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    <title>「柳美里　韓国における『国際ペンクラブ』で話す」（仮題）</title>
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      【主旨】
2012年8月、竹島（独島）を巡って日韓の関係が急速に悪化する中、在日朝鮮人の作家・柳美里は韓国で開かれる「国際ペンクラブ」の招聘で９月に韓国ペンクラブで「表現の自由」についてスピーチを行う。その行程を追いながら、日本と韓国に横たわる課題を知り、どう向き合うを考える。

【粗構成】

（１）

・2012年9月、日本の作家で在日朝鮮人である柳美里はソウル市内にいた。10日から催される「第78回　国際ペンクラブ」に出席するためだ。

・柳美里は1968年6月22日、茨城で生まれた。父も母も戦後韓国から日本に渡ってきた朝鮮人。柳美里を頭に4人の兄弟姉妹と父母は、やがて横浜・黄金町に居を置き、父はパチンコの釘師、母はホステスをして家計を支えていた。

・柳美里は1984年、横浜共立学園を中退、翌年東由多加率いるミュージカル劇団東京キッドブラザースに最年少で入団。1987年に演劇ユニット「青春五月党」を旗揚げし、 1988年『水の中の友へ』で劇作家としてデビュー。1994年には『石に泳ぐ魚』で小説家として活動を始めた。

・2010年3月、柳美里はソウルにいた。1991年に初演された自作『向日葵の柩』が初演時の演出家・金守珍の手によって韓国で上演される、そのプロモーションのためだった。

・『向日葵の柩』はとある在日朝鮮人一家の悲劇が描かれている。柳美里が劇作家として、また小説として描く作品の根底には、自身の家族の経験と、そこにいた自分の孤独がある。『向日葵の柩』もまたそうで、日本に住むしかなかった父、そんな父と相容れられない息子と娘、愛想をつかして出ていった母の人間模様が描かれている。

・新宿梁山泊による公演が順調に滑り出した３月11日の昼、柳美里は、「3・1独立運動」の発祥地であるタコプル公園を訪れていた。その直後、日本で「あの刻」、つまり東日本大震災と原発事故が発生した。

・今回の国際ペンクラブでのスピーチは、この来韓時に依頼をされたものだった。「あの刻」からちょうど１年と６ヶ月。柳美里はそれ以来の韓国の地を踏む。

（２）

・「その刻」から１ヶ月と10日後、柳美里は福島第１原発30キロ圏内にいた。「警戒区域」に指定されたそこはその日をもって一般の立ち入りができなくなる。その前に、「戻れなくなるまち」の姿を    </description>
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    <item rdf:about="https://w.atwiki.jp/mirikou/pages/33.html">
    <title>2012年６月26日消費税増税案に反対票を入れた民主党衆議院議員</title>
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    <description>
      小沢一郎
東祥三	江東区（東京都第15区）	元公明党	http://azuma-shozo.jp/
山岡賢次	小山市、真岡市、下野市（旧石橋町・国分寺町域）、栃木市（旧大平町・藤岡町・都賀町域）、芳賀郡、下都賀郡（栃木４区）	http://www.yamaokakenji.gr.jp/
牧義夫	名古屋市瑞穂区、熱田区、港区、南区（愛知４区）	http://makiyoshio.jp/
鈴木克昌	豊川市、蒲郡市、新城市、豊田市（旧・稲武町域）、北設楽郡設楽町・東栄町・豊根村（愛知14区）　http://p.tl/RDto	
樋高剛	川崎市高津区・宮前区（神奈川18区）	http://p.tl/oc2R
小宮山泰子	川越市、富士見市、ふじみ野市（旧・上福岡市域）（埼玉７区）	http://p.tl/jyps
青木愛	北区、足立区の一部（東京12区）	http://p.tl/J-Kr
太田和美	郡山市、二本松市、本宮市、安達郡（福島２区）	http://p.tl/lQ_e
岡島一正		千葉市緑区、市原市（千葉３区）	http://p.tl/XsKH
辻恵	堺市中区・西区・南区（大阪17区）	http://p.tl/0221
階猛	盛岡市（旧・玉山村を除く区域）、紫波郡（岩手１区）	http://p.tl/AiUw
松崎哲久	東松山市、坂戸市、鶴ヶ島市、比企郡小川町・川島町・ときがわ町・滑川町・鳩山町・吉見町・嵐山町（埼玉10区）	http://p.tl/4FEm
古賀敬章	宗像市、福津市、古賀市、糟屋郡（福岡４区）	http://p.tl/YKq2
横山北斗	青森市（旧浪岡町域を除く）、五所川原市、北津軽郡、東津軽郡（青森１区）	http://p.tl/cgUw
相原史乃	千葉県・神奈川県・山梨県（比例南関東ブロック）	http://p.tl/lWwa
石井章	茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県（比例北関東ブロック）	http://p.tl/iQ4K
石原洋三郎	福島市、相馬市、南相馬市、伊達市、伊達郡、相馬郡（福島１区）	http://p.tl/rPXQ
大谷啓	堺市美原区、富田林市、河内長野市、松原市、大阪狭山市、南河内郡（大阪15区）	http://p.tl/j9QO
大山昌宏	岐阜県、静岡県、愛知県、三重県（比例東海ブロック）	h    </description>
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    <item rdf:about="https://w.atwiki.jp/mirikou/pages/32.html">
    <title>「わたしの想い」</title>
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      わたしはいかなる「処罰」や「罵倒」を貰い、自分の言うことを認められず、「唾棄」されることになろうとも、自らの「尊厳」に基づき、自らを「立て」、また、それを「育み」、「守る」ために「必要」であることの「要件」を「整える」為の「取り組み」を止めることはありません。

なぜなら、「尊厳」及びそれを「立てる」ことが自らに失わされた、もしくは失ったことによる「妄動」が、唯一にして最も大切な人を疵つけ、悲しませ、失わせてしまったからです。


ですから、それへの贖罪や報いとなることは、自らをはじめとして、ひとの尊厳とそれを「立てる」ことへの「取り組み」にしかなく、そのことから「離れない」こととわたしは考え、想います。


この「寺」もまた、それをやるための「ひとつの場」に過ぎません。ここで「祭祀」をすることと「管理の責任」の「役割」を担っているという一点が、自分にはありますが、他方、「（臨済）禅」に「基づく」ことによる「活動」を行うこともまた、「本来」の「役割」です。我田引水も甚だしく、また、「自分勝手」、「自己正当化」してると言われるでしょうが、わたしは、わたしなりに思うそれらの「取り組み」は、その「役割」とはなんら「矛盾」しないと考えます。


ですので、「寺」もまた、「役割」を担ったの「取り組み」をする「場」の「ひとつ」で「しかなく」、故に、自らの「生活」そのものを「縛られる」ものではないとわたしは考えます。


この寺には、「縁」に基づくわたしと「血の繋がる」二人の子どもがいますが、わたしがわたし自身としてそのように考え、そのようにすることと彼女たちへのわたし自身の果たすべき「務め」は、矛盾しないと考えます。「親権」は彼女たちの母親に譲りましたので、その範疇の「務め」は彼女が果たすだろうと思います。


わたしは何事をするに当たり、ひとに認められる「資格」はなにひとつ有してはおりませんし、また、「高所」から他の誰かに「説く」ようなものは何一つもっていません。


またわたしはわたし自身の「有りよう」、つまりは「蔑ろにし」、また「されてきた」自らの「尊厳」を「肯定」しますが、「そこ」に「正しさ」があるとは思っていません。「正邪」は「わたし自身」が「判断」できる筋合いではないと思いますし、わたしとしては、わたし自身が「生きる」ためには    </description>
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    <item rdf:about="https://w.atwiki.jp/mirikou/pages/31.html">
    <title>「私」論１２</title>
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      でも、だから、みりんこは「表すべき『私』」を表しながら、「作品」を生み出していく「しかない」。

（もしかしたら）みりんこにしか「本来」を「示す」ことができる「私」を「持ち得ていない」のだから。

「この社会では」…    </description>
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    <title>「私」論１１</title>
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    <description>
      みりんこは、「私」である「みりんこの魂」によって、「自分」を、「家族」を、「社会」を、「公」を「分け隔てなく」、「照らす」。「みりんこの魂」を「もと」に、「すべて」を「貫く」。

それは、「本来」、「当たり前のこと」な筈なのだけれど、どうもそうにはなってなく、「他にいるのか？」という「レア感」でいっぱいであったりする。

はっきりしているのは、みりんこのような「前提」である人はいるとしても、みりんこのように「現実」や「３１１」に「向きあっている」人は、まずもって見あたらないということで、これは多分スゴいことであるし、とてもじゃないけど「喜べない」状況だと言える。    </description>
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    <title>「私」論１０</title>
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    <description>
      しかし、「どのように『おかれ』」、また、「どのように『呑み込んで」も、「私」は「すべて」の「前提」。「すべて」は「私」による「解」でしかないのだから、実は「どのような『小説』」も、それは「『私』小説」なのだと言える。そこに「公的」なことであれ、他の「何か」であれ、つまりは、「それ」を「私」が「纏っている」、もしくは「気がつかずに『纏わされている」に過ぎない。

「公」とは確かに「あり得べき『概念』」であるが、それは「私」を「前提」にしたものでなければ、「何だかよくわからないもの」になる。何故なら、「私」はそれとして「当たり前」に「存在する」が、「公」とは「それそのもの」として「存在しようがない」。それを「ある」ともししている人がいるならぱ、それは「私』が創り出した「架空の概念」だと言える。    </description>
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    <title>「私」論０９</title>
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      だから、「公」によって「認められ」ない、もしくは「排除され」る「私」の「エリア」は、とても「限定的」となる。「私」とは、「許さた『範疇』」、若しくは「留められた『範疇』」にしか「存在すること」が「できない」から。

「公」を「前提」にした「社会」は、「私」とは「別にある」。    </description>
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    <title>「私」論０８</title>
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    <description>
      そして、「私小説」とは、その「曲解」によって生じた「ジャンル」なのではないかと思う。

例えば、単純な話、「『私』小説」があるならば「『公』小説」もあるのかということなのだけれど、「そう呼ばれて」いるものはない。恐らくは（ただの）「小説」が「それ」にあたるのだろうけどそこには「私」の対となる「公」の字が「ない」。

なぜ「ない」のかを「邪推」すれば、「公」が「ある」ことは「当然」で、「私」を「だす」ことは「よくないこと」。

「だから」、「公」ではない「私」を「表す『ジャンル』」として、「『私』小説」が「ある」。    </description>
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    <item rdf:about="https://w.atwiki.jp/mirikou/pages/26.html">
    <title>「私」論０７</title>
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    <description>
      「私」というものは、「失われる」ことは「本質的」に有り得ない。もし、あるとすれば、「意思」が「物理的」に「ない」か、「外」からの「何らかの『力』」で、「意思」を「ハナから『持つようにさせられなく』なっている」というある種の「洗脳」「催眠」「被操作」状態にある時で、どちらにしてもそれらは「普通の状態ではない」。

「どのようなかたち」であれ、「私」が「ある」ことが「普通」であり、「私」が「意思」を「『存在』しない」「『存在』させられない」かたちでな「ない」ということは、到底「あるべきではない」し、それは「本来言うところででの」、「滅私」でも「無私」でもない。

「滅私」も「無私」も、「本来は」、「意志的」で「主体的」な「思想」であり、「私」である「自分」によって「なり得る」ことであり、それをキチンと踏まえなければ、「曲解」される、危うい「思想」でもある。    </description>
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    <item rdf:about="https://w.atwiki.jp/mirikou/pages/25.html">
    <title>「私」論０６</title>
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    <description>
      「どのようなかたち」であれ、「私」は「存在」する。しかし、この社会によるある種の価値観として、「『私』ありき」であることは、「よくない」としている。それは、「滅私」とか「無私」という言葉で表されて、それらは「尊いもの」とされる。しかし、それらもまた、「私」によって為されることには他ならず、もしそれが「本当に」、「自分」を「失わせて」のそれを指すのであれば、それは端的に言って、「自分ではないものの『考え』」によって、「為す」ということであり、もしそれによって何らかの「弊害」が生じた場合、その「責任」は結果「採択」した「私」にあるのだけれど、しかし「考え」が「自分」にないことで、「そう」ではなく、「自分」に「『考え』を『与えもの』」に「責」あるとも「できる」。

その典型は、「戦争に向かっていく」、「戦前」の日本社会だと言えるだろう。    </description>
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