や空性」みたいにはしないように。その前に、ちょっともう一回だけ考えてみよう。


　　人によって、体で分かっていく人とか、
　　あるいはボクみたいに言語化していくことで段階を踏む人だとか、その他の手法だとか。合わせ技だとか。

　　色々とその人その人に合った修行の仕方をやっていけばいいってだけだ。
　　何かそこにこだわりを持つことも、また執着になりえるから注意ということだね。


　・「ボク」と「ココロ」が多すぎる。
　　これは配置図を見る度に思うんだけど、「ボク」だとか「ココロ」だとか呼びたい。
　　あるいは、普段はそう呼んでいるものが多すぎるよね。

　　「ボク」なら、『無言』から始まって＜自己＞、『自分』、＜自我＞、
　　その先の『意思』、＜視線＞、『感情』、＜心＞、『身体』、＜肉体＞だってそう呼ぶ時があるだろう。

　　「ココロ」だって、＜自己＞、『自分』、＜自我＞、『意思』、＜視線＞、『感情』、＜心＞、『身体』までだろうか。


　　それぞれの言葉をきちんと「分別できていない」。
　　あるいは、「重複してしまっている」ことが＜悟り＞の妨げとなっているわけだ。

　　まあそうなるのもしょうがないと思う。
　　だってきちんとした結論は、「それらが繋がっていて、かつ、それぞれは矛盾しているので独立した形じゃないと表現できない。と同時に、折り畳まれた形で重なっているとも言える」という支離滅裂で意味不明で想像外な結論になるのだから。

　　まともに考えてみれば、
　　たとえ一瞬だけでもその理解に及んだとしても、
　　すぐに常識的な思考に引っ張られて「こんなものが正しいはずがない」って思ってしまう。

　　難しいところだ。

　・在家での第４段階について
　　最後にこのことについて、さらっと書いておく。
　　第４段階については到達前に出家、あるいは到達後でも出家したくなってしまう話があるみたいだけど、
　　事実は正解でも不正解でもある。

　　結局、形式的な在家とか出家とかっていうのは問題ではなく、
　　やはり本質的な部分というか、「在り方」として在家や出家というのが大事なところらしい。

　　事実として、形式的な出家をしていれば第４段階に到達できるかっていうのが、実際そうではないわけで。
　　形式的な部分だけを取り上げて、それが決定的問題ということにはならないのだろう。


　　ただしやはり在家というか俗世の生活の中で、＜悟り＞に対して取り組みやすい環境や、
　　第４段階に到達した後の生活として、「心地よい環境」というのは形式的な在家において、
　　必ずしも誰もが整えられるわけではないだろう。

　　その意味で、形式的な出家というのが選択肢になり続けるのは間違いない。


　　後、出家という修行方法そのものについての見解だけど、
　　少なくとも仏教の＜悟り＞を目指すという意味において、それは理にかなっている。

　　また形式的な出家はともかく、本質的な出家はどんな生活をしていようが、
　　＜悟り＞を「得る」ためには必須だと思う。    </description>
    <dc:date>2016-03-02T21:53:09+09:00</dc:date>
    <utime>1456923189</utime>
  </item>
    <item rdf:about="https://w.atwiki.jp/midutamali/pages/34.html">
    <title>落語でいうところの枕みたいな</title>
    <link>https://w.atwiki.jp/midutamali/pages/34.html</link>
    <description>
      **遠いような近いような記憶
　ボクが生後１歳、もしくは２歳頃。
　すなわち赤ん坊だった頃、ボクの住んでいた家の周辺は、カエルが沢山現れる場所だった。

　いわゆるアマガエルというやつかな。
　緑色が鮮やかで、ぴょこぴょこと可愛く跳びはねる小さいやつだ。生理的に苦手な人もいると思うけどね。

　その頃よりもちょっと育ってから、そんなカエルを近所で見かける度に、赤ん坊だったボクは嬉々として踏み潰していたことを家族に聞かされた。
　明確にその記憶があるわけではないけれど、今でも何となく画が浮かぶ。

　ぴょこぴょこ跳びはねている小さいのを見つけては、追いかけて平然と何匹だって踏み潰していた。
　その感触も、そしてぺったんこになったカエルの死骸の姿も、そのときの楽しいという感情も、ぼんやりとだけど想起することができる。


　・・・どうして、こんな話を。
　人によっては不快を覚えるであろう、こんな話をしたのかは、後々になって説明することになる。

　だから今はとにかく、
　こんな話をボクがしていたってことを、ちょっとだけ頭の片隅に置いておいて欲しい。

**仏教における＜悟り＞の境地の、その先へ
　[[１つ上の記事&gt;ちょっとした付録]]を読んでくれた人なら、ピンときてる人が多いんじゃないかと思っているんだけれど、
　＜悟り＞には、仏教における目標地点である４段階以上の境地が存在する。

　現在、ボクが確認しているのは７段階までだ。
　つまり仏教における＜悟り＞から、さらに３つの奥行きがあることになる。

　更にその先があるかどうかは、今のところ推測以上の確信はない。
　あるいは存在していたとしても、それがボクらに到達可能なものなのかどうかも分からない。

　だから今のところは不明としか言いようがない。


　　　－＜世＞ 
　　｜ 
　　｜　　－＜現実＞ 
　　｜　｜ 
　　　－｜　　－＜自己＞ 
　　　　｜　｜ 
　　　　　－｜　　－・・・[外部]（物質的、精神的、認識的、自我の誤解だけは抜けている） 
　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　－｜　 
　　　　　　　　｜　 
　　　　　　　　　－（＜自我＞、＜視線＞、＜心＞、＜肉体＞）＜現実＞・＜世＞　　

　上の図は、１つ上の記事で第４段階を説明する際に使用したものだったね。
　つまりは仏教における＜悟り＞の境地ということだ。

　５段階以上を解説する前に、復習も兼ねてこの境地を確認しておこう。
　少し補足したいこともあるしね。


　さて、仏教における＜悟り＞の境地とは、上の図にあるように＜自我＞の誤解を晴らすことで、
　つまり＜自我＞の執着から離れることで『無言』に到達することであるというのは、すでに解説した。

　念のために示しておくと、『無言』というのは＜現実＞と＜自己＞という、
　「それぞれは相容れない、全く正反対と言っていいものが１つになっている」もので構成されているんだったね。図も示しておこう。

　　　　　　　　－＜現実＞　
　　　　　　　｜　　　　　　　　　　　
　　『無言』－｜　　　　　　　　
　　　　　　　｜　　　　　　　
　　　　　　　　－＜自己＞

　ちなみにだけど、＜肉体＞・＜心＞・＜視線＞・＜自我＞の誤解をちゃんと晴らさないと、
　『無言』に全く到達することができないかというと、そんなことはない。

　多くの人は、一時的ならば、という条件付きなら『無言』に到達した経験がきっとあるはずなんだ。

　それは、物凄く何かに「夢中」になっていたり、「無心」で何かをしている状態。「熱中」している状態。
　そういう時のことを、よく思い出して欲しい。

　そういうとき、きっと＜肉体＞のことも、＜心＞のことも、＜視線＞のことも、＜自我＞のことも、
　一切を気にすることがない。気に留めることがない。【意識】することがない状態になっているはずだ。

　それが『無言』に到達している状態なんだ。

　そして＜悟り＞は、
　その状態のまま、ずっと居ることができませんか？
　ずっと生活できませんか？　ずっと生きられませんか？　っていうことをボクらに問いかけているんだ。


　だけどボクらは、なかなかその状態を維持することができない。

　どうして、ボクらが普段その状態で居ることができないのか。
　それは＜肉体＞・＜心＞・＜視線＞・＜自我＞にこだわりがあるからだ。執着があるからだ。

　それらが「こうなっていないといけない！」、「こうなってないと駄目なの！」というこだわりがあるから、
　「思い通りにできないことを、思い通りにしようとする」誤解があるから、

　ボクらはいちいちそれらが今どうなっているかを、監視しないといけない。
　ちゃんと思い通りになっているか、監視せずにいられない。

　そしてそれらが思い通りになっていなかったら、気になって気になって仕方がない。
　そのことで苦しまずには居られない。

　だから『無言』に到達している状態を、ボクらは維持することができないんだ。


　なので第４段階に到達している人、つまり『無言』に到達した人であり、＜悟り＞を「得た」人は、
　ずっと「夢中」な状態で生活していることになる。ずっと「無心」な状態で、「熱中」して生きているんだ。

　それは、今この瞬間に。今この＜現実＞に。今この「生きる」に。
　「自分そのもの」（＝『無言』）で生きるって、こういうことなんだ。　

　○第５段階
　さて、だったら第５段階の境地はどういうものかを考えてみよう。

　　　－＜世＞ 
　　｜ 
　　｜　　－＜現実＞ 
　　｜　｜ 
　　　－｜　　－・・・[外部]（物質的、精神的、認識的、自我、自己の誤解だけは抜けている）
　　　　｜　｜ 
　　　　　－｜　　 
　　　　　　｜
　　　　　　　－（＜自己＞、＜自我＞、＜視線＞、＜心＞、＜肉体＞）＜現実＞・＜世＞

　図で示すなら、まずこんな感じ。
　＜自己＞の誤解が抜けているってわけだね。

　以下に＜自己＞の定義をコピペするよ。
　振り返って思い出してみよう。

　　＜自己＞：「思い」を生み出さないもの。過去の自分。記憶。経験。体験。 
　　　　　　　それと（＜視線＞というレンズでは）＜自己＞は視えない。認識されない。 

　こんな感じだったね。


　これはどういうことか、
　この境地に到達する際に、一体何を問われるのかというと、

　「＜悟り＞を得た」という事実に、その過去の自分に、記憶に、経験に、体験にこだわらなきゃ駄目かい？　と聞かれてるんだ。
　「おめでとう！　貴方は念願の第４段階に到達したね。でも、それを自覚しながら生きなきゃ駄目なの？」って問われてるんだ。

　より正確に解説すると、「第４段階に到達した」や「＜悟り＞を得た」という限定的なものだけを問われているわけじゃない。
　あらゆる過去や記憶や経験や体験全てについて、それらに執着しながら生きられなきゃ駄目なのかい？って聞かれてるんだ。

　そんな問いに対して、「別にそんなこと、どうでもいいよ」と心底から答えられる。
　つまり＜自己＞に対する執着から離れることができたとき、第５段階に到達することになる。

　（２０１６年２月４日追記：＜自己＞の執着を離れることについて、少し大事な意味合いを強調しておこうと思う。
　　どういうことかというと、『無言』をイメージの掴みやすさを優先して『運命』という言葉で表現するならば、

　　　　　　　　－＜現実＞　
　　　　　　　｜　　　　　　　　　　　
　　『運命』－｜　　　　　　　　
　　　　　　　｜　　　　　　　
　　　　　　　　－＜自己＞

　　こんな感じで図示できることになる。
　　そして見てもらえば分かるように、『運命』とは＜自己＞（＝過去の自分。記憶。経験。体験）と＜現実＞によって定められるわけだ。

　　だけど、本当はそれだけじゃない。

　　この『運命』は、＜自己＞から下部の『自分』・＜自我＞・『意思』・＜視線＞・・・と進んで、結局は（外部）からの影響と、
　　さらに上部の［外部］からの影響という、３つがぶつかり合った場所で生まれる存在なんだ。

　　だからそれを踏まえた上で、「＜自己＞の執着を離れる」とは何かを改めて説明すると、
　　「貴方の運命、貴方が決められなくてもいい？」、「貴方の運命、貴方の意思がそこまで反映されなくてもいい？」みたいなことを問われているってことになる。

　　また反対に「貴方の運命、貴方が決めてしまっていい？」、
　　「貴方の運命、貴方の意思がどうしたって反映されてしまってもいい？」みたいなことも問われているってことになる。

　　そして次の記事で詳しく説明することになるけれど、このことに「別にいいよ」と答えられるかどうか。
　　そのことが［外部］を理解する上で、到達する上で大事な点になっていくんだ。

　　まあ、今は深く考えずに先に進むといいよ。それでは。）


　そして、ようやく。

　ここでボクはずっと「よくわからない」と話してきた＜世＞について、その正体を明かすことができる。
　さらに＜世＞と＜現実＞で構成された『？』という存在についても説明することができる時が来た。

**＜世＞とは何か？　『？』とは何か？　
　　　　　　　　－＜現実＞　　　　　　　　　－＜世＞？ 
　　　　　　　｜　　　　　　　　　　　　　｜ 
　　『無言』－｜　　　　　　　　　『？』－｜ 
　　　　　　　｜　　　　　　　　　　　　　｜ 
　　　　　　　　－＜自己＞　　　　　　　　　－＜現実＞ 

　後で、また詳しく第５段階やその先の段階については説明するけれど、
　第５段階に到達したとき、つまり＜自己＞の執着を離れたとき、ボクらは『？』に安定して到達することが可能になる。

　じゃあ、この『？』とは何か？
　＜現実＞と、ボクがずっと「よくわからない」と言ってきた＜世＞によって構成される、この存在とは何かを解説していこう。


　＜世界論＞のここまでの記事を読んできた人なら、きっと『？』と＜世＞について色々と推測や予想をしてくれていたんじゃないかと思う。
　その答え合わせってわけじゃないけれど、早速正体を明かそう。まあ、そんなに驚くようなものでもない。

　まず＜世＞についてだけど、これは&amp;bold(){他者の＜現実＞}がその正体なんだ。
　そして今後は、これまで示してきた（自分の）＜現実＞との区別を付けるために、以下のように表記を統一しようと思う。
　　
　　　　　　　　－＜自現実＞　　　　　　　　－＜他現実＞ 
　　　　　　　｜　　　　　　　　　　　　　｜ 
　　『無言』－｜　　　　　　　　　『？』－｜ 
　　　　　　　｜　　　　　　　　　　　　　｜ 
　　　　　　　　－＜自己＞　　　　　　　　　－＜自現実＞ 
　　
　自分の＜現実＞のことを、＜自現実＞と。
　自分以外の、他者の＜現実＞のことを、＜他現実＞と表記することにする。ご了承をお願いする。

　そして念の為に、存在の構造である「それぞれは相容れない、全く正反対と言っていいものが１つになっている」というのが、
　ここでも成立しているってことも確認してもらおう。ちゃんとそうなってるよね。

　（１１月２９日追記：この＜自現実＞と『無言』と＜他現実＞の解説は、実は半分だけしか合ってないことが発覚しました。
　　昨日、ずっとどこか引っかかってたものに気付けました。まあ…修行の際には、とりあえずこの捉え方でいいです。
　　むしろこう捉えたほうがやりやすいと思います。何が間違っているのかの詳細については、次の記事で補足しますので気にせず進んでください）


　さあさあ、ではこの＜自現実＞と＜他現実＞で構成される存在とは何か？
　『？』とは何かってことなんだけど、きっとボクは、この存在にこそ＜世界＞と名付けるべきなんだろうと思ってる。

　自分と他者の＜現実＞たちが集まって、＜世界＞ができているって訳なんだね。きっと納得してもらえるだろう。
　そして、これがこの＜世界論＞で目標にしていた＜世界＞であり、&amp;u(){このwikiの最終目標についに到達できた}ってことになる。
　
　そう考えると、色々と感慨深いところも感じなくもないんだけど・・・実は、ボクは＜世界論＞の全体的なことを考えて、
　この存在は間違いなく＜世界＞と呼んでもいいものではあるけれど、表記としては採用しないことに決めた。


　その理由は２つばかりあって。

　１つは、これまで＜世界＞や＜世界論＞は、この＜＞で囲んで表記してきたけれど、
　この＜＞には、今後ちょっとした属性というか括りを示す意味合いで使っていきたいという予定があるんだ。

　それは同時に、『』で囲んできたものにも、
　ちょっとした属性というか括りを与えたいって話になるんだけど、その詳細は後々に話すことになるから今は気にしないように。

　それに、『？』を＜世界＞にするってことは、
　『世界』と書かなきゃならないってことになるんだけど、これはこれまでの記事との統一を考えると、ちょっとねぇ・・・。

　これまでの記事のほうを全て変更するって手もあるけれど、
　ちょっと面倒だし、これまでの記事は記事で、今のままが分かりやすいんじゃないかと思ってるから、そのままにすることとした。

　ということで・・・この＜世界論＞は、＜世界＞に到達することが目標だったにも関わらず、
　ようやくそこに到達できたと思ったら、表記としては使えないという本末転倒？な事態となったわけだ。

　さすがは＜世界＞だ。
　やっぱり『思い通りにならない』。さすがだ（苦笑）


　そしてもう１つ理由は、もっと適切な言葉があると思っているからだ。
　この＜自現実＞と＜他現実＞で構成される存在に名づけるべき言葉。その大切なニュアンスをちゃんと表してくれる良い言葉があるんだ。

　なので、ボクはこの存在には――&amp;bold(){『沈黙』}と名付けさせてもらいたいと思う。

　これは『無言』を解説したときにした話を、ちょっと思い出してもらいたいんだけど。
　ボクらが「ボクら」となるその最初の表れが、つまり自分が「自分」となる最初の表れが、決して語れない形でやってくるって説明していた。

　それと同じなんだ。＜現実＞だって同じことなんだ。
　＜現実＞が自分や、自分以外に対して「現実」として現れる最初の表れは、やっぱり決して語れない形でやってくる。

　だからこの大切なニュアンスをきちんと表すためにも、
　ボクはこの存在については『沈黙』と表記するのが、より相応しいって考えるんだ。

　ということを踏まえて、以下のような図になる。

　　　　　　　　－＜他現実＞ 
　　　　　　　｜　 
　　『沈黙』－｜　　　　　　　　　
　　　　　　　｜　　　　　　
　　　　　　　　－＜自現実＞　

　さて、ボクは勝手に『沈黙』と名付けたけれど、
　数々の宗教や哲学などでは、この存在について何と呼んでいるかを示しておこうかな。

　ここで、何の恥じらいもなく先に言い訳をしておくけれど、
　ボクはこれから紹介する宗教や哲学について、何もかもが舐める程度の知識しか持ってない。これは事実だから正直に言っておく。

　ので、是非とも正確なところは、それぞれの詳しい人が確かめてほしい。
　宜しくお願いする。ボクも自分で確かめる気になれない程度の興味はあるから、機会があれば後で教えてくれたら嬉しい。


　まず仏教だけれど、もしも空（くう）と呼ぶべきものがあるとしたら、この『沈黙』であると思っている。
　ただし、とにかく幅が広い仏教と呼ばれるもの中で、これ以外のものを空と呼んでいる事実があると思うんだけど、
　&amp;u(){ボクは、それらを否定も批判もしない。}（空性と呼ばれるものについても同様）

　だって『沈黙』の中には、何もかもが含まれているんだから、それは決して間違いではないからだ。
　まぁ中には、本当に荒唐無稽なものもあるだろうけどね。
　
　それに、これまでの記事でも示してきたとおり、仏教における＜悟り＞の境地。
　すなわち第４段階に到達するために、空は必要不可欠なものではないっていう事実がある。

　だから注意すべきは、簡単に空という言葉を使ってしまって思考停止に陥ること。
　それと空が何のことであるか分からなくても・・・というか、分かっていたら第４段階以上に到達している可能性が高いから、
　それ以外ならきちんとしたところまで分かるはずがないんだけれど、そういう分からないってことをあまり気にしないことだろう。
　
　ただし、ちゃんと分からない自分を、そのままに認めるようにしよう。
　分かったつもりになること以上に、修行を阻害するものはないってことは知っておくべきだろう。

　やっぱり素直が一番なんだ。
　素直になれないときも、素直になれないってことを認める素直がやっぱり一番なんだ。これは大事なことだと思うよ。

　それを認めた上で、やっぱり「分かりたい！」って取り組む。
　これがきっと修行と呼ばれるもので、それを頑張ろうと思う人は頑張るといい。

　ボクは「やりなさい」とも「やめなさい」とも、統一的に言うつもりはない。


　では、その他の宗教や哲学の場合を見ていこう。

　まずは、以前にも紹介したプロティノスさんかな。
　プロティノスさんは、この『沈黙』のことを「一者」という言葉で呼んでいると思う。

　次は、老子さんと荘子さん。
　この二人は「玄」とか、「玄牝」とか、「谷神」という言葉を使っているかな。

　さて、この二人と共に紹介していたニーチェさんなんだけど、
　色んな人の解説を読んでいる内に、ボクは何だかよく分からなくなった。

　「虚無」というものの正しい解釈が『沈黙』であるなら、納得感があるんだけどなって感じ。
　もしくは明確に単語としては示していないか、この境地については語ってないのかもしれない。後は詳しい人に任せることにする。


　その他を挙げると、
　スピノザさんの「神即自然」の「自然」とはこの存在を指しているって捉えると、ボクの中では納得がある。

　その他、インド哲学における「梵」（ブラフマン）もここのことかな。（この場合「我」（アートマン）は『無言』となる）
　ただ、これも凄く判断が難しい。正確なところはよく分からないってのが正直なところだ。


　というか、うーん・・・ボクは今現在『無言』と『沈黙』と、さらに１つ上の枠組みというか位置に、
　《神様》や《お天道様》と&amp;u(){呼ばれるもの}を想定しているんだけれど（こちらも詳しくは次記事）、この辺りが本当にごっちゃになっている気がする。

　まぁ、どれもこれも同一って言えばそれはその通りだし、別物って言えばそれもそれでその通りだし。
　明確に区別することの大切さや重要さと同じぐらい、きっちり分別することの意味のなさってのはあるのかもしれないとぼやぼや考えたりする。

　そんなわけだから、みんなもそこまで深く考えなくていいんじゃないかと思う。
　分別を付けることのみを目的にしてるなら別だけど、別に分かっていなくてもその境地に到達することは可能なんだから。そこが一番大事なはずだ。

　そして何より、分別ができていればすでに＜悟り＞になっているはずであり、
　それができてないから＜悟り＞になっていないわけだ。ミモフタもなく言えば、ただそれだけのことで。気にするほどのことでもない。

**さて、第５段階以降の解説に戻ろう
　　　　　　　－＜他現実＞ 
　　　　　　｜ 
　『沈黙』－｜　　－＜自現実＞ 
　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　－｜　　－・・・[外部]（物質的、精神的、認識的、自我、自己の誤解だけは抜けている） 
　　　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　　　－｜　　
　　　　　　　　　　｜
　　　　　　　　　　　－ （＜自己＞、＜自我＞、＜視線＞、＜心＞、＜肉体＞）&amp;u(){＜自現実＞・＜他現実＞}

　ちょっと無理矢理だけど、『沈黙』を入れた図を用意させてもらった。
　これが第５段階の状態を図にしたものになる。

　下線部を引かせてもらった「＜自現実＞・＜他現実＞」の部分、ここも変更されているね。
　そしてここに絡んだ補足というか、訂正を１つさせてもらおうと思う。

　これまでボクは、（例えば＜肉体＞が）執着から離れると、
　執着から離れたものが＜世＞（＝＜他現実＞）へと取り込まれる。溶け込む。なんて言い回しを使っていたけれど、
　これはちょっと正確なところではない。

　正しくは、『沈黙』に取り込まれる。あるいは溶け込むって感じなんだ
　これはすなわち＜肉体＞や＜心＞、＜視線＞だとかを、そのままに（あるがままに）捉えることができる。
　誤解を離れた形で捉えることができる。

　こだわりや執着がないから、監視なんてする必要がない状態として捉えることができる。
　特段、【意識】する必要がなくなる。

　そんなニュアンスを表したくて、これまで＜世＞へと取り込まれる。溶け込むって言い回しで話してきた。
　ついさっきまで、＜世＞の正体も明かしてなかったこともあるしね。

　一応、本意としてはこういうことなんだってことは知っておいてほしいから、ここで補足しておこう。
　だから本当は「＜自現実＞・＜他現実＞」って書き方じゃなくて、『沈黙』って書いてしまったほうがいいのかもしれないね。


　○第６段階
　それじゃあ、次は第６段階だ。
　想像は付いていると思うけど、＜自現実＞の執着を離れることで到達する。

　これはどういうことかというと、まぁそのままだ。
　自分の＜現実＞を、ただそのままに認めることができればそれでいいわけだ。

　この＜自現実＞に対して、「こういうものであって欲しい」とか、「こうでないと駄目だ」ってこだわりがあったら、
　それが現在どうなっているか気になって気になって仕方がない。【意識】せずには居られない。

　「＜自現実＞を、いちいち監視していないといけませんか？」って問われているわけだ。
　『沈黙』から＜自現実＞が生み出されるわけだけど、それをそのままに（あるがままに）認めることができませんか？　ってことだ。
　「異議なし！」って言えませんか？　って聞かれてるんだ。


　この段階を取り組む中で、ボクがとても面白いと感じたことがあって、
　すでに、ここまでで「『自分』の運命」（＝『無言』）は受け入れている状態になっているはずだけど、
　その『無言』を生み出す「＜自現実＞の運命」っていうのは、それとは別物として全く受け入れてないことに気づかされたんだ。

　例を挙げるなら、自分の性別がどうであるとか、肌の色がどうであるとか、背が高いとか低いとか、
　何が得意だとか苦手だとか、どこの国の人であるとか、もっと言ってしまえば別に水星人だろうが火星人だろうが構わないと思えていたんだけど、
　どんなボクであろうと、少なくとも&amp;u(){「この＜自現実＞から生み出されて欲しい」}って、こだわりや執着があったんだ。

　あ、もちろん人間じゃなくても構わない。
　動物だろうが、植物だろうが、鉱物だろうが、他の何であろうといいんだ。ただやっぱり、＜自現実＞から生まれて欲しいって思っていたんだ。


　いやぁ、これは凄く面白い感覚だなあと思っていて。
　普通こんなこと自覚しないじゃない？　みんなもきっと、一度も想像したこともないんじゃないかと思う。

　それに「自分の運命」を受け入れるっていうのと、
　「＜自現実＞の運命」を受け入れるっていうのが決してイコールではないってことも意外なものだった。一緒じゃないらしいんだ。

　つくづく、人間の奥底には想像もしない面白い前提が潜んでるんだなあって思ったよ。


　まあとにかく。
　この段階を達成できたとき、以下の図のような状態になる。

　　　　　　　－＜他現実＞ 
　　　　　　｜ 
　『沈黙』－｜　　－・・・[外部]（物質的、精神的、認識的、自我、自己、自現実の誤解だけは抜けている） 
　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　－｜　　
　　　　　　　　｜　 
　　　　　　　　　－ （＜自現実＞、＜自己＞、＜自我＞、＜視線＞、＜心＞、＜肉体＞）『沈黙』

　さて、＜自現実＞の執着を離れる頃になると、
　これまでとはまた違った景色がちらりはらりと垣間見えるようになる。

　「思いがけない角度」の誤解に、気づくきっかけが現れるようになる。とても当たり前のことのようにも、驚天動地にも感じられる着想を得ることになる。
　このことについての詳しい解説を、次の記事ではしていく予定だ。
　
**ここまでは、これまでの記事の応用程度で済むけれど
　この記事はここで終わるけれど、次の記事では色々と全く新しいことを話さなくちゃならない。
　きっと今まで以上に、理解が難しいってことになると思う。きっとピンと来ないと思う。

　ただ、ボクとしてはただ正直に、
　現在理解していることと、感覚として捉えていることを、なるべく正確に言語化していこうと思っている。

　それらをどう解釈するかは、元よりボクが決めることじゃない。
　みんな、それぞれに任せる。


　最後に、次の記事でどんなことを話そうとしているかを、
　下準備を兼ねて列記しておこう。

　まずは【意識】のこと、それに絡んだ認識論と、現代科学との兼ね合いについて。
　さらに第７段階について。《神様》や《お天道様》と呼ばれるものについて。それと[外部]についても説明しなくちゃならないだろう。
　また《愛》について。《善》について。《美》について。それに絡めて『沈黙』について、より詳しい解説や補足を加えたい。

　そうしている内に、
　どうしてボクがこの記事の冒頭で、カエルの話をしたのかも分かっていくはずだ。


　さて、次の記事が＜世界論＞の（少なくとも本線としては）最後の記事になる気がしている。
　せっかくだから、最後までお付き合いいただければ幸いに思う。それじゃあ、[[待ってるよ&gt;かみさま、おてんとうさま]]。    </description>
    <dc:date>2016-02-10T19:09:53+09:00</dc:date>
    <utime>1455098993</utime>
  </item>
    <item rdf:about="https://w.atwiki.jp/midutamali/pages/29.html">
    <title>「謝辞」など</title>
    <link>https://w.atwiki.jp/midutamali/pages/29.html</link>
    <description>
      **この場を借りて、謝辞なんぞ
　ボクの教師であり、ネタ元であり、パクり元の方々へ。
　本当に、本当に感謝をしています。

　よくぞ遠い時代から、遠い土地から、遠い言語から、
　こんなところに流れ着いてくださいました。

　残念ながら、ボクでは皆様方の知慧の一部しか理解することができませんでしたが、
　勝手にその知慧を食い散らかし、思う存分に血肉にさせていただいております。

　今後とも、是非とも宜しくお願い致したい次第で御座います故、
　末永いお付き合いを、何卒ご検討願えればと申し上げるもので御座います。

**一応、こんな方々を紹介していくつもりだよ（敬称略の順不同）
　・

　などなど・・・。    </description>
    <dc:date>2016-01-11T18:44:01+09:00</dc:date>
    <utime>1452505441</utime>
  </item>
    <item rdf:about="https://w.atwiki.jp/midutamali/pages/32.html">
    <title>物足りなくなった方へ</title>
    <link>https://w.atwiki.jp/midutamali/pages/32.html</link>
    <description>
      **物足りなくなった方へ
　まずはとにかく、下図を見てもらおうかな。
　既に＜世界論＞を読んでくれている人なら、見慣れたものだと思う。

　　　－＜世＞ 
　　｜ 
　　｜　　－＜現実＞ 
　　｜　｜ 
　　　－｜　　－＜自己＞ 
　　　　｜　｜ 
　　　　　－｜　　－＜視線＞ 
　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　－｜　　－＜心＞ 
　　　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　　　－｜　　－＜肉体＞ 
　　　　　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　　　　　－｜ 
　　　　　　　　　　　　｜ 
　　　　　　　　　　　　　・・・（外部）

　さて、ここからが本題だ。
　この図を眺めていて、みんなはこんなことを疑問に思わなかったかな？

　この一番下にある&amp;u(){（外部）って何だ？}　って。

　実はボクとすれば、この疑問を是非持って欲しいと思ってた。
　そしてそれを考えてもらって、その事実に気づいてもらいたかった。

　（外部）とは何か、その正体に、その当たり前に気づいてもらいたかった。

**（外部）とは＜現実＞や＜世＞に他ならない
　ということで、実は（外部）とは＜現実＞や＜世＞のことなんだ。
　まあそうだよね。よーく考えてみると、そうなるしかないし。それは当たり前のことだ。

　&amp;bold(){だって、ボクらは＜現実＞（＜世＞）の中に居るんだもん。}

　「世の中」なんて言葉があるぐらいだもんね。　
　だから、本来はこの図はこうなる必要がある。

　　　－＜世＞
　　｜
　　｜　　－＜現実＞ 
　　｜　｜ 
　　　－｜　　－＜自己＞ 
　　　　｜　｜ 
　　　　　－｜　　－＜視線＞ 
　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　－｜　　－＜心＞ 
　　　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　　　－｜　　－＜肉体＞ 
　　　　　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　　　　　－｜　
　　　　　　　　　　　　｜　
　　　　　　　　　　　　　－・・・＜現実＞・＜世＞
　　　　　　　　　　　　　　
　さて、さらに思い出してもらおうかな。

　ボクは[[最初にこの図を示した記事&gt;「思い」はどこに消えた？]]で、
　これらの繋がっているものは「決して切り離して単体だけで語れない」って話していた。

　それと、誤解を招くかもしれない文章表現として、
　「＜心＞はそもそも＜肉体＞であり、＜肉体＞はそもそも＜心＞なのだから」なんてことも話していた。

　ということは、どうなるだろう？　それってどういうことだろう？

　
　＜自己＞に注目して話すよ。

　それはつまり、＜自己＞とは＜世＞なんだってことだ。
　また＜自己＞とは＜現実＞のことであり、＜自己＞とは＜視線＞や＜心＞や＜肉体＞のことなんだ。
　
　また＜世＞とは＜自己＞であり、＜現実＞とは＜自己＞であり、
　＜視線＞や＜心＞や＜肉体＞とは＜自己＞なんだ。

　だから「切り離して単体で語ろうとする＜自己＞」は存在しない。
　その意味において言葉遊びっぽくするなら、『＜自己＞は＜自己＞ではない』という言い回しだってできる。
　（＜悟り＞を語る書物や発言で、よくこういう言い回しが現れるのはこのため）

**ボクの隠された超能力を披露しよう！
　上の段落で書いたことが、すぐにピンと来た人ばかりじゃないと思うから、もうちょっと補足しよう。

　そこでそのためにも、ここでボクがずっとひた隠しにしていた超能力をみんなに披露しよう。
　この超能力を体感してもらえば、きっと理解が進むと思うんだ。

　ということで、ボクがこれから披露する超能力とは「予知能力」だ。
　これからみんなに、みんなが今見ている視界にあるものから、何でもいいから１つを指定してもらって、
　それをボクが当ててしまおうって話なんだ。

　どう？　凄いでしょ？
　「そんなことできるはずないだろ」なんて、思っている人が多いだろうね。

　でも是非そういう人にこそ、とりあえず何かを１つ指定して欲しいな。参加してみて欲しいな。
　ボクが絶対に当てられないって思うものを、１つ指定してみてよ。


　　・

　　・

　　・


　大丈夫かな？
　みんな、ちゃんと指定した？

　よし、それじゃあ当ててみよう。


　（ドラムロールはみんなが脳内補完してね）
　みんなが指定したのは――&amp;bold(){＜世＞（＜現実＞）}だ。（何を指定していても、全て「世の中」にあるから絶対に間違いがない）


　ほら当たったでしょ？（笑）
　え、ズルい？　ズルくて何が悪いのさ、と言い返してもいいけれど、それは本筋とは外れるから止めておこう。

　ボクがこんなゲームでみんなに伝えたかったことは、
　ボクら自身も含めて、＜現実＞（面倒くさいので今後は＜現実＞のみに統一する）の中に在るあらゆるものは、
　＜現実＞によってちゃんと裏付けがなされているという事実なんだ。

　例えば、
　ボクの視界には「コーヒーカップ」があったり、「パソコン」があったり、「携帯電話」があったりしてる。
　窓の外に目を向ければ「樹木」があったり、「川」が流れていたり、「道路」があったり、「車」があったり、「人」が歩いている。

　もっと想像を膨らませれば、
　まだボクが一度も見たこともないものが、あるいは想像すらできないものが、＜現実＞にはたくさん溢れているだろう。

　でも、それら１つ１つのものは、
　１つの例外なく、決して「それら１つ１つ」として、単体として存在しているわけではない。


　机の上の「コーヒーカップ」が、「コーヒーカップ」であるのは、
　たった１つの、この１００円ショップに置かれていたコーヒーカップのために、＜現実＞全ての力で「コーヒーカップ」を定義しているからだ。　

　改めて復習しておこう。
　ボクが言っている＜現実＞の定義とは、物質的な世界に留まっているものじゃない。精神的な世界にだって留まっていない。
　今という時間にだって留まってはいない。過去も未来も、想像が付くものも付かないものも、ありとあらゆるものを含んでいる枠組みだ。
　（そこに＜世＞を加えれば、上記に該当しない「よくわからないもの」も更に追加されるかもしれない）

　その＜現実＞が、そんな＜現実＞が、あらゆるものを定義している。
　＜現実＞全ての力で、たった１つの取りこぼしも、決して切り捨てることもなく、
　一切の手抜きをすることもなく、ありとあらゆるものをきちんと定義しているんだ。


　だから、みんなが指定したもの。
　そしてそれを行ったみんなそのものも――つまり＜自己＞だって＜現実＞なんだ。

　ボクらは、ボクらだ。だけど、ボクらだけじゃない。
　ボクらは＜現実＞だ。だからそのことを忘れたボクらは、ボクらじゃない。ボクらとして不十分だ。

　＜自己＞には、＜現実＞全てが含まれている。
　物質的な世界も、精神的な世界も、過去も未来も、想像が付くものも付かないものも全て含まれている。

　たとえ、髪の先をどれだけ細かく刻んだとしても、爪の先をとてつもなく擦り潰したとしても、
　路上に吐いた唾液であっても、どんな＜自己＞にだって＜現実＞が丸々１個含まれている。

　
　そしてまた、＜現実＞を＜現実＞としているのは、ボクらであり、＜自己＞でもあるんだ。
　このことを、ボクらは絶対に忘れてはいけない。

　ボクらと、＜自己＞と――＜現実＞は、相互の定義関係にある。


　＜現実＞は、＜現実＞だ。だけど、＜現実＞だけじゃない。
　＜現実＞は、ボクらであり＜自己＞だ。だからボクらや＜自己＞が含まれない＜現実＞は、＜現実＞じゃない。
　

　あらゆる単体は、それ以外のあらゆるものを、
　あらゆるものであるように（あるがままであるように）定義している。
　
　またあらゆる単体は、単体が単体であるために、
　それ以外のあらゆるものから単体であるために（あるがままであるように）定義されているんだ。

　そうなんだよ？
　これは本当のことなんだ。

**＜悟り＞とは、「＜自己＞を発見する」こと
　＜世界論＞の中で、ボクは何度も＜悟り＞とは「＜自己＞を発見する」ことだよって話してきた。
　今一度、そのことに立ち戻ろう。

　もう分かってくれると思う。
　ボクが言っている＜自己＞というのが、どういう＜自己＞であるのか。

　ボクが言っている＜自己＞は、あらゆるところにある。
　＜世＞にだって、＜現実＞にだって、＜視線＞にだって、
　＜心＞にだって、＜肉体＞にだって、（外部）にだって。

　「コーヒーカップ」にだって、「樹木」にだって、「車」にだって、「他人」にだって、
　「悲劇」にだって、「喜劇」にだって、「不幸」にだって、「幸福」にだって、「戦争」にだって、「平和」にだって、
　「１００年前」にだって、「１０００年前」にだって、「１００年後」にだって、「１０００年後」にだって、

　もっともっと想像を遥かに遥かに超えるところにだって、＜自己＞はある。

　だけどそれは、それらは同時に＜自己＞ではない。
　言語表現ではこれが限界だ。こういう言い回しをするしかない。こういう意味不明な言い回しをするしかない。

　だけど、&amp;u(){これが＜悟り＞なんだ。}　
　そしてそれが、「＜自己＞を発見する」ということの本当の意味なんだ。


　＜現実＞と＜自己＞は同一なんだ。
　これは決して正確ではないけれど、とても的確な表現でもある。

　だから＜現実＞を知るためには、語るためには、＜自己＞を知って、語らなくてはならない。
　＜自己＞を知るためには、「＜自己＞ではないものを＜自己＞だと誤解したもの」（＝＜自我＞と呼んでいた）が邪魔になる。

　誤解が無くなると、＜自己＞と＜現実＞は同一化していく。
　だから＜自己＞を語ることが、そのまま＜現実＞を語ることになるんだ。そしてそれは目標の＜世界＞へと繋がっている。

　これが＜世界論＞で、＜自己＞と＜悟り＞を語る理由だ。



**さて、大変申し訳ないんだけれど
　これより先は、さらに支離滅裂というか、意味不明かつ想像外な解説をしなくてはならない。
　というか、支離滅裂で意味不明かつ想像外でしか解説できないと言うべきか。

　まずここまで、この記事を含めて８本の記事で説明してきたことを、１つ２つ「ちゃぶ台返し」することになる。
　その中にはボクが最初から意図して嘘をついていたところもあったけれど、ごく最近までボク自身も間違えに気づいていなかったところもあった。
　（間違えに気づいてからも、＜世界論＞上の７本については分かりやすさを重視して表現をそのままにしてあるところもある）

　そんな訳だから、きっとみんなは急に梯子を外された気持ちになるというか、
　非常に面を喰らうことになると思うんだけど、まあ頑張ってこれから話していくことをよく咀嚼して飲み込んで欲しい。

　こればっかりは、ちょっとボクの力量では優しい説明の仕方ができそうもない。
　何とか上手いことできればいいんだけどね、ごめんね。

　もし混乱するのが嫌だという人は、この先は読まないほうがいいのかもしれない。
　その辺りの判断は、みんなそれぞれに任せるよ。

**自己と自分と自我と
　さて早速、一個目の「ちゃぶ台返し」をしたいと思う。
　それは題名にもあるように、＜自己＞と『自分』と＜自我＞に関してのものだ。

　これは＜悟り＞とは「＜自己＞を発見する」ことだってずっと説明してきたから、
　みんなには、これらの区別をちゃんと付けてねって話してきた。

　すなわち『自分』って言葉を使わないように、まずしようねって提案して。
　そして＜自己＞っていうのが大事で、それと勘違いした＜自我＞っていうのに気をつけようねって説明してきた。

　だけどねえ・・・。
　

　もしかして、よく覚えている人も居るかもしれないけれど、
　この段落の題名である「自己と自分と自我と」を使用するのは２回目なんだ。

　１回目は[[「間違え」がないとは&gt;「間違え」がないとは]]という記事の冒頭にある。
　そして何というか・・・奇しくもその段落の文章内に、他ならぬボクが書いたことなんだけど、

　　～　引用　～

　で、早速なのだけれど、
　ボクらが「ボクら」のことを指す言葉として、よく使用するのが『自分』という言葉だろうと思う。

　哲学という単語で括ってしまえばいいのか分からないけれど、
　この手のことを話すときは、どの言葉をどのような意味で使うかというのが肝になってくる。

　厳密な定義と、それを全体を通してブレなく使用する必要があるんだ。

　そんなこともあって、今後は＜世界論＞において、この『自分』という言葉は使わないことをここにはっきりと宣言しておく。
　何故かと言うと、この言葉が日常生活で使われているときの意味合いは、
　＜自己＞と（これから説明する）＜自我＞の両方を含んだ概念であろうと思われるからだ。

　これからそれらを厳密に区別していきたいときに、この言葉はとてもボクらを誤解・混乱させる危険性がある。
　それだったら、最初から使用しないとはっきり周知したほうがいいと思ったんだ。

　　～　～

　この引用文の中の、
　「何故かと言うと、この言葉（＝『自分』）が日常生活で使われているときの意味合いは、
　　＜自己＞と（これから説明する）＜自我＞の両方を含んだ概念であろうと思われるからだ。」の部分。

　どうやら、これが&amp;u(){そのまま正しい}みたいだ。


　何を言っているのか、よく分からないと思う。
　まあでも、とりあえず下に図式してみるから見て欲しい。

　　　　　　　－＜自己＞
　　　　　　｜
　『自分』－｜
　　　　　　｜
　　　　　　　－＜自我＞

　これが「『自分』というのは＜自己＞と＜自我＞の両方を含んでいる」を、素直に図にしたものになる。

　んで、これを眺めていて、
　これまでのボクの解説を踏まえたり、あるいは常識的な思考で考えると、

　「で、どれが本物（本当のボク）なの？」とか「＜自己＞っていうのが大事なんだよな。後の２つはどうすれば失くせるんだ？」とか、
　「それで『自分』っていうのは＜自己＞だってことなの？　＜自我＞だってことなの？　本体はどっちなの？」とか、色々と思うんだろうけど。

　違うんだ。ボクが言いたいのは、このままなんだ。
　このまま――&amp;u(){『自分』というのは＜自己＞と＜自我＞という二面性を持っている}ってことなんだ。

　まだ、いまいちピンと来てないと思うから、
　よく知られている同じ構造の別例を挙げよう。

　　　　　　－＜粒子＞
　　　　　｜
　『光』－｜
　　　　　｜
　　　　　　－＜波＞

　この話を聞いたことがない人は、少ないと思う。
　『光』というのは＜粒子＞でもあるし、＜波＞でもあるよって有名な不思議話だ。

　だけど、もしこのことが不思議に思うっていうのならば、
　それはきっと、結局どちらかが本当で、どちらかが偽物だっていう思い込みが頭にあるか、
　もしくはこの二面性を生み出している何か「１つ」の隠れている性質が本当はあるに違いないって思っているんだと思う。

　でも、ボクはそれは違うと思う。
　はっきりと言うけれど、&amp;u(){&amp;bold(){これが「存在」というものそのものの「構造」なのだ}}とボクは考えている。

　「存在」というのは、『光』の例で言う＜粒子＞と＜波＞に代表されるような、
　それぞれは相容れない、全くの正反対と言っていいものが１つになっているもの。言ってしまえば「矛盾」なのだとボクは思う。

　そしてそれが、ボクらに捉えられる（つまり、捉えることが可能だ）ということは、
　そもそもボクらの認識能力というのは、「矛盾しているものを捉える」という能力なのだという理解のほうが正しいのかもしれない。

　もっと言うなら、「矛盾」してなくてはボクらはその存在を認識できない可能性があるし、
　あるいは、ボクらが一般的に使用している常識や論理と呼ばれるものが、むしろ非常に「不自然」である可能性がある。


**＜自己＞と＜自我＞の新定義
　話を『自分』に戻そう。
　もう一度言うけれど、『自分』というのは＜自己＞と＜自我＞という二面性を持っている。

　そんな訳なんだけど、これまでの＜世界論＞の解説では、
　＜自我＞についてはボクはかなり邪魔者扱いをしてきた。批判的に語ってきたと思う。

　この「邪魔者扱い」は、＜悟り＞に「触れる」だとか「得る」ためには、ある程度は必要なことではあるのだけれど、
　だからと言って、その存在すら不要だと考えるとか、敵視してしまうのは行き過ぎということになる。

　何故なら、＜悟り＞という「＜自己＞を発見する」境地において、
　＜自我＞というのは、＜自己＞から決して切り離せないものだということがこれで明らかになったからだ。

　＜自己＞から見て、そして『自分』から見て、＜自我＞とは必要不可欠な存在なんだ。
　＜自我＞がなくては、＜自己＞と『自分』の存在そのものも成り立たないんだ。


　さて、こういった理解を踏まえて、
　改めて＜自己＞と＜自我＞というものについてきちんと考えていきたい。

　これまで、先に示していた定義を下に示す。

　　～　これまでの定義　～

　　＜自己＞：「思い」通りになるもの。「思い」通りになっているもの。自らが自らを決めるもの。
　　　　　　　そして＜自己＞は視えない。認識されない。ここが注意すべき、重要なポイントになる。
　　　　　　　カメラは決してレンズに映らないのと同じで、（＜視線＞というレンズでは）＜自己＞は視えない。認識されない。

　　＜自我＞：＜自己＞ではないものを＜自己＞だと誤解したもの。
　　　　　　　（＝『思い通りにならない』ものを「思い通りにしようとする」）
　　　　　　　こちらも（＜視線＞というレンズでは）視えない。認識されない。

　　～　　～

　改めてさっき説明した、
　「存在」とは「それぞれは相容れない、全く正反対と言っていいものが１つになっているもの」というのを念頭に置いた上で、定義を眺めてみる。

　その視点で見ると、＜自己＞は「思い通りになっているもの」。
　＜自我＞は「思い通りにしようとするもの」という形になっているから、そんなに外れてはない気がしてくる。


　まあ実際、よくよく考えてみると、
　経験上も確かにそうだなあと、みんなも落ち着いてみれば納得してもらえるんじゃないかと思う。

　だって、みんなも「自分の生き方」について時に考えたり悩んだりすることはあると思うけど、
　その時は現状に「満足している部分」と、「不満な部分」の２つを認めるところだと思う。

　そして、じゃあその時に、
　「どっちかだけが本物」だとか、「どっちか偽物だ」なんてことは&amp;u(){そりゃあ、考えがちなのかもしれない}けれど、
　ボクはやっぱりそれは違うと思う。

　どちらも『自分』の中にある大切な構成要素であり、
　ボクらはまさしくこの正反対の二面性を持っている存在なんだ。
　（というか、二面性を持っているから「存在」し得ていると言うべきなのだろう）

　　　　　　　－＜自己＞
　　　　　　｜
　『自分』－｜
　　　　　　｜
　　　　　　　－＜自我＞

　ここまでのことを踏まえて、改めて＜自己＞と＜自我＞の定義を考えてみよう。
　こんな感じでどうだろうって思ってる。飲み込んでもらえるだろうか？

　＝　新定義　＝

　　＜自己＞：「思い」を生み出さないもの。過去の自分。記憶。経験。体験。
　　　　　　　それと（＜視線＞というレンズでは）＜自己＞は視えない。認識されない。

　　＜自我＞：「思い」を生み出すもの。未来の自分。思考。想定。予測。
　　　　　　　それと（＜視線＞というレンズでは）＜自我＞は視えない。認識されない。これは＜自己＞と同じ。
　　　　　　　
　＝　　＝

　さて、これで＜自己＞と＜自我＞の再定義がとりあえず定まった。
　「ちゃぶ台返し」が起こった以上、例の配置図がどう変化するか気になる人も多いだろう。改正したものは下のようになる。

　　　－＜世＞ 
　　｜ 
　　｜　　－＜現実＞ 
　　｜　｜ 
　　　－｜　　－＜自己＞ 
　　　　｜　｜ 
　　　　　－｜　　－＜自我＞ 
　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　－｜　　－＜視線＞ 
　　　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　　　－｜　　－＜心＞ 
　　　　　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　　　　　－｜　　－＜肉体＞ 
　　　　　　　　　　　　｜　｜
　　　　　　　　　　　　　－｜
　　　　　　　　　　　　　　｜
　　　　　　　　　　　　　　　－・・・＜現実＞・＜世＞

　・・・ん？　あれ？
　『自分』がないよ？　どこにあるの？　って思っただろうことだね。

　ただねぇ・・・。


**「存在」について、色々と考えていこう
　さて、上の段落で『自分』と『光』について例を挙げて、
　「存在の構造」について話してきた。

　改めて振り返ると、
　「存在」とは「それぞれは相容れない、全く正反対と言っていいものが１つになっているもの」ということになる。

　さて、それを踏まえて。
　ボクらが日頃、馴染みのある「存在」というのを提示していこうと思う。

　　　　　　　－＜肉体＞
　　　　　　｜
　『物質』－｜
　　　　　　｜
　　　　　　　－・・・＜現実＞・＜世＞

　まずはコレ。

　『物質』というのは、＜肉体＞と＜現実＞（＜世＞）という構造でできているものだ。
　＜肉体＞と＜現実＞（＜世＞）は、別々のものであることはみんな認めるところだろう。

　だけどそれは、だからこそ１つとなり。
　そして１つとなったところに、『物質』は存在している。

　これ以外に、この場所以外に、この手段以外に『物質』が存在する（認識される）ことはない。
　（※この『物質』についての解説にはちょっとごまかしがあるので。改めて３つ先の記事で補足したいと思う）


　そしてこれはとても当たり前のことなのか、それともとっても不思議なことなのか分からないけれど、
　日頃のボクらはこの『物質』という言葉をそれなりにきちんとこの定義で使用している事実がある。

　ただ多くのボクらは、この定義を明確に普段意識していないだろう。
　それなのに、自覚していないのに、言葉としては使用できているんだ。とっても不思議なような、当然のような感覚になるね。

　
　さあ、更に「存在」を提示していこう。
　
　　　　　　　－＜心＞　　　　　　　　　－＜視線＞　　　　　　　　　－＜自我＞
　　　　　　｜　　　　　　　　　　　　｜　　　　　　　　　　　　　｜
　『身体』－｜　　　　　　　『感情』－｜　　　　　　　　『意思』－｜
　　　　　　｜　　　　　　　　　　　　｜　　　　　　　　　　　　　｜
　　　　　　　－＜肉体＞　　　　　　　　－＜心＞　　　　　　　　　　－＜視線＞

　
　　　　　　　－＜自己＞　　　　　　　　－＜現実＞　　　　　　　　　－＜世＞？
　　　　　　｜　　　　　　　　　　　　｜　　　　　　　　　　　　　｜
　『自分』－｜　　　　　　　『無言』－｜　　　　　　　　　『？』－｜
　　　　　　｜　　　　　　　　　　　　｜　　　　　　　　　　　　　｜
　　　　　　　－＜自我＞　　　　　　　　－＜自己＞　　　　　　　　　－＜現実＞


　ということで、『身体』・『感情』・『意思』・『自分』・『無言』・『？』という存在を提示させてもらった。
　それぞれの構成要素は、何度も見てもらった例の配置図から引っ張ってきているのが分かると思う。

　さて、これから１つずつ解説していこう。
　なかなか興味深い事実が含まれているんだ、これが。


　○『身体』
　　これは最も説明が簡単だと思う。
　　普段、こうやってこの言葉を使ってるよね。『身体』を「心体」と書いてしまえば、まさにそのままにもなる。

　　そして普段、「＜心＞と＜肉体＞という、全く正反対のものが存在を作ってるなんておかしい！」なんて疑問や怒りは持たないだろう。
　　ボクらは「矛盾」という「存在の構造」を、実は案外受け入れているんだってことがこういうところから分かるね。

　○『感情』
　　ここは認識作用としての＜視線＞と、それに認識される＜心＞が『感情』であるという話になる。
　　改めて、両者は全く正反対のものであることも確認できるね。
　　
　　まあ、こんな風に書いてしまうと当たり前のことに感じるかもしれないけれど、
　　実はこの辺りから普段のボクらは明確化できてない領域となってくる。

　　特に『感情』というのは、脳科学の分野では「クオリア」という言葉を使って研究が盛んなところらしい。
　　[[前の記事&gt;「思い」はどこに消えた？]]でもさらっと紹介したけれど、

　　『身体』――特に「脳」からどのように＜心＞を生み出しているのか、ということを、 
　　科学の世界では「意識のハードプロブレム問題」と呼んで、結構な問題となっているらしい。

　　勉強ができる方々が一生懸命になっていらっしゃるのに悪いけど、
　　どれだけ『身体』（脳）を調べても、＜心＞及び『感情』や「クオリア」は完全には分からないよ。というのは事実なので書いておく。

　　
　　どうして勉強ができる方々がこのことを解明できないのかというと、その理由の１つは、
　　彼ら彼女らの中で、まさしく『物質』・＜肉体＞・『身体』・＜心＞・『感情』・＜視線＞ならびに「クオリア」、
　　さらに&amp;u(){特に【意識】という言葉}が、間違った定義がされているからだ。

　　「正しい言葉の使い方なしに、正しい理解は導かれない」
　　仏教だと八正道に繋がるところがあるけれど、今一度ボク自身も噛み締めようと思う。本当にそうだと思うから。

　○『意思』
　　さあ、次は『意思』だ。
　　これは＜視線＞と、新しい定義をしたばかりの＜自我＞が構成している。＜自我＞の定義はコピペしておくね。

　　＜自我＞：「思い」を生み出すもの。未来の自分。思考。想定。予測。
　　　　　　　それと（＜視線＞というレンズでは）＜自我＞は視えない。認識されない。これは＜自己＞と同じ。
　　
　　もしかしたら、『意思』と＜自我＞の区別が付かない人もいると思う。それはこう捉えてほしい。
　　＜自我＞は「やろうかなあ」や「やるつもり」だけど、『意思』は「やるぞ！」や「やれ！」だ。

　　思ってるだけじゃ動かない。
　　実行に移してこそ――＜視線＞以下にそれを伝えてこそ、「思い」は『意思』となるってわけなんだね。

　○『自分』
　　すでに説明したね。
　　何か補足することはあるかな・・・うーん、今は思い付かない。

　○『無言』
　　さあ、次は『無言』だ。
　　それで、この『無言』なんだけど、実は他にもボクの中で幾つか単語の候補があった。

　　クイズってわけじゃないけれど、
　　みんなもちょっと考えてもらいたい。みんなだったら、どういう単語でこの存在を表現するかな？
　　＜自己＞と＜現実＞で構成されるこの存在について、みんななら何て名前を付けよう？

　　参考として、それぞれの定義をコピペしておくよ。

　　＜自己＞：「思い」を生み出さないもの。過去の自分。記憶。経験。体験。
　　　　　　　それと（＜視線＞というレンズでは）＜自己＞は視えない。認識されない。
　　
　　＜現実＞：日頃、ボクらが身近に親しんでいる＜肉体＞や＜モノ＞などの物質的世界、
　　　　　　　それと＜心＞や＜視線＞の領域となる精神的な世界、
　　　　　　　さらにはボクらそのものを指す＜自己＞（＋＜自我＞）を包む領域。

　　　　・
　　　　・
　　　　・

　　さて、ちなみになんだけど、
　　過去の偉大な方々がこの存在について、どんな名前を付けているか紹介しよう。

　　まずプロティノスさんは、この存在について『理性（ヌース）』という言葉を使っている。
　　ニーチェさんは、この存在について『運命』という言葉を使っている。
　　老子さんと荘子さんの場合は、『道』という言葉を使っている。・・・以上。（※ただし、微妙に正確な位置ではないかもしれない。判断が難しいところ）

　　実は・・・これ以外の例をボクは知らない。
　　これはボクの勉強不足というのもあるんだけれど、そもそもこの領域まで語っていて、
　　気軽に書物などで手に入るものが限られてるってのもあるんだ。（日本語しか読めないしねぇ・・・）

　　他に、ボクが思い付いた候補とすれば、「本質」とか「宿命」とか「天命」とかって言葉になるんだけれど。
　　いずれにしても、これはどういうことかというと「現在のボクが、こういうボクであるのは何がそうさせているか」という話になる。

　　これに対して、過去の偉大な方々の知慧を借りて『理性』とか『運命』とか『道』って言葉を使ってもいいけれど、
　　ボクはこの存在には『無言』という名前を付けたい。付けさせてもらいたい。

　　これはどういうことかというと、「現在のボクが、こういうボクであるのは何がそうさせているか」という、
　　その存在のボクらへの最初の表れは、絶対に「語れない」形でやってくるからだ。

　　だからボクは「語れない」ということを、そのままに表現した『無言』という単語を選択させてもらいたいんだ。

　　みんなは、どんな言葉を浮かべただろう？　気になるね。　　
　　機会があったら教えて欲しいな。

　　
　　あ、そうだ。
　　ちょっと脱線するけど、老子さんの名前が出たから、老子さんの凄さをちょっとお披露目しよう。
　　老子さんは『老子教：第四二章』（「老子経真論」　著：長尾豊喜）において、こんなことを記している。

　　「道は一を生じ、一は二を生じる。二は三を生じ、三は万物を生じる。万物は陰を負うて、しかして、陽を抱く」

　　何を言っているか分かるよね？
　　まさしく「存在の構造」について言及をしているわけだ。
　　そして生み出されたものがさらに、別のものを生み出していくこともきっちり記されている。本当に素晴らしいとしか言いようがない。
　　（「万物は陰を負うて、しかして、陽を抱く」の部分も本当は凄く深いんだけど、ここでは割愛する。まあどこかでね）

　○『？』
　　さあ、いよいよここだ。
　　ボクはここに存在するものが分からないと言っておく。

　　そしてどうして分からないのかについて、それは＜世＞というのが何なのか分かってないからであると答える。
　　『？』という存在が不明なのは、それを構成する２つの全く正反対のものが分からないからだ。

　　片方は＜現実＞であることは分かってる。
　　だけど、もう一方が分からないために、ここにある『？』が分からないんだ。


　　ただし、ここが分からないからといってがっかりする必要はそんなにない。
　　何故ならば＜悟り＞ということでいうならば、ここにある＜世＞や『？』が分かっている必要はないからだ。

　　仏教における＜悟り＞とは、『無言』に到達することを意味する。

**あれ、＜悟り＞は「＜自己＞を発見する」ことじゃなかったの？
　こんなツッコミを入れてくれた人も居るんじゃないかと思う。とっても嬉しい。
　こちらとしてはシメシメってところだし、こういう疑問が浮かぶってことはこれまでの解説をとてもよく分かってくれているってことだ。
　そういった意味でも、本当に嬉しいことだね。

　
　さて、ボクがずっと説明してきた＜悟り＞とは「＜自己＞を発見する」こと。
　それとついさっき説明した、＜悟り＞とは「『無言』に到達すること」なんだけど、実は整合性が取れている。


　　　　　　　－＜自己＞　　　　　　　　－＜現実＞　　　　　　　　－＜世＞？
　　　　　　｜　　　　　　　　　　　　｜　　　　　　　　　　　　｜
　『自分』－｜　　　　　　　『無言』－｜　　　　　　　　『？』－｜
　　　　　　｜　　　　　　　　　　　　｜　　　　　　　　　　　　｜
　　　　　　　－＜自我＞　　　　　　　　－＜自己＞　　　　　　　　－＜現実＞


　何故かと言うと、改めてこれらを眺めて欲しい。
　そして＜自己＞を発見するためには、あるいは＜自己＞を発見した時に何に到達するか見て欲しい。

　ね？
　＜自己＞は、『自分』でも『無言』でもある。

　よって「＜自己＞を発見する」ことができたとき、すなわちそれは『無言』に到達しているってわけだ。
　（ただし＜現実＞についても、半分？は発見する必要がある。というのは補足しておく）


　さてさて、ずいぶんと長くなっているけれど、
　とりあえずこれで『存在』については説明がすることができた。

　このことを踏まえて、いつもの見慣れた配置図に組み込んで図示したいところなんだけど・・・これができない。
　いや、ボクも何とかならないかなーって結構悩んだんだけど、これ多分デキない。

　みんなも下の図を見て、そして紹介した各『存在』の一覧も見て、組み込めるかどうかやってみて欲しい。

　　　－＜世＞ 
　　｜ 
　　｜　　－＜現実＞ 
　　｜　｜ 
　　　－｜　　－＜自己＞ 
　　　　｜　｜ 
　　　　　－｜　　－＜自我＞ 
　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　－｜　　－＜視線＞ 
　　　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　　　－｜　　－＜心＞ 
　　　　　　　　　　｜　｜ 
　　　　　　　　　　　－｜　　－＜肉体＞ 
　　　　　　　　　　　　｜　｜
　　　　　　　　　　　　　－｜
　　　　　　　　　　　　　　｜
　　　　　　　　　　　　　　　－・・・＜現実＞・＜世＞

　どうしても、どこかに誤りができてしまわないかい？
　一見できそうなんだけど、何とも上手くいかない。誰か上手くやった人がいたら教えて欲しい。

　まあ、元々＜悟り＞ってのは言葉にできないものだって思ってたし、
　ここにきて、まさしくそれが表れたってことなのかもしれない。

　もしそうならば、これまでやってきたボクの解説が正確であることの証拠でもある。
　実際はどちらなのか分からないけれど、とりあえずはポジティブに捉えておこうじゃないか。

**お釈迦様の解脱に至る過程の逸話
　この段落には瞑想に関連したあれこれが書いてあったのですが、
　ボクの手には負えない部分であることが見えてきたので削除させていただきます。

　一応、過去ログにはボクがどんな間違いをしていたのか残っているはずなので、もしも興味がある方はそちらを御覧ください。参考にはなりませんけどね。
　やっぱり、きちんと？した瞑想修行を経由していないボクが手を出しちゃいけないところだったんだと思う。

　「知っているつもり」は駄目だってことだろう。反省だね。　

**仏教の＜悟り＞については、これでおしまい
　あー、疲れた。
　補足や関連記事については書くとは思うけれど、とりあえずはこれでおしまいってことになる。

　本当にみんな、ここまで読んでくれてありがとう。
　まあボクのこんな記事が、どんな役に立つのかは分からないけれど・・・というか、＜悟り＞は役に立たないものだしね。

　んー・・・でもまあ、それはもうどうでもいいか。


　前にも一度書いたけれど、ボクが＜悟り＞を薦めることはない。
　また、ボクの書いたことを信じてもらう必要もない。

　みんながこういった記事を有用だと思うのなら使うといい。
　ただし、ちゃんと間違えがないかを疑った上でね。みんなには、ボクなんか軽く超えてもらわなきゃ困る。

　挫けそうになっている人がいたら、
　各記事の履歴でも見てみるといい。ボクがいかに迷走しているかがよく分かる。

　きっとこの記事も、これから何度も手直しすることになるのだろう。
　というか、この部分を書いている今がすでに手直しだからね。


　まあ、そんなもの。

　ボクはこれからだって遠回りを遠回りし、一本道を迷い、足を止めることも、時に後戻りすることも躊躇わずに。
　それでも、ただそのままを進む。    </description>
    <dc:date>2015-09-15T21:53:07+09:00</dc:date>
    <utime>1442321587</utime>
  </item>
    <item rdf:about="https://w.atwiki.jp/midutamali/pages/19.html">
    <title>『思い通りにならない』を確かめる</title>
    <link>https://w.atwiki.jp/midutamali/pages/19.html</link>
    <description>
      **確かめてみよう
　[[１つ上の記事&gt;＜世界＞を統べるルール]]で、ボクは＜世界＞で「思い通り」になることなんて何１つないんだよってことを言った。
　それはとっても悲観的で絶望的な結論で、にわかには信じられなくて、まだまだみんな疑っていると思う。

　いいね。どんどん疑っていこう。

　この記事では、本当に本当のところ『思い通りにならない』ってのが本当なのか。
　もしも本当だとしたら、ボクらが何気なく暮らしていた日常も、やっぱり『思い通りにならない』ものだったのかを確かめよう。

　さあ、みんなで疑おう。
　そして確かめようよ。

**誰か念動力って使える？
　映画とかアニメとか漫画とかで描かれるよね。横文字だと、テレキネシスとか言うんだっけ？
　「思う」ことで、コップだとか電柱だとかビルだとか、とにかく色んなものを動かしたり、宙に浮かしたりできちゃう能力のことだ。

　凄いよね。
　地球上には沢山の人がいるんだから、もしかしたら一定の割合でこういうことが出来ちゃうのかもしれないね。
　そして、その出来ちゃう人の中には、この記事を読んでいるアナタが居るかもしれない。

　凄い。
　もしそうなら是非教えてね。そして見せてよ。驚きたいから！


　でもきっと、ほとんどの人はそんなことはできないと思う。

　だから「思う」ことで、モノを動かすことはできない。
　これがまず最初の、『思い通りにならない』事実の確認作業だ。

　え？
　こんなこと当たり前のことだって？

　そうだね。もちろん、まだまだ確認作業はこれからさ。
　でも、ボクらはモノを「思い」で動かすことはできない。

　このことは凄く大事な事実で、それを確認するのってとっても大切なことなんだ。
　どうしてなのかは、ゆくゆく分かるかもしれない。

**ボクらが「思い通り」にしていたと感じてきたもの
　さあ、ここからがある意味で本番だ。
　次はこんなことを確認してみよう。

　まずは、相手が人間でも動物でも植物でも何でもいい。
　「思い通り」の意思疎通が出来ているかい？

　出来てるよって言う人もいると思う。
　あるいは、出来てないって言う人もいると思う。

　コミュニケーションが苦手だと感じている人は、出来てないって言う割合が多いんだろうね。
　得意な人なら、自信をもって出来ているって言うかもしれない。
　でもそれにしたって、限定された相手や環境や時期での話じゃないかな？

　人生の中で、「思い通り」の意思疎通ができなくて苦しんだ経験がない人はいないだろう。
　つまり、これも『思い通りにならない』事実の１つなんだ。

　
　ここまでの２つの例は、こんなの当たり前だよって感じてる人も多いかもしれない。
　なぜなら１つ目も２つ目も、どちらもボクら自身じゃなくて外部にあるものを「思い通り」にしようって話なんだもんね。

　じゃあ今度は、「思い通り」にしてきたと考えずにはいられない、ボクら自身、
　普段「自分」と表現されるものについて検討してみよう。

　果たして、ボクらは「自分」を「思い通り」にしているんだろうか。

**目で確認できることからやっていこう
　まずはボクらが常日頃、何の問題もなく動かしていると感じている＜肉体＞から見ていこう。

　うっかり手を滑らしたり、逆上がりがなかなか出来なかったり、空が飛べなかったり、
　パッと考えても、『思い通りにならない』事例は挙げることができる。

　空が飛べないことも、『思い通りにならない』事例なのかって疑問に思った人もいるだろうけど、
　先に挙げたテレキネシスと同じで、「思い」で動かすことができないという意味では、事例にしていいと思う。
　外部にあるものじゃなくても、やっぱり『思い通りにならない』という事実を確認することも大事なことだ。

　でも、こういった事例じゃなくて、もっと単純なこと。
　手を胸の前にでも置いて、そのまま全く微動だにさせないように維持しようと我慢してみよう。

　・・・うん。
　絶対に出来ないよね。
　
　どうしてもほんの少し動いてしまう。
　これが一番分かりやすく目で確認できる、＜肉体＞は『思い通りにならない』事例じゃないかな。


　さて、次は＜心＞や＜視線＞の領域に入ってみよう。
　
　今、何か感情を感じているのなら、それを正確に誰かに伝えようとしてみる。言葉にしようとしてみる。
　今、感じている感情を、そのまま維持させようとしてみる。
　何か感情を１つ選択して、それを自由に生み出したり、消したりしてみる。
　感情だけに限らずに、何か１つ事物を選択して、それだけを認識しようとしてみる。

　こういったことができるだろうか？
　実際にやってみたらすぐ分かるんだけど、これもできない。難しいじゃなくて、できない。


　ということで、ここまでの話をまとめると、
　ボクらにとって、見渡す限りのものは『思い通りにならない』ものばかりになるね。

**学問の分野だとどうだろう
　この先は、ちょっと小難しい話になってくるけれど、何とか付いてきてほしい。
　ボクなんかよりも、とってもとっても勉強ができる人たちが、こういったことをどう考えているかを示していきたいんだ。
　
　彼ら彼女らもまた、『思い通りにならないなぁ』と感じているんだろうか？
　

　こういった話でよく挙げられるのが、
　不可能性・不確定性・不完全性・不確実性・不可知性あたりだろうか。
　それぞれをさらっと説明した後、この先の記事のことを考えて、不確実性については少し注目しておこう。


　それじゃ順番に、不可能性からやっていこう。

　これは「アローの不可能性定理」と呼ばれるもので、
　集団において、合理的な集合的意思決定が可能な方法（手段）は存在しないというものだ。

　まあちょっと小難しいから噛み砕くと、
　例えば友達何人かと、複数ある候補から旅行先を決めるとき、１人１票だとか３票だとかを投票できるってことに決めて、
　みんなで旅行先を決めたりするよね。
　
　あるいは、国会議員を決める選挙においてだって、ボクらはそれぞれの選挙制度に従って投票する。

　こういった集団で何かを決めようとするときに、
　全員の意思が「きっちり」と反映されて結果が生み出されるような方法はないよっていうのが、
　「アローの不可能性定理」と呼ばれるものだ。

　知らない人も多かったかもしれない。だとしたら驚いてるかもね。
　特に選挙の話なんかは、民主主義の根幹と呼ばれるものらしいのに、ボクらは不十分な選挙制度を採用するしかないって話になる。

　まったく『思い通りにならない』話だよね。


　次は、不確定性だね。
　これは「ハイゼンベルグの不確定性原理」と呼ばれるものだ。物質的な世界においての『思い通りにならない』話だ。

　量子力学というミクロな物理現象を扱う学問で発見されたものだけれど、
　言っているのは、あるミクロな物質の「位置が特定されたとき、運動量が特定できない」し、
　あるいは逆に、「運動量が特定されたとき、位置が特定できない」って話だ。

　この「片方が定まると、片方が定まらない」という部分は、「相補性」とも呼ばれる。
　どっちかしか駄目だなんて、困った話だね。

　・・・あ、そうだ。
　一応、念のために書いておくけど、この不確定性はいわゆる「観測者効果」。
　つまり観測が、その対象に対して影響を与えてしまうから、両方が定まらないっていうことを言いたいんじゃない。

　「ハイゼンベルグの不確定性原理」は、「観測者効果」のためにこんなことが起こるんじゃなくて、
　ミクロな物質がそもそも持っている性質について語ってるものなんだ。


　さてさて次は、不完全性だ。
　これもとても有名だね。「ゲーデルの不完全性定理」と呼ばれていて、情報的な世界においての『思い通りにならない』話だ。

　この話は、学問としては数学ということになるけれど、影響は数学だけにとどまらない。
　ある意味で、この＜世界＞は情報によって構成されていることを考えると、＜世界＞を覆い尽くすかもしれない話かもね。

　それで、その中身なんだけど、言葉を尽くすと逆に分かりづらくなりそうだから、さらっと行こうと思う。
　簡単に言ってしまえば、「完全な世界」は創れないってことだ。

　数学だと、世界のことを「系」と呼ぶんだけど、
　ある数学分野に、矛盾を一切なくそうとした。矛盾が一切ない「系」を創りたかったんだけど、それが失敗してしまったって話だ。

　これもまた『思い通りにならない』話だよねえ。

　ただし、完全な「系」がまったく創れないかっていうとそうじゃなくて、
　ある前提条件と関係ない分野であれば、それも可能であることが分かってる。
　ただ前提条件に引っかかる領域が広すぎて、ほとんどの場合は困っちゃうんだよなあ。


　まだまだ行こう。次は、不確実性だ。
　不確実性というと、天気予報だとか、地震予知だとか、噴火予想がとても難しいって話が思い浮かぶと思う。

　そういうのは、いわゆる「複雑系」と呼ばれるもので、無数の条件が複雑に絡み合って生まれる現象は、
　予測や予知をしようとしても、ほんのちょっとだけ条件が変わっただけでも結果が大きく変化してしまうって話だ。
　有名な「北京で蝶が羽ばたくと、ニューヨークで嵐が起こる」っていうバタフライ効果もこの分野の話だね。

　ただ、そういうのも不確実性と表記してもいいんだろうけど、ここでボクが紹介したいのは、
　ボクらが様々な思考や思索を練り上げるときに絶対に使っている、帰納や演繹についての不確実性だ。

　帰納と演繹を分かりやすく説明しておくと、
　「～だから、～である」っていう表現のことだって考えてくれていい。

　つまり帰納や演繹についての不確定性っていうは、絶対に「言い切れるもの」はないってことを主張してる。
　完璧な根拠、前提で以って「こうだ！」と言えるものはないよって主張してるものなんだ。

　ここでは「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」というのを紹介しようか。
　ちなみに間違えやすいから先に言っておくけど、ミュンヒハウゼンという人が考えたんじゃないから注意してね。

　この「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」で主張されていることは、こんなこと。
　何かを主張するときには、主張の正しさを保証する何か根拠や前提が必要になるよね。
　でも、その根拠や前提にもまた、その正しさを保証する根拠や前提が必要になってくる。でもまた、その根拠や前提にも・・・。

　というように、延々と根拠を求める試行が進んでしまうって話だ。
　簡単に言い換えれば、「なぜ？」という問いかけはどこまでもすることができるってことだ。

　この無限試行を止めるためには、どこかで不確実な根拠や前提を置かなくてはならない。
　あるいは、元の場所に戻らなくちゃいけないというのが、この話の説明になる。

　元の場所に戻るってどういう意味かと言うと、
　「この手が右手である根拠は、左手ではないから」、「この手が左手なのは、右手が隣にあるから」みたいな形になってるって意味だ。
　こういうのを循環論法とも呼んだりするね。

　さて、不確実性についての『思い通りにならない』話は、ここで終わってもいいんだけど、
　ちょっとその前に、ボクらが日頃どれだけ知らず知らずのうちに不確実な前提を基に生きているかを確認してみよう。

　「自然の斉一性原理」と呼ばれているものがある。
　これは、昨日も一昨日も、前月も、前年もそうだったから、明日もきっとそうだろうっていうボクらの思い込みを指摘するものだ。

　分かりやすい例だとすると、「明日はあるだろう」とか、「明日も太陽が昇るだろう」ってこと。

　現代では計算によって、何十年先の、日の出時刻や日の入時刻までばっちり分かってる。
　だけど「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」を思い出してくれれば分かると思うけど、それだって何かしらの前提をおいた上で計算したもの。

　ということは、こんな当たり前だって思うことでも絶対には言い切れないんだ。


　最後は、不可知性だ。
　これは「知る」ことについての、『思い通りにならないなあ』という話。

　ただこれについての解説は、この記事では割愛しようと思う。
　いい加減ずらずらと長くなっちゃってるし、まさしくこの不可知性こそがボクが色々と話したいことのとっても肝なところなんだ。

　こんな副菜みたいな形で取り扱うのも勿体無いし、
　この辺りを話すときには、紹介したい偉大な方々や、紹介したいネタが多すぎるしね。

　まあ、今後作る記事を楽しみにしておいてよ。

**やっぱり『思い通りにならない』みたいだなあ・・・あれ、まてよ？
　ここまで少し長くなっちゃったけど、みんなちゃんと付いてきてるだろうか。
　そこまで退屈せずにいてくれるといいんだけど・・・。

　さて、最初に確かめたボクらの身近な話。
　そして、勉強がとってもできる人たちの小難しい話。
　
　どちらも『思い通りにならない』に溢れていたことが分かってもらえたと思う。
　ボクらの希望、意図や意思というのは、ことごとく『思い通りにならない』みたいだね。


　でも・・・あれ？
　改めて絶望的な気持ちに落ち込んでいる中で、ふとこんなことを思い付く。
　もしかしたら、ここまでの長文を読んでいる間に、閃いていた人が居るかもしれないね。

　もしもさ、ボクらの希望が&amp;bold(){『思い通りにならない』}だったとしたら、それってどうなるの？
　&amp;bold(){『思い通りにならない』}が、ボクらの希望、意図や意思だったとしたら、どうなるんだろうか？


　もう一度、改めて振り返ろうね。
　＜世界＞のルールは、『思い通りにならない』だって解説していた。

　ということは、ボクらの希望が&amp;bold(){『思い通りにならない』}だったら、それが『思い通りにならない』ってこと？

　それって、どういうこと？
　どうやって解釈すればいいんだろう？

　それってもしかして・・・つまり&amp;bold(){『思い通りになる』}ってこと？

**その通り。でもまだ、そもそもの部分に問題が残ってる。
　結論を言ってしまえば、その通りなんだ。
　ボクらが『思い通りにならない』ことを希望すれば、それは&amp;bold(){『思い通りになる』}ことになる。

　そして実はこれが、＜悟り＞と呼ばれる境地そのものなんだ。


　え？　＜悟り＞ってそんな単純なことなの？　って、思ってる人も多いかもしれないね。
　
　うん。そうなんだ。
　＜悟り＞ってこんなに単純なことなんだよ。
　こんなに単純なことなのに、こんなに簡単なことなのに、ボクらはそれをとてつもなく複雑にしてしまってる。

　だから、ボクらは&amp;bold(){「ずーっと苦しんでる」}んだ。


　さあ、ここでさらにみんなに考えてもらおう。
　じゃあ、具体的に&amp;bold(){『思い通りになる』}のは何だ？　ってこと。

　『思い通りになる』ときに、「何が」思い通りになっているのか？　っていうこと。
　それを考えてもらいたいんだ。


　それは、それそのものがそれそのものを動かしていく、ということ。
　それは、それそのものがそれそのものを統御する、ということ。
　それは、自らが自らの全てを決める、ということ。

　それを――それができるものを、ボクらは&amp;bold(){＜自己＞}と呼ぶんでしょ？
　そうだよね？


　だから＜悟り＞というのは、「＜自己＞を発見する」と言い換えてもいいんだ。
　逆から言うなら、「＜自己＞を発見する」のが＜悟り＞だということ。

　そしてそれを実現するためには、『思い通りにならない』ことを希望しなくてはならない。
　これが＜悟り＞と＜自己＞と「思い」の関係だ。


　といっても、まだまだみんな、
　どうして『思い通りにならない』ことを希望することが「＜自己＞の発見する」ことになるのか、ピンとこないと思う。
　それについては、次の記事で説明していこうと思ってるから、期待しててね。


　ここでふと――＜世界＞で語られているあらゆる宗教、哲学、思想、倫理を眺めてみると、
　その最終もしくは最初の到達地点は全て「＜自己＞を発見する」こと、すなわち、＜悟り＞が目標であることが分かる。
　個々の１つ１つは、後々にまた記事にしていくと思う。そのときはまた付き合ってね。

　　・
　　・
　　・

　ここまで、＜悟り＞という概念が、何となくでも腑に落ちてくれた人が少しでもいれば嬉しい。
　ただ「分かった気がする」と言ってくれる人であっても、残されている大きな問題がまだあるんだ。

　これまでずっと、何度も何度も「思い」という言葉を使ってきたけれど、
　これ・・・なんだい？

　みんなはここまで記事を読んできて、この「思い」をどんな風に解釈していた？

　「心」のことだと思ってた？　「意思」のことだと思ってた？　「意識」のことだと思ってた？
　「思考」のことだと思ってた？　「感情」のことだと思ってた？　「情念」のことだと思ってた？
　「情緒」のことだと思ってた？　「気持ち」のことだと思ってた？　「主張」のことだと思ってた？
　
　他の単語で解釈していた人も居るだろうね。
　でも、そんな人も含めてさ、それって・・・一体なんだい？


　それは具体的にどこにあって、どんなもので、
　その「思い」は何をきっかけに生まれて、何をきっかけに変化したり、消えていくんだい？

　例えば「思い」で＜肉体＞を動かすことはできるけど、＜肉体＞は決して「思い」そのものじゃない。
　それなのに、どうして＜肉体＞は動くんだい？　原理的には、序盤に出たテレキネシスと同じ条件じゃないか。

　
　と、いうことで、次の記事は「思い」とは何なのかってことに迫っていこうと思う。
　そしてそれを説明することで、＜悟り＞というものを、よりはっきりと理解することをみんなで目指そう。

　タイトルは昔どこかで見たような、ベストセラーを躊躇いなくパクっていくことにする。
　それじゃ[[また、ね&gt;「思い」はどこに消えた？]]。    </description>
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